黒猫探偵事務所ゼロ
第一章 丘の上の屋敷
山道を越え、緑の揺れる森林を走らせると、森を越えた先には丘が広がっていた。そのセンターには、まるで浮島のように明るい林がある。
朱鷺島(ときしま)レイはクラシカルな黒のマセラーティを進めさせながら近付いてくるそれを見ていた。助手席の黒猫は固定されたカゴのなかから外を見ている。
「どうやら、あの林だという話だが」
丘を走らせ近付いていくと、ちらほらと林を貫く林道の左右に屋敷が見え始めた。林までは丘に整備された路が続き、丘を見下ろしたり見上げながら進む。
「もう少しだ。黒猫婦人」
利口そうな顔の黒猫は、カゴのクッションの上からオッドアイの瞳でじっと見える範囲の空を見ている。時々緑の丘が陰になった。
林道に差し掛かり、左右に数件の屋敷の塀が並ぶことを確認しながら、車をゆっくり進ませる。
「長時間の移動お疲れ様。どうやら着いたようだ」
猫のカゴを撫でると、黒猫婦人は短く鳴いた。
朱鷺島はサングラスを下げ、黒と水色のオッドアイが辺りを見回す。
車両を道はしに停車させてから地図を広げた。林道の左一番手前の屋敷。左を見上げると、高く白い塀に視界が隔たれている。
「ここだな」
どうやら、裏手に地下車庫への入り口があるらしい。その点が何より好都合だった。そちらへ車両を向かわせる。すると、屋敷群の裏手が塀沿いに傾斜になり、上がっていくと地下への入り口があった。この辺りは冬場は雪原になるようで、積雪を免れる形になっている。
彼はゆっくり降りていくと、車両を駐車させた。これは父親が若い頃に使っていた愛車で、日本に来た朱鷺島に、何かと買出しで荷物運びもあるだろうからと貸してくれたものだった。彼もいろいろな場所に行くので、古い車だがエンジンは良い物を積んであったので、山道も問題なかった。さすがに丘や浜は無理だが。ある程度朱鷺島もメンテナンス知識がある。
朱鷺島は白水色の瞳に黒の眼帯を嵌めると、猫の箱を持って車両を折り、地上へ上がって行った。
林道に戻り、屋敷へ歩いていく。塀を見上げながら歩き、エレガントな門の前まで来た。そこから、あたりの屋敷を見回す。この屋敷を合わせて五棟。手前の屋敷は純日本家屋の立派な佇まいで、様々な意匠が施されている様式が見て取れる。日本庭園も美しい。
これから越してくる屋敷は三階建て洋館だった。
立派な洋館だ。堂々たる風もあり、そしてそこはかとなく品のあるシンプルさがある。
まさかこの屋敷が信じられないほどの安さで売られていたのだから驚く。田舎の山間に囲まれた辺鄙な場所の別荘は、時に破格の値段で売られているものだが、これはもしかすると……。
「相当の事故物件かもしれないな」
朱鷺島の知り合いにこの別荘群の家族に顔見知りがいて、その人物伝いにこの空き屋敷の情報をもらったのだが、それが目の前の純和風の家の家主の紹介らしかった。空家の時期の管理もその家主が行っているらしく、屋敷自体の詳細は一切分からない。この広い屋敷、しかも庭付きで三十万だった。信じられない。
猫のカゴを覗くと、黒猫婦人は大人しく座っている。両目で眼帯を嵌める朱鷺島を見ている。
「管理をしてもらっているお宅に行ってみるか」
門の呼び鈴を鳴らしてみた。しばらくは庭園の躑躅や石楠花に舞う蝶や、池の周りの菖蒲、立派な松などのある風景を、目を細め微笑み眺めていた。よく管理が行き届いている綺麗な庭だ。雪ノ下や蕗の生える灯篭の辺りには、玉砂利の上に三毛猫がいてこちらをじっと見ている。
家屋の戸がガラガラと音を立て、朱鷺島はそちらを見た。優しげな顔の壮年の男が歩いてくる。
「これはこれは。君が朱鷺島レイくんだね」
男はグレーシルクの詰襟シャツに黒スラックス姿の青年を見た。端麗な顔つきだが、目に何かあるのか黒い眼帯を嵌めている。
「はい。僕が屋敷に越してきた朱鷺島です」
朱鷺島は微笑み、会釈をした。家主の三上だ。防犯上、門扉には名札は無かった。
三上が鍵を開け、ガラガラガラと木格子の門戸を引き笑顔で朱鷺島を招きいれた。
「遠かっただろう。さあ、どうぞ入って」
「お邪魔します」
屋敷に招かれ、歩いていく。
「どうやら、探偵事務所を開きたいんだって? 阿立(あだち)さんから聞いたよ」
「ええ。これからお騒がせいたしますが、出来るだけ静かにいたしますので」
「この辺りは人里離れているが、大丈夫なのかい」
「ええ。なんとかやっていけるのだと思います。この猫は大丈夫でしょうか」
「ああ。うちにもいるからね」
「よかった」
戸をガラガラと開ける。印象的には明治大正辺りの家屋を移築したのだろう、古くも趣がある。日本庭園の望める明るい間に促され、お茶と茶菓子が出された。
「それにしても驚いたよ。想像以上に若いんだね」
「ええ」
朱鷺島は二十二の年齢である。大学卒業後の探偵事務所ということになる。
「これからが大変だね」
三上は何枚か書類を出し、朱鷺島は屋敷購買権利書の契約書類にサインをした。
三上は眼帯については何も言ってこないが、その眼帯あっての探偵の仕事である。猫は静かにカゴのなかから居間を見ていた。
「実はね、入ってもらう屋敷にも一匹大きな毛足の長い黒猫が住み着いているんだよ。その子と同じオッドアイのね」
「へえ……野良黒のオッドアイですか。珍しいですね」
「うちは大丈夫だが、もしかしたら君の猫は心配かもしれない」
「そうですね……」
朱鷺島は黒の前髪を掻き揚げて白い項に手を当てた。
「できるだけ飼い猫は屋敷に入れておいた方がよさそうですね」
「そうだね。うちの猫とは仲が良いんだが。まあ、とにかく屋敷に案内しよう」
家主は眼帯のことは聞いてこないが、朱鷺島も屋敷が安い理由は聞かなかった。
しかし、本当にこんなに安くていいのだろうか。逆に申し訳ない。今まで管理をしてくれていたというし、維持費も馬鹿にならないだろうに。
「あの……本当にこの値段で大丈夫なのですか? なんなら、もう少し出せるのですが」
「ああ、いやいや! いいのいいの、本当に」
三上が庭を歩きながら言い、朱鷺島は「それは助かります」と言った。
屋敷の門の前に来ると、黒くアンティークな鍵を出し、錠を開けた。内側へ鉄の格子門が開いていく。
「さあ。どうぞ」
促され、入っていく。
屋敷の前に広い敷地があるが、想像とは異なり庭は草が生えているだけだった。それも、今の夏場に均一に刈られている程度のもので、樹木も園芸植物も一切生えていない。
アプローチを歩いていく三上の後を歩く。
ステップを上がり、屋敷の観音扉の鍵を開ける。開けられると、背後から庭の空気がなだれ込んだ。
「………、」
朱鷺島は頭痛を覚え、眉を顰めて米神に指を当てた。だが、一瞬強い痛みを覚えただけで、またもとに戻った。
顔を上げると、目の前に広い玄関ホールが広がっていた。頭上には鉄でできたシンプルなシャンデリアがあり、目の前には広い階段。欄干の向こうは扉が並ぶ。
やはり人が空気を入れ替えているからだろう、どこにも古い感じは見受けられない。
「ここは七年間ほど空家だったんだが、傷んでいる場所もなければ、すでに電気、ガス、水道、電話会社、ネット回線も通して置いたよ。水抜きもしてあるからご心配なく」
「助かります」
猫のカゴを無意識に脇に抱え込んでいた。どこも優麗だ。なのだが、先ほどの頭痛は不可解だった。まあ、事故物件だろうとは元から踏んで来ているのだが。
「これがマスターキー。大体、家具や備品などはそのまま使えるよ。シーツや布団は揃えてもらうことになるけれどね。カーテンもついているし、地下倉庫にも棚や刈り払い機などもある。洗濯機やキッチン家電もあるからね」
『どうやら、ほぼ身一つで行って大丈夫だそうだ』と言っていた知り合いの話だが、あとはレンタルでトラックを借りて自分の衣服や日用品、バイクや道具などを持ってくればいい、という話になっていた。
「冬場は村の方に移るのかい。このあたりは雪に閉ざされるんだが」
「一年を通してここに住むつもりです。故郷も積雪地帯なので、そのあたりは慣れています」
「それはよかった。じゃあ、どうぞ自由に使ってくれ」
「どうもありがとうございます。いろいろと探ってみます」
「ああ。何かあったらまた言ってくれ。これはマスターキー。それと合鍵はこの袋のなかだから持っていてくれ」
「はい」
三上は微笑み、戻って行った。
猫のカゴを持って朱鷺島は再び屋敷を見回し、一階部分を歩いていく。階段横の欄干下の扉を開けると、がらんとした広い暗がりに棚が五列も並び、園芸道具や機材、修理道具、ガスタンク、薬剤、肥料などがあった。先ほど言っていた貯蔵庫のようだ。
引き返すと、エントランスホールから廊下を歩く。庭側の扉を開けると、テラスから庭の見渡せるリビングがあった。右側のドアを開けると、水周りなどの個室がある。トイレ、脱衣所、バスルームだ。廊下の突き当たりはキッチンで、ダイニングも横にある。
二階に行くと、部屋は左右合わせて四部屋、それぞれ広さは同じだった。三階へ上がっていくとき、再び頭痛がして立ち止まる。
「何だ、一体……」
またすぐに痛みは消え、すっきりと覗く白い項を撫でてから黒髪の頭に手を当てた。耳にかけられる紐を指で煩わしげに引っ掛けて眼帯を下ろした。
黒の瞳と、白水色の瞳が三階を見回す。
「まさか幽霊館か」
だが、気配という気配は無い。
ひとまず歩いていくと、三階には大きな部屋が一つと、ふた周り小さな部屋が左右合わせて三つあった。二階から三階に寝台がそれぞれ置かれていたり、書斎があり、棚には本などもそのまま収められている。調度品もそのままだ。美しい姿鏡に映った真っ白は顔の朱鷺島が映っている。
頭痛がして、米神に手を当てる。
カゴを見ると、猫は普通に座ってきょろついていた。大丈夫そうだ。
窓まで来ると、庭を見下ろした。
「野良猫は見当たらないようだな。今は、という意味だろうが、野原か森に出かけているのか」
カゴを置くと、黒猫婦人を出した。しばらくは上目で猫は辺りをその場に座ってきょろきょろと見ている。しばらくは慣れるまではこのままだろう。
「今に慣れるからな、黒猫婦人」
「ヌーン」
猫を抱き上げて頭を撫でる。
三階の窓からも、他の屋敷の窓は見えない。これなら眼帯を普段取っていても大丈夫だ。
出来るだけ今の所は、持ってこられるぐらいのものを三つのトランクと食料の入った箱に詰めてきているので、眼帯を再び嵌めると門から出て車まで戻りそれを運び込む。貯蔵庫には台車もあったので荷物が多い買出しのときは玄関から車庫までの傾斜下まで運べるだろう。
最後の箱を運び、路を歩いているときだった。
サッと6歳ぐらいの女の子が、左一番奥の別荘の門から出てきた。笑顔で物珍しそうに見てきていて、手を振ってくる。朱鷺島は微笑んだ。その女の子がここまで走ってくると、見上げてくる。
「ここに引っ越してきたの? 私、風森サヤカ」
「朱鷺島レイだ。よろしく」
「よろしく!」
きっと春休みシーズンなので別荘地に来ているのだろう。車で一時間のところに人里があり学校や店舗もあるので、ここに住んでいる家族もいるのかもしれない。朱鷺島もここに住むつもりでいるのだが。
そこに、他の屋敷の垣根から大きな黒猫が顔を出した。半開きの目でこちらを見てきている黒猫で毛が長い。
「………」
黒猫婦人は屋敷の部屋にいて、さきほど餌と水を皿に乗せてきた。
大きな黒猫が悠然と歩いてきて、サヤカは朱鷺島の視線の方向を見た。
「あ。猫。あの子、おうちが無い子でこの家に住み着いてるの」
何事もないように屋敷の開けられた門に入って行った。そして草地で毛づくろいを初めている。
「私もう行くね! 春休みの宿題やらなきゃ!」
「ああ。頑張って」
朱鷺島が門に入ると、黒猫は驚いた顔で見てきた。じっと見てきて、扉を開けて箱を運び入れると、そろそろと移動していき朱鷺島を見たまま門まで行って、ダッと走って行ってしまった。
「猫には申し訳ないことをしたな」
頭を掻き、草地を見る。見事に何も無い。これだと、依頼者を受け入れる体制はしばらくは庭では整えられない。始めの内は室内に場所を設けよう。
庭をどうしようか、と頭にめぐらせながら、依頼に適していそうな場所を探すことにした。一室一室を見回っていく。相談の場所と、セッションの場所は変えたい。静かで落ち着いたところが良い。
二階の一室に、カーテンが天井から床まで掛かっている場所があった。室内はほぼほぼがらんどう
で、ダンスホールのようにも思える。飾り棚やキャビネット、アームチェアが壁に並び、壁には横に長い台の上に小物が置かれ、楕円の美しい鏡がかけられ、シャンデリアが二基掛けられている。
カーテンを少し開けると、「おお」と言って一気に歩き開いていった。
一面硝子の窓で、その先には緑の林が揺れている。
「ここは良い。場所ももう少しシンプルに整えれば、セッションとヒーリングに使えそうだ」
その時、林を見ていてふと薔薇庭園が頭に浮かんだ。
「薔薇の庭……か。いいかもしれない。庭を薔薇庭園にしよう。そのセンターにヒーリング台を置けるようにしよう」
思い立ったらすぐに運び込んだ荷物も整理しがてら、自室にするつもりの三階の猫がいる部屋に戻った。パソコンを出すと、さっそくネットに繋いだ。この辺りで一番近い花市場を検索し、薔薇の苗や肥料、土、柵やアーチなどを調べる。屋敷代が浮いたので、庭につぎ込めるぐらいはある。これからの屋敷の管理費や税金を計算しても大丈夫だった。
子供の頃から師匠の下で修行を積んで、中学の頃から依頼を受けて来た朱鷺島は、高校の頃にはバイト程度の依頼料で能力を発揮し、大学のころには仕事のようなものになっていて黒猫婦人を飼い始めて訓練をさせた。特殊な依頼で着々と資金を溜め探偵事務所を開業するために日本へ来たのだ。
オッドアイ、それは、隠された瞳で人や動物の記憶をさぐることが出来る力があった。黒猫も立派なパートナーなのだ。
「シャーッ!!」
「うわあ!!」
朱鷺島は背中に黒猫にアタックされ、しゃがんでいたのを、スコップを持ったまま土の上に倒れこんだ。顔をすぽっと土から出し、ずれた眼帯を正す。その内にもすごい勢いで重い猫が背中に乗ってきていて白のワイシャツをがじがじ噛んで首をぶんぶん振っている。がりがりと引っかいてくるので、朱鷺島はごろごろ転がって野良猫が離れて行ったのを、また飛び掛ってくる。
野良猫からしたら、勝手に草地を荒らしてくる人間、なのだろう。
「シャーッ!!」
「わ、痛っ」
そこらへんにマーキングをしまくっていて、端っこに野良猫のために置いた餌も食べていない。むしろ蟻が食べていた。 黒猫婦人はまだ一度も外に出していない。
「シャーッ!!」
「わー!!」
朱鷺島は土を掘り返している途中の草地をぐるぐる走り回っていて、猫が追いかけている。
それを見て、門の向こうからサヤカが見つけて「くふっ」と口を押さえ噴き出した。
「黒猫屋敷に珍客が入ったから怒ってるのね」
朱鷺島は猫攻撃を避けながら門の向こうのサヤカを見て、急いで門を開けくぐって締めた。だが、格子から抜けて追いかけてくる。丘まで逃げていくと、猫は満足して自分の家へ戻って行った。全く、土に蓄えた獲物などを埋めてあるのに何しやがるあの人間。
また人間が来たので、猫はカンカンに怒ってシャーシャー唸って追っ払った。しばらく朱鷺島は自分の家に入れなくて門から離れて困っていた。
「ふっ、今に慣れるよ」
「そ、そうかなあ……」
朱鷺島は参って項に手を当てた。今日は午後に知り合いがトラックで来てくれて荷物を運んできてくれるので、どうにかしないとならないのだが。
「サヤカが四歳のときに子猫だったから、まだ二歳ぐらいだよ。私には懐くんだけどなあ。注射する病院も怖がらないし」
「三上さんの三毛猫にも懐いてるらしいけど……。テリトリーだもんな。どうにか飼いならすしかない」
「頑張って!」
サヤカはくすくす笑い、「じゃーねー!」と手を振って走って行った。
また門を開け、恐る恐る入る。ネットで捕まえでもしたら、もう一生懐いてこないだろう。また人間が懲りずに入ってきたので、しばらく猫はじっと見てきていた。朱鷺島はゆっくり歩き、屋敷のドアを少しだけ開けて入ろうとした瞬間、バッと走ってきて猫が屋敷に入った。
「あ! こら!」
扉は全部閉めてあるが、縦横無尽に黒猫が駆け抜けて階段を上がっていったり降りていったり扉のないキッチンに来るとジャガイモを転がしたり林檎に体当たりしたりソファのクッションをくわえてぶんぶん振ったりなどして、そのままそこにクッションにまみれて朱鷺島を見てきた。
