黒い戸
佇む黒い影はじっと見ていた。襖は閉ざされ、狭く暗い廊下は白い漆喰壁が煤けている。左側からは囲炉裏の明かりが障子から漏れてはいるが、その先は闇でしかなかった。
時子は姉のいる床の間に向かうまでのこの廊下が毎日怖くて仕方が無かった。囲炉裏の間を通ることなどもってのほかなのだ。出来るだけ物音を立てないように、立てないようにそおっと歩くしかない。もしも毎夜毎夜部屋から抜け出していると分かれば恐ろしいほどに叱られる。
小さな時子は息を呑み、腕を丸めて歩き出した。
微かに床の音が鳴るのは仕方が無い。忍び足で歩いていく。もしも囲炉裏の横で養父の千造が晩酌から目覚めていたらと思うと気が気ではなかった。なので、そっと耳を当ててみる。
なにやらお猪口か小皿を置く音が聞こえ、その後に箸が転がっていく音がした。うーん、と千造の声が聞こえて完全に起きていることが分かると彼女は肩を縮めて障子から離れて歩いていく。
ここで引き返しては駄目だ。
一気に進んで行き、闇に小さい身体が包まれる。手探りでぎくぎくしながら壁を伝っていき、角に来ると地下への階段を静かに降りていった。時々蜘蛛の巣が掛かっていて驚いて口を塞ぎながらも。
下まで降りて行くと、引き戸がある。暗がりを手で探りながらひっかけを外し、音を立てないように戸を少しだけ開ける。微かな明かりが漏れた。その時、いつもの様に階段の上部を振り返った。
「ああ、今日も呑んだ、呑まれた。がははは」
時子は飛び驚いて小さくなる。廊下の角は右に手洗いがあるのだ。ずっとしばらくは動けずに廊下の下で小さくなっていた。音が聞こえなくなると、一気に戸の向こうへ行く。
「ああ、恐ろしかった」
蝋燭の明かりが占める漆喰の狭い廊下。その先は左側に障子戸が続いている。
「ああ、ほら。手毬をお蹴りよ、お人形さん」
その障子の先から、姉の声が高く聞こえていた。ちょうど囲炉裏の間の真下になるこの地下牢とも言うべき場所は千造に閉じ込められた姉が生活する場所だった。姉妹で隔たれた間柄であり、彼女にとって千造は恐怖でしかない。
五年前に両親の元を離れて預けられたのは千造の身の回りの掃除や食事を用意させるためだった。現在十三歳の時子は十五歳の姉とともに初めは甲斐甲斐しく家事を続けていた。だが、それも二年が過ぎた頃に千造は人が変わり、まるで別人になったかのように恐い男になった。姉を折檻し時子に無謀な用事を頼ませ続け、二人は次第に線の細い姉妹になっていき笑顔は失われていった。それも二年前に姉の気が触れると発狂したり叫ぶ毎に地下に閉じ込められ、今までそこにあった米俵だとか着物の入った木箱の数々、鎧や刀やら掛け軸なんやらを全て時子に上に運ばせ、そこを姉の牢屋にしてしまったのだ。
子供返りしてしまっている姉はまともに昼は起きていずに幼い遊びばかりをする。元々時子を守って来てくれた心強い姉だった。時子は涙をぬぐって顔を上げる。
「花ちゃん」
障子の先から姉に呼びかける。
「まあ、時子ちゃんいらっしゃったの」
姉は障子を開け、自分より背の少し低い時子を笑顔で見下ろした。床の間は手毬や吊るし雛、日本人形や手鏡など、いろいろなものが彩っている。姉自身の着物も柄が鮮やかで、そして囲う襖の全てが漆黒だった。漆喰の壁は雪洞の明かりがぼんやり広がり床の間を染め上げている。
「時子ちゃん、遊びましょう」
お手玉や折り鶴、ビードロが畳みの上には置かれていた。切り揃えられた花の黒髪は無垢なほどの瞳を純粋にともに光らせている。月に一度、千造の姉が来て彼女達の調髪をしてくれる時は千造は出かけており、そして時子もだんまりを髪を揃えられ、花はただただぼうっとしているのだった。千造の姉は優しい人で、彼の恐ろしい本性を知らない。
時子は今日もお手玉をともに始めた。
千造は囲炉裏の場に戻り酒を飲み続けていた。今日は実に良い気分だ。彼の取り締まる鍵屋の仕事で独立した二人の弟子が昼に来て挨拶がてらに良い酒を置いていき、仕事は成功しているという。
千造は鍵師であり、いかなる鍵さえ開ける自信があった。そしてそれは彼の自慢の弟子達も同様である。だが、ただ一つだけ厳重な鍵がある。黒い戸の先に、千造以外に誰もが入る事は許さない場所が。その戸があるのが今、花を閉じ込めさせている襖の先にある戸だった。
花は地下の掃除のとき、二年前に千造が入ったことを知らずに襖を開けその先にも黒い戸があることを知り、そしてその先へ進んできたのだった。そして彼以外見てはならぬものを見てしまった。花は随分と驚き立ちすくみ、そして逃げ出そうとした。千造に捕まえられて折檻され精神を狂わされたのだった。
今は幼児返りした花はいくら千造が昼にその戸に出入りしても一人遊びをしてはお歌を歌ってばかりいる。
