practice(9)
九
潮風には少しばかり注意をして,海風と一緒に窓際には座らせた。潮風は肌が弱い。長い陽の光に傷付く。
分かってるを意味する潮風の返事は,でも喜ぶ気持ちに納まらずに開けた窓から飛び出した。靴を脱いだことは良しとしたけど,散らかして,片付ける私の手間を全く考えていないことは良くない。それは後できちんと叱ってあげるとして,今は一緒に光が散らばる外を見た。あれが海でしょと言う海風の半質問には,あれが海よと頷き答える。それから色違いの靴を踵から揃えて二つとも後部座席の下に置いた。前方に広がる車内は広い。相変わらずバスに乗る人は少なくて,私の故郷を感じさせてる。降車を知らせるチャイムは鳴らない。
「行ってきなさい。」を伝えて,日向ぼっこが好きなお爺さんは三日間の休みを私のためにくれた。所有している日数は少ないはず,箪笥の整理を細目にしてしまったために見つけた通知に記載されている数値を私は,知ってしまっている。だから何度も断ったのに,その度に,困った目元で奥深く海風と潮風と,そして私に優しく笑むものだからとうとうその申し出を引き受けてしまった。合意は形成されて,私には余暇となり得る三日間が手元に増えた。「きちんと使いなさいね。」とお爺さんは言った。お礼を言うのが難しかった。私の「有難う。」は口にしたら畳に落ちて転がっていった。海風と潮風が,お爺さんに行ってきますと言っていた。
故郷は離れて遠くなる。年月はただ過ぎてはいかない。故郷で『外側』と呼ばれる『内側』に,私が足を踏み入れると言った時に両親は当然に反対し親類は概ね距離を置いた。中には密かに旨みを得ようと,裏ルートめいた方法を教えてくれたり仲介役を買って出る人もいた。けれど私は堂々と故郷を出て『内側』へ行こうと決めていた。手続に必要になっていた,唯一満たしていない両親の同意の要件を満たすために何度でも,何日でも話し合った。物別れのような署名捺印を得て,「誰か誰か」と零す母と執拗に誰かにメールを送り,メールを受け取り続けた父に「私は行きます。」を告げて,私はその日に家を出た。書類と鞄一つの衣服,それと着ているものを除いて,子供サイズの手袋が冬の私の持ち物だった。
『内側』で受けるべきは何よりもまず注射である。それが『内側』に入ってから言われた初めての言葉だった。機械的な監察官は人間的な笑みを浮かべて,それでも命令口調は一度も止めず,私の腕の二箇所に注射を打った。名目上は雑多なウイルス除去で,詳しい実際は知らない。知っている人も知らないのだから,結局誰も何も知らないのかもしれない。綺麗によく喋るコメンテーターはこの話題のニュース(例えば逮捕者が出た等の)に関して新人アナウンサーが触れた後でよくこう言う。
「信じなければ救われない,って私はよく言っているんですがね,周りを見て。君も,気ぃつけなあかんよ?」
乾いた笑いがそれから起こる。同じニュースはそれから流れない。
信じて生きた私の『人』は,信じて生きた私が愛した『人』だった。臓器の一つが人より足りなくて(生来的なものかは分からない),スニーカーが好きな『人』だった。誕生日に贈った復刻版はお気に入りのものとして最後まで履いてた思い出のモデルとなって,私はもう履けない。贈った日,仕事場でした失敗のせいで片足を折ってしまって松葉杖をついてた私に,君を傷付けたプレゼントなんて要らないと二度も真面目に突き返したのは照れ隠しの冗談でもなく,そういう思考の『人』だったからだと知った時に,私は『内側』を強く感じて,その『人』を哀れんだのかもしれない。恋愛としては同情的で,恋としては冷めてたかもしれない。でも始まりより,私たちは私たちとして好きになって愛し合ったし,支え合って生きた。働いて稼いだお金じゃ足りず,少なくない借金をして二人で機関に頼むことを決めた日には二人して泣かないで悲しんだ。偶然の姿見に写った部屋のあの『人』は,悲しみを知ろうと努力しているようにも,覚えたてのそれを持て余しているようにも見えた。交した会話は一つで,互いの名前を頭につけた。そこに用いられている花のことを辞典よりも分かりやすく詳しく,所要時間は三十分だけ。
