かえるろーど。(六)





 思うことに差異はある?
「恐らく身となる体よりはないよ。」
 感じることに差異はある?
「感覚ということでなら,それぞれの持つ身体に左右されて,差異はある。でも気持ちということでなら,右と左の違いもなく,また真っ直ぐさえも意識しないぐらい,差異はないんじゃないかな。」
 思い合うことには?
「恐らくそれも。」
 感じ合うことには?
「感覚というならそれは。でも気持ちというなら,それも。」
 分かることには?
「何をもって『分かる』というかによるだろうけど,各感覚器官によって得られた『外』を,自分の『世界』として『知る』という意味ならば,感覚とそう,差はないんじゃないかな。けれども存在するもの同士,互いのことを知るという意味であれば,そこは気持ちと,同じなのだと思う。」
 じゃあ,分かり合うことは?一方的でない,相互の,例えば理解のようなものは?
「『あること』なのだとは思う。けれども,それは確かめようのないことだとも思う。」
 何故と聞いても?
「問題はないけど,いささか話は長くなって,時間をかけることになってしまう。これまでしてきた話し合いに加えて,これからの話をし終わって,確かめようのないことなのだと,お互いに,分かり合わなければならなくなる。」
 確かめられやしないことを?
「そう,確かめ合って,分かり合うために。」
 分かり合うために?
「分かり合うために。」
 うん分かった。まずはそこ,分かろうと思う。それで?
「話は例えば,こんなところだと思う。彼女が抱えている問題は頭痛なんだ。ひどい程度の,長いやつで,朝に始まり夜に止んで,次の朝にまた始まる。顔まで変わるんだ。鏡の前で,ずっと自分を憎んで見える。そして切った前髪は実際に嫌になっている。それでじわじわと,短気にもなって,近くの眉間で怒りが浮かぶ。まるで山のようで,波のように皺まで際立つ。への字の口は,とても自然なことなんだ。何かを言えば気分も重くなると思って,何も言わない。そんな日はもう他人よりも自愛。他のことよりも何よりの自己。けれど鈍い頭痛はそれに気付けなくて,よくぶつかって仕方ない。フラついてしまって仕方がない。軽くても,其れなりに衝撃的だったバイクもあった。仲睦まじい恋人には,もう縋りっぱなしになったりした。それで結局分かり合えないテディベアのお腹辺りに,上げられない顔を埋めたんだ。その点は,知らないどこかの,男の人だってそうだって,知り合ってからも言ってたよ。そうしてそうする理由とともに,分かって貰えないその理由を誰彼と,いちいち口にしたいとは思わない彼女はもう機嫌まで良くない。」
 体調面でも精神面でも,大変そうだね,彼女は。それで?
「できる限り休むようにする仕事(しかも数字を扱う事務職)は,でもこなさなければ済まないその日に,近郊の人も,遠方の人も集めてしまう中心地に建つ最寄りの駅に彼女は降りるんだ。駅から歩いて徒歩数十分。しかしながらのスクランブル交差点。避け難い,ひっきりなしに渡る人という人。付いて来る雑踏,クラクションは細かく調整されず,優れない彼女の都合は「お構いなく」と,道をさっさと譲っているのに,不調を知らない時間は針で切り刻んだ一時間を,快調にまた繰り上げる。迫る定刻,そうであっても,信号はストップの赤のまんまなんだ。歩く速度と距離との相関関係を,焦る気持ちと痛い頭の隅っこで計算中の彼女は,黒のヒールを履いていた。1サイズ,間違って購入したのに捨てることを怠ったものでキュウキュウとさっきから,鳴きっぱなしのお腹に比べて,ぐっと黙ってる右の足に何も思ってないかのような左の足。いずれも彼女の,足と足だ。彼女の心臓を真似て,それも合わないタイミングで,相変わらず痛む鈍痛を抱えて,彼女は自分の空腹に腹が立った。マカロンに見立てた一番近くの信号機を,真ん中の黄色から,短い点滅の前に食べてやろうかと思った程だ。やっぱり彼女は機嫌が悪い。」
 しかも増す増す,って感じだね。それで?
