practice(62)
六十二
きっと足首のところまで注いでくれたのだ,50mlからしか赤い線で引かれたメモリが見られない計量カップで30mlを測るような苦労をしてまで,廊下の隅々に気を配って。埃が浮けば掬い取り,濁れば汲んで様子を窺う。攪拌は私でも人差し指で出来るのに,それをしないのはきっとそれを習っていないんだと当たりをつける電気ナマズはぬらぬらと廊下を底のように行く。滑らかな,とても綺麗な運動に絶縁体のゴム手袋を手に持って,肩を出す。夏のようで寒くない?と,聞かれたから冬のように温かい,と答えるやりとりはしなかった。さっきからキラキラと光る石のことが気になって仕方ないし,ましてや素足なのは分かっているだろうし。もっと先の方でサーッと流れている音は上階の真水と合流して,階下へと向かうまた別のものみたいで,それが60mlでも90mlでも壁に掛けられた視界に収まる観賞用の緑に飛沫としてもかかっていなかった。おまけに全体が右の上からぼんやりとして照らされて,左の下に姿を現している,だから貼られていたシールは丁度隠された。真剣にそこに貼ったのかもしれない。
「さあ,ウサギだと思う?」
「さあ?白い犬かもよ。」
電気ナマズはぬるっと前に移動した。
チカチカする天井の蛍光灯に休んでる(避難してる?)蝶々の翅の羽ばたきは開いて閉じる,黒の動き。明滅の間に埋没するから余計にはっきりとする,見えなかった早送りの先の一コマがひらひらと舞って降りる。
「これは重要なカンニングになるかもしれないよ。」
「そんな訳ないでしょ。」
と否定する,ふわっとしたイメージは意図の真似。ゴム手袋の指先は少し余るもの,手が小さいこともナマズはきっとお見通しだから,
「『電気』付けるの,忘れてない?」
ということも水滴を引っ張る動機にして,真水の住処に足を乗せて。
ぱしゃっと。
「着地まで,」
着地まで上手く,キャッチも高く,断片だけのお話にするならその階の壁に辿り着いて,灯りの中で見上げるまで肩で息をするステップ。質感ある植木鉢と陰にある白壁のシール。こんこんと流れる真水が足首に満ちれば,電気ナマズは後ろに来る。ぬるりと綺麗に運動する。
「ねえ,何だったと思う?」
「さあ,なんだろうな。」
「白い犬かもよ。」
「じゃあ,ウサギだな。」
すっかり落としたゴム手袋は水面に被せて,重みで地面に接着していた。だから電気ナマズの通り道は水紋とともに少し変わったのだった。
*
カイゼル髭の,男爵芋?
ーカイゼル髭の男爵ね。
ーああ,男爵。
ーそう,覚えてない?
ーうん,全く覚えてない。
ーそっか,それは残念。まあ,それはいいから探してよ。ほら,手を動かして!
ー動かすけどさ。動かすけど,ねえ,そもそも何で,雪の上で本を読もうと思ったわけ?
ーだから,男爵がそうだったの。
ー絵本の中の男爵が?
ーそう,絵本の中の男爵が。
ーはあ。どういうこと?
ーだから,その絵本の中で男爵は午後のひと時を過ごしていたんだよ。山中の積もりに積もった雪の上で,わざわざ自宅から自分の手でテーブルと椅子を二脚運んで。それを麓の街に向かおうとしていた古い顔馴染みが目撃して,彼は無事にそこにご同席させられた。
ーはあ,それで?
ーそこで,彼は男爵と一応世間話をした。何処に行こうとしていたのかね,何をしに行くのかね,ってね。古い顔馴染みである彼はきちんと答えはしたんだけれど,なんせ先を急いでいたものだし寒いかったからね,そこ。だから,男爵に断りをいれてから麓に向かった。男爵は勿論それを受け入れて,彼の道中の無事も願った。彼は,お礼は述べたけど,男爵のことについては何も言わなかった。風邪引かないように,とか熊に襲われないように,とか。
ー男爵の無事ってこと?
ーそう,それ。
ーでもそれはまあ,仕方ないんじゃないの。その男爵が好きでやってたことでしょ?
ーうん,そうなんだけどね。まあ,彼はそのことを気にしたわけよ。そして気にした分だけ予感が的中して,男爵はその日起きた雪崩に巻き込まれて居なくなった。
ーえ,死んだの?
