いととおし
いととおし
銀色の薄っぺらいコインでてきた
糸通しの使い方を知ったのは
小学校の何年生だっただろうか
どうしてこんなに不思議な形のもので
こんなに簡単に糸が通ってしまうのか
不思議で、仕組みを永遠に考えたものだ。
1
ある雨の日の日曜日
母がリビングから話しかけてきた
「香菜美は女の子だからボタンくらいはつけれるようにならないとね。」
そう言って、押入れから取り出した、裁縫箱を開いて、その中で一番背の低い針と、その針にくっついた白い糸が丁寧に私の両手にのせられた。
ボタンのつけ方はすぐに覚えた。
自分で言うのもなんだけど、私は昔から手先が器用だ。
次に押入れから出てきたのは大きなダンボール。
カラフルで色んな柄のついた布の切れ端たち。
硬い布、柔らかい布、さらさらの布、ツルツルの布、ザラザラの布。色んな布を出しながら
「好きにしていいよ。」と母が言った。
布を這う針と糸の感覚があまりにも面白いから
ひたすら布と布を重ねて合わせていった。
2
”好きにしていいよ”
という言葉は自由で愛に溢れた、とても素敵な言葉だと思う。
反対に、突き放される、とても冷たい言葉だとも思う。
いつだって一つの言葉の影には反対の言葉が隠れていて、素敵な言葉はとても冷たくて、冷たい言葉は時々温かかったりする。
3
小さな穴の向こうに、白い糸が通っていけるように、そうなればいいと思うほど、あかぎれの手は痛んだ。
かさかさの手で上手く糸が通せない私を見て
母は銀色の薄っぺらいコインをだして魔法のようにするりと糸を通した。
すごく得意げな顔をしていたのに、母の手は宝物を扱うように、そっと私の髪を撫でた。
優しい顔をしていなくても、優しく人に触れることができる、すごく器用な人だと思った。
4
肌は弱くて冬にはいつもあかぎれだった。
手を握って、涙目になりながらかわいそうだと、見つめられる度に、私は手がかさかさで、良かったと思った。
私のかさかさの両手は、母の愛情が目に見える形で確かめられる、特別な両手だった。
私の手を包んだ、母の両手も、また、食器用の洗剤にまけていて、酷くはないけど、少しかさかさしていた。
代われるものなら代わってあげたいと、言われる度に、それが無理だと知っていた私は、本当に本当に代われるとしたら、この人は本当に代わってくれるのだろうか?
代わってもらえたとしたら、母の両手は酷いあかぎれになって、私の両手は小さなシワができて、少しのかさかさが残るのかな。
そんなことを考えて、本当に代わってもらえることを確かめられない現実と神様を恨んだ。
6
母がいなくなったのは、私の中学校の入学式の日だった。
あの日は曇っていて、小さな雨が時々降っていた。
母は、「先に帰るね。楽しんでね!」と言って先に教室を出た。
その時母が涙目だったのと、作り笑いだったのは、全部入学式のせいにした。
傘をさすのは嫌いだけど、新しい制服が濡れてしまう方が、もっと嫌で、傘をさして早足で帰った。
家に帰ると、小さなメモ紙が寂しそうに、テーブルに置かれていた。
「かなちゃんへ。かなみはなんでも自分でできる、とてもかしこい子です。お母さんのじまんの娘。大好きだよ。お母さんより」
さよならは書かれていなかったけど、それがさよならのメッセージだとわかったのは、いつもみていた母の丁寧な文字よりも、少しだけ早めにペンを走らせていたであろうことを、微妙な違和感が語っていたから。
私が帰る前に出て行きたかったのか。それとも、この家に1秒たりとも長く居たくなかったのか、漢字を書くことも煩わしいと思っているかのような。
とにかく最後に残す、私宛のメモをほんの少しだけ、雑に扱ったことだけが事実だ。
私はそれを丸めてゴミ箱に捨てた。
別に怒ったわけでも、悲しくなったわけでもない、ただ、なんとなく。
とにかくその日に母はいなくなった。
突然といえば突然だけど、そんなに私はびっくりしていないから、突然ではなかったのだと思う。
むしろ自然にそうなったかのような、そんな感覚だった。
7
母はいなくても、毎日は普通に過ぎた。
遅くに帰る父のご飯にラップをして、洗濯物をたたんで、制服にアイロンをかける。
