practice(24)
二十四
「気付いてないって,思ってるみたいだぜ。アイツら。」
空調の唸りの隙を付いて,聞こえて来る猫の声は置物らしく平然としている。お客を迎えるためのカウンターの上で,両開きの透明なドアからいつも通りに外を眺めながら,作り物らしく振る舞う癖に実は内省することが趣味なやつである。手彫りらしく,背中には二本の荒いラインがある。休憩がてら,そこをなぞるとセクハラを叫ぶ雄は時事ネタが好きである。どうやって仕入れているかについて詳しくは分かっていない。立ちながら新聞を読んだりする上司が一枚噛んでいるという嫌疑は十分でない。
「なあ,気付いてるか?」
猫は目的語を省くところがあるがそこは猫と僕との仲だから,補完しながらで間に合う。間違っていたとしても何食わぬ顔で当てはめ直して,最初から分かっていた振りをすればいい。猫はそういうところを気にしない。今回は例のアレだろう。僕は決め付けて『話をすること』を進める。
「そうみたいだな。」
「言わないのか?気付いてるってこと。」
「言わない必要があるからな。言う必要より。」
「それで得ることがあるってか?」
「いや,それは無い。あっちが失っていることはたっぷりとあるみたいだけど。」
「みたいだな。今も見失ってるぜ。」
「失くしたものが多すぎるから,そのことにも気付かないよ。」
「可哀想だな。」
「そうかもな。」
「だったら,アイツらのために言ってあげたらいいんじゃねぇのか?」
「そんなことする気持ちがこっちにない。抽斗に閉まって,もうそのままさ。相手に出来ないし,勝手にさせるのが一番。ほら,あれと一緒だよ。」
「あれって何だよ?」
「ネズミ捕り。」
猫は呆れてものを言う。
「そりゃ,笑えねえな。一応猫として。」
勤めているここも当駅を構成する施設の一つであり,まず「客」は来ないという点で当駅の他の施設と趣を異にしている。勿論閑散としている。その理由は言うまでもない,「こちらから眺める」業務のせいもあるだろうけど,設けられた施設に期待されている機能によるところが圧倒的に大きいだろう。困ったことに特化した目的は日常的に埋没する。見えるところで見られない。
それでも小まめに掃き掃除をしているドアを開きっ放しで出て行った人はホッとした表情を浮かべても慌てた様子で,改札口がある方向へと走って行った。「客」の一人として見えなくなったところで,うちの紅一点がドアを閉めに立ち上がり,そのまま外まで出て戻って来た。
「箒と塵取り,持って来て貰えますか?」
と言われたから「窓口」を不在にして奥まで行き,所定の場所をバタンとさせて二つをセットで取り出して渡した。「有難う。」と受け取ってから彼女は小まめに動く。こちらから見えなくても埃は確かにあるんだろう。『もう!』と憤るように口を尖らせる彼女はここの玄関口の清潔利用のために,そのまま世界を掃除しに旅立ちそうな勢いを『シャッシャッ』という音に例えている。
「新人に扱き使われるなんてな。」
帰って来た僕をからかって,猫は『ケケッ!』と出せない笑い声を出そうと頑張った。窓口の不在を解消して,椅子に座った僕は今朝方受け取ったリストの記載に目を落としながら「下手くそ。」と背中に呟いてあげた。
「んだよ,努力は認めてから評価しろよ。」
「努力にも無駄はあるものさ。」
「それは誰がどうやって決めるんだよ?」
「僕がこうして決めるんだ。」
「勝手だな,おい。」
「お前に関してはな。」
振り返ってもう二言,三言,不平不満をぶつけたそうな猫は,やっぱり振り返れずにそれを諦めた。妙に割り切りも良いこいつは「客」の前では一言も発しない。借りて来られた振りをするこいつには,起きた事態の説明をするにあたって手短で分かり易い説明の端緒になると思われるから,そういう時こそ是非とも喋って欲しいにも関わらず,である。その辺までこちらを見透かして,あえて喋らない風に見えるからこいつの所有者の一人として十分に腹は立っている。
「で,どうよ。」
「何がだ?」
前足で顔を掻きたそうな猫がその気がないような声を出して聞いて来た。ここで目的語を補完しないのは当面の仕返しでなく,目の前の業務に集中しているためであると言い訳をしない素直な僕である。
