practice(8)
八
広大な草原の一店舗でバーカウンターに片脚も掛けられない青年期にあるキリンはジンジャエールを苦そうに飲んだ。それでも冷たく刺激する長い喉越しで暑さから一時的に逃れられる,そう納得して目を落とすように本を読み進めている。その背表紙には『素晴らしき○○』というタイトルが光を照り返す金の文字で打たれて,バーカウンターの中でアイスピックを上手に用いて塊を丸い氷にし直すバーテンダーである人を気にさせて危なかった。バーテンダーである人はジンジャエールの瓶とグラスの失われそうな関係に気付いたのをこれ幸いとして新たなジンジャエールを差し出しながら,青年期にあるキリンに質問した。
「『素晴らしき○○』の『○○』は,一体何と書かれているのですか?」
注文をしていないジンジャエールに戸惑いながらも,青年期にあるキリンは答えた。
「人語で言うと『世界』,もしくは『人生』というところになるかと思います。」
バーテンダーである人は「ほお。」という表情を眉で作った。それに続けて静かに言う。
「『世界』,もしくは『人生』ですか。『○○』にはどちらとも取れる意味があるのですね,人語で言えば。」
「はい,そうですね。人語で言えば。」
バーテンダーである人は汚れてはいないはずの手元の箇所を一番近くの真新しい布巾で丸く拭いた。木製カウンターに使われている材料をとても思う手付きに見えた。
バーテンダーである人は言う。
「『世界』は明確な外部,『人生』は厄介な主観。と簡単に捉えがちですが『世界』も主観で認識しているもので,『人生』も記述可能な他人事なのかもしれませんね。いや,勉強になります。」
そう言ったバーテンダーである人は「ジンジャエールの代金は要らないですから,お客様。」と付け加えて,アイスピックで再び塊を丸い氷にし直し始めた。青年期にあるキリンはバーテンダーである人が言ったことの意味を理解出来なかったけれど,その技術の上手さは分かる。青年期にあるキリンはその好意に甘えることにした。鳥類である彼女との約束はライトアップされた街路樹が揺れて影かかる午後の11時,あと50分後約に果たされる約束だ。目を落として読み進める『素晴らしき○○』は序盤の冗長な退屈さを超えて二つ目の盛り上がりを見せ,頁を捲る前足は心持ち少し早い。先を読み進めたい気持ちと勿体ぶる蹄で妙なうねりを産んでいる。
ただまだまだ読んでみたいと青年期にあるキリンは思う。
「夕立ちになるそうよ?」
隣の席のとなり,設置された真下のポイントだけを照らす忠実なライトが届かない暗闇な左側から声は青年期にあるキリンに話しかけてきた。マダラ模様の右腕だけを辛うじて見せる。言葉遣いや声色からして女性なそれは,ヒョウか何かで,メスなのかもしれなかった。
「夕立ち,ですか?」
「ええ,そう。夕立ち。」
青年期らしい成長途上の逞しい首を左右に動かしてキリンは夜を確認した。高い位置から見通しが良いサバンナは煌々なライトよりも月は大人しい。生まれて,生来の夜行性に従って仕事に出掛ける影が地平と等価に見えて動いていく。空を領分とする雲はあっても少し浮いてるだけ,約束の時間までは49分となっている。
問い返しを声にして,青年期にあるキリンは言う。
「夕立ちの要素は見当たりませんが,でも,ですか?」
クスッと鼻を鳴らし,「そうね。」と返すその声は相手の勘違いに気付いてから,自分の足りなさにまで及ぶような明るさで,青年期にあるキリンは底にも嫌味は感じなかった。間違えてを口にするよりわだかまりもない。
「夕立ちは明日よ。明日の夕立ち。」
「ああ,明日の天気の。」
「ええ,そうよ。明日の天気。別に悪いことではないでしょ?明日の天気予報を今夜のうちに話題にしても。」
青年期にあるキリンは栞を見つけて挟んだ。
「はい,悪いことではないですね。後からする予報の話は有り難みがありません。」
そして青年期にあるキリンは声に向かって言った。
「そして僕には為になりました。事前に知って良かった。感謝します。」
「いいえ。でも,それは良かったわ。」