朱鷺島はじゃがいもやりんごを拾いながら、猫を見ていた。毛づくろいを初めている。そして朱鷺島が立ち上がると、また構えてきた。これは触れようと手を出したら酷い目にあう。
病院には行っているようでよかった。もし行ってなかったらノミもダニもいただろうし、傷も破傷風になる恐れがあったからだ。地域猫のようなものか。去勢まではされていないようだった。
今の所は、庭の手入れをしなければ。薔薇苗や柵、アーチや肥料などはもう注文してある。
朱鷺島は眼帯を外し、両目で猫を見て声を掛けてしゃがんだ。
「いいか。うちの子になればここを自由に出来るぞ。な? うちの子になれ」
猫は聞かずにクッションをぶんぶん振っている。そのままいきなり立ち上がって、クッションをくわえたまま走って行った。
「待て!」
追いかけると廊下の途中でクッションが落ちていて、型を整えてから脇に抱えて歩いていくと、庭で猫が立てかけたスコップを蹴り倒したり、押し車に飛び乗って倒したりしていた。
「これは飼いならすのは大変そうだ……」
正午になると、知り合いがトラックでやってきて笑顔で見てきた。
「やあ。運んできたよ」
「どうもありがとう。助かった」
彼は日本人の父の友人で、レストランを開いている男だ。朱鷺島も子供の頃から顔を見知っている。この阿立にこの屋敷の情報を教えてもらった。
「なにやらえらい傷塗れだね。大丈夫かい」
「まあ、先住猫がいてね」
猫が恐い目で門のなかから見てきている。
「黒猫婦人じゃなくて?」
「うちの子は短毛種でもっと小さいよ。この子は雄猫。婦人は部屋に入れてあるから会うことはないけれど」
「そうだったね。ひとまず、どうにかしないことには荷物も運び込めないね。昼がまだなら、一度街まで昼食がてらホームセンターでマタタビでも買ってこよう」
「それはいい。僕の車で行こう。トラックは地下駐車場に」
というわけで、今の所は屋敷から離れることにした。猫は門から離れて戻って行った。
朱鷺島自身の愛車のハーレーダビッドソンを降ろすのも後にすることにした。眼帯からサングラスに替えて運転をする。
「どうだい。風光明媚なところだろう。三上くんの曾お爺さんもそれが気に入ってここに旧本邸を別荘にして移築し構えたらしい」
「うん。分かるよ。すぐに気に入った」
それで、一度ちらりと阿立を見た。
「あの屋敷のこと、何か聞いて?」
「いいや。特には。十年近く空き家で三上君が管理していたぐらいかな。三度ぐらい草刈を手伝ったことはあったよ。知り合ったのは七年前だが、前の持ち主のことは聞いたことは無かったな」
「そうか……」
「何かあったのかい」
「ちょっと頭痛がするだけなんだけれど、それもここが高原だからかな」
「なるほど。人によってはいろいろ敏感になるだろうからね」
「それだけだと思う」
「依頼の方に支障がでたら困るが、大丈夫そうなのかい。精神集中が大切なものを、頭痛というのは困るだろうに」
「リラクゼーションとヒーリングの道具は揃っているから、まずはそれを使ってみようと思う」
村に来て、また二十分走らせると小さな街に出る。そこで昼食で地場野菜のヴィーガンレストランに入り野菜ハンバーグセットを頼んだ。その帰りにホームセンターに寄った。必要そうなものを買い、車両に乗り込む。
屋敷に戻ると猫は庭にはいなかった。きっと森か野原や他の屋敷にいるのだろう。
バイクを下ろし、荷物を運び込んだ。
「レイくん。三上さんを招待して皆で夕食というのはどうかな」
「そうですね。丁度食材も買ってきたし」
朱鷺島は荷物の整理を早めに済ませると、今の内は猫がどこかに遊びに行っているうちに土いじりをして、阿立さんも手伝ってくれた。
夕食は三上さんとその奥方、阿立、朱鷺島の三人でダイニングで取ることにした。婦人も三階で食べている。
「探偵って、いきなり始められるものなの?」
「依頼自体はずっと国で師匠のもとで共に受けていたんです。内容は探偵ではなかったのですが。大学の頃は犯罪心理学と経営学、司法学科を受けて、それで独立をしました」
大学では柔道と剣道もしていたので、こう見えてしっかりしている。白い手は猫の傷塗れだが。
「なるほど。それでいきなりここで探偵事務所を」
「はい」
「二十二歳の若さで驚いたわ。探偵の仕事なんて全く馴染みが無いもんですから、お仕事内容は分かりませんけれどいろいろ大変なんでしょう?」
「いろいろな種類もあるので、内容によってです」
「いつか私もなにか依頼してみようかしら」
「ははは。何を」
「分からないわ。でも、面白そうじゃない」
朱鷺島は小さく微笑んだ。
三上夫婦はここに二人で訪れるのだそうで、ほぼほぼここから出勤もするらしい。冬場はやはり松に筵や雪吊りの縄を張ってもらったりなどして別荘を空けるらしい。
「そういえばあなた、お一人なの?」
「はい」
「眉目も整っているんだし、彼女でもいそうなものだが」
それも日本に来る半年前に彼女とはすでに別れていた。彼女がフィンランドからイギリスにサックス演奏のために移住したいというので、そのためでもあった。
「またいつか良い人が現われれば」
「きっと見つかるさ」
三上が微笑んだ。
夕食を終えると、リビングに来た。夜の庭は今は猫がいても分からない。
第二章 初めての依頼者
「あの……こちらは探偵事務所でしょうか。紹介を受けて来たのですけれど……」
「はい。こちらが朱鷺島探偵事務所です」
二十歳前後の少女が屋敷や庭を見回していた。午前中も猫に攻撃されながら庭仕事をすすめていて、今は休憩でテラスのティーセットで紅茶を淹れて飲んでいた。
「このような状態で申し訳ない」
「いえ。大丈夫です」
探偵というのでてっきり、三十代や四十代以上のおじさんだと思っていたので若くてびっくりした。
「あの……、あなたが透視探偵の人ですか?」
「はい」
今の格好自体が黒いTシャツに黒のパンツ、それで首から白いタオルという野良仕事姿なので、そうは見えないと思われても仕方が無い。
「庭仕事、大変そうですね」
と見回したものの、育てているらしい植物は草しかないし、何をそんなに必死に草をお手入れしているのだろう? と少女は首をかしげながらも不思議に思っていた。
「ええ。薔薇庭園にしようと思いましてね」
「それで!」
納得して彼女は微笑んだ。立派な屋敷で草を育てている透視探偵は不可思議すぎたからだ。
「まだここに事務所を構えて五日目なので、整っていなくてお恥ずかしい。草のままでもいいといったらいいのですけどね……自然のままで」
「あ、はあ……」
猫もそうしてもらいたいのだから、何やら小骨まみれのスポットを見つけて、そこはきっと猫の大事な餌置きスポットか何かだろうから、そこのあたりを三平方メートル手付かずにしてあげて土と草を戻しておいてあげた。庭造りもそこは避けて作ることも出来る。人が入らないように周りに煉瓦路を作って草地の島にすることも出来る。
「どうぞ、お入りください」
「はい。失礼します」
彼女に紅茶を出して、マドレーヌにマーマレードをつけたお菓子を出した。
「おいしい」
「それはよかった」
彼女が落ち着いたところで切り出した。
「相談内容というのは」
「はい」
少女は改まって背筋を伸ばした。
「私、カラーコーディネーターをしているんですけれど、一年前から何故か特定の色を見るととても調子が悪くなるんです。以前はそんなことは無かったのに。仕事もあるから、パーティーやレストランのセッティングや、それに施設などの憩いの場所の設定もあるからその色で体調が悪くなっているわけには行かないんです。何かしらの脳で補正でもかかるのか、その色が現れると色番号を見て違うと分かっているのに、異なった色で視覚的に認識してしまう。コーディネート時にバランスが損なわれたりして困ってしまって。確かに脳内にある色の記憶で組み合わせれば、差異は微かなもので済むこともあるけれど、最近はもっと酷くなってきて」
「その原因が何かありそうだと思うんですね」
「ええ」
「そのことで眼科や脳外科に掛かられたことは?」
「ありますが、異常は無いといわれます。精神的なものだろうと精神科に行っても結局は意味のなさそうな薬を処方されるだけで」
「色彩への恐怖は何か思い当たることは?」
「特には。確かに苦手な色はあるけれど、それとも感覚が違うし」
「そうですか……」
朱鷺島は頷き、しばらく彼女の目を見ていた。
「症状の出始めた一年前前後、何か仕事に関する今までに無いストレスや、大きなプロジェクトか何かは? 私生活での問題など」
「覚えはありません。大きな仕事はよく受けているので」
「突然の色覚変化ということもありうるとしても、眼科や脳外科の診断は異常なしというのなら、確かに何か記憶に残らないことでもあったのかもしれませんね。ところで、夢を見るほうですか?」
「ええ。色彩豊かな夢を見ます。その時ならどの色でも大丈夫なんです。もともと嫌な組み合わせのものも出てこないし」
夢の状態で大丈夫で、普段行動時に症状が出るのは、交感神経が乱れることに寄るものだろうか。
「精神科では交感神経と副交感神経の話は聞きましたか?」
「もともと高校で専攻していたので知識にあります。カラーコーディネートは神経にセッションする仕事なので」
「それでは、ご自分である程度日常生活において、リラックス効果を得られる方法は試されているのですね」
「はい」
「その色というのは」
「このベージュです」
ソファーの唐草模様の場所を指していう。それは橙色だ。ベージュでは無い。
「苦手は色は?」
「赤です。というよりも、嫌いというか。赤でも植物や花なら大丈夫だし赤い薔薇も大好きなんです。人工の赤は嫌い」
「それは何を連想するから?」
「なんとなく、かしら。まだ分からないけれど」
「もしかしたら、赤が苦手というのは自身で苦手だと分かっているから補正をかける必要もないと脳が判断し、橙色の場合は他の色よりは赤に近いからどんどん侵食して行っているのかもしれませんね」
「他の好きな色までなることは無いですよね?」
「黄色や橙色は好きなほう?」
「大して。自発的には近くには置きません。色と精神との関係性では赤が嫌いな人は疲労からですが、元気なときも苦手なのですからその場合は当てはまらないのかも」
「お好きな色は」
「パステルカラーです。淡くて薄い色」
脳内補正で苦手な色を薄めているとしても、実際に橙色をベージュまで薄めているのは、他の色にも影響していそうだ。
「実はパステルカラーと思い込んでいる色が原色かもしれないとは? 常に色番号と照らし合わせていますか?」
「あまりに忙しい時には出来ていません」
「僕のこの服や、この瞳の色は」
彼女は朱鷺島の目を見た。
「黒ですよね? 大丈夫です。灰色の上下に、薄茶色の瞳だなんて見えません」
朱鷺島は頷いた。
「では、今までも試していたかもしれませんが、そのベージュの部分をじっと見つめて、橙色だと思い続けてください。今からどうぞ」
「はい」
ソファの唐草を見つめる。黒地に橙の唐草模様で、黄色と茶色の陰影で色分けされているものだ。
「……う、」
少女は口元を抑え、目をふっと反らした。
「………。通勤は普段は車で?」
「電車です」
「もしかして、いつも流し見ている車窓からの風景に、あなたの苦手な他の事柄の看板か何かが、嫌いな色や橙色で使われているということは無いでしょうか。電車の速さで視覚の追いつかないほど近くで流し見るのであれば、記憶には残らなくても脳は記憶するものです」
「よく映像の細切れのカットに紛れ込ませて洗脳するような現象と似ている?」
「ええ。一度、あなたの記憶を洗い直したほうがいいかもしれない」
朱鷺島は立ち上がり、彼女を促した。
「部屋を移動します」
「はい」
二階へ上がり、あの広い室内に来た。カーテンを引き、緑が揺れる窓際に来た。二脚向かい合わせたアームチェアがある。
「こちらに座って」
「はい」
朱鷺島は手順を踏み、心を落ち着かせてから精神を集中させた。
「今から、あなたが忘れているかもしれない記憶を視ていきます」
「はい」
緊張した面持ちで少女が頷いた。
「普通に瞬きをしても構いません。ただ、目を反らさないようにしてください」
彼女は頷き、朱鷺島の目を見続けていた。朱鷺島は眼帯を外し、膝に置いた。
片方の瞳の色が違う。少女が何か言おうとしたが、朱鷺島の表情がすでに何の表情も無いものに変わっていたので、口を閉ざして言葉が引いた。
朱鷺島はいろいろと流れてくる視覚的な情報と声を、彼女の眼前に見ていた。しばらくは透けていたが、次第に映像が濃くなって背後に彼女の顔は透けなくなり、そして視野全体が彼女の記憶に取り込まれる。
職場での仕事、会議、部屋で猫との戯れ、親との夕食作り、朝礼、ショッピング、映画、山と森の情景、土をいじる朱鷺島自身、出勤で寝坊して走っていく自転車、彼氏といるバー、夜の各駅停車の電車、行き着けのカフェ、朝の快速電車……。
一瞬、強烈な印象がぶつかってきた。朱鷺島はその記憶をクローズした。
マンションだ。八階建て。一室に飾られた、電灯下の少女の写真。違うカットでは男がいる。
少女は朝の快速電車ではいつも出口のところに立ち、おぼろげに風景やマンションを流し見ている。夜は仕事で遅くなるので、鈍行電車に座って乗っている。座る方向はばらばらだ。ちょうどホームがある場所がマンションの場所。少女が橙色に茶色ストライプの民族的な服を着ている日があった。その服のときの大きな写真が一室に貼られている。男は夜に撮影していたのだ。気味の悪い感じの男で、女性なら避けるような。朝はカーテンが開け放たれている。電車を覗き見てなにやら撮影だとかしていたのだ。それが少女の脳裏に思い出されないというのに焼き付けられていたのだろう。その一室には朝、男がいて、にたにたと笑っている。ぞっとする笑みだ。
少女は覚えていないが、男は同じ電車に乗ってきたことがある。最近だ。彼女の前の椅子に座って、仕事関係のデータを見て顔を上げない彼女の顔を見ている。ホームに停まるといつも彼女は駅名を確認するために顔を上げ、そして納得してから顔を戻す。視野の端に映るにたにた笑った顔の男。きっと、放っておいたら危ない。
「………」
朱鷺島は意識を戻し、目の前に少女の不安な顔が現われた。
「夜停車する×□△駅の前に大きなマンションがありますね」
「ええ。白いマンション」
「そのマンションの八階の一室にいる男があなたを狙っている可能性がある。その部屋にはあなたが橙色の服を着ているときの写真が貼られていて、夜の電車にも共に乗り合わせています。朝の通勤時に快速で流し見る一室に、写真と並んで男が立って電車を見ている」
「え、」
少女はサッと顔が白くなり、指が震えた。
「対策をとったほうが良い。相手はストーカーだと思う」
少女は蒼くなり口を閉ざした。
「警察が動いてくれるかは分からない。まだ探偵事務所は本格的には動いてはいないし、今は月・水・金・日を休みにしているので、僕が向かうことも出来ます」
「お願いします」
少女は眉を寄せて震え言い、朱鷺島は頷いた。
猫はトイレと餌を多めに用意しておけば大丈夫なのだが、まだ慣れない環境なので一匹では不安がるだろうし、三上家に預けさせてもらうことにした。
「ああ。分かった。預かるよ。餌の量はこの椀に一杯だね」
「はい。来て早々なのにこんなことをお願いして申し訳ないです」
「問題ないよ。うちも猫は慣れているからね。庭に黒猫が来るから、二階に置かせてもらうよ」
「とても助かります」
三上は快く黒猫婦人を預かってくれた。
お礼をして引いていった。
場合によっては長期戦で泊まることになるので、軽めの着替えだけもって互いの車で移動し、走らせて行く。
車で走らせて五時間。夕方になって彼女の住む町に来た。電車が通過する辺りの最寄の警察に話を通して被害届を出した。何があるかわからない。警官を渡してくれて、問題のマンションの部屋へ行くことになる。そこへ向かうまでに朱鷺島は言った。
「大変かもしれないが、あの電車に乗らなくてもいいように部屋を変えたほうがいい」
「はい。そうします」
少女には近くの店にいてもらい、婦警についてもらっていた。朱鷺島と警官でマンションを上がっていく。
その部屋の前に来ると、微かに何かの音楽が小さく聞こえている。
警官が呼び鈴を押すと、ほどなくしてドアが開いた。
警察官を見て男はすぐにドアを締めようとしたが手で制された。すぐに部屋一面の壁が異様だと気付いた。写真まみれなのだ。少女の写真だった。
「あの写真は見せてもらってもいいかな」
