practice(19)
十九
引き取られる前の椅子がとあるところに運ばれる前に,机の前で立ち仕事をしていた僕のお尻に向かって外出したいと言い出した。「どこに?」と聞いたなら場所は決まっていると言う。それはここから遠くはない,椅子を抱えても十分に歩いていける距離にある広場だった。遊具が外周に置かれて,大人がただ寝転んで寛げるようにされているそこにひと気は昼間に多くて,夜半に少ない。見えないものが見えてしまうという噂話に,いるはずのない狼の遠吠えが聞こえて仕方ないという経験談が加わって,人々の足を広場から遠ざけているというが,実際は夜半に一般開放されていないだけであったりする。だから遠ざけられている人の足は,それでも入り込もうとしているつもりであったものだったりする。そこで見聞きされたものは,どこまで信じたらいいのかなんて,考えなくていい。
椅子にはきちんとそこら辺のことを説明したのだけれど,頑として動かない。押しても引いても決意したその位置を変えず,壊そうとする素振りに対しては『とあるところに,どうせ運ばれますから。』と開き直って,どうせなら広い座椅子部分に靴を履いたまま立たれたって構いやしません,と背凭れ部分を正して対面している。その真っ直ぐさが,長時間座るとかえって座り心地が悪く,浅く座るいつもになっていた原因であったことを思い出していた。ゆったりと,たっぷりと座りたいという気持ちも,それに見あった次の椅子と一緒に我が家に迎える運命的な出会いも,この真っ直ぐさがもたらしたものと思うと無下には出来ないものがある。書き物に煮詰まって,もたれる度に聞いていた接合部分の軋みは夢で泳げる小休符と,アイデアで目覚める時間を知らせる現実で,色違いの机に収める時にはもう少し座りたかったと,物足りなく思ったりもしていたのだ。性懲りも無く,それがいつも,あと少しを見失わせはしなかった。慣れ親しみを超える分離,さっきまで書いていた文章に引っ張られて述べるなら,そんなところの,変な気持ちだ。
「分かった。それで,そこで何をするつもりだ?」
それで抱えるように,椅子とともに,忍び込むように夜のそこに行ってもいいと思ったから聞いたのは,勿論椅子の目的だった。近場で済むなら,近場でもいいし,もっと良い方法があるなら机を共にした仲なのだから豊かで実りある議論を座りながら重ねてもいい。しかし椅子の答えは,見かけ通りのその作りより,簡単なものではなかった。
「行けば分かるし,行かないと分かりません。」
疑問はすぐに,追加で聞く。それがルールだ。椅子もそこら辺は十分に承知している。
「お前,そこに行ったことはなかったよな?」
「はい。その通りです。」
「なのに,お前にはそこに『行けば分かるし,行かないと分かりません。』というその目的がきちんと,分かっていると言うのか?」
「はい。その通りです。」
「じゃあ,僕にもそこに行かないでその目的を知ることが可能じゃないか?椅子のお前に出来ることだし。」
「いいえ,それは違います。あなたはそこに行かないと分からない。」
「それは何故だ?」
「さあ,それは分かりません。」
「それは分からない?」
「はい,それは分かりません。」
「でも,目的に関しては,きちんと分かる?」
「はい。その通りです。」
「それは何故,と聞いても….」
椅子は言った。
「椅子には無駄なことです。人に聞いたらどうですか?」
「分からないに決まってる。」
「では,それが理由なのでしょう。何故に対する,何故ならの答え。」
「人であるが故,か?」
「椅子だからこそ,かもしれません。」
「じゃあ,まさにそれは,そこに行かないと分からない,か。」
ここで聞くのはルール通りだ。だから椅子に聞く。
「はい。だから,その通りです。」
時計をもう手に取っている。それを身に付けてから,財布や鍵を取ればいい。後は戸締りを怠らないことだ。
椅子を抱えて夜道を行くのは,傍目を意識すれば心穏やかではない。乱暴に持てば,廃棄処分の道すがらを装えるのだけれども,椅子がそれを許してくれない。「あらぬ事を大声で言いふらすことになります。」と,椅子なりの低音を響かせた音でゴトゴトと言う。椅子に関する面倒など,胸に背凭れを当てて,両手で大事に持ち運ぶぐらいで十分だ。