言葉で互いの同意を形にした声は相変わらず女性らしく,照らされるライトの側に近付いてきた口元で明快な笑顔を見せて,そのままにまた暗がりに消えた。幕間におけるアドリブみたいだった。
マダラ模様の右腕で彼女は言う。
「明日の夕方に何か,例えば大事な用でもあるの?」
青年期にあるキリンは言う。
「はい,首の検診があるんです。夕方から陽が沈むまでの間にその開催場所に赴いて検診の申し出から受理,実際に検診を受けるまでの一連の手続きを済ませなければいけないものです。青年期にあるキリンといえば当然,僕一人というわけでもないからそれはそれは並びんで時間がかかります。検診がその日で済めば幸運と言えます。」
「ふーん,キリンって首の検診とかしてるのね。それは定期的に?」
「いえ,不定期です。検診を受けたくなったキリンが検診をしてもいいという有資格者のキリンに申し出てから行われる,あくまで個人間のやり取りです。キリンによって構成されるキリンの公的機関に報告する必要などはありません。」
「動機はそれぞれによる,ということね。それは。」
マダラ模様の右腕が動いて,手の平から消えてゆき,綺麗に曲げられた二の腕だけで彼女は質問を重ねた。
青年期にあるキリンは端的に答える。
「はい,そうです。それぞれに異なります。」
「それは勿論,貴方も同じということで?」
彼女の質問の意味を咀嚼するように青年期にあるキリンは続けて答える。
「はい,動機としてそれぞれに異なっている,という点で同じものとして僕も違います。違う動機を有している。」
マダラ模様の右腕が動く。手の平から消えてゆき,綺麗に曲げられた二の腕だけで彼女は質問を重ねる。
「その動機って,聞いてもいいもの?ダメなもの?」
「問題は,思いつく限りではありません。だから聞いてもらって構わないと思います。」
そう言って青年期にあるキリンは一度だけ首を左右に振った。拒否の意味もなく確認した軽い調子は特に異常を伝えない。青年期にあるキリンは言う。
「長さは知らなくても特に不便は感じません。高低がある様々な環境には目線の高さとぶつかりそうな気配をもって首を上げたり,下げたり曲げたりして対応出来ます。測って知っておかなければいけないのは首の太さの方なんです。」
「その首回り?」
マダラ模様の右腕から再び伸びて,姿を見せてくれた右手の人差し指が青年期にあるキリンに向けられる。質問と合わせれば首回りを指しているはずだ。自らの首の左側を左手で全面的にざらっと撫でてからキリンは言う。
「この首回りは何かと知っておく必要があるんです。特に僕に関しては。」
「誰かを殴打するのに必要とか?」
指を収め,拳を作った右手がフックの起動を描いてマダラ模様の右腕と一緒に暗がりに消えて戻って来る。彼女は一回,暗がりで誰か(ないし何か)を殴った。青年期にあるキリンは首を振って言う。
「僕たちキリンは首をしなやかに振って,相手を痛い目に遭わせることが確かにあります。けれど,それはキリン一般の生態的な話です。特に僕に関して,必須のこととは言えません。」
聞いて,熱いものでも触ったように手首から暗がりに隠れた彼女は言う。
「あら,これは失礼。一応冗談のつもりだったんだけど。」
青年期にあるキリンは言う。
「いえ,気に障ったわけじゃありません。僕もただ否定をしただけです。」
暗がりから彼女も言う。
「ただの否定ね。分かったわ。でも気をつける。からかいもしないわ。だから,続きを聞かせて?」
マダラ模様の右腕を体へと繋げる肩が見えて,右手が青年期にあるキリンに向けば右半分の衣装を着こなす身体と彼女の輪郭が見えた。黒のワンピースをタイトに着こなしている。柔軟に伸びて見える彼女の右半分の首はやはりマダラ模様だった。ヒョウか,あるいは。
まだ判断をしない,青年期にあるキリンは続けた。
「バイトとして,僕はYシャツのモデルをしています。新商品のカタログや専ら背広関係を取り扱う雑誌の片隅を飾るモデルです。Yシャツを着こなしポージングをする。何ものも汚さない笑みを浮かべる,あるいは抜かりなんてない真摯さで格好をつける。最近では通りすがりのナチュラル,なんていうシチュエーションも要求されますが,何とか上手くやっています。これで良いのかという疑問は常に残りますが,服を良く見せることだけは出来ているのでないかと思います。」