「信号は停まったように変わらないから,あればいいと期待する,気分転換に向けた爪先のままに,彼女は電光掲示板と仕方なく付き合った。最新機種を持った知らないイケメンと目はあったけれど頭痛薬の宣伝が流れない。公道の,スクランブル交差点で頭を悩ます情報を流すことは,必要ないというスマートな判断がありありと目に見える。高い位置から青いマカロンは,前線から車線をスムーズなものにしている。走る車という車はカラフルに赤白黄色,黄緑,緑と続いていって,茶色の軽に緑の1ボックスから真っ黒が揺るがない。真っ白は目立つ。素敵でも,名前を知らない新色は,未来を担う若者風に法定速度の決まりを切っていった。それで道路は,やっぱり灰色だ。真ん中で停まっていたのは右折しようとする嫌いなタクシー,しかも夏の空みたいに薄青い。晴れてても,それが一番に最悪で,彼女の痛みがズンと増した。」
 彼女はタクシーが嫌いなの?
「そう,彼女はタクシーが嫌いなんだ。」
 それは何故と?
「聞いても問題はないよ。彼女の方にも,僕の方にも。ただ少し,話の流れは本筋から外れるのだけれど?」
 でも,聞きたいと思う。話してくれる?
「勿論,構わない。じゃあまずは端的に,事実を口にすると彼女はね,小学校六年生の時にタクシーに引かれかけたんだ。」
 引かれかけたの?
「そう,引かれかけた。」
 引かれた,でなく?
「引かれかけた,だよ。」
 それでも大きな怪我をした?引かれはしないけどぶつかったため,とか,転んだのはよけたためです,とか?
「いや,大きな怪我はしていない。小さな怪我も,原因からどれだけ離れても,その途中で色々な事が関係してきても,彼女は綺麗に怪我をしていない。」
 じゃあ残ったのは,いわゆる心の傷?山積みの洗濯物から今日着たい服を取ろうとしたら,絡み付いて,付いて来る,厄介なバスタオルみたいな?
「分かるような分からない例えだけど,うん,それに近いかもしれない。聞いた限りで,僕が思うには。ただニュアンスは,少し違うかもしれない。よく耳にする,心の傷らしさとは。」
 らしくない,ということ?
「良く聞いて,軽く扱っても,あるいは。」
 勿論,詳しく聞いても?
「勿論,問題はないよ。けれど,まずは順番を守るとしよう。事の発端みたいなところからね。そもそも彼女は駐車中の車の影から道路を横断した。しかも雨の日。車もろとも,ドライバーの視界が不良になる日だ。だから青いタクシーはブレーキを上手く踏めもしなかった。その運転手は説教の意味も含めて彼女に怒鳴ったんだけど,それだって窓から顔を出して後ろを,振り返りながらだった。車の停車位置は横断地点より前だった。」
 それ,起きた事故になってても?
「おかしくなかった,と言えるだろうね。まさに偶然の奇跡ってやつだね。その日降ってた雨に差してた,花柄の傘が,綺麗に真上に飛ぶに止まったんだから。タイミングは紙一重。傘は壊れたけど。」
 そっか。奇跡だね。
「うん,奇跡的だ。」
 無事で良かった。
「僕もそう思う。」
 それで,タクシーが彼女を怖がらせるようになったんだね?
「彼女がタクシーを怖くなったということで,だよね?そうだとすると違うんだ。彼女はタクシーを怖がったりしていない。実は彼女は免許を持っているし,だから自分の過去の過失についてよく理解もして,自らを叱った反省を今に生かしてもいる。意外なことに車に関しての彼女の趣味は中々にブランド重視だ。アルファロメオが好きだったりするからね。だから彼女は車であるタクシーを怖がってはいない。怖がっていなくて,嫌いなんだ。」
 別の理由?
「そう,別の理由。」
 『それは?』と聞くよ?
「勿論構わない。だから言うと,彼女がタクシーを嫌いになったのはある意味で映画的なんだ。例えば観て良かった,あるいは損はなかったなと思いながらも,ある場面が嫌いってこと,ないかな?それは俳優の薄味な演技であったり,出過ぎた監督の横顔がトイレに行くように通り過ぎた演出であったり,前後の流れ,台詞回し,引いては寄せる映像の動き。人それぞれにとって,様々な要因が原因となって,そうなるってしまうのだと思うけど,色合い,なんていう一要素もそこに含まれるんだろう。衣装と,世界と,『その人』を表す,それぞれの色合い。『色味』というし,味と同じで,お腹を壊しそうな時だってある。甘ったるくて胸焼けして,あるいは痛むところにチクチク中る,虫歯とお菓子のようになる時もある。目を瞑りたくなるときもあるだろうね。瞬時のタイミングに引き裂かれて,長い間,頭が痛くなるだって,そうなんだろう。つまりは壊れた傘との色合いなんだ。車体の薄青さと飛んだ傘の,ピンクに花に赤い柄が曇天の灰色に映えたんだ。」
 未然の事故で,彼女が見た,というか飛び込んで来た,場面の色合いってこと?