「何が,って分かんだろ。たくっ。で,どうだ?美人は居そうか?」
相変わらず補完しない猫の関心ごとは,叶わぬ恋の予感にあるらしい。
「名前と時間だけに基づく当てずっぽうで構いやしないのなら,今日は二,三人がここを訪問する予定のようだな。」
「ふん。そうか,猫として一応,訪問時間を聞いておこうか。」
リスト記載の時間に指を添えて,僕は淡々とその時間を三人分答えてあげた。
「ふん。そうか,一人を除いて,時間は詰まっている感じだな。これは気が抜けない。佇まいを緩めることは出来なさそうだ。ちなみに,猫として一応,そのお名前を聞いておこうか。」
「ふむ。こちらにも一応守秘義務があるからな,その全てを明かすことは能わないがその貧困なイメージに豊かさを添えるためにヒントのようなものを差し上げよう。」
「おお,これはかたじけない。」
「いいってことよ。」
「それでそのヒントとは?」
「ふむ,そのヒントとはな,」
「ふむ,そのヒントとは!?」
前のめりになって,カウンターの上から『ゴンッ』と消えてしまいそうな猫を慮ることなく,勿体ぶる時間の勿体無さを感じて,僕はサッサと言った。
「お三方ともその御名前に動物が住まわれている。」
「動物。」
「そう,動物だ。」
短くも,猫は沈黙はもするようだ。それから口を開く。
「ちなみに,どんな動物だ?」
僕は再度,リスト上の記載に指を添えて確認する。紙をこする音が楽しそうで困る。
「亀や鶴,あとはネコだ。」
それから猫は考える時間を存分に使って,ただ一つの結論と一つの矛盾を提出した。
「会って,見てから決めよう。俺の心がどう動くかは俺自信も計り知れないからな。それと,ネコは美『人』ではない。」
その間にリストのチェックを済ませ,提出先への定時連絡と『裏方』諸氏の準備状況を内線で確認してから受話器を置いて,こちらを振り返れない猫の背中を見つめて上げながら言った。
「済まない。お前に一番相応しいと思ったものでな。」
「その心遣いに感謝したいところだけどよ,まあ,余計なお世話だ。」
「自覚している。」
「性質(たち)が悪いヤツだ。」
「ヒトだからな。」
「ふんっ!」,とあるかないか分からない程の小さい鼻を鳴らして(恐らく)そっぽを向いた猫の前に,一人も女の人が立った。ワンピースを身に纏った全身は黒,髪も黒で肌色が薄い。肩口から向こう側ではうちの紅一点が迷いのない動きでそこら中の埃を順調に掻き集めているのが伺える。そのショートの長さで,世界とのバランスを絶妙に保っていたのだろう,と新聞のテレビ欄までチェックする上司なら言ったことであろう。僕はその短さが似合うなと思うぐらいだ。その他には言うことがない,物足りない第一印象は「すいません。」という言葉を連れて,僕を見つめた。その言葉はとても明朗,ただでさえ浮世離れしたカウンター上の猫が余計に一目惚れて,目立ちそうになっていた。
「こんにちわ。」
そう言って僕は昨日のリストの,上部を確認した。追いながら指先とともに読み上げて,名字,名前ともに動物を住まわせていないなと思いつつ,女性の視線に目を合わせる。女性は一言,「はい。」という言葉を発した。それから恐る恐るという感じで,聞いて来た。
「あの,時間の遅れに,問題はありませんか?」
僕は口元に笑顔を置く。安心は無いに越したことはないからだ。それから答えを連れて来る。
「大丈夫ですよ。ここに来ることもここから発つことも,遅れることに影響はされません。まあ,あまりにも長くなるとそれはそれで問題は生じるのですが,一日遅れのあなたはその点も大丈夫です。しかし,」
と,ここで一呼吸を置いて質問に意味を持たせた。備考欄に書かれた事情は『裏方』諸氏がきちんと調べ上げている。
「もう,宜しいので?」
そう聞かれた女性はそれは綺麗な苦笑いを浮かべた。苦笑いで惚れそうになるとは,我ながら猫を馬鹿に出来ない。
「はい。大丈夫です。あの人とあの子を見つけられる人が居るだけで,もう十分だったのですから。」
「そうですか。」
「はい。」
