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耳に入ってくるのは,落ち着かない外の気配。カラカラ聞こえるし,ザワザワしている。他の家のドアや窓も開いているのかもしれない。それで多分,みんなで,屋根より高い所を見上げているんだ。こっちに近づいているという光の速さを見つけて,その,嘘と本当を確かめようとしている。リアルタイムで説明する声は,機器から流しっぱなしにされて,外に漏れ出て聞こえてくる。けれどこの距離,耳をすませても,きっと何を言っているのか,分かるわけがない。そうなると,それらはただの音の発信源,伝えるのはそこで何かが起きているということだけ。気になれば,カーテンを開ける?そうすれば,大小さまざまな部屋のどこからも,灯りが漏れる。それらがちょっとずつ集まって,集まって,集まって,地図の上にある一箇所を塗りつぶすまで,その状態が維持されるとするのなら,声だけで伝えるお知らせは,実はもっと高いところを宛先にしている。テレビで観た事があるような,眠らない街の象徴だという批判がくっ付く映像そのものであっても,そこでの営みを強調するメッセージ。降りて来てもらうことを期待しているし,いつかそこまで垂直に飛び立てることを,重力に逆らって,放物線に乗って,そのままどこまでも飛んで行けることを夢見ている。人類の長い試みのひとつ。ひとつの過程。
一
私の課題は,あと九枚のレポート用紙に名前を書くだけで終わる。科目は一番上のメディア概論から,統計学に社会福祉関連科目,一般教養の哲学と続いて,最後は第二外国語。第二外国語に関しては,名前もそれで記すべきか,迷うところで,普段の授業で提出課題を出されたことがなかった珍しい一科目なものだったから,もう,最期まで続けて漢字で書くことに決めた。右上の枠の分だけ,重ねた解答用紙を一枚ずつズラしていって,そこに続けて書いていく,そのノリを重視したいと思ったから。A5用紙の内容を五十五枚にわたって埋め続けてきた今だから,もう気分に従って終わりたい。そしてそのままの勢いで,遊んで終わりたい。姓も名も植物に関係がある,例えば木の下の『花』の子みたいな,その上,この『花』がちょっとややこしくて,他の人に書いてもらう時には,必ず訂正しなきゃいけないみたいな,私の名前を押し通して。さあ,という気持ちでシャーペンの頭を押す,芯を出す,空欄に書いていく。と,角度がいまいち決まらなくて,ちょっと強めに当てたライトの下で,一点を見つめて,ペン先を動かす。最後の集中。耳を澄ませて,無線を飛ばすラジオアプリを捕まえたスピーカーが流す,昔の昭和の音楽をさっきより楽しんで聴く。古くていい。どこか新しい。なのに,途中で切れた。代わりに,「ここでニュース速報です。」と,低く響く良い声の男の人がアナウンサーとして現れた。そしてすぐに,その中身を切り出す。きっと,みんなにとって大事なことが伝えられる。そう思った私は書き終えた一枚目を左側に置いて,すぐに二枚目に取りかかった。途中で消しゴムのカスが邪魔になって,手で払ったら,本体をまるごと床に向かって飛ばしてしまった。上手に跳ねて,ベッドの下まで。メンドくさいからそれを見届けて,二枚目に名前を書き始めて,私はため息を鼻から出した。間違えた時のことを考えると,そっちの方がメンドくさいから,きちんと取りに行くことに決めた。私はゆっくりと椅子から立ち上がって,男の人のアナウンサーは,そのスピードに気を使うように,テンポよく情報を繰り返していた。
「落ち着いて,今は行動するのを控えて下さい。身の回りの物を持ち出したり,車による移動等は行わないで下さい。生活状況には一切,影響はないと考えられます。突発的な行動を取る方がかえって秩序を乱し,混乱を生み出す可能性が高いと思われます。無計画な行動は控えて下さい。周囲にそのような行動を取ろうとする方を見かけた場合,そのような行動を取ることを控えるよう,注意を発して下さい。お願い致します。繰り返します,落ち着いて,今は行動するのを控えて下さい・・・」
ベッドの下を覗き込んで,またため息をついて,そこに向かって手を伸ばし,それを確かに掴んで,私は消しゴムを取り出した。すぐに立ち上がって机に戻り,書いている途中だった二枚目の中程から最後まで,私の名前を書く。それを左側に置いて,一枚目に重ねて,その下にあった三枚目の空欄にシャーペンを立てた。さっさと動かした。面倒くさいから一応,間違えないようには注意して。スピーカーの向こうでは,天文学者の説明が始まった。内容は観測出来なかった理由と,突然の飛来がもたらす影響について,専門学的見地に基づく詳細なものだった。素人の私にも,それくらいのことがよく分かった。
二
もう一度,叩いて電波の調子を整える。
それから,つまみを回して合わせる。ザザザーっと砂嵐が途切れて,チャンネルの発見に成功した,かと思ったら、すぐにそれを取り逃がしたために,本体にパンチをもう一発食らわせる。ガタンと揺れ,少し位置がずれ,置いてあった台の上に染みついた日焼けのあとが露わになって,埃が舞った。積まれた段ボールの一番上で,粘着力を失った口が開いて,中のシートが当時のタイムテーブルを教えている。
『十四時から開始,冒頭一分は挨拶,CMあけ五分に選曲一曲目。お便り紹介。十五分頃からゲスト。ゲスト曲を二曲。四十分までトーク。CM。CM明け,お便り紹介。CM。CM明け,フリートーク。』