「そう,そういうこと。」
 もっと詳しく?
「聞いても問題はないよ。ただ,思ったより上手くは,説明出来ないかもしれない。感触が,聞いたことを語れば,器の縁をなぞるような,一本の木の棒で内側から丸という形を伝えるようなで,モゴモゴしたものなってしまいそうだ。実際彼女も大分,『そこら辺りのこと』,分かってないみたいだったし。核心がないことがあるみたいって,哲学めいたことも言っていた。それでも?」
 うん,いいよ。聞かせて?
「うん,分かった。彼女が言うにはその傘は買って三年生の時に買ってから,雨の日は必ず持って晴れても『いってきます。』と挨拶して出る,それぐらいのお気に入りで,学校でよくある盗難を避けるために玄関に置いてある,生徒の数だけ備えた傘置き場に置いたりしない,教室まで持っていって,移動教室の時には神様に祈って,無事に差して帰れたら,喜んだ。きちんと干して,シュッと丸めて,細めて綺麗に置いていた。大事だった。そういう傘なんだ。」
 うん,それで?
「さっきも話したけど,傘は花柄だ。ピンクに咲いてた。『サクラ』ってわけじゃないみたいだったけど,数と大きさが開いた傘の表面積に合ってたそうだよ。何枚あるか,数えたことは一度もなかったけど,回せばクルクルと咲き続けてずっと舞うし,振り回しても散りやしないから,良かったんだそうだ。彼女はそういう傘と関係していた。だけど彼女が迎えることになった年齢の,思春期があったのが良くなかった。」
 いわゆる特有の恥ずかしさに負けて,傘と疎遠に,なって決別したの?
「壊れる前に迎えた一度目の結論は,そう,なりはするんだけど,それは彼女が自身で迎えたものじゃなかった。」
 他の人?他人な誰か?
「具体的な誰か,と言えたら彼女も良かったと言ってたけど,誰かと名指し出来ないんだ。だから原因というものを強いて言えば,『思春期』っていう形があるようでない同調圧が彼女の感覚を揺すって,フラつかせたのさ。」
 それは比喩?
「僕が言うからそうなる。けれどこれは,彼女の実感でもある。」
 そっか。それで?
「彼女は傘を手放した。もう一緒に,帰らないことにした。雨が降っても連れ出さない。曇りの日でも,持ってはいかない。晴れていれば,見ることもしないし挨拶なんて交わしもしない。傘は彼女が意識する,一番遠くの置き場所に差され忘れて,彼女はそこに向けて,背中を見せ続けた。揺れる足場でどうにか立ち続けようと,懸命の努力をしていたんだ。」
 うん。それで?
「彼女の祖母が亡くなった。好きとか嫌いとか関係なく,亡くなった。祖母は彼女を厳しく躾けたけど,大事なものは大事に,彼女の中に残した。賢くなければ掃除は出来ない,時間が掛かれば下手くその一言。手筋を読んで,動け動け。一度っきりでも褒められたのが彼女の誇り,見えない足場の支えだ。『あんた,何やっとんの。』と,怒られたことが最後だったと呟いていた。彼女は悔しくて,でもある意味で嬉しくて,あとはもう悲しかった。でも彼女は差した傘の,中には入れた。」
 うん。それで?
「揺らいだ世界は落ち着いた。彼女自身が立ち止まった。ただ,傘は馴染んで見えなかった。後悔とか,後ろめたさとか,そんな彼女の主観が混じった事実なのか,それとも客観的な,相対的な評価なのか,決められないまま,それでも雨が降ってきたから,差した傘で学校に行った。久しぶりだから?皆の思春期と闘いながら,だったから?尽きない答えに気になることはその日とずっと一つで,以前と同じで一緒に過ごした,教室を出て,まだ降っていた雨に感謝した。もう一度赤い色ごと柄を握った傘との時間を取り戻そう。そんな矢先の,叶えたい出来事の,途中だったんだ。」
うん。
「タクシーの青さに跳んでいった,傘の表面で花のピンクが,クルクル回って次々と舞って,落ちていく前の最後,柄の赤さで中空に支えられたみたいに大人しくなった傘は灰色の背景によく似合ってた。彼女の手より,肌の色より,映えて傘は壊れてしまって,彼女は濡れた。だから壊れた傘との色合いなんだよ。車体の青と飛んだ傘の,ピンクに花に赤い柄が曇天の灰色に映えてしまったんだ。」
 喪失,になるのかな?