警官が言うと男はドアを開けて逃げようとしたので即刻ひっとらえた。引き起こす。
「被害届が出たんだけどね、ちょっとあの写真の事情を聞かせてもらえるかな」
男が観念して室内に入って行った。
朱鷺島も警官も目を丸くした。少女の写真まみれで、それに壁には目も当てられないような犯罪者的なDVDが飾られている。そのコピーが箱に同じラベルで何種類も並べられ、いわゆる犯罪だった。取引売買が行われていたようだ。
男はその後逮捕されることとなった。
少女はその事を知ってぞっとしていた。婦警が彼女の両腕を両手で撫でてあげていた。
「本当に恐かった。まさかあんな男がいたなんて」
「気付くことができてよかった」
「ありがとうございます。朱鷺島さんに相談しなかったら分からなかった。私もいつも車内で周りも見なかったのがいけなかったわ。今度から気をつけよう」
「そうだね」
「男が逮捕されて良かった」
少女はまだ震えている腕を抱いて、朱鷺島に言った。
「なんだか、食欲が無いけど、どこか元気が出るもの、食べにいきませんか?」
「ええ。今はそのほうが良い。一人になるのもしばらくは恐いだろう」
「彼氏にもこんなこと、今はまだ言えないわ。なんて言えばいいか分からないし、混乱しているから」
「分かるよ」
彼らは警察署から出ると、朱鷺島の車に乗り込んだ。彼女の車は警察による前に一時帰った実家に戻したのだ。彼女自身は一人暮らしだった。
お店につくとつくで、変に今度はお腹が空いたらしく、いろいろと注文して食べ始めた。
「デザートも頼んじゃおう。太っちゃうけど、また彼氏に言ってもらったらダイエットしたくなるし、今日はいいよね」
だんだん笑顔が戻って少女は食べて行った。
朱鷺島は少女の実家でお土産をもらい、自分でも三上家にお土産を買ってから帰って行ったときには、深夜の二時になっていた。
別荘群は静けさが横たわり、草原は風にざわざわと唸る。雲が早く駆けて行き月を露にすると、ふくろうの鳴き声が静かに響いた。
朱鷺島は門の前で三上家を振り返るが、深夜なので、明日改めて猫を迎えに行きがてら、お土産を手渡すことにし、鍵を回した門を潜って行った。
「シャーッ!!」
「うわ、」
鮮やかな猫キックが朱鷺島の腹を直撃し、柔らかな土に転がって行ったのだった。
一瞬、月の光りにきらりと黒猫のオッドアイが光って。
第三章 庭園造りと飼い主と猫と飼い猫と
黒猫婦人は窓から見える雄猫を見ていた。何やら、飼い主のレイヨに襲い掛かって走り回らせている。
気性の激しい猫で、飼い主はてんてこ舞いになっていた。黒猫が格子向こうから庭に帰ってきて、庭に詰まれた鉄線や柵、倒し重ねられたアーチや束ねられたワイヤーなどを見るや否や、びたっと立ち止まり、目元をびきびきさせて半開きにすると、あちらでネコで土を運びこんでいる飼い主を見て塀を使って飛び掛り背中に猫キックを決めていた。土がネコのマーキングで酸性になってしまうし猫の糞で薔薇が駄目になってしまうからと、まだ薔薇の肥料や土などは袋詰めにされたままだ。苗と芝はは土が完成してから届けてもらうことになっている。野良猫に餌の入った皿を渡すと、バシッと手で払われてしまっていた。
攻撃されながらも、昨日平たい石を穴に業者に水平に降ろしてもらった部分に蔓薔薇用のアーチを立てるようで、二本の脚立と板などを使いながらロープで引っ張ってアーチを立てたり、その周りは石膏で固めるので板で囲って、猫も入らないようにネットで囲い、砂と石膏でモルタルを練ってぼとぼとと枠に流しいれている。棒でつついて空気を抜いていて、コテで平にならしている。これが固まれば薔薇用の土を敷く。黒猫はネットをかじっているが歯がどうやら立たないらしい。
飼い主はいろいろと自分でやる。柵なども一人で運べるサイズのものにして、左右に棒を立て水糸を張って支柱を等間隔に立てていき、ゴムハンマーで高さを調節して棒を横切らせ、水平棒で図っている。そこも板枠で囲って石膏を流し込み、猫が嵌ってしまわないように針金ネットで蓋をして針金で四方を固定した。固定したら枠に薔薇を這わせる柵を嵌めていくのだ。
盛り土をして、ちょっとした高台をセンターに作っている。飼い主のこの部屋のテーブルに広げられた庭の設計図では、その持った土を覆うように石台が置かれる予定で、その石はまた次回苗と共に持ってきてもらうようだ。岩ならまだてこの原理で動かせるが、台石の場合は薄っぺらなので運ぶのも二人掛かりで棒に石プレートを縄で固定し、駕籠のように担いで運ぶのだ。
今度は各場所に積まれた煉瓦を敷き詰めるために、基礎となる土の部分を水平にならすために、トンボとレーキででこぼこの土を平にしていっている。雄猫が飼い主の行く後からばんばんに踏んで乱しているので、ばっと振り返って雄猫を見た飼い主はなんとも着かない顔をしている。なので少しずつ均しながら煉瓦を路に沿って流麗に敷き詰めていっている。
薔薇を植える場所にはまだブルーシートが被せてあって、猫がマーキングや糞をしないように端も重石がされていた。猫は駄々をこねるようにどんどん変わっていっている庭のブルシートの上でごろごろ背を撫でつけ転がっている。自分の匂いをつけるのに必死になり、いきなり飼い主がパンツポケットからぽーんと出した何かを瞬間的に追っていって、それは草と土が元のままにされている小広いスペースに落ちては、黒猫がそのマタタビ粉をしみこませたネズミのぬいぐるみをてんてんてんと前足でやりながら口にくわえ込み、その草の上でめろめろになってごろついた。どうやらマタタビパワーにやられてしまったようだ。ごろみゃん言っている。
そんなこんなしていると、すでに夕方になっていた。
黒猫婦人はずっと雄猫の様子を三階窓から目で追っていて、黒猫はもう今日は疲れて草の所で眠りそうになるのを、そんな場面は見せないと思ったのだろう、片づけをしている飼い主の背をじっと見てから、とっとと門から出て行った。
飼い主は振り返り、暗がりで黒猫が見えなくなったのか、見当たらないので呼んだ。
「猫」
だが猫はお隣の家の塀より高い木々の上に昇って葉陰から飼い主を見ていて、答えずにその太い枝の上で目を閉ざして今日はもう眠った。また夜中に起き出して餌でも見つけに林に行く。
朱鷺島は今日は疲れて、汗を洗い流してから、どうせ作業終わりは面倒くさくなるだろうと朝の内に作っておいた夕食を温めて食べ、早々に部屋に戻って黒猫婦人がちゃんと餌と水をいただいてあるのを確認してからトイレの糞を片付け、報告書を製作しおえて確認し、もう今日は眠りに着いた。
黒猫婦人も横に丸まって眠りに着いた。
翌朝、サヤカが門の前で格子から見ていた。どんどんと庭が変わってきているのだ。気付くと、黒猫がごろごろと言いネズミのぬいぐるみを抱え込んでいる。だが、物音がするとすぐにザッと塀を駆け上って隣の屋敷の木に駆け上って行った。
朱鷺島が現われ、ネズミのぬいぐるみを見ると屋敷に入れた。今日はティアードロップのサングラスをしていた。眼帯では無い。黒いTシャツにパンツでは無く、白いワイシャツとジーンズにブーツだ。一気に雰囲気が変わる。
今日は昨日作業にひと段落をつけたので、このあたりの森をバイクでツーリングしようと思っているのだ。風も心地よく晴れてるのでうってつけだ。
バイクのメンテナンスを軽く済ませるために車庫へ向かうが、サヤカを見て微笑んだ。
「おはよう」
「おはよう! おでかけするの?」
「森にドライブにね」
「そっか。サヤカは今からお姉ちゃんと村に川遊びに行くの」
「だからその格好なのか」
「うん!」
褒めてもらいたくてサヤカは一回転した。
「可愛いな。似合うじゃないか」
「でしょー! このリボンが気に入ってるの。じゃあ行ってくるね!」
「いってらっしゃい。楽しんで」
彼女はまた家へ戻っていった。朱鷺島もキーを持って歩いていく。
車庫から上がって行き、バイクを走らせて行く。
丘の路を走らせていると、背後から車両が来た。横を通り様に窓を開けたサヤカが手をぶんぶん振った。朱鷺島も微笑み手を挙げる。両親と姉が乗っており、奥方が会釈をし、彼も会釈した。運転席側は見えなかった。車は通り過ぎていく。リア硝子に、姉妹が手を振っている姿が見えた。彼も手を振った。
森の路を走らせて行くと、停められるところに停めてから森を歩いて行った。明るい森だ。
いろいろな種類の木が楽しめて、森林は歩くごとに表情を美しく変える。森というものは本当に個性のあるもので、歩くごとに新しい風景と発見があるものだ。それごとに自然の神様があたたかく存在していることを感じる。葉の重なり合いが種類で違うものを描き、鳥の種類も変わってくる。草花の種類も変わってくる。実に様々な顔を持つ森はとても居心地が良い。
山の方には大きな動物がいるようだが、この時間は小動物を森で見かける。息づく生命は輝いている。
岩場を見つけると、その横の草地に寝転がってサングラスを胸ポケットにさして目を閉じた。風が髪をさらさらと揺らす。うたたねに入っていた。
「?」
黒猫はトカゲをくわえて歩いていたのを、人間を見つけて茂みに隠れた。これから泉まで行って水を飲みながらトカゲを食べようと思っていたのに、人間がいる。あいつだ。なにかわけのわからない幻惑するネズミみたいなぬいぐるみをくれた。だがさっき行ったら、すでにあれはなくなっていた。それはあまり猫に頻繁にマタタビをあげたらよくないので、朱鷺島が屋敷のなかに入れたからだった。
黒猫は仕方無いから、トカゲをわけてやった。それを人間の横に置くと、尻尾が顔に当たったらしく目を開けた。黒猫は驚いて、トカゲをやはりくわえて飛び退った。朱鷺島は驚いて黒猫を見て、しばらく見詰め合っていた。黒猫の前に映像が浮かんだ。またたび粉を振ったネズミのぬいぐるみが脳裏に浮かんでいるようだった。そして、黒猫はぱっと走って行ってしまった。
朱鷺島はしばらく、その去って行った茂みを見つめていた。
黒猫は昼過ぎに帰ってきて、ブルーシートの上に寝転がって昼寝をはじめた。しばらくはごろごろしていた。
「………」
黒猫は黒猫婦人と目が合った。
「………」
雌猫がいる。窓から見てきている。黒猫はブルーシートから立ち上がり、ばばっと爪を立てて塀に飛び乗り、その縁に立った。猫だ。やはり雌猫がいる。黒猫は塀の上を左右にうろうろ移動し、それで塀の縁を屋敷側へ歩いて行った。それで、辺りを見回し二階のベランダテラスとの跳ぶ距離を見計らった。そして、野生的ジャンプで飛んで見事テラスに飛び乗った。
「………」
だが、なんと先にいけないと気付いた。窓は開いていない。欄干から庭を見る。
「………」
朱鷺島はバイクで戻ってくると、歩いて門まで来て、鍵を開けて入っては何かに気付いて、バッと屋敷の壁を見た。
「………」
「………」
壁の半端なところに爪でしがみついて、それで忍者のように上がって行っているなんか黒い大きな猫がいる。それで肩越しに朱鷺島と目が合った。黒猫は流石にこの高さからだと飛ぶのは危ないと思い、屋敷の二階から三階の間の壁の部分に爪を立てているのを、そのまま三階のテラスまで這って飛び移った。
「な、なんという猫、」
朱鷺島は驚いて屋敷へ入っていき、階段を駆け上がって行った。黒猫が降り立ったのは黒猫婦人のいる部屋で、黒猫はなーごなーご鳴いている。黒猫婦人は部屋の奥へ走って行き寝台の向こうに隠れた。思った以上にでかい雄猫だ。
朱鷺島が部屋の扉を開けて入っていくと、黒猫婦人をカゴに入れて他の部屋に移すために抱き上げた。その途端に黒猫が窓ガラスを前足で叩いてくる。素早く婦人をカゴに入れ、他の部屋に移してから、あの猫のことだし部屋のノブを開けられてしまっても困るので鍵を掛けた。
窓を開けた瞬間、ダッと入ってきて、部屋で暴れられたら困るので廊下への扉は開け放っておいたがそのまま廊下へ猫は走って行き、窓を締めてから部屋から出て扉を締め、猫が廊下で走り回っている。そのまま玄関の扉を開けておくと出て行くかと思われたが、出て行かない。黒猫婦人を探しているのだ。匂いをくんくん嗅ぎまくっている。これは会わせるわけには行かない。どうなるのか分かったものではない。
黒猫婦人はカゴのなかで静かにしていた。
黒猫は朱鷺島を見てここまで来たが、出してくる気配が無い。また探し始めるが、匂いがしない。朱鷺島の部屋以外では出したことが無いからだ。またもとの部屋の前に来て爪を立てようとしたので、朱鷺島は扉が傷をつける前に猫を抱き上げた。
「わ!!」
と思ったら引っかかれて黒猫は三階から一階へ駆け下り、玄関から出て行って塀を駆け上って木伝いに隣の屋敷の庭に降り立った。
朱鷺島はがっくりうなだれ、猫は出て行ったらしいので玄関の扉を締めた。
それで、夕方になって食事をしようとダイニングの窓から見ると、明かりが伸びる範囲のブルーシートの上を、黒猫が跳んでいた。バッタをつかまえようと跳ねているのだった。
ブルーシートから煉瓦路へ、そこから草地へと。
第四章 別荘群の人々
翌日、朱鷺島はまず、サヤカの屋敷へ挨拶へ向かった。その後は隣、その次にはサヤカの家の前の屋敷へ挨拶へ向かう予定だ。
サヤカの家の屋敷は、和洋折衷な感じの屋敷で造りも面白い。ベルを鳴らすと、ドアが開けられた。
「はい。どちら様でございましょうか」
メイド服の女性が現われ、眼帯を嵌めた青年を見た。
「僕は向こうの屋敷に越してきた朱鷺島と申します。お家の方はいらっしゃいますか。挨拶へ上がりました」
「朱鷺島様。少々お待ちください」
まるで機械のようにメイドがきびすを返し、歩いていく。すると、サヤカが階段から降りてきて笑顔になった。
「おはよう!」
「おはよう。昨日はたくさん川で遊んだか?」
「うん! メダカがいっぱいいたの!」
「そうか」
サヤカがここまで来て、奥から両親だと思われる男性と昨日会釈を交わした女性がやってきた。
「やあこんにちは。君の話はサヤカから聞いたよ。朱鷺島くんだね。私は風森(かざもり)だ」
「風森さん。挨拶が遅れて申し訳ないです。これからよろしくお願いします」
「昨日はまともに挨拶もできなくて申し訳なかったわね」
「こちらこそ、バイクの上からで失礼いたしました。あの、こちらよろしかったら」
あいさつ回りの菓子折りを出し、彼らは受け取った。
「まあまあ、ご親切に。屋敷には慣れてきましたかな」
「まだいろいろと立て込んでいますが、だんだんと」
「そうね。あの屋敷はお庭もまっ平だから、サヤカがいつも報告してくるのよ。まるで自由研究みたいに」
風森夫婦も人の良さそうな雰囲気で良かったと朱鷺島は安心した。
「いつもサヤカさんから声を掛けてもらっていて、こちらも元気をもらっているので早く挨拶に伺わなければと思っていました」
「この子なにかご迷惑かけてはいない?」
「とんでもない。いろいろ教えてくれて優しいお子さんです」
「うふふー!」
サヤカは照れてそのまま階段を駆け上がっていった。
「今長女は家庭教師が来ているので、また後で挨拶の機会があったら紹介しますわね」
「こちらも突然おうかがいしてしまって申し訳ないです」
「いいのよ。ここはまた人里離れていて始めは大変だと思うけれど、頑張ってね」
「はい。どうもありがとうございます」
挨拶を交わすと、朱鷺島は風森邸を後にした。
「またねー!」
外から二階の窓を見上げるとサヤカが手を振っていて、朱鷺島は微笑んで手を振った。
その風森屋敷と朱鷺島屋敷の間の屋敷の門を潜って行った。木が密集しており、玄関からだと屋敷の全容は掴めなかった。楕円の形のエントランスに来ると、鉄のノックを掴んで叩いた。
しばらくノックをする。気配は感じられずに、木々を見回す。玄関はそのことで影になっていた。
「はい」
朱鷺島は開けられた扉を見た。そこには驚くような美女が立っており、どこか悲しげな、愁いを帯びた瞳で静かに朱鷺島を見つめた。
「あ……の」
朱鷺島はしばらく言葉を失い、ただただ見つめてしまっていた。
屋内からは、楽器の奏でられる音がしている。レコードか、誰かが奏でているようだ。
「僕は隣の屋敷へ越してきた朱鷺島と申します。引越しのご挨拶が遅れてしまい申しわけない」
「いいえ。こちらこそ、お伺いもしませんで」
はらりという様に彼女がこうべを垂れ、そして潤んだ瞳を挙げた。
「何かご不便はございません」
「いいえ、大丈夫です。こちらこそ、連日うるさくは無いですか」
「大丈夫。この屋敷は防音設備が整っておりますので」
今にも夏の日差しにでも当てられたらどこかに紛れてしまうのではないかというような女性で、その奥からカツカツカツという音が響いた。