雨上がりと,それから仕事をし始めた夜のおかげで下がり出した気温のためか,砂利道でも裏道として利便性が高いことからそれなりに人通りのある路に,その人が他に居なかった。取り敢えず助かる気持ちと,いつかは来てすれ違うのでないかという不安な気持ちがない混ぜになりながら,広場へ向けて歩む。水はけが悪く,所々に待ち受ける水溜りぐらいがよく見えない前方で上手く避けられずに浸かった。ズボンの余り気味の裾と,冬に向けて出したばかりのブーツに濡れた後がしっかりと残った。冷たさを感じることはなかったから幸いである。しかし同じことを繰り返してはlいられない。椅子の抱え方は意図的に,乱暴にした。
「いけません。」
椅子が漏らしたその言葉を,こちらが敢えて聞き漏らすことに努めた。
「いけません。とてもいけません。」
よりガタゴトと,『いけないこと』を不安定に揺れて伝えてくる椅子は,抱えることが難しくなってきたためにその発言を受け流すことが難しくなってしまった。何より背凭れがゴンゴンと胸に当たって実に痛い。仕方ないので返事をした。
「前が見えないんだから仕方が無い。我慢しろ。」
椅子は「いやしかし,」ともっと大事なことがあるという読点の使い方をしてから言った。
「座椅子部分に座った,小さな雨蛙が,落っこちてしまいそうで,そして踏まれてしまいそうなんです。」
「なに?」と言って,最初からそうであったように背凭れをぴたりと胸に当て直してから,丁寧に持ち直し椅子が言う座椅子部分を,背凭れの向こうに顎を伸ばしながら,見てみた。不在がありありとそこにあるだけで,一匹と心の中で数えることも上手く出来そうになかった。
「何もいないようにしか見えないが。」
「ええ,何もいません。雨蛙は嘘です。」
椅子が明朗と述べたことで,椅子の投棄をここで果たすべきかとすぐさま思い直して,これまでより実に乱暴な取り扱いを始めたところで,椅子が謝罪と提案を持ちかけて来た。前方の状況は正しく伝える。だから丁寧に持ち運んで欲しいという提案だ。それを聞いても暫く継続した乱暴な振る舞いに,椅子がその材質通りの硬い誓いを見せてきたところで,その提案を快く受け入れた。気が晴れたところがあったことは,とても否定しない。
少しの沈黙,緩まったネジのためにカタコトいう音と,コツコツ歩く足音が重なったり離れたりする。背が高くない草っ原が広がる右手から吹く風に,草の頭と,随分と高い雲は押されるのが常のようだった。
もう一度カタコトいって,椅子は言った。
「もうひとつ,嘘をついて良いですか?」
胸のところで少し持ち直して,答えた。
「道はまだあるし,嘘と分かってる。好きにしろ。」
カタっと返事をして,椅子は言った。
「私は椅子の王国の末裔です。」
「ほう。」
相槌は短い。椅子も気にしない。そういうものだと,知っているから。椅子は続ける。
「最後の一脚です。」
「成る程。」
「本来なら良き作り手を唯一の臣下に抱えて,同じ作りの子孫を残さなければいけません。」
「それは重大だ。なぜそれをしなかった?」
「王国は,滅ぼされてしまったのです。」
「何に,あるいは何によって?」
「作り手に,その手によってです。」
「謀反,か。」
「そうです,謀反です。」
「主たる要因は?」
「種々の要素が絡まって,どれが主たるものと,指摘するのが難しいところですが,強いて言えば作り手としての欲求。飽くなき向上心になるかと。」
「他の椅子を作りたくなったのか?」
「他のモノも作りたくなった,ですね。」
「それで椅子を壊し始めたのか?それは変だな。」
「何故です?何故,そう思われます?」
「他のモノも作りたくなったということは,椅子を作っても構わないはずだ。これは排他的な関係に立たない。椅子を積極的に壊す必要はない。」
「成る程。それは一理ありますね。壊す必要はない。でも,彼らは見事に壊しました。それは確かです。それは何故だと思います?」
「王国が作り手を拘束していたとか。椅子以外,作ることはまかりならん,とか。」
「王国側としては,作り手の一人一人を臣下に抱えても,椅子さえ作ってくれればあとは自由にしていました。」
「じゃあ,憎しみを生むべき理由があったとか。作り手に過酷な労働を強いたか?」
「いいえ。椅子を作るのに必要な労働力は,作り手が考えて注ぐものです。」
「高額な材料費?」
「それは王国側で用意していました。」
「賃金不払いは?」