なにひとつ困ることなく過ぎる日々。
家事は大抵なんでもできた。そういう風に、母が育てたから。
私がご飯を上手に作れなかったら、まだ母はこの家にいただろうか。
私がアイロンがけをできなかったら、母は。
なんて考えてみるけど、残念ながら、私は生活する上で、できなくて困ることはひとつもなかった。
かしこいなんでもできる娘でも、置いていかれたのが現実だ。
あまりかしこくなくて、なにもできない娘だったら一日で心配になって、母は帰ってきてただろうか。
母がいなくなったことで、涙を流したことはない。
泣いてしまうと、母がいなくなった事実を私が認めてしまったということになりそうな気がして、それだけは私の小さな意地だった。
5
私は、大坪 香菜美
服飾の専門学校をやめたばかりの19歳。
髪は明るめのショートカット。
深夜のコンビニバイトのフリーター。
そして、子供を産んだこともなければ、よく聞く、親が子供を想う程、なんて、そんなに深い愛情が自分のどこかにあることも、知らない。
一緒に暮らしているのは
佐藤 和也、24歳の会社員。普通の容姿の、普通のサラリーマン。
いいところは家賃を払ってくれるところ。
いつも愚痴っぽいけど、たぶん根は優しい人なんだと思う。
たまに求めて来る、キスもセックスも至って普通。
毎日一緒にご飯を食べて、一緒に寝る。ただそれだけの普通の毎日だった。
結婚したらこんな退屈な毎日なのかな。
愛とか恋とか、溢れる幸せとか、キラキラの笑顔の日々とか、そんなことは夢みたいな生活なのかな。
「香菜、それとって。」
ベットで寝転んだまま、リモコンを指差している。
無言でそれを手渡して、ふと思う。
私は「香菜」ではない、「香菜美」なんだけど。
この人はいつも私の名前を省略して呼ぶ。
違う女の子を呼んでいるように聞こえるのは、私の気のせいなのだろうが。
そんなことを考えても嫌な気持ちにならないくらい、私はこの人に対して愛がない。
その事実を知っているから、ちゃんと名前を呼んで欲しいなんて、一度も口にしたことはない。
8
「香菜、俺今の会社辞めようと思うんだけど。」
「そう。」
「もう少し給料のいいところに転職しようと思う。そして、落ち着いたら結婚しよう。でも、今の会社、俺がいなくなったら、まわらなくなるんだよな。だから、いつ辞めれるかはまだ、わからないけど。」
「和也がいても、いなくても地球はまわるのに、それよりも小さな会社はまわらなくなるの?おかしな話だね。」
気がついたら、バタンと玄関の音がして、和也はいなくなっていた。
和也は、仕事を辞める話も、結婚の話も同じ事みたいに、普段と変わらない口調で、まるでなにかの報告のように、結婚しよう。と言った。
まだ話の途中なのに。散歩にでも行ったのかな。
ヤバイ、私もそろそろバイトに行かなきゃ。
朝方帰ると、和也は電気もテレビもつけたまま寝ていた。今日は休みって言ってたっけ。
私ももそもそと布団に入る。
いつも私に気づくと両手を広げて布団に迎えてくれたのに、今日は背中しか見えない。
「ただいま、おやすみ。」
変なあいさつ、と思いながら眠りについた。
9
「香菜、別れよう。」
起きたばかりだったので、夢かと思ったら現実だったみたいだ。
「私はここを出て行けばいいの?」
目をこすりながら答えると
「香菜はいつもそう、俺がいても、いなくても、どっちでもいいような目で俺を見る。
俺がいなくても地球はまわるんだろ?香菜に俺は必要ない。」
そう言われればそうかもしれない。
私の頭の中は、和也がいなくなることよりも、これからどこで生活をしていけばいいのかばかり考えていた。
それよりもやはり名前の呼び方が気になって仕方がない、香菜に美は必要ないのかな。
確かに美しくはないけれど。
よくよく考えてみれば、今までは、どこで生活をしていくかなんて、考えなくてもいいような生活を、この人は毎日与えてくれていたんだな。
「ありがとう。」
「‥‥は?」
「明日でていくね。」
10
荷物をまとめてみると、ここにある、私のものは、意外と少なかった。
私のここでの2年間の生活は、大きなキャリーバッグ一つに収まってしまった。
約10日間の旅行用のキャリーバッグに。