目的は,未来から過去を経て,現在に至ること。アナログ機器は今や価値ある骨董品であって,かつ,メンテナンスが著しく面倒であるために,その機能が活きているかどうかを調べられることは,まずない。それは使用可能なチャンネルの有無及びその数についても同様で,密かに活きている電波塔を用いて,奇妙なもの好きたちの海賊番組がオンエアー中であることを,いちいち調べる奴はいない。変わったところで言えば,動物を模したキーホルダー特集を,一週間にわたって長々と組んでくれる趣味と娯楽の専門番組,地下に潜んでいるはずの秘密結社的な団体が教えてくれる,素敵な世界の秘密を上手に取り扱う生活番組。親子三代にわたって出生時から永眠後まで綴られてきた日記の,詳細な朗読を聴かせる人生の旅番組,無音を押し通すサイレントな音楽番組,もれ聞こえるささやきが,リスナーをスピーカーの前に拘束するトーク番組,嘘に本当を交える臨時ニュース番組に,三分おきにその事実を伝えてくれる,時計店がスポンサーの定期番組。こうして紹介している間にも,おそらく番組は増えている。目に見えない,耳でしか聞き取れない。今となっては物好きの所業と言われるこれらの営みの中で,一方的な語りかけが合間に読まれることがある。これまた,今や目にする事が貴重すぎるテガミを,書かれた内容が判読可能なものなら,そして,それが特定の誰かに向けられたものなら,それを読むという人気番組。今となっては,人類学的見地からも,とても大事な番組だ。だから,聞き逃してはならないし,その録音には,最大限の注意が払われなければならない。発信元の事情なのだろうが,その受信は毎回不安定だ。雑音を取り除くのも一苦労である。その上,同じものを二度も読んではくれない。だからその瞬間は,二度と戻って来ない。こちらの事情として,受信する本体の調子が悪いなら,なおのこと,自身の活動可能な時間を考えたら,その切実さは増す。集中をしなければならない。
腕を見る。組んでいた足を下ろす。椅子の背もたれに背中をつけて,手を組んで,動けなくして,その時を待つ。そのうち,ザザザッと雑音が形を成し,初めて聴く懐メロソングの歌詞が歌われていて,その途中,女性は静かに解説を始める。あの人気番組とは違うものだ。
「この歌詞が書かれたのは,今から二世紀は前の夏の時期,当時売れっ子だった歌い手が,郊外に購入した別荘地にて過ごした浮気の相手と口論になった末,愛想を尽かされて出て行かれた後,奥さんに浮気をバレされて,本宅に帰りことも出来ず,途方に暮れている時に,気の紛らしと暇つぶしを兼ねて作ったメロディに乗せたもの,なのだそうです。歌詞先行で作曲する彼にしては,とても珍しい。さらに,極めて素晴らしい状態で残されているライナーノートによれば,曲完成後に知人女性の一人に電話をかけ,演奏付きで歌って聞かせたところ,その知人女性はその日のうちに別荘地を訪れ,その年の夏が終わるまで,二人っきりで過ごしたそうです。嘘のような本当の話,電子情報としても語り継がれる彼の伝説的エピソードを参照すれば,信じてしまわざるをえない,とんでもない自慢話ですよね。この点に目をつぶってしまえば,私は個人的にこの曲が大好きで,軽薄なのに切実に,戻って来たその人に,その不在の間に犯した失敗談を思い付くままに並べ立てては,時間の前後を正そうとして,都合の悪いことを意図して捨てるように,ことごとく忘れていく,曲中の『彼』のダメっぷりが腹が立つぐらいに愛しくて,取って付けたような最後の『アイしてる』も,あんなに綺麗に,素敵に歌い上げられたら,一人の女性としては,もうダメですね。この時代から,二世紀は経ったいま現在,こうして生きている私は,先ほど話した新たな浮気相手では勿論ないですが,こうして同じ思いを抱いてしまっている以上,私と彼女の間に,大した違いはないのだと思ってしまいます。私はきっと未来の彼女,そして彼女はきっと,私の過去なのでしょうね。いかにもカッコつけて聞こえるかもしれませんが,この曲を聞くたびに抱いてしまう,これが私の素直な気持ちなんです。話が長くなってしまいましたね,では,次の懐メロの紹介といきましょう。まずは,こちらをお聴き下さい。」
音が少し乱れ,すぐに直り,音がよりはっきりと聞こえ出し,目を開け,組んでいる両手の親指を動かしてから,目の前の本体を視界に収め,その下の,日焼けのあとが残る台のペンキの剥がれ具合,それから埃の目立ち方,吐いた息が巻き上げた光る埃を吸い込むことがないように息を止め,しばらくして,息を吸い,なんの異常もなく,流れる曲が聴こえた。いい曲だ。
しかしまだ,テガミは読まれない。
三
いつも歌を歌っている。なのに、いまはとっても静かにしている。なんでだろう。お腹が空いたのか。元気がないのか。黒い紐は繋がっている。だから,元気はいっぱいのはず。そうしていれば,動けることを知っている。イヌなら鼻を押せばいい。ネコなら頭を撫でたらいい。おサルさんなら尻尾を引っ張る。
でも,機械には鼻も頭も尻尾もない。何にもない。振ったら歌ってくれるのかな。でも,こうしても,機械は何も歌わない。じゃあ,やっぱり何かを押したり撫でたり引っ張ったりしなきゃいけない。でも,何もない。僕はどうしたらいいのか分からない。ねえ,ママ。
この子の名前はなんていうの?