「お客様……?」
颯爽と女の子が現われ、怪訝そうな顔で青年を見た。楽器が止んだので、この子が奏でていたのだろう。
「お隣へ越してこられた朱鷺島さんよ」
「え、」
その女の子はぎくりとしたように顔色を変え、口を閉ざして怪訝な顔で朱鷺島を見た。
「隣の屋敷にって……本当に? 信じられない」
腕を抱えてその女の子が言い、また口を閉ざして顔を背けた。
「まあ、そう言うものじゃないわ。ね……。せっかくお隣さんが出来たのだもの」
朱鷺島ははにかみ、菓子折りを出しだした。
「よろしかったらこちらをお納めください」
「まあ、どうもありがとうございます。まだまだ不慣れでしょうから、いろいろとお気をつけになって」
女性が朱鷺島を見上げ、その瞳に吸い込まれそうになった。女の子はここまで来ると、朱鷺島を引っ張って外に出た。
「えっと」
「一緒に来て」
どんどん手を引いて歩いていき、そして門の前まで来た。
「本当だわ」
女の子は面食らった顔をして、口をぽかんと開けた。あの何も無い庭がなにかいろいろ工事されているようで、いろいろと運び込まれていた。
「何、何か立てるの……?」
怪訝な顔で見上げてきて、朱鷺島は先ほどから彼女が不安そうにしているのだろう、やけに落ち着き無くいるので言った。
「たくさん薔薇を植えようと思ってね。準備をしているんだ」
「薔薇?」
女の子の顔から剣が消え、ただただ視線を落として相槌を打った。
「そうなんだ……。それなら良かった」
そう呟き、踵を返した。
「あたし、月宮家の三女の月宮花夏琉(つきみや かげる)。さっきの人は一番上の姉さんの雅智香(まさちか)。もう一人イギリス留学に行ってる真ん中の姉さんの響子がいるけど、今はあたしと雅知香姉さんの二人暮らしよ」
はきはきした子で、手をさっと差し伸べてきた。握手を交わす。
「なんで眼帯嵌めてるの?」
「ちょっとね……」
「まあ、聞くのも失礼よね。ごめんなさい」
「いいや。気にしないで」
「みゃー」
可愛い鳴き声で木の上を見ると、あの黒猫だった。月宮屋敷の塀の上から木々が見えているのだ。
「いらっしゃいよ。ミルクあげる」
黒猫が降りてきて、花夏琉について行く。肩越しに一度朱鷺島を見た。顔をそらし、歩いて行った。女の子が好きな猫なのだろうか。三毛猫もただいたい雌だし、サヤカも女の子だし、黒猫婦人に昨日はモーションをかけまくっていた。ロミャオ並に既にバルコニーにまで這い登ってきて。逞しすぎて人間にでも化けてもらって薔薇庭園つくりを手伝ってもらいたいぐらい。
「それじゃあ、またね」
ふ、と思わず妖艶に花夏琉が微笑し、扉を締めて行った。確実に年下の子だろうに、大人びた子だ。
朱鷺島はもうひとつの屋敷へ歩いていく。風森邸の前で、三上邸の隣だ。三上邸へはもっと早い段階で引越し挨拶は持って行った。
門の前に立つと、極自然体な庭が見える。長い私道の奥に平屋建ての白いモダンな屋敷があった。門を越え歩いていくと、庭には小さな四角い別館もある。アプローチを歩いていくと、玄関に来てチャイムを押した。
「はい」
明朗な声が聞こえ、女性がドアを開けた。
「まあ。こんにちは」
「はじめまして。この先の屋敷へ越して来ました、朱鷺島と申します。引越しの挨拶へ参りました」
菓子折りを渡す。
「これはご親切にありがとう存じます」
「こちらこそまだ右も左も分かりませんが、宜しくお願い致します」
「越したとは、あの屋敷へかい」
奥から声の通る男が歩いてきてここまで来た。
「宇治木(うじき)だ」
彼は手を差し出し、握手を交わした。
「お見知りおきを。君も物好きなものだね。あの屋敷に越してこようなんて、まだ子供ほどの若さだろうに。独り身かい」
「はい。屋敷で探偵事務所を開こうと思っていますので」
「探偵事務所?」
奥方が弓なりの眉を上げて主と顔を見合わせ、そして朱鷺島を見た。
「変わったご職業だわね」
「ええ。みなさまのご迷惑にならないよう努めますので」
「ええ。そう、変わったお方。何かあったら、何でも言って頂戴」
「はい。どうもありがとうございます」
「いいのよ」
奥方が唇を引き上げ微笑み、宇治木が彼女の肩に腕を回した。
「彼女はハープ奏者でね。また聴きたくなったらいつでも来ると良い。連絡をくれればいつでも聴かせよう」
「ハープを。それは素敵ですね。ぜひとも次回」
「ああ。楽しみにしているよ」
朱鷺島は会釈をし、「それではまた。失礼いたします」と言い屋敷を去って行った。
まとめると、三上夫妻は二人暮らしで三毛猫を飼っていて、風森一家は両親と小学生の姉妹の四人暮らし、月宮家は十代後半から二十代前半の三姉妹だが今は二人暮らしで楽器を奏でていて、宇治木夫妻も二人暮らしで奥方がハープ奏者。だれも良い人そうで良かったものだ。
屋敷へ戻ると、日本式の堅苦しい挨拶に多少喉が乾いて水にスライスレモンを入れて飲んだ。父親の秘書が用意してくれた引越し挨拶の菓子折りを持って昨日は挨拶の日本語を何度も部屋で練習していたのだった。その壁には外壁に黒猫が引っ付いていたのだが。
第五章 庭造りと朱鷺島
薔薇の植え付けは秋の涼しくなった時期から二月までが適切だ。何故なら植物がびっくりして仕舞わないように植物の冬眠している冬に移動して冬に植えられる。樹木の剪定も冬場が本番だ。植物や根の活発な初夏から夏にかけての移植は植物が移動にストレスを感じてしまうので避けられているが、園芸家の一部には根から水をどんどん吸いやすい夏の時期に移動して根をはびこらせていいと考える人もいるようだ。花の咲く園芸樹木の場合は花が散った次のシーズンに刈り込むのだが。そうすることで新しい花芽が去年と同じ場所に生える。放っておくとどんどん大きくなるが、基本的には種類によっては幹が高くなっていくものだ。その場合は新しい葉枝の上を切り戻して低く育てなおすこともある。種類によっては葉がなくなると枯れてしまう種類もあるので注意し慎重にやらなければならない。
この森林地帯は夏でも涼しく、日差しは強いが風は爽やかなので、庭園の下地工事と土作りが終わった辺りには丁度植え付けが出来そうなので、雪が降る前に早めに済ませたい。夏場は頻繁に水遣りをしなければならないので芝はこの時期は植えられない。やはり秋からが望ましいのだが、朱鷺島はほとんど屋敷にいるので水遣りは出来る。この辺りは涼しいので、他の地域とは違い、真昼間を避ければ水温が上がりすぎて植物を傷めるなんてこともせずに水を撒けるだろう。逆に冬場は朝や晩に水をやると凍ってしまうので昼にやるのが望ましいのだが、このあたりは雪が降る。薔薇も冬は伸びた蔦なども短く剪定して藁などを敷いて雪の重さに負けたり凍てついてしまわないように茎に筵を覆い被せる必要がある。
芝の化成肥料と芝を固定する竹の杭も用意してある。芝にする予定の場所の土をぐるりと均した上にブルーシートを敷こうと思ったが、あたりを見回した。黒猫はどうやら出かけているらしく、何時に帰ってきて食事は外でして来るのかは不明だ。なぜこんな黒猫の彼女のようなことを考えているのだろうかと思ってブルーシートを敷いた。
あとはハーブなど自然の植物を植える場所は土を肥やした。
黒猫婦人がカーテンの向こうから現われ、かりかりと窓を鳴らしている。三階に黒猫が来たので、部屋を移動してある。辺りを見回しているので、黒猫を探しているようだ。昨日黒猫婦人の目を見たら、何度か黒猫は庭に現われていたし、初めのセッションで近付かれたときは雄猫に驚いていた。
塀の端に三本ほど欅か白樺か、明るい葉の樹木を植えたいとは思っているのだが、落ち葉の季節は掃除が大変になるが葉も肥料を作れる。もしも植えることになるならば、場所を屋敷の道路から向かって左側の草原側にすることにした。木に登っての剪定もお手の物だが樹木の消毒までは大変だから、病気にかからない樹木を選ぼうか。何故ここまでいろいろできるのかは、元々が夢見士と夢食いの出来る師匠の小屋のある周囲が樹木に囲まれた場所で、彼に教えてもらったりしてきたからだ。
「秋なら森に行けば植物の種があって植えて育てられるかもしれないが、夏の今の時期だからな」
樹木を運んでもらうとなると、五十センチぐらいの枝だけの薔薇苗とは異なり、成木がそのまま大型トラックで運ばれてくるので、庭の地面に樹木の根っこが麻布でまとめられた大きさより深さをどれほどか取った大きさのスコップで図って穴を掘って肥料を土に混ぜておけば、水をまいてそこに木を移植して土を被せて突き棒で突きながら奥まで水を与えれば良いのだ。
それにしてもいろいろな園芸や造園道具が揃っていて助かった。もともとこの屋敷は素敵な庭を有していたのではないだろうか。
猫がマーキングをしないようになるまで土と肥料は袋に詰めておきたいが、肥料は土に混ぜておいてもいいのかもしれない。
このあたりは平均的にも涼しい場所だが、あと半月ぐらいすれば薔薇は植え付けをしても大丈夫なのではないだろうか。それにあわせて土作りをしておく必要がある。
アーチと柵の土台の石膏部分は表面が固まったので、しばらくアルカリ性を気化させるために土は被せないでおく。酸性肥料を使う手もあるのかもしれないのだが。枠に柵を取り付けていって、そうするとただの資材置き場のような雰囲気も少しは変わった。木立はまだ植えるか未定なので、植える予定の庭端は土を肥やしてあるだけ。
アーチも立ち、薔薇用の柵が適所に区分し、煉瓦路もメジャーと図式でうねらせたし、あとは薔薇苗と芝を植え置き石プレートを盛り土の上と周辺に配置すれば……。
「………」
盛り土は植物を植えないのでブルーシートを敷かなかったが、見てみると盛大に抉れている。どうやら暴れまわったようだ。もしかしたら、あのネズミのぬいぐるみを探したのだろうか? 盛大に抉れている。イノシシは入ったなんてことは無いだろうし、山芋も百合根も埋まっていないから猫かもしれない。糞は最近はしていないし、盛り土に紛れてもいなかったのでまた整えてからシートを被せておいた。
注文してある石のプレートも彫刻が完成しているころだろう。セッションとヒーリングをするための石台で、その上に向かい合わせに座り精神を集中させるのだ。
本来思い出すべき忘れられた辛い記憶を透視で探ることで謎を解明する。それが朱鷺島の仕事だった。
第六章 屋敷の記憶
朱鷺島は書斎として使われていた部屋の本棚に並ぶ洋書を読んでいた。以前の住人が何者かは不明だが、興味深い文献が多い。日本語のものが見当たらない。
ベンチソファに寝そべりクッションに置いて読んでいると、朱鷺島が気付かないうちに白人の男が颯爽とやって来て、書類を書斎机に置き座ると、羽ペンで執筆を始めた。年の頃は四十代も前半、すっきりブロンドを後ろに流した上品な男で、金の睫毛から覗く青い目で書類に目を通し、こめかみ上に当てる手には結婚指輪の黒い石が一粒光っている。
『お父様』
白人の男の子が入ってきて、抱えている何かを見せた。それはシマウマのぬいぐるみを着た木馬だった。
『お隣のお姉さんたちが僕にくれたの』
『そうか。なかなか可愛いじゃないか』
男は微笑み、男の子はうれしそうに頷いた。うるさくしないようにそれに跨って遊び始めた。
『ママは帰ってきたのかい?』
『ううん』
『そうか』
『うん』
しばらく遊んでから、扉から声がした。
『アルバート坊ちゃん』
『呼ばれているぞ』
男の子アルバートは再び木馬を抱えて出て行った。
執事が旦那様の部屋から出てきて、慌てて子供部屋へ連れて行った。いつ、旦那様のもう一つの顔が現れるか分かったものではないからだ……。
男、セルゲイ・バーマーは羽ペンを置き、窓際へ行き黒字に金唐草の厚いカーテンを避け、窓から外を見る。暗澹とした灰色の空に暗雲が立ち込めている。この辺りは五年に一度夏場に冷たい大雨が降る。丘もその浅い谷に水を流れさせ、丘の路も川のようになるらしい。この辺りは林が多少高い場所にあるので浸水することはない。そして翌朝に明けて林の別荘群から丘を見渡すと、浅い谷に水がたまって太陽の日を受けきらきらとして大空を映し、一面が無数にある緑の丘を水に浮かばせる見事な景色になる。
だが、その気配はまだ一切感じられない嵐前の暗い情景が窓の外には広がる。
所々、白い雲の所は明るく暗い雲のところは黒い。それが爬虫類のうろこのごとく空を疎(まば)ら模様に広がっている。地平線の何処までも、上層の雲と、遠くと明るい空と、遥か地平線の黒い森林までを三層となってずっと続いている。
幾つが白い線が走り、雨が降り始め庭を見下ろす。この天候では灰色の暗い庭。あの大量のクチナシの花も白く浮かぶのは霧の先のように思え、黒々とする葉は雨を受け始める。薔薇は赤黒く、まるで血に濡れるようである。庭のセンターに、大きな石の十字架が立っている。灰色の石はどんどん雨を吸い込んで行き、黒くしていく。鋭い茨が囲い、台への石段には壊れた人形、瞳は、こちらを見ていた。
『………』
目元が別人のように変わっていた。瞳孔が閉ざされ、硬い無表情の頬に雷で光った空を反射する窓に吹き付ける雨の雫がバーマーの白い頬に、目に雫の透明な影と光りを映す。
暗い門は開けられ、黒いショートレースグローブの手には金の鍵。黒いトレンチコートの女が入って着た。片手をポケットに入れたまま門を越え、金髪は打たれる雨でなだらかな白い首筋にまとわりつき、赤いルージュは動かずサングラスの目もうかがえず、黒のハイヒールで踵を返し、門の鍵を下ろしてから向き直り、颯爽と美しくすらりとした脚で歩いていく。交差する、今、闇、今、稲光、そして___。
立ちくらみがし、しばらく静かに窓に頭をつけ目を閉じていた。
『あなた。今、帰りました』
ハッとバーマーは目を開け振り返り、美しい妻を見た。髪は既に乾いており、白ビロードの上下を着てVにあわせた胸元に小粒のルビーが光っている。
『お帰り』
先ほどの嫌な感覚を振り払うように、そっと引き寄せて離した。
妻はまるで高弁咲きの大振りの赤黒い薔薇のようにも、そして気高い白の薔薇のようにもなる。水色の瞳は真っ直ぐとバーマーを捉える。
『そろそろ、下へ行こう』
促し書斎から出て、廊下を歩く。アルバートは部屋で勉強をつけてもらっており、メイドは食事の準備をしている。
バーマーの出て行った書斎には、ベンチソファにそのまま眠った朱鷺島がいて、すうっと目を開けた。
「……?」
誰もいない筈なのに、そこには誰かがいたような空気感があって、洋書を手にしたまましばらくは空虚を見つめていた。
洋書を戻し、横の自室に戻った朱鷺島の歩いてきた姿が大きな姿鏡にも、横顔が楕円の大きな壁鏡にも映る。
ピカッと、空が光って鏡も光った気がした。鏡の中の朱鷺島は窓をふと見て、幻影かと思った。
「……、」
またズキッと頭痛がきて、米神に指を当てた。すぐ収まり、窓の青い空を見る。ただ、青い空。雷なども雲も気配は無い。
その背後から、バーマーと妻が来て寝台に倒れ、バーマーが手を掛けていた。首に。妻は人の変わった鋭い目に歯を剥くバーマーを見たまま、だらりと手が落ちた。
朱鷺島は窓から振り返り、寝台に置かれた門の鍵を持ち颯爽と部屋を出て行った。
バーマーは顎の汗を拭い生気の無い妻を見た。ゴロゴロゴロ、ピシャンッ___激しい雷鳴とともに、ビカッと天が光って一瞬室内を一層暗くする。
『カルミラ……、おい』
我に返ったバーマーは、目の前の光景に目を見開き妻を見た。
バーマーは窓の外を見たまま、しだいに頭を抱えうずくまって叫んだ。
『うあああああ!!!』
執事が扉を開け、驚いて駆けつけた。
『旦那様!! 奥様!』
だが、執事が見たときには奥方は動かなく、床に頭を押し付け叫んでいる旦那様だけだった。そのまま、ふらりと背後に倒れて行った。
バーマーは妻の部屋に置かれた白い棺の彼女を微笑し見つめ頬を手の甲で撫でていた。クチナシが眠る妻の周りに敷き詰められ、濃密に薫っている。そして硝子の蓋をし、スイッチを押した。すると、冷却装置からチューブ越しに冷気が送られ、妻が冷えていく。くちなしの花びらも、全て。
今のバーマーは普段の彼ではない。元のバーマーが悲観に暮れ棺を用意し収めたようだが、美しい。
ひんやりする硝子面に唇を寄せ妻の部屋から出て鍵を掛け歩いて行った。
二階のパーティー会場に戻ると、客室にもダンスホールにも人が行き来する。一階のシガールームから上がってきた者もダンスホールへ加わった。
『カルミラ夫人はどうされて? 最近、お見かけいたしませんが』
