practice(145)





 彼女が縫いぐるみを当てたらしく,もふもふで巨大なその体躯を前に抱えて持って来た。
「預かってて。」
 と僕に向かって,まさに押し付ける彼女は息も整えずに玄関から去り,廊下の突き当たりにぶつかる。小回りが利かない彼女ならではの機会に追いつくように,
「おーい,」 
 と発した僕のメッセージから時間がなさそうな彼女がチョイスをして,返事をすると決めたのはこれからどこへ,であったらしい。
「あと二店舗,二店舗だからー!」
 それを階下に響かせて,小さくなって,聞こえなくなって,『あっという間』というものを実感させる。足で押さえていたドアのきぃーっと奏でる音に,白いコンクリの面積が見えなくなっていって,抱き合う形になっていた縫いぐるみと僕は,唐突の熱い抱擁から,閉まった玄関先で伸ばした腕の分だけ,離すことから始めた。
 よく見ると可愛かった。
 作業部屋に戻り,座るところからやり直して,外国に住む姉さんから届いた手紙を読み直す。姉さんは若い時分に家を出て,苦手だった畑仕事を今の義兄に習ってからは,二人の関係を恋愛から婚姻にまで発展させて,一家のその生業を取り仕切り,義父たちを安心させて引退に追い込んだという,いつかの便箋数枚にわたる本人の弁だった。野菜もどっさりと送られてくる。義兄とともに一度会ったこともある。姉さんは浅黒く焼けて,思い出より逞しくなって,上がり下がりのイントネーションに特徴が増えていた。見上げる義兄の笑顔は始終,絶えることはなかった。目に前にして,大きくなったねと言われた。義兄を前にすると,実感が湧かないことは二人に伝えた。そうすると,年月とぎこちなさは揉まれた。男の子の写真と女の子の描いた絵を二枚ずつ受け取って,渡しておいてねというお願い事を,きちんと聞いた。それぞれに渡すと,それぞれに飾られた。姉さんからは,アリガトウという言葉が届けられた。それからは段ボールを開くたびに,届けられるものが増えていった。
 義兄と姉妹が近々,訪れるという。道案内はよろしくと姉さんに頼まれた。
 そのことを伝えるために作業部屋を出て,リビングに入り,縫いぐるみを見る。持って帰るのか,置いていくのかが知れないから,単にソファーに置いてあった。大きいだけあって,一人分の席が存分に使われている。手もダランとさせて,あれぐらいの距離なら,テーブルのリモコンにも届くかもしれないと思う。実際に届かなかったら残念な気もするから,やらないでおいたけれど,あれぐらいの距離なら,あの手の長さなら,多分届くと思う。彼女が当てたという縫いぐるみ。僕は本体の受話器を取って,番号をプッシュした。コールが続く間も,繋がったときも,子機は見つからなかった。
 場所と日時,いつ会えるか。それが話したいことのほとんどだった。
 


『もしもし。』
「もしもし,久しぶり。」
『おう,どうしてる?』
「うん,順調にしてる。それよりさ,聞いておきたいことがあるんだけど。」
『おう,なんだ?』
「姉さんのことなんだ。いや,義兄(にい)さんのことか。あと姪っ子たち。話していい?」
『なんだ,まずいことか。』
「ちがう,時間だよ。時間とっても大丈夫かってこと。」
『構わん。話せ。』
「あのさ,次の週末にさ,」



 彼女からの連絡が鳴っていた。すぐにメールにしてと頼む。すぐにメールで返事が来る。『追加で一店舗。これで最後』と,お願いするような絵文字が踊る。持ちかえれば,テレビを観ているような格好の縫いぐるみがソファーの上で何も言わない。そのソファーの反対側のスペースが,気持ちがらんとして見える。ラックと多肉植物の植木鉢を見せて,巻かれたクリーム色のカーテンがあって,磨りガラスが不明確にする,曇りは朝から降水確率が低いんだそうだ。
『泊まりは?何泊だ?』 
「えー,と,五泊,だね。四日目以降はホテルも取れてるみたい。」
 姉さんの手紙で書かれたそのホテルの住所は,歩いて駅に近い。初めて訪れることを考えると,その方が負担は少ないと思う。
『どこに連れて行く気だ?とりあえず,こっちには来るんだろう?』
 子機は不在の台が佇む。メモ用紙がひとつ,束ねられたもので欲しくなった。
 


 夕方。
 彼女がもう一度現れて,玄関前で靴を脱いで,紙やビニールの袋をがさがさとさせながら,ソファーの背後を通って,スペースにその荷物を置いていった。大きいサイズものに混じって,小さい物がからんころんとぶつかる。少し疲れて見える彼女は,その時だけは慌てて,小物を脚の低いテーブルに並べた。それから彼女は敷いているカーペットの上に座り,
「ありがとう。」
 と言ってから足を崩し,肩掛けのポシェットから目薬とコットンを取り出した。それからポシェットの細いベルトを首から通し,ロングTシャツの広い襟元をいじくる。彼女の電話はテーブルに置かれて,彼女はソファーの隙間に寛いだ。一人分の席を存分に使う縫いぐるみを見て,コースターと麦茶を置く僕を見て,手を引っ張り,真横になった,もふもふで巨大な体躯のお腹に片頬を乗せて,低くうめく。「麦茶の時期じゃない?」と聞く僕に首を振って,彼女はまたうめく。「じゃあ,疲れた?」と僕に聞く,彼女の足がぐんと伸びる。「いや,ちっとも。」と答える僕の真似をして,「私も,ちっとも。」と彼女は言う。暫くして,仰向けになった彼女がずるずると枕代わりの縫いぐるみから,ソファーの端に辛うじて頭を傾けたところで,僕はリビングの光を点けた。目を細めて不平を言いたそうだった彼女は,ぐっと我慢していた。それから横向きになって,目を瞑る。ソファーの真後ろを通って,作業部屋に戻った僕には分からなかったけれど,眠っているようなまどろみが,リビングに溶けて馴染んでいた。長い手がぶらんとなって,体躯も横になったままの縫いぐるみに関して言えば,寧ろさっきより緊張して,その職務を果たそうとしているように見えた。縫いぐるみにとって寝転がる,は違うのかもしれない。リビングを縦に眺めて,テレビは正しく観れない,などの点でとか,便箋を封筒に入れて,抽斗を閉めて,ふと思った。◯月△日から,と卓上カレンダーに赤ペンで線を引いて。



 彼女への連絡が鳴っていた。机の上で震えていた。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-10-10

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