そう言って,苦味を消した女性はここを訪れる人にしては珍しく,カウンター上で借りて来られた風を装う手前の猫に気付いた。そこに額があるように,指で器用に撫でている。丸められて彫られた尻尾が動いたのであれば,きっと横に振ったであろう(と,口にしていたら「『縦に伸ばす』だ,バカ。」と鋭い突っ込みが入ったことであろう。)。
「どうぞ,こちらへ。」
そう言って女性を奥の座席に座らせて,連絡を入れたところで僕のすべきことはもう終わりだ。あとは任せる。職分意識は僕らにとって重要な事柄,それをはみ出すことは出来ない。以前リスト上の氏名を外部に持ち出した者があったらしいが,その行方は用として知れない。といってもその末路は理解出来る。然るべきものが然るべきように起こっただけのことだろう。それ以上の関心は育たない。
「なあ,なあ。」
興奮を抑えきれない猫は『カタカタ』ともいっている。僕はリスト上から女性を消しているところである。
「なんだ。」
「俺もついて行っていいか?」
僕は優しい声音を生み出して猫に言う。
「お前が行っても木屑になって帰って来るだけだぞ。それで皆で新しく彫るだけだ。今度は一本の見事な松にでもしようかと思っている。」
猫の逡巡は静かじゃない。「何!?」と驚き,「うーむ,」と二回ずつ唸っている。それから僕に聞いて来た。
「一本の松,それは何でだ?」
「静かだから。あとは,日本の心だな。」
「そう思っているのはお前だけだろ?」
「僕を中心としたここの有力者数名だ。」
「それは誰だ?」
「聞いたら落ち込むぞ。それでも?」
「うーむ,」
それから続いた猫の唸りは,奥の座席に座っていた女性がさらに奥へと案内されたところで途絶えた。僕が最後の機会とばかりに「行くなら今だぞ。」とけしかけたところで猫はそれに応じずに,「男は黙って見送るものだ。」と漏らしてから黙った。「同じ『雄』として尊敬するよ。」と言った軽口にも応えなかったから,意外と本気だったようだ。
背中をさすって,怒られてあげた。
それから業務は滞りなく進んでいった。カウンターの前で,予定時間の前後はあっても訪問者が立ってから,促されて奥に進む。列なんて作ることはなく,ただ一人,ただ一人という按配で流れた時間であった。猫もその間,一言も発せず,置き物らしくカウンター上でその時を過ごした。名前に動物を住まわせている一人の方もここを訪れたけれど,特に反応は無かった。背中ばかりみえるカウンターのこちら側からは分かる様子は限られる。二本のラインは,そこに彫られてあった。
「なあ。」
リスト通りに業務がひと段落したところで猫が一言鳴いた。とても猫らしい,和むひと鳴きだった。
「おお,良いね。その調子でもう一回鳴いてくれよ。」
猫にそう言うと間違いは発覚する。猫は「ああ!?」と言いながら訂正をした。
「ちげえよ!お前に呼び掛けたんだよ!」
「おお,これは失礼。あまりにも猫らしい鳴き声だったんで,感動してしまったようだ。」
猫は恐らく睨んでいる。しかし振り返れず,外を向きながらなので訪問者を威圧することになりかねない。ここは大人な対応が求められる。
「からかいすぎた,すまん。」
「ふんっ!」と踏ん張るように鼻を鳴らして,猫は言った。
「分かればいいんだよ。」
僕もすぐに言った。
「そうか。で,何だ?」
一間あけて,「ふんっ!!」とまた一度頑張って鼻を鳴らした猫はもう構いやしないという風情を動かない置物の体躯で現してから僕に聞いてきた。
「運命ってなんだろな?」
「なんだ,意外に未練たらしいやつだな。出会うべき美『人』はまだあと二人,残ってるだろうが。」
呆れた声を今度は僕が猫に発して,猫は眠り続けていた敏捷性をここぞとばかりに発揮して否定した。
「ちげえよ!そうじゃねえ!ただ,ただ純粋に聞いたんだ。」
声量とともに意気消沈して,猫は「わかってらぁ。」をぶつぶつと繰り返して言っていた。どうやら本当に,ただ純粋に聞いたらしい。その純粋の濃度は知れないけれど,ここは少し真面目に答えてあげることにした。
「文字通り,運ばれる命なんじゃないの?」
「それは俺でも知ってら。そうじゃねえんだよ。聞きたいことは。」
僕は溜まった書類を類別しながら聞いた。
「じゃあ,何だ?」