四
「カオリ。この子はイチセ。」
「よろしく。俺はヒロ。イチセさんは,下の名前は?」
「下の名前がイチセ。苗字はカワグチよ。」
「ああ,なるほど。ごめん,勝手に苗字だと思っちゃった。」
「いいよー。前からよくあるし,大ヒット映画のおかげで,ますます多くなったし。かえって,男の人によく覚えてもらえるしね。いい男も捕まえられる。」
「はは。これ以上嫌われたくないって思うだろうからね。野郎どもからすれば。」
「ヒロくんも?」
「もちろん。」
「イチセ,ほんとモテるからねー。百発百中,連戦連勝って感じ。」
「そんなことないよー。フラれる時はフラれるもん。」
「マジで?」
「えー,そんなこと,いつあった?私の記憶には一度もないんだけど。」
「言ってないだけだよー。主に単独行動時。」
「どんなヤツよ,それ。相当にモテ男じゃないと,イチセちゃんをフるなんてこと,出来ないと思うぜ。」
「うん,ちょー気になる。どんなヤツ,それ。写メないの,写メ。」
「あるよ。じゃあ,取って置きの一枚,えー,とハイこれ。」
「きゃー!なになにー!何でー!!」
「え,なになに?俺も見たい!」
「きゃー!すごーい!」
「すげえ気になる!イケメン?イケメン?」
「ちょっと!ヒロくんはまだダメ!まだ高速でしょ!降りてから!」
「ちっくしょー。あ,じゃあさ,せめて,ダレ似?とか教えてよ。ね,ね。」
「ウソウソ,ウソ!え,どこで?どこで?」
「聞いちゃいねー。」
「バイト先。サキ先輩の紹介で。」
「えー!何でー!彼女持ち?奥さん?それとも子持ち?」
「どっちでもなし。興味ないんだってさ。サキ先輩とは浮気までしてたくせに,だよ。マジ,信じられなかった。」
「サキ先輩と!?それも気になるー!いつ?例のミツオとの終わり頃?」
「多分。その頃だと思う。」
「えー!」
「ミツオって誰よ?」
「ミツオはサキ先輩の元カレ。」
「いや,話が逸れてんじゃね?ってことよ。」
「逸れてねぇし。えー,でも何でー?お似合いって感じなのにねー。」
「え,じゃあやっぱイケメン?」
「マジでショックだった。体調悪いって言って,サークル断った時あったでしょ?」
「水曜日?」
「それ。そん時が落ち込みピークだった。」
「言ってくれたら良かったのに!あ,でも,もしかして,言えない事情あり?」
「まあー,ね。今だから言えるって感じだね。」
「気になるー!」
「パーキングよっていい?そこで見たいわー。」
「ダメだよ!時間ないでしょー!」
「大丈夫だって。間に合うって。」
「間にあわねぇし。ヒロくんは運転集中。」
「ちっ。じゃあ,ちょっとスピード上げるぞー!」
「きゃー!ちょーはやーい!」
「きゃー!」
「おいおいー!」
「あはははー!」
「きゃはー!」
「ヒロくんー!」
「なになにー!?」
「ラジオ消していいー?ノリノリのやつ聴きたーい!」
「もち!選曲は任せたぜー!」
「りょうかーい!」
「はやくはやくー!」
「マジむりー!つーか,CD,どこー!」
「えー,ちょーひみつー!」
「ちょっとー!」
「うそうそー!イチセちゃんとこー!箱あるっしょー?」
「えー,待ってー!あ,あったー!」
「ちょうだーい!」
「はーい!」
「何にしよー!」
「見せて見せてー!あー,これがいいんじゃなーい?」
「えー,こっちじゃなーい?」
「えー,こっちだよー!」
「はやく,しろよー!」
「きゃー!」
「きゃー!!」
五
只今,時刻は午後八時を回るところです。ここで,渋滞情報をお伝えします。Dパーキングエリアを出た先,甲インターチェンジとの間にあるA区間からC区間において,普通自動車がエンジントラブルにより,道路途中で夕方から長時間にわたり停車していることを原因として,10キロメートルにわたる渋滞が発生しております。この影響により,一般道の一部においても,車の流れが悪くなっているとの情報もあり,休日の道路状況と相まって,さらにその距離が伸びるものと思われます。ドライバーのみなさん,慌てることなく,安全・快適に運転することを心がけて下さい。それから,ガス欠にはご注意を。
繰り返します。
六
背もたれを倒した助手席で,フロントガラスに迫るぐらいに足を組んで,彼氏の代わりにクラクションを鳴らし,私のために急いでもらって,お礼を言われる。
そのリスナーの名前は江ノ島海岸に似ていた。私たちが向かう目的地とは,反対方向にある,あそこ。初めてケンカして,一人で帰って,二度と会うもんかと誓っていたら,人目をはばからない公の場所で,ドラマチックな再告白をされて,すぐに抱かれて,愛を誓った場所。
読み上げられた内容は,外回りの途中で,三十年前に別れた元彼女であった女性と街で再会して,涼みがてらに近くのカフェに入ってから,お互いの近況,別れてからの経緯,付き合っていた時の懐かしい話を交わしていって,ふと,借りてから返していないお金の件を思い出し,その金額と,清算をめぐって口論となり,感情的になって別れ,二度と会うこともないと思った矢先,営業先である大手会社の役員の一人して直ちに再会。冷や汗をかく羽目になったという,オチがついたものだった。
これを聞いていた彼とパーソナリティーの女性が笑って,私だけがつまらないという顔をした。リクエストの選曲にもウンザリした。
七
給水塔に引っ掛けられたスピーカーから,今週初のチャートインした,二十三位のヒットソングが流れる。そこら辺りには,置いて行かれたスナック菓子の袋がちらほら,中身丸出しで,風に運ばれている。カップに差し込まれたストローの先は,強く噛まれて使い物にならない。多分,氷が溶けたせいで,ジュースの味は薄れているだろう。これは三つ。施錠を破壊して屋上に忍び込んだ最低限の犯人の数としては,こちらが当てになる。少なくても三人。そして,ここに身を隠す場所はない。
