practice(121)
百二十一
真夜中に容れたコップ一杯の水と数枚の硬貨を並べて,顔をうずめる背中に温かい羽なんて生えてこなかった。代わりに力強く大きくさすられる。昼日中と違って結んでいない髪がばらけていたから,時々引っ張られて,時々止まって,いつの間にかそれがなくなった。使い古したブラシでもない。いまは部屋の入り口から正面に置いてある,共用の,鏡台の引き出しに仕舞われているのだし,抱っこされたりして取りに向かったりもなかった。お家の中で一番遅くに眠るばあやのはっきりと答える声も,革靴を脱げない猫が廊下を叩く音も,広げた耳の中には見当たらないんだと,フクロウが鳴き,だっていまは眠る時間だから,こうして起きている私たちも居るけれどと諭されて,膝を曲げているシーツも顔をうずめているドレスもぎゅっと掴んだ。髪を撫でられて,呼びかけとともに横顔を見せてとお願いされても,首を無理やり横に振る。あなたの弟のお願いでも?と,言われてそれでも首を横に振る。
「だって見えないもん。」
と押し付けた声で言ってみたら,あら,分かるものよ,と簡単に押し返される。そんなわけない,と答えるのも嫌になって,わがままをいう。あの水差を遊びに使いたい,ティーカップも同じように借りたい。お皿も欲しい。要らないのでいい,それからあのペンダント,すっかり箱のなかに眠ってるでしょ?と。だったら代わりに着ける,同じようにきっと似合うからと。指輪でもいい。靴でもいい。ぴったりには履けないけれど,飾って売ったりしてもいいのだからと。あとは服。大きい服。それから,それからと。
「いいわよ。」
とも言われない,静かなベッドの上で足をばたばたとさせることもなく,背中は小さくさすられて,フクロウはまだ居るの?と聞かれても,顔をうずめているから
「だって見えないもん。」
と答えるしかなく,時間をおいて,フクロウはまだ居るの?とくぐもった声よりは聞こえやすいようにと工夫した質問で尋ねてみれば,
「居るわよ。後ろに首を回して,そっぽ向いてる。」
と朗らかな返答が枝や葉を揺らして待っている,ように聞こえる。お腹のあたり,膝のあたりとぐっと伸ばすところまで出来た。組みかえられる足と,身体と,よっこいしょ。と大事そうな言葉が髪を撫でていた。横向きで顔を見られる。押しつけていた額の赤みがあるのかもしれない,額はぐいぐいと横に撫でつけられる。余計になるかも,と思う。
「あら,余計になったかも。」
と謝られた宵にはまだ朝が来ない。フクロウはこっちを向いていた。コップの部分が明るく照らされている。窓のこちらの小さな壁掛けの絵は,対して暗かった。赤い林檎と梨のかたち。慣れ親しんでいたあのバスケットは部屋にある。少し壊れて,手伝ってもらって少し直した。数枚ある硬貨は一枚も見えない。
「起きてる?」
「ええ,起きてるわ。こうして。」
一度首を横に振った。もう一度,
「起きてる?」
と聞いた。頷いたことは分かって,
「ええ,起きていると思うわ。」
と言葉でも聞けた。あとはわがままを言わなかった。
お話がなくなったベッドの上で,仰向けになって聞いている。覚えのある階調は慣れた足取りでちょっと爪先を上に向け,ひとっ飛び,だんだんと下がっていく。しばらくは同じところを繰り返しで,平坦な道を進んでいくあたりで蓋を閉じられたみたいに,ぱたっと終わる。フクロウが眠っているときのことと,そうでないときのこと。真夜中に容れた水が少しずつなくなって,端まで届かない足を伸ばして掴み,消えた。窓の内側で。
寝返りはうった。それから顔をうずめる背中に,温かい羽なんて。
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