この宴には、バーマーの友人や部下、取引会社のほかに、この別荘地のほかの四人の主や夫婦も呼んでいる。
『ちょっと調子を悪くしていましてね』
『それは大変ですわね』
『ご心配なく。季節的なものです』
ワインを傾け、鏡をふと見る。
『………』
光りが溢れるホール。開け放たれて、クラシック演奏の音が漏れ、嬌声や談笑が行き交い……。
ふっとバーマーの意識が戻り、三上夫妻を見る。
朱鷺島がホールに颯爽と扉を開け歩いていき、昨日台車で運んだ楕円の鏡にくわえて、今度はアームチェアを使わない部屋に運んで行った。調度品などもリビングや自室などに移して飾って行く。一人では運べない台やキャビネットなどは業者がこの空間のセンターにも石のプレートを運んできてくれたときに他の部屋に移してもらうことにした。大きなシャンデリアもこのヒーリングの空間には合わないので、玄関の黒いシャンデリアと変えて一つにし、この金のシャンデリアを玄関と、あと一つは他の部屋のものと代えることにした。それも業者がきたときにやってもらうことにする。カーテンもレースの無地のシンプルなものにしたいが、外してもいいかもしれない。窓から林が一望できるのが美しい。
朱鷺島は移動できるものを移動すると、黒猫婦人のいる部屋に来て、トイレを綺麗にした。昼は餌は与えない。自分もキッチンへ降りて昼食にすることにする。
黒猫婦人が今日いるのはアルバートの使っていた子供部屋だった。林側なので、猫は見えない。ベッドで丸まって過していた。今の所は朱鷺島がいろいろ忙しくあれやこれやしているので、ほぼ昼間は一人でのんびり過し、夜は共に眠っている。
「あ!! こら!!」
ドアから朱鷺島の声が響き、どだだだだという音も聞こえる。
「待て!!」
あの雄猫がまた入ったようだ。
「捕まえた!!」
朱鷺島は床に覆いかぶさるように黒猫を抱きしめて、その真横をアルバートが走って行った。アルバートは笑顔で部屋を開け入ってきて、その手にはクレヨンと画用紙を持っていた。
ニコニコと楕円のペルシャ絨毯の床に画用紙を置き、パパと、ママと、お隣の三人のお姉さんと、自分を描いた。緑の丘の上の絵で、ちょうちょも飛んでいる。太陽もあった。
『あ、忘れてた!』
執事も描いて笑顔で掲げて見る。それを描いたら、眠くなってベッドに上がって丸まって眠った。ベッドには笑顔の皆が丘で笑っている。
朱鷺島は黒猫がネズミのぬいぐるみを見つけ出しくわえてごろついている姿をようやく見つけた。大きな階段下のあまり見えないところにいた。
最近マーキングをされた匂いもなくなってきた。
その階段上から、執事の声がする。二人の足音と共に。
『旦那様、お願いです。病院へ行ってください』
『何故だ』
『どうか、一度診てもらいましょう』
しかしバーマーは聞かず、腕にジャケットを掛け車のキーを持って玄関から出て行った。
朱鷺島は猫を見て、頭をかいて溜息をついた。黒猫はめろめろになり、ごろごろしている。
クチナシの庭。夏に居残る黒赤い薔薇がその庭を囲っている。そして、センターの十字架の建つ台は今の時期は花も無い茨が囲い、執事の乱れた足で壊れた人形がどこかへ落ちた。バーマーは既に目が変わっており、執事を十字架へくくりつける。ガソリンを巻き、ジッポーが落ちた途端にごうっと空気が音を立てた。
妻の部屋でアルバートは窓から目を見開き見ていた。窓からガタガタと震え離れ、白い棺にしがみついて目をぎゅっと閉じた。
バーマーは揺らめく炎を見上げていた目が、ふっと戻り、目を見開いて後退りした。炎に包まれた場所、何故こんなことに。バーマーは叫ぶメイドの声を聞いてハッとしてアルバートと妻のいる三階へ駆け上がって行った。何故だ。何故こんなことに。もう一人のあの悪魔が、こんな所業をしたのか。何故こんなことを。
アルバートの部屋に駆けつけるが見当たらない。妻の部屋を開けると、アルバートは棺にしがみついていた。壊れた幸せ、今までの全てが、庭から上がる炎に壊れていく。あの悪魔がバーマーから奪っていく、これ以上は、駄目だ。
バーマーはふらつき、頭を押さえて目を強く閉じ、そして開いて壁に飾られた剣を手にした。悪魔は絶たなければならない。
バーマーがうなってうずくまり倒れると、アルバートが叫んで泣き始めた。
『アルバートくん!』
ドアがばんっと開き、隣の屋敷の少女が現れた。
庭は炎が埋め尽くし、十字架が燃えていく。まるで悪魔の舌が空を舐めるかのようである。
朱鷺島は業者に庭のセンターの盛り土の上に白石のプレートを置いてもらった。しっかりと水平に保つように上から押されハンマーで叩き調節され、周りに置いた白石ブロックと共に石膏で固める。
朱鷺島はしかりされたレリーフに頷き微笑み、クリスタルとティンシャを取り出した。クリスタルを鳴らし、ティンシャを鳴らす。空気の浄化を促す。
トラックから薔薇苗と巻かれた芝が運び込まれてきて、庭の端に並べられる。二階にも石の台とプレートが運ばれるので、そちらも案内した。
その階段に、アルバートを抱きかかえた少女と、血を流すバーマーを肩に担いだ前の屋敷の青年が駆け下りて行った。
朱鷺島はホールのセンターに石をセットしてもらい、キャビネットや台、カーテンを下ろし他の部屋に移動させてもらい、カーテンも畳むと重くて凄いボリュームになるので、それはビニールに包んで地下倉庫に持って行った。
業者は屋敷から出てアプローチを歩いていきトラックの所へ歩いていく。
そこには既に息の無いバーマーが倒れ、消防車や救急車が警察と共に駆けつけていた。
朱鷺島はトラックを見送り、手を振った。
救急車の向こう側で、救急車に乗せられたアルバートを助けた響子が姉妹に泣きつき、先程の三上家の青年はただただ呆然と屋敷を見上げ、三上が肩を抱き共に呆けて見上げていた。
朱鷺島は屋敷に戻り、門を閉ざした。
これから土を作ってブルーシートを被せてあったので、薔薇の苗のある方へ歩いて行った。シャベルを持って、各所に穴をあけた肥料土の場所に種類を確認しながら薔薇苗を置いていく。まだ植えない。鉢のまましばらくは環境に慣れさせるのだ。芝の部分はブルーシートを畳んでいき、芝を敷いていってから竹杭で留めていき、目地土を芝の上と芝の隙間に被せていき、芝の緑が見えるぐらいまで砂をレーキで均して行き、化成肥料を撒いてから水を撒いていった。土より砂のほうが芝などの根が隙間にどんどん伸びていきやすいのだ。その背後で黒猫がやってきて、薔薇の苗をくんくん嗅いだりして耳をぴくぴくさせている。
朱鷺島が振り返ると、バッと去っていって物陰に隠れた。他のブルーシートも畳んで行き、薔薇の鉢にも水をあげていく。道具を片付けて行った。
朱鷺島は今の所の庭を見回し、うんうん頷いてショートの黒髪を掻き上げた。
「なんとか薔薇庭園の形になったな。あとは茎や蔓が伸びて、薔薇の季節の管理だ」
苗も年々大きくなっていくし、その他のシーズンの管理もあるので、今から花の季節も心待ちにしながら一つ一つの薔薇苗を見回って微笑んで声を掛けていく。黒猫が現れ、庭を見回している。薔薇の苗はどれも枝もまだ四十センチ前後と短く剪定された状態で葉も生えていない状態である。黒猫は庭のそこかしこを歩いて確認しており、立ち止まった。ハーブの種を今度は朱鷺島が土のむき出しスペースに植えている背がある。黒猫はサッと近付き、無言で背後から見た。朱鷺島は如雨露で水を撒き、黒猫に驚いて「おお、」と言った。
黒猫は悠然と歩いていき、塀を駆け上がって隣の月宮屋敷の木の枝に飛び乗って姿が葉で隠れて行った。
猫が土を掘り返したり、またマーキングをしないことを祈るほか無かった。
黒猫用に残しておいた草地のスペースはまた掘り返されていた。大丈夫なのかもしれない。
第七章 二人目の依頼者
朱鷺島が鉢の薔薇や芝に水遣りをしていると、黒猫が現れてじっと見て来た。
「………」
別段なにもしてくるわけでも無く、ただ遠くから見ている。もしかして、薔薇を植えたことで棘が生えているので、警戒してしまったのだろうか。
「大丈夫だ。棘に近付かないように注意はしてな」
黒猫は人間が何か言っていて人間言葉は分からないので歩いて行った。草地のところに行って、餌じゃ無いところに寝転がって朱鷺島のしていることをずっと見ていた。さっき、土がむき出しになっていたところには、その周りだけ猫が入らないように網で囲ってあったから、何かご丁寧に自分用の猫トイレでも作るぐらいはしたのかと思ったが、どうやら違うようで不貞腐れていた。まあ、林で糞をしてるからいいのだが。あまり他の動物が来るところに糞をするととやかく面倒なので、目立たないところを見つけてある。
朱鷺島はハーブの埋まっているところにも水撒きを終えてから、草地で寝転がっている猫を見て微笑んだ。猫は無視して伸びをしてごろついた。
屋敷を見上げるが、あの雌猫は見えない。どこに隠れているのだろうか。分からなかった。
朱鷺島は水撒きを終えると、今日もクリスタルとティンシャを取り出し、それを鳴らした。美しい音が空気に染むようだ。そして植物に声を掛けていく。
黒猫はその音に耳をぴくぴくさせて朱鷺島を見て、ごろんと心地良さそうに目を閉じた。
朱鷺島は屋敷へ引いていった。これから朝食だ。凡(おおよ)そ屋敷ではもうすることは無いので、あとは薔薇を二週間ほどしたら土に植え替えればいい。
その頃、山々を越えて大型バイクが走っていた。それは黒のゼファーで、その黒い車体に緑の木々が映りながら走っている。黒のヘルメットにもそれらがまるで絵付けされたように映っている。森に差し掛かって、ただただ一本道を走らせて行く。山を越えた辺りから更に気温が涼しく頬を冷たい風が切るようだ。森の先から、緑の広大な野原が見えてきた。それはいくつも小さな丘が連なっている丘で、太陽の陽を浴びている。
丘に来て路を走らせると、その先に林が見えてくるので、一度停めてからバイクから降りた。丘を見渡すと、野うさぎが向こうで跳ねている。きっとどこかに狐やモグラもいそうだった。
しばらく、思い切り伸びをして空気を吸い込んだ。
ゴーグルを外し、直に見渡す。話ではあの丘の林に事務所があるというか、えらい時間がかかった。相手は変わり者の探偵なのだろうか。しかし、この見事な大自然を目の前にしていると、とても心地が良いのは確かだ。
再びバイクに乗り込み、走らせて行く。林が近付くと屋敷が見えてきた。どこも巨大な屋敷だった。屋敷の裏手に駐車場があるという話は聞いていたので、左手前の洋館の背後への路を走らせる。すると、降りて行った先にはイタリア車のマセラーティと、それにロイヤルエンフィールドがあった。どちらもクールで、渋い。バイク好きなので、しばらく見回してしまっていた。
ゴーグルを上げ、ヘルメットをハンドルに掛けてからキーを仕舞い歩いて行った。駐車場を出て塀沿いを歩く。
門の前に来ると、すぐそこに黒猫がいた。しかも綺麗なオッドアイで、長い毛並みも綺麗だった。探偵のペットだろうか。
門を開けると、黒猫はダッと去って行った。
庭を見ると、剪定された薔薇が植えられている。そのセンターに白い台があった。
それを見ながらアプローチを歩き、段を上がって扉を見回した。呼び鈴を鳴らしても、何の音もしなかった。壊れているんじゃないだろうか。
黒猫は戻ってきて、アーチの向こうから黒い皮ジャンの男を見た。男は扉を仕方なく叩いた。
朱鷺島は三階の窓から見て、すぐに一階へ来た。すっかり忘れていた。ノックも呼び鈴も用意していない。この屋敷の呼び鈴は壊れているのか、配線が違えているのか鳴らないのだった。何か考えなければと思いながらも扉を開ける。
「はい」
そこには、一人の男が立っていた。年の頃は二十代も後半だろうか。ロードライダーの格好をしている。
男はチャコールグレーのシルクの詰襟シャツに黒パンツの眼帯青年、朱鷺島を見て、口を開いた。
「あんたが透視探偵か」
「はい。いかにも。ご依頼の方ですね」
朱鷺島は彼を向かえ招きいれた。庭は完成していないので、昼前までに二階の一室を相談所にするために窓をしばらく開け放っておいたのを促した。小さな扉に隔たれた向こうにはベッドルームがあるが、二階の三室とも同じつくりなので、どうやら客間として使用されていたらしい。
男は促されたソファに座り、レースカーテンが風にそよぎ、昼下がりの陽が差し込む空間を見た。
朱鷺島はコーヒーをサーバーで淹れ、バウンドケーキと共に出した。
「遠路遥々お越しいただいてありがとうございます。道中は大変ではなかったですか」
「まあ、遠くはあったかな。ツーリングは好きだから心地良いものだった」
男は肩をすくめた。
「それは良かったです。私は朱鷺島と申します。ご依頼を伺います」
「俺は浪野(なみの)ショウ」
男は自己紹介し、相談を始めた。
「俺は普段、酒飲み場を経営してるんだが、そこの常連にバックパッカーや岩登りが趣味の男がいる。そいつと二、三回旅や登山をしたことがあったんだが、夏辺りに来たときに珍しく酷く飲んで行ったことがあったんだ。今までそんなこと無かったんだがな。一緒に飲もうってことで店ももう閉めたんでいろいろ話し込んで俺もしこたま飲んで、久しぶりにおぼろげで記憶もほぼなくすほどだった。翌日、起きたのが昼ごとだったんだが、置手紙残してそいつは店を出ていた」
浪野はポケットからそれを出した。それはスーパーのレシートの裏に書かれたものだ。朱鷺島が呟くように読む。
「『相談にのってもらえて良かった。これからも元気で。藍田 司(あいだつかさ)』」
裏側のセロテープがはがれたのは何かを聞くと、飲み代が貼り付けてあったものだという。
「それでからそいつが現れなくなって、最近胸騒ぎがしてな。飲まずにいられるかって思いつめた様子だったし、俺は相談内容なんて酒で記憶飛ばしてて覚えてなんかいない。普段俺もあいつもそこまで深酒する性質じゃないわけだしな」
「行方不明ということですね」
「ああ。警察に届け出るかは迷ってここまできた。俺は家族じゃないし、どこに旅に出るかも毎回分からない。あいつの飲み仲間はそんな話も何も聞いてもいないと言う」
「いつごろのお話ですか」
「夏ごろだから、一ヶ月ほど前になる」
「それでは、あなたが酒で無くした記憶に真相があるはずで、それを透視してもらいたいということですね」
「ああ。お願いする」
「わかりました。それでは移動を」
朱鷺島が廊下を出て向かえの部屋のドアへ促した。がらんどうに石の台があり、その上にクリスタルやティンシャや香油、天然石などが置かれている。奥の壁窓に、木々が立ち並んでいる。あとしばらくすれば山も森も紅葉をし始めることだろうと思われる。林は針葉樹林と広葉樹が混合している。
「なんだか、まじないみたいだな」
「あくまでこれらは精神集中のためのものです。突然呪文など唱えて水柱が飛び出て虹が広がるなんてこともありませんから、ご心配なく。さあ、お座りください」
「ああ」
浪野が迎え合わせに座ると、朱鷺島は香油を灯し、頭のすっきりする薫りが漂った。精神安静を促すクリスタルを鳴らすと、眼帯を外し浪野の目を見た。浪野は黒目と白水色の目を見て、綺麗だと思った。瞬きもしないまま、自分の目を見てくる。
「酒屋で共に飲んだあの日を思い出せばいいんだな」
「はい」
朱鷺島は静かな声で言い、男もだた黒と白水色の目を見る。
朱鷺島は洋風の暗い感じの酒屋風景に包まれ、ドイツビールのラベルが印字されたグラスを拭いている情景に繋がった。鼻からはウィンナーを焼いたのだろう香ばしい薫り。カウンター越しのドアがガラガラとベルの音を立てて開き、真っ黒に焼けた男は白い歯を見せ笑い入って来た。
『よう、マスター』
『司。随分今回の旅は早く帰って来たな。いつもは短くても二週間以上は行ってるが』
『ああ。ちょっとな』
時間はもう深夜も三時。客数は五人で、店内の音楽に乗ったり、会話をしたり各々が過している。
男、司は浪野と同年代で、白いヘンリーTシャツの腕っ節も整い、岩を腕で支え登るのにも使われる体格をしていた。いつもは笑顔で旅話を浪野に聞かせるが、今日はいつものビールとウィンナーに加え、普段は飲まないバーボンを注文してすぐにボトルを開けてしまった。客は酒に良い気分で帰っていったり、奥の方でしんみり話し合ったりして二人残っていた。
『おいおい。いくら元が強いからって、いつもと違う飲み方なんかするもんじゃないだろう』
『ああ……』
司がまたボトル毎オーダーするのを浪野が言うが、それでもオーダーしてきた。
『なんだ。何かあったなら聞くぜ』