杯を傾けると、ふと地下の部屋へ行きたくなった千造は膝に手をあて一気に立ち上がった。
障子を開け、廊下を歩いていく。角で曲がると階段を下っていき、戸をあけた。
「おほほほほ。ああ、面白い」
「うふふ」
「時子さんたら、まあ、お手玉のお上手なこと」
二人の声に一気に千造の顔が豹変し、頭に血が上って着物の懐に忍ばせていた鍵を握る手に力が入った。
「こらお前等!!」
時子は怒声に飛び上がり、千造を見上げてガタガタ震えた。
千造は時子の首根っこを掴みおかっぱ頭を振って逃げようとする時子を遠くへ飛ばして黙らせた。花は長い髪を一つにゆるく結んだ顔を傾げさせて千造を見上げる。時子の方を見ると首をかしげた。
千造が進み、時子の手首を引き上げて連れて行く。
「お前も姉の様になりたいのか! それとも地下でやつらと同じ目に遭いたいのか!!」
時子は何が何なのか分からず震えきって怒り狂う千造から目がそらせずに、どんどんと蹴り開けられた漆黒の襖の先へ連れて行かれた。
「花ちゃん! 姉ちゃん!」
ぐんぐんと腕を引っ張っていかれ黒い戸を千造が懐から出した鍵で開け始めている。時子は恐ろしい目に遭わされると必死に抵抗していた。
だがその黒い戸はあけられ彼女はどんどん暗がりへ連れて行かれる。
千造がもう一つの厳重な扉を開けると、その先へ時子は押し飛ばされた。
「きゃ!」
時子は地面に倒れて目を開け暗がりを見る。だが、それは千造のつけた蝋燭で明るみに出た。
目を震わせて見上げると、そこには夥しいほどの油彩画が飾られていた。そのどれもが千造であって千造で無い、そして恐ろしい姿をしていたのだ。三人の老若の男が拘束されており、そして絵画を描き続けさせられているのだが、誰もが見たことなど無い。誰なのかもわからずにいた。
何かのミシミシという物音で時子はふいに振り返った。
「!」
時子は口元を押さえて、変わり果てて姿を変えた千造を見上げた。真っ黒い毛に身体が覆われ、筋肉隆々とし、そして鋭い牙を生やした千造の目が充血しすぎて真っ赤に見え、そして時子を見た。
足を縺れさせた時子は何かにつまずいて倒れ、それが幾つもの白骨なのだと分かった。千造の巨大な手が時子の腕を掴み身体を引き裂こうとして、画家達はその時こそを描こうと目を真っ黒くしてどんよりとしたクマを作り筆を走らせる。
「ぐあっ」
時子が高々と路上げられた途端、千造が手を離して時子は床に転がった。
恐る恐る顔を上げると、その向こうには花がいた。
「花ちゃん……」
だがそれは、しっかりと毅然な顔をした姉、花だった。
彼女は持っていた壷を下ろして時子に駆け寄った。
「千造は悪鬼と手を結んで人を食べながらその魂を画家達に絵画に閉じ込めさせていたのよ。ずっと狂った振りして、見てたの。あの千造さんはもういないわ」
頭を押さえた千造は牙を剥いて花を見た。
「おのれ小癪な小娘が」
花は時子を自分の後ろへやって悪鬼と三人の不気味な画家達を睨みつけた。
「どうだ。だれか輪郭だけでも時子を描けたのか」
「はい」
一人が言い、悪鬼は時子を見た。彼らに描かれたものはずっと絵画に魂を閉じ込められる運命にあり、あとは生身は屍と化すのみだった。
時子はだんだんと虚ろな目になっていき、空間を見つめた。
「時子? 時子ちゃん!」
姉が肩をゆすってもぼうっとしたまま。
途端に、目を開ける時子は自分ば移動していることを知った。目の前には暗い目元をした画家がいて、時子を見下ろしている。筆が近付いてきて驚き目を綴じようとしても綴じられず、そして瞳に筆先が当たった。
瞳にだけ色がつけられ、時子の絵は抽象的なまま。
「時子」
声が聞こえる。あちらで声がする。花は空っぽになった時子の肩を揺さぶって気を取り戻させようとしていた。
そしてもう一人、花の絵を描いた画家が微笑んだ。その場所に花がどさりと倒れ、時子もその上に重なり倒れた。
千造は肉を食べるために牙を光らせ、腕を掴んで頭から口に放り込んだ。そして時子も足先から一気に飲み込んだ。
しばらくして悪鬼の口から出てきたのは白骨だけだった。
「これは酒が合う味だ」
悪鬼は笑い、絵画の時子と花はだんだんと色をつけられていった。それごとに視界が鮮明になっていき、そしてその恐ろしさが実感されてくる。だが叫びたくても叫べず、悪鬼は気が狂ったかのように激しく笑って回り始めた。
その回転はぐらぐらと蝋燭をゆらして蜀台を倒した。
「ぐああ、」
悪鬼が辺りを見回し画家達はその場を消えてしまい、そしてカンバスにどんどん火の手が伸びていった。
千造の家から小火が挙がったことで村人が集まってきては夜の消化に当たり始める。
小火は地下の奥部屋を焼いて消化されたが、その奥部屋に残るのは無数のこげた白骨と、そして一体の巨大な巨大な鬼の体だけだった。
2014.
黒い戸