practice(20)
二十
金槌であることを利用した歩き方は,いつも意識された。本棚の間をスルスルと泳ぐようにしたい。もと来た道を戻ったり,左右のどちらに向かうかを迷ったりするのはサワラが避けたいところだった。だから受付カウンターから持っていく,返却本の数冊の順番には意味がある。それは澱みなく,気持ち良く図書室内を歩ける分類番号。次のルートの道しるべ。飛び飛びのアルファベットの間を縫うようにして,サワラは歩いてからまた歩く。静かで厚みのある床の感触に,カーペットは緑の色で付いて来る。サワラはそれが嬉しい。
苔の図鑑を置いた。立派な背表紙は触れても頼もしい。押し込めるように入れた力も無駄なく収まって,隣り合った本の列が落ち着いた気がした。この辺の棚は貸し出されることが少ない。だから空気は敏感に変わる。棚の間に設けられたそこのスペースで,サワラはいつも始まりを考えた。きっと最初はこうだったんだという雰囲気。大事なものが大事なものとして扱われたところ。それが図書室なら並んだ本と誰もいない中で,話されるとしたらそれはどんな事で,そしてどう捉えられたりするのか。たった二人の声だけが,教えられる一つのことになって,分かったという言葉になるまで続けられたかもしれないことは分かる。次はこれと,走り回れたことまで体感として残って,たとえ辞書で引かれても,具体的にどういうことかが絵本に混ざってしまっても,読み上げられたりしなかった。それがサワラにもある実感,大切なイメージ。買ったばかりの絵の具の並びに近いとサワラはそれを,表現する。
一冊一冊と軽くなる手元で,棚から棚へと,移動を続けるサワラは窓辺の午前中の明かりを邪魔しないように通る。途中の低い棚で,猫の位置がまたずれていたのを確認したサワラは,それを出掛けていた証と思って両手に抱える本をそこに置かなかった。SF小説は文庫で揃って,著者を異ならせて戻さなければいけないところだから,今は直さない時間を大事に使う。好きなことには十分なスペースより充実した時間を大切にしなければいけないと,小説が好きな化学の元先生は受付カウンターでよく話していた。だから返却期間の遅れはないことと,返却すべき日を伝えながら,元先生はSF小説をいつも借りていった。「SFというジャンルも好き勝手は許されていなくて,世界を成り立たせる諸条件を守ってこその面白さなのだよ。」と雑談に交えていたのは,そのジャンルの本を読んだことがなかったサワラに向けた密かなお薦めであると気付いている。それを読んでいない理由が形になっていない。判断基準が明確に描く弧に,サワラの中の方向性はもう少し遠回りをしたがっているかもしれないという猫の意見はいつも無視出来ない。
すれ違ったらお互いに,譲り合ってすれ違える移動スペースには移動速度を遅々とさせて,そもそも世界を楽しみと興味津々で包んだ博物誌コーナーでは間違って紛れ込んだ哲学書が世界そのものついての問題提起を黙々と続け,世界地図は誰にも居ない所で回る。くるくると,サワラはそこに擬音を付ける。立ち止まって利用者が反対方向に抜けるのを待っている間に,編み物の歴史の様子を本としてじっと眺めていたら,背後から声をかけられた。図書室をよく利用するその子は,地元の新聞に取り上げられる記録を持つ競泳選手である。スイミングスクールにも通っていて,将来を嘱望されている。サワラとは顔見知りで,聞きたがっていたのは借りれるのを待っていたSF小説の返却状況であった。収納されている棚にはもう探しに行って,返却図書を一時的に置いておく可動式の棚にもなかったから,今度はサワラを探していたらしい。その本なら抱えている文庫本の中にあったから,上手いこと引き抜くようにサワラは男の子に言った。目当ての小説の,上に置かれた他の小説を片手で取り上げて,男の子はその小説を手にする。お礼は,戻された他の小説とともに丁寧に言われた。どういたしましてのサワラの返事に,男の子は「泳げるようにはなった?」と聞く。泳がない努力を続けてるのという返事に,「屁理屈は似合わないよ。」と返されたサワラは,男の子に返却日を間違えないようにと念を押した。「分かってる。」は本当に分かっているのか。返却期限を過ぎて本を返す常習犯は,陸の上では元気いっぱいに跳ねている。サワラにはそれが許せる返事になる。