八
さて,双眼鏡で覗ける範囲は決して広くない。持ち運びが可能な大きさを考えたら,それは仕方のないことだ。これを嫌がるのなら,そもそも双眼鏡を使うべきじゃない。大金叩いて,一眼レンズのコーナーで良いやつをひとつ買ってきて,カメラにでも付けてやればいい。そうすれば,きっと姿を見せずに相手を捉えられる。何の苦労もせず,気付かれずに必要な姿を収められる。それをどうするかも決められる。それでいいなら,そうすればいい。それに従い行動することで生じる問題に責任を負わざるをえないとしても,趣味趣向は基本的に,他人のことより自分のことを優先していい範囲内の問題なのだから。もちろん,相応の責任を伴うことにはなるが。それを負う覚悟はあるのだろう?そちらは既に,選択をし終えているのだから。
双眼鏡で見える範囲のうち,最も遠い距離で,相手からもこちらを把握できるリスクを犯してでも,正々堂々と目標の動向を監視するのなら,監視事項は日常生活の把握,不在の時間帯,訪問者の有無と頻度,及び滞在時間あるいは日数,対象者を中心にした人間関係の有無及び範囲,そこから窺い知れる親密度,これを基準にした順位,またはその消失から生じる関係性の変化,これに伴う感情の起伏,感情的衝突の解消の方法,行動パターン,趣味趣向その他外観から知れる諸々のこと,になるだろう。得ることが出来たなら,これらはとても有用な情報だ。監視されている事実を既に対象者が知っていて,虚偽の情報を掴ませるために,すべて演技でしていなければ,ということではあるが。そこも含めて,鋭い観察眼が求められるだろう。
覗き見は趣味じゃない,というヤツも,双眼鏡を手に取るのは止めておいた方がいいだろう。双眼鏡が有する道具としての意義は,まさにここにある。男らしくない,とか,淑女のたしなみとは到底いえない,などと批判するヤツは感情的になりすぎだ。実は写真機もコソコソしている。しかも,その瞬間は化学薬品と暗室を経て,証拠として残るのだ。タチの悪さは歴然としている。記憶と忘却を繰り返す人を,もう少し尊敬すべきである。そして双眼鏡を手にする者は,もう少し堂々と振る舞うべきでないか。写真機よりは男らしく,いっそ清々しい点で,実に淑女らしいのだから。一面的で,かつ偏向的な見方であることは自覚しているが,一部の共感は得られるはずだ。特に,そちらの。
もちろん,充実した監視をするには,時間をかけざるをえないだろう。集中力の持続は成功の鍵である。その間の,適度な娯楽は必要だ。短波を受信する機器本体を携帯して,それにイヤホンを差し込み,流れてくるものを聞き取る。視覚と聴覚のそれぞれの領分が競合する恐れがない分,他の行為と比べて,監視の支障となることはない。なので,間違いなくオススメできる。その日の深夜,早朝,聞こえてくるものは曜日に応じて多岐にわたるが,良質な領域は把握済みである。紙媒体でも何でもいい,連絡をくれれば,これらを教えられる。区別するために,件名だけはしっかり書いておいて欲しい。その際,知りたい曜日及び時間は必須でない。これらが書かれていない場合,こちらとしては一週間を通して,オススメをお教えするだけである。月曜日から日曜日まで,充実した時間を過ごせるだろう。それは保証する。
もちろん,これは冗談である。目出し帽を被った全身の格好と同じく,ユーモアで誤魔化したたわ言として,クックッとニヤつき,味わって欲しい。
さて,番組のお勧めは出来ないが,アドバイスはひとつ。ボリュームには注意が必要だ。適法な手段で肩を叩かれる距離になって,すべてのことを後悔しても,文字通り,すでに遅い。
なお,現場で競合することはよくある。こちらとの間においても,それは例外じゃない。この場合において,もし,こちらのことを識別したいと思ったのなら,その段階でその日を楽しむことを諦めて,許される時間のすべてを,われら個体としての同類の,その観察に費やさなければならなくなるだろう。例えば私には,五時間のあいだに一回だけ,足の重心をつま先にかけ過ぎる癖があるらしい。周りから見れば,それは明白な,前のめりのシルエットになっているだろう。その状態が一分は維持される。それを見逃さずに目撃すれば,それは私である可能性が高い。ただ,話しかけても無駄であることは,われら同類の,他の個体に関する場合と同様だ。返事なんて一度たりともしない。決してだ。しかし,不特定又は多数であり続けるには,この程度で十分だろう? お化け屋敷で,訪問者を驚かす側であるお化けが,その素性を知られては興醒めになるのと同じ理屈だ。そうそう,これもまた当たり前のことだが,顔が判明してはならない。名乗ってはいけない。我々はあくまで同類だ。曖昧な境界線を超えて,目出し帽を脱ぐことはできない。われらは可能性の段階で満足をするべきだ。例えるなら,壁面に写る陰だけで,あちらこちらを重ねて,心ゆくまで踊り明かすべきなのだ。もちろん,双眼鏡を手にして。
灯りの向こう側に回れば,我々は,我々でいられなくなるのは,もちろん,そちらも承知のことだろう?明らかになるのは困るのだ。われらはあくまで,ここに留まらなければならない。
同類なのだ。同類。
九
ただ眺めるのが一番いい。数が多くて,早くて,消えてしまうのだから。燃え尽きていく綺麗な線。放物線?当てずっぽうじゃ,無理だよ。捉えきれない。下手な鉄砲じゃ,とても間に合わないよ。だからこそ願い事なんて,三回も言えるはずがない。何十年に一度の観察だけじゃ足りないよ。そんな調子じゃ,次に会えるとき,僕は一体何歳になっていると思っているのかな。覚えたての数を必死に数えるぐらいじゃ,無理,無理。
テレビ局?もう!起きたばかりの僕なんかより,もっと上を映しなよ!