二人の客も仲良く寄り添いながら帰っていき、その頃には四時になっていた。浪野は店を締め、『マスターも一緒に飲もう』というので付き合ってやることにした。彼ははじめはビールだけを飲んでいた。
取り留めの無い会話をして、その内に旅の話になるが次第に浪野も勧められバーボンを飲んでいた。その辺りから酩酊が始まり、話は訥々と進んでいる。浪野自身の頭は酒のために逆にはっきりとしながらも司に返していて、司はうれしそうに頷いたり、と思うと落ち込んで話しつづけたりをしていた。どうやら、相談にはしっかり乗っていても浪野自身はかなり飲んでいるようだ。きっともう今のあたりは既に記憶には無いのだろう。そして司が微笑み、浪野がそのまま奥のソファに行ってすぐに寝入り、浪野はグラスだけを腕を伸ばし流しの横のシンクに片付けてからそのままカウンターに眠った。
そして頭痛で目を覚ますと腕時計は昼ごろで、横を見ると置手紙があった。
「わかりました」
朱鷺島が言い、表情が先ほどの能面のような無表情とは異なり、緊張の解かれたものとなった。
「どうだった。相談するまでも無いことならいいんだが」
「ご安心ください。僕の仕事はなんらかの正体の掴めない不安を取り除いて差し上げることなのです」
「助かる」
「それでは、先ほどの部屋でお話いたします」
彼らは移動し、ソファに座った。
「藍田さんは現在も無事と思われます」
「それは良かった」
「相談内容というのは、彼が傍らで進めている山岳植物研究で新種を発見したことによる共同チームの相談です。いつもより早めに帰ってきたのも新種発見によるものです。写真に撮影したものを彼自身があなたにも見せています。これまでの探検データに関する発表会をヨーロッパでのビオトープ祭の行われるイベントに設ける内容で、新種植物保護のために採取厳禁、写真だけを展示するのが決まりなのですが、今回の新種発見をそのイベントで発表するかどうかを争っているということでした。それらは慎重に行う必要があるので、発見場所は伏せられます。まだ発表しないで植物博士に資料を渡し、イベントまでにその環境での植物と生物の関係性などを調査したほうがいいという意見と、これ以上は立ち入らずに新種発見だけを山岳植物協会で発表し登録するに留めるほうがいいという意見にわかれているようです。冒険家の藍田さんはいろいろな植物を知ってもらいたいので場所は伏せるわけだし発表すべきだというのですが、藍田さんの奥さんでチーム仲間の女性が完全な保護のためにイベントでの発表は控えるべきだと言っています。浪野さんは奥さん側の意見に賛成されて、藍田さんとともに行った山登りで見た植物の不思議や美しさに感動していた話をし、ひっそりと静かに生きる植物に感銘した話をされています。その植物に関する人間の立ち入るべきでない領域の神聖さを感じたことで、少年のような純粋な気持ち、守ってあげたいという心を感じたようです。やはり浪野さんも藍田さんの奥さんのいう様に、これ以上の調査は避けるべきだという話をしました。新種発見による興奮をしていた藍田さんも、植物や自然へ対する愛情という基本的な観点を思い出し、落ち着きを取り戻したようです。イベントでの新種発表はしないで、保護体制の整う協会への登録とともに保護区域指定の登録もするということで、しばらくは頭を冷やすために旅から離れて山篭りをするそうです」
朱鷺島が言うと、浪野はようやく膝に当てていた拳を広げた。
「そうか。そういう相談をしてたのか」
「きっと、また落ち着いた頃にふらりとお店に現れたり、便りがくるのではないでしょうか。どうやら普段から仲睦まじい夫婦仲で、どちらも気が強く喧嘩ばかりしますがそれも植物や自然への愛が根本になっているので、互いに相手を深く尊重しあっています」
その点は浪野の目に映る藍田の目から強く感じたことだった。朱鷺島は記憶を探るときに現れる人物の瞳からも記憶が脳裏に流れ込んでくることがある。相当愛し合っての結婚らしかったので、常に旅でも岩登りでも共に過してきた大切なチーム仲間のようで、やはり愛情を感じた。
「あいつには妻もいたのか。一度ぐらい連れてくればいいものを」
「ふ、きっと、男だけで話したいこともあるものなのでしょう」
「ああ、まあ、確かにそういうものだ」
ようやく浪野も安心して微笑んだ。
「また今度、あんたのところに特性のウィンナーでも送ってやる。うちで出してる自家製のやつだからな」
「それはありがとうございます。このあたりのツーリングもよろしかったらその時に共にするのもいいですね」
「ああ。秋も深まれば紅葉も綺麗だろうからな。この辺りの緑の風景も紅葉したら印象ががらりと変わるだろう」
「僕も楽しみです」
しばらくは朱鷺島のハーレーダビッドソンの話になった。
ダダッ
「………」
「………」
「………」
二人は窓の開け放たれたベランダテラスを見た。
黒猫が二人の男と目が合った。
「………」
黒猫はダッと毛を波打たせ、廊下を駆け抜けて行った。
「わ、待て!」
すっかり入ってくることを忘れていて、朱鷺島は開け放たれたドアから走っていく黒猫を追いかけた。何事かと浪野も廊下に出ると、鮮やかに黒猫に跳んで行った朱鷺島が廊下に倒れこみ、黒猫が脚で黒髪を蹴り跳んで走って行き、またベランダから出て行きベランダ伝いに跳び、塀の上に飛び乗って塀の縁を歩いて行った。朱鷺島が頭を押さえて窓に来ると、塀の上の黒猫が朱鷺島を見て、歩いて行って月宮屋敷の木へと飛び移って行った。
「飼い猫に好かれてないのか」
「いや、野良です。うちにも雌の黒猫がいるから気になるのでしょう……」
「ふ、それはまた」
「いつかは飼いならそうと思っているんですが、きっと相手も僕を飼いならしてやると思っているんだと思いますよ。マタタビで今餌付けしてるのですが、僕もあの黒猫の可愛さに惹かれていますからね。是非とも仲良くなって撫で回したい」
いつもサヤカや月宮の女性にだっこされている黒猫が可愛くて可愛いのだ。
浪野が笑い、猫の去って行った方向を見ていた。
浪野が帰っていき、朱鷺島は夕方になってきたので窓を閉めた。
庭に出ると、肌を冷たい空気が包む。土も湿っているのでこの時期からは頻繁に水遣りをしなくても大丈夫になってくる。
ハッとして塀の上を見ると、二つの目がピカーンと光っていた。黒猫だ。
朱鷺島はそれを見ていたが、しばらくして猫はまた歩いて行った。
第八章 三上の屋敷
「あなた。朱鷺島くん、大丈夫なのかしらね」
「うーん……」
三上は唸り、心配そうに居間から朱鷺島屋敷のある方向を見た。
「やっぱり、事件が起きたこと言った方がいいんじゃないですか」
三上純一が父親に言い、京都から急いで帰ってきた純一に三上は額に手を当てて唸った。純一はバーマー家の事件時に響子と共に駆けつけた青年である。何年も前に起きた事件があってから、彼は何年かして京都の女性と結婚をすると別荘地を訪れなくなり、京野菜の漬物屋に婿入りして若旦那をしている。以前はあの事件から響子と心を支えあっていたが、いつまでも共にいると逆に互いがあの事件を思い出してしまい辛くなってしまうので、別れることとなった。アルバートは今は成長して、この別荘地に来ることは一切無くなった。
「その人、新しい人はどんな子なんですか」
「ハーフらしくてね。フィンランド系だという話だ。庭もいろいろと手を掛け始めて気さくないい青年だよ。目に何かあるのか黒い眼帯を嵌めてはいるが、バイクや車両を運転しているから、もしかしたら片目だけが何か見えているとしても見える色に違いがあるとか、異常に片目だけ視力が悪くて普段は使わないようにしているとかかもしれないね。片目だけ嵌められるコンタクトもある時代だ」
「そうですか……」
純一は相槌を打ち、その屋敷の方向を見る。
「探偵を生業にしているそうよ」
「探偵を?」
意外な顔をして向き直り目を見開いた。
「彼は彼なりに楽しそうに過し始めているようだし、それを悲劇のあった屋敷と伝えるのも今になって憚られるような気がしてね」
「そうか……。僕もあまり考えすぎないほうがいいのでしょうか。過去はもう七年前に過ぎ去って、今はもう何も無いんですから」
「ああ」
純一は相槌を打ち、時計を確認した。実は忙しい時期で、大きな樽に夏野菜の漬物をつけている時期にやってきたので、早めに帰らなければならなかった。一度は彼に挨拶に行きたいとも思ったが、様子を確認することも出来たことだし、急いで帰らなければならない。
「あなた、忙しい時期なのに来てくれて申し訳なかったわね」
「この夏場の蔵で倒れてしまわないようにな。盆地は蒸すと聞くから」
「はい。こちらこそ心遣いありがとうございます」
純一は見送られ、早々に帰っていった。今、響子はイギリスの大学に音楽留学へ行っている。
日本庭園で三毛猫と遊んでいた黒猫は、声に塀を見た。ここから見える木の格子戸先にサヤカがいて、朱鷺島に話しかけている。そこには今日はサヤカの姉がいて、これからまた二人で遊びに行くのだそうだ。朱鷺島が見送っていた。
黒猫は顔を戻して三毛猫と遊び始めた。
あの自分の家に新しい雌の黒猫が越して来ていて、閉じ込められているのか外に出たくないのか分からないが、とにかく猫がいるのは知っているので、追いかけっこをして遊びたかった。あの雌猫の匂いが嗅ぎたい。だが見えない壁に隔たれて触れなかった。あの頑固者の人間はどうしようもないし、最近は何も無かった庭がいろいろ棘棘した植物を植え始めて何かしている。
三毛猫は伸びをして立ち上がり、水を飲みにいった。黒猫も水を飲みに行く。仲良く水を飲み始めた。
第九章 ウィンナーの人
サヤカは朱鷺島屋敷に遊びに来ていた。床の絨毯の上に寝転がって朱鷺島に勉強を見てもらっている。
夏場は朱鷺島が森を探索していたときに、サヤカと偶然会って一緒に自由研究のために歩き回ったので、その頃から探検家さんと呼ばれている。
緑の揺れる森にはいろいろな動物がいて、双眼鏡を持って眺めたりして、<わたしの大好きな森の生き物>というテーマでまとめていた。一回、風森の主と姉も加わって夜もキャンプを張り、夜行性動物の観察をしたり、昼間も物陰にカメラをセットしていろいろな動物が映っていた。
森にはキツネ、リス、ムササビ、野うさぎ、イタチ、キジ、鹿、猿、狸を見かけるそうで、山まで行くと猪やカモシカ、熊がいるようだ。いろいろな野鳥の声もするし、夕方にはヒグラシが夜の旋律の細波のように静かに鳴いて森を包みこみ、夜には落ち着き払ったフクロウの鳴き声もする。時々音もなく枝から飛んで行き、滑空してはばたいて行った。
夜もキャンプテントで朝に姉妹と朱鷺島が共に屋敷で作ったお弁当を皆で食べて、森の木々から見える星の話をしたり、木の種類や植物の話しをしたりした。風森も木に詳しいようで、いろいろと娘に森を回りながら教えてあげていた。小学校高学年の姉は私立学園への中学受験をするので、勉強勉強の日々に落ち着ける息抜きが出来てよろこんでいた。ひそひそと「探偵さんイケメンだね」と話し合っているのが風森の耳にも聞こえて、彼もくすくす苦笑していた。娘もそんな恋の話をする年齢になったのかと驚きを持つ。
番の動物や親子の動物に出会うと姉妹は手を握り合って会話を止めてずっと見ていた。すぐに茂みに隠れていくと、顔を見合わせて笑顔になって飛び跳ねていた。風の通っていく森は心地よく、様々な木々の緑が動物たちの声や存在を包み込む。
サヤカは自由研究をまとめてから村の学校に持って行ったらしい。
「ねえ。探検家さんって彼女いるの?」
グレープジュースを飲みながらサヤカが言い、朱鷺島は「うーん」と言った。今は窓が閉ざされ、黒猫婦人がその横に寝ながらサヤカが勉強する姿を見ていた。
「いないなあ」
「じゃあ、隣のお姉ちゃんとかどう? 二人とも恋人いるの見たこと無いし。まあー。本当は私が冒険家さんのお嫁さんになってあげてもいいんだけどね!」
サヤカが胸を張って言い、朱鷺島は笑った。
「それはありがとう。うれしいよ」
「サヤカね、大人になったら何になるか分からないからさ。いい奥さんになるように今から修行でもしようかなー。けど、学校にもクラスメートにかっこいい男子がいるの。いっつも消しゴムかしてくれるのよ。いっつも忘れるのも最近わざとにしようかなって思ってるけど、なんかそれじゃ良くないって思ってこの前消しゴムセットあげたの。よろこんでた」
サヤカがうれしそうに話しながら算数の足し算を解いている。
リリリーンン……
「お客だ」
朱鷺島がサヤカの算数計算のために並べていた綺麗な小石から指を離し、サヤカは真面目な顔で小石を移動させながら計算をしていた。
「お客さん?」
朱鷺島は立ち上がり、「勉強をしていて」と言い歩いて行った。黒猫婦人が小石で遊び始めてサヤカは笑って黒猫婦人で遊び始めた。
玄関に来ると、それはこの前の依頼主の浪野ショウだった。
「浪野さん」
「この前は世話になったな。ウィンナー持ってきた」
「これはご丁寧に。うれしい。気になってたんだ」
朱鷺島が笑顔になってそれを受け取り、促した。
朱鷺島がウインナーの袋に無我夢中になっているうちに、黒猫が扉からそろそろと入って行った。二人の後をそろそろと歩いていく。
「?」
すでに鉢から土に植えられた薔薇の庭が見える一階リビングの扉前に来ると、浪野が気付いて背後を見た。あの大きな黒猫がいて、そろそろと歩いてきている。
「ニャー!!」
突然黒猫婦人が鳴き声を上げ、咄嗟に飼い主の肩に飛び乗って朱鷺島は驚いて婦人を腕に抱えた。眼帯側で見えなかった方向から黒猫が入ってきていたのだ。朱鷺島の背に大きな黒猫が猫キックを食らわせ、サヤカが「わあ!!」と言って黒猫婦人がだだだだだっと廊下を走って行った。黒猫がそれを追いかけ、自分から逃げていく囚われのお姫様を追いかけて行く。
「ま、待て!!」
朱鷺島と浪野が猫を探し、上から音がして上がって行ったが階段を二匹が駆け下りていき、キッチンへ行ってぐるぐる追いかけまわっている。浪野が入り口で待ち構えて、朱鷺島がソファ影に隠れた黒猫婦人に飛び掛ってちぢこまり、黒猫がシャーシャー言って朱鷺島のズボンを噛んでぶんぶん振っている。
「お、お前、そんなにきついと女の子に好かれないぞっ」
黒猫婦人が飼い主の隙間から見える黒猫に怯えていて、時々しゅしゅっと猫手が伸びてくる。
「ほらおいで! おもちゃあげる!」
サヤカの声がキッチン入り口から高く響いて、何か鈴の音が廊下の方へと転がって行った。黒猫が本能的にそれをだっと追いかけていき、なんと玩具慣れしていない黒猫婦人もだっと追いかけて行った。黒猫同士が玄関の方まで玩具をてんてんと追いかけ飛ばしていって、玩具の取り合いをしている。シャーシャーニャーニャー叫びあって鈴の入ったボールのぬいぐるみを取り合って、怒った黒猫婦人が雄猫の顔面にキャットクロウを浴びせかけてガジガジと噛んで、雄猫はまいってごろごろ地面に転がった。雌猫のお姫様はなんか恐くて、せっかく可愛いお姫様猫に家を貸してあげてるのにと雄猫は思いごろごろし、向こうで玩具を手に入れて転がし遊んでいる雌猫を見た。恐い目をして黒猫婦人が雄猫をちらりと見て、仕方なく玩具をぽんっと手で転がしてやった。すると雄猫はそれを追いかけごろごろ遊んでいる。どうやら姉さん女房になりそうな気配である。実際黒猫婦人の方が一歳年上だ。落ち着きの無い二歳猫はまだおこちゃまのようなものだった。
三人は顔を見合わせ、サヤカがくすくす笑って勉強に戻って行った。
昼はサヤカはウィンナーの人と朱鷺島の三人で、キッチンでウィンナーを焼いたりサラダを作ってご飯を食べたので、電話でお昼は探検家さんの家で食べたからと風森家へ連絡をしていた。
黒猫はというとお姉さん猫に負けて今は庭でごろごろしている。黒猫婦人の方は雄猫がやはり気になるようで、リビングの窓からじっとそれを見て、興味があるのだろうオッドアイの目を光らせていた。
ウィンナーの人は屋敷に泊まっていき、明日になったら朱鷺島とツーリングをすることになった。サヤカは学校がある。
黒猫は庭から、ちらちらと黒猫婦人を見ていた。婦人は雄猫を見て、雄猫は門から歩いて行った。黒猫婦人は「?」という顔でそれを見て、その昼は雄猫は庭に現れなかった。
翌朝、リビングのカーテンを開けた朱鷺島は、何かに気付いて締められた窓の下を見た。
テラスに律儀に獲物が綺麗に並べられている。野鼠、トカゲ、大き目の蛾。
