美術部の僕等2
Keisuke HASHIMOTO〈夏が人に恋をさせる。〉---1
「いでっ!」
だらしなくきた夏用体操服の袖から覗いた不健康な白い肌に輪ゴムが飛んできた。振り向かなくても誰に放たれたのかわかる。飛んできた輪ゴムを素早く拾い上げ、飛んできた方向に向かって放ち返した。
「きゃあ!」
掃除用具入れの影を覗くと仲原日向さんが隠れていた。足元には命中したであろう輪ゴムが落ちている。
「師匠には敵わないな。なんでそんなにクリーンヒットするかな」
「日向さんも結構二の腕クリーンヒットでしたよ」
「近くから狙ったからね。むしろ気づかない師匠がありえない」
日向さんはこうしていつも僕を狙ってゴム鉄砲を飛ばしてくる。立て看作業を始めた夏休み初めからはまっていてあちこちで打っていたのだが、みんなが無視してだんだん相手をしなくなったので飽きることなく打ち返す僕だけに打つようになったのだ。
「てゆうかなんで未だに師匠なんですか。もうあの作品終わりましたけど」
日向さん以外にも僕のことを『師匠』と呼ぶ人はいる。そのニックネームは、2年になってすぐの頃に立体作品を作っていた時に木のやすりがけがうまかったということに由来する。やすりがけが苦手な先輩から師匠と呼ばれて以来、美術部内の先輩後輩にも浸透しているのだ。僕以外にも姫、姉御、主任などそういうあだ名をつけられている人は何人かいる。でも作品を作ってたのは前のことだし、そもそも日向さんは美術部ではない。
「馬鹿ね。師匠はずっと師匠なの。本名知らない人も多いでしょ。なんだっけ?」
「橋本圭佑です」
「そうそう。師匠っていう割にはシンプルな名前だよね」
「それでなんか用ですか」
「うん!後期の絵の具届いたから取りに来てって先生が」
「あー、もうそんな時期ですね」
夏休みも半ばにさしかかった今日この頃。前期作業、お盆休みを終えて後期作業に入ろうとしていた。後期作業からは体育館で行われるため、いろいろと運ばなくてはならない。美術部の夏休みは、体育祭の立て看板を制作する作業と夏の創作コンクールに出す作品に追われる。その上に学生の本分である勉強を無理やり詰め込まれるような、かなりハードなものだ。でも僕らはまだ序の口で、日向さんは3年生の進学クラスだから宿題も多いし午後からも課外授業がある。その日向さんのクラスと今年の体育祭は同じブロックなのだ。3年生進学クラスは課外が長いため他のクラスより準備できる時間が短い。さらに部活より勉強に力を注いでいる人が多いため競技では比較的不利になる。それでも進学クラスと言われるだけの頭脳とクラス替えのない3年間の団結力で優勝に導いてくれるらしい。
「うちのブロックはちょっと遅れてるからね。土日も作業あるかもよ?」
「できれば休みたいですね」
「わたしはいいけどな。土日もみんなで作業。楽しいし」
「日向さんはポジティブですね」
「みんなと一緒にいたいもん。それに絶対勝ちたいんだ。体育祭の日、なんの日か知ってる?」
「9月9日でしたっけ…」
「うん」
「…さあ?」
「はい、これ持ってって。重いよ」
話は打ち切られてしまって、結局なんの日かわからなかった。後期に発注した3ブロック分の絵の具をいっぱいに詰めたキャリーは想像以上に重かった。1つ550mlの絵の具を1ブロック20本ほど購入しているので、単純計算で30kgはあることになる。自分のブロックの分は自分で運べばいいのに、とも思うが、これが美術部員の宿命。こういう時に雑用を押し付けられることもしばしばあるのだ。
「それ運んで分けたら自分たちの作業入っていいって」
「わかりました」
時計の針は4時を過ぎている。今から完全下校の6時10分までは帰れない。
体育館に入ると今まで狭い教室に立てかけられていた自分たちの立て看板が広い体育館に並べられていて全体図が見えた。
「なんというか、こうしてみると壮大ですね」
「ズレも壮大だけどね。竹が上と下で全部ずれてて今から治すんだって。師匠は文字の続きするから手伝って」
「はい」
立て看板に入れる文字はブロックの名前である『雷龍』。別の紙に書いて切ってあるのものを配置して写す作業。上からは雪と美咲が配置の指示を出している。
「ありすちゃんのとこ曲がってない?」
「こうですか?」
「あーうんうん」
「全体もっと左かな。月の近くまで」
「よしよし。そこ!なぞっていいよ」
絵の具を持って合流すると文字は2つとも看板の上に並べられてあり、これからなぞるところだった。
「わたしたちも手伝うよ」
「じゃあ日向ちゃんはこっち。師匠は向こうお願い」
「了解」
みんなと合流して文字の輪郭をなぞっていく。上から見ていた2人も降りてきて一緒に文字をなぞった。
「師匠、日向さんと絵の具取りに行ってたんだよね」
立て看作業が始まって以来、立て看メンバーも僕のことを師匠と呼ぶ。今ではもう慣れてきてしまったためなんとも思わないが、最初はクラスメイトでもある美咲や雪にそう呼ばれるのは慣れなかった。
「日向さんとっていうより、日向さんに借り出されただけだけど」
「どうだった?なんかあった?」
「なんか、とは?」
「え、師匠って日向さんのこと好きなんじゃないの?」
「は?どっからそういう話になった?」
唐突な質問に声が裏返りそうになった。僕が?先輩を?そんなこと考えたこともなかった。
「仲良いからそうなのかと思った。美術部の1年生たちが言ってたよ。師匠は恋してるって」
「なんだよ恋してるって」
「とーにーかーく!好きなの?何かなかったの?」
「好きじゃないし、別に何もなかった」
「えー、つまんないの」
「そんなこと言われても…」
「夏は人に恋をさせるんだよ?師匠も毎日キャンバスとばっか向き合ってないで恋しようよ」
先輩は確かに頭がいいし、明るいし、優しいし、尊敬するところはいっぱいあるけれど、好きとそれは違う。そもそも僕らはまだ知り合って1ヶ月くらいのもんだし、そういう関係になるなんて想像もできない。
「いい人だよね、日向さん。ムードメーカーだけどしっかりものって感じ。日向さんがいないとこのメンバー多分めちゃくちゃだよ」
「それは思うな」
3年の弥生さんと千紗さんは声を張ってテキパキと指示を出すタイプじゃないから、指示が出せそうな日向さんを誘ったと聞いた。2年の美咲や雪のストッパーになったり将太のエロトークを収めたりする人材が必需。口数の少ない恵とも普通にコミュニケーションが取れている。1年生は陽乃もありすも理央もしっかりしているけど、初めてだからわからないことが多い。このメンバーをまとめるには日向さんが最適だ。人の輪を広げるのが上手で、誰とでもすぐ仲良くなってしまう。リーダーは別にいるけれど、本物のリーダーは間違いなく日向さんだと思う。
「師匠も美咲も暇そうだな。働け!オレンジの修正するから手伝って」
「はい」
まるで向日葵の花を咲かせたような笑顔。この人はいつも笑顔を絶やさない。だから自然の人が集まり、輪が広がるのだろう。なかなか人の輪に入れない自分とは大違いだ。
「師匠はこっちね。終わったらこっちもお願い」
絵の具の入ったバケツを渡すと次の色を取りに戻って行った。短いポニーテールを揺らす後ろ姿に思わずドキッとしてしまった。けど、これはそういうのじゃない。さっき美咲に変なこと言われたから意識してしまっただけで、好きとかそういうわけじゃない。でも誰にでも向けられる先輩の笑顔と風に揺れる髪の毛は夏っぽくて、素直に可愛いと思った。美咲が言う夏は人に恋をさせるというのはこういうことなんだろうか。日向さんを好きになる人はきっとこういうところにひかれるんだろう。
「師匠、ぼーっとしてるよ」
目の前で美咲が手を振る。そしてまた笑う。我に返り、慌てて作業に戻った。
「好きなの?」
いたずらっぽく美咲が顔を見てくる。立て看メンバーの中には日向さんを始め、美咲や雪や将太、理央のように美術部ではないメンバーもいる。同じクラスの3人は別として、日向さんや理央はこの場限りの関係。つまり体育祭が終わればもう関わることはない。一緒に居られるのは今しかない。そう思うと急に大切な気がしてくる。かけがえのない、今しかない時間。
『夏が人に恋をさせる。』
言い換えれば、普段恋とは無縁の生活を送ってきた僕に他の季節は恋をさせてはくれないだろう。ならその言葉、少しだけ信じてみてもいいかもしれない。
Keisuke HASHIMOTO〈夏が人に恋をさせる。〉---2
「師匠ごめん、わたしのリュックとって」
「日向さんのリュック?黄色いのですか?」
「パステルイエローといってくれ」
日向さんのパステルイエローのリュックは白いリボンが編み上げてあってファスナーにはトランプ型のストラップがぶら下がっている。
「これですか?」
「そうそう。ありがとね」
日向さんは中から水色のタオルを取り出すと額の汗をぬぐって作業を再開した。何気ない仕草も気になってしまうのは僕が意識しすぎているせいだろうか。
「年上と年下なら?」
「年下」
「じゃあ身長は?高いか低いか」
「同じくらいがいいかな。目線が合う高さ」
僕以外の2年生はみんな日向さんと同じ中学の出身らしく、色を塗りながらいつも仲良く話している。今日は日向と美咲は写した文字を塗りながらずっと恋愛観について語り合っている。
「日向さんって何センチですか?身長」
「156センチ。美咲ぐらいならセーフかな」
「美咲は162センチですよ。これくらいの男子って少なくないですか?師匠何センチ?」
「え、僕?172センチ」
「アウトですか?」
「まあそうだね」
確かに僕と日向さんが横に並ぶと日向さんは僕を見上げるようになる。身長差は16センチ。黄金比と言われる15センチに近いが、日向さん的にはアウトらしい。
「まあ顔とかはあんまり気にしてないけどね。話してて楽しい人ならいい」
「じゃあキラッキラのイケメンと可愛い系の子ならどっち?」
「可愛い子」
「日向さんの理想和田くんとピッタリですよー。でも取っちゃダメですよ」
「また和田くんか」
和田くんは水泳部の1年生で最近美咲がことあるごとにかわいいかわいいと口にしている。そのルックスと性格のよさに惚れ込んでいるようで、僕も本人を見たことはないが、和田という名前は覚えてしまった。
「じゃあ、立て看メンバーだったら誰が1番いいですか?」
美咲の質問に思わず手が止まる。振り向くと、美咲がこちらを向いてにやりと笑った。余計なことをしやがって、とも思ったけれど、僕と将太ならどちらを選ぶか、興味があった。
「立て看メンバーの男子ってら師匠と将太しかいないじゃん。究極過ぎない?それなら師匠だな」
心臓が高鳴るのを感じた。美咲がだって、師匠!と僕を冷やかす。その横で将太はセンパーイ!と大袈裟に声を上げた。
「なんで?なんで師匠なんですか?」
「だって将太中学から一緒なんだよ。委員会とかも一緒だったし、付き合い長くてなんか無理」
「それって、付き合い長くなかったらいけるってことですか?」
「いや、想像できないから」
僕がいい、というよりは将太はだめ、という感じだった。まあ確かにもし僕が女だったとしても将太みたいなやつとは一緒にいたくないと思う。
「その辺師匠は安心だしね。一緒にいるなら師匠の方がいいな」
美咲に変なことを言われたからだろうか。変に意識してしまう。身長も理想も全然日向さんのタイプじゃなかった。僕と話してて楽しいはずもない。はなから僕なんて恋愛対象外。そんなのわかってるはずなのに。きっと美咲のせいだ。美咲が変なこと言うから。
「あれー、師匠顔真っ赤!どしたのー?」
事情を知っているはずの雪が顔を覗き込んでからかう。まずい。早くここから離れないと。
「筆洗ってきます」
「うん。ありがと」
近くにいる意識せざるをえない。すぐにボロが出る。かといって距離をおきすぎるときっと怪しまれる。どうすればいいんだろう。美咲のせいだ。美咲があんなこと言うから。雪も将太もすぐに悪乗りする。1年生や3年生はまだ知らない様子だけれど、あの感じならすぐにばらされてもおかしくない。
「でねー、弥生とちーちゃんとお祭り行ったんだ」
「3年生は受験に追われてるもんかと思ってました」
「わたしも思ってたけどね、案外余裕だった」
外から戻ってくると話題は先日の夏祭りの話題に変わっていた。市外から来ている僕は夏祭りなどの地元のお祭りの話題にどうしても疎い。住んでいる場所が遠いと祭にも誘いづらいし、近くに住んでいたとしてもきっと棒を誘ってくれるような人はいない。
「マリンソーダは絶対マスカットだと思うの!でも弥生はメロンっていうし…」
「どっちも美味しいですよ」
完全に気分が夏祭りに染まった時、必死にマスカットを推す日向さんの顔から一瞬だけ笑顔が消え、そして大輪の花が咲くように笑顔が戻ってきた。
「…先生?」
「へ?」
日向さんが見つめる先、体育館の入り口には1人の男性が立っていた。年齢は20代半ばから後半くらいだろうか。日向さんは先生といったけれど、うちの学校の先生ではない。もしかしたら去年いた先生とか、中学の時の先生とかかもしれない。
「先生!先生!久しぶりですね。2年ぶりだ。ちゃんと先生やってるんですか?」
「日向も元気そうだな」
「はい。今体育祭の準備してるんです。見てってください」
「そっか。絵描くの好きだったもんな」
日向さんとかなり親しそうに話している。新卒の講師と年齢はそんなに変わらないだろうか。若く見える。
「だれだれ?師匠のライバル?」
「さあ。千紗さん知ってます?」
近くにいた千紗さんに声をかけた。3年生なら何か知っているかもしれない。