これに彼女は声を出さない。先を促し,待っている沈黙。青年期にあるキリンは続ける。
「Yシャツは第一ボタンまで締めて格好がつく服です。そこがカジュアルなシャツより強く要求されます。なので首回りは大事です。ピッタリすぎては駄目で,ぶかぶかでも良くない。ジャストフィットを求めなくてはいけない。Yシャツにおける首回り事情です。」
「あら,意外に普通の理由なのね。その現場じゃいちいち貴方の首回りと合うシャツを,貴方に着せて脱がして探し当てるなんてことしてるの?メジャーでシュルシュルっと,測るなんていことはしないの?」
青年期にあるキリンは身体の中心にある首を動かし振ってから直ぐに答える。その間違いは訂正しなければ話が見えなくなる。
「いえ,寸法の話ではないんです。だから僕は自分の首回りを数値で知っているし,バイトの現場ではそれに合わせて用意された衣装を着ます。ですから測ってもらうための検診ではありません。僕の首回りの検診は。」
肩を竦めて,右半分の首をさらに右に傾けた彼女は「分かってはいたけど念のためとしてね,言ってみただけ。」と言ってから,見えている右を元の位置に戻して話の先を促す。短い毛並みが楽しげに動いて見えた。
青年期にあるキリンは話を続ける。
「首回りの太さが変わるようなんです,僕は。ジャストサイズの数値のYシャツであっても締められない日もあれば,かえって緩すぎる日がある。太さが変わるわけですからジャストフィットの日もあるのですが,それは通り過ぎるのが当たり前のPAのようにあっという間にすぎていく。大体が合わない日です。だから今日着ているこのシャツも首回りは合っていません。カジュアルなので,締めなくて構わないから助かってはいますが。」
「合ってないんだ,そのシャツとも。」
彼女は聞く。
「はい,合ってません。」
青年期にあるキリンは答える。
「ちなみに,」
と前置きをした彼女はそのままに微動だにせずに「太くてあってないの?それとも反対の緩々で?」と言った。青年期にあるキリンは「このシャツとは太くて合っていない。」と再び答えた。
「それじゃ,バイトは何時首になっても可笑しくないわね。冗談でもなく,実現されそうな事実として。」
彼女の確認に間違いはなく,青年期にあるキリンは氷が溶けて,飲んでも苦味も無くなったジンジャエールを一口で飲んだ。あの長い喉越しも,尖ったところが随分と失われている。
「うん,それは心配ね。そのバイトを続けられるかどうか,そのことをそこら辺のムーの群れのど真ん中に置いて放ったらかしにするとしても,貴方に起きている無自覚な身体的変化として。だから診てもらうというわけね。キリンの首の検診にて,提出不要の私事(わたくしごと)として。」
青年期にあるキリンは今度は首元をさすって「はい。」と言った。命に関わる危険な予兆もなく,実際の体調不かのシグナルもないこの変化は取り扱いに困るもので安心も不安も抱けない。ただの観察とただの確認を続けて,以下の行に感想を連れて書くことが出来ない。天気予報の方が感情豊かになれる。明日の夕立ちを気にして,青年期にあるキリンは現に愉快な気持ちにはなれていない。
夕立ちを教えてくれた彼女はバーテンダーである人に顔を向けたようで,応じたバーテンダーである人はにこやかに「かしこまりました。」と言って準備に取り掛かる。聞こえた注文はモスコミュールであった。
「単純かしら?」
暗がりから彼女は聞く。声のトーンと聞こえてくる向きからして話し掛けられたのは自分と判断して,青年期にあるキリンは聞き返す。
「何がですか?」
彼女は言う。
「注文のこと。『モスコミュール』。」
「いえ,単純だとは思いませんが,単純な注文なのですか?」
青年期にあるキリンは飲酒が出来ないから質問をした。暗がりに居る彼女はライトの下のカウンターを指で三度叩いてから答える。