「あるいは,そうなんだろうね。『そこら辺りのこと』が彼女は,まだ上手に言えないと,言っていたね。」
 それで彼女は?
「朝陽も夕陽も曖昧になって彼女の一日は,明暗の二色に彩られて,数週間,それが続いた。明るい時は眩しい。暗い時は暗い。けれどそれも,色々起きる日々の出来事で和らいで,彼女は立ち直ることができた。文字通り,背を伸ばして元気に過ごしていた。代わりに頭痛が目を覚ましたように,あるいは帰り忘れたみたいに定期的に始まってから治らず,思春期の床で揺らいでいるかのようだった。ズクンズクンとするんだ。大人な理屈で抑えようにも治まらないから,それで彼女は機嫌が悪くなる。」
 彼女はそれで?
「さっき少し,話したとおり,フラついて,縋ったり,凭れたり,時々にしゃがみ込むようになった。多分,今もとうとう,そうしてしまってると思う。それは遠くからでも分かるぐらいで,一目で気付いてしまうぐらいに。」
 そっか,そうなんだ。うん,分かった気がする。彼女のこと。でもあれだね,例え話のその彼女,随分と偏ったところで詳細だね?
「そうかな?」
 そうだよ。
「いや,そうでもないよ。」
 ねえ,誰のこと?
「彼女のことさ。」
 彼女のこと?
「そう,彼女のこと。」
 ふーん,まあそこについては分かった,ということにして置いてあげましょう。それで?
「それで話は彼のことになる。彼は結構無事なもんで,その日は上京してから十年目,何ともなかった花粉症を疑うに足りる鼻声を気にかけていたぐらいで,走ろうと思えば十分に走れたし,気にしない迷惑でひたすらゆっくり歩くことも可能だった。筋肉をじっくりと駆使したロボットみたいに,または歩くことを覚え始めた,ある畑の案山子みたいにもね。それをしなかったのはその日,彼はバイトの面接を受ける日だったんだ。出だしが寝坊したものだから結構焦ってもいた。ネイビーブルーのいつものキャップをテーブルに置きっ放しにして連れ出さなかったし,その日の夕飯の,献立に欠かせないお米を研ぎ忘れてもいたんだ。」
 深刻でないけど,彼もそれなりに大変,というところなんだね。うん,分かった。それで?
「それでもね,彼は腕時計を必ず忘れなかった。時間に正確,というわけでもなくて,幼い時なんかは待ち合わせ時刻に家を出ていたぐらいな彼なんだ。中高を経て矯正的に,五分前行動を心掛けるようになっていったけど,心掛ける,というぐらいだから実際に遅刻はしていたんだよ。有名なアニメ映画の冒頭十五分を見逃しもしたのだから。」
 確かにそれは正確でないね。それで?
「彼の時計は電池式,切れたらその時からもう動かない。腕時計をすることを忘れない彼は,それでも切れた電池の交換はよく忘れた。『あっ』という言葉を『しまった。』というように心で思っても,三回目の信号待ちの時には必ずその日がどれだけ晴れるかを気にして,腕時計が動かない理由を覚えていない。必ず外す部屋の中でその日の最後にまた思い出して,次の朝にまた気付いて思い出すまで,彼は覚えていない。
 えーと,ごめん。ここまで分かってきた私だけど,その点については分からない。
「分からないのかい?」
 うん,分からない。
「具体的に聞いても?」
 もちろん。
「君が分からないのは,彼が腕時計の電池が切れていることを何故忘れるのかということかな?」
 うーん,近いけど,違うかな。
「じゃあ,どうやって彼は時間を把握しているか,ということ?」
 その点については察しがつくの。携帯,スマホ。店内外にある親切な置き時計。家のテレビだって,ある意味時計みたいに扱える。時間は簡単に分かると思う。だから彼も安心して,忘れてるって思う。だから,そこじゃないの。分からないのは。
「と,なると?」
 聞きたい?