「多分1年生の時に教育実習の先生じゃないかな。よく覚えてないけど。日向ちゃんと仲良かった先生がいた気がする」
それが本当だとしたらおそらく今年で24。見た目より若い。去年新卒だった数学教師と同い年ということになる。
「顔は中の上ってとこかな。日向さん顔は気にしないって言ってたけど本当に気にしないんだね。でも公務員か。彼女いるのかな」
僕が言うのもなんだけれど、顔はかっこいいとも言えないし、可愛い系の綺麗な顔立ちでもない。背は僕よりやや低い。それでも僕より楽しそうにその先生と話をする。話してて楽しい人が日向さんの第一条件だった。じゃあ日向さんはあの人が好きなんだろうか。教育実習生ということは俗に言う「先生と生徒」という関係だ。ありえないような気もするけれど、日向さんのことはよくわからないない。2人の様子を見ているとだんだんお似合いな気もしてきて頭の中が混乱した。その時首筋に輪ゴム鉄砲が飛んできた。
「いてっ!」
飛ばしたのは日向さんではない。美咲だ。
「ごちゃごちゃ考えるな!師匠も中の中なんだから」
「え、それ顔の話?俺の方が悪いじゃん」
「ばか、そうじゃなくて。顔は関係ないの。考えても仕方ない。今は師匠の方が絶対有利だよ。いつでもそばにいてあげられるでしょ」
「でも、日向さん楽しそうだし」
そうこう言っていると、先生の手を引いて、日向さんが戻ってきた。
「勝てそうなの?」
「勝ちますよ。わたし絶対勝ちたいんです。今年の体育祭、誕生日なんです」
「そっか。9月9日だったよな」
その瞬間、日向さんとの会話が思い出された。
『体育祭の日、なんの日か知ってる?』
日向さんの誕生日だったんだ。今まで接点もなかったんだから知らなくても当たり前だけれど、この教育実習生が知ってて自分が知らないというのが癪だった。自分と方が今は近くにいるのに知らないことばかり。毎日会っていてもこんなに知らないことがあるのに、どうして長い間会っていなかった人より日向さんを知らないんだろう。
「日向、まだトランプやってる?」
「やってないです。先生が戻ってからずっとさわってないですよ」
トランプ?それが2人の間をつないでいたのだろうか。そろそろ2人の深い関係性が気になり始める。
「2人はなんでそんなに仲良いんですか?教育実習なら3週間くらい一緒にいただけですよね。なにか特別な関係なんですか」
僕が聞くまでもなく、美咲が疑問を口にした。僕のことはどうでもよくて、単純に興味本位。美咲も2人の関係が気になったのだろう。
「師匠…かな。師弟関係。強いて言えば」
師匠。教育実習生の口から発せられた言葉にその場にいた数人(美咲、雪、将太)が驚きを隠せなかった。
「「師匠!?」」
「だって師匠」
「どうする師匠」
「やばいよ師匠」
「ちょっと3人とも黙って!」
師匠師匠と連呼されて、その場は軽くパニックになった。落ち着いたところでやっと美咲が師匠ってなんの?と聞き返した。
「トランプマジックだよ。大学の頃やってたんだけど、日向が教えて欲しいっていうから一緒にやってたんだよ」
「トランプってそういうことか」
「でも日向俺があげたトランプさわってないんだろ?もう鈍ったよな」
「それ以上はないんですか?」
美咲が若干食い気味に聞く。なんでこいつは恋愛ごとがちょっと絡むとやたら積極的になるんだろう。初めての相手に普通ここまでぐいぐい聞けないだろう。
「だって3週間しか学校にいない先生が日向さんのこと名前で呼んでるし、トランプって日向さんがいつも持ってるやつでしょ?日向さんのカバンのストラップとかもトランプだし。結構仲良かったんじゃないですか?」
「仲はまあ良かったけど、それ以上なんてないよ。女子高生に手出すとか犯罪だし、退学とかになったら困るから」
「でも大学卒業したんでしょ?」
「年齢的にやばいでしょ。この子未成年だし」
「それって未成年じゃなかったらいいってこと?」
「さあ。どうだろうね」
先生は意味深な発言だけ言い残すと立ち上がった。
「先生のとこ行ってくるから。頑張れよ、日向」
「はい。ありがとうございます」
結局何しに来たんだろう。日向さんに会いにとかだったらどうしよう。でもあの人が日向さんに手を出すのは確かに教師としてありえないだろう。自分の教え子ではないとはいえ、それくらいの線引きはするはずだ。
「日向さんは、あの先生のこと好きだったんですか?」
美咲が更に追求する。聞いているこっちが耐えられない。
「好きではなかったよ。ルール違反だってわかってたし、年上だし。だいたい先生となんてありえないもん。まあ尊敬はしてたけどね」
それでも日向さんのトランプ型のストラップは毎日持ち歩くリュックで揺れている。ありえないと言っておきながらも心の奥では先生を思っていたのかもしれない。遠くを見つめる日向さんの目はどこかうっとりとしていて、人に恋するというのはこういうことなんだと悟った。僕は知らないことが多くすぎる。日向さんのこともその周りのことも。
Keisuke HASHIMOTO〈夏が人に恋をさせる。〉---3
「じゃあドア閉めるよー。さっさと出て」
6時を過ぎると作業は終わり。みんなが体育館を出て鍵を閉める。
「アイス食べてく人ー!」
「はーい!雪も行くよね」
「行きたい!」
美咲の一声に日向さんと雪が乗った。
「ちーちゃんは?行く?」
「ごめん、迎え呼んじゃったから帰るね」
すぐに迎えがくる人、部活に戻る人、用事があって帰る人。なかなか人は集まらないようだ。僕もバスに乗り遅れる前に帰ろうと、靴を履いて正門に向かった。
「はい、俺も行く」
「えー、将太もくるの?まいっか」
「師匠も行くよね?」
日向さんに声をかけられ振り返った。行きたいのは山々だけれど、バスがあと3分でくる。これを逃すと1時間はバスが来ない。
「バスもうすぐ来るので、帰ります」
「次のバスで帰ればいいじゃん。一緒に待っててあげるから。行こう!」
日向さんにと雪に両手を引かれて僕も団体に合流した。放課後はすぐにバス停に向かうから友達と寄り道なんて初めてのことだった。自然と心が高鳴った。
「自分が言いだしといて奢らせるってどうなの?」
「すいませーん。昨日映画見てお金ないんですよ」
「え、うちも一緒に見に行ったし!」
美咲はお金が足りなくて、結局雪に奢らせた。みんなで休憩スペースを囲んでアイスを食べた。いつもはない非日常が楽しい。これならバスを遅らせるだけの価値はあると思った。
「そういえば昨日ね、去年の文集みたんだ。学校文集」
日向さんが不意に口を開いた。1年の最後に発行される文集は各クラスの紹介文と写真、行事の記録、文化部の活動など、様々なことを一冊にまとめたものだ。去年僕が描いた絵もご丁寧に2枚も載せられている。
「師匠の絵見たよ。わたしね、師匠の絵好き。綺麗だよね」
「えー、どんな絵ですか?」
「かぐや姫みたいなの!」
自分が描いた絵を好きと言ってくれる人がいるのは照れくさいけれどやはり嬉しい。この歳にもなると普段言われることもないし、新鮮な気がした。
「見たいなー。師匠の絵」
「帰ってみればいいじゃん。文集みんなもらってるんだから」
「そうだね。師匠探そう」
みんなが解散してから僕は学校前のバス停に戻った。約束通り、日向さんも待っていてくれることになり、2人で戻った。後ろで3人のニヤついた笑顔がやたら気になった。
「ごめんね、付き合わせて。でも楽しかったでしょ?」
「はい。よかったです」
バス停に着いてベンチに腰掛ける。まわりは静かだ。完全下校後の6時過ぎのバスでみんな帰ってしまったのだろう。あと20分ほどでバスが来る。そうしたら僕はバスに乗り、日向さんは家に帰ってしまうから当たり前のことだけれど、少し寂しい気がした。
「夏も終わっちゃうな。わたし夏の思い出完全に立て看だったわ。ずっと立て看通ってたもんね」
「僕だって部活通ってましたよ。家と学校の往復だけです」
「わたしだって学校ばっかりだったよ、大事な高3の夏がさ。受験とかでもなく立て看。せっかくだからもっと高校生らしいことしたかったな」
高校生らしいことか。僕が前期のうちに自分の気持ちに気づいていて、思いを伝えていたら、何か違った今があったのだろうか。でもそもそも恋愛対象に入っていない僕の思いなんて聞かされても、困るだけだろう。
「高校生らしいことってなんですか」
「やっぱ恋じゃない?高校生の夏と言えば!師匠は好きな子いないの?」
「僕なんか好きになってもらえないですから」
「なになに?恋してんの?可愛いんですけど!」
「してません!」
「わたしなら絶対諦めないけどな。てゆか好きなんてやめようと思ってやめられるもんじゃないし思い続けるしかないよ。それを伝えるかどうかは別の話だけどね」
「じゃあ伝えずにずっと思ってるだけってことですか」
「本気度にもよるかな。本当に好きだって思ったら伝えるし、恋する自分に酔ってるだけならそうじゃなくなるの待つし」
恋する自分に酔っている。そういう場合もあるのかな。恋愛経験が浅い僕にはわからないけれど僕の場合どうかと聞かれれば答えはきっとNO。ちゃんと日向さんが好きだ。恋したいと思って恋したわけではないし。もしそうならきっとこんなに苦しくはならないだろう。
「どっちにしろ後悔はしたくないね。好きなら好きって言いたい。付き合うとか関係なくて、相手に好きって気持ちはわかってほしいから」
日向さんのふわりとした笑顔は沈みかけの太陽に照らされてキラキラしていた。
「師匠はどんな人がいい?」
日向さんのように明るくて、優しくて、社交性があって、周りを巻き込んで行ける人。出してみればいろいろあるけれど、結局のところ好きになった人なタイプなのかもしれない。中でも日向さんの1番好きなところは
「笑顔の素敵な人…ですかね」
「ロマンチストだね」
Keisuke HASHIMOTO〈夏が人に恋をさせる。〉---4
「ここもうちょっと薄い方が良くない?隣と色が近すぎてはっきりしない」
「そうですね。こっち塗りかえときます」
「枝も結構ずれてるね。直しとこうか」
2学期に入ったらすぐ作業は佳境に差し掛かる。体育館で並べてみてずれているところを修正する作業は立て看作業の中で最も重要だ。みんな熱が入っていく一方で冷めていくものもあった。
「紅虎の立て看みた?あれ勝てないよ」
「だよね。すっごい綺麗だった」
現実を見てきた3年生は原画の時点で勝てないことを悟っていた。そのため頑張ってはいるけれど、どこか諦めが混ざっている。
「だってデジタルだよ?アナログで勝てるわけがない」
「弥生、ちーちゃん!竹直すから手伝って」
「うん」
「大丈夫。アナログでも塗り方次第でデジタルにも勝てるって言ってたよ。頑張ろ!」
日向さんはいつも前向き。他の3年生が勝てないという中で、日向さんだけはいつも勝つ気でいる。前に聞いた誕生日のこともあってか、1番勝ちたいという気持ちは強いらしい。
「なんで他の3年生は日向さんと違って後ろ向きなんですかね」
「多分、現実知ってるからだよ。デジタルだと原画の色がきれいだから仕上がりも綺麗らしいね」
「まあそうですよね」
「でも最終的に立て看に書くのはみんなアナログなんだから一緒じゃない?って思うんだけどね」
確かに立て看に色を塗る作業はアナログだけれど、それまでの原画の完成度で出来上がる立て看は大きく変わる。
「前向きにやろうよ弥生。デジタルだからって格段にレベル上がったりしないよ」
「だったら日向が描けばよかったじゃん! 日向が勝てるアナログ絵、描けばよかったじゃん!デジタルに勝てるわけないのに!」
「デジタル関係ないって!勝ちたいからみんな頑張ってるんじゃん!なんで弥生はそうじゃないの!」
「弥生ちゃん、落ち着いて」
「日向さんも」
千紗さんと陽乃が仲裁に入り、2人は一度落ち着いた。
「自分じゃ描けないくせに。人に言われて塗ることしかできないのに口だけは達者でさ」
「なにそれ」
「どうせここでは指示待ち人間でしょ」
「…弥生なんかもう知らない」
日向はそう言うと体育館を飛び出して行った。
「日向さん!」
後ろから雪が追いかけた。美咲がこちらを向いて僕を誘っている。けれど僕に日向さんを追いかける資格はない。日向さんのこと何も知らないのに、そばに行ってなんと言ってあげられるだろう。
「時間近いし、今日はもう片付けよう」
千紗さんの一声で体育館を片付け始めた。外はかんかんと日が照っているのに、体育館の空気は重く冷たかった。一枚一枚立て看を運ぶ時間がいつもより長い。人数が少ないからか、みんなの動きがスローだからかわからない。僕だけの時間が遅いのかもしれない。全てを片付け終わってバスの時間まで
ぼーっと窓の外を眺めていると、美咲が腕を引っ張った。振り返るとケータイの画面を突きつけられた。雪からのメッセージだ。
〈4棟1階の空き教室にいるよ。あとで師匠が迎えに来てね♡〉
「ハートとか…言ってる場合じゃないよ」
「でも迎えに行って。荷物置きっぱなしだし。持っていって」
「でも僕じゃダメだ。日向さんのこと何も知らない。かけられる言葉ないし」
「知ってるかどうかじゃないでしょ。そばに居られるかどうかなの!」
「日向ちゃん、もう来ないかもしれないね」
千紗さんがぽつりと呟いた言葉に周りの空気がさらに温度を下げる。
「日向ちゃん結構気にしてるんだよ。絵が描けないこと」
「そうなんですか。でも絵が描けなくても日向さんすごいとこいっぱいあるじゃないですか」
「それもそうなんだけどね、でも1番やりたいことができないって辛いんだよ」