短い旅行をしていたみたいだね。
誰かにそんなことを言われている気がした。
仕事に行っている間に出ていくのも、なんだか違う気がして、和也が帰ってくるまで待った。
干してある和也の白いシャツのボタンがとれかけていたので、ボタンをつけて、アイロンをかけて、いつもの場所にしまった。
「長い間、おじゃましました。」
和也にあいさつしたのか、この部屋にあいさつしたのか、自分でもわからなかった。
私は、和也がいる部屋を後にした。
この時、彼がどんな顔をしていたのかは、覚えていない。
11
キャリーバッグなんて久しぶりに転がすから、旅行気分で電車に乗った。
向かったのは、田んぼと畑に囲まれた、実家だ。
家を出てからは、一度も帰っていない。
バスを降りて歩いていると、菜の花畑が広がっていた。今はそんな季節か。
”黄色”という色を久しぶりにみたような、そんな気がした。
いつの間にか、季節は二周まわってた。
八回分損したかな。
そう思ったから、少しだけゆっくり歩くことにした。
あ、絵描きさんがいる。
数秒眺めていたら、ふわりとそよ風が吹いて、
菜の花畑の絵を描いてる少年と目があった。
「こんにちは、旅行帰りですか?」
12
「そんなもんです。あ、こんにちは。」
少年は、あははっと笑って、また絵を描き始めた。
「菜の花、好きなんですか?」
「僕は花の中で、菜の花が一番好きです。」
少年は、こちらを向かずに、筆を動かしながら答えた。
静かに話す人だなぁ。
私はその少年を”そよ風さん”と名付けた。
お邪魔かな。そう思ったので、ゆっくり歩き出した。
「あ、お嬢さん!おかえりなさい。久しぶりの実家は、いいですよね。気をつけて帰ってくださいね。」
お嬢さん?
少年にお嬢さんと呼ばれて、よくわからないけど、すごく不思議な気持ちになった。
嫌ではない。まあいいか。
「ありがとうございます。では。」
今日はとても風がいい。
だからやっぱりゆっくり歩いた。
少し歩くと
”大坪”
と書かれた表札の家についた。
13
「ただいま」
相変わらず玄関は開けっ放しだ。
母は火の元、戸締りを何度も確認する人だったけど、父はいつも鍵を開けたままで出ていく。
そんな小さなことでも喧嘩ばかりしていた。
私の家は、火事になったり、泥棒が入った試しはない。
けれども、そうなるかもしれないと、そうはならないだろうという、”かもしれない”とか”〜だろう”という、なんとも曖昧な見えないことで二人は言い合いをする。
そんなことをしていたら、いくらだって喧嘩の元は空中に浮かんでる。
どちらも正しいし、どちらもそう信じてる、だから結局、どちらもいい、し、どちらでもいい。
曖昧なまま、ふわっと空中に戻してあげればいい。
答え合わせは、離れてからできたのかな。
14
ガラガラ
玄関には、私のお気に入りの赤い靴がある。
「香菜美か。」
「うん、ただいま。ご飯できてるよ。」
「帰ってきたのか。」
「うん。」
父は言葉が少ないから、時々大事なことが抜けていることがある。だからいつも、私が確認作業をする。
「また、しばらくの間、お世話になります。」
「そうか。」
久しぶりに二人で食事する。
「久しぶりに一緒に食べるね。」「美味しい?」「あぁ、うまいよ。」
なんて会話はない。
父は美味しいと感じれば綺麗に完食するし、気に入らなければ、ほんの少しだけそれを残す。
そういえば、和也もそうだったな。
だから沈黙には慣れている。
父と暮らしていた数年も、和也といた2年間も。
たぶん、特に話すことがなかったから。
15
明日は早起きをして、感じ損ねた季節を取り戻しに行こう。
そう決めて昨日は眠ったから、六時に目が覚めた。
父はまだ寝ている。いつも七時に起きてたっけ。
目玉焼きと味噌汁を作って、朝食を済ませた。
こんなに早起きをしたのは久しぶりだ。
背伸びをして、早足で玄関に向かった。
今日もそよ風さんは絵を描いているだろうか。
私が向かうのは、すぐそこの菜の花畑。
そよ風さんはいなかった。
それはそうだ。今は朝の七時前だし、いる方がおかしい。
昨日そよ風さんとお話したあたりで、寝転んだ。
「これからどうしよう。」