「ううん,私は思わない。だけど,以前付き合ってた人であった彼氏が妙にそういうところを気にする人だったの。注文を要する一つ一つのことに『みんなと作った等級』があるらしくて,付き合う人にはその上級のものを頼むように要求するの。それも仕切りに,しつこく,例外なく。その上で意に沿わなかったらこう言うの。『君は単純だね。』って。言われたこっちは嫌な気持ちになったものよ。まるで失格のペケ印を付けられてる気分だったわ。まあ,最後の時に思いっきり胴体を主に引っ掻いて今生の別れにしてやったけど。」
青年期にあるキリンもバーテンダーである人も黙ってしまった店内のメッセージは,どうやら無事に暗がりに居る彼女に届いた。彼女は無事を確かめるように言う。
「ちょっと,本気に取らないでよね。主に事実を素にしてはいるけど,あくまで冗談よ。冗談。彼だった人は生きてはいるのよ。こんな冗談なら,ここで言っても二人の問題になったりはしないでしょ?」
見えていれば彼女はウインクでもしてるのかもしれない。そう思いつつ青年期にあるキリンは笑顔で言った。
「はい,問題にはなりません。」
バーテンダーである人が用意した,新たなカクテルグラスのモスコミュールを受け取って彼女は「ありがと。」と言った。一口飲んでいても良いその間は青年期にあるキリンを不思議と安心させる。彼もまた新たにジンジャエールを注文した。
『カタン』と,グラスを置いたであろう彼女は「美味しい。」とバーテンダーである人に声を掛け,「そうだ!」と思い付いたことを青年期にあるキリンに聞こえないように伝え始めた。暗がりに居る彼女にバーテンダーである人は顔から近付いている。青年期のキリンからして,彼女は左側のライトの下で減った。肘と,辛うじてワンピースの腰あたりが感じられるように見えている。
離れて,彼女はマダラ模様の右腕から現れてから仕掛けるように青年期のキリンに話し掛けた。
「ねえ,ちょっとした質疑応答をしてみない?」
「質疑応答ですか?」
「そう,質疑応答。私が質問者で,貴方が解答者。ねえ,どう?してみない?」
そこに何かがあることを予想しながら青年期にあるキリンは彼女の側を見た。同じカウンターの席であって彼女は暗がりに無防備で,青年期にあるキリンは明るさに包まれていた。ひどく対照的,でも何かが損なわれたり奪われたりはしていない。本は青年期にあるキリンが占有もしている。『素晴らしい○○』とタイトルは打たれている。
青年期にあるキリンは彼女の仕掛けに無防備で応じることにした。部分部分を照らすライトの下で彼女の質問に「答えます。」と,暗がりに向かって言った。彼女は短く「よし!」と答えて説明を始めた。
「質問って言っても簡単なもの。知識とか問わないわ。使うのは想像力。男としての貴方の想像力よ。いい?」
青年期にあるキリンは「はい。」と答える。
「私はちょうどライトとライトの間の席に座ってる。だから貴方側から私は見えない。そうよね?」
青年期にあるキリンは,これには首の長い頷きで答えた。大事な点であったように「うん。」と声で頷きを表現してから,彼女は続ける。
「右腕ぐらいかしら?貴方側から見えて分かる私の特徴は。マダラ模様の右腕,あと右肩から知れる黒のワンピース。どう?」
「それと,一度だけ口もとも。」と答えた青年期のキリンに主に暗がりに居る彼女は「あら,そう?」と応じつつ「まあ,いっか。」と納得をしたようだった。その上で彼女は綺麗にマダラ模様の右腕だけをライト下に残して青年期にあるキリンに言った。
「この右腕を『使って』,私が指定する箇所がどうなっているか想像してから私に答えて?できる限り具体的にね。」
そう言って暗がりに居る彼女は青年期にあるキリンの返事を待った。
聞いた青年期にあるキリンは戸惑った。想像する箇所も相手に指定されるということは,想像を避ける箇所を避けられないことになる。ある意味で質問はここから試されているように青年期にあるキリンには思えた。暗がりはちらっと見ても暗がりだ。そして彼女は何も言っていない。先日自宅を訪れた同級のトラがいうには穴には入る方が良いらしい。同期だった青年期にあるキリンはトラを信じ,彼女に「分かりました。」を伝えた。