「それは,」と続けようとして猫は押し黙った。その間に僕は書類をまとめて重ねてカウンターに置く。数枚,見当たらないものの在り方を後で探す必要はあった。
「ここでよ,」
そう言って猫は,黙る。こちらの返事を待っているのだろう。手と違って空いている口を使って返事をした。
「おう,ここで?」
「ここでよ,」
と言って決心を積み重ねる猫の言いたいことは,猫が猫なりに観察して思ったことらしかった。
「ここでここに来る人を眺めててさ,思うのはさ,運命って結果だなーって強く思うんだわ。」
「結果。」
「おう,結果だ。受け入れるしかない結果ってやつだ。」
「ふーん,それで?」
綴れるファイルも足りないらしい。カウンターの下に付いている,抽斗を引きながら猫の言葉を待つ。
「おう,でな,受け入れるしかないから,予め決められているとしか思えないから,憤るってこともあるんだよな,多分。」
在庫分のファイルも数え直しながら僕は返事をする。
「かもな。」
「おう,でな。」
「おう,で?」
猫は言う。
「過程って考えてもさ,結果はやっぱりあるわけだわ,その先に。筋道が違えば辿り着くとこも違うって,理屈も分かりはする。比べれば結果も違うってな。でもよ,その結果が区別して止まないところは同じなんだよ。その結果,運命の結果ってやつは,やっぱりどれも同じだとおもうんだよな。」
「まあ,同じだろうな。運ばれるんだから。」
取り出した必要な分のファイルを持って,これもまたカウンターに置いた。在庫も補充する必要が生じていた。腰を伸ばすために,僕は背中から伸びをする。猫は言った。
「じゃあさ,運命って考え方はどこに向かえばいいんだろうな?」
僕は返した。
「分かりにくい。もっと分かりやすく言え。」
猫は考えるように黙って,猫なりに『分かりやすく』言った。
「付き合い方だよ,要は。面と向かって,いいのかどうか。」
外では一度,中に戻った新人の紅一点が再び両開きのドアの一方を開けて,二つセットの箒と塵取りを個々に分けて小まかに掃き掃除を繰り返していた。埃はもう積もったのだろう。気付かないやつらには,気付けないことなのだった。
ちらつく蛍光灯が一本もない室内で,『裏方』諸氏もひと休憩して勤めているのは多分猫と僕だけだろうと思えた。カウンターの内側から見れば長方形のこの部屋に,休憩時間は実はない。そこの扉を閉めるまで新人だって掃き掃除でない職分に励んでいる。訪問者の出迎え,確認,そして案内。単調なそれの繰り返しでも一つも欠けられないその過程にはそれぞれのものの,結末だって始まっているのだ。簡単には答えられない。
置物のように外を向く猫を置いておいて,取り敢えず出来ることをしようと自身の机から文房具のパンチを持ってこようと振り返った時にはもう既に遅かったらしい。机の上に置かれたリストはそこに座る幼い子に,一枚破られて,しかも食べられようとしていた。
「おわっ,待った待った!」
飛び掛かるように手と掴み,ファイルを背後に遠ざけて,泣かさないようにニコニコと指を開いてリストの切れ端を『取り出してから』,双方の安全を確保した。暫く何もせずにニコニコを続けたところで,功を奏した好意の意思は上手く伝わって,ただの笑みが明るく目の前に現れる。それから興味は再びリストに向けられたようで,幼い子はそれを探し始めた。後ろ歩きでリストはカウンターにその切れ端とともに避難させた。
「あんだよ,変な声の原因は?」
猫は特に興味はない事が分かる心持ちを表して聞いてきた。僕はそれに応えずに,カウンターの上から猫を片手で掴み取ってから先の机に『ドン』と置いた。
「なんなんだよ!おい!俺の定位置はあそこって….,」
と僕に抗議を言い切る前に猫は幼い子と目が合った。答えるより早い返答の仕方は多少荒っぽいものになったけれども,真の狙いはそこには無い。机の上の被害が広がる前に,猫には訪問者の遊び相手という重要任務の犠牲になってもらう事にした。すぐに「ぎゃーっ!」とか聞こえるが気にしない。手彫りの猫はそんな事を言わない。
その間に調べなければいけないのは,何が起きてどうなっているかということだ。それはきっと駅内での出来事になっているはずだ。