1番やりたいこと、か。確かに絵が好きで、色を塗ることも好きで、立て看作業が誰よりも好きな日向さんだけれど美術部に入っているわけではないし、作業に参加したのは今年が初めてだと言っていた。きっと美術部に入るほどの画力がないことを気にしているのだろう。
「師匠、これ持って」
「えっ?は?」
美咲に渡されたのは日向さんの荷物。本当に持っていくつもりなんだろうか。そのまま無理やりに腕を引っ張られて外に出た。
「どこ行くの?」
「日向さんのとこ。空き教室」
「そっとしといたほうがよくないかな」
「いや、体育館閉めちゃうから。いいから行ってきて」
空き教室の前では雪がドアの前に座って手を振っていた。中に入ったいたわけではないのか。ドアの前で立ち尽くしていると突然雪がドアを開け、うしろから美咲に押し込まれたかと思うと一気にドアを閉められた。
「えー…」
「…どうした?」
「いや、荷物…持ってきました」
外で足音が遠ざかっていく。きっと2人は戻ったのだろう。全部押し付けやがって。
「ごめんね。もう片付けた?」
「はい。もう時間ですし」
「前から弥生とは温度差あったんだよね。やだなあ。もう戻れないや」
「でも立て看描いてたら勝ちたいのは当たり前だし」
「そうなんだけどね。わたし何もできないんだ。絵が描けるわけじゃないから原画も任せっぱなしだったし、微妙な色の差とかもわからないから色指定もできない。本当に言われて塗るだけしかできないのに口出しだけは一人前で。全部弥生の言う通り」
「仕方ないですよ。美術部でも難しいことですし」
「でも悔しんだもん!やりたいことも満足にできないんだよ?器用にいろいろできなくていい。好きなことだけでもできる自分がよかったの!」
そう訴える日向さんと目に涙があふれた。女の子を泣かせてしまった。やっぱり僕には無理だったんだ。そばにいるだけではいけない。僕には日向さんが今欲しい言葉がわからない。
「師匠はいいな。絵が描けて。ずっと憧れてるんだ、わたし」
違う。知ってるかどうかじゃない。今ここにいるのは僕しかいない。僕しか日向さんに声をかけてあげられないんだ。
「僕は…日向さんが羨ましいです。すぐにみんなと仲良くなれて。普通の人じゃできないですよ」
「でもわたしはそれは欲しくない。画力が欲しかったの。不器用なままは嫌…」
「不器用だっていいじゃないですか。僕はそのままの日向さんを…尊敬してます」
「師匠…ありがとう」
今はただ日向さんの笑顔を取り戻したい。僕が惚れた笑顔。思いを告げるのはそれがらでいい。自信がなくて、先延ばしにしているだけかもしれないけれど、今は黙ってそばに居られるだけでよかった。
翌日、弥生さんと日向さんは作業に来なかった。体育祭練習の時には見かけたから2人とも学校には来ているのだろう。お互いに会いにくいから来ていないんだろうけれど、結果2人とも応援練習に参加しているのだろうか。
「2人とも来ないのかな」
ありすが不安そうに呟く。それに便乗するように理央もため息をついた。
「2人がいなくても、できることやろう。色指定してあるところから塗ってね」
2人がいなくなってただ1人残った3年生の千紗さんは自分がしっかりしなくては、と思ったのか少しばかりリーダーシップが現れたように感じる。もしかしたら2人とも帰ったのかもしれないな、とか考えながら絵の具をのせていると、がらがらっと重い扉が開き、日向さんが顔を出した。
「日向ちゃん!」
「ごめん、遅くなって」
それだけ言うと、いつものように絵の具を選んで色指定それた区域を塗っていく。まるで何事もなかったかのように、昨日とまるで変わらない行程を繰り返す。当人が気にしてないのなら話題に出さないのが1番。誰も腫れ物に触らぬよう、言葉数も少ないまま作業を進めた。
「日向さんと話さなくていいんですか?」
話しかけてきたのは1年生の陽乃。突然のことにうまく状況がつかめない。
「何を?」
「師匠ってわっかりやすいですよね。そのうちばれますよ。日向さんに」
「え、なんのこと?」
「なんとなくですけど、今日向さんのフォローとかできるのって師匠だけな気がするんです。師匠が話聞いてあげてください」
「えー、無茶振り。怖いじゃん。あの中踏み込むの」
「踏み込んでこそ男ですよ。日向さんもきっと誰か聞いて欲しいと思ってます」
「そう、なのかな…」
不信感を抱きながらもちらっと横目で千紗さんを見る。ずっと同じクラスの千紗さんなら何かいいアドバイスをくれないだろうか。
「今はやめといたほうがいいかも。弥生ちゃんも日向ちゃんも痛いところは突かれたくないタイプだから。しばらくそっとしておこう」
ほら、と見返すと、えーでもー、と陽乃はまだ何か続ける。平穏でいられるのが1番いい。無理に掻き乱さなくても、今のままで日常が回るならそれでいい。
「そろそろホログラムシート貼ろうか。師匠上行ってくれる?美咲、筆持ってきて」
背景にある枝に梅の花の一部分にだけホログラムシートを貼る作業。僕は言われた通り2階に上がって全体の様子を見た。
「ここも貼ったらキラキラしすぎ?
「そうですね、その右ならまあ…」
他の花や背景の月とのバランスを考えて多すぎず、少なすぎないように花を光らせていく。
弥生さんが来なくなって2日。時間もないし、わからないことも多いし、そろそろ戻ってきて欲しいところだ。
「2人仲直りしないのかな…」
「圭くん」
隣から声をかけてきたのは同じ美術部の葉月。2年生の中でも1番センスがあり、ホログラムシートのバランスなどを見るのも葉月にやって欲しいくらいだ。同じブロックではないけれど体育館の中でよく会う事はあった。
「かっこいいね、圭くんとこの立て看」
「葉月んとこもすごいじゃん」
「原画描いたのはわたしじゃないからな。すごいのは3年生だよ」
「まあそうかな。うちは1年のほうがしっかりしてるとこあるけど」
部活の時間が取れなくなった今、いつもの時間が懐かしくなって葉月とたくさん話した。体育祭練習で疲れてはいるけれど、会話は弾んだ。
「葉月はさ、これから接点なくなるってわかってる人好きになったらどうする?」
「なにそれ?リアル?」
「いいから。どうする?」
葉月は少し黙り込んで考えるとこっちに向き直った。
「離れる前に告白したいかな。そのまま離れるのは嫌だし。まあ、そんなに簡単じゃないだろうけどね」
「だよね」
やっぱりこの思いは伝えるべき。離れる前に。体育祭が終わる前に。
しばらくそうしていると、日向さんも2階に上がってきた。
「やっぱり上から見たほうがわかりやすいね。あのあたりもあったほうがいい?」
「そうですね。下の辺りはもっとキラキラさせていいと思います」
「圭くんが指示出してる。なんか面白い」
「なんだよそれ」
「2人は仲良いね。そっか。部活同じだもんね」
日向さんは笑ってそう言い残すと、下の方も貼ってみるね、と降りて行った。今までも人より動いていたほうだと思っていたけれど、弥生さんがいなくなってから今までにも増してよく動いている気がする。時間がないにもかかわらず、少し休めばと思ってしまうほどだ。
「あの人いいね。日向さん」
「うん、いい人」
「弥生さんずっと来てないの?」
「来られないだろ。日向さんもなにも言わないけど、そろそろ厳しいな」
「そうだよ。原画描いた人にしかわからないこともあるし」
「でも2人とも触れられたくないみたいだから」
「そんなこと言ってたら体育祭間に合わないよ」
やはりいつまでもそっとしておくわけにはいかない。頭ではわかっていても行動には移せない。日向さんへの気持ちと同じ。自分が受け入れられないのが怖くて、逃げてしまう。やっぱり僕には荷が重すぎる。どうか、穏便に解決できる方法はないんだろうか。
Keisuke HASHIMOTO〈夏が人に恋をさせる。〉---5
翌日から日向さんは作業に来なくなり、入れ替わるようにして弥生さんが来るようになった。今まで止まっていた作業が動き出し、再び完成に向かって動き始めた。しかし日向さんが動き回らない分作業は円滑には進まず、どうしてもスピードが追いつかない。あと3日でどこまで仕上がるだろう。
「日向さん」
グランドでの応援練習を終えて正門に向かう日向さんを引き止めた。
「お疲れ様。もう終わったの?」
「はい。応援練習も終わったんですね」
「まあね。仕上がりそう?」
「多分。日向さんも立て看来てくださいよ」
「わたしが行かないほうがいいでしょ。なにもできないし、弥生もやり辛いし」
「日向さんいないと人員足りなくて。戻ってきてください」
「今更戻れないよ。美術部でもないのに立て看作業掻き乱して作業ストップさせてさ」
「お願いです。来てください。このままじゃ体育祭までに出来上がらないです。日向さんが必要なんです」
「…わたしが行ったら、勝てる?」
勝てるかどうか。そう聞かれると並べてみないとわからないというのが現実だけれど、今はのるしかない。
「勝てます、絶対」
自信を持ってそう言うと日向さんはニコッと笑った。
「一緒に勝ちに行こうか」
翌日からまた日向さんが立て看作業に戻ってきた。弥生さんと目を合わせることもなくナチュラルに体育館に入り、作業を始めた。空気は冷たいまま。2人は言葉を交わさない。不穏な空気が辺りを満たしていく。やっぱり誘わないほうがよかっただろうか。でも日向さんがいないと作業は終わらないだろうし。1人葛藤を繰り返しているとその不穏な空気は断ち切られた。
「日向、そこの枝おかしくない?」
「枝?どの枝」
「1番上。ない方がいいかな?」
周りの心配をよそに2人は何事もなかったように言葉を交わした。そして自然に周りの冷たい空気が取り払われた。
「師匠が連れてきてくれたんでしょ、日向ちゃん」
千紗さんが筆を持ったまま小声で話しかけてきた。小さく頷くと優しく笑って返してくれた。
「ありがとう。これで立て看完成しそうだね」
ほとんどは塗り終わり、それからホログラムシートも貼り終え、修正も終わり、立て看は完成を迎えた。
「これで明日設置できれば終わりか」
「ホログラムシート剥がれませんように」
「雨、降らないといいですね」
思い思いの言葉を口にしながら立て看をステージに運んだ。明後日はついに体育祭本番。夕方にもなると風が涼しい季節になった。
「明後日のこの時間には結果も出てさ。みんなで泣いてんだろうね」
「どうかな。2位とかだったら泣くに泣けないよ?」
「確かに」
3年生が感傷に浸り始めた。夏休みに入ってから1ヶ月以上、少ない時間を酷使して作業してきた。思い入れは誰よりも大きなもの。
「嬉し泣きだったらいいな。それが本当の体育祭マジックだよ」
「体育祭マジックってなんですか?」
体育祭が終わるとその雰囲気に呑まれて仲の良い男女が甘い空気に充てられてしまうことがある。そのまま河川敷で夜まで過ごし、警察にお世話になることがあるらしい。そう言うことがないようにと毎年毎年生徒指導の先生が釘を刺しているのだ。
「起きればいいな。立て看勝てますように」
日向さんが夕暮れの空に手を伸ばした。沈みかけた夕日は遠く離れていくようで、日向さんはそのまま手を下ろした。
「帰ろうか」
それぞれが帰路に着く。
「そうだ!昨日バイト代入ったんです!コンビニ行きませんか?」
「お!雪のおごり?いいじゃん。行く行く」
雪の提案に美咲が早々とのった。いつも暇な奴らだな、と弥生さんが苦笑した。
「師匠も行く?」
「ああ、うん。行こうかな」
「日向さーん!アイス食べに行こう!」
「あー…わたしはいいや。みんなで行って来て。陽乃、帰ろう」
前のように二つ返事でのってくるかと思ったが、今日はそうでもなかった。
「俺も行く。雪のおごりだろ?」
「将太もね。日向さん本当にいかないんですか?じゃあ今日は2年生ズだ。めぐもいく?」
美咲が誘うと恵はいつも通りおとなしく頷いた。
「意外だね、日向さん来ないって」
アイスを食べながら美咲が切り出した。
「それな!なんかあるのかな。師匠なんかした?」
「え、なんで僕?」
「うちと雪は心当たりないもん。ね」
「それに、将太とめぐが来るって言う前から断ってたじゃん」
「俺は特に何も…」
心当たりなんてない。話したのだって昨日が久しぶりだったし。僕がしたことは結局無駄だったということなのか。日向さんを傷つけてしまったのかな。
「次はどれ?」
「向こうのやつ!」
体育祭前日。ブロックの3年生が慌ただしく立て看を運ぶ。応援席の上でパズルのように1枚ずつ繋げていく。こうして太陽の下でまっすぐに並べると自分たちが描いたものとはまた違うもののようだった。
「綺麗だね、青の立て看」
隣の青ブロックの立て看はいろいろな色が使われており、全体的にカラフルで賑やか。赤も同様。3つ並べるとなんとなく黄色だけが控えめに見える。
「大丈夫。控えめなんじゃないよ。賢いの。絵がまとまってるんだから。勝てる勝てる勝てる」
「ポジティブですね」
千紗さんと日向さんはずっと動き回って絵を訂正したり、ホログラムシートを貼り直している。僕はというと、下から立て看を見上げて不自然なところを指摘していた。
「あー…そこはそれでいいです。その右、ずれてます」
「師匠」
「ん!?」
後ろから脅かすように声をかけてきたのは陽乃だった。1年生は別作業があり、入場門を設置していたはずだ。
「入場門終わったんです。それより、最近葉月さんと話しました?」
「葉月?話したけど…」
「何話したんですか」
「別に。お互いの立て看のこととか」
「師匠って葉月さんと仲良いですよね」
「急にどうした」
ぐいぐいと質問してくる陽乃にさすがに不信感を抱いた。
「昨日が日向さんと帰った時にちょっと気になること聞いたんです。先に確認ですけど、師匠は日向さんが好きなんですよね」
「いや、別に」