「よし。」と言っても可笑しくない間を置いて,「では,」と言って彼女は質問を始めた。
最初の質問はこうだった。
「私に尻尾はある?あるとしたら,それはどんなもの?」
青年期にあるキリンは質問を繰り返してその想像を始める。始まりはライトの下の,マダラ模様の右腕だ。体表から考えていっても尻尾はそうではない可能性を排除はできないけれど,これはあくまで想像,生物学的な正解は要らない。これまでの彼女の感触で,これから『彼女』というものを答えればいい。青年期にあるキリンは想像する。もう既に彼女はヒョウか何かだと思ってはいた。そうではないと,否定するには今までの受け答えからして感じられる彼女が有する意思は強い。一体性が無い彼女の体表は想像出来ない。青年期にあるキリンには彼女の尻尾が同じマダラ模様,その右腕ともう異なっていない。
主に暗がりに居る彼女に答える。
「尻尾はあります。右腕と同じ,マダラ模様です。」
彼女は暗がりからすぐに聞いた。
「動いてる?」
『動いている。 』。繰り返して,青年期にあるキリンもすぐに答える。
「動いてます。主に縦の動き,時々に横の動きを取っています。」
「その基準みたいなのは,分かると思う?分かるとしたらそれはどんなもの?」
『その基準』。青年期にあるキリンは答えを続ける。
「分かると思います。基準は,やっぱり快不快。縦が快楽で横が不快です。彼であった人のことを話している時は横に揺れていた。」
彼女は聞く。
「縦に動ぐときは?例えば,ここに座っている時に,私の尻尾は縦に動いてた?」
『縦の動き。』。青年期のキリンは想像する。
「あったと思います,貴女の尻尾の縦の動きは。例えば,モスコミュール。」
「モスコミュール?」
「はい,モスコミュール。」
「それだけ?それで,いい?」
青年期にあるキリンは答える。
「はい,それでいいです。」
主に暗がりに居る彼女はそこの暗がりで,青年期にあるキリンの答えた想像を検分しているような沈黙を置いて,「では,」と言って質問をする。二つ目の質問は彼女の関節についてだった。
「じゃあ次は私の関節,触れる箇所は自由でいいよ。出来ればその動きも表現して?」
自由に触れる,彼女の関節の動きの表現。動く彼女に合わせて暗がりに消えるマダラ模様の彼女の右腕と右手。こちらを向いた彼女,バーカウンターに肘からもたれて,バーテンダーである人と話している。辛うじて見えるのは腰あたり,そしてまた一度のマダラ模様の右腕。
青年期にあるキリンは想像で答える。
「丸い感触,柔い感触です。淀みがなくて,無理がない。前にかかった体重も支えて,横から見れば綺麗だと思います。」
「ふーん,」と言って暗がりの質問者である彼女は,答えられていないシンプルな質問を再度する。
「それで,それはどこの関節のこと?」
青年期にあるキリンは無防備に答えた。
「右肘と,股関節だと思います。」
少しの間,沈黙となって,彼女の真意は隠れて見えない。彼女の質問は先に進む。三つ目の質問は三つからなって,最後の質問だった。
「私の目はどんな目?それも額との関係において。それともう一つ,特別な時に見る私の目はどちらの目になると思う?」
口もとを除き,暗がりに居る彼女の顔を見ていない青年期にあるキリンはマダラ模様の彼女の右腕から動く尻尾に揺られ,主に右側の関節の動きも借りて機能的にその内側から彼女を見る。これもまた想像だ。先にある視線は声と共に感じられた青年期にあるキリンにはそこにある形がはっきりとして鋭い。切れ長の目に睫毛は短くても,小粒な黒目がバランスを取っている。傾斜する狭い額との距離感も悪くない。額を突き合わせることになっても視線が外れたりはしないだろう。青年期にあるキリンの利き目の左目に対面するのは,必ず彼女の右目となっている。
「外すと二度と見れない。その印象は,そういうものになると思います。」
