ラズエン
激しい雷鳴が轟く天地は、今にも割れた硝子を踏み付けでもしたかのような土砂降りに見舞われそうである。そして傷を引きずりながら行くのはやはり安楽ではない過酷な道。
苦し紛れの喘ぎを受ける雲はその素肌をさらされ、絹のように引き裂かれんとしていた。
漆黒の鎧を纏った堕天使ラズエンは、スカルの顔立ちを甲冑から覗かせ背後を見る。雲の渦巻く天空を。崖にはばしばしと豪風が吹きつけ、骨だけの大柄な騎馬をもさらって行きそうだが、それらは全て臓腑の消失した肋骨を吹き抜けるだけとなり、その古びた鐙にかけられる鉄の脛当てにつけられた金具ががちがちと音をさせた。
崖に引き戻したのは、何がしかに呼ばれた気がしたからだ。ラズエンは地上を見渡し、うねり返る灰色の土の街並みを見渡した。羽をばたつかせて疾風に逆らうように暗い森へと帰って行こうとする鴉が軍団で羽ばたいてはがあがあと鳴いているのが見える。土壁の町には悪魔たちは狂喜してこの荒れ狂う天候を悦び、ラズエンの耳に不調和音を叩きつける。
穢れを背負ったこの悪魔共は誰もがここでは無い現実世界では違った生活をしているもの達の知られざる姿である。あのうねり苦しむ天空は、その彼等に苦しめられている者の嘆きの空である。
ラズエンは黒い槍を地上に立て、暗い眼孔の奥を青く光らせて悪魔の声から微かに聞こえたはずの声の正体を突き止めようとした。
すると、それは悪魔たちがはびこる地に小さくなって砂に塗れ蹲っているではないか。
「助けて、たすけて」
がたがたと震えて今にも地面に一体化しそうである。
「これはいけない」
途端にラズエンの背から、長く漆黒の羽根が生え一気にこの荒れた空を突っ切り街へと滑空して行った。土の壁の群れが近づき悪魔たちが放埓とした悪態を撒き散らし、または悦とした叫びを上げながらラズエンを見ては様々な武器を投げつけてくる。だが彼の羽根はそれらを跳ね返し、空気は全てを壁まで叩きつけ退かせては、あの少女の場所まで一気に羽ばたいて行った。
骨の腕にその少女を抱え込んで一気に黒い雲のうめく天空へと舞い上がり、頬や全身に稲妻を受けながら大きな羽根で少女を包み、そして一気に雲の上へとやってきた。
「うう、うう、」
がたがたと震える少女は骨の腕の内側でうめいている。
その骨の腕に、徐々に肉や筋、血管が乗り始め、スカルの頬にも肉付けられていっては水色の瞳の眼球が優しげなまつげに装飾され、そして冑からは長く波打つ金髪が漏れると黒い羽根に柔らかく乗り、そしてゆっくりと開かれ始めた両翼の間から、月光に輝く黒の甲冑の腕にしっかりと抱きしめられる少女が現れた。
たおやかに黒の羽根は満月に光沢を受け、ラズエンの背へと折りたたまれる。
「若者よ」
少女は恐る恐る縮めていた肩を下げ、ぎゅっと閉じていた瞼を少しだけあけると、美しい声の主をそろそろと見上げた。
それは数多の星空を背にした美しい女性であり、そして青く光る黒い大角を生やしていた。
「貴女は、大魔王様なの?」
小さな声は助けを求めていた少女の声であった。
「いいや。私はラズエン。穢れた大地を見回る堕天使。そなたの声を耳にしたのだ」
少女はそれを聞き、ようやく安心したのかこくこくと力なく頷きながらも急激な眠気に引っ張られて硬く瞼を閉じ眠りへと落ちていった。その少女の脳裏には、すでに星に飾られたラズエンの珠の美しさが残るのみ。偽物の笑みも悪意ある行いも何の穢れももう届きはしない。安堵の海へと滑り込んだかのように眠りに入った。
ラズエンはその少女を黒い絹のマントに包んで雲海を羽ばたいていった。
少女はいつしか恐怖が消え、ラズエンの腕から粉のようにさらさらと光りながら孵っていった。
ラズエンはあの崖から悪魔の街を見下ろす。
