practice(170)




 上りのエスカレーターで後ろを向いて,君のシャツの襟を直した。重ね着したセーターが邪魔で,手こずった結果,私は後ろ向きに蹴躓きそうになったのだけれど,君は短く驚きの声を発するだけで,私の注意を促したり,後でいいよ,とか私のしていることを中断させることをしなかった。だからステップの終わり,私は後ろ向きの半回転をしながら結果として前を向き,そのままフロア案内のパネルを取り付けた壁に強く,手をついた。じんとして痛かった。痛かったけれど,それ以上に恥ずかしくて(上がるステップには列があった),暫く,よりひどい痛みがあることにした。つーっ,なんて音をさっそく口から出してみた。君は次のステップに行ったりせず,きちんと駆け寄ってきて,「大丈夫か?」と私に訊く。私は君に「うん,大丈夫かな。」,という感じのことを,無理した笑顔とともに答える。赤くなっている手を掴んで,心配する君に,心配をかける私。
 一,二,と続く予定の数秒間をカウントする演技プランに,予定外の出来事といえば,引くに引けない痛みが留まった経験を思い出される,じわじわと感じる足首のもの。ホントの,まさにいやな予感だった。繁華街の大通りに繋がる路地から楽しげに話し合って決めたことは,色々と,あったというのに,ブーツに似合わない動きは,予定ぶっ潰しの惨事を免れられたけど。駅から歩いて来て,入店して,きっとまだ十五分も経ってない出来事は,いつの間にか壁についていた手を,私に気付かせ,試しに離してみたらフロアにふらつく激痛を走らせて,もう目の前に居た君の肩を借りさせた。
「大丈夫か?」
 と案の定,君は私に訊いてきたのに,私はホンキの痛みを訴える空気音と,「ぃつーっ」で同時に答えた。あまりにシゼンな反応過ぎた,と反省したのも遅かった。心からの,爽やかなやり取りがもたらしたはずの雰囲気は,ロマンチックを乗り越えた。
「足か,それともこっちの手か?」
 君が開いたもうひとつの手の平は,血流が巡ってますね,と検診の途中で褒められたとおりに赤く,「真っ赤じゃないか!」と驚く君の思った通りの事態にはなっていなかったのに,各箇所に慎重に触れる君の触診は続いた。もう諦めて「そこじゃないよ。」と言った私が,床から離した足首を遠慮足らずで触った君に,私はより鮮明なった激痛の分だけお返しをした。いい位置に頭があった。君が「いてっ,」と言った。首元からセーターのタグが出ていたことには,さっきの事も加えて二倍腹が立ったので,もう一発かました。「もう!」,という言葉に,私は言いたかったことを詰め込んだ。
 そんなに痛かったのかよ,ということを君は言った。二度も小突かれた所をさすりながら,君は「悪かったよ。」と呟いて,私の足を心配した。君はふくらはぎを軽く支えていた。動かすのは厳禁,なので足首から先がぶらんとしそうな体勢はやめたいところだったけれども,そう言うのも面倒くさくて,怒っている体(てい)を守った。つむじが見えて,君が隠れていた。ロマンチックは予感だろうか,答えを求める,私の計算が疼いた。カウント,一,二,あと何秒?
 がたん,と聞き覚えのある音がして,ステップを下りた別の女性が転けたようで,肩から提げていたバッグの中身が口から色々とばら撒かれ,口紅が私のブーツの下に滑り込み,昔使っていたタイプのアイシャドウのケースが君の靴に直撃し,小銭入れと思われる皮製の入れ物が,ちゃりんと私たちの間に収まった。橙色の四角い,ボタンを外せば広がるやつ。確かに便利なものだと思って,私も持ってる。
 君と女性,私と女性の順で目が合った。女性は「すいません!」と言って,私たちの周辺に散らばったそれを手早く回収,私の足首に触れそうで,私は身構えたけれど,(見て分かる)女性の細心の注意は一ミリたりとも触れることなく,ピカピカのフロアごと仕舞い込むように小銭入れを引っ掴み,女性はバッグの口を閉じて,「すいません!」ともう一度言った。ステップに上がるその女性を私は見送って,首の向きからして,君もきっと彼女を見送っていた。下の階からは,その時は見当たらなかったけど,ほかのお客さんがまだまだ上がってくる気配は,先んじて立ち上ってきているようだった。このままここに暫く,という訳にもいかない,という点で,君と私の意見は一致していた。そうだったはず,私はそうだった。
 セールの時間帯を報せるアナウンスは,退場を促す,「紳士服フェアは三階の,特設会場にて行っております。」。耳で捉えた背景の音楽は,君が最近買ったばかりのものだった。るんたった,るんたった。そんな感じ。
 フロアは変わらず,場所は変わる。
「なんかあんのかな,あそこ?」
 君がエレベーターで地下に降りて,買ってきた湿布とか包帯とかを取り出して,ブーツから出した私の足首に施しながら,私に訊いた。
「さあ?」
  燻っている怒りに身を任せている体(てい)を継続中であった私は,移動したトイレ近くの,ソファーのように連なった赤い椅子のひとつに浅く座りながら,君にそっけなく答えた。かかとを浮かせて移動するのは実に大変であって,突然走る痛みにも警戒しながら,高さが違う肩の位置に手をかけて,実際に走った痛みが,何もないところでつんのめる君のせいだったのは,明白な事実だったから。待っている時間は短かったけれど。痛かった。
「歩きにくいかもしれないな。このブーツ,結構タイトなサイズみたいだし。」
 くるくるに巻いたレギンスを握りしめて,投げつけてやることは出来ない。私は計算を働かせて,黙りを決め込むことにしたのだった。提案だって,してやらんと。
「じゃあ,おぶるか。」
「肩貸して。そうすれば歩けるし。」
 こっちから提案してやった。無理すんなよ,いけるって,と言ってのける君の再度の提案を押し切って,私は半分履いて,半分巻かれていた。リノリウムの床は冷たい。私は君からブーツを渡してもらい,チャックもほどほどにして,べろんべろんに邪魔をされない程度には締められた。
 君は私の隣に立って,腕を差し出した。それを私は掴んだ。
「タクシーでも拾うか。」
 君は言った。
「勿体無い。」
 と私は反論した。
「無理すんなって。」
 と君はゆっくりと動き出しながら,引っ張るように歩く。
「じゃあ,地下行って。」
「え,何で?」
「クレープ買うの。予定にないやつ。」
「予定にないやつ?」
 君は私に訊いた。
「そう,あとここを出てから,二軒隣の店舗。」
「これはケーキか?」
「残念,ポップコーン。」
「ここの前の通り,坂になってるから,どこかによって歩きにくくなるかも。そこは,どこ?」
 私はきちんと方向を示した。君はおっ,という顔をして,私のブーツの方を見た。
「無理は厳禁,じゃないか?」
「どうせ時間はかかるでしょ?」
 私は君に言った。腕を持ち直した。
「じゃあ,まずはエレベーターか。帰りもそれでいいだろ?」
「文句はないわ。それじゃ,宜しく。」
 それじゃ,ヨロシク。ひっそりとかかとを浮かせて,バランスを取ろうとしても,なかなかうまいこといかないものだった。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-02-23

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