「好きですよね?」
「…はい」
おとなしく頷いておかないと話が前に進まない。いったい陽乃は日向さんから何を聞いたんだろう。
「日向さんが師匠と葉月さんいい感じだったなあって言ってましたよ。これって日向さんが昨日師匠と帰らなかったのと関係あると思いません?」
「思わないけど…」
「思ってください!」
頭の中でばらばらのパズルのピースのように陽乃のセリフが飛び交う。パズルはうまくかみ合わず、なかなか完成しない。
「日向さん気遣ってるんですよ。葉月さんと師匠がそういう関係なんじゃないかと思って。それで距離を取りたいんじゃないですか」
「そんなこと…てゆか葉月とはそういうんじゃないし!もしそうだって女子と話すことくらいあるでしょ」
「師匠って本当に日向さんのこと好きなんですか」
「え、だから…」
「本当に好きなら、ちゃんと見てあげてください。日向さんのこと」
陽乃はそれだけ言うと自分のクラスに戻った。僕は何か重要なことを見失っているのだろうか。それは僕が気づけることなんだろうか。
「今日は準備だけです。放課後の練習はなし。ラインを引くのでグランドには入らないでください」
先生の言葉を最後にその場は解散した。この後は立て看作業に使ったバケツや筆を洗うため、またいつものメンバーで居残りだ。
「なんか寂しいね」
流しで洗ったバケツを片付けていた日向さんがぽつりと呟く。
「終わるのがですか?」
ありすが尋ねると日向さんは静かに首を横に振った。
「なんかね、立て看だけ早過ぎるのが。競技も応援も明日の頑張り次第でどうにでもなるのに、立て看はもう何もできないでしょ。立て看も最後まで一緒に戦えたらいいのにね」
三つ立て看が並ぶと体育祭が始まるんだと実感する。
「勝とうね、明日!」
日向さんは周りにいた1年生たちに一人ひとりハグを交わしていった。
「師匠も」
「いや、僕はいいですよ」
「いいのいいの。最後なんだから」
僕よりも10センチ以上背の低い日向さんからのハグ。子どものように暖かくて、でも強くて、明日は勝たないと、という気持ちでいっぱいにされた。
「師匠。水鉄砲持ってきた?」
美術室からひょこりと顔を出したのは大きな水鉄砲を抱えたほのか。美術部の2年生だ。
「あ、明日使うの?」
「そうです!」
体育祭の部対抗リレーで使う水鉄砲。各自で用意するので自由度は高いが、ほのかの水鉄砲は子どもの頃には使えないような大きなもの。美術室からほのかに続いて葉月や珠里も水鉄砲を持って顔を出した。
「試しに打ってみようよ。どれくらいとどくか」
みんなが水鉄砲を持って美術室前の手洗い場に並んだ。
「ほのかのすごいね!いくらしたの?」
日向さんが嬉々として尋ねる。
「1700円しましたよ。半分お母さんが出しましたけどね」
「高校生が水鉄砲に1700円…」
「ほのかさん、やりますね」
「貸して貸して!わたしもやりたい」
ほのかから1700円の水鉄砲を受け取った日向さんはその銃口を僕に向けると思い切り引き金を引いた。
「うわっ!」
「おおー!1700円すごいね!」
思いっきり打たれた僕はびしょ濡れのまま自分の水鉄砲を構えた。
「きゃあ!」
「仕返しです!」
「やりあがったな!」
日向さんと僕と葉月と珠里。水鉄砲を持った全員が戦闘態勢に入り、打ち合った。子どもの頃にもしなかったようなガチの打ち合い。課外と作業で満喫できなかった夏を取り戻すように水を打ち合った。
「楽しい!」
みんなの笑い声が辺りに響いた。先生に見つかったら怒られそうだけれど本当に楽しかった。この夏1番の思い出になる気がした。
「そうだ。あのね、圭くん。さっき美術部の前であの人に会って話したんだ」
葉月が嬉しそうに笑って僕に話しかけてきた。葉月には隣のクラスに好きな人がいて、たまに話を聞くことがある。美術部の人は大体知ってるから、高ぶった感情を伝えたいときは誰か訴えているようだ。最近は女子に話すとからかわれるからと僕に話していることが多い。
「葉月ちゃん好きな人いるんですか?だれだれ?2年生の人?」
恋話に飛びついてきたのは日向さん。葉月の後ろから抱きつくように飛びつくと葉月は顔を赤らめたまま小さく頷いた。
「そっか。美術部はみんな知ってるの?」
「大体は。圭くんにはたまに話聞いてもらってて」
「葉月ちゃんってかわいいね。叶うといいね、恋!」
日向さんはそう言うとまた僕の顔めがけて水鉄砲を放った。
「ちょ、今そういう感じじゃなかったですよね!」
「知ーらない!ぼけっとしてるのが悪いんだよ!」
笑って打ち続ける日向さんの表情はさっきまでと比べてどこか晴れやかに見えた。楽しんでもらえるならいいか、と僕も水鉄砲を打ち続けた。
「びしょびしょになっちゃったね」
「高校生が水鉄砲でびしょ濡れとか」タオルで体を拭きながらみんなが口々に言った。
「僕片付けてくる。貸して」
「ありがとう。わたしたち帰るね」
本当はもう少し遊んでいたい気もするけれど、これ以上は本当に先生に怒られてしまう。ほのかや珠里、ありす、理央は帰り、葉月と陽乃と日向さんは濡れたまま手洗い場の前に腰を下ろしていた。
「すごいな、水鉄砲」
残っていた3年生の先輩が水鉄砲を見て苦笑した。僕も少しだけ笑うと美術室を出た。外に置いていた荷物を持って帰ろうと校舎を出たとき、手洗い場にいる3人に気づいて足を止めた。まだ何か話しているらしい。
「そっか。かっこいいね、葉月ちゃんの好きな人」
女子の恋バナ。今出て行くのはさすがに躊躇われる。かといってここで聞いているのも良くはないが、しばらくタイミングを見ることにした。
「そろそろ告白しようかなって思ってるんです。でもやっぱり恥ずかしくて」
「出来るうちにしたほうかいいよ。いつか間に合わなくなるから」
日向さんの声が聞こえる。日向さんはもし今好きな人がいたら告白するんだろうか。
「でも今日は1回話せたからよかったです」
「わたしもね、今日話したんだよ」
「日向さんは最近ほぼ毎日話してるじゃないですか」
陽乃が楽しそうに言った。日向さんには好きな人がいる。しかも毎日話すほど仲がいい。日向さんが僕と距離を置きたいと思ったのはそっちが本命なんだろうか。
「でも告白はしないよ。わたし体育祭終わったら受験生だもん。勉強するって決めたんだ。第一志望絶対受かりたいから」
「じゃあ恋辞めるんですか?」
「そうだね。辞めちゃうかも。今は夢より追いかけたいものなんてないよ」
「じゃあ告られたら?」
「多分、断るかな」
その人は僕の知らない誰かなんだろうか。でも日向さんはその誰かから告白される以外もう恋をする様子はない。なら僕にもう勝ち目はない。体育祭が終われば夏は終わる。夏が僕にさせた恋は、そこで幕を閉じるのだ。
Keisuke HASHIMOTO〈夏が人に恋をさせる。〉---6
「1人救護にいるから、男子1つずつ詰めて」
熱く燃えた体育祭を終えて、閉会式の準備が始まった。体育祭では各グループで学年別の身長順に並ぶ。うちのグループの男子は3年生が少ないので2年生の中で比較的背の高い僕は前から4番目の左端にいた。しかし、閉会式の前に1人抜けたため1つずれて3番目の右端に動いた。
「あ」
「あれ、師匠だ」
日向さんは女子列の前から3番目左端。つまり、詰めた僕の隣だ。閉会式の前にここに来てしまったの正直怖い。今から成績発表があるのだ。立て看の結果が芳しくなかったとき、僕は日向さんの横で平静を保っていられるだろうか。
「勝てますかね、立て看」
「勝つよ。昼までの競技も1番だったし、応援もいい感じだった。立て看だって勝たないとね」
立て看は競技のように数字が出るわけでもなく、応援のように声の大きさや団結力が目に見えてわかるものではない。審査員の先生がいいと思えばいい、悪いと思えば悪い。つまり好みの問題なのだ。
「成績発表を行います」
日向さんの手がぎゅっと強く握られた。僕も息を飲んだ。
「競技の部優勝、雷龍」
あたりを歓声と拍手が包む。昼までの点数がそのまま増え続け、結果雷龍が逃げ切る形で優勝したらしい。これで賞状1枚だ。
「応援の部優勝、雷龍」
再び歓声と拍手。2枚目の賞状にさっきよりも大きな歓声に胸が高鳴る。このまま3冠をとるのか。それとも2冠に終わるのか。日向さんは静かに祈る。僕も黙ったままぎゅっと目を閉じた。
「立て看の部優勝、__」
神は微笑まなかった。競技と応援を制した雷龍に立て看を制すことを許さなかったのだ。他のグループの名前を呼ばれた瞬間に日向さんの目には涙が浮かんだ。それでも周りは競技と応援で勝てたことで総合優勝を確信して喜んでいる。今泣くことは許されない。日向さんはその涙を必死でこらえていた。僕は膝を強く抱えた日向さんの手に自分の手を重ねた。もう我慢しないでください。もう頑張らないでください。そう思って優しく手を握った。顔を上げて僕を見た日向さんの目から幾筋もの涙があふれた。それは静かに流れていった。
「みんなのおかげで総合優勝できました。3年生全員1,2年生には感謝しています。今までついてきてくれて本当にありがとうございました」
立て看は本番は特に触れられることもなく、あまり体育祭の一部として認識されてはいない。だから立て看で勝てなくても競技と応援で勝って総合優勝すれば完全勝利なのだ。仕方ないと思う反面、一緒に戦えないことが悔しかった。体育祭が終われば立て看は無情に降ろされていく。明日からはこの絵を剥がす作業が始まる。前日までかけてあんなに必死で作ったものを自らの手で壊すのは虚しい。1時間の作業の末、立て看を下ろし終え、全体は解散となった。
「終わりましたね、全部」
「やりたかったな、総ナメ」
解団式の間も喜びを語り合うみんなの中で立て看メンバーだけが重い空気をまとっていた。その沈黙を破って立ち上がったのは日向さんだった。
「楽しかったね、夏休み。2学期入ってからも。いっぱい迷惑かけたし、3年生なのに全然頼りなかったけど、すっごく楽しかったよ。ありがとう」
「日向さん…」
陽乃が泣きそうになりながら日向さんに抱きついた。続いて理央、ありすと順々に抱きついていく。日向さんはよろけそうになりながら3人を受け止めた。
「陽乃ちゃんとありすちゃんは部活あるんでしょ。理央ちゃんも早く帰りなね」
そう言って立て看メンバーの余韻も解散となった。日向さんたちは荷物を取りに教室に戻った。僕も部活に行こうと美術室に向かったとき、後ろから止められた。両腕を引っ張っているのは陽乃とありす。
「行かないんですか?日向さんのとこ」
「なんで?」
「伝えなくていいんですか」
今まで知っている素振りさえ見せなかったありすも本気で押してきた。
「師匠昨日の話聞いてましたよね。日向さん自分から告白するつもりはないんですよ。だったら師匠から行かないと」
陽乃の言葉に心が揺らぐ。けれど日向さんが好きなのは僕じゃないかもしれない。むしろ僕であるはずがない。日向さんの恋愛対象にも見られないような僕が告白する権利なんかない。日向さんを悩ませてしまうだけだ。
「行ってください。きっと大丈夫ですから」
「でも日向さん好きな人に告白されても断るって言ってた。無理だよ」
「忘れたんですか。今日誕生日ですよ、日向さん」
「あ、そうだ…」
9月9日。体育祭の日は日向さんの誕生日。行かなければ。大切な人の大切な日。今行かなければきっとこの先後悔する。
「大丈夫です。信じてください。だって、日向さん…」
日向さんの教室は木造校舎の2階。僕は奥の階段から降りる日向さんに追いつこうと必死で走った。
『だって、日向さん師匠のことずっと待ってましたから。』
もしその言葉が本当なら日向さんはきっとまだ待ってくれている。追いつきたい。ずっと僕を待ってくれていた人。ずっと僕が見ていた人。ずっと僕を見てくれていた人。
「日向さん!」
2階奥、外につながる階段の前で日向さんに追いついた。
「やっと来てくれた」
日向さんは暖かく笑った。
Hinata NAKAHARA〈18回目の誕生日〉---Another edition
高校3年生の夏休み。1年生の頃からずっとやりたかった立て看作業参加した。1年の頃から憧れていたけれど、同じクラスに美術部員がいたのでわたしに声がかかったことはなかった。3年目にして最初で最後の立て看。正直初めは勝つことしか考えてなかった。自分は初めてのことばかりで何をしていいのか、どうするものなのかわからないのに、とにかく勝ちたい思いだけが先走っていたような気がする。正直言ってわたしを含む3年生はほとんど何もしていない。いなくても良かったのではないかとさえ感じた。しっかり者の陽乃ちゃん、気配り上手なありすちゃん、サポート上手な理央ちゃん、仕事の早い美咲、いつも元気な雪、盛り上げ役の将太、協調性のあるめぐ、そしてみんなをまとめてくれる師匠。わたしたちなんか必要ないんじゃないかっていうくらい、本当に信頼していた。夏休みに入ってから立て看の作業が楽しみで仕方なかった。みんなに会うことが、絵を描くことが楽しかった。少しだけ、勝っても負けてもこのメンバーでいられたことが思い出になればいいと思った。けれど、課外授業の合間に応援合戦の進捗を聞くとこのまま思い出だけでは終わらせられないと思った。やっぱり勝ちたい。勝つしかない。その気持ちがどんどん大きくなった。弥生やちーちゃんは勝てないと言ったけれどわたしは勝つ気でいた。だってこのメンバーならなんだって叶えられる気がしたから。
『Summer makes people fall in love』