思うままに,想像したことを話した青年期にあるキリンはグラスと本の間に意識を置く。左側の暗がりは,それから見た。そこに居る彼女はマダラ模様の右腕で,こちらを向く右半身で変わりはない。質問もそれ以上にされなかった。彼女はあまり動かない。
「うん。」
彼女は短くそう言って,「ありがと。ご協力に感謝するわ。」を添えて置いた。二人の間に置かれた感謝はバーテンダーである人に片付けられず,暗がりに居る彼女は恐らくモスコミュールを飲んだ。上下した肘がバーカウンターに落ち着き,「さて,」と続けて彼女は青年期のキリンにお願いをした。
カジュアルシャツの第一ボタン,そこを綺麗に留めて欲しい。「ものの五分もかからないわ。」と暗がりから彼女は当然のように言った。
第二ボタンを締めないで,青年期にあるキリンは無防備に第一ボタンを締めにかかった。苦しかったキツさが首元に訪れないジャストサイズだった。青年期のキリンは暗がりに居る彼女に聞く。
「これは,どういうことでしょうか?」
「さあ?」と答えつつも彼女も暗がりから驚きを隠し切れていない。ただ答えは本当に知らなかったようだ。再び前のめりになって,彼女もバーテンダーである人に聞く。
「ねえ,これは成功ってことでいいのかしら?人であるあなたの解釈を聞かせて!」
しかしバーテンダーである人は言った。
「迷いますね。これは。」
そこで暗がりから彼女も追求する。
「迷うって,どういうこと?彼の首がカジュアルシャツの首元にジャストサイズとなったってことは,彼の中の『そういうもの』が私に質問で治まった,とかそういうことじゃないの?」
バーテンダーである人は彼女に言う。
「ええ,そういう解釈も出来ます。しかし,」
『期待に添えない。』。暗にそう言っている躊躇いを見せて,しかしバーテンダーである人は正面に座る彼女に言った。
「ジャストサイズになったということは,あちらのお客様の先程の言に従えば,首が縮んだということです。それは『男女の関係』の上で見ればかえって良くない,女性であるお客様にとっては特にいうようにも解釈できます。迷ってしまうのは,そういうことです。」
バーテンダーである人の言ったことをじっくり咀嚼して飲み込んだように沈黙して,暗がりに居る彼女は「何それ!?」と声を出した。やや大きい,店内を驚かせる。そういう程度のものになった。
「もういい。もういいわ。何よもう。だから『人』の解釈ってあてにならないのよ。」
その呆れとともに,彼女は暗がりに出て来なくなった。バーテンダーである人はただ一度,「申し訳ありません。」と言ってモスコミュールの準備に再び取り掛かる。この一杯のお代は要らないものになるだろうと青年期にあるキリンは思った。
「大丈夫ですか?」
青年期にあるキリンが心配そうに声を掛ける。完全に暗がりから彼女は答えた。
「大丈夫じゃない。『とてもつまんない』わ。」
青年期にあるキリンは言う。
「しかし僕は助かりました。首元は,完治とかでなくても僕が知る首回りとなっています。だからお礼は言うべきです。」
そうして暗がりに居る彼女に青年期にあるキリンはただ言った。
「有り難うございます。」
何度目かの沈黙にバーテンダーである人の準備する音だけが空気を震わせて,店内の雰囲気を整えている。マダラ模様な彼女の右腕がその右半身とともにライトの下に戻って来れば,バーテンダーである人は背中を向けて,彼女は青年期にあるキリンに言う。
「お礼まで言われると,何とも言えなくなるわね。」
躊躇いは,彼女の右手に表れて迷子のようなステップをバーカウンターに打つ。それは三回と変わらなかった。彼女はそのままに,青年期にあるキリンに聞いた。
「『けたたましい一致と夢交換』というお話を,知ってる?」
青年期にあるキリンは正直に言う。
「いえ,初めて聞きました。」
聞いて,副題に付くと良いタイトルだと青年期にあるキリンは思った。第三巻か第四巻あたりの,シリーズの中盤を上手く支えてくれる。そういう印象を抱く言葉並びだ。気になると言えば気になるし,手を伸ばさないのも納得出来る類の印象。「まあ,そうよね。」と,主に暗がりで言った彼女には指を収めて考え始めた様子が感じられた。ライトの下でグラスを持つように右手は左に移動している。バーテンダーである人が彼女にモスコミュールを差し出していた。