十
二階の窓から見える家々の屋根に,登っている人も多い。ホームドラマのオープニングか,エンディングで使われそうな光景に加わっているのは,あとで放送局に高く売る目的か,みんなに公開する目的のために必死で行われている,カメラやスマートフォンでの静止画や動画の撮影だった。二軒先のご主人はあまりに熱心になり過ぎて,そこから落っこちて,救急車で病院へ運ばれた。どうやら骨折程度で済みそうだったらしいけど,その様子も,道路から見上げる人達のネタとして撮影されていた。回転する赤いランプが,停車位置周辺の家の壁を不穏に照らして,さらに起きる人が増えていく。午前二時を二十分も過ぎた今,賑やかさで言えば昼前と変わらない。おしゃべりをする遠慮も無くなってきて,時折『ぎゃははは!』という大声まで聞こえてくる。その後で,必ず妙に静かになるのも,予め決められたルールみたいで,こちらから見ていて,波打ち際の波のように,飽きない光景だった。
多分もう,熟睡している人を除いて,みんな起きている。でも,課題のすべてをまとめ上げ,今から眠る私と,彼らが共有できる時間はそんなに長くない。下の階で入れて,氷と一緒に持って来た,低くて太いコップのジンジャーエールの泡が弾けるのを,コップの縁辺りで,飲むために傾ける度に,鼻先で感じるのもこれで最後だ。余った氷までガリガリとしながら,私は今夜のイベントの主役である,流星群の一部を,初めてきちんと見た。おーっ!と思ってすぐに,何もかもが欠伸と一緒に滲んだ。それが乾くまで,世界が曖昧だった。すべてが元に戻ってからは,部屋の中に戻って,机の上に置かれたラジオの時間表示を眺めた。『二十二分』が『三分』になって,もう一度だけ,窓の外の光景に関心を向けた。世界は素晴らしい,と外国語で歌う男性がそれに付き合ってくれた。調子に乗って,メロディだけを真似した。聞き取れた単語だけを口にした。
フーン、フフン。曲の終わり,DJの男性が話し出した。続々と投稿されている画像を見ながら,まさにうってつけの一曲ですね!と,興奮しながら称賛した。ブースの外から見える限りでも,意表を突いた流星群は,とても素敵だったみたいだ。計算の結果,何十年に一度のものという点が強調されて,実際よりもっともっと拡大していかないと気が済まない様子が,聞いているだけで目に浮かんだ。
夜明けを迎えても,きっとこの話題は尽きない。なのに,通り過ぎていくそれは尾っぽを残して,なんてセンチメンタルが白々しく思えるぐらい,あっという間に消えていく。その電源をオンにしたまま,私はジンジャエールの残りすべてを飲み干した。それでそのまま,からっぽのコップを机の上に残して,ベッドに飛び込んだ。後片付けは明日に回した。窓はもう閉めた。電気は,あとできちんと消すとして,そのまま,仰向けでいることにした。眠気が気持ち良かった。息をするために顔を横に逸らした時,明日まできっと,このままなんだろうなと安心した。タオルケットがお腹をさすった。
それは小さい頃から私にとって,当たり前のこと。不思議なことでも何でも無かった。
十一
紙をめくる音は,ペラペラ。
十二
打ち合わせの終わり頃,一つのミスに気付いた。先程のオンエアーの中で読み上げたメールに一通,文面では「僕」となっていたのに,私は,それを「私」と読み上げてしまっていた。その話の内容に,ブースの中の作家さんと一緒にウケてしまって,その先に書かれたものを知りたくなり,その勢いのまま,進めてしまった。主語を自分に引き寄せ過ぎたのが原因だ。番組の看板であるDJともあろうものが,いちリスナーの気分で楽しんでしまったのだ。プロ失格,と責めるのも甚だしいほどのミス。私は頭を抱えてしまった。そのまま頭をかき乱した。
「カオリさん,どうしたんすか。あ,また何か,やらかしたことに気付いちゃいました?」
と作家のムトウ君がニヤけ顔で訊いてきた。それを受けて,テーブルの真向かいに座り,用紙に目を落として,長めの修正を書き込んでいたディレクターのアサノさんも,ペンを止め,顔を上げて私に訊いた。
「何だ、カオリ。何をやらかした。こっちは特に気付かなかったぞ。何だ?言ってみろ。」
アサイさんのこの発言で,少しホッとした私は,この安堵すらプロ失格の証と思い直して,すべてを二人に話した。さっきの反応からすると「何だ,そんなことか。」という薄い反応に,「まあ,気にすんな。次からは気を付けろよ。」という軽い注意と慰めを推測し,これまたプロ失格の証拠だが、半ば期待していた私は,しかし目の前と,左隣に位置した二人の表情が,本気でピンとこないと訴えていることに戸惑ってしまった。アサイさんが,さっきのオンエアー中に読み上げたメールをクリッと見直して,私が申告したものを発見し,頭からじっくりと読み直し,その画面をくるりと私の方に向けて,「自分で読んでみろ。」と優しい声音で言った。この声音にほだされて,一時期,本気の関係を持とうと必死になっていたことを思い出した私は,それを改めて振り払ってから,言われた通りに最初から読み直した。そして確認した。その内容のどこにも「僕」という文字は使われておらず,代わりに,「私」と書いて「(わたくし)と読んで下さい」という指定がメールの最後に書かれているだけだった。