その言葉を習ったのは確か先週の英語の時間。そのときは夏は花火大会や海やバーベキューといったイベントが多いから恋がしたくなるって程度にしか思ってなかった。けれど17の夏、わたしは知ってしまった。夏に恋をさせられるということ。
1年前の立て看を見てみようと学校文集をめくったとき、師匠の絵を見た。橋本圭佑という名前の上に印刷されている絵にわたしは感銘を受けた。月夜のかぐや姫をモチーフに描いた絵画。たくさん散りばめられた桜の花弁がとても綺麗で、すぐにその絵の虜になった。そして必然のように師匠に恋をした。普段どんなに好きな絵を見てもその作者に恋をすることなんてないのに。そのときはきっと普段の師匠とその絵との隔たりに惹きつけられただけだと思ったけれどもしかしたら夏という季節にまんまと引っかかっていたのかもしれない。
「僕なんか好きになってもらえないですか」
アイスを食べに行った日の帰り、突然の言葉に驚いた。師匠は好きな人がいるんだ、と胸の片隅が痛んだ。けれど、それを悟られないようにいつものテンションで明るく聞き返した。これから夏が終われば受験に集中しなければいけない季節がやってくる。そのときに恋を切り捨てられるように、師匠に誰かもわからない好きな人を追いかけて欲しかった。自分ではない誰かと仲のいい姿を見せつけて欲しかった。自分の思いを断ち切るために師匠を利用しようとしたのだ。でも、後悔したくない気持ちや、相手に好きと伝えたい気持ちは本物。だから少しだけ応援してあげた。師匠の恋が実るように。
「師匠はどんな人がいい?」
「笑顔の素敵な人…ですかね」
わたしの笑顔は君に届いてるかな。諦めなきゃいけないと思っても追いかけてしまう。だって好きなんてやめようと思ってやめられるもんじゃないもの。
先生と再会したのはそんなとき。わたしたちのクラスについていた先生はトランプマジックが得意で、わたしもそれを教わっていた。教師になって忙しいのかと思いきや、夏休みの大学生のように学校に遊びに来ていた。久しぶりの先生は2年前の教育実習のときと全然変わっていなくて、なんだかとても懐かしい気持ちになった。
「勝てそうなの?」
「勝ちますよ。わたし絶対勝ちたいんです。今年の体育祭、誕生日なんです」
「そっか。9月9日だったよな」
ちらっと話しただけなのに覚えてくれていたんだ。わたしの誕生日。今年の誕生日は立て看の優勝が欲しいと弥生やちーちゃんにおねだりしていた。誕生日に体育祭ってちょっと特別な気分だ。今まではだいたい普通の日だったけど、今年はいつもと違う。体育祭だからと言って何か変わるわけではないけれど立て看で勝てたら最高の誕生日になると思う。だから頑張りたかった。絶対勝てる立て看をみんなと作りたかった。それだけに弥生が絶対勝てないというのが悔しくて、思わず強く当たってしまった。自分じゃ原画も描けないくて、人に言われて塗ることしかできない。ホログラムシートの配置もわからなくて現実も見えてない。わたしには美術的なものが備わってないんだと改めて思った。絵が描けるわけでもないのに好きだから、やりたいからという理由だけでここに入ってきたのが間違いだったのかもしれない。それでも勝ちたいと思った。負けたくなかった。だから弥生とぶつかった。好きなことも思うようにできなくて不器用で。そんな自分が悔しくて涙がこぼれた。ただ勝ちたいだけなのに自分では何もできなくて、自分のやりたいことさえ他人頼りな自分が嫌いだった。
「不器用だっていいじゃないですか。僕はそのままの日向さんを…尊敬してます」
そのままでいい。その言葉がすごく暖かかった。不器用で何もできない、わたしの嫌いなわたしを必要としてくれる人がここにいる。それがわかったことがとても嬉しかった。
「師匠…ありがとう」
次の日、迷ったけれど弥生が応援練習に参加しているのを見てわたしは立て看に行くことにした。しばらく距離を置けば落ち着くかもしれない。2人も人員が欠けるときっと立て看は仕上がらない。弥生ほどいろいろなことはできないけれど、言われた仕事は弥生より早くこなせる。全体の色はほとんど塗れているし、ホログラムシートを貼るために師匠や美咲と動いた。弥生が来なくなってできないこともあるけれど、その分わたしができることは全力でやらないといけない。帰ってきて欲しいとは思わなかった。代わりに自分が頑張ろうと思った。弥生の分まで2倍も3倍も働けばいい。わたしにできないことは他にやってくれる人がいる。みんなでやれば弥生のカバーだってできるはずだ。
「師匠、こんな感じで…」
見上げた先には師匠と可愛い女の子。確か美術部の山口葉月ちゃん。こうしてみると、2人ってお似合いだな。美男美女って感じじゃないけれど、お互い気を使わない感じや素でいる感じがすごくいいなと思った。今声をかけるのは師匠の邪魔になるかもしれない。わたしは自分で確認しようと階段を上がった。
「圭くんが指示出してる。なんか面白い」
「なんだよそれ」
やっぱり仲良いな。師匠いつもより楽しそうだ。こんな笑顔見たことない。
「2人は仲良いね。そっか。部活同じだもんね」
そのまま階段を降りた。師匠は葉月ちゃんのこと好きなのかな。2人はそういう仲なのかな。考え始めると頭を離れない。
次の日からは応援練習に参加した。弥生がいないと厳しいことにそろそろ気づいてしまったから。わたしがいたら弥生は来ない。でもそれ以上にあの場に行きたくないと思ってしまった理由がある。葉月ちゃんと一緒にいるところを見てから師匠になんとなく顔を合わせたくないなと思ってしまった。師匠が、好きな人が他の女の子と親しげにしているところを見るのはやっぱり面白くない。わたしはいつからこんなになってしまったんだろう。たった1つの絵をみただけでこんなに変わってしまうなんて。それほどにあの絵が、師匠が好きなんだ。こんなに人を好きになることなんて今までなかった。やっぱりこれは夏のせいなのかな。
「お願いです。来てください。このままじゃ体育祭までに出来上がらないです。日向さんが必要なんです」
師匠はいつもわたしを必要としてくれる。いつも温かい言葉をくれる。そういうところが好きなんだ。
「勝てます、絶対」
らしくない自信に満ちた顔。そういうところも好き。ちょっと無理するところとか、人を大事にできるところとか、それなのに子どもじみたところもあったりする。いつもちゃんとそばにいてくれるし、離れれば迎えに来てくれる。だからわたしは君の言葉を信じたんだよ。君を信じたいって思ったから。本当に起きてほしい体育祭マジックは君からの告白。でもそんなこと無理だってわかってるから、君とはもう少し距離を置くことにした。
体育祭前日、立て看を並べ終えるともう自分たちの体育祭が終わったようで寂しくなった。まだまだこれからなのに。明日も頑張れるようにみんなとハグを交わした。本当は怒られないかなって思ったけれど、最後のハグにするからと師匠を抱き寄せた。
それからみんなで水鉄砲を打ち合った。みんなで打って打たれて、びしょびしょになるまで夏を楽しんだ。こんなに楽しい日はないと思った。それから葉月ちゃんの好きな人のことを知った。師匠じゃなかったんだと安心した。それからまた水鉄砲を打った。
師匠が水鉄砲を片付けに行っている間に手洗い場の前に座って葉月ちゃんと陽乃ちゃんと恋バナを始めた。
「師匠は日向さんのこと好きなんですよ。だから日向さんも師匠を待っててあげてください」
陽乃ちゃんにそう言われた時は驚いたけれど嬉しくて、恥ずかしくて頬が熱くなった。いつになく今年の夏は青春してるなって感じた。いつまでもこの日が続けばいいのに。体育祭なんて終わらなければいいのに。そう思った。
「日向さん!」
だから体育祭が終わったあと、諦めて帰ろうとした時に師匠が来てくれた時は本当に嬉しかった。まだ終わっていない。わたしの夏はまだ。
「やっと来てくれた」
「日向さん、今日誕生日…おめでとうございます」
「ありがとう、師匠」
「誕生日に立て看、取れなくて…すいません」
師匠はそういうけれど、わたしは師匠が来てくれただけで十分。
「あのね、わたし夏休みの間師匠といられて本当に楽しかったよ。立て看は取れなかったけど、本当に楽しかったから」
1つの絵から始まった恋が、一夏の思い出の全てが、わたしにとっては君からのプレゼント。そんな気がした。それだけで立て看で優勝するのと同じくらいの価値がある。
「今年の夏師匠といられてよかった…ありがとう」
昨日と同じようにそっと抱き寄せた。大好きな師匠の温かい手がわたしをそっと包み込んだ、
「僕、日向さんが好きです。だから…受験が終わるまで、待っててもいいですか?」
「待っててくれるの?」
「待ちます…!」
また師匠らしくないまっすぐな瞳。でも大好きだ。思いの強さが伝わってくる。わたしはこんなにも愛されてるんだ。その気持ちに応えたい。
「絶対すぐに決めてみせる。待っててね」
Hinata NAKAHARA〈人肌恋しい冬までに〉---1
「待てよ。仲原、仲原、な、な、な…あった」
「うわあ…」
模試の結果を受け取って、思わずため息がこぼれた。まさに落胆、という感じ。もう10月も終わるというのに、模試の判定は相変わらずひどい。まだC判定なら可能性はフィフティーフィフティー。E判定なら20パーセント以下という合格率にむしろ諦めがつく。
「D判定か。上がらねえな」
「上がらないですね…」
去年の今頃はE判定だったと思う。それから比べれば成長しているように見えるかもしれないけれど、模試というのはできる時とできない時の差が激しく、EからDへの変化など正直言って誤差の範囲。受かる可能性は相変わらず20パーセントのラインを行ったり来たりしているんだろう。わたしはバカだ。特進クラスにいるというだけで、バカなのだ。弥生ほどではないけれど、バカなことに変わりはない。自分で虚しくなるほどにバカだ。
「どうしてもここがいいのか」
「いいですよ。学校評価いいし」
「そうだよな。駅も近くて楽だしな」
目指しているのは香川にある大学の法学部。そもそも理系脳のわたしが文系科目を学び法学部を受験する時点で難しいだろう。何度も理転しようかと思ったけれどどうしても夢を諦められなくて未だに法学部を第一志望にしているのだ。
「ここの法学ダメだったらどうする?」
「どこか私立の法学に…」
「1年の頃から理系の成績はいいのに。勿体無いな」
「理学部も受けろっていうんですか」
「受けろとは言わないけど、向いてるなあとは思う」
法学部を志望していたわたしは文系科目しか履修していない。理系の学部だと履修していない科目が出てくるのだ。
「失礼しました」
職員室から出てもう一度返された結果を眺めた。第一志望の大学は諦めたほうがいいのだろうか。レベルが高いということは仮に受かったとしても授業について行けずに単位を落とすというオチが見えている。そんな勿体無いことだけはしたくない。できるだけ上に、ではなく自分のレベルにあった大学を見極める必要があるのだ。
「どうしようかな…」
「あれ、日向さん?」
職員室横の階段から降りてきたのは美咲と雪。美咲は陸上部だからグラウンドで走っている様子をよく見かけるけれど雪は久しぶりに見た気がする。
「帰るの?部活は?」
「大会前なんで調整で休みです!」
「そっか」
「何してるんですか?師匠待ちですか?」
夏の終わりから付き合い始めたことをどこからか聞き入れた2人は会うと必ず師匠のことを出してくる。
「違うよ。模試の結果取りに来てたの」
「例の恋より大事な夢とやらですね。どこ行くんですか?」
「香川。受かればだけどね」
多分無理だけど、とつけたしておく。何しろD判定だ。第三希望くらいに書いてある理系の大学は同じくらいの偏差値でありながらB判定が出ている。やはり文系科目が絡むとダメらしい。
「えー、理系めちゃくちゃいいじゃないですか」
「すごーい」
「すごくないよ。文系なんだから文系科目が取れないと」
「もう理転したらどうですか」
「そうだね」
「あ、師匠まだ教室にいますよ。それじゃ、美咲は帰ります」
「わたしもバイトあるんで」
唐突に要らない情報を押し付けて帰っていった。教室にいますよ、何て言われても3年生が2年生の教棟にいると案外目立つし、こんなもの師匠に見られたらバカにされかねない。あいつはああ見えて頭がいい。全体的に見てあまり頭が良くない総合類型とはいえ、2クラスの中でテストの順位を1桁にキープする秀才だ。迂闊にバカがバレるものは見せられない。
「でも…会いたい、かも」
カバンの中に模試の結果をしまい込み、リュックを背負って立ち上がった。もう放課後だしみんな帰っただろうから大丈夫だろう。でもそれって師匠も帰ったってことにならないかな。階段を上がってすぐの教室をチラリと覗く。
「…師匠?」
「え、日向さん?」
驚いた様子でこっちを見てくる。当然だろう。教室にはもう誰も残っていなくて、広い教室の窓際の席で1人師匠が勉強していた。
「何してるんですか」
「なんだろうね…」
「はい?」
特に理由があって来たわけではない。ただ美咲が教室にいるなんて言ったからこれは行くべきかな、と思ったわけで。
「帰らないの?」
「まだバスがないんです。あと30分くらい」
「そっか。入ってもいい?」
「どうぞ」
師匠の前の席に座り、外を眺める。この校舎は1番西側に立っているので夕方は空が綺麗だ。
「下でね、美咲と雪とあって、師匠がまだいますよって言ってたから」
「そうですか」
「なんの勉強?」
「数学です。教えてください。ここどうやるんですか」
「ここは加法定理使うんだよ。咲いたコスモスって習った?」
「あー、習いました。幸子小林」
「sin15°はsin(45°-30°)なら計算できるでしょ。こっちも置き換えて」
