practice(166)
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うたた寝のつもりでベッドを借りたら既に九時だった。確か,孫の部屋の壁掛け時計は正確であった。時間厳守は私が娘に教えたのだ。孫が未だ一人歩きが出来ない年齢にあっても,娘は手を抜いたりしないのだろう。
枕の上で,意識を部屋の真ん中に向けた。そこに置かれた小さいベッドと,吊るされた空間を舞台にしたメロディが天使とともに回っていた。すやすやと眠る孫の様子が聞こえた。わたしは安心して,より目を開けた。寝ぼけた視界は薄暗さになれるにつれ,天井は,幹の細い一本の木のようなスタンドが投げかける,普段より慎重に落とされた黄色いライトが届いた。妙な形で,伸びた物が部屋いっぱいであった。電球を借りて遊んだ影絵の,あれだ。普段見えない一側面。歳を通して,しかし覚めた感覚を待っていると,温い眠気が再度訪れそうだった。欠伸は自然と終わった。涙は出ず,かちゃかちゃと目を擦り,眼鏡はかけたままであったと気付いた。新調した老眼鏡だ。それは仕方ないと納得した。
乾いた感じの喉の入口に気付き,しそうになった咳払いを,どうにか飲み込んだ。
起き上がろうとして,力を入れた途端に寝ていたベッドが狭苦しそうに軋んだ。おっと,と言う言葉を捕まえて,静かに床に立ち上がった。靴下と,毛布に包まれていた温かみが離れていった。それでも思っていたより寒くはなく,覗き込んだ,メロディの輪の下で眠る孫の様子にも,心配は要らないと思えるほどの快適さは窺えた。正体みたいな天使の根元の駆動音と,ぴんと張った紐であった。低く,うなりをあげて作動していた部屋の片隅のエアーコンディショナーは,そうして止まった。同居していた頃,娘はタイマー機能をよく活用していた。二十四時間か,そうでないかのもので設定し,私が誤って消す。定期的にそうしており,面と向かってクレームをつけられて以来,私はリモコン等を触るのを止めた。冬場だとヒーターを使ったりした。勿論,『もの』が動けば,それを消したが。そのことを今,思い出した。娘は時間通りに帰って来た。妻がまとめたチラシが,ソファーの前で温かく捲れ,玄関先で,妻がよく娘を迎えた。出くわすような形で,私もたまに居た。珍しい,というのが娘の驚く表情であった。
それが止まるのを待つ前に,私はゆっくりとドアに向かい,密やかなノブを回した。開いた隙間から廊下の明るい光が束となって入ってきた。攻守逆転,とばかりに暗がりが一瞬でスタンドライトを消した。しかし私が隙間に飛び込んで,それ以上のことになるのを防いだ。閉めるとき,ベッドはひとつ浮かんでいた。子守唄は小さく消えた。
閉めた後,リビングに通じる廊下を歩いていったが,履いていたスリッパは部屋の中に忘れられたままであった。後で気付いた。
リビングには妻が居た。
「あら,起きたの。」
「よく眠れた?」
とカップをソーサーに戻しながら,「あの子はどうだった?」とも続けて,私に訊いてきた。さっきと比べて冷えた床を靴下とともに直に感じながら,私はまず「よく眠っていた。」と答え,私自身についても「よく眠れた。」と付け加えた。
「おかげで今日は夜更かしだ。スリッパを取ってくる。」
と言い残して,私は玄関へと急いだ。妻があら,とだけ言ったのは聞こえた。
誰もいない玄関の前,控えるスリッパたての何足かのうち,来客用の,チェック柄のものを二足目としてその場で履いた。敷かれたマットがズレており,妻と私のもの以外に履物が見当たらないタイルが目立ち,はめ込まれた磨りガラスから見える外が暗かった。娘のものが見当たらなかった。不躾だとは思いながら,腰を案じて,足でコンコンと角を蹴り,その位置を直した。私はリビングに戻った。
妻によれば,義理の息子を迎えに行くついで,深夜営業のスーパーに寄ってくるらしい。深夜というにはまだ早いが,念を入れてそうするところが,実に娘らしい。私は妻にそう言った。「困ったものですね。」と,妻が私を見て言った。困ったものだ,と私が思った。
点いたテレビが見やすい位置の椅子を引きながら,私は妻に,調子はどうだとも訊いた。風邪をこじらせたところに,発症した肺炎と聞けば深刻さはそれほどとお互いに思いたいのは山々だったが,お見舞いに通院,泊まりを重ねると,要らない心配もないと感じたからだった。一休みするように今は温かいものを飲んで,日中は娘とともにキッチンにも立っていた姿は,座ったままで,やはり何でもないと答えるのだろうが。実際,
「この通りです。」
妻はそう言った。
反対に,今度は私の体調のことを聞かれたが,腰と,それに膝の辺りを気にする以外,私は問題ないと思っていた。そう答えた。妻は私の食欲に関しても気にかけたが,私は飲み物ととともに,菓子パンのような軽食があるかと訊くことで済ませた。ゆっくりと,妻はティーポットを持ち上げ,ご所望の軽いものはバラ売りされた種類豊富のクッキー類で代わりにしようとした。私はそれに乗った。カゴの山から数枚を取り,袋を破く。かけらがこぼれ落ちることのないようにし,齧るときは多少,諦めた。
淹れてもらった一口目に湯気が立ち,それで眼鏡が曇る。カラーの映像が見えにくくなって,延長戦を解説する声に熱がこもる。点は入らなかったようだ。じわじわと戻るレンズに映り,残念がる場面が見えた。妻に遅れたお礼を言った。