水の中では,思い出せる英語の歌詞が一点を見つめる映画の一コマのように成り立った。親和性が隣り合う。浮力で文字を解こうとしても,パラフレーズで意味は消えない。漂い方は射し込む光でよく見えて,どこの遠くにも行かなかった。指を振ればきっと集まる。順番に,違う歌になる機会がある。そうしなかった理由はそれが好きだったからで,頭の歌い出しに,手を繋いでどこまでも泳げる気持ちがある,子音で踏む韻律を見失いたくなかった。祖母が教えてくれた勇気のように,抱えたままで生きていたい。そこからでも歩けば生きていけることを,母はサワラに教えてくれたはずだ。幻のように抱きしめられた実感を,サワラは一枚ずつの写真で作られた映写機として観ていた。
泳げないことは,サワラの選択の結果だ。
歩くことを本当に決めたときに,向かうべきだったところは本棚の前,机の後ろのある場所。色褪せたように映る二人の笑顔がいつも映り切れていない高さの本棚の前,机の後ろであった。その定位置で写真を撮ることを取り決めたその人には,会うことよりもその場所を見つけたい。初対面はそこで終わると思った。残念ながらその場所は取り壊されていて,初対面は果たせないままに会えなかったその人の,好きな花をサワラは知っていた。一輪挿しが好みということも,サイの置物と同じように窓辺の日差しに向けておくことも,変わらずに知っていた。残されたように,短い時間があったことも。
何も知らないように,サワラが見つけ出したものはある。信じる他にないけれど,信じるに値するとサワラが信じるものだ。たった二人の声で愛されていた。走り回れたら良かったのにと,嬉しいという言葉を声にして発することが出来れば良かったのにと,サワラはそれだけを後悔している。
息を吐いて声にすれば自分だけの返事になる。
文庫コーナーから立ち上がって手にした最後のハードカバーの一冊は翻訳されたばかりの若い外国作家によって書かれたもので,確かそんな一文があったと記憶しているサワラは巻末から捲ってそれを確認してみようと思って,書き込みがある数頁を見つけた。鉛筆で書かれていたからまだ良かったものの,このまま棚に収めるわけにはいかない。返却者には厳重注意をすることは後回しにするとして,取り敢えずはそれらの書き込みを消すために,サワラは受付カウンターに戻ることにした。閲覧者用の机をジグザグに抜けて,背の低い靴箱を二つ,玄関向けに通り過ぎれば,そこから左に曲がれば直ぐにカウンターに置かれた椅子に座った。ペン立ての側で寝転がっていた消しゴムをサワラは手に取る。
走り回る男の子を注意する親の声が聞こえる。
サワラは書き込みを消しながら読んでいた。『息を吐いて声にすれば,それは自分だけの返事だと思える。』。サワラの記憶にあった一文は,近い形で最終章の一頁目の中折部分に吸い込まれるように書かれていて,この本の最も新しい返却者はそこか線を引いて,改めた問いや一文を添えるという作業を,そこから次ページごとに続けていた。気になった箇所だけでなく,必要であると考えて判断した部分も含む,意図的な書き込みなんだとサワラは思った。
「それに対する返信もまた,息を吐いて,声になるか。」
最初に消したばかりで記憶も新しい一番初めの改めた問いを,サワラが思い出して繰り返したところでタイミング良く化学の元先生がサワラに挨拶をして,珍しくシリーズものでなく,一冊で完結する(と元先生から聞いている)SF小説をカウンターに置いた。前の貸出本は図書室を訪れてすぐに返却済みで,これもまた珍しい。そのことをサワラは元先生に言った。
「まあ,単なる気分でもあるんだけれどね,返却に関しては君がここに居なかったから早めに済ましてしまったのもあるかもしれない。与太話をする時間を稼ぐ必要はないかもと思ったからね。あとこの小説はね,何もかもが凍りつくという世界で絶対零度がきちんと守られているんだよ。」
それでまた読もうと思ったのですかと,サワラが聞けば元先生は「それもある。」と言いながら悪戯を楽しむ笑顔と,図書室内の掲示板に貼り出せるような笑みを連れ立ってサワラに聞いた。