少し考えて目をあけると、スケッチブックを持った、そよ風さんと目があった。
「あ、そよ風さん。」
「そよ風さん‥‥?」
あははっと笑って
「お隣いいですか?」と静かに聞いてきた。
ここは、もともとそよ風さんの場所だけど。
「どうぞ。」
と寝転んだまま答えた。
そよ風さんは静かに昨日の続きを描き始めた。
16
どれくらい時間がたったかな。
気持ちのいい風が吹いた。
そよ風さんの仕業かな。
おかしくなって、ふふっと笑った。
「気持ちのいい風だね。」
スケッチブックを眺めながら、そよ風さんが言った。
どうやら、そよ風さんの仕業ではないようだ。
「そよ風さん、お名前聞いてもいいですか?」
「葉山 涼一と申します。」
「涼しいお名前ですね。」
どうしてかは、わからないけど、頭のなかに、”涼”の漢字が、ふわっと流れてきた。
これは、そよ風さんの仕業かな。
「お嬢さんのお名前は?」
「私は、大坪 香菜美。もうすぐ二十歳、きっとあなたよりお姉さんだから、お嬢さんではない。」
割と早口で答えた。
「参ったなぁ。僕は26歳で、香菜美ちゃんよりはお兄さんなんだけど。」
静かにそう答えて、また、あははっと笑った。
17
私たちは、約束もしていないのに、毎朝同じ時間に菜の花畑にやってきて、座っておしゃべりをした。
小さい頃、一人っ子で寂しかったこと。
小学生の頃、裁縫が大好きだったこと。
中学生の頃の部活の話。
高校生の頃の面白い友達の話。
私は服飾の専門学校で、派手なファッションショーをしたかった訳ではないこと。
深夜のコンビニバイトの酔っ払いおじさんのこと。
彼氏に振られて仕方なく、実家に帰ってきたこと。
涼一さんと出会ったのはその日だということ。
季節を八回も感じ損ねたこと。
どうして振られたのか、聞けなかったこと。
父と二人で、家には母はいないこと。
そして今、どうしようもなく途方に暮れていること。
涼一さんは、菜の花の絵を描きながら
器用に全ての話しに相槌をうつ。
そして、時々あははっと笑って、筆を止める。
そろそろ菜の花の季節は終わる。
涼一さんの菜の花の絵も、もう少しで完成する。
18
「香菜美ちゃん、菜の花の花言葉、知ってる?」
「知らない。」
涼一さんが珍しく質問してきたから
私は知らないふりをした。
なにがおかしかったのか、涼一さんは、いつものように、あははっと笑った。
「快活な愛、競争、活発、元気、豊かさ、
それから、小さな幸せ。」
静かにそう言って、また、静かにゆっくりと
「小さな幸せ。素敵な花言葉だね。」と言った。
静かな風で菜の花はみんな同じ方向に揺れている。
「香菜美ちゃんの”菜”は、菜の花の”菜”だね。」
今日の涼一さんは、珍しくよくしゃべる。
「ここの菜の花畑。私がまだお腹にいるとき、お父さんとお母さんが、散歩しながら私の名前を一緒に考えてたんだって。菜の花香る、美しい場所。」
「素敵な名前だねぇ。」
涼一さんは、ふわっと笑って
完成した菜の花畑の絵を眺めている。
19
葉山 涼一さん。26歳。(見た目は18歳)
真っ黒の柔らかそうな癖っ毛で、いつも風でふわふわ揺れている。
静かにゆっくり話しをする人。
綺麗な言葉で話す人。俺とは言わない。僕と言う。
絵描きさん。趣味かと思っていたら職業だった。
時々、市内で個展をしている。
絵を描くために、3年前にここに引っ越してきた。
この辺に一人暮らしのアパートはないから
1人には広すぎる大きなお家に住んでいるらしい。
そこには、先住民の猫が一匹。名前はふうちゃん。まだ子供で、毛の色は、白とグレーの女の子。
僕はふうちゃんのお家に転がり込んでると笑っていた。
いつも飲んでいるのは、甘めのカフェオレ。
ブラックコーヒーは苦手。大人なのに。可愛い。
絵を描きながら飲んでいると、忘れてしまって、ぬるくなるから、と言って、いつも一気飲みしている。
冬にはホットのカフェオレを冷ましながら飲むのが好きなんだって。猫舌だから。
最近は、私の分も一緒に準備してくれているから、私は横で、甘めのコーヒー牛乳をちびちび飲みながら、早口で話しをする。
そして、涼一さんの一番好きな花は菜の花。
私の知っている涼一さんはこれだけ。
