practice(76)
七十六
気に留めない絵を掛けようかと迷っていた,その壁に接する座席で食事を済ませたはずのお客様はステッキを斜めに立て掛けて(けれど恐らく一番出来るだけ真っ直ぐでもある),今日のランチタイムには欠かせないフォークとメニューを持って行ってしまったようだった。所定の位置には空白もある,ただし同じく用いたスプーンはまた綺麗に拭いて一枚のお皿の側に置かれてあった。取り上げても縁にぶつからない,ナプキンは二つ折りにされて,ちょこんと突くと妙にきびきび動く,片付けのためにトレイに乗せてもそこが変わらない。活きているみたいだね,というレジのヘルプに入ったあの人が厨房に向かう途中の空調の調整を済ませて,弱い暖房が限りなく効いていない程になった。燦々を目指す日差しは小窓の決まりを守って伸び,低い枝ぶりの緑が小さい欠伸を覗かせる。玄関の影は,今は大人しい。使い込まれていたことが近づくと分かるステッキを見ながら,付近で何もないところを吹いてから,予備のメニューのある場所を思い出して,分かりやすいと思った。コップの水滴は氷とあった。
真昼の月が白く昇る日。
よく整えられたお髭を引っ張って,苦笑いを浮かべさせてたお爺様が主人公のお話には不思議なことが一度も起きなかったのに,不思議じゃないと思えたところがなかった。色調は黒に包まれて,運行する瞬きが気まぐれに助ける。胸ポケットのハンカチ,寒い日に身に付けていた手袋は同じ色。鼻が高かった気がするのは今のイメージかもしれない,けれど目はどちらも覚えている。足の先まで細かった印象は眠る前でも朗々と読み上げてくれた,母でも祖母でもきっと同じ。三色のボールを前にして,マジックの本も手に取らずに,見上げていたお爺様はくるりと何度か逡巡,それからぴたっと立ち止まって,その次の日に披露してくれた,たった一度のこと。満足したその子を連れて,歩いて伸びる階段を登って,帰って来なかったお爺様。『たった一度のこと』と本当に題されたその一話が好きで,何度も何度も読んだ。不思議とそこで終わりになったりしていなかった,そこからの続きは帰って来たのかどうなのか。覚えていない,不思議はない。
カラン,というのがステッキなら,カランと鳴るのは次のお客様。
電話も途中で鳴ったりして,次の日のディナーの予約に,書かれていたおすすめのものをスープあるいは具材を豊富にというリクエストを申し受ける。他のご要望もこちらから,丁寧に聞けば答えてくれる,年季の入った声で真昼にフォークも落としたりしない,遠い時間だって守ると思える物腰。不思議な砂粒だって,連れて来ない。
シルエットに足りないものは,もしかしたらお預かりしていると伝えて,電話を切れば,返事が待ってる。
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