「君はSF小説を読んだかな?」
直接に聞いてくるのも珍しい。それもまた気分ですかと,サワラも負けじと柔らかい笑みを浮かべながら一冊もののSF小説の貸出手続をバーコードで済ませた。キーボードで二言,三言といった程度でした打ち込みで,返却日の入力エラーを直してから,サワラは元先生に,正直にまだ読んでいないことを伝えた。申し訳ないです,と堅苦しくならないように付け加えたのはサワラのきちんとした本心だった。
「そうだろうね。」
と,気分を害するどころか意気揚々と笑顔で受け止める元先生は楽しそうにしか見えない。悪戯を仕掛けたがっている意地悪さも減ったりせずに,元先生は「それでいいんだよ。」とサワラに言った。続ける前置きに「これは僕の都合だけれどね,」という言葉を置いた。
「実は君が本当に読んでしまうと,僕が良いSF小説を見極める判断基準をひけらかす機会が失われてしまう。君は確かに賢いから,すぐに自分の基準を見つけて,仕舞い込むだろう。そこが僕としては面白くない。君には永遠のSF素人として,僕の話に耳を傾けて軽く受け止めて欲しいんだ。僕はそれを楽しめる。だからね,君は読まないでいても良いんだよ。」
訂正を終えたサワラは元先生を見上げた。笑みは相変わらず意地悪いまま,優しさが変わった格好で見え隠れしていた。お尻ぺんぺんでもしてやりたくなる。サワラは笑顔を強くして,受け取った挑戦状を自分のものとして突き返す気持ちでSF小説を,正しい返却日とともに元先生にしかと渡した。サワラは元先生に言う。返却日は,きちんと守ってくださいね。
「了解。」という返事に,してやったりの意地悪さが一段と楽しんで元先生は絶えない笑顔を浮かべて玄関に向かった。履き込まれたようにしか見えない革靴をトントンと履き直して,元先生はサワラに合図をして図書室を後にして,サワラはそれを見送った。
訂正は重なるものなんだとサワラは思う。
選択の自由を与えられて,サワラは写真の中のSF小説を探してみる。可能性はあったかもしれないままで,サワラには手が届かない。負けず嫌いをまだ覚えていない時分でサワラは花の名前を調べるために図鑑を取りにいく。サワラの歩みは止まって,そこから始めたいのは変わらない。サワラはそこから振り返る。白衣を着た温もりは本を持つ素振りを見せて,受付カウンターのペン立てから取り出した絵筆を頁に立てて,用いているように動かす。問いは一つ,声に出されて,サワラはそれを覚えている。
「それに対する返信もまた,息を吐いて,声になるか。」
黙々とそこから消していって,最後の頁まで元の通りにしたサワラはこれで良しと思って席を立った。金槌であることを利用した歩き方を意識して,本棚の間をスルスルと行く。翻訳されたハードカバーが収まるべき本棚との位置関係から,SF小説への歩みはちょっと遠回る。それが許された選択だから,息を止めてみて,覗き込む水の向こうで綺麗に泳ぐ形が母子のように寄り添うシーンを思い浮かべる。教えられるアルファベットの一字は,二人っきりの関係では描けていなくて,もう一人,あればいいなと思える空白が光をすべてで青く通した。見つめる側でそれを埋めるように,もう少し深く深く潜ろうにも,行けない。隔たりは柔らかく押し返して来て,水面に出した顔には代わりの水滴が帰るように流れることがあるだけでいい。手を差し伸べれば,形が子供のように反射して水面の上で握手をしているように映るんだよと,浸すぐらいに真横から,カメラを抱えた口元だけで懐かしく感じて仕方が無い笑顔が遠くから大きな声で話しかけてくる。二度,三度とやり直して,サワラは水面に手を触れた。
『OK!』
聞こえたら,形にバイバイをする。その返事は水の向こうで声にならない。
ハードカバーをスッと収めて,サワラは分類番号を確かめる。間違いはない。そこの棚には同じように翻訳された本が並んでいる。その中には色々なジャンルの小説を書いている作家の名前も見つけられる。その中には,サワラがまだ読んだこともないものも勿論ある。意識しているあのジャンルもそこに当然含まれている。科学の元先生に先立って,読んでみるのもいいと思う。そうする自由も許されている。
サワラには,それが嬉しい。
practice(20)