師匠は私と違って社会とかは得意だけれど数学は苦手らしい。でもこうやって教えあいできるならそれも悪くないけれど。
「日向さん説明上手ですね」
「そう?普段から弥生とかに教えてるからかな」
「弥生さん大丈夫なんですか?なんか前回数学赤点って聞きましたけど」
「赤点なんてもんじゃないよ。もう真っ赤。次は本当に単位出さないって宣告されたらしいよ」
「え、やばいじゃないですか」
弥生は数学が苦手で1年生でやる範囲でもかなり手こずっている。次のテストで前回のテストとの平均で30点取らなくては2学期の通知表に赤がつく。そうなれば成績がつくまでに特別課題なるものが出されるだろう。受験勉強で忙しいのにそんなことやっていられないだろう。
「そういえば受験シーズンですよね。香川、受かりそうですか」
「それは聞かないで…」
さっきの結果を見てその話題は正直痛い。普通に受けたら受からないけれど、20パーセントから40パーセントにかけて見たい気持ちもある。
「戦わずして諦めるのは勿体無いって感じかな」
「でもDとE行き来してるってことはほぼ20パーセントじゃないですか。車の免許取るより難しいですよ」
免許と大学入試なんて比べられないだろうと思うけれど、進学クラスじゃない師匠は知らないのだ。大学入試の過酷さを。車はボーダーラインを越えれば合格かもしれないが大学には定員というものがある。それに1年間に挑戦できる回数も限られている。
「本当に受けるんですか、20パーセント」
「推薦は受けるよ。倍率高いけど面接は勉強より嫌いじゃないし」
「進学クラスにあるまじき発言ですね」
「推薦も受験戦争に勝ち抜くための立派な戦法だよ。自分が得意な方法で相手を打ちのめす!」
実際推薦入試なんて一般で受かるかわからないからチャンスを増やすために受けておく予防線みたいなものだと思っていた。本当に自信がある人は最初から一般を受けるつもりで面接の練習はしない。初めから推薦を受けるつもりの人はそのための材料を日頃から作っているため強い。
「でも推薦ダメだったらちょっと現実見ようかな」
「第二志望ってことですか」
「そうだね。理学部も視野に入れて」
うちは決してお金がある家庭ではないし、兄弟もいるからできれば国立がいいけれど私立を避けるあまり浪人なんて嫌だ。推薦で受かることを願うことしかできない。
「師匠はいいな。勉強できて。羨ましい」
「別にできるわけじゃないですよ」
「嘘だ。勉強できない人はテストで一桁なんて取れないんだよ」
「周りがみんな勉強しないだけです」
それでもすごい。みんなが勉強してもきっと師匠は上位を守る。私は自分のクラスの文系だけの少ない人数の中でも師匠と並べないでいる。師匠はわたしが戦っている4倍の人数でさらに上を取っている。いくら環境が違うと言っても素直にすごいことだと思う。
「日向さんは何になりたいんですか」
「何って?」
「法学部でしたよね。弁護士でも目指してるんですか」
「言ってなかったっけ?検察官だよ。弁護士と戦う方」
小さい頃から裁判に興味があって中学生の頃からそこで戦う検察官を目指すようになった。弱い立場の人を救いたいとか、味方になりたいとかたいそんなことは言えないけれど、いつか法廷で戦いたいなとは漠然と思っている。
「かっこいいですね。僕はそういうのないから」
「今頑張ってるってだけでえらいと思うけど」
「理系の方が得意なのに夢のために頑張るのってなんかいいじゃないですか」
今与えられたことを頑張れる方がよっぽどすごいと思うけれど。実際わたしは頑張れていないわけだし。隣の芝は青いってこういうことを言うのかな、とふと思った。
「ねえ、ここ途中で諦めたでしょ。答え出てない。平方完成するんだよ。こっちは間違ってないけど、もっと簡単なやり方あるよ。知りたい?」
「やっぱり日向さんには敵わないですね」
数学は得意。自分ができることで人の役に立つことは昔から好きだった。だから検事になりたかったのかもしれない。自分が頑張って証拠を見つけて被告人の非を認めさせて被害者が報われればと思ったから。
「あ、バス!」
師匠が急に立ち上がって時計を見る。慌てて机の上のものを片付けて荷物をまとめる。
「あ、師匠、見て見て!」
ここの窓からは向かいのバス停もよく見える。向こうから来たバスは目の前に止まって制服の学生たちが次々と乗っていく。
「あれじゃない?乗るバス」
「あれです…」
「残念、乗り過ごしちゃったね。あと1時間」
「せっかく部活ないのに…」
「じゃあ1時間数学しよ。今度は遅れないようにしないとだね」
師匠は再びしまったばかりの数学のテキストを取り出した。
「日向さんは、何で検察官なんですか」
「え?」
「何で弁護士じゃなくて、検察官なんですか。給料がいいって言うのもあるけど、やっぱ弁護士のほうが聞こえがいいって言うか、目指してる人多いですよね」
確かに弁護士を目指す人が多いのは事実。どちらでもいいという人もいるだろうが、検察官がいいという人は少数派だ。
「被害者とか遺族ってね、弁護士と被告人の言ってることがどんなに正しくても刑を免れる言い訳にしか聞こえないんだって。当然だよね。計画性があるとかないとか、殺す気があったかなかったかとかそんなの関係なくて、1つの命が奪われたのに犯人は生きてる。こっちは殺したいくらい憎んでるのに手の届かないところで生きてるんだよ。そんなの許せないよ。だからせめて満足するまで戦いたいじゃん」
被害者が許せば和解となるし、そうでなければ検察官は戦う。それが裁判のルールだ。だから自分は被害者の味方でありたい。それだけだ。
「じゃあ社会頑張りましょうね。教えましょうか」
「なんか年下に面倒見られるの虚しいからいいよ…」
「冗談ですよ。科目違うでしょ」
冗談も言っていられない。受験日はもう間近。来月の推薦で決められなかったらこの大学は無理だ。滑り止めの私立に行くか、理転して他の道を選ぶしかない。
「もしもさ、落ちたら理転と私立、どっちがいいかな」
「どういうことですか」
「理系の大学ならBでてるとこあるんだ。そんなに偏差値高いとこじゃないけど国立だし」
「でも検察官にはなれないですよね」
「そっちの方が向いてるのかもしれないでしょ」
「向いてるかもしれませんけど、やりたい方じゃないでしょ」
「そうだね」
「だったらやりたい方に行けばいいじゃないですか」
「やりたい方じゃないけど、やりたくないわけじゃないというか…」
「どっちなんですか」
「うーん…やめた!」
ごちゃごちゃ考えるのは性に合わない。やりたいことに向かって、突っ走る。それが1番わたしらしい。
「とりあえず推薦受ける。ダメならまたその時考える。今は推薦に集中!」
師匠は日向さんらしいですね、と笑った。
バスも行ってしまったことだしあと1時間、と再びテキストに向き合う。こうして誰かと数学できるなら理転も悪くない。どの道に行ってもきっと上手くやれる。目の前だけ見て走るのがきっと1番正しいことだから。
Hinata NAKAHARA〈人肌恋しい冬までに〉---2
「とりあえず志望理由書と志願票の下書き。あとディスカッションは練習できそうな人集めといてね。小論は書けたら持ってきて」
「はい」
秋も深まり終わり始める季節。職員室は面接ノート、志望理由書、小論文とみんなが先生のところに来ていて軽く行列ができていた。わたしもいろいろ1度にいわれて必死でノートに書き留める。受験は人生を決める。順番を譲ってはいられない。
「推薦で決まれば楽だもんね。早く決めたいよ」
「推薦決まったらセンターも受けるだけだもんね」
教室に上がってちーちゃんと勉強していた。ちーちゃんの迎えが来るまであと1時間ほどある。
「まあ3学期も楽だし冬までにアパート探したり引っ越しの準備したりいろいろできるよね。冬休みの課外も出なくていいし」
あげてみると利点はかなりある。冬休みの課外に出なくていいということはかなり嬉しい。今まで長期休暇といえど平日は当たり前のように学校に通って来たけれど、それがなくなる。今年ことが本物の冬休みとなる。
「冬休みが暇になれば…」
「師匠ともいっぱい遊べるね、日向ちゃん」
ちーちゃんも意地悪を言うようになった。今までそう言うことを言う子ではないと思っていたのに、師匠と付き合うようになってから本性を現してきたようだ。美咲たちほどじゃないけれどこれもまた厄介な小悪魔。
「ちーちゃんも決まるといいね。2人とも決まったら、冬休み映画見に行こうよ」
「師匠とじゃなくていいの?」
「ちーちゃんとも遊びたいの」
「うん」
師匠もそうだけれど卒業すればちーちゃんとも会うことはなくなる。今しかないのはみんな同じだ。推薦にせよそうでないにせよ早く決まれば残った時間を有意義に過ごせる。大学の課題や引っ越しの準備ばかりではなく、遊んでもよし、免許を取るもよし、家庭学習期間に入れば学校が休みなので旅行に行くこともできる。とにかく受かっておけばいろいろと楽しい日々が待っていることは間違いない。
「ちーちゃん、頑張ろうね」
ちーちゃんは医学部看護学科。弥生は芸術学部美術学科。お互い受験のために面接や小論、口頭試問、実技試験の練習を重ねている。特に弥生は3年生でありながら部活に出ている。
「忙しそうだね、弥生」
「うん。学科試験もあるのに部活とか画塾とかばっかり。数学大丈夫なのかな」
「でも1番大事なのは絵がどれくらいかけるかでしょ。学科試験はよっぽどじゃなければ大丈夫なんじゃないの」
「そうかもしれないけど…」
「ちーちゃんは心配しすぎだよ」
弥生は確かに数学が全然ダメでどうしようもなくて本当に危ないやつだけど、せっかく選抜で3年間一緒にやってきたんだし、大学には受かってほしい。そのためには推薦で頑張らないとまずい気もする。数学以外の科目で受けられると言っても一般で受けるにはリスクが高い。それくらい弥生はバカ。バカな私が言い切れるくらいバカなやつだ。
「そっか。言って見れば冬って1つのラインだよね。推薦は12月初めにほとんど終わってセンターが1月でそれ以降は全部2月だもんね」
「うん。冬までに決まるか、冬からが勝負かって感じだよね」
「冬までに…」
冬までに決まれば冬休みは遊び放題。美咲や雪にも受験が終わったらって誘われてる。ちーちゃんや弥生と遠出もしたい。でも1番会いたい人は1人だった。
「日向ちゃんは早く受かって師匠と過ごしたいよね」
「ちーちゃん本当言うようになったね。1年生の頃の純粋でかわいかったちーちゃんはどこにいったのかしら」
「受かるといいね。冬はデートスポット増えるしそれまでに師匠に報告に行きたいよね」
「デート?」
「うん。師匠といっぱい一緒にいたいでしょ」
ちーちゃんは意地悪言ってるようだけどちゃんと的射てるから困る。適当なこと言ってないから適当にあしらうことも躊躇われる。
「そろそろ迎えくるから帰るけど、日向ちゃんどうする?」
「わたしも帰ろうかな。鍵戻しとくね」
教室の鍵を閉めて職員室の教棟まで戻しに行く。職員室がある教棟は2年生の教室があるところ。1番西側。道路側の窓から外を眺めるとバスが来るのが見えた。師匠はあれで帰るのかな。でも授業が終わってから結構時間がたってるからもう帰ったかもしれない。きっとそうだろう。わかっているのに、わたしの足はなぜか階段を上がって師匠の教室に向かっていた。そして誰もいないはずのしまった教室にはなぜか人影が見えた。
「…師匠?」
「ああ、日向さん。まだいたんですね」
「うん。バスさっき行ったよね」
「ちょっと勉強してから帰ろうと思って。日向さん来るかなーと」
「あ、ごめんね。ちーちゃんと勉強してて、今帰るとこ」
「いいですよ。約束してたわけじゃないですし」
昨日だって約束してたわけじゃないけど一緒に勉強した。だから今日も、と思って待っていてくれたのだろう。
「じゃあもうちょっと勉強しようかな。バス何時?」
「あと20分くらいです」
「わかった」
放課後の短い時間。楽しいことをするわけでもなく、お互いの話をするわけでもない。ただ勉強を教えている時間がとても幸せだった。一緒に居られるという真実と、師匠の役に立てているということが嬉しかった。
「わたしね、受験頑張るよ。冬休みは師匠といっぱい遊べるように。絶対頑張る」
「冬休み?」
「課外が自由参加になるから、行かなくて済むの。だから会いたいな」
周りの士気が下がるとか、受かったからって卑怯だとか、誰かに言われるのかもしれない。受験は団体戦。それがクラスでは正しい。でも優先順位をつけるならばわたしはクラスより師匠だ。選択肢があるならわたしは師匠を選びたい。
「僕も会いたいです。でも部活で学校くるので、日向さんも来てください」
「そっか。じゃあ課外出ようかな」
「それも受かってからですけどね」
「まあそうなんだけどさ。だから頑張るって言ってるの。冬までに決めて見せるよ」
「頑張ってください。楽しみにしてますから」
「うん。受かったら一緒に遊びに行こうね。ちーちゃんが冬はデートスポット増えるって言ってたし」
「どこか行きたいとこあるんですか」
「やっぱり冬といえばイルミかな。珠里の家もしてるんだよ」
試験は小論文と面接。面接はグループディスカッション形式。受験票とともに現代社会に関するテーマが送られて来てそれについて何人かの受験生でディスカッションを行う。一緒に話し合いをする受験生の中でいかに自分を印象付けるかが鍵となる。練習は同じグループディスカッションが面接にある人や、もう受験が終わっている人を集めて実際に行う。
「ちーちゃんも面接練習してる?」