午前二時四十分。海風と潮風の,生まれた時間になった。
降車チャイムが鳴ると潮風がバスの天井を見上げた。そして緊張した顔で私に向けた。自分が降りたいバス停は次に止まるバス停だということを,バスの運転手さんに知らせたのだと教えた。潮風は直ぐにチャイムを押したそうにして,降りるバス停は僕に教えて欲しいという趣旨のことを私に言った。海風は自分と同じ名が付く目の前の海に夢中になってる。喧嘩の心配もなさそうで,私はいいよと潮風に言った。潮風は喜んだ。その顔が,私には嬉しい。
「次は,○○病院前。○○病院前でございます。」
運転手がそう知らせ,真ん中の降車口近くに座っていたお婆さんは荷物を探る仕草を背中で見せてから,降りる気配を漂わせる。着ている着物の裾も直しているようだった。ここではまだ病院が機能している。席から立つお婆さんの足取りもしっかりとしていた。見つめる私と目があって,会釈をする。私も会釈を返した。止まる気配を減速で感じさせるバスに海風と潮風がはしゃぐ。お婆さんは笑顔で「はしゃぎすぎて,落っこちないようにね。」と声をかけた。海風と潮風はうん,と答えた。「はい,でしょ!」という私の注意は,「構わないわ。」と「じゃあね。」の両方を意味するように手を振るお婆さんに許された。海風と潮風も手を振る。進むバスに,立ち止まって小さくなっていくお婆さんを海風と潮風は後ろを向いてまで見続けて,また開きっぱなしの左側の窓向こうに広がる海を前方に捉えて眺め始めた。ズボンの後ろからはみ出してる,海風の中の肌着を直して私は二人に言う。
「お婆さんになんて言われたっけ?」
聞かれた海風と潮風は二人して,気を付けてねって言われたと言った。
私たちが降りるバス停は,三つ先となった。私が教えて潮風が押した。降車チャイムは同じくピンポンと鳴った。
バス賃は一人分,海風と潮風は運転手さんのご厚意で無料として貰えた。ガソリン代もどうせ同じと運転手さんは真顔で言い,海風と潮風も何故か真顔でありがとうを運転手さんに言った。せめて私は,と思って笑顔で感謝を表した。運転手さんは真顔で「いえいえ。」と,「お気を付けて。」を私たちにマイクで伝えた。
車体に対してバイバイと,手を振った海風と潮風の髪を直してバスが行って開けた二車線の向こうに定食屋はあった。赤い文字が書かれた看板が教えるのは『味屋』という文字と頭の空白,残っていない文字があったという昔だった。一応ある目の前の砂利が敷かれたスペースには走るかもしれない白の軽自動車が一番左手に停まっている。自然に伸びてるままになってる茂みに包まれつつあった。たまたま向こう車線を走るトラックが五台も続いて,無言で渡れない私たちは見えたり消えたりする目の前の定食屋のその景色に対面した。潮風があそこに行くのと私に聞いてきて,「うん,そう。昼ごはんもあそこで食べちゃおうね。」と答えた。海風は過ぎ去るトラックを左から右へと追うのに夢中だった。
比較的小型で最後のトラックが通り過ぎるのを待って渡って,踏んだ砂利に海風と潮風が感触を楽しんでた。それを見て,先に定食屋の様子を窺おうと進むところで,手前の白い軽自動車と茂みに隠されていた赤い自動販売機が現れた。懐かしい人気の炭酸水を販売していたメーカーのものだった。見つけて海風は突撃するように走って行き,届く一番下のボタンをランダムに押した。その速度に必死に追いつくように値段が表示されているから機体として機能しているのが分かった。
