practice(175)
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一番落ち着いて見えるんだよね,この時間帯が,と昨日から剃っていない髭を撫でて,ミズキさんが私に言った。私に付き合って,結構飲んでいたお酒の感じがまだまだ効いているのが,匂いに頬の赤みと,隣から来る体の預け方から分かる。黒のロングコートの生地の擦れは,丈夫な作りなのだけれど,肩の辺りから腕にくっ付いているセーターの,みたいな毛糸は気になって仕方ない。脱いだお店から連れ帰ったものか,私の方に元々あったものか。摘んで捨てたいところなのだけど,小さくて,数が結構ある。ミズキさんが歩くのを止めてくれないと,多分上手くいかない。
「シャッターがさ,ほとんど下りてる。地面からちょっと開いてても,しゃがんだらさ,鉄格子みたいなものがすぐソコに現れて,なんじゃそりゃ!って思うわけ。だったらシャッター,いらないんじゃないの?って思ったりするんだけど,それもまた良いんだよ。ああ,朝だなって思う。ごみ箱を啄くカラスがいないかなー,なんて探すと,思うより見当たらないんだ。停車してる高級車より,見つからないんだよ。赤いメーターがチカチカしてさ。歩道や道路にある,モザイクっぽいのとか,そういう工夫にも気付けるんだよ。」
いいね,と言うミズキさんの目が細まって,確かに前から射してくる反射は強い。あれは,何だろう?カガミ?日差しの入ってくる方向だって,よく分からないのに。
「静かだね。」
「うん,静か。」
ミズキさんと私が歩く音が,よく響く。腕を組み直して,コツコツ。
「君のところはどうだった?」
「私のところですか?」
「上京組だろ?地元色っていうか,そんな違いがあるのかなー,って思ったからさ。」
ミズキさんは私を見た。私もミズキさんを見ていて,首を傾けた。
「どうだろ?私の家は最寄りの駅から離れてたし,こんな商店街らしいところも無かったから。飲んだりするのも,友達の家とかが多かったです。ひとり暮らしのやつ,多かったですし。」
地方のさらに地方,というと奇妙な感じになるけれど,実際私の住んでいたところは,周囲の地域との関係で言えば,比較的栄えている都市部を抱えた中間地点のような役割を果たしていた。就職に進学,変わったところで芸術系。県だか市だかが,そういう方面にも力を入れていて,大きい劇場とか,有名な劇団とか,呼んでいたから。私の周りにも一人いて,一時期ちょっと付き合っていた。いち早く上京して,あとは行方不明。私以外のやつとは連絡を取っていて,嫌でも耳に入ってきた情によれば,大検を受けて,大学に入って,商社勤め。容姿を活用して海外をまわり,だとか。じゃあ会うこともないだろう,って安心しているけれど。そいつも含めて,私たちはいつも遅い時間に集まっていた。バイト終わりやサークル経由,小売の酒屋が近くにあって,買えるやつが買ってくる。あるいは,無くなったら買いに行く。初めての苦々しさも含めて,私が覚えている光景は,だから人工的な灯りが元気に点滅している。夜目を押して,カラスが飛んでいたとしても,不思議はないけれど,私たちは気付けなかっただろうし,起きれば昼の日中だった。朝をすっ飛ばしてきた私たち。自転車を押して,その日はすぐにバイトだったりした。
「だから,ミズキさんみたいな思い出はないんですよね。いま見ている限りで,何となく想像はつきますけど。」
そっか,とミズキさんは言い,まあ,と続けて,
「俺も美化してるんだろうけどね。酔っ払いとか,多かったし。」
と言った。そうそう,とミズキさんは思い出してくる若い頃の話をし,私は興味を持ったり,正直持たなかったりして,すべてを聞いていた。彼女との昔も,意外に冷静に受け止めていたから,自分でも驚きだった。昔の私じゃ,考えられない。
訪れてまだ数回目で,路地をくねくね行かれると,今いる地点を把握できないところだったけど,ひょいっと大通りに出たりして,目印となる,高級店の有名な建物とかを視界に入れると,私たちがどこを歩いているのかという点には気付けた。それに私の方は酔いが覚めつつあって,ミズキさんが「あれ,あれ?」と言いながら,リードするのにも安心できた。角を曲がり,また閉まっているところばかりで,また角を曲がり。自動販売機を何台も過ぎて,コーヒーでも飲む?と訊いた私の質問は二回目。