「惜しいわ。」
妻は試合の方が気になるようだった。スポーツに無縁であった彼女がこうして試合を観るようになったのは,入院時からのことだった。堅いソファーに二時間,私も座って一緒に観たことがある。クッキーを飲み込んでから,私は妻に訊いた。
「どっちが勝ってるんだ?」
「黄色い方よ。ソックスって名前が付いているところ。」
そう聞いて,私は試合を観てみたが,名前に関しては違っているようが気がしてきた。ソックスはもう一方の白基調のユニフォームで,表示によると,一点差で負けている。さっき決め損ねた方だ。あいにく詳しくないので,黄色いチームの正確な名前は知らなかったが,解説が時々お知らせするには,ナイナーズといったところか。いずれにしろ,聞いたことがないのだった。訂正するより,試合を楽しむことにした。クッキー類は二つ目に手を伸ばした。妻はゆっくりとティーをすする。
「頑張るわねー。」
一息ついたように,妻は言った。
「で,何て言ってたんだ?」
私は出し抜けにそう訊いた。「あ,そうそう。」と,妻はティーカップをソーサーに戻した。テレビよりテーブルに向いたそのままの格好で,妻は私を見て言った。
「構わないって言ってたわよ,あの子は。むしろこっちが提案しようかと考えていたんだって。二人でよく話し合ったそうよ。」
だから,と間をおいて妻は髪をかきあげる。最近切ったばかりだ。長く伸ばすのを止めたらしい。その印象は昔に重ねれば懐かしい。
「あとはあなた次第ね。眠って,いい考えは浮かんだかしら?」
「いいや。」
そう言った後で息を吐いた。そのタイミングで解説者が叫び,同点になった展開を大々的に伝えた。妻は勿論,手を叩いて大喜びをした。さっきまでの格好はすっかり正されて,便利になった映像技術で,見逃したさきほどの場面が繰り返される。妻のご贔屓の選手が力強く振り抜き,まだまだとばかり,勝負への道を切り開いていた。現在の様子に戻り,歓声が止まない。
私はついた息に関して説明を加える,良い機会を逃したようであった。
スタンドのライトは,いつも眩しい。
長靴を履いた娘に連れられ,ぬかるんだ茂みをじゃかじゃかと進み,ついに抜け出た沼の近くで,捕まえたのは蛙かそこらの生物だった。生態調査のためにである。必要以上に底が深いバケツを引きずり,私が柄の短い虫取り網を持っていた。万能な手による捕獲が確実と分かってからは,不要なものとなってしまったが,せっかく捕まえたものを逃してならないという憂慮の末に,帰りは私がバケツを持ち,娘は機嫌良さげに網をぶんぶんと振っていた。茂みを飛び交うバッタが飛び込んでいないか,しばらく歩いた娘はその都度に網の中を覗き込んでいた。が,バッタは入っていなかった。それには残念そうな顔をしていた。うまいこと私が捕まえても,娘は納得しなかった。意地っ張り,といえる。それに私は付き合った。よく分かるからだ。そう思えるからだった。
「捕まえた!」
滲むぐらいの暑かった日に,そんなことを思い出す。
それから均衡を保つ両チームは無理をせずに,延長戦に突入しそうな気配を見せた。リーグ戦に影響を及ぼす大事な試合であったらしい。解説者が放送時間の延長とともに,その点を熱っぽく伝えた。あらら,と妻は慌てて椅子から立ち上がり,ゆっくりと,キッチンへとお湯を沸かしに向かう。スポンサーとなっている企業名が文字で流れ,解説者以外の声でそれが読み上げられる。すでに二時間弱。娘はその間に帰って来るだろう。クッキー類を手に取る。カゴにあった山が崩れる。噛めばぼろぼろと溢れる,しかし味は保証する三袋目だった。鼻で一息をつく。眼鏡のフレームとやらを触る。テーブルの上で指を擦る。行儀が悪いと思い直し,すぐに止める。もう一度息を吐き出し,目を閉じれば,むず痒そうな天使のお腹が真上をくるくると,回っていそうに思える。生憎,歳をとったみたいだ。
「おかわりは?」
と妻が訊く。
「ああ,」
と私が欲しがる。確かに,最後に決めるのは私みたいだ。玄関に変化が起きたとき,テーブルの下で,チェックのスリッパを履き直すだろう。
白のユニフォームの選手が何かの反則をしたらしく,試合は止まっていた。目を開けて見直した私は,解説を待つ。しかし,その解説がなかなか流れない。映し出された選手が地面を足で何回か踏み,切り替わった映像で,監督の指示を誰かが伝えに走っていた。何があったのか。誰も何も言わない。再度切り替わった場面で,長いタオルを広げた観客席の人が大きく,大きく手を振る。
時刻は午後の十時に届く。
空いたカップに,温かいティーが注がれる。
手を抜いたりはしないのだろう。四角四面を娘は好む。いや,好みそうだ。思いつきの,しかし立派な私の意見である。だがそれを口にして,何度も妻を困らせる必要はない。
あとは天使にでも,お任せの気分なのだ。再開しそうな試合への声援や歓声に紛れ込ませて,覚えたてのメロディを鼻で口ずさむ。椅子に妻が座って,隣で手を叩く。その映像の中で選手がベルトを掴み,ズボンを直し,構えた。舌なめずりの音がする。
コールは間違いなく,高らかなのだ。私は腰を落ち着けて,クッキー類を齧った。
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