「後で買う?」
私の提案に海風と潮風は元気にうんと答える。
定食屋のドアはスライド式で,左から右へと開いた。
外から見て薄暗かった店内は点けている電気が少なかった。スライド式のドアが止まる一番上の角っこに三角めいて作られた台に乗って液晶のテレビは点いていた。音からして『内側』でも放送されている昼の人気番組でクイズがメインのコーナーで,笑い声が聞こえて来ていた。奥に厨房が丸見えの,仕切りのこっち側に三つあるテーブルは左側に二つ,右側に一つあって四脚の椅子を備えているけど一つを除いて誰も座っていない。左側の一番奥のテーブルの,一脚に座って肘を付いている人は白いエプロンを身に付けた男性の人で,テレビに向けた顔の上で目だけ動かし私を認識していた。少し怖い気がした。それは角張った輪郭から発せられる目力だけのせいじゃない気もした。海風と潮風は私のズボンを左右から均等に握ってる。
「あら,いらっしゃい。」
仕切りの向こうのキッチンに,しゃがんでいたらしい女性の人はボールと一緒に立ち上がって私たちに声を掛けてくれた。目の前の「あんた,」に「挨拶。」と短く言って奥へと振り返った女性の人に促されるようにして,男性の人は立ち上がって私たちに無言と挨拶の動作を示してくれた。私も無言で返事を返す。潮風は私の真似をして,海風は私のズボンを握り続けた。
ボールを置いた女性の方はもう一度振り返って戻って来て,さらに仕切りを上げて男性の人の傍に立った。「ごめんね。この人,声が無いもんだから。」と言って私たちを見る。そして女性の人は続けた。
「聞いてるよ。知らせは届いてる。よく来たね。」
私は言った。
「今回はお世話になってしまって,申し訳ありませんでした。」
「構いやしないよ。私は仲介めいたことをしただけさ。」
それでも私は続けて言った。
「いえ,それでも助かりました。有難うございます。」
女性の人は困った笑顔で応えた。
「はいよ,感謝は受け取る。」
席に座るように促した女性の人は海風と潮風の頭を撫でた。「海風君に潮風君,だっけ?」と聞いてくる。「そうです。」と答えた私たちは右側のテーブルに三人で座った。潮風は一人で座る。海風は私の側だった。
女性の人は言う。
「ごめんね,肝心の人物がまだ来てなくてね。まだかかるかもしれないから,昼御飯でも食べときな。あっと,もう食べちまったかい?」
私は「いえ,まだです。」と答えて,ここで食べるつもりだったと言った。女性の人は「任しときな。早速用意するから。」と言い,「食材が限られてるから簡単な野菜炒めになるよ,いいかい?」と聞いたので構わないことを伝えた。大きな笑顔の女性の人は水を三杯真ん中に置いて,「待ってな。」という響きであがったように仕切りをくぐって厨房に入った。男性の人は既に下拵えに取り掛かっていた。
最初の緊張はほぐれてきたとは言え,私たちは話さずに座っていた。海風と潮風の目の前にそれぞれ水を置いて,最後に私の分を取って飲んだ。潮風は私を見ながら水を飲み,海風は店内をきょろきょろ見ていた。
点いたままに店内の音を支配するテレビから綺麗によく喋るコメンテーターの声が聞こえた。取り上げられている問題に対して独壇場のように仕切りに答えている。
「だから言うたでしょ?私は。定型は決まってるんです。それは皆さんに合わせて決定したもので,ほつれがあっては困る,見つけたほつれはすぐにでも直しましょうよって。何ならもう私がやりましょか?綺麗な言葉で,上手に出来ますよ?」