どうやら黒猫が意中の黒猫婦人に持ってきたもののようだ。庭を見ると、黒猫の影が柵の向こうにある。どうやら様子を伺って隠れているようだ。朱鷺島は猫の心を汲んでやり、黒猫婦人を連れてきて窓を開けてやった。彼女も元々外でも食べてくる性質なので、それを見てくんくんと雄猫の匂いを嗅ぎ、このなかで一番大変な野鼠をくわえて歩いて行った。庭に来ると、雄猫の顔をぺろぺろ舐めて雄猫も雌猫のおしりのにおいを嗅いで、仲良くなったようで一緒に食べ始めている。トカゲと大きな蛾も雄猫が朱鷺島を見ながらもって行き、あの草地に埋め始めてそれを黒猫婦人にも秘密を見せるように見せていた。仲が良くなって良かったと朱鷺島は思い、微笑んで二匹を見ていた。
朱鷺島と浪野は準備をすると、これからツーリングに出掛ける。
庭では二匹の黒猫が広い芝のところで仲良くごろごろと過している。
第十章 探偵事務所の名称
玄関には朱鷺島が厚手のクリスタルの器と天然石の小石で作った手製のベルがあり、それが鎖に吊るされた真鍮の輪を引くとゆらりとクリスタルが揺れて鳴るようにしてある。
リーンン……
紅葉する林と山々を背後にする屋敷は、何の看板も無い。話では探偵事務所というが、言われなければ到底分からなかった。知る人ぞ知る探偵事務所。二十代の白人男と共に、八歳ほどの白人の少女が扉前に立っていた。
扉が開き、黒い詰襟シャツに黒のパンツの眼帯青年が現れた。さらっと右に流れる前髪からその眼帯が覗いており、彼は微笑む。
「こちらが探偵事務所と伺いましたが」
男が訛りのある英語でそう言い、少女は朱鷺島を見上げている。その腕には少女より二周りほど小さい精巧な球体間接人形が抱えられている。少女自身も、クラシカルローズ色のレースのドレスワンピースと、ボンネットを被り、波打つ黒髪がドレスに流れている。白いタイツの脚で立ち大きな瞳はじっと見上げてきていてお人形のようだ。球体間接人形は白いアンティークドレスを着ており、顔立ちはエレガントに空虚を見つめている。
男はヨーロピアンなスーツを着ており、少女の運転手か執事という印象を受けた。
「はい。こちらが探偵事務所です」
「良かった。我々は連盟から日本に移ったあなたの噂を聞き、やって参りました」
ヨーロッパ時代の朱鷺島の透視能力の噂を聞いたのだろう。連盟というのは、朱鷺島のような能力を持つ者の加盟している連盟であって、仕事内容の報告をすることで貢献し日々能力活動が研究されている能力学会のようなものだ。その事でネットワークがしっかりしており、依頼者を紹介してくれる形をとり資金も渡してくれる。なので依頼者は金が無くても依頼に迷っていてもどんな者でも悩みを相談しやすい形になっている。その変わりに朱鷺島が報告書を製作して送信し、研究チームに貢献をしているというわけだ。依頼者によっては連盟に依頼料を払うのだが、その一部の彼らや学会権威者などの研究スポンサーがついて連盟が回っていた。なので、そのスポンサーからの依頼の場合も無償で相談に乗れることになっている。
朱鷺島は二人をリビングへ促した。
「彼女はキャロレナお嬢様です。私は付き人のゴードーと申します。お嬢様は英語が分からないので、代役として私が来た次第です。今回伺ったのは、お嬢様とこの人形についてのことなのです。あなたは人形からも思念を読み取ることが出来ると伺ったので」
「はい。確かです」
「お嬢様は数年前から失語症を患っておられ、加えて夜の夢遊病にも悩まれておられます。決まってこの人形が関わっているかのようなのです。そして、鏡が」
男、ゴードーはi padを出し、一つのデータを朱鷺島に見せた。
映像で、暗がりの室内に少女が座っている。横顔の目は開いておらず、何かを歌ってふらふらと上半身を揺らして踊ってでもいるようだ。そして、その少女の前には人形が向かいあわせで座っている。冷たい床に裾や人形の褪せた金髪が広がっており、その人形の背後には、壁に大きく四角い、装飾金枠の鏡が立てかけられている。暗い鏡は暗いまま何も映らず、少女はただただ揺れて歌い、その内ふらっと背後に倒れたと思うと、再びふっと起き上がって目を閉ざしたまま、人形を抱えて暗がりを歩いて行った。そして、画面が切り替わった。暗がりのテーブルに手鏡を置き、それを両手で持って少女は膝に人形を乗せて椅子に座り、鏡を見ている。やはり少女は目を閉じたまま、脚をふらふら揺らし歌を歌っている。
「夢遊病のときは彼女は歌を歌うのです。普段の生活では歌うことはおろか、喋る事すら出来ないのですが。何が見えているのか、鏡には何かが映っているのか、不明なままなのですが、必ず人形と鏡があるのです。彼女は眠ったままだし、奥様が訪ねても覚えてなどいないのでしょう、首を横に振るばかりです」
少女キャロレナを見ると、人形を抱え込んで髪に顔を寄せている。甘いミルクティーとチョコレートのクッキーを見つめていた。
「この症状が出る前のお嬢さんの性格や、何か関連する事柄が起きたのかは」
「お嬢様はもともと内気な方でいらっしゃって、口数の少ないお方でございました。それでもいつもこの人形に話しかけておられたのです。夢遊病も以前から度々見られた症状で、夜も入れ替わりで見張ることがありましたが、その時は本当にただ廊下を歩いたり、部屋をうろうろとするに留まっておりました。人形を連れて行ったり、鏡の前で何時間も向かい合って歌うことも今までの夢遊病には見られずに、この夜歩きが始まった理由も元々が不明なのです」
「それで、もしも人形が鏡に何か見ているならと思ったのですね。共に、お嬢さんの記憶に夢遊病が始まった理由や鏡に関することがあるのかと」
「はい」
朱鷺島は微笑んでキャロレナを見た。彼女は不安そうに見上げ、人形に頬を寄せて目を閉じた。
「どうぞ。ミルクティーとクッキーを召し上がってください。まだ落ち着かないうちのセッションは、お嬢さんも恐くて不安を感じると思うのです。もしかしたら、今日一晩彼女の夢遊病の様子を実際に見る事も出来ると思います」
「はい。我々も着替えはしっかり持って来ているので、必要あらば実際にごらんになっていただけると助かるのです」
「日本へは何日間滞在のご予定で?」
「短く見ても一週間は可能です。普段あまり外にお出になられないお方なので、ゆっくりと静養の意味も込めまして」
「分かりました。すぐに用意が整いますので、少々お待ちください」
朱鷺島はキャロレナに微笑み、キャロレナは見上げた。
「大丈夫。きっと分かるよ」
そう優しく言い、キャロレナは何を言われたのか分からなかったが不安そうな表情を緩ませた。どうぞ、と手で示し、キャロレナはこくりと頷いて甘いミルクティーをいただいた。ゴードーにもコーヒーをすすめる。彼らはそれを頂き、ようやく一息ついた。
「ところで、こちらの探偵事務所の名前はなんとおっしゃるのですか? 看板も見当たらなかったのですが」
朱鷺島はしばらく「うーん」と言って天井を見ていたが、庭を見た。あの雄の黒猫の顔が浮かんだ。元々はその猫の家でもあるのだ。いうなれば、自分は猫に間借りしているような状態。
朱鷺島は言った。
「黒猫探偵事務所です」
第十一章 人形と鏡と黒猫
夢遊病を患う少女キャロレナは、静かに黒猫婦人と人形と共に遊んでいた。夕食も食べ、あと二時間もすれば子供は眠ってしまう時間だった。よく黒猫婦人が気に入っている子供部屋のある三階で、朱鷺島の部屋の前にある。その部屋の横は使わないものを置いてある部屋になっているので、書斎を挟んだもう一つの部屋にキャロレナの付き人ゴードーが入っていた。七年前のバーマー屋敷時代、バーマーの妻の部屋だった場所だった。
黒猫婦人は女の子の頬を優しく舐めてあげていて、キャロレナは人形を黒猫に見せて人形の手を動かしたりしている。声が出なくて、おままごとをして遊べないのが悲しかった。なんで声が出ないのだろう? キャロレナはカゴからおままごとのセットを出して、人形と黒猫に玩具のティーセットで紅茶を淹れて黒猫の前に置いたり、お菓子の薔薇の造花を置いたり、人形の手に持たせて飲ませる真似ごとをさせて遊んでいた。
その内キャロレナが眠くなり、カゴに玩具を綺麗に並べて仕舞い、一度お手洗いに行ってから人形を抱きかかえてベッドに眠りについた。黒猫婦人もその横で丸くなった。
数時間して、開けられた朱鷺島の部屋から、その先のキャロレナの部屋から彼女がふらふらと歩いていく姿が見えた。彼は屋敷内を暗くし、ライビングビューローでランプだけをつけ今の所の報告書をまとめていた。
彼は静かに歩いていき、彼女の背を見た。開けられたままのドアからゴードーも現れ、朱鷺島に頷いた。キャロレナは目を閉じたまま歩いていく。やはり、あの人形を抱えていた。その辺りを歩き回ると、開けられたままの隣の暗がりの部屋へ入って行った。人形の頭を撫でて、ふわっと部屋に座った。ホールにあった椅子や、やはり万一湿気を恐れてここに移したカーテンなどが置かれた一角がある。少女は人形で遊び始め、あどけない声で歌っている。その頃、目を覚ました黒猫婦人は女の子がいなくなっていたので、開けられたままの窓を見て歩いて行った。廊下に飼い主と男がいて、隣の部屋を見ている。歩いていくと、入ったことの無い個室に女の子が座っていた。眠っているのか、目を閉じている。
少女は立ち上がり、人形を抱えたまま歩いて行った。人形を撫でながら歩いていて、そして鏡のあるほうに歩いていく。それは縦に長い姿鏡で、その前に座ると人形を抱えたまま歌う。人形は鏡を見ていた。部屋の奥なので、暗くて見えない。暗闇で目の聞く黒猫婦人が歩いていっており、女の子の横に来た。人形と女の子を見ると、人形から何かを感じた。何か、よく分からない。鏡と人形の間に、何かびりびりとした異様なものを感じる。黒猫婦人はそれを嫌がって、ととっと走って行った。
「黒猫婦人」
朱鷺島が囁いて黒猫婦人を抱え上げ、眼帯を取ると瞳を見た。
はっきりとした輪郭の部屋を歩いていく。人間には見えない暗がりの部屋の様子だ。キャロレナの背はドア越しの奥の寝室にあり、ベッド横の姿見の前に座っていた。そこまで歩いていくと、キャロレナがゆらゆら歌っている。目を閉じたままである。黒猫婦人は人形と鏡に微かな電磁波を感じて、すぐに戻った。目に見えない何か、ぞわぞわするものだ。毛を逆なでしてくるような、何か。それは、人形の『誰も近寄らないで』という感情に思える。黒猫が見た人形の目は、鏡を見ていた。鏡には、何か渦巻く黒い影があった。それが少女の顔にあるのだ。人形には鏡のなかの少女の顔は黒い渦になっていた。そして時々、人形自身の顔も渦になる。キャロレナの笑顔が現れ、渦になる。
黒猫婦人を降ろしてやり、再び朱鷺島は部屋を見た。ランプを持ち、寝室のドアの前まで来る。ゴードーも黒猫婦人も続いた。
キャロレナがふっと首をうなだれ、そしてふらっと頭を回転させて顔を上げた。立ち上がり、そこのベッドに上がって人形を抱えて眠りについた。黒猫婦人がベッドに飛び乗って女の子の顔を見ると、うつらうつらと水色の瞳が瞼から現れ隠れて、そしてすうっと閉ざされていった。
静かに朱鷺島が歩いてくると、ベッドの横にしゃがんでキャロレナが抱える人形の目を見た。黒猫婦人が飼い主の胴に寄り添う。
すると、人形の視界なのか低い位置から始まった。明るくて、庭でおままごとをして目の前に庭の花が並べられている。大きなキャロレナが大きな手でいろいろと人形の前に置いていて、花売り少女のおままごとをしているのだ。夜は眠ったままベッドを離れて行ってしまい、昼はおままごとをしている。
『お花をひとつ、くださいな』
キャロレナが言い、どんぐりを人形に持たせて、花を一つ自分のスカートの上に乗せた。
人形は少女に抱え上げられ、少女の笑顔を見た。頬釣りをされ、歩いていく。
その少女の肩越しに、おままごとセットとカゴと花が並んでいる。少女はテーブルの上のジュースを飲むと、また戻る。
夜は眠ったまま、人形を置いて歩いていってしまう。昼はおままごとをしてくれるのに。
人形は少女の声を自分だけのものにしたかった。ずっと一緒にいたかった。ずっと夜も一緒に眠っていたのに、離れて行ってしまう。だから、次第に少女が鏡に話しかけるのだって嫌だった。人形は少女と一緒にずっといたくて仕方がなくなると、少女の顔がまるで渦のように見えた。その渦に少女の声は飲み込まれ、人形の殻の体にだけ少女の声が落ちてくるようだった。少女の顔は次第に渦に見えてきて、一緒に鏡に映る少女の顔は普通になっていた。人形はいつも、昼も夜も一緒に少女といられるようになった。少女の顔がまともに見えるときは、鏡を見ているときになった。少女が鏡の前に来ていると、人形を持つ本物のほうの少女は普通の眠った顔をしていた。少女が人形に鏡を見せているときは、少女の顔は鏡のなか、渦を巻いていた。自分の顔も、時々渦を巻き、見えなくする。二人を見えなくする。見えなくする。
そこで人形の記憶は強制的に閉ざされ、朱鷺島は口をつぐんでその瞳を見た。こんなことは珍しいことだ。相手側が記憶の読み取りを拒否したのだ。人形の思念が。これまでは依頼者が辛さにヒーリングを半端なまま遮断することもあったのだが。
『近付かないで』
人形の瞳はそう言っているように、ランプにぼうっと照らされ眩しがっているかのようだった。
朱鷺島はキャロレナに布団をしっかりかけ、黒猫婦人を抱き上げて静かに部屋を出た。ゴードーも着いて来る。
部屋に戻ると、ゴードーが聞いた。
「何か見えましたか」
「ええ。青い屋根のサマーハウスと大きな楓のある庭で少女がおままごとをしていて、人形が少女の存在と声を自分だけのものにしたがっている思念が読み取れました」
「青い屋根のサマーハウスも、大きな楓のある庭もお嬢様が普段住んでいる屋敷の庭です」
朱鷺島は頷き、続けて言った。
「人形を抱えて夜に出歩くのも、鏡の前にくるのも人形の思念がそうさせているようです。鏡のお嬢さんが、人形の思念が見ているものなのでしょう、渦を巻くように見えている。その渦が鏡に映っている限り、実物のお嬢さんの顔は人形の目にはいつもの彼女に見えるようです」
「人形がまさかそこまで思念を持って」
「不思議なことですが、何かの力が働いているのかは僕にも不明です。ただ、夢遊病が始まった理由自体は探れませんでした。なので、いずれにしろお嬢さん自身の記憶を見させていただく必要があります」
キャロレナは静かに眠っていた。人形は抱きしめられ、ただただ闇を見つめている。
翌日、旅疲れも引いたキャロレナは、子供部屋の絵本を見ていた。だが、英語が分からないので絵を見ているだけだった。人形を抱えたまま見ている。黒猫婦人はベッドの上から女の子を見ていた。人形が不可解だったからだ。
コンコン
「お嬢様」
キャロレナは振り返り、開けられたドアを見た。ゴードーがいて、微笑んで入って来た。
「これから、朱鷺島さんに来ていただいてこのお部屋でお嬢様の記憶を見てもらいます」
キャロレナは頷き、その後に入って来た朱鷺島を見た。今回はキャロレナが不安にならないように、キャロレナが心が落ち着ける子供部屋で透視をすることにする。あの広い場所に連れて行ったら不安がって意識が混濁し、記憶も読み取るのが難しくなると思われたからだ。
キャロレナを椅子に座らせると、朱鷺島は微笑んで緑ビロードの四角いスツールに座った。
「安心して。さあ、この楽器を鳴らしてごらん。とても綺麗な音が鳴るよ」
朱鷺島は手で示して、キャロレナにそれを持たせた。彼女は首をかしげ、クリスタルを銀の棒でとん、と小さく打ってみた。綺麗な澄んだ音が鳴り響き、朱鷺島がそれに連ねてティンシャを鳴らした。
綺麗な音に、キャロレナは微笑んでいた。朱鷺島も微笑み、それを置いてから言った。
「前を見ていればいいからね」
彼は自分を指差し、少女はなんとなく分かって頷いた。
彼は眼帯を外した。少女の目を見る。
少女は一人、不安そうに屋敷を歩いていた。暗がりで、そして誰かを呼んでいる。今の少女よりも小さく、背も低いので家の中も大きい。
『マローネ』
一つの部屋の前に来ると、ノブが届かないのでノックをした。するとドアが開いた。部屋はまだ明るく照明がついている。
キャロレナが入って行き、一緒に眠ろうと言う。どうやら、唯一懐いていた姉のようである。
『眠れないの?』
『うん』
マローネは微笑んで小さな妹の頭を撫で、一緒に遊んであげた。マローネは普段寄宿舎に入る中学生で、キャロレナは今三才である。長い休みしか会えないので寂しい。夢ではよく一緒に遊んでいるのに。それで、マローネが翌年高校生になると、国を離れてしまった。寂しくて仕方が無かった。屋敷は恐くて、夜は一人で眠っていると幽霊の声みたいなものが聞こえるから。屋根裏部屋が上にある部屋で寝ているキャロレナは、その屋根裏から聞こえる声が恐かった。それで、マローネが帰ってくるときはよく一緒に眠っていた。