「まあ,ミスといえばミスだが,このメールの内容で,主語を私(わたくし)で読み上げていくのは違和感だらけ,せっかくの面白さが台無しだ。」
「そうっすね。このメールの送り主には悪いっすけど,カオリさんの読み間違いは,番組全体の流れとして,結果オーライっす。」
「だな。気にすんな。メールの送り主には,俺らの方から,あとで粗品と一緒に,謝罪の手紙を送っておくよ。」
アサノさんもムトウ君も笑顔でそう言って,すっかりこの件は片付いたとばかり,次回に放送予定の新コーナーの問題点に取り掛かって,二度と戻って来なかった。そして私は,そういう訳にはいかなかった。私が犯したはずのミスはそんなもんじゃない。「僕」と「私」は大きく違う。一般的にいって,「僕」は男の人が用いる一人称である以上,「僕」で書かれた文面は,最後まで「僕」で読み終えなきゃいけない。それ以外の主語が許されない。だからこのミスに,安心できる材料はない。
読み上げたメールの内容を混同することもない。読み上げるべきメールや手紙の投稿は,ムトウ君から私に手渡され,読み終えた後は私の方で預かっておく。あとで触れるかも,と思ったものはムトウ君に返却,話題に応じてムトウ君がそれらをまた,私に渡す。その際に,番組の当初から二人の間で心がけているのは,各投稿の大まかな内容を把握して,使える時に使えるようにしておくことだ。それを十年も行ってきた。当たり前を超えた義務になっていると自負しているし,ミスをするにしても,これに関してはないと自信をもって言える。証人はリスナーの数だけいる。ここに疑いを持つ必要はない。見間違いじゃない。私が見たはずの「僕」はいた。
そして,もういなくなった?これに納得できないのは私だけみたいだし,「私(わたくし)」に尋ねてみても,答えは返ってこないだろう。
「それはどなたのことですか?」
その時には,私も分かりませんとしか,答えられないんだろう。見間違いを抜け出ていない「僕」の話は,私の話でしかない。
さあ,どうしよう?
十三
さあ,追いかけよう。落ちて流れる数だけ,辿れる跡が多くなる。
「大丈夫?ボク?」
「大丈夫だよ。お姉さん。」
「持ってやろうか?荷物。」
「心配いらないです,お兄さん。」
そう告げて,手についた砂を落として立ち上がった矢先,飛び切り長い光の線が消えずに伸びて,「わぉ!」という歓声が遠くから上がった。間に合わなくなるのは勿体ない。
「なら,走るぞ。」
「先に行くわよ。」
「望むところです。もちろん。」
「じゃあ,行くぞ。」
「行くわね。」
荷物がガシャガシャと音を立てる。踏まれて枝がパキパキ割れる。ほっほっと吐き出される呼吸。暗いうちに可能な移動は,限られた時間が決める。すでにたどり着いているワタシにやっと,追いつける。
小石を蹴飛ばす。
「そういえば,ボクの名前はー?」
大きな声で訊いてくる。よく響いた。
「はい!ボクの名前はー,」
という声は小さくて,届かなかった。
「なーにー?」
もっと近寄るために,もっと急ぎながら,距離をなくす手段があれば,せめて自己紹介はすぐに済むのにと思い,考える。
それは道具か,技術なのだろうと。
十四
結局は見間違いということになった。だって,確かな証拠がないんじゃ仕方がない。
アサイさんから借りていたノート型パソコンをやっと閉じて,待機状態のまま,椅子を引いた。凹みのある空きパックとストローを別々に捨てて,戻って来て,椅子を押し込んだ。ノート型パソコンを,原稿と一緒に脇に抱えた。ナレーション録りの予定がある六階へと向かうために,エレベーターの前まで歩いていった。省エネのために,灯りはあちこちで消されていた。おかげで通路の窓には,歩く私がずっと写っていた。外に建っているビルの景色と,最後まで重なっていた。
読み上げるナレーションは,ブロックごとに分けながら,順調に録られていった。自然の美しさを謳う部分と,生存競争の過酷さを包み隠さずに伝える部分,環境保護に関する政府の施策とその効果を説明する部分に,密猟者を取り締まるまでの過程及びその時に密猟を免れた子供達に再び遭遇するまでの部分。適度に感情も込めて,間合いに注意,段落が変わる箇所で早く読もうとする癖は,油断すると相変わらずなので,よくよく注意する。最後にイントネーション。当たり前だけど大事なこと。ブースの中のアサイさんのオッケーを確認したら,「お疲れ様。」と声をかけられて,私も「お疲れ様です。」と言った。いまも変わらずにひと息をつける瞬間だ。ヘッドホンを外して,テーブルの上に正しく置いた。とんとんと,原稿を揃えて手に取った。胸の中で抱きしめた。時刻は午後の十時を過ぎたところだった。視聴者からのクレームのメールは今の所,一通も届いていなかった。アサイさんがカップのコーヒーを手渡してくれながら,私に教えてくれた。