「大丈夫,大丈夫。」
と鼻を赤くして言う,ミズキさんの前髪が垂れていた。私が言って,あとであとで,と言いながら,ミズキさんがそれを直した。立ち止まってところで,私はミズキさんの肩の辺りを摘み,摘まんで,黒のロングコートを撫でた。腕を組み直して,一緒に曲がる。看板だけで判明する,服飾店やカフェらしき場所を過ぎた。軒に置かれた椅子は,雨の日に濡れそうだった。
今日は,晴れそうだった。
「あ,あった。あった。」
ミズキさんがそう言った。そこは靴屋で,シャッターも下ろさずに,とても狭そうなショーウインドウに一足の革靴を飾っていた。ライトアップされ,けれど,あまりパッとしない。始発から何本目になるかの電車だって走っているだろうこの時間には,仕方ないんだろう。オーダーメイドっていう感じが格好よく,値段もないのが,また凄い印象を与えた。
「うーん,この時間じゃ,やっぱね。」
似たようなことを,ミズキさんは私に言いつつ,真夜中にこれ見るとね,格好良いんだよ,欲しくてね,結構見に来てた。そう言い終わって,腰を屈めて,じっと見ていた。組んでいる手が緩まって,邪魔にならないように,私はした。とりたてて特徴のない耳がきちんと見える。ウインドウ写る顔には,まだ見慣れない印象が残る。私は昨日からの服を着ていた。と思えば,それはミズキさんも同じだった。これから一回帰って,ちょっと眠って,その後の予定を決める。タクシー,は勿体無いからどっちもまずは,電車になる。
「買ってあげようか,なんて言えたらいいんですけど。」
私がそうぼやくと,
「そう言って貰えたら嬉しいけど,確かにね,これ,躊躇するんだよな。」
とミズキさんがため息を残して,言った。ミズキさんなら自分で買えるんだろう,なんて思っていた私は,すぐにミズキさんに訊いた。
「え,これ,そんなに高いんですか?」
「そう,これ,そんなに高いんだよ。調べて俺もびびった。」
だから,未だに憧れるんだなぁ,と背を伸ばしたミズキさんは言った。コウサカさんあたりなら余裕だろうね,とも。コウサカさんの月収に関して,アタリを付けられる私に教えろよ,なんて言いたそうなミズキさんには,職務上の義務を貫いた。列挙される数字に,正解があったことも伏せた。お店の前から離れて,角を曲がって,駅前までの道を探り直して,歩いた。出っ張っていた,というマンホールの蓋にミズキさんがつまづいたので,組んでいた腕を引っ張った。
「本当だって。」
と私はミズキさんに言われた。本当ですか?と,私はミズキさんを疑い続けた。
朝の通り,さっきと違って,車の音が増えて聞こえて,私は稼働時間ちょうどを迎えたATMの前で待ってから,メールなどの連絡を済まし,天気予報を見てから,ミズキさんと駅にむかった。まばらだけれど人が居て,目が覚めた感じに,けだるそうに,眠そうな感じが出て行く。券売機のところでチャージも済ませて,私たちはこの後の予定を決めた。改札を通って,そこで別れた。階段を上るミズキさんに対して,私は備え付けられたエスカレーターでホームに上がった。ズルい,なんて聞こえてきそうだった。
五分待って乗った電車内から,私はいつもの習慣として,ドアにもたれた。最寄駅の前の前から登場する看板を,車間調整のためにゆっくりと走る電車の速さで眺める。鼻が高い横顔の俳優が目をつむり,素敵な笑顔と,シックな色の洗顔フォームを使っている。商品名を最後まで覚えていなかったのだけれど,その日は最後まで読めた。周りに聞こえないぐらいに,舌を動かし口にして,ゴロのよさに感心した。造語なんだろうけど。おまけに,私は使ったりはしないんだろうけど,買ってはいいかもしれない。薬局屋は開いて,ないか。袖口を楽にして,じゃあ,あとでいいやって,思った。速度は段々と上がっていく。
外の,ビルの隙間がギラっとしていた。けれど,目を細めるまでじゃなかった。私は財布取り出して,握りしめて,待った。 かたんことん,の静かなきしみを聞いて,考えごとをした。乗ったのは,これで何回目だろうか,とか。駅までの間で,答えはそんなに出なかった。
一度だけ,眩しくてきちんと,目を閉じた。多分,高い建物とかそんなにない,更地みたいなところだった,はず。
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