ううん、違う。こんなに知っている。
20
「香菜美ちゃん、僕と一緒に暮らしませんか?」
”好きだよ”でも
”付き合ってください”でも
”結婚しよう”でもなく。
全て含まれていることが、ふわっと頭の中に流れてきたから、本当にそよ風みたいな人だと思った。
本当に不思議な人だ。
21
ーーーー
それから私たちは、二人でも広すぎる大きなお家で、ゆっくりと時間を過ごした。
初めてお家に言った時、涼一さんは、
「ふうちゃんに許可を取らないと。」と言って
あははっと悪戯に笑った。
私はドキドキしながら、ふうちゃんに目線を合わせる。
ゴロゴロと喉を鳴らして、すり寄ってきた。
どうやら歓迎してくれているようだ。
私は安心して、ため息をつきながら笑ったけど
涼一さんは、今起こったことを始めから全て知っていたかのように、優しく笑った。
ゆっくりゆっくり時間が流れた。
季節は七回変わった。
また、季節を感じ損ねてしまわないように。
そんなことを思わなくても、ちゃんと感じていた。
もうすぐ菜の花の季節がくる。
22
私は今、布と布を重ねて合わせている。
布を這う針と糸の感覚は、今でも好きだ。
手は、もう荒れていないから、糸通しがなくても
上手に針に糸を通すことができる。
母がいなくなってから、糸通しは使っていない。
上手に糸を通せない日もあったけど、絶対に使わなかった。
「あとはボタンをつけるだけ。」
小さな女の子用のワンピースの首元に、黄色いお花のボタンをつける。
「香菜美ちゃん、天気もいいし散歩にいかない?」
私のお腹をさすりながら、涼一さんが言った。
「菜の花の匂いがするね。」
23
ゆっくりゆっくり、菜の花畑を散歩した。
こうやって二人で過ごせる時間はあと少し。
そう思うと、名残惜しい気もする。
「絵を描きたいから、スケッチブックを取りに戻るね。香菜美ちゃん、足元には気をつけてね。」
そう言って、涼一さんは駆け足で家に戻っていく。
ふわっとそよ風が吹いた。
「かなちゃん、‥‥香菜美。」
懐かしい女性の声がした。
24
「どちら様ですか?」
私は後ろを向いたまま、答えた。
「母です。香菜美の母です。」
やっと振り向いた私を見て、母は涙を流した。
「もうすぐ赤ちゃんが産まれるよ。女の子で、名前は”風花”」
自分でもびっくりするくらい、穏やかな口調で話しかけた。
「そう、そう、幸せそうで、よかった。」
「勝手なことをしたけれど、どうしても、一目でいいから、香菜美に会いたくて。おめでとう。おめでとう。」
風で消えてしまいそうなくらいの声だった。
「風花、おばあちゃんが会いにきてくれたよ。撫でてくれるんだって。よかったね。」
キラキラした目で私を見つめて、懐かしい優しい瞳と、優しい手で、母はお腹を撫でた。
「風花ちゃん、初めまして。元気に産まれてきてね。」
人はこんなにも年を取るものなんだと思った。
久しぶりに会った母はずいぶん老けていた。
そしてこれが、母と会う最後になるのは、どこかでわかっていた。
「それじゃあ、もういくね。お母さん、元気でね。」
「香菜美、ありがとう。」
またふわりとそよ風が吹いた。
25
「香菜美、荷物が届いていたよ。」
今日は風花と一緒に初めて家に帰る日だ。
父にそう言われていたので、先に実家に寄った。
涼一さんは、風花と車で待っている。
ガラガラ
久しぶりでもないのに、今日の実家は
すごく懐かしい匂いがした。
玄関に置いてある、小さなダンボールを開けると、可愛いバスケットがでてきた。
バスケットを開けると、中には裁縫道具が入っていた。
母からのプレゼントだと、すぐにわかった。
ダンボールの端に小さな手紙が入っていた。
26
「香菜美へ
こうして、手紙を書くこと、プレゼントを贈ること、勝手な母の行動をお許しください。
香菜美の旦那様、涼一さんが、会いにきてくださいました。香菜美に会いに行った前日です。
香菜美の小さい頃の話をしたり、涼一さんに香菜美との出逢いを聞いたり、子供が産まれること、たくさんいろんなお話をしました。
会いに行くつもりはなかったのですが、体が先に動いてしまい、菜の花畑につきました。
香菜美に一目会えて、本当に良かった。お母さんと話をしてくれて、ありがとう。