「是非とも。」
 ついた察しは?
「今のところ見当たらないな。それで思い付きもしない。」
 ホントに?
「本当に。」
 その点も,是非とも聞きたいことなんだけど,まあ今は彼のことを優先するね?聞きたいのは彼が何で,他の腕時計を付けようと思わないのか,それが聞きたいこと。あるいは彼は,腕時計の数も数えない?
「ああ,そうか。その点か。成る程,成る程。そもそも僕は事情を知っている。だから君のその『何で』が見当たらず,思い浮かびもしない,ということか。」
 ああ,なるほどね。そっか。確かにそうかも。
「うん,そういうことだ。」
 是非とも聞きたい君への質問は無くなったから残りの時間を目一杯に使って,彼のことの,続きが聞きたい。彼の事情,『それは何?』と?
「答えは話すことで,答えるとしよう。まずね,正確なところははっきりしないけど彼は腕時計を数個,所有してはいるんだ。例えば捨てた値札でその購入額順に,高いところから安い右へと並べれば,ロレックスの一番安いタイプが最初に置かれる。次いで水陸どちらも使用可能なタフなものからデザイン重視で,時刻を知るという,時計としての機能を削ぎ落としたソリッドなものが切り込んでから順々に並んでいって,確実に五個以上ある。PTOとその日の気分を表した服装と,合わせた組み合わせが十分に出来る。彼はたまに褒められもしたんだ。『その時計,今日の服に合ってるね。』って。」
 それは良かった。
「僕もそう思う。」
 それで?
「ジンクスが好きな彼なんだ。その日一日出逢った良いことは,他の日と違ってその日だけにしたもので,思い出せたことと結びつけて,決めつけた。ジンクスは個人的で良いというのが彼のポリシー,因果関係をユニークに取り扱う癖があるんだ。例えばホームセンターまでレーザープリンターを買いに行く道すがら,絶版の運命を辿った本が新装開店の古本屋で見つかったのであれば,彼はレーザープリンターに着目しないで早起きの朝一番に起きて食べた,プリンを一個だけ大事に食べるだろう。多分ほぼ毎日,欲しいものがあれば確実に二個,食べたりしながらね。今はヨーグルトみたいだよ。この前,一週間居なくなった犬と一緒に,彼女が帰って来たそうだ。丁度切らした柔軟剤の詰め替え用も3つ,景品みたいに付いてきた。彼は飲むヨーグルトを飲もうとしていた,と言っていた。彼は恐らく,特にヨーグルトに当たりをつけてる。」
 ユニーク,というか変わってる,というか,とにかく興味深い彼だね。うんうん,それで?
「腕時計のジンクスは桃の香りがしたそうだ。ベランダに干した夜明け間近の,洗い立てのシャツのような比喩として,そして彼の中の事実としてね。細い手首に巻かれて,文字盤だけ白く,残りは黒の単純な二色に過不足なく付いて来る装飾ない作りは,他意も悪気もない言い方で,犬の首輪と同じなんだ。縛られて意味を持ってる。」
 犬の首輪?
「そう,犬の首輪。」
 どうかと思うその言い方に,他意も悪意もないんだよね?
「誤解は消えなくとも,繰り返し言うことで薄まることもあると,彼も言っていたし,繰り返す意味と,価値はあるね。うん,勿論この言い方に,他意も悪意もないよ。」
 全く,あるいは少しも?
「全くだよ。だから少しもない。」
 …うん,嘘が苦手な君のいつもの嘘っぽい顔だから,信じるとします。
「信じるという割りには『嘘』という言葉が多いような気がするけど。それでも良いよ,有難う。」
 うん。それで?
