「ガマを飼う」と「苔の図鑑」
以前書いた掌編ふたつ。
保管用です。
「ガマを飼う」
車谷長吉氏が書いていた、庭でガマを飼っている、という内容のエッセイに惹かれて、自分も同じことをしてみたくなった。ガマとはヒキガエルのことだ。氏のガマは逃げずにもう四年間も、庭の内に棲みつづけているという。わたしには亡き両親の残してくれた庭付きの小さな家がある。猫の額ほどの庭ではあるが、おあつらえ向けの池までついている。
わたしは数年前にうつ病で勤めをよして以来、株のインターネット取引で生計を立てている。ここ二年来の好地合いにも助けられて、元々の種金五百万円を二千万円まで増やすことができた。これに変な自信をつけてしまったわたしは、貯金が一千万円を切るまではトレードはよし、好きなことだけをして暮らしてみようと思いたった。
しかし、よくよく考えてみると、わたしには趣味といえるほどの趣味もないのだ。映画も観なければ、酒も飲めない。容姿にも口にも自信がないから、女方面もからっきしだ。旅行をしたくとも車がないし、電車やバスには乗りたくない(わたしが勤めをよしたのも、極端な精神の衰弱から満員電車が耐えがたくなったことが原因だったから)。せいぜいが小説を、それもごく限られた作家の作品を行きつ戻りつしながら読み返すぐらいしか好きだと思えることがないのだ。
どうして時間を徒費するべきか。わたしは、考えに考えた。そうして、はじめてやりたいと思ったことがガマをどこかから調達してきて、庭へ放して飼うということだった。
わたしはインターネットの通信販売を利用することにした。滋賀県内に店舗を持つ爬虫類専門のペットショップで、ニホンヒキガエルという種類のガマを売っていたので、わたしは二千五百円のを雌雄二対ずつ購めることに決めた。黄土色の地に茶褐色の帯模様を持つ、大型のガマだ。
これで向こう数年間にわたって楽しみが続くと思えば、ずいぶんと安上がりな娯楽だった。わたしはホタルカズラの青い花が咲きそろった春の庭をながめながら、頬をゆるめてお茶をすすった。
「苔の図鑑」
四年前から年金生活を送っている老母から、わたしは月に二万円の小遣いをもらっている。
仕事はこの一年間、一切していない。いまのところ求職活動も行ってはいない。すさびごととして、ドイツ語を独習しているわたしは、平日はほぼ布団に寝転がったままマンやヘッセの原書を読みふけって過ごし、週末には中央競馬を賭けずに観戦して楽しんでいる。
今月分の小遣いは、小岩のピンサロ二回、マルボロの補充および洋書の苔の図鑑を購めることで費消した。苔の図鑑には、先週末日本橋丸善の三階で出会って以来、たちどころに魅了されてしまった。わたしはこのカラー版図鑑の一頁一頁を、自分が苔の世界の微細な住人、例えばクマムシのようなものになったつもりで眺めるのが好きだ。ひどく好きだといっても過言ではない。そんな痴れ者めいた想像に長々しい時間をかけてひたっていると、「無の境地」などといえばこれは言葉が強すぎるだろうが、わたしは心のシーンとしてくるような、寂漠として自由な気持ちになれるのだった。
マンの抽象的な表現がくどく、べたべたしく感じるようになると、わたしは苔の図鑑を開く。苔の写真を眺めて一度頭脳を掃き清め、再び、頂をめざして山を登り始める、といったリズムがわたしには画期的発明的な『魔の山』攻略法のように思えるのだ。
「ガマを飼う」と「苔の図鑑」