そしてまた乾いた笑いが響いた。海風があの人は何で笑ってるのと聞いてきたが,「ねえ,分からないね。」と私には答えるしかなかった。
「まるで喋り過ぎる彫刻の骨組みだな。」
私たちの右横,出入口からすればさっきまで定食屋の男性が座っていた椅子の前に,いつの間にか立っていたチェック柄のシャツを着たその男性は,重そうに背負っていたリュックを降ろして掛けている眼鏡を直し,それから目の前の椅子に座った。そのままテレビを見続けていた。テレビの中では先程のコメンテーターが綺麗な言葉でまだ喋っている。話題は人気のレジャーランドの素晴らしさと嫌らしさに及んでいる。乾いた笑いの出番はまだのようだった。
「うん,特に頭蓋骨だな。要となっているのは。あれがあって言葉のニュアンスを助けてる。『ある意味を伸ばす』ってやつだな。まあ,出来る信用が置いてけぼりになって,俺は特に信用しないけど。ねえ,そう思わない?」
男性は眼鏡を直して私に聞いてきた。それよりも聞きたいことがある私が答えないでいると,男性はもう一度眼鏡を直して「ねえ,どう思う?」と聞き直してきた。私は答えざるを得なかった。
「私は,よく分かりません。お喋りだなとは,思いますけど。」
男性は言う。
「そこなんだよね。難しいのは。例えば人でもお喋りな人が直ちに信用出来ないわけでない。彫刻についても同じで,的彫刻に対する評価としては活き活きとした生命感という評価でもある。それはとっても構いやしない。でもね,問題がないわけではないのさ。問題ってやつは,そんなところにもあるんだよ。」
私の疑問はとにかく置いてけぼりになりそうだったから,喋らない同意を求めるように私は海風と潮風を見た。海風も潮風も,確かにまた眼鏡を直している男性を見てる。けれど,何処かに出かけたように,海風と潮風の中に疑問は居なかった。男性の『お話』に付き合っている,そういう海風と潮風に見えた。
眼鏡を直し終えて男性は話を続ける。
「存在としての領分,これはとっても大事にしたいし,しなければならないポイントとなっている。というのが僕の先生の教えなんだけど,これには僕も同意してます。踏み超えれば,途端につじつま合わせとしわ寄せに忙しくなります。等間隔に空から種を蒔くことを鳥たちの生態としたり,鏡が無いと泳げない魚の群れを産んだり,あるいは『人』とか。『そうでない』人とか。」
『人』に付いたり外れたりしている鍵かっこを聞き分けることが私には出来る。眼鏡を直さない男性はそれを知ってて言っている。男性は言う。
「彫刻が人間らしく振る舞うなんていけない。そんな彫刻,話をよく聞かない交通標識な案内人より性質(たち)が悪い。彫刻は彫刻らしく『黙って』その美を,その身に称えるべきじゃないかな?」
話している間に男性が見続けたテレビからは綺麗な言葉で喋るコメンテーターが「何でやねん!」と突っ込んで,乾いた笑いが起こって途切れた。それから最初のCMは『内側』で取れる飲料水の良いところをアピールしていた。
側に座っていた海風が袖を引っ張って,この人だあれと私に聞いた。上げた仕切りを超えて,定食屋の女性の人は出来たての野菜炒めを中心とした定食を二人分,まず先にというように私たちのテーブルに運んで来て,男性に声を掛けた。
「来てたんなら言いな。相変わらず透明人間みたいにして。ろくなもんじゃない。」
親しみ深さを感じさせて,私の分を持ってテーブルに戻って来た女性の人は私に言った。
「この人が例の人。あんたを案内してくれる案内人だよ。」
言われて私は,改めて男性を見た。男性は眼鏡を直して手を差し出す。握手し返せば,男性の名前を聞けた。通り道みたいなニュアンスで,一回じゃ覚えられそうにないその名前の終わりに男性は付け加える。