「ひと安心だな。」
と,アサイさんはその一口をつける前に漏らした。「そうですね。」と少し冷めるのを待っていた私が言った。ムトウ君は既に帰っていた。早朝に放送する番組のスタッフでもある彼は,今ごろきっと眠っている。私はもうひと仕事あった。急遽入ったCM録りだ。秒数との関係で,インパクトを残したい企業側のご要望で,ハイテンションな商品紹介でお願いします,と言われていた。私は喉を気にした。感触としては問題ない。あとは実際に録ってみないと分からない。油断はしないこと。また見間違ったら困る。録り直しは可能なのだとしても,もう,不可解を余計に抱えたくなかった。
そして,私はまた「僕」に出会った。「僕」は予め決められた笑顔で,とても短い質問をした。
「それで,どれくらいの時間で,すべての汚れは落ちるのですか?」
それに対する私の答えはこうだ。
「あっという間よ!時間を数える暇がないくらいに!」
「ふー!」
それから二人で歌うワンフレーズに,広告主が現れる。最後のオッケーが出るまで,私も「僕」も,いたって真面目に沈黙を守り続けた。思ったよりも長い空白で,トラブルの可能性。物音ひとつ許されないまま,とても耳が痛い気がした私だった。
「ぅし!悪りぃ,妙に待たせちまった。オッケーだ,カオリ。お疲れさん。」
「はい。お疲れ様です。」
ヘッドホンを外して,ひと息を吐いた瞬間だった。原稿を重ねて,片付ける。「僕」はもうどこにもいない。
ブースを出てから,私は改めてアサイさんに確認した。
「心配ねぇよ。一件もなしだ。な?結果オーライだろ。安心してろって。」
はい,という返事とお礼を言って,私はドアを開けた。「私(わたくし)」も誰も,初めからいなかったかのように,姿を現わすことはなかった。
結局,私は正しかった。
そう言わなきゃいけなかった。
十五
「待ってたよ!」
シルエットでその姿を確認できる,丘の上に立つワタシは,両手を大きく振っていて,元気そうだった。僕はそれに安心して,手を大きく振り返した。傍にいたお兄さんとお姉さんは,あれがワタシ?と僕に訊いてきた。そうです,と僕が答えると,立ち止まって深々と会釈をして,ワタシに挨拶をしてくれた。ワタシのシルエットも,これに応えるように,深々と会釈をしていた。ワタシがそれを終えるのを,僕らは待った。それからワタシはこう言った。
「待ってるね!」
やまびこの練習をしているみたいに,ワタシの声はよく響いた。おかげで,その気持ちがよく伝わる。あとひと息という所にまで辿り着いている僕らにとっては,それが何より糧になる。
「あまり長く待たせちゃいけないな。」
「歩ける?ボク?」
「はい!大丈夫です。」
お互いの確認を怠らず,僕らは再び階段を登り始めた。予想していたとおりに,荷物がカチャカチャと鳴った。息をほっほっと吐き出した。携帯ラジオが知らない番組を受信しようとして,これに失敗した。でも,それを気にする人が僕らの中にいなかった。目を奪われる光景。頭上の遥か彼方を飛び交う,約束を抱えた一秒ぐらいの尾をひく明かりを,僕らは見逃すことをしなかった。きっと,この先で待つワタシもそうなんだ,僕はそう確信した。だから、歩幅に差がある,お兄さんとお姉さんがまた先行して,僕が置いていかれそうになっても,僕はそれを追いかける。辿り着けたらいいのだ。そこに一緒に立って,お互いに触れ合えたらいいのだ。
ボクやワタシが,ボクにワタシに。
十六
男の胸から顔を上げて,私は水が飲みたくなる。男はどうした?という顔をして,「ううん。なんでもない。」と,可愛く答える歳でもない。「のどが渇いた。何か飲む?」。嘘偽りなく言ったからか,男は笑う。そして,その注文はひとつ。返事もひとつ。邪魔な髪を横に流して,床に足を着けた。冷蔵庫にはひと通りの物が揃っている。立ち上がって部屋を出る。塞ぐドアを開ける。必要最小限の灯りがそこに漏れる。
開けっ放しの冷蔵庫を利用して,二つのコップにそれぞれのものを注ごうとする。けど,まだ氷が出来ていなかった。経験からいって,あと十五分。待つのが苦手な男がそのまま眠ってしまうには,十分な時間。満足はしていない。でも,仕方ない。氷なしでは男が飲まない。それでは容れる意味がない。氷と一緒に容れた後で,それを飲むか飲まないかは男の自由だから。だから私は暇を五分,潰すためにスイッチを入れる。ヴォリュームを上げる。用のないダイニングに流れるのは,深夜に相応しい静かな内容。喋りすぎない。流し過ぎない。早すぎない。
パーソナリティーは,おそらくは用意された各エピソードを,とても意識的に,陽気にならないように語っている。その声と,自然に出る声量が与える印象が明るすぎることを,本人も知っているからだろう。抑え込むぐらいで丁度いい。陰気になるおそれがない。車も人も見かける事がまずない時間帯の放送に適当な人物,というのが長年にわたって任されている理由なんだろう。私では無理だ。私の声は落ち着き過ぎている。日差しが強くて明るい昼の,雑踏の中でこそ活きる。私はそう思う。そう自負する。