「作り手との主従関係は,椅子が作り手の腕を見込み,また作り手が椅子の造形に惚れ込むかという,ある種の信頼関係によって成り立つものでした。金銭のやり取りは,入り込む余地がありません。」
「じゃあ,人と椅子の許されない恋路を,王国側が無闇に捻り潰したとか。それが作り手のリーダーに,王国打倒の決心を芽生えさせたとか。」
「あり得ないことじゃないのかもしれないですね。あり得ませんでしたけど。」
少し立ち止まったのは,椅子が教えた前方の複雑な水溜りに対処するためだった。濡れないようにするには『陸地』部分に面積が小さい。ブーツの先は少し浸さなければ,前へ歩めないようだった。
椅子の指示のもと,ちょっとした『陸地』に足先を乗っけて勢いブーツの先を濡らしながら水溜りを結果的に避ける。持ち直して,溜め息を座椅子部分に乗せつつ椅子に言った。
「やっぱ,このままじゃ駄目だな。設定が甘い。帰って書き直しだ。」
「そうですね。肝心なところがとても甘いです。」
うんしょ,っと言わずに力強く片手で,背凭れから椅子を逆さまに担いでから空いた片手をプラプラさせて,慣らした。「それはいけません。」と「言い過ぎではないのです。」を交互に言い続ける椅子は上手いこと固定されて動けない。そのまま広場まで行こうと考えたが,八つ当たりのような格好悪さにかまける心が一つもなかった。今度は「うんしょ。」と声に出して,背凭れから椅子をきちんと持ち直した。椅子は「それでこそ。」と,見直してくれたようだった。
指示を受け,避けてから横目で通り過ぎる水溜りとは別の水溜りに,時々写る椅子は座椅子の裏から写る。緩んだネジの部分もカチカチと鳴って,カタコトという椅子は帰って直そうと思っていた。ネジ回しは工具箱に入っている。それぐらいは十分に上手く出来る。ひっくり返して,するのが恐らく無難だろう。力はそれで綺麗に入る。
椅子は聞いた。
「修正を加えて,一稿はいつ頃になりそうですか?」
きちんと持ち運んで答える。
「そうだな,あと一ヶ月はかかるかな。影響が及ぶ箇所から,語感の部分まで見直して,ってところだから。」
「一ヶ月ですか。」
「一ヶ月だな。」
「聞きたかったです。」
椅子はそう言った。それには「そうか。」と,答えておいた。
「聞きたかったです。」
椅子はもう一度,そう言ってからカタコトといわす事を間に置き,それから「お聞きしたいことが,」と言って続けた。
「何故,第一稿は椅子の上で,宙に向かって読み上げることし続けたのですか?」
そう聞いて,割れた曇りの中から理由を探しながら答えるのには,それ程時間も苦労もかからなかったと思う。理由は思ったより明白だ。
「凭れると悪い座り心地が,一番頭を働かせてくれたから。見直しが良く効くんだよ。」
珍しくカタコトいわず,椅子は持ち運ばれて,一言だけ「成る程。」と言った。それに続けて珍しく言った「グッドラック。」には,付いていた抑揚が下手くそ過ぎて,幸福感が半分くらいに減っていた。「慣れないことはするもんじゃないですね。」と椅子は言ったけれど,「頑張るよ。」とは返しておいた。
「広場はその王国の跡地です。」
椅子は前を向いたまま呟いた。
「そんなこと書いたか?」と確認すれば,「いいえ,嘘です。」と椅子は答えた。
階段を下りて,広場の真ん中,円形の設計の中で生きている背丈の短い草を掻き分けて,椅子を置いた。冷えた外気に玉のような滴らしさを維持しているだろう雨の感触が,椅子の足場を確かめた時に特に分かって,目の奥から冴え渡った気がした。座ることを勧められて,取り敢えず座った椅子は広場の真ん中に近く,雨雲が少なくなった夜の様子を広々と伝えた。
椅子に聞きたいことは聞いた。椅子の答えは難しい。見かけ通りのその作りより,やはり簡単なものではない。後追いの言葉より,座った方がまだマシだ。
椅子がその日,最後に聞いたのは運ばれなければいけない,とあるところについてのことだった。それは何時か,それはどうやってか。詳細に知りたいのは,ただの暇つぶしだろう。椅子はそんなに気にもしていない。
だから冗談めかして言うのだ。
「手元に置いておく気になりましたか?」
冗談じゃない。もう決めたことだ。それを変更しないのがルール,アーチを描いて向こうに去ってく,流れ星にも届かない願いだ。
座り心地の悪い背凭れで,思いっ切り僕はギシッといった。
practice(19)