きせつふう
雪が風に舞う花びらを真似て、春は寒々と表現された。
枝と幹が剥き出しの樹々たちも、自らが桜の木なのだと名乗り続けた。頭上の曇天も辺り一帯を覆い続け、風が止まない限り、春に散る桜の花は枝に積もることなく、真横に飛び去り、風が止んだら、その地にひらひらと積もり、降り積もり、道行く人の歩みを重くする。したがって、その地を超えて、彼の地へ行こうとする者は、手前の町に留まり、それこそ本物の春が訪れるまで、人々は日々を過ごし、生活をする。そこで友になり、恋人になり、新たな家族となり、新たな家族を授かり、成長していく中で、同じ過程を辿り、その家族からさらなる家族が生まれていって、町は前より大きくなり、そして、樹々たちはいつの間にか町の中に取り込まれ、町の中のシンボルとして、皆の憩いの場となった。それからは子供たちに登られたり、迷い込み又は飼われている犬たちからしょんべんを引っ掛けられたり、低い枝を無闇に折られたり、恋人たちの出会いと別れの場となり、そして謂れのない伝説を背負わされ、不注意に怪我をした者の告発により、伐木の対象とされ、実際に樹々たちの何本かはその地から去ることとなった。
そういう、樹々たちの預かり知らぬところで決められてしまう運命のような過程が、同じように繰り返されていった。巡る四季のうち、冬の期間が長いその地の季節も、これまでと同じように巡り、季節の違いに関わりなく吹いている風も、毎年のように、冬には強く吹いた。でも、樹々たちはもう、春のふりをすることが出来なくなっていた。桜とは違う固有の名称が付されていたという、区別の問題が原因ではなく、樹々たちの方でもう、春のふりをする意味が失われていた。なぜなら、彼の地へ向かうために留まる者は居ない(小鳥の話によれば、その彼の地すら、既に失われているという)。降り積もる地も、既に町の中にある。多くの人々の手によって掻き分けられて、人が通れる分以上に、地肌は冬に晒されている。雑草が、樹々を見上げて笑うことが増えた。樹々たちの方では、冬をもたらす曇天模様を睨みつけて、恨み言を募らせて、その肌色を不自然な方へと濃くしていった。そのうち、枝葉が鋭くなり、触れれば傷付き、そのために触れられる人も小鳥も他の樹々たちも居なくなり、樹々たちはただただ、その地中に根を生やすだけになっていった。冬の寒さが通り過ぎ、春の温もりに包まれて、日差しを浴びる新緑を深め、そして再び冬を迎えるために、弱い風に乗って散る、秋の表現が変わりなく訪れる頃になっても、樹々たちはもう、それに気付くことが無かった。樹々たちはただただ、樹々となることを選び、地中深くに出会うミミズたちに挨拶されて、何かを思い出すことはあっても、もう何かのふりをすることは無かった。そうして樹々は樹々としての生を最後まで生き、種子によって命を繋ぎ、そして新たな根と茎と葉が、地中の最後に辿り着いた。
そこには、雲が入り込むのを禁じられたような見事な晴れ模様を表す空と、そして、人も樹々も未だ辿り着いていないかのように見える地が、何も言わずに広がっていた。新たな樹々の芽は、そこでまず学ぶことになった。その時の季節は『フユ』(そういう響きが残っていた)、強くとも、温かい風が茎に葉を揺らしてくれる、そういう気持ちの良さを感じる時期なのだと。
そうして樹々たちは再び、遊び半分で、『ハル』と呼ばれる季節を迎えて、風の弱い日々に降り積もる雪を枝葉に乗せて、フユに生きる樹々のふりをしてカサカサと、気持ちを揺らして、その地を覆う曇天と、淡い光に目を細めるふりをする、そういう季節風を楽しんだ。ドングリたちだって、『ナツ』に転がった。
それを拾う未来たちだった。
きせつふう