掃き掃除を続ける新人の紅一点に声をかけて,まず外の様子を窺わせる。新人はそれを受けてから上げた顔を体とともに動かして,辺りの様子を直ちに探る。すると一方向で止まった。今度はそこの方向をじっと見つめて起きている何かを特定し始める。邪魔なものは手早く除けて,距離なんて気にしていない。新人の働きは見た目より激しく止まっていない。
「混線です。」
こちらを向かずに結論だけを言った新人はこちらを向いて,必要な情報だけを付け加えた。
「先の花屋の店主に異変が生じて,胎内の御子息にも影響が出ているようです。そこにいる子は,恐らくその御子息です。時間を先走って,大きく育っているようですが。」
「すまない,了解した。」と僕に言われた新人は,すぐに掃き掃除に戻る。紅一点である彼女の職分はここまでだから後は受け付ける僕がその職分を全うする手順だ。中に戻る前に彼女を見れば,『もう!』と憤るように口を尖らせるように掃き掃除を強めて,玄関口から徐々に離れているのが心配だった。
「ぅおい!助けろよ!」
戻れば幼い子は猫の耳を熱心に齧っていた。手彫りの猫の形状を考えれば,丸みを帯びた全体の中で,ちょこんと飛び出たそこはとても齧りやすいだろう。例えば歯茎が痒い時に,その出っ張りはとても効果的な機能を果たすような気がしていた。だから幼い子の気持ちはよく分かる。狙い通りとは言わないが,思う通りにはなっている。
「てんめぇ,この野郎,やめろ,いてぇ!」
猫がきちんと相手をしている間に机に上から取り上げるように持ち運んだパンチは,無事にカウンターに置いたら僕のしたい事はし終えた。あとはその職分を果たす。それにはまず,机に前から椅子をひいて,それから座って頬杖を尽きながら幼い子を見つめるのだ。
「おいっ!」
と叫び続ける猫の声はこの際かえって助かるものだ。幼い子の関心は確かにこっちに移ってきて,這い這いで近づいて来る程にまで高まった。頬杖をついておらず,机の上にただ乗せた手を伸ばせば,それを掴んで立ち上がろうともする。耳を齧られていた猫がその手から逃れられることは無かったが,その耳は痛みから逃れて涎に塗れるだけになっていた。
離せと言いたげな,というか実際に離せと叫ぶ猫を持って,幼い子はまた笑みを見せた。それにはきちんと笑みで返答をして,その間に猫をその手から取り上げる。嫌がる,とまではいかなくてもそれには抵抗をしたいとばかりに空いた手も掴んで,僕は幼い子をきちんと立たせた。机の上で両足もしっかりと伸ばして,幼い子はその新しい視界に戸惑いと驚きを差別したりすることなく揃えて周りを見ようとしていた。それを支えることを,僕は片手で果たした。それから言ったのは簡単なこと,多くの『人』が遊んだ遊びであった。
「じゃん,けん,ぽん!」
僕が差し出したのは手を開かないグー,彼はそこに開いた手を乗せた。それからそのまま二,三度叩き,乾いて鳴った音に笑顔を見せて消えていった。
「言いてえことは山程ある。けどまずはこれからだ。お前がしたこと,ありゃ何だ。」
濡れた布巾で拭いてあげて,木の湿り具合も乾かした後に猫は手彫りで変わらない表情を随分と憮然とさせて聞いてきた。次いでに机の上の拭き掃除も済ませてから僕は猫に「この布巾を洗ってからでいいだろ?」と答えてあげた。出れば怒りが出そうなほどに,猫は「ふんっ!」と鼻を鳴らして「勝手にしろ!」と怒ってそっぽを向いた。
シンクを叩く水音を小さくして,布巾を擦りながら僕は猫に言った。
「言ってみれば運命の選択だ。あれは。」
「あっ!?」
布巾が吸った水を絞って,一滴も無くしてからカウンターに戻って来て僕は猫にもう一度言った。「格好つけて聞こえるけれど,」と頭に付け加えて。
「あれは運命の選択なんだ。」
「ジャンケンがかよ!」
「そうだ,ジャンケンがだ。」
「おめえ,」
と言って間を置く猫は大分距離を置いて言葉を続けた。思うところがあるとも言いたげだった。
「あんなちっさい子に,そんなことさせたのかよ!」
僕は淡々と答える。
「勿論だ。」
「あんな右も左も分からねぇのにか!」
僕は答える。
「右か左かが分かればいいのか?そうすれば運命の選択をする資格があると?」
猫は言う。
「そうじゃねぇよ!そうじゃなくて,もっとこう,色んな知識ってやつを身に付けて,てめえでなんでも判断出来るようになってからだな,」