エピソードの部分部分を読み終わる度,セレクトされた曲が一定の時間,流されて,次のエピソードへと繋がっていく。今のところ聴けたのは洋楽だけ。前に聴いた時は最後まで洋楽だったから,今夜もそうかもしれない。いま流れている曲名は『教習所』。道路に出ることが叶わない未熟な技術がのんびりと歌われて,彼が抱く彼女への愛より,ジタバタする彼への愛着が湧いてしまうカントリーソング。ボクという語り方。ダメなやつ。
それも音と一緒に段々と小さくなって,代わりに新しいエピソードが読まれ始めた時,私はその場を離れて冷蔵庫へ向かい,しかるべき場所を開けて,出来た途端に落下して,貯まった氷を備え付けの『スコップ』ですくって容れた。多いかな,と思った一個は手で摘んで戻すと,丁度半分ぐらいになって良かった。安心して液体を注ぎながら,一個一個にヒビを入れた。パーソナリティーの声が聞こえた。
「ボクがそこに辿り着いた時,ワタシはまた,ボクを見つけた。それからボクらは手をつなぎ,流れる数を数えた。それは朝まで続いた。ボクらはずっと起きていた。」
私は自分の分を飲んだ。一口だけ。それから男の分を持って,暗い廊下を進んだ。漏れる灯りが先にある。とっくに十五分を過ぎているから,男はきっと眠っている。それでも,私は約束を守る。注文どおりに届ける。冷えたコップを置く。あとは自由。
明かりを背にして,再び私は戻る。暗い廊下を静かに進んだその先,視界がますます頼りにならない世界。そこで電気を点けたりしないのは,ひねくれた好奇心。加えて,点けっぱなしにした電源ONを示す赤くて丸い光を,最後まで楽しみたい。二人っきりの世界みたいに,話を聴きたい。
残りの量まで,そうしていたい。
十七
「ワタシの中の『ボク』のために。」
冗談の続きで,ワタシに言われた。だから特別な意味なんてない。お姉さんにも,お兄さんにも聞こえている。何もかもが普通な言い方なんだ。
「ボクの中の『ワタシ』のために。」
そのお返しとして,ボクもこう言った。どこまでも冗談の意味しかないように,意地悪な気持ちと,自然な笑顔を浮かべて。それはきっと,お姉さんもお兄さんにも伝わった。だって,二人とも楽しそうな笑顔でこっちを見ていたから。目の前のワタシも,同じ顔をしている。だからボクも,同じ気持ちになった。声が大きくハモった。上を見上げることを忘れていた。あとでみんなから教えてもらったところでは,その時が一番綺麗に降り注いでいて,見応えがあったみたい。ボクたちはそれを見逃した。次の機会は何十年後。しかも,同じものが見られるとは限らない。
「後悔してる?」
「そうだね。後悔してる。」
暖かい日差しを浴びながら,丘の上でボクはワタシにそう言った。「ワタシもそう思う。」と,ボクは聞いた。
二人で苦い笑顔を浮かべた。それからもう少し,話をした。
十八
セットしたアラームが鳴る。電池が切れたり,壊れたりしていなければ,もう朝だ。でも,私は起きない。
まだ寝ていてもいい。それが許された一日だから。そこに不思議も,文句を言われる筋合いもない。えーと,それでAM?
「・・・十時を回りました。ここで,交通情報をお伝えいたします。現在,首都高を含めて,道路状況は順調に進んでおり,正午を迎えても,酷い渋滞が起きる見込みはありません。ドライバーの皆さん,安心して,快適で安全な運転を心がけて下さい。では,次のコーナーです。」
まだまだ。まだ。
十九
そう。明るい空にはまだ流れている。じっと目を凝らしても,判別するのはとても難しいだろうけど。天気の良さばかりに気を取られるだろうけど。
「夢は大きく,現実を歩く。」
「クラーク博士?」
「ちげぇよ。」
「じゃあ,誰?」
「思い付き,のつもりだけど,あれ?意外に誰かが言ってんのかもな。それをどっかで聞いてて,覚えてたとか。ちょっと訊いてみっか。」
「誰に?」
「相談室。かけてみるわ。」
それが繋がるかどうかは別にして,唱えればいい。
「番号,間違ってない?」
「大丈夫だって。間違ってねぇよ。」
方向は違うかもしれない。でも,様にはなってるんじゃない?
「繋がった?」
「まだ。」
だけど,繋がるよ。
二十
ザワザワとした外の気配。とっても眩しいビルの鏡。
細い視界。嫌になってかざす。嗅ぎ慣れた香水。新しい一日。
スタンバイまで,あと少し。
*
逆らって,放物線に乗って,そのままどこまでも飛んで行けることを夢見ている。人類の長い試みのひとつ。ひとつの過程。
一人、二人になって。
「じゃあ。」
「読んでみて。」
仰向けになって,天井を見つめて,まぶたを動かす。昨日からセットされた大きさで,波に乗っている。
挨拶が始まる。それで成立するのが,好きなところなんだ。
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