今は血色の夕陽が毒々しく土壁を紅に染め上げ、悪魔達は自らの血に狂乱して埋もれ騒いでいる。
黒い槍を立てたラズエンは、それだけはどんな光りにも曇らない青い眼光で冷静に見つめていた。悪魔は弱い悪魔を追いかけ血祭りに上げてもいて、叫びと狂喜とが入り混じった声が夕日にでも捧げられている悪徳の儀式でも見させられているかのようだ。甲冑に包まれる肋骨に収まる脈打つ心臓はそれを見て尚も心痛み、そして弱って行く悪魔が一粒こぼした涙が地上に夕焼けの光を宿して落ちた瞬間、今までの悔いを改めたそれが悪魔の身ではなくなり、一層黒い心の悪魔達を恍惚とさせる。
ラズエンは槍を背後に振りかぶって、一気にその夕陽に照らされた貢物の方へと投げつけ、悪魔達がその風でどれほどか消滅していき錆にまみれた鎖を断ち切って貢物が開放された。だが、その途端にやはり今までしてきた悪は立ち消えるわけではなく、この今の悪夢の現状から放たれるだけであり、その貢物はそのまま地面に足をつけたと共に死した。
深く地面に突き刺さったラズエンの槍は、その場所でふっと消えると崖の上のラズエンの手元に戻っていた。
顔を上げたその骸骨の頬を、血で塗りたくったような夕空が照らしつける。
その眼孔からは静かな光りが発されている。ゆるい風がなびきマントを翻し、そして甲冑も光沢を受ける。今まで苦しめられたものたちが涙を流し充血させたような夕陽。
「かわいそうに」
その言葉など、苦しむ者たちには届けようも無い。届かない。ただ、この地からその苦しみをどうにか軽減させ、うまくいけば苦を消滅させてあげられるのがラズエンの役目である。
空から聞こえる。レクイエムが聞こえる。
それは崇高なものであり、その時ばかりは悪魔達は誰もがそれに身を焼かれるのを嫌がって逃げて行く。黒い影の底へ堕ちてゆく。
悪が成りを潜めた静寂に優しく響く天使たちのレクイエムにラズエンはしばし耳を澄ませた。輪唱と鐘の音は天地を包み、隠れる悪魔達を脅かす。
神を騙してまで命乞いをする悪徳の者を焼き尽くす。
暗い洞窟はじめじめとして黒い羽根を濡らす。
骨の大馬に騎乗し行くラズエンはその奥に来た。
ここは魔の巣窟であるこの黒い世界の坩堝の門がある場所で、ここを抜けると夢の入り口となる深い深い霧が立ち込める。そこを縫って魂はやってきて、悪い物だけがあの街へと流れて行くのだ。時々その悪いものに引き込まれてここには合わないものが迷い込むことがある。あの哀れな少女のように。その少女は立て続く苦しみに耐え切れずに怒りに塗れて苦しみを加速させていたことで、強引に引き込まれてしまった所をラズエンに助けられたのだ。
一人の心では処置できなくなった問題や、誰に相談しても助けてもらえない悲しみというものは深いものである。それを癒されることはあるのか、苦しみの根源は消滅するのか、それは時に本人しだいとなってよくなることもある。ものの捉え方や努力などで。だが、時にそれさえもなぎ倒され悪にさらされ苦境を噛まなければならなく、ラズエンが助けてあげなければならない者もいる。悪というものは、苦しむ相手の努力さえも無下にする非常な行いをするもの達なのだ。
それをどうして哀れに震える者を見捨てられようか。
ラズエンのもたらす癒しは時に悪人の死を伴う。そうでなければ止まないのだ。
洞窟に静寂が澄み渡る。
今、この門は閉ざされている。
ラズエンは門の見回りを終えると、蹄を響かせ歩いて行った。
洞窟から出ると、暗い森には木々の上に鴉たちが停まっている。黒い目で見下ろしてきている。そして段々とそれらは羽ばたき始め、ラズエンの背にばさばさと群れて舞い飛び始めると羽根となってまた鴉に戻って森から天へと舞い上がって行った。ラズエンの黒い羽根は様々な感情をその羽毛の間に忍ばせて悪意を無化させる。その無化されたものがここの鴉の食料で、それを力に彼等は街を見回り悪魔の行いを見てラズエンに報せるのだ。