「うん、時々。小論文がない日に」
「口頭試問もあるんだっけ?大変だね」
ちーちゃんのノートには生物に関する言葉とその説明がびっしり書かれている。わからないことばかりではないが、生物基礎しか履修していないわたしには難しい内容。
「頑張ってね、ちーちゃん。練習付き合うよ」
「ありがとう。日向ちゃんもね」
人生がかかっているのだから今は何としても受験に全力を捧げる時期。わたしもあれから師匠と会っていない。受験生が恋愛なんてありえないと否定されることもある。これも仕方ない。受かって報告に行ける日を楽しみに受験に打ち込んだ。
数日後、面接練習の帰りに美術室の前で陽乃ちゃんに会った。体育祭が終わってから2ヶ月もの間1つの大作と向き合っていると噂で聞いていたが本人と話すのは久しぶりだ。
「なんか大きいのやってるらしいね」
「はい。お城作ってるんです。もう嫌になりました」
「そんなこと言わないで頑張りなよ。次のコンクール出すの?」
「前のコンクールまでに仕上げる予定だったんですけど間に合わなくて中途半端で出したんです。今はただのライフワークで…」
「それは…お疲れ様です」
美術部も結構闇だなあ、なんて思いながら陽乃ちゃんを励ます。あの鬼顧問がいるくらいだからブラックだとは思っていたけれど、出す予定のない作品をライフワークで続けさせるなんて。近々コンクールもないし、やりかけの作品を放っておくわけにもいかないしこれが正しいのかもしれない。
「日向さんはどうですか。受験」
「うーん。なんとも言えないな。今推薦の練習してるんだけど、受かればいいなって感じ」
「受かってくださいね。そしたらまた遊びに来てください。妹が会いたがってます」
「頑張る。人生かかってますから」
「師匠がね、寂しがってましたよ。なかなか会えないなって」
不意に出された師匠の名前。確かに最近会ってはいないけれど、言うほど長くはない。こないだ会った気もするし、まだ1週間弱。それくらいで寂しがるなんて、可愛いところもあるじゃないか。
「師匠ってたまにうさぎみたいなとこありますよね。寂しがり屋だけど強がってたり、普段必要以上のことは話さないですし」
「うさぎかあ。その発想はなかったな」
昔はよく動物に例えると、なんて話をしていたけれどこの歳になるともうあまりしない。あの頃はよくリスっぽいって言われたけれどその由来は不明だ。陽乃ちゃんは賢くて頑張り屋さんだから犬っぽいかな。
「うさぎってデリケートだから初めは名前呼んだりしてゆっくり近づくと懐くらしいですよ」
「わたし師匠に懐かれてないの?」
「今でも師匠って呼んでるんですか?」
「えっ?なんか変?」
「名前で呼んでないのかなーって。日向さんって割とすぐ名前で呼ぶじゃないですか」
「そうか…そうだね」
早く仲良くなりたくて年下の子は割と初対面から男女関係なく名前で呼ぶけれど、師匠は初めから師匠だったから今でもそのまま師匠だ。今更変えるのもなんだか気恥ずかしい。
「喜ぶと思いますよ。日向さんから圭くんって呼んだら」
「圭くん…」
あまり呼ばないから名前も忘れかけていた。圭くん。圭佑くん。そう呼んだら師匠はどんな反応をするだろう。
「なんか照れるね…」
「日向さんかわいいです」
その日、小論文の練習を終えると久しぶりに2年生の教室に向かった。もう遅いし、さすがに帰ったかと思ったけれど窓際の席には荷物がある。まだ帰っていない。学校に残っている。じゃあどこに?ノートも開いているし荷物も置いたまま。きっとすぐ戻ってくる。少しだけ待ってみよう。そう思った直後、聞きなれた声がわたしの名前を呼んだ。
「日向さん?」
師匠はなんか久しぶりですね、と教室に入った。わたしも後を追って教室に入る。
「入試の練習終わったんですか?」
「うん。まだバスまで時間ある?」
「もうすぐ来ます。あと5分くらいで」
「そっか。もう行かなきゃ」
師匠は広げたままにしていたノートを手早く片付ける。意外と早く動けるところもうさぎに似ている気がする。小学校の頃学校で飼っていたうさぎは抱き上げようとしても動くのが早くて捕まえられなかった。
『喜ぶと思いますよ。日向さんから圭くんって呼んだら』
陽乃ちゃんの言葉が脳裏に蘇る。師匠じゃない。生まれ持った名前。読んであげたい。今呼ばないとこの先もきっと呼べない。そんな気がした。リュックを背負って教室を出て行く師匠の腕を引きとめた。師匠は不思議そうな顔をしてこちらに振り返る。
「またね…圭くん」
恥ずかしいのがばれないように少しだけ笑ってみせた。圭くんはあからさまに照れて何も言わずにぺこっと頭を下げると階段を降りていった。
Hinata NAKAHARA〈人肌恋しい冬までに〉---3
「小論書くときはいつも二面性を考えて。1度自分の意見を否定してから逆説で主張する」
「はい」
「筆者が1番言いたいことを正確に探して。この文章は最後の5行が大事。ここのアンサーになるように意識してもう1回書いてみて。明日の朝持ってきて」
「はい」
小論文は書いても書いても次々課題が湧いて出る。書き方はわかるしだんだんスラスラかけるようになってきた。でも作文用紙1,2枚程度の短い文章で筆者が1番言いたいことなんてわからない。それができるようになってもさらに上を求められ、ボーダーラインが見えない。どこまで書けば合格ラインなのだろう。
「小論文ってさあ、自分の意見を述べるものじゃないのかな」
「そうじゃないの?」
「ただ素直に自分の意見書いても書き直しくらってさ、この文章にはこう答えるのが先生受けするって考えながら書くなんてちょっと違うよね」
「倍率高いと先生の印象に残らないと採点してもらえないらしいよ」
「それってみんなが先生受けする内容で書いたら意味なくない?」
「確かに…」
考えれば考えるほど書けない。今回の文章も2回目の課題。1度書いたが筆者の意図に沿っていないと書き直しになったものだ。色々な方向から見て書かなければならないというけれど、結局は一方向から見たものを軸にして書かないと筆者の意図が捉えられてないと言われる。
「ダメだ。もう小論は書けない…」
「日向ちゃんスランプだね」
スランプではないことは自分でもわかっている。スランプというとは今までできていたことができなくなるわけで、今のようにもともとできてないことに対して理由をつけてやらないのは自分の甘えを正当化しているだけだ。でもどんなに書いても納得がいかない。思えば昔から自分の考えを表現するのはあまり得意ではなかった。作文は好きなこと、思ったことを書き連ねるだけで良かったからそんなに苦手ではなかった。けれど小論文には読み取るべき誰かの考えがあり、模範解答がある。書きたいことだけを書いていてはダメ。
「得意な子は難なくやるんだろうけどね」
「日向ちゃんは面接得意だから大丈夫だよ」
「グループディスカッションは難しいよ」
ちーちゃんは頭がいいから小論文は得意。でも面接は苦手。それでも羨ましかった。ちーちゃんは練習するたび面接が上手くなってノートに書いてある質問ならなんでもスラスラと応えられるようになっていた。口頭試問も完璧。よほど倍率が高くない限りは受かるだろう。受験票とともにテーマが送られて来て、それに沿って最近は練習を進めている。グループディスカッションは周りの人とかぶらないようにとにかく早めに意見を述べること、そして先に言われた時のためにいくつか使える答えを用意しておくことが大切になる。
「仲原は喋るの得意だな。臨機応変で機転も利くし。よっぽど考えが被らない限りは大丈夫だろ。自分で考えてた意見だけじゃなくて人の意見も踏まえて言えたらなお良し」
「はい」
グループディスカッションはなかなかの高評価。事前にテーマが知らされているので何が聞かれるかわからない圧迫面接よりはイージー。喋るのは嫌いじゃないし小論文よりずっと得意だ。
「今日はもう帰るの?」
教室に戻るとちーちゃんがまだ残って面接ノートを見直していた。
「うん、ディスカッション終わったし。今から帰って小論書く」
「そっか。頑張ろうね」
圭くんいるかな、なんて思いながら階段を降りた。2年生の教室の電気は消えているみたいだし、人気もないのでまっすぐ正門に向かった。もしかしたら美術室にいるかもしれない。もしかしたら自販機前にいるかもしれない。もしかしたらバス停にいるかもしれない。いろいろ考えながら歩みを進めるけれどどれもハズレ。学校の外まで来ても圭くんには会えなかった。まだ教室だったかな。それとももう帰ったかな。やめよう。これ以上探しても見つからなくて悲しくなるだけだ。そのまま帰路についた。
〈今日何してる?〉
1度打ち込んだメッセージを考え直して消す。試験を間近に控えた休日、圭くんに会えない日が続いていた。小論文対策の頻出テーマの本を片手に連絡してみた。家が遠いから、休日に会おうと思っても簡単には会えないけれど連絡だけはマメにとっていた。けれど今はそれどころじゃない。冬休みのためだ。受験に集中しなくては、とまた原稿用紙に向き直った。
「この時の被疑者の心理についていっていっても…ほんとのとこ何考えてるかわかんないしな」
屁理屈だけれど、本当のことだと思う。死刑判決が下された際に諦めてそれ以上控訴・上告を望まない被疑者の気持ちは、自分の罪を反省し死を持って償おうと決心した人ばかりではないだろう。これ以上裁判を続けるのが面倒になり、自分が死んで満足するならと命を投げ出す人もいるかもしれない。身寄りのない人なら死に抵抗がない人だっているだろう。そういう人は極刑を受けても反省しないし、遺族も納得しない。死刑を受け入れるもそうでないも様々。小論文で一概にこうであるなんて断言はできないと思う。法学部を目指すなら1度は考えたことのある課題だろう。
ぴろんっ
ケータイが鳴って画面がついている。メッセージが届いた。圭くんからだ。こちらから連絡することはよくあるけれど向こうからは珍しいな。そう思って画面を開いた。
《今忙しいですか?》
忙しいかと言われれば一応小論文を書いているわけだけれど真面目に書いているわけでもない微妙なところ。どちらかといえば暇だけどそれなら勉強しろとでも誰かに言われそうだ。
〈そうでもないかな。どうかした?〉
圭くんから連絡してくるくらいだから何か急用だろうか。今まで1度だって圭くんから連絡が来たことはなかった。その圭くんからのメッセージ。応えないわけにはいかない。
《今学校の前にいるんですけど、来られないですか》
部活かな。学生は日曜日も学校。わたしは部活をやっていなかったから土日に学校なんて模試の日だけ年に数回程度だった。3年生になったら多少は多かったけれどそれでもしばらくない時だってあった。
〈美術室?〉
まだ部室にいるのなら制服を着替えて中まで行くけれど、そうでないなら私服でいいのでこのまますぐ出られる。圭くんからの返信にはバス停とあった。部活が終わって帰るところだろうか、それなら急がないとわたしが着くまでにバスが来たらまた長い間待たなければならない。そのまま家を出て急いで自転車を走らせた。
「圭くん!」
学校の前まで来るとバス停の横で圭くんが立っていた。自転車を降りて息を切らしたまま圭くんな駆け寄った。
「すいません、急に呼び出して」
「ううん、平気。どうかしたの?」
「日向さん、今週受験ですよね。学校じゃいつ会えるかわからないし、早く渡したくて」
圭くんが差し出したのは小さな白い紙袋。中央には滝宮天満宮と書かれている。この時期に神社といえば受験生は誰でもわかる。
「お守り?」
「はい。こないだ香川に行く機会があったので。香川に行けるように」
「ああ、それで滝宮」
中には学業成就と書かれた朱色のお守りが入っていた。合格祈願のお守りだ。しかも大学のある香川の神社のもの。これは御利益がありそう。
「ありがとう!なんか受かりそんな気がしてきた」
「よかったです。頑張ってくださいね」
「うん!」
「日向さんが受かったら、イルミネーション行きましょう」
「本当?連れてってくれるの?」
「連れて行きます。綺麗なとこ探しとくので受かってください」
「うわあ、これは落ちれないな」
イルミネーションがかかったらもう受かるしかない。お守りもご褒美もあって大好きな人が待ってくれている。受かりたい。全力で合格したい。圭くんと冬デートが待っている。
「絶対受かるから。イルミ連れてってね」
わたしはそう言って右手の小指を差し出した。圭くんも同じように小指を絡めた。圭くんの指は少し冷たかった。わたしが自転車を漕いできて暑くなっているというのもあるだろうけれどずっと外てわたしが来るのを待ってくれていたんだなと思った。笑いかけると圭くんは頬を赤く染めて目をそらした。素直に照れる圭くんがかわいい。絡めていない左手をそっと圭くんの頬に当てた。圭くんは少し驚いてまた照れた。絡めた小指の温度が同じになった気がした
「かわいい…」
そう言って笑うと圭くんは手を離してしまった。
「渡しましたからね!…受かってください」
「うん、ありがとう」
帰って小論文の続きを書こう。ここまでしてくれた圭くんのためにも、できることは全力でやる。なんとしてでも冬まで受験を終わらせる。
Hinata NAKAHARA〈人肌恋しい冬までに〉---4
受験の日。昨日のうちに1人で電車とバスを乗り継いで香川に来た。11月にもなるとそこそこ風が冷たくて昨日までは来ていなかったブレザーを来て試験会場に向かった。圭くんにもらったお守りは内ポケットの中。心臓の近くが1番近くにいるって思えるから。緊張もドキドキもお守りに手を当てると消える気がした。大丈夫。圭くんはそばにいるって感じる。圭くんは学校でわたしが帰るのを待ってくれている。だったら精一杯やって帰るしかない。受験票を握りしめ受付に向かった。