ーでは,ないみたい。というか『居なくなった。』としか書かれてないの。
ーじゃあもしかしたら,ってこともある。
ーうん,そんなニュアンス。
ーふーん,それで?
ーそれで終わり。
ーはあ?それで終わり?
ーうん,終わり。
ーえーと,その絵本の主題は一期一会で,お別れとかの挨拶はきちんとしましょう,みたいなところにあるってこと。
ー素直に読めば,そうでしょうね。
ー他の意味もあるの?
ーさあ,知らないけど。それを知りたくて引っ張り出して読んでいた,ってところもあるかもしれない。でもね,じゃが芋を蒸かしてじゃがバターを作ったらさ,読みたくなったわけよ。食べながら,男爵みたいに。
ー単純明快そうなあんたの動機はそれ以上探る価値が見出せないからやめとくけど,で,何でその絵本を無事に失くしたわけ?
ーそれなのよ。じゃがバターを食べ終わってうとうとしてたらさ,男爵が出てきて『それは私の本である。返したまえ。』なんて言うから,「はあ!?男爵が出てくるものでも,これは私の本です。お小遣いから出して,私が小さい頃に買ったんです。だから渡しません!」と言い切ったのよ。
ー夢の話ね。
ー夢の話よ。もちろん。
ーはいはい,それで?しかし男爵は素直に引き下がらなかった?
ーそう,その通り。目の前でそのカイゼル髭の先を引っ張って,『しかしそれは私が出ている私の話。ならば私のものだ!』と威丈高に言い張るものだから,「はあ,何それ!?確かにこれはあんたが出てくる絵本でも,絵本自体はあたしのもんだ!」って啖呵切って,それから男爵と私の絵本の引っ張り合い。流石に男爵だけあって力強かったけど寄る年波には勝てないってやつよ。最後には私が全力を出し切って引っ張り勝ち,まあおかげで座っていた椅子ごとひっくり返って,起きちゃったけど。
ーそして起きたら机の上にも下にも絵本は無かった。
ーえぐざくとりぃ!
ー下手な英語は要りません。
ーうん,でね,あんたにもそれを探して欲しいと思って早速呼び出して,今もこうして手を動かして貰ってるって訳ですよ。
ーはた迷惑です。
ーいいじゃん,近いし。
ー距離の問題ではありません。配慮の問題です。
ーじゃがバター,奢るよ。
ーあんたが買ってきたもんじゃないでしょ。どうせ。
ーもち。
ーろん,まで言いなさい。
ーまあまあ。ほらほら,手を動かして!
ー動かしてますけどね。で,なんで掘るわけ?
ーそりゃ,男爵が持っていった可能性が高いからよ。じゃあ,雪の中でしょ。やっぱ。
ーああ,なんという無駄骨。知性のかけらも感じられない判断過程。
ーあら,失礼ね。
ー雪景色に沿った,冷静な意見のつもりですが。
ー私の家から持参した,避暑地向けのテーブルの周囲に残っている足跡は私とあんたのものだけ,動物と思われるものだって一つもない。とすれば,現実に取られたって可能性は低いでしょ?
ー空,飛んできたのかもよ?ひゅいってね。
ー鳥類がわざわざ大判の絵本を狙うって考える方がも無理あるけど。
ーまあ,分かってましたが。
ー冷静ね。
ーあんたもね。
ーで,マジで見つかるまで掘るわけ?
ーまあ,その積もり。だけど,頃合いみたら帰るわよ。そうね,丁度あの陽が夕陽に変わるまでにしましょうか。あの『どでか』ポットに熱いスープもたっぷり入ってるし。じゃがバター以外にも,持ってきてるわよ。
ー充実した休憩は可能かってことですね,お嬢様。
ーええ,その通りよ。お嬢様。
ー二人ともお嬢様だったら変でしょ。あと,『どでかい』も最後まで言いなさい。
ーはーい,じゃああんたはそっちに向かってより掘ってね。
ーはいはい。
ーはい。宜しい。
ーで?
ー何が?
ー仮に見つけたとして,あんた男爵には何て言うの?決めてんの?
ーうん,「男爵の話が好きだから,その話が好きだから,返して下さい。」って言う。
ーふーん,まあ,いいんじゃない。男爵がどんな顔するのか見ものね。
ーうん,とっても。
ーで,じゃがバターはいくつ食べれるわけ?
ーどうぞ好きなだけ。お腹は壊さないようにね。
ーご心配に感謝を。
ーどう致しまして,もね。
practice(62)