ラズエンは下部の鴉が羽ばたいて行った森の上空を仰ぎ見た。
しばらくすると、森を馬で歩いて行き泉へ来た。ここは心落ち着く場所である。馬から折り、頬骨を馬の頬骨に寄せて眼孔から青い光りが暗闇に落ちた。さやさやと木々が啼く。風は泉を撫でる。その音。
だが、その安堵を破り騒ぎが近づいてきた。
街を見回る鴉ががあがあと鳴きながら戻ってきたのだ。それは異常が発生したという証。
ラズエンは一気に駆け出し、森を疾走していった。
森を抜けて走らせて行き、悪魔の街が近づくとその広場で悪魔達が踊り騒いで何かを囲っていた。それはあの少女だった。また引き戻されたのだ。
ラズエンは泣き叫ぶ少女を見て険しい声を出し、槍で悪魔を一気に薙ぎ倒していった。
黒くうねる空は叫びが今にも轟きに変わりそうだ。一振りされた槍は悪魔達を破裂させて悪辣とした声を消し去った。
少女はすでにぐったりと柱に縛り付けられたままにうなだれ、声を嗄らして「ラズエンさま」と囁き、気絶した。
ラズエンは柱から少女を下ろし、抱き上げて天を見上げた。
「何故に幾度も少女を傷つけるのか!」
苦し紛れの雲間から一粒の雨が頬に落ち、そして穢れたる地上に舞い降りし漆黒の堕天使の苦痛の頬を濡らす。
どんどんと濡らし、土砂降りへと変わり、少女の身体を凍えさせる。ラズエンは少女を羽根に包み込み、少女とは関係のない他の悪魔達が隠れ成り潜める街を離れて行った。
少女はラズエンに抱き上げられ洞窟の門の前まで連れてこられ、そしてその門扉は左右に移動し、静かに歩いて行く。
霧を歩いてゆく。
「戻りたくない、怖い、苦しむのはもう嫌なの」
少女は寝言でも怯えきっていた。
霧を歩く間にもラズエンは血肉をよみがえらせその背にする黒翼の間に長い金髪が流れる。
霧を抜けると、そこには巨大な丸鏡が立てられている。黒い彫刻で装飾のされたそれは、今は少女の苦の根源となるものが映し出されている。少女は耳を塞いでがたがた震えた。そして眠りから覚めると鏡に映る現実の苦しみに目を震わせ、発狂しかけてラズエンは強く少女を抱きしめた。
「これが少女の苦しみ」
それは悪意ある人間達が及ぼすものだった。あの悪魔の街にその陰を躍らせていて、その面影が確かにあった。あの槍の効力はしばらく時間差がある。
助けを求められず、夢でも恐れる少女は鏡のなかで苦しみに喘いで顔を歪めている。その覗いた目はあの世界で見る充血した夕陽そのままだ。
槍の力は威嚇の力として少女を取り巻く悪意をけん制し、少女に救いの気づきを辺りに施させる。そうすると、少女はふと顔を上げ、現実を歩いてふいに見つけた何かに駆け寄った。それは小さな行いとして少女に心を通わせて、小さな微笑みを与えた。
それは、どんな形なのかはその本人にしか分からずにその時にしかめぐり合わない。何かの形で少女に癒しを与えて、それを少女が救いだと受け止めて、その一日やこれからの心の支えになってくれるものなのだ。
ラズエンはふと腕が軽くなったのを感じた。
少女は鏡のなかで歩いて行く。少しまだ頼りないが、その口元は微笑んでいた。きらきら輝く川辺にしゃがむと、流れてきた花を掬って手元に収めた。その薫りを楽しむと、また花を放って川をくるくると回りながら流れて行く。その先に、優しい色の空が広がっている。
少女は立ち上がり、ふと肩越しに振り返った。アリガトウ……その口元の動きが微笑みとともにラズエンの脳裏に焼きついた。
鏡は再びもとの色に戻り、ラズエンを映す。
そこには、少女と同じ微笑みをするラズエンがいた。
2017.1.29
ラズエン