マローネは毎日屋敷にいたわけでは無いし、キャロレナが毎夜彼女の部屋に行って眠っていたことは知らなかったので、両親はその事を知らなかった。それでから夜は部屋が恐くなり、いつの間にかうつらうつらとしたまま夢遊病が始まったのだ。寂しくて仕方が無い。夜は不安だった。
朱鷺島は静かに頷き、背後の椅子に座るゴードーに言った。
「マローネお嬢さんという方を恋しがっての夢遊病のようです。どうやら、普段から誰にも言わずにいましたが、キャロレナお嬢さんは夜に上の階の屋根裏部屋から幽霊の声のようなものを聞いていたようでした」
その時、人形の首が傾いて朱鷺島は視線を向けた。見間違いだったのだろうか? 幽霊の話をしたら、傾いた気がした。人形というものは言語の違いは無い。思念同士で通じているのだ。
「屋根裏……」
ゴードーの眉が微かに潜まれ、口を閉ざした。
朱鷺島はキャロレナに微笑み、彼女にティンシャを持たせてあげて鳴らさせてあげた。彼女はそれを鳴らした。
「屋根裏には、昔気を違えた前当主の奥方がおられました。四十年も前に既にこの世を去られたようですが、まさか何か関係が」
「そうだったのですか。その話はお嬢さんは知って?」
「いいえ。キャロレナお嬢様も、それにマローネお嬢様や奥方も知らないことです。僕は屋敷で使えることとなる前、屋根裏の掃除指示もメイドに出すので、その内容を知らされていました。どうやら、前当主の奥方はお子さんの出来ない方だったらしく、その事を気に病み、次期は当主の弟夫婦の子供が継ぐことが決まりそのことで奥方が気を違えるようになったといいます。なので、マローネお嬢様もキャロレナお嬢様も前当主の弟様のお子なのです。マローネお嬢様はすでに許婚が決まっており、その婿養子となる方が継ぐということです」
「その前当主の奥方の子供を欲しがっていた思念が、もしかしたら夜にキャロレナを呼んでいたり、それに……」
朱鷺島は人形を見た。
「人形に宿ったのかもしれません」
ゴードーは人形を見た。キャロレナはクリスタルのベルをそっと銀の棒で鳴らして遊んでいた。黒猫婦人が朱鷺島の背後に来て隠れ、人形を見た。
朱鷺島は空虚を見つめる人形の目を見た。
人形は泣いている。心が泣いている。ずっとキャロレナといたがっている。ずっと独りだった。ずっと暗がりで、狭い部屋で。少女は人形を見つけ出し、庭に連れ出しておままごとをしてくれる。
朱鷺島はその暗がりの狭い部屋が見えていて、誰か動く影があった。一人の女性が泣きくれて、人形を抱え込んで髪を撫でた。奥方だろう。人形は奥方が子供代わりに大切に可愛がっていたものだったのだ。それを、部屋に来たキャロレナが見つけ、可愛がっていた。まさか人形に思念があるなど分からないキャロレナの両親も、それにゴードー自身も人形を可愛がるキャロレナを見ても何も言うことも無かった。普段内気なキャロレナが夢中になれるものが出来たからだった。
「この人形は前奥方のもので、彼女の寂しさが移ったものだったようです」
人形は澄んだ音を聴き、キャロレナの声が詰まった体に綺麗な音が加わり始めていた。それは、どこか人が楽しげに笑うときの声に似て思えた。女の子が楽しいときに高い声で笑うのと、似てる。キャロレナはいつも笑顔を見せてくれた。暗い部屋で望んでいたのはこういう女の子のはしゃぐ幸せな笑い声だった。キャロレナの笑顔が浮かぶ。声と音が人形の体に混ざり合い、そしてずっと頭にあったあの暗い部屋にも響き渡る。子供が生まれないままだった奥方の脳裏に浮かぶ高い笑い声の思念と、混ざり合ったかのように感じて、その時、人形は体が軽くなるのを感じた。
そのまま、綺麗な音に包まれて、抱きなおしたことで見えたキャロレナの柔らかな笑顔を見ながら、すうっと何かが頭のてっぺんから抜けていくようだった。
「綺麗な音……」
あどけないキャロレナの声が、人形の透き通っていく意識に聞こえた気がした。人形の視野は光りに溶け込んでいって、次第に静かになっていった。
その後には、人形は普通の人形に戻っていた。キャロレナが笑顔で人形を抱きしめた腕のなかで。
第十二章 四人目の依頼者
美しい、悲しげな旋律が響き渡っている。ここがどこなのかは分からない。
森、明るい森林。湖の横で、奏でている民族弦楽器。小鳥の声が重なった。
光る弦を爪弾く。奏でながら、陽の射す白い指に目を細める。小さなハープにも陽が跳ね返り、それは彼女の瞳をも光らせた。
弦の透けるハープの先には、輝く水面。白い薄絹に包まれる脚をも眩しく、全てが眩い。全てがそして、今は記憶のなか……。
肩から流れて白い薄絹の胴を飾る淡い金髪。緑の瞳。そして、歌う異国の唄。喉を反らして、彼女は水色の空に唄う。高い声を震わせて奏でて唄う。ソプラノが唄うは自然賛美。
「………」
ふっと意識が戻り、黒峰夜風は静かに瞬きをした。黒く長い睫毛が伏せられた。
もう一度見回すと、そこは学園だった。また、あの白昼夢。とても美しい女性が、静かな森林の湖で小さなハープを弾き語っている。
これは、小さな頃から現れるものだった。記憶、というのだろうか。あの女性が自分でもあるのだということを、夜風は分かっていた。
しかしながら、その話をしても誰もが「綺麗な夢を見たのね」「絵本の影響かしら」と言われるのだった。
夜の夢にも現れるけれど、普段の生活でも目の前に浮かぶ。ふと意識を離すと浮かぶ白昼夢。
夜風はその記憶と共に生きてきた。
あの女性は誰なのだろうか。異国の言葉なのに、何を言っているのかが分かる。不思議な感覚だった。
「……前世?」
夜風はi padで閲覧できる古い英文の書籍データにふと目を留めた。PDFを開く。
幼い頃の記憶にある、自分とは違う肖像を前世の記憶とするものだ。それは次第に大人になるにつれ薄れゆく記憶のようなのだが、子供時代に語られる内容はとても子供の知識にあるとは思えない詳細なことばかり。大人顔負けの口調だったり、史実や前世に関わった親族しか知りえない事実を語り始めるという。
彼女は綺麗な眉を顰め、それを読み進めて行った。
確かに<前世>というものを聞いたことはよくある。それに、自分の来世はどのようになったらだとか、前世はきっとこういう人物だったに違いないと語り合うこともあるものだ。しかし、自分のよく見る風景が前世であるのかもしれないのだなんて、全く思いもよらない。映像で夢や白昼夢、そして記憶に息づいているものだとは思わなかったからだ。
彼女はしばらくは夢や前世についての情報を得ようと、i padで検索をかけていった。どうやらこれらの前世の観念は仏教にもヨーロッパにも根付いていることのようで、様々な観念がある。夢。白昼夢。不可解なそれらの原因というものの解明をしたい。
「森林の湖畔で竪琴を奏でる金髪の女性。小さな頃から見続けていた夢の正体を知る手がかりがあるというのかしら」
長年、ずっと神秘の謎に包まれていた。あの美しい女性の存在は、夜風に心の癒しを与えた。
そして、夜風自身をもハープの演奏をすることとなった源の女性。
「これはなんのサイトかしら」
心理学や夢診断、前世療法などの博士たちの論文を読み、様々な団体との繋がりを見ていたときだった。
<Union of Clairvoyance Psychology>
「透視心理学連合?」
夜風は意識と指先が導かれるかのように、そのサイトをクリックしていた。そこは様々な国の言語で翻訳されたサイトで、連合の活動が書かれている。
「『夢の解明、透視、千里眼、過去見、悪夢消し、前世退行、行方不明者捜索、物質への思念読み、動物の読心。様々なカテゴリの専門家があなたのお悩みを解決へと導く足がかりとなれば幸いです。』専門家は全員で八名いるのね。」
夜風は囁く声で読み続けた。
「まあ。日本にもその専門家がいるわ。『事務所住所へのアクセス方法と地図に、向かう際の備考……。<黒猫探偵事務所>代表者朱鷺島レイ、Reijo Matias Tokishima、日本。能力、右目による透視・過去見・ヒトガタへの思念読み。土日休日也。駐車場屋敷裏手。山間部にて要車両移動。冬季降雪地帯。丘上、林別荘群左手前の洋館。気温が平地より下がるため衣服にご注意ください。依頼費無料の条件として国名と名前を伏せた相談内容と結果を心理解明研究連盟へ提供のとこ。条件を否とする場合により連盟、またはご依頼される専門家への依頼料として、要望するものを当日、または後日持参されたし。』各専門家の要望は……『朱鷺島レイの要望、食品。但し、酒は不可。』しょ、食品……それで良いというのかしら……。『なお、情報提供をしてくださると共に、連盟や専門家への要望や依頼料の持参は各自の自由となります。我々はどのような身分の方でも平等に依頼を承らせていただきたく思います。ロイヤル会員様となられた場合、サポート資金を出資くださる代わりに当人様、当人様家族、紹介された方への完全無償セッション・ヒーリングを致します。なお、専門家への依頼料を心配されている方がいらっしゃいましたら、ロイヤル会員様からのサポートや心理学研究結果費用からの資金で定期的にまかなわれておりますので、ご安心ください。』」
朱鷺島レイ。黒猫探偵事務所。可愛らしい名称の探偵事務所だ。その地図のページを開いた。△△県。
「私一人ではどうにも行けないわ。移動をどうすればいいのかしら。『移動にお困りの方。依頼へ向かわれる国への運転手の紹介』ああ、しっかりいて安心したわ。知っている人には頼みづらいから」
夜風は天蓋をまくり、寝台の外へ出た。ひんやりとした空気が体を包む。今の時期は秋だから、まだ雪は降らずに依頼場所へ向かえる。
夜風が新△△駅から降り、連絡通りのカフェへ入っていくと、見回した。そこにはにこやかに微笑む白髪の男の人がいた。白い髭を微笑ませ、まるでフランク・シナトラが日本人になったような雰囲気を感じる。
彼女はその男性の所まで歩き、会釈をする。
「依頼したものです。黒猫探偵事務所までの移動をよろしくお願いいたします」
「ええ。お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ。早速参りましょう」
「はい」
カフェを出ると、最寄の駐車場から車両で移動していく。
夜風は情報提供可能ということに加え、専門家が要望するように食品を持参した。これから雪に閉ざされる時期となるので、体の温まるような日持ちの良い貯蔵可能な食品を選んだ。
「これから二時間ほど走らせますので、道中ご気分が優れませんでしたらご遠慮なくおっしゃってください」
「はい」
街中を抜け、いくつか村を越えると様々な種類の樹木が紅葉する彩りの美しい山々を越え、軽やかに落ち葉の舞い踊る森を駆け抜けた。そして、黄金色に揺れる草原の丘が広がった。濃いほどに青い空がどこまでも高く、そして紅葉する林がその丘に島のようにあった。
その黄金色に揺れる丘を車両は進んでいく。
林が近付くにつれ、別荘群が見え始めた。車両は一番手前左の屋敷まで来ると、門の前で停車させた。山間地帯は街より寒くなるので、コートを着た。
「私は裏手駐車場へ車を停めて参りますので。ご依頼が済んだのちにいらしてくだされば、またお送りいたします」
「承知しました。ここまで運んでいただき、どうもありがとうございます。行ってまいります」
夜風は頭を下げ礼をし、門を潜って行った。
庭には二匹の黒猫がいて、オッドアイの瞳でこちらをじっと見てきた。薔薇の剪定が終わった庭は、とても静かだった。
「黒猫探偵事務所……。本当に黒猫がいるのね」
夜風は玄関扉まで歩き、鎖で吊るされる真鍮の輪を引いた。すると、澄んだ音が鳴り響く。
しばらくして、扉が開いた。
そこには詰襟シャツに黒スラックス、眼帯の男の人が微笑み立っていた。右目での透視。彼に違いない。彼があの女性のことを解明してくれるかもしれない人。
「あの……こちらが黒猫探偵事務所でよろしいでしょうか」
「はい。間違いございません。ご依頼の方ですね。どうぞ、お入りください」
夜風は安堵として胸を撫で下ろし、笑顔になって「はい」と頷いた。
「ミャオン」
足元を見ると、先ほどの黒猫二匹が玄関から入り見上げてきた。小さな黒猫は上品な顔をしている。毛足の長い黒猫は凛々しい顔をしていた。
「愛らしい猫ですね」
「黒猫男爵と黒猫婦人です。この屋敷の主です」
夜風は微笑み、二匹を見た。
一階の個室に促され歩いていくと、ホットハニーレモンティーと、ケーキをいただいた。
「ハープを奏でる女性の記憶が?」
「はい。小さな頃からです。夢にも現れるし、普通に昔の思い出のように脳裏に蘇ります。彼女がハープを奏でるから、私も少女の頃から奏でております」
「小さな頃から大人の女性としてあなたの記憶に?」
「小さな頃からです。森林の湖で一人奏でることもあれば、他の民族の楽器を奏でる者とともに数名で奏でることもあります。聞いたことの無い言語でも、何と言っているのかが分かります」
「その女性に似通って描かれた顔立ちや、風景画などに記憶はございますか? 実家でなくとも、親族の家やご近所のお宅には」
「いいえ。我が家の絵画はどれもクリムトの複製で、風景画はございません。記憶と夢の女性も、クリムトの描く女性とは異なる風をしております」
「そのようですね。あなたに誰か西洋の方の知り合いは」
「親戚の者もみな日本人です」
「それでは、その謎の記憶に現れる女性の正体を知りたいのですね」
「はい」
「分かりました。それでは、こちらへいらっしゃってください」
夜風は促され、その背後を歩いて行った。二階右奥の扉を開けると、広い空間のセンターに厚い天蓋に囲まれた一角があった。その先の窓一面に、鮮やかな紅葉と針葉樹の入り混じった林が広がっている。
天蓋は緑に金の唐草模様のビロードに金の簾のついたもので、装飾性のある鉄の支柱に支えられている。
その前面がタッセルで上げられ、その内側には石の台が置かれていた。この部屋に来ると寒いと思ったので、そこへ促されればあたたかいだろうと思ったのだが、男性と狭い場所に二人きりに閉ざされるのはとても緊張した。だが、彼はただ冷静に歩いていく。
「こちらへお座りください」
「はい」
夜風が入っていき、靴を揃え座った。専門家も座る。心落ち着く音が鳴り響いた。とても綺麗な音だ。崇高さを感じる。
「それでは、僕の目を見続けてください。リラックスして、今まで見た夢を思い出しながら、瞬きもしてもかまいません」
夜風は頷いた。専門家は眼帯を外し、彼女はそのオッドアイを見た。黒猫のオッドアイ。専門家のオッドアイ。とても綺麗な瞳をしている。
しばらく、彼は無言のまま夜風の目を見続けた。一切瞬きすることも無く、瞳孔も瞳も動かない。硬く閉ざされた唇も動かずに夜風の瞳を見続けている。
夜風は緊張し、ずっとその瞳を見続けた。
第十三章 金の髪の琴奏者
緑の揺れる明るい森林は様々な鳥の鳴き声が響き渡り、美しい自然を謳歌している。
その風の吹き抜ける森には小路が続き、その先にはきらきらと光る湖が横たわっていた。そちらから、小鳥の他に繊細な音色と歌声が響く。それは湖面に流れるかのように風とともに行く声。滑っていく水鳥を優しく包み、渡り鳥の身体を癒すかのような音色。
それと共に、横笛を吹く髭を蓄えた長い髪の男とリュートのような楽器を奏でる爽やかにしてやわらかい表情の青年がいた。
彼らの音も加わり、渾然一体となったその音楽は重厚なものとなっていく。
「ザール」
青年が美しい女に語りかけた。彼女は振り返る。長い金髪を背に流し、そして白い薄衣の胴体には琴の影が降りる。
「二日後の晩の宴には、恋人のラールがやってくる。長旅に疲れて、君の音楽を癒しに来るのだろうね。だが」
ザールは金色の睫毛を伏せ気味に、視線を膝元に落とした。湖面の光りは彼女の瞳を光らせて涙をこぼすかと思われるほどだ。
「ラールのことを思うと気持ちが晴れはしない……」
美しい声はザールによく似合う。歌声よりも高く澄み、そのことで彼女の持つ不安が見て取れるようだった。心の不安は他を癒したい気持ちへと変わり琴の音色にもよく現れる。
ラールがこの森のある村の恋人ザールの元へと戻るのには理由あってのことだった。
つづく
黒猫探偵事務所ゼロ
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