practice(94)
九十四
かかかっと足の仕組みが床を引っ掻く。明るいところでは仕方が無い。しっかりと見える分,踏み込まないとパイプとかから踏み込ませて頂いたこのお家の大事なところが先へ先へと逃げていく気分が,二十日鼠のお髭にピリピリとくる。留守を預かっているのは誰もいないのに。あるいは,留守を預かっているワタクシだからか。窓より高い天井も知らないことは,生まれて長い二十日鼠である彼女の知るところではない。ふさふさで綺麗な茶色の毛並みの先端を後ろにちょっとだけ流し,お腹を擦ってしまいそうな床板の繋ぎ目を短距離走のゴールのように走り切る。髭を伸ばす彼女は得意な顔を隠しているが,それは笑んでいる訳でもなく,頬袋がある振りをして遊んでいる訳でもない。古い皮鞄の横をもう既に通り過ぎて,あったら困った人間のマット(あとから聞けば,それは中くらいの大きさの短毛絨毯のこと)をぼんやりと四角く思い出し,二十日鼠の足の長さでは未だ遠くにみえる階段という一段目に突き当たるまで,二十日鼠である彼女はその日のうちに残らない足跡を残さなければいけない,という考えは彼女がたてる二十日鼠としての鳴き声に収まらない真剣さを見せている。その証拠に二十日鼠である彼女はきっと帰るということを考えていない。踏み込ませて頂いたそこに,住むというにはあまりにも短い滞在時間のうちに,彼女は今度は二十日鼠としての後ろ足をかかっと鳴らして匂いを嗅ぎ,鼻を動かし,「ちゅっ」と細かい方向を立て直してはハムスターのように上半身を起こそうとして,止めている。できたとしてもそれをしないのは彼女の二十日鼠としての気概なのだろう。先を急ぐ彼女なのだから,余計なことをしている暇は置いていかれた掃除機より無い。着実に離れてみえる,お家の中より窺えばよりこちらに近付いている,その様子と懸命さには留守を預かるものとしては応えたくもなるだろう。留守を預かるものとしては。セットされたままのアラームがけたたましい仕事を上階のどこかで果たす,それは二階か,はたまたその上かは杳と知れないけれど,その訪れまでには時間がある。それが二十日鼠の救いとなっている。一階奥のマグカップがシンクの角に必ず隙間を生んだままになって,入ってすぐのところの台の上で紙製でないコースターが折り重なっている。その隣に電話帳。しかし電話本体は見当たらない。まるで持ち去ったようにケーブルがだらんとぶら下がって,テーブルクロスが驚いたような色を見せている。二十日鼠である彼女に知られることのないままに。果たすべき役割について,恐らくそのすべてを果たせないであろうことを知っている彼女であっても,だから急いで,いるようにも見える二十日鼠の彼女は左右均等に生え揃っている髭を揺らす。それは細かに,それは確かに。ふさふさで綺麗な茶色の毛並みの先端を後ろにちょっとだけ流し,お腹を擦ってしまいそうな床板の繋ぎ目を短距離走のゴールのように走り切りながら,彼女は立ち止まり,人のように息を整え,上半身を,と思いきやそれもほんの一瞬でやはり進んだ。あと少しの階段の一段目には何を言おうにも特徴がなく,続く各段にもふさわしい言い回しが留まらずに一階まで戻って来る。やはりここなのだ,は彼女が発したことばになるだろうか。留守を預かるものとして,階段という一段目を目前にしつつ,二十日鼠として彼女が時計を思ったことは本当だった。
リーンリンと鳴く。「ちゅ」とでもなく,ガチャッと切れて,そういう形の受話器が元の位置に置かれる。走り書きのような間があって,ビリビリと破られるメモは済まされた用事とともに捨てられる。階段を降り,短く歩いて,蛇口が回ってシンクを叩く。ばしゃばしゃと,何かを洗う音は聞こえるだろう。マグカップがひとつ分,ふたつ分と増えていき,誰かが彼女を呼ぶ声を投げかける。チクチクするような韻を踏んで,応じてカラカラともいう。ひまわりの種なんてあげたくなる。しかしそうじゃない。時計を気にする彼女にはそんな事より気になることがある。床を見つめ,耳を澄まし,髭をたてて。
二十日鼠の足跡をたどる,最後から始めるのが早い。
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