「おメガネさんでいいよ。よくそう呼ばれるし。取り敢えずは,出来たてアツアツでご飯を食べて。その定食,なかなか美味しいと僕は思うよ。」
あいすきゃんで,と潮風が言えばカンカンの語尾を下げて海風が歌ってる。「足下には注意だよ。」と,おメガネさんは私に言うから私は海風と潮風にも言葉で伝えた。間延びして返って来る返事には,緊張感より冒険心が勝っている。
「まあ,仕方ないかな。二人にとって『外部』は初めてなんだろうし,こんな周囲じゃ子供は喜ぶのも無理はないでしょ。」
そう言われて見るその周辺は,花ばかり咲いて虫が翔ぶ。ただ細かく時期を忘れ,ただ大きく時季を無視していた。忘我と表するのが多分正しい。騒々しいというのも間違ってはいない。散った先から芽が出てる。消える先から生まれてる。多分私の名前を作る花も生きている。『その忙しそうな輪廻』は見ているだけで,(あるとすればの)心の襞を摩耗しそうだった。取り戻すため,私はおメガネさんに聞いた。
「あと,どれくらいでしょうか?」
おメガネさんは振り返り,眼鏡を直して答えた。
「あと1kmってところかな。今一番遠くに見えている,でこぼこの椰子の木から左に下ればあと半分ってところだ。中間地点だね,でこぼこのあの椰子の木は。まずはそこまで,ってところだよ。」
「分かりました。」と返事して,海風と潮風が無事に付いて来ているのも確かめてから私はかつての実家に向かって,また歩いた。迷い子を迎えに行くにしては随分と長い真っ直ぐな道のりになってる。
おメガネさんが私の実家に向かうのはこれで二回目だ。周辺調査の帰り道で私のかつての実家を発見した。捜索のために入った屋内から高校の住所録を見つけ,表札から私を探り当てて連絡をくれた。同じような事例は時々あるそうで,その度に関係者への連絡を欠かさない。アカデミーに所属する研究員の内部規約で決まっている訳でもなくて,おメガネさんの個人的意思に基づくことで,だからこうしておメガネさんは私たちの案内人も買って出てくれてる。私たちを案内してくれている。
「ある程度の話を,聞いてもいいかな?」
前を向いて進みながら,おメガネさんは私に聞いた。
「確認みたいなもんなんだ。調べて知ってる君の事の確認。いいかな。」
「はい,構いません。」と,足下に注意して私は言った。おメガネさんは聞く。
「君には名前があるね?花の名前が,付いた名前。」
「はい。」と私は答える。おメガネさんは続けて進んで,そのまま聞いた。
「お姉さんも居た。一人,時間とともに出ていった。」
「はい,でも私が生まれる前の話で,私も両親から『話』としてしか聞いてません。」
「うん,そうだね。」と言って眼鏡を直し,おネガメさんは周囲の動きに気を配っていた。時間はとにかく進んでいる。気を付けなければいけないことも多い。確かに重いものを水底に沈めてその速度をゆっくりと推し量るようにおネガメさんはまた一つの質問を続ける。
「それから両親との三人暮し,君が『内部』に出て行くのは十七歳の時だった。学校は?」
「終わりました。その時に。」
「終わりました,か。修めた意味で?それとも?」
先を行くおネガメさんのリュックは重そうなのに歩みに淀みが生まれてない。慣れているのがついて行く後ろからよく分かる。海風と潮風は変わらず歌ってる遊んでる。長い真っ直ぐに疲れを覚え始めてる,私はおネガメさんの背中に言った。
「修められたはず,という意味です。二年の最終成績はトップでした。」
「それは優秀!素晴らしいね。」
「でも,それは可能性です。」
言って私は足下を見る。海風の歌は聞こえる。チョウチョを見つけたと潮風が言った。視界に居ないおネガメさんは居ないままに,私に言っていることは聞こえた。