「それはいつ頃の話だ?いつになったらそれが出来る?」
「いつって,それはだな,」
「それは,」と言って黙る猫は馬鹿じゃない。時事ネタが好きで文句も多いが,分かることは分かるやつだ。気付くことも,だから多い。気付かないことが無い訳ではないのだ。
「僕がこの職分を全うしてきた限りで,運命の選択をしていない人は一人もいなかった。」
布巾を畳んで,カウンターに置かれる猫の側に置いてから僕はパンチをスペースに置いた。書類を手に取るのはハンカチで拭った手をもう少し乾かしてからだ。
「生まれることも,生まれてから後も,ずっとそう。運命とはそうして向き合うんだ。」
「けっ!」と下手な笑いをその場に施して,猫は僕に言った。
「格好付けやがって,ヒトの癖に。」
「言葉にすればな,実際にしてみればそうでもないんだろ。それにそのことは,最初に言った。」
それを聞いて「ふんっ!」と言った猫は,鼻を鳴らすことはしなかった。それが猫なりの返答だろうと僕には分かる。素直に認めることに素直に出さないやつなのだ。
それから次の訪問者がここに来るまで,書類のファイル整理に追われながら,側にある布巾を所定の位置に戻せと喚く猫の望みを綴じる書類のために丁重にお断りしながら,役目を果たした。訪問者の順番に前後の入れ替えがあって,次にここに来た訪問者は名前に同時に亀を住まわせているかの二人の一人になった。先程の時間の混線の影響で,見た目の年齢が随分と若く,猫は受け答えとのギャップに現実に戻っては夢を見つめていた。
それから夕刻まで,訪問者は途絶えなかった。
一応ここは時間制である。だから引き継ぎの時間もきちんと訪れるのであった。
節約のために点ける箇所を減らしていた蛍光灯の数を『パチッ』と増やしてから,整理したファイルを棚に収めた。それから記したメモ用紙には在庫分として補充すべき数を記してから,デスクライトの光を妨げるようにテープで貼り付ける。幅の長さが合っていないことが一目瞭然のカーテンのように気になって仕方が無い。これで忘れる事はない。
「上がりかよ。」
お客を迎えるためのカウンターの上で,両開きの透明なドアからいつも通りに外を眺めながら,作り物らしく振る舞う猫はどうやらもう夢から醒めて,いつも通りの背中を見せていた。返事をする代わりに手彫りの荒いラインを二本撫でる。「やめろよ!雄といえどもセクハラだぞ!」という気持ちの込もった声が聞けたから,今日も元気にここを去れると思った。
「あとは宜しくな。」
「へっ,言われるまでもねえ。さっさと行け。」
まさに言われるまでも,と思いつつ両開きのドアに向かえばここの紅一点の新人が一方のドアを半開きにして,外から帰って来るところであった。いつの間にか用意していたごみ袋を抱えて,「ふうっ。」と一息ついている。見れば背後には,もう二袋が寒々そうに中に入りたがっていた。
「ご苦労さん。」
と新人に声をかけてから外に出て,その二袋を両手に持ってから中に入れる。うち一つは中々の太さをそこに見せつつ既に折れた枝葉を収容可能な分だけそこに収めていたから,新人が掃き掃除をしに玄関口を旅立って行ったことは間違いなさそうだった。
「どうです,綺麗になりましたよね?」
整え切れない息とともに,喜びで頬を赤くしている新人はここの紅一点で,掃き掃除を始めとしてその職分に励むやつである。彼女が小まめに掃き掃除を始めればそこに見えなくても,埃は確かにあるのだった。なら,ここはもう綺麗だ。気付かないやつには気付かないぐらいに。
僕は靴をそこで鳴らす。
「そうだな。埃はなさそうだ。今ので少し,立ったかもしれないけど。」
「おお,文句言え,文句言え!」
と,囃し立てる猫に新人が笑顔で「明日の楽しみ」と構わずに答えたところで新人に何かを淹れてあげようと思った。何があったかを思い出したところで,温かい飲み物は一種類しかないのを思い出す。自分もそれを一杯飲んでいこうと,考え直して中にまた戻った。
半開きのドアは,きちんと閉めた。
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