ワイングラスの底に薄く右手を置く,暗がりのに居る彼女の話を待つ。青年期にあるキリンは短い彼女の話をその声と聞けた。
「夢交換はね,けたたましい一致を打ち消す唯一の方法で,私たちの種に伝わるお話なの。『けたたましい一致と夢交換』。」
ワイングラスの底を叩く,マダラ模様の右腕の彼女はライトの下で金色に短く輝いた。
彼女は言う。
「理屈は,説明可能だけど他種族に伝えるとなると上手くいかないと思う。『けたたましい一致』には湿地の苦しさの秘密があるし,『夢交換』には理屈と感覚のロジックがある。互恵関係の正しい嗅ぎ方も必要。でもね,効果は確かな夢交換なの。これはもう実践済み。それは私が保証するわ。だからね,」
言葉をそう切ってから,青年期のキリンの方にに向かってきた彼女の口もとがそう言った。
「夢交換しましょう?一度だけで,ある意味の仲直りとして。ね?」
同意を求められている。今日で二度目だと青年期にあるキリンは思った。
青年期にあるキリンは言う。
「そうですね,取り敢えずしてみますか。ある意味の仲直りも出来なくて,嫌いになって仲違いするかどうかはそれから決めても問題ない。特に今夜の僕らにおいては。ってところですか?」
イタズラっぽいイントネーションで青年期にあるキリンが言ったことに,マダラ模様の右腕から暗がりを抜けて来た彼女も,「そうね。」という同意で同じイントネーションを再現しようと試みていた。
メモ用紙一枚分が二人の夢交換にはそれぞれ必要で,それで十分だった。ライトアップされたバーカウンターの上でバーテンダーである人に一本のボールペンを借りて,覚えてるだけの昨日見た夢を書く。青年期にあるキリンはできる限り忠実に書いたと,思えるぐらいにその夢を書いた。見終わった夢には改竄が入らざるを得ない。そこは暗がりから彼女も納得してくれる点だった。
書き終わり,青年期にあるキリンは一本のボールペンを彼女に渡した。
夢を書くのにライトは便利だとその下に姿を見せてくれた彼女には尻尾があって,そして目があった。外すと二度と見れない。それが青年期にあるキリンが想像した彼女の一対の目だった。マダラ模様の体表と動く彼女の関節がどう動くかは分からない。そういう距離に青年期にあるキリンはいない。どこまでが,『けたたましい』と形容出来る一致なのかも分からない。
「はい。」と手渡したメモを受け取って,青年期にあるキリンは彼女と別れた。バーテンダーである人にも「またね。」と言って,彼女はお店を出ていった。それを見届けた後で青年期にあるキリンはメモをほんの少し開いた。
その一行目,彼女は働いてもいなかった靴屋を辞めて,靴下のままで通りを歩いている。雨で濡れることがとにかく気になっていた。履くものから替えるのでなく変えようとひたすらにお店を探して,彼女はとても困ったそうだ。決めていたことの一つは一番高く掲げられている看板のお店に入ろうということ。足下を見ない履物屋さん。そこが彼女は好きになりたくて,そこで二つ目の決め事をしようと決めていたようだった。
その後で約束をしていた彼女と会った青年期にあるキリンは,約束の時間を過ぎた10分辺りまで上空監視を続けて降りて来た彼女に色々と上手く説明する必要に追われた。バーテンダーである人はアイスピックを上手に使う合間合間に協力をしてくれたが,お客の私事には深く立ち入らない信念を維持してカウンターを丸く拭く。汚れは決して無いと思える手つきで鳥類の彼女に突かれる,彼は青年期にあるキリンだった。
彼女と交換した夢の中で,一行目から言葉を置いて作り物を作っていた彼は今も捏ねている。背を伸ばしたい依頼人のご要望に応えられるように,完成する革靴の底を随分と厚めにしている。「それはやり過ぎじゃない?」と指摘する声に,振り返って答える彼は随分と耳だけが長い。
「これぐらいが良いぐらいさ。彼女はとても見たがっている。」
practice(8)