「可能性も素晴らしいと形容出来るよ。『内部』の暮らしは六年目,になるんだっけ?それとも七年目?」
私はすぐに答える。数え忘れはなかった。
「来月で七年目です。」
「うん,七年目か。長いとも短いとも言えるね。それで君の『人』は,もう処分を?」
おネガメさんは先へ行く。気づかいはあるんだと私は思った。
「はい,そうです。来たのは通知だけでした。」
「うん,大体がそうらしいね。」
沈黙を敷いて,道のりを整える。おネガメさんは質問を休ませた。海風と潮風は言葉で掛け合って歌ってもいる。私はもう少し話した。
「作業中に監察官に連れて行かれたそうです。身長,体重,性別,年齢,年齢に関しては稼働年数に近いニュアンスで記されて,他の事項にも詳細な記載があって嫌でした。あの『人』を,そんなに細かくして欲しくはなかったから。」
私の呼吸,吸って吐いての繰り返しをそれぞれ五回はした。おネガメさんは眼鏡を一回直す。一回の息を付いた。
「徐々にゆっくり。大まかにも,か。最初の事実は大きいからね。」
おネガメさんは,それで質問を終えた。海風と潮風のことを聞かないのはもう確認すべきことでないからだろう。「楽しいかい?」と聞いて,その無事を確かめている振り返るおネガメさんに少し追いついて,また歩き始めたおネガメさんの後ろを私はついていく。そのまま私はおネガメさんに聞いた。
「『内部』のことは聞かないのですね。研究者はそういうこと,研究の一環として知りたがると思いますけど。」
「うん。」と言ってリュックを直し,半端な振り返りと横顔をおネガメさんは見せた。袖口をいじり,直したような仕草を終えてからおネガメさんは私に答えた。中間地点の樫の木はおネガメさんの鼻筋に沿って,頭の向こうに生えているような構図となっていた。
「『内部』のことは人,あるいは『人』によって違うでしょ。だから見てから知る。僕は自分で知りに行くよ。」
「だから我慢してるんだ。」と,おネガメさんは言って進んだ。イジワルなカメムシには気を付けて,と潮風は注意を呼びかけた。私は一度振り返り,海風と潮風は私を見て笑った。
到着した中間地点の樫の木には三個の蕾と傘がかけられていた。傘は以前来た時に,怠けたおネガメさんが置いて行った荷物だった。「今回は持ち帰るよ。」とおネガメさんは何故か潮風を見て言っていた。
歩かずに,そのまま左を見ればそこからは奥行きが続きそうな下り坂が伸びていく。茂みは深さを増して,そこでも何かが枯れて何かが生えているのが気配で分かる。明かりを漏らして,低い雲は動いて繋がっている。半端に感じるその位置に,記憶の中ではあったはずの塀を置いてけぼりにしてきているのに玄関からして,かつての私の実家が見えてた。
靴は揃えて,脱いで上がった。潮風はそれに従って海風はバタバタと上がったから一言叱った。おネガメさんは一番最後にゆっくりと,頑丈そうな登山靴の靴紐を座って解いていた。
室内の雰囲気は温かく,換気扇の回転で空気は流れてひっそりと活きていた。抜かりない掃除が施されているのが分かるのは母から教えつけられた掃除のチェック項目を,目で勝手に追っていたからだ。玄関の角,廊下の隅,進んで右手にある和室の襖の敷居,それと障子の裏側。左手のリビングのテーブルの反射で浮き彫りになる手垢などの汚れや,床下の埃,使われている食器の欠け具合。挙げれば切りが無い項目には最初からいちゃもんを付けられそうに無かった。コップに入っている珈琲は湯気を立たせてブラックで飲む父の好みが半分残ってる。
「これは僕がここを立ち去ってからまた時間に乗って,また繋がったばかりなのかもしれないね。前に来た時と全く一緒だしね。」
おネガメさんは私の後ろからついて来てそう言った。繋がったばかりの家に,しかし父も母も不在だった。
