practice(56)



五十六







 パンフレットに載せるそのホテルの良いところに関しては『そこは実に』とまで書いて,読点を打ってから原稿とともに抽斗に仕舞った。鍵まで掛けようかと思ったが,その鍵が見当たらなかったのでその探索を遊びに来ていたミヅゴシ君にお願いし,表紙に付箋紙が貼られた鉱物図鑑を捲った。分類と写真は綺麗になっている。名前に欠損はない。あとがきを丹念に読み終えて,裏表紙を閉じてから,先の付箋紙を取った。
『どうでしたか?』
 インキが切れそうであったことを覚えていた万年筆の先を,蓋を開けた便の中に触れさせて,記す。
『しかしお目当てのものが載っていなかった。』
 予め用意されたスペースをそれで埋めて,付箋紙は表紙に戻した。黄色だった。目立つ色だ。
 それから真っ新な二百字詰めの原稿用紙を取り出し,立てずに転がしていた万年筆をその上にまた転がして,腕組みをする前に背後に伸びをする形で反り返り,吹き抜けの高い天井の空気を吸う。そしてゆっくりと吐いて,備え付けられた電灯が開けた天窓と遊んでいるのを確かめてから二回,ミヅゴシ君の名前を大きな声で呼んだ。
 しかしミヅゴシ君はすぐそこの,本棚の前に置かれた革張りソファーの下から顔を出し,床に接着していた側の頬と伸ばした手に付いていた埃を払ってから返事をした。
「はいはい,鍵はまだ見つかってませんよ。」
  私は組んだ腕と逆さまのまま,言下に首を振った。
「そうじゃないんだミヅゴシ君。鍵はゆっくりでいい。」
「そうですか。では,何です?」
 ミヅゴシ君はそう,払う手を止めて聞く。私は姿勢を直して横向きになりながら聞いた。
「例の像の話で,もう一度聞いておきたいんだ。」
「例の像,とはあの像のことですか?」
「そうだ,その像だ。」
 ふんふん,と頷くミヅゴシ君はその目の前に像が浮かんでいる素振りを見せた。
「『その』像は,本当にさっきの謂れで伝わっているものなのかい?」
「ええ,勿論です。本当にさっき話した謂れで伝わっていましたよ。僕は何度もそこで同じ話を聞きました。」
 ミヅゴシ君は言う。
「盾にしているんだそうです。庇っているのでなく,左手をこう(と肘までミヅゴシ君は伸ばし),差し出して。ポーズだけ見れば,どっちか本当に分かりません。」
 それを再度聞いた私はさらに横に,首を傾げた。
「そうなると,それは危ういことにもなるね。だってそのやり方はともすれば,盾にすることそれ自体を事後的に批判されかねない。道具のごとく利用してしまっている,という風にね。」
 しかしミヅゴシ君は否定する。
「それはお互いに了解済みらしいのです。」
「了解済みなのかい?」
「はい,了解済みらしいです。」
 そう言ってミヅゴシ君は,まだあったのか分からない,見えない埃を両の手でぱっぱと払った。
「私は現地の人の案内でその像を見せてもらいましたが,正面からは見えない方,こう(とミヅゴシ君は宙に半円を描き),周りこんで,見たのですが,笑っているようにも見えるんですよ。まるでもう一方のように。例えると,例えの方が大きく偉大になってしまうのですが,像の方は『してやったり』という感じなので。だから強いて,を必ず付けて言えばあのモナリザ。じっくり見ていると,そんな感じです。」
「見える人にはそう見える。」
 かな,と半疑問を付けない。ミヅゴシ君はそれを拾った。
「はい,そういう感じです。」
 そうか,と返事をせずにそこに浮かぶものを浮かばせる。その間にミヅゴシ君はもう一度革張りソファーの下に潜って,そこに眠っていた植物図鑑を引っ張り出した。積もっていた埃の塊を今度は吹き払おう,ともせずに眺めて表紙を捲った。
「好ましいものとはならない,んだよな。思い浮かべると。」
 素直にそうこぼす,それにはミヅゴシ君も同意した。
「好ましくないのかもしれません。僕も,思い出すとそうなります。」
 そう言って天窓は,きいっと内側に動いた。
 横向きで見るミヅゴシ君の無表情は,静かに人の顔をしている。革張りのソファーの後ろに立って,本棚の前に居る。そういや今日は贈り物を買わなければいけないのでなかったか。それを伝えると,ミヅゴシ君はそうだそうだ!と慌てて,ちょうど見開いた多肉植物の頁のあれこれに,目を転じて,どうしよう,どうしましょうと,考えたりして聞いていた。
「『桃美人』がいいんじゃないか。」
「いや,いやいや。『ローラ』が最も適しているかもしれません!」
 そう言いながら『アルギレイア』の葉の模様も久し振りに見つけ,次いで『ジェイド』のことも思った。そこから横向きを直し,転がった万年筆を持って起こし,書き始める。『…長期休みに足を運びたい,ツーリズムを紹介するために主要空港からだいぶ離れている,到着するまでの道程においても楽しめるストーリーをここで少し演出しなければいけない。さあ,足はどうしても電車になり,長閑な風景が長閑に続く。買い物などは出発駅で済ませるだけに終わってしまうから頼りは各所の見所,謂れや逸話ありのポイントを見つけていくしかない。数点にわたって囲まれた赤丸は,だから現地に…』。
 机に日差しが差した。
 私は聞く。
「そういや,ミヅゴシ君。」
「はい,」
 とミヅゴシ君は返事をした。
 私は聞く。
「鍵は見つかったかな?」
「いいえ,」
 という返事はもう一度,
「いいえ,まだ見つかってないですね。」
 と続けて,ミヅゴシ君とともに何処の一枚も捲らなかった。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-05

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