「受験票を見せてください」
「はい」
「…はい。大丈夫です」
返された受験票を受け取り控え室に入った。様々な制服を着た人があちらこちらに座っている。中には短いスカートや派手な色のカーディガン、染めてこそいないが伸ばしっぱなしで束ねていない髪。本当に受験生かと思う子もちらほら見かける。決してうちの高校が真面目なわけではないだろうけど受験会場にこんな身だしなみで来る人もいるとは思わなかった。この人たちにはとりあえず勝ったな、と気持ちが少し落ち着く。早めに着たせいもあってかまだ空いた席が多かった。予定の時間まではあと20分ほどある。ホテルにいても落ち着かないので早めに着たけれどここも落ち着かない。持って着ているのは面接ノートや今まで書いた小論文と先生の添削、頻出テーマなどなど。とにかく今まで使ったもの。持っているだけでも不安が消えればと思ったけれど手元に置いておかなければ不安になる時点でもうダメだろう。落ち着けるのは圭くんのお守りだけ。これがあると受からなきゃという気持ちが強くなる。絶対いい報告をしたい。冬は圭くんと過ごせるように。
「お待たせしました。ただいまから受験会場に案内します。呼ばれた受験番号の方は…」
来た。始まる。現時刻は9時。30分後から小論文の試験。90分の戦いが始まる。先生らしい人に連れられて階段を上がる。教室に着くと自分の受験番号が書かれた席に促されそれぞれが席に着く。大学によくあるひな壇の教室で横は十分間隔がとられているが前後は机1つ文と狭い。全員が席に着くと諸注意が言い渡される。と言っても始めに受付で配布されたプリントにも書かれていて全体の前言われたことと同じ。ケータイの電源は入れないこととか、お昼の時間の説明とかそれくらいのこと。それが終わると学生っぽい人が大きな茶封筒を抱えて入って来た。きっとあの中身が小論文の問題。先生や学生たちが5人がかりで問題用紙、解答用紙、下書き用紙をそれぞれの机に揃えて配布していく。その間わたしたちは微動だにせずじっと机の前に座っていた。配り終えても時間が来るまでは動けない。教室にいる全員が刻々と進む時計と睨み合いながらその時を待っている。
「始めてください」
その声を合図に一斉に用紙が開かれる。一歩も譲れない戦いの始まり。今この瞬間に周りにいるお互いが敵同士。焦らず文章に目を通す。大丈夫。あんなに練習した。何度も書き直した。きっとできる。下書き用紙をスラスラと埋めていく。今までの問題に比べれば易しい問題だ。これなら余裕で書ききれる。文章を読み、考え、マスを埋める。90分の戦いはあっという間だった。
「やめてください」
全員がペンを置き、前を向く。1000字書き切った。ペンを握り続けた手がじっとりと汗をかいている。また先生と学生たちが5人がかりで用紙を回収する。全て枚数と受験番号の有無を確認しているため、配るときよりずっと時間がかかる。何度も何度も枚数を確認してようやく封筒に入れると2人がそれを持って教室を出て行き、1人が指示を出す。
「それではただいまからグループディスカッションを始めます。受験番号を呼ばれた方は案内しますので静かについてきてください」
小論文が終わってからここまでもかなり長く感じた。
「受験番号120101から120110までの方は全て荷物を持って教室の外に出てください」
グループディスカッションは時間がかかるため、5人ずつ、2つの部屋で行われる。わたしも1番最初のグループ。すぐに荷物を持ち上げて前の人についていった。当たり前だけれど、みんな制服はばらばら。1人で戦っているような感覚は不安になる。無意識に胸ポケットに手を当てた。ここに圭くんがいる。圭くんは一緒に戦ってくれる。だから大丈夫。無理矢理不安をかき消した。グループディスカッションは得意で、先生からも高評価だった。きっと大丈夫だ。小論文も書ききったし、ここで上手くできれば合格への希望が見えるはず。そう思いたい。前の人について広い教室に入る。長机の前に並べられた椅子の横に立ち右端から自己紹介を始めた。
「受験番号120107番、 仲原日向です、宜しくお願い致します」
面接官の目を見て深く一礼する。もう1つの戦いが始まった。
「中学の頃仲良かった先輩がね、高校は違うんだけどわたしが受けた大学行ってるんだって。受かったら遊んであげるから絶対香川おいでってさ」
「葉月も香川の大学受けるらしいですよ。日向さんと同じとこ」
「本当?学部は?」
「教育です。美術の先生だから」
合格発表前日。放課後バスを待ちながら単語帳を眺めていた。受からなかったら今度はセンター試験があるからそのための勉強を始めなければならない。しばらく休みたいけれど、息をついている暇はない。
「向いてそうだね、葉月ちゃん」
葉月ちゃんはかわいいし、絵が上手いし勉強もできる本当にいい子。一緒に大学生活送るのも楽しそう。合格したらいいな。わたしも葉月ちゃんも。
「あのね、10時にサイトで結果出るの。2時間目が終わったら職員室のパソコンで見るから受かってたら圭くんの教室行くね」
「わかりました」
「落ちてても行くかも。慰めて欲しいし」
「どっちでも来てください」
結果が出るまで20時間を切っている。どうか受かっていますように。その夜はドキドキしてなかなか寝付けなかった。受験より合格発表の方が不安になるのはなぜだろう。不安をかき消すように圭くんのお守りをぎゅっと握りしめた。
「いいのか?開けるぞ」
「開けてください」
手には受験票。先生のパソコンには大学の公式サイト。ついにこの時が来てしまった。受験番号は120107。12が法学部共通、01が法律学科共通なのでホームページの法学部のページの中で上の欄に並んだ数字の中から下二桁が07のもの。06の次が08だったら即アウト。見るのが怖い。受験票を持つ手が震える。受験番号あって、お願い…。読み込みが終わった画面に並んだ数字が表示される。01、02、04…
「06、07…120107!」
「おお!」
「あった!先生、受かった!」
「やったなあ!国公立第一号!」
受かった。第一志望の大学に。模試でD判定の合格率20パーセントの大学に。
「一応センターは申し込んであるし、入ってからも大変だから勉強はちゃんとしろよ」
「はい、ありがとうございました」
職員室を出て2階へ走った。息を切らして階段を駆け上がる。伝えなきゃ。1番に。誰よりも速く。急がないとチャイムが鳴ってしまう。普段こんなに人がいる時に来ることがない。少しためらいながらもゆっくり2年生の教室のドアを開けた。窓際の席の圭くんはすぐに気づいて外まで出て来てくれた。
「結果出たんですか」
圭くんが目を見開いて息を飲む。わたしは圭くんの目を真っ直ぐ見つめた。
「圭くん、受かったよ…!」
圭くんにそう告げると安心して涙が出そうになった。今までわたしを縛っていたものが解けて全てから解放されたような、そんな気持ちになった。これでやっと圭くんの隣にいられる。それご1番嬉しかった。
「おめでとうございます。これで冬休みはいろんなとこ行けますね」
「うん。イルミネーション、連れてってね。約束だからね」
「わかってます」
圭くんの大きな手がわたしの手渡し包み込む。あったかくて、嬉しい。圭くんが今までよりもっとずっと近くに来た気がした。もっと近くに圭くんを感じたい。
「圭くん…」
「なんですか」
「ハグしてもいいですか?」
圭くんはいつもみたいに照れてみせた。肯定されてはいないけれど、わたしは迷わずハグをした。
「待っててくれてありがとう…」
「はい。受かってくれてありがとうございます」
「へへ。楽しみだな、冬休み」
わたしの冬休みが始まる。クリスマスもお正月もある高校最後の冬休み。圭くんと2人の冬休み。
Keisuke HASHIMOTO〈初夢は憧れの女の子〉---Extra edition
「今日も?」
「今日もです。1回話せました」
「すごいね。最近ずっとじゃない?」
「ずっとです」
部活を終えて美術室を出ると外で聞き覚えがある2人の声。葉月と日向さんだ。冬休みの課外の後に僕を待っている間日向さんは少し早く終わる葉月と仲良くなったらしくて最近ずっと日向と話しながら待っている。
「日向さんはもう圭くん自分のものじゃないですか」
「まあね。葉月ちゃんも早く自分のものにしちゃいなよ」
「いいなあ、日向さん。圭くんにすごく愛されてますよね」
恋バナをしているとどうしてもその場に入って行きづらくてドアの前で立ち止まってしまう。けれどいつまでも立っているわけにも行かなくて意を決して声をかけた。
「日向さん、お待たせしました」
「あ、終わった?お疲れ様。じゃあね、葉月ちゃん
「はい。さようなら」
日向さんは葉月といつも楽しそうに話している。夏には図らずも日向さんが作業にこない原因になっていた(らしい)葉月だけれど、2人の仲はとても良好。いつも楽しそうに話していてバスが来るまでの短い時間の会話も最近は葉月との話題が多い。
「そうだ。住所教えてよ。年賀状書くね」
「ああ、もうそんな時期ですね」
時は年末。クリスマスを過ぎて今年もあと片手で数えるほどしか日がない。
「葉月ちゃんにも教えてもらったんだ、住所」
「そうなんですか」
「うん。かわいいよね、葉月ちゃんって」
「かわいいですかね。いつも一緒だしそうは思わないですけど」
「かわいいよ。それに絵も上手だし、勉強もできて。すごいよね」
確かに葉月は日向さんが欲しがりそうなものは一通り揃えている。絵も描けるし、相当難関校でなければ国立大学の一般入試で受かるほどの学力もある。現に日向さんがD判定を出していて推薦で受かった大学が第一志望で、学部は違えど判定もそこそこいいらしい。これだけ自分の欲しいものを揃えていたら自然と憧れを抱くものだろう。
「今日お昼にね、ちーちゃんがわたしは葉月ちゃんに似てるねっていってたの。似てる?」
「え?葉月とですか」
少なくとも顔は似ていない。日向さんに比べて控えめな性格も似ていない。言うなれば身長が近いかもしれないけれど、他にいくらでも近身長の人はいる。それくらいで似ているとは言わないだろう。
「そういえば、お正月何かするんですか。一般入試の勉強には追われずに済みますけど」
「それはそうだけど、でもセンターあるし、大学から課題もきてるから勉強するよ。図書室の新刊も借りてるし」
受験が終わっても勉強に読書。その図書室で借りた新刊というのも裁判にまつわる本だったりと進路に関わるもの。
「すごいですね。受験が終わっても休む暇もなくて」
「みんなはまだ受験してるしね。わたしだけ休めないよ」
そういった日向さんの眼差しはどこか見覚えのあるものだった。日向さんではない、他の誰かも持っていたもの。ああ、葉月だ。どこまでも夢に前向き。やりたいことに真っ直ぐ。そこにたどり着くまで、たどり着いてもまだ上を目指して進むところ。そのチャレンジ精神に溢れた爛々とした瞳が葉月と同じだ。
「似てますね、葉月と。やりたいことがある時の勢いが。そっくりです」
「ほんと?」
「はい。千紗さんが似てるって言ったのも、そういう物事に真っ直ぐなところじゃないですか」
「そうなのかな…なんか嬉しい」
褒められた時の笑い方も何処と無く似ている。顔ではなく表情が、ふとした時の感情の表し方が似ている。普段からどちらとも近くにいた千紗さんはそこに気がついたのだろう。
「憧れてるんだ、葉月ちゃん。わたし葉月ちゃんが羨ましい」
「日向さんはそのままでいてください。葉月みたいなのが増えても面倒ですから」
「あ、そんなこと言うんだ」
その言葉を境に記憶が途絶えた。正確にいうとそうではないんだけれど、そんな感じがした。そのあと何が起きたのは覚えてなくて、目が覚めたらベッドの自分の部屋のベッドの上にいた。
「…夢か」
そういえば、年はもう開けたんだった。1月2日の朝。つまりさっきの夢が僕の初夢。富士山や鷹ではないけれど1年の始まりとしてはなかなか縁起のいい夢だったと思う。
「圭佑、年賀状来てるわよ」
「ああ、うん」
自分宛ての年賀状だけ集めてパラパラと見ていった。部活の人やクラスの友達に混ざって仲原日向と名前があった。冬休みに入ってから住所を交換したんだ。あの下りは夢ではない。葉月からきていた年賀状を見て夢の続きを見ている気分になった。それともあれは現実だったのだろうか。
「もしもし?」
「もしもし。あけましておめでとうございます」
「あけおめ。電話って珍しいね」
「年賀状届いてましたよ。ありがとうございます」
「圭くんのも届いたよ。ありがとう」
「どういたしまして」
あんな夢を見た後で年賀状を受け取ったらなんとなく話したくなって電話した。けれど夢の内容は話していいものか。突然どうしたんだろうって思われないかな。でも言って日向さんが喜ぶことなら伝えたいと思う。
「日向さんって、葉月に似てますよね」
「え?なんで急に。もしかしてそれいうために電話してきたの?」
「そうです。夢で聞いたんです。千紗さんが日向さんにそう言ったらしいですよ」
「夢?変なの。でも嬉しい。わたし葉月ちゃんみたいになりたいんだ。ありがとね」
夢の中でも外でも日向さんの考えることは同じみたいだ。僕はなれるといいですね、と葉月の年賀状を眺めた。やっぱり2人は似てているなと思って1人笑いがこぼれた。
『わたしの中で圭くんと日向さんは1番のお似合いカップルです♡ わたしも日向さんみたいになりたいな。今年もよろしくね!』
美術部の僕等2