「だとすると時間はそんなに取れないかもしれない。安定していないから念のため,長居するのは避けようか。でも,それまでなら居てもいいよ。ここは君の家だから。」
長居するまでの間に過ごす家。カップとセットでテーブルの置かれたままの一枚の白紙を私は見た。よく見ると下書きを消した跡がある。筆跡が強い父の癖を小学生以来に私は見た。モバイル機器に慣れ親しんでメールばかり打ってた父なのに,どこの誰に何を書こうとしていたのか。
「君宛じゃない?」
同じく白紙を見ていたおネガメさんは私に言った。「それは無いです。」と私は答える。
「父にも母にも私は連絡先を教えていませんし,何より『外』から『内部』に手紙なんて届きません。」
「それもそうだ。 」とおネガメさんは言って,私をおいて台所へと歩いていった。海風と潮風は和室の押入れを開け閉めしているはずで,海風がはしゃぐ声は聞こえていた。私は父の筆跡を追おうと目を凝らした。「お元気ですか。」と読めそうな冒頭ばかりを見直そうと頑張ったりした。
玄関から一番奥にあるはずの私の部屋には台所を通るのが早いと,私が入った台所ではおメガネさんはが冷蔵庫の中身を点検していた。「食べていいですよ,っていいましょうか?」と私が訪ねたら,おメガネさんは冷静に断った。「勿体無いとは思うけどね。ただ見てるだけだよ。」と言ってズレてもいなかった眼鏡を直したから,実は何かを狙っているのでないかと穿った私は前へ進んだ。
有った扉は閉められて,ノブを回しても開かなかった。閉められるその鍵は内側からじゃないと掛けられない。中に誰か居るとも思えないから,意味深で私はそれ以上そこに関わるのを辞めた。
トイレに行きたがった海風が和室から目の前に現れて,次いで潮風にトイレを済ませるように声を掛けながら変わり様がないその場所を教えて,もう一人で出来る様子を見てから私はリビングに戻った。おネガメさんはテレビを付けようとして,成功していなかった。「主電源は入ってるのに点かないんだよね。リモコンの電池切れでもなさそうだし,そもそも点かないからアンテナの問題も検討できないし,」
と言って,「うーん。」と唸ってた。私は何も言わずに,庭に目を向けロックを外したドアを開けた。
塀はやっぱり無くて,そこでもただ細かく時期は忘れられ,ただ大きく時季を無視されていた。トンボはふっと庭に入って来て,静止してから高く居なくなった。私が居た頃からあったか分からない低木の根下からは散った先から芽が出てる。そして消える先から生まれてた。
物干し竿に掛かって揺れる洗濯物は少なかった。変わっていないのであれば,それは母の二回目以降の洗濯終わりの光景で,夕方には取り込まれる。手伝ったこともあったのだ。テレビを余所見したりして,乾いて良い匂いの洗濯物が頭から被さる。「うわっ」と言えば,父は笑った。母は笑って叱りつつ,手を動かすように私に言う。畳む順番は変わるのだ。まずは頭に掛かったそれから,それで次に目の前の物に。
おわったことを潮風が伝え,海風と一緒にリビングに入って来て,海風はおネガメさんからリモコンを受け取り一所懸命にテレビに命を吹き込もうと頑張り,潮風は側で私と一緒に庭を眺める。手伝うかどうかを聞く潮風はいつものように私に気を使う。「大丈夫,いいの。」と答えて,潮風に「ありがとね。」と言っても潮風は本当にいいのと念を押す。「何か気になる?」と聞けば,潮風は干されている毛布を気にしていた。あれがないと寝れないからと,潮風は心配をしていた。
「いいの。」と答えるその前に眺めた毛布は大人用と言うには小さかった。でも海風に掛けても潮風に掛けてもそれは大きい。一般的な子供サイズ。そう言うのが正しいんだ。