小さい頃、なんでもお手伝いしてくれていた香菜美が一番、目を輝かせていたのは、裁縫をしている時だったように思い、これを贈ります。
風花ちゃんが健やかに育ちますように。
香菜美、大好きだよ。 お母さんより」
懐かしい、母の丁寧な文字で書かれていた。
私はその手紙を、風花の母子手帳と同じ引き出しにしまった。
27
家に帰って、風花の小さな手に、指を握られながら
小さかった自分のあかぎれの手を思い出した。
まだ、白くて、つるつるの小さな手。
小さい頃の私に似てしまって、かさかさのあかぎれになってしまったら。
考えただけで涙目になる。
代われるものなら代わってあげたいと、本気でそう思うだろう。
無理だと知っていても、神様にお願いするだろう。
母が「代われるものなら代わってあげたい」と言うたびに、それが本当かどうか、確かめられなかった小さな私は、神様を恨んでいたね。
私は心の中で神様にごめんなさいをした。
目に見えなくて、確かめようのない言葉も、それは本当だったんだと、風花は教えてくれる。
涼一さんに似て、そよ風のように優しい子になればいいなぁ。
28
ーーー
あっという間に風花は大きくなった。
今は小学五年生。
家庭科の授業で、最近、裁縫が始まったらしい。
「ねえお父さん、お母さんは、糸通しを使わないけど、糸通しの使い方を知らないの?」
ふうちゃんの首元を撫でながら小声で話している。
涼一さんはあははっと笑って
「どうかな?お母さんに聞いてみたら?」
と言った。
「「そういえば、」」
私と涼一さんは、同じことを思い出したようで、二人で顔を合わせて、くすくす笑った。
「なーに?二人で笑って、風花にも教えて!」
29
「風花がまだ小さい頃に、お母さんの裁縫道具をひっくり返しちゃったことがあってね。」
涼一さんがゆっくり話している。
「危ないから、僕がすぐに抱き上げて、この部屋に移動したんだけど、風花はいつの間にか、”糸通し”だけを握りしめていたんだよ。」
「ふーん。」
風花は、お父さんの話し方は、いつも眠くなるという。耳に心地いいテンポだから。
風花が眠らないように、続きは私が話そう。
「風花が「こえ、なに?」って、聞いてくるから、「いととおし」だよ。と答えたの。そしたら風花
「いとーし」「いとおし」「いとーしー」
って、”と”がふたつ言えなかったんだよね。」
そこで私と涼一さんは二人であははっと笑った。
「なにがおかしいの??」
風花は照れ臭そうに膨れている。
30
「お父さんとお母さんは、声を揃えて言ったの。
「愛おしい」ねって。」
ふんわりした空気が流れる。
愛おしい、幸せな空間。
風花はまた照れ臭くなって早口で話しかけてくる。
「それで、お母さんは、どうして糸通しを使わないの?」
「そうだねー。お母さんは意地っ張りだから、糸通しを使わずに、自分で糸を通したい。って思っちゃうのかなぁ。」
ふふっと笑って答えた。
「魔法みたいで素敵だよ!」
風花が裁縫箱を開く。
するりと糸を通してみせて、得意げに鼻を膨らませている。
私は、癖のある長い黒髪を優しく撫でた。
「愛おしい。」
end
涼一 side
春の心地よい風に吹かれながら、僕は仕事と言う名の趣味を堪能していた。
今は一番好きな季節で、一番好きな花、菜の花を描いていて、とても気分がいい。
コロコロコロ‥
コンクリートの上をキャリーバッグが転がる音がした。
ふわりとそよ風が吹いた。
可愛い赤い靴が見えて、顔をあげると目があった。
彼氏に振られて、実家に帰っている途中。
みたいな浮かない顔をした女の子がいた。
旅行帰りだと、もっとウキウキしているはずだ。
「こんにちは、旅行帰りですか?」
「そんなもんです。あ、こんにちは。」
女の子の、わかりやすく不機嫌な顔が可愛くて
僕は、あははっと笑った。
きっとこの子が笑うと、とても可愛いんだろうな。
「菜の花、好きなんですか?」
菜の花が好きだったら、嬉しいな。
そんな風に聞こえた。
「僕は花の中で、菜の花が一番好きです。」
‥‥そして、春のそよ風に吹かれてやってきた
愛おしい、女の子。
小さな幸せ、菜の花のような、君が好きです。
いととおし