practice(55)


五十五






 雨が降っていたので,傘を差していた。
 湿り気を柔らかく返す芝生にあるのは,それでも硬い地面の感触だった。ここまでを教える積り,あるいはここからを見せる日。曽祖父の名前に似て口にするとつっかえそうな綴りが,ぱらぱらと断続的に打たれて,どこも変わったりしていなかった。固そうな木々,でもこの時期の強い風に吹かれては深い葉っぱが唸っている。そして戻って来た,元の位置。袖からはみ出る手に触る,外気が下がろうとして,でも押し上げる最低気温に逆らえずにいる。紫ピンクのパンジー,それ以外の花からなる目の前の束はきっと姉か従兄弟が置いたもの。行き違いとなったこの場所で,ぱらぱらと一緒に聞こえるのはここの犬が繰り返す呼吸音と僕とレインコートを着た清掃員の彼が交わす,単発の会話だった。一人では初めて来たために,彼には入り口から案内してもらって,一緒に居てもらっている。だから会話は,お互いの簡単な自己紹介からこうして会いに来た,この人が,どういう人だったか,というよりどういう風に思っているかと聞かれる,そんなものとなった。未だに不器用にしか進めない,双六みたいな辿り方に,およそゴールまで付き合ってくれそうな彼は第一印象通りの,身長が高い目印のようだった。
 最初に手をあげたとき,だからもっと高かった。
「犬は,連れて行ったりしてはダメだと言われてたんです。」
「何故です?」
「掘ったりするから。それは良くないというんです。」
「ああ,ここでは,ということですね。」
「はい,そうです。信心深いといえば,信心深いのでしょうけれど。」
 彼は一つ頷いた。レインコートも頭からガサっと鳴った。
 「そうでしょうね。それは信心深さだ。けれど,」
 と彼は犬と僕の右奥を指差す。石と自然の通路のように眠りが並ぶそこの,邪魔にならないような繊細さをもって直線を描き,描きつつそのままこっちに戻って来て言った。
「といったところにですね,実はモグラがいます。私は何度かその跡を見たことがあります。彼らはひょっこりと顔を出す,らしいのです。だから通りがてらなのでしょう,その場所がたまたま,ということもあります。だから,」
 そして言葉を区切り,真向かう形で吹いてきた風に剥がれそうなフードを,押さえながら続けた。
「そういう意味ではモグラも変わらない,その時は苦情あるいは修繕の依頼を受けて,私たちが対応することになります。けれど駆除は致しません。それはまた,良くない意味にもなるからです。」
「ああ,確かに。」
 と柄を持ち直して,今度は僕が納得した。
「ええ,そうです。」
 と彼も言った。
「難しいものですね。この犬のように,目の届くところで大人しくしていてくれればいいものを。」
 舌を出していた犬は見ている僕に気付かずに,その舌を一度仕舞った。
「そうですね。」
 彼もそう同意した。それから彼は僕に「この犬は,あなたが飼っている犬ですか?」と聞いた。ここにいる犬は,僕がここを訪れたときに入り口側に待ての姿勢で居たもので,僕はだからてっきりここで飼われているものだと思っていた。不在だった入り口をくぐり,しかし五分ほど入り口付近を行ったり来たりしているところに,補充が必要となった清掃道具を取りに来た彼と会い,彼が僕と,僕について来ていた犬に何も言わなかったのはそのためだと納得していた。そのことを,そのまま彼に伝えると,
「いえ,私はここの清掃員を長く務めていますが,この犬は見たことがありません。私以外の者がここで飼っているということもないはずです。」
 と答えてしまい僕は彼と二人で,左端の犬を見つつ,首を傾げてしまった。傘とレインコートを上手く避けて落ちるものは,思ったより増えてしまったように感じた。
 僕は彼を目印にして言った。
「こういうことも,まあ,あるものですね。」
 彼は僕に見られながら言った。
「そうですね,こういうことも,まあ,あるものです。」
 そして僕は傘を閉じて,パンジー以外の花束に触れた。
 写真家で,夕方からは専門学校のクラスを二つ持っている彼は残りの清掃を終えてから,ここを後にするそうだ。僕と,僕たちについて来る犬とともに先の入り口に戻って,見送りをする前に入り口脇の簡単な受付所からポリ袋の束を取り出した。さっきからの風の強さで大きな枝から小さな枝まで,あちらこちらにあるらしい。目に付く限り,それを拾って広げたポリ袋に入れていたのだが,破れたりするものだからそのうちに枚数が足りなくなった。残り一枚,となった段階で取りに戻ったら。そこから先は,もう言わなくてもいい。
 彼は,高い位置で困った顔を見せながら言う。
「太いものが厄介で,これ一本で一袋を口を縛ることになったり,運んでいる最中にいつの間にか破れたりして,数枚を要することになってしまうんです。ほんと,困ったもんです。風にも枝にも。」
 見上げる僕は彼に言った。
「入れる前に,折ってしまえばいいんじゃないですか。入れやすいように,二,三本くらいに。」
 はっ,としたことがもうフードを被っていない表情から余計に分かる。彼は「それだ!」という代わりに指を差して,すぐに仕舞った。
「気付きませんでした!いやー,そうだ,そうだ!」
 と仕切りに頷く彼はレインコートを脱がずに,最後の挨拶を交わして,入り口の向こうの清掃員の仕事へと戻って行った。さっきまでの開けていた場所,揺れているのにもう何も言わなかった木々には明るい曇りの光が重なって,一枚一枚は見えなかった。深い緑,濃い青。濃霧になったりもするそこにはつっかえそうな綴りの人がいる。すぼませた傘を手に持って,革靴と,薄い春物の靴下を通しても分かる,そこに二本で立つ足。ここから先を教えるようで,僕らは,一体何を交わすだろうか。
 犬を連れて入り口を出た,掘ったような泥は払った。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-03

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