テレビは点かず,でも戸締りはして私たちは家を出た。海風と潮風から紐なしのスニーカーをそれぞれ履かせて,おネガメさんが時間を掛けてゆっくりと登山靴をしっかりと履いてから,残った私が最後に靴を履いた。買ってから随分と経つけれど歩き易くてまだまだ履ける。白が基調で,黄色の指し色が気に入っていた。
下駄箱は簡素で飾りっ気が無い。それも母の趣味。
玄関前で,空を含めた周囲の様子を窺っていたおメガネさんに私は質問した。
「高校の住所録ってどこにあったんですか?私の部屋は鍵が掛かって開かなかったんですが。」
おネガメさんは私を見ないで答えた。
「リビングのテーブル上だよ。そこに開かれて,置いてあったんだ。」
それから私を見たおネガメさんは眼鏡を直さなかった。おネガメさんはそのまま続ける。
「それはちょうど君のクラスだった。確かに君の部屋らしきあの部屋は開かなかったね。それは僕の時も同じだ。ただ,和室の押入れから女性もの下着とか出て来たし,内装の雰囲気や使われていた食器の趣味からいってもそれ相応の年配の人が住んでいるのは分かる。その方がそれを履いているとは,まず思えなかった。だから娘さんあたりがこの住所録に載っている。そう推測してこれ(と言って玄関に掛かった表式を指差してから,)と照らし合わせてアタリを付け,このように行動をしたわけさ。」
和室は事情は気になって私は黙った。確実に知る術は無いから,私はとにかく思うしかなかった。実現されていない可能性,私の中で生じて,私のものとして生きているそれ。
「おーい,海風君。あんまりそれに触るなよ。危ないぞ。」
おネガメさんのその注意に私も促されて,見た海風は芽を出してから散り,消えてから生まれてる茂みに顔を突っ込んでた。その速いサイクルに飲まれそうで,私は思わず「海風!」と大声で怒鳴って駆け寄った。はみ出してるお尻からズボンを引っ張って,海風の顔をすぐに確認した。あの『人』にも似ていない,驚いてる海風だった。
「馬鹿!」
そう怒って,固まった泣き顔になろうとする海風の手から,潮風は半ば拾うようにその紙を受け取った。私はそれを眺めても取れず,ゆっくりと歩いて来たおメガネさんが代わりとして手に取り見ていた。
「素晴らしい可能性だね。」
そう言っておネガメさんは海風と同じ箇所に顔を突っ込んで,消えて生まれてる茂みを大きく掻き分ける。崩れた塀の一部には郵便受けが付いていて,渡された紙は手紙の一枚だった。宛先はかつての私の実家,送り元を私たちの住んでたところとする。あの『人』の文字は変わず機械的,自分の名前と私の名前が並ぶ。三十分はかかった,そこに用いられている花の名前。
「うん,可能性は素晴らしい。」
おネガメさんはもう一度そう言った。
ただ細かく時期は忘れられ,ただ大きく時季を無視されていた。
海岸線に沿って,二車線と並んで通る狭い道路を定食屋に向かって歩く。潮風はおネガメさんから貰った石を受け取って,「これは何石で,滑らかで脆いんだけど不思議な性質がある,それは…」と長くなりそうな説明を受けている。海風は,後ろを歩く私の側でお爺さんに送るメッセージを私と考えていた。海風が元気と寂しいを初めに聞いてと私にお願いして,私は私たちが元気なことを次に伝えることにした。充電が一つ減って,私の機器は表示パネルを明るく灯す。右手にある海側の空の色が難しくて,何色と聞く海風の質問に上手く答えられない。「橙だし,青だし紫。」と言っても首を傾げる海風は納得してくれない。私たちはまだ歩いて,私たちはまた質問し合わなければならない。
手紙となった一枚の紙は私のポッケに入ってる。それは後ろのポッケじゃなくて,胸でもない,大事な場所になっている。送信ボタンは,それから押した。
practice(9)