「初めは幼稚園の頃だったそうだ,彼が一人で帰ったのは。用事があったのか,あるいは治りかけの風邪をそれでもきちんと先生に,看て貰うためだったのか,彼も覚えてはいないらしいんだけど,とにかく母親が迎えに来るから,と言われて空組の教室の前で待っていたそうだ。対照的によく覚えているのは高く晴れた空に水色とも言える青い色と,走りたくなる斜めな陽射しだったそうだ。彼の通っていた幼稚園は正門を出てすぐが二車線の道路,しかも幹線道路に通じやすいからこぞって運転手が自車を走らせる道路と,それに押されて肩身が狭そうに,学区違いの地域にまで通じている歩道が通っているんだ。にも関わらず蝶々がよく居て,気持ち良さそうにいつも翔んでいた。彼の記憶の中で蝶々はずっと小さな黄色だそうなんだ,本当は白かったかもしれないと思ったりしてもね。変えられないんだそうだよ,その色が。」
 うん,分かる気がする。例えばね,BMWはやっぱ紺色だって,私も思うもの。
「僕もそう思うけど,彼の思うところと君の思うそれは半分ぐらい違うと僕は思う。でもまあ良い事だ,それは。半分は当たっているからね。」
 そう?私はバッチリだと思うけど。でもまあ,全く当たらないかもしれなったのだから,確かに良い事だね。うん,それで?
「捕まえる気が全然なかったから彼はただ,蝶々が翔ぶのを機会としても、観察としても『よく見ていて』いて,そして蝶々はいつもの通りだった。不安定な舞い方,それに引きずられそうな小さな身,そして二枚にしか見えない翅。でも意思はある。地図だって実は頭に入っていて,もう既に翔び尽くしたから今は悠々と遊んでる。彼はいつだってそう思って仕方なかった。だから彼はいつもこう思い立った。『僕も行かなきゃいけないんだ,どこにでも,どこからでも。』。それで彼は一人で離れ出した。最初は待ち合わせの幼稚園,空組の教室の前からだった。」
 一人で帰ったの?
「そう。一人で。」
 幼稚園生が?
「幼稚園生が。」
 家は近かったの?
「いや,今思えば中々遠かったみたいだ。大人な彼が歩いて帰ろうとは思わないぐらいに。」
 無事だったんだよね?
「そう,彼は無事だった。」
 お母さんとか,幼稚園の,例えば空組の先生とかは心配したんじゃないの?
「それにはとても,と答えるのが一番正しい。大騒ぎになった。誘拐事件とか,そんな風に。」
 どうなったの?
「大騒ぎの展開模様についてかい?そうだね,まず彼は先についた家の鍵が閉まっていることにまで,気が回らなかったから,待ちぼうけを喰らった形で,玄関前で母親を待っていた。母親に内緒で彼が捨てた昨日のガムに蟻が集まっていたのを,暇つぶしに眺めていたんだ。それで三回目になるバス停の確認のときに母親を見つけて,手を振りながら母親の名前を呼んだ。どう?すごいでしょ?と,言うように。」
 怒られた?
「ちょっとは。でも,安心が優って母親はとにかく無事を喜んでいたそうだよ。電話口の空組の先生も同様だったと,彼は言っていた。翌日はお迎えの朝のバスから着いた空組に,三つ向こうに離れた若葉組に至るまで,お話の中心だったそうだ。『何で?どうして?どうなったの?』が彼に飛んできて,『帰れる自信』とその大丈夫さを,当たり前に皆に答えてた。」
 好奇心の塊だね,彼は。でもこれで懲りも,したのかな?
「そうなればまた違ったのかもしれない。そして彼は違ったんだ。世界二周目の蝶を追い掛けて,彼はひたすら,文字通りに,何処へでも飛び回った。家族がどんなに呼び止めても,絡まる縁が持ち込んで生まれる,人と人との物語の間をふらりふらりとすり抜けて,ぶらりと寄って,また去っていく。留まることを知らないように,彼は留まることをしなかった。揺らいだりしないその意思で,風船より風任せだった。風船なんか目じゃないぐらいに,見えなくなったりし易かった。『今日は居る?』,まずそれが,彼の周りに投げ掛けられる,彼に向けた挨拶になった。」
 居るより居ない。居たりはしない。
「うん,そうなんだ。居ないことより,居る事はないんだ。」
 心労が,大変だ,彼じゃなくて,彼を思う人が。
「うん,そうなんだ,彼の場合,大切に思われないことがないから,問題として大きくなる。」
 怪我とか,無かったの?彼自身には。
「あったら良かった。でも無かった。物事は著しく順調に進んで,問題はいつまで経っても彼の足跡を追うしかないみたいに,何も起きなかった。強いてあげる怪我らしい怪我は,新しく買った靴で出来た右足の踵の靴擦れぐらい。しかも軽くて絆創膏を,貼り忘れたことを思い出したら治っていた。だから彼も直ぐに忘れて,三つ目の角を小走りで曲がって去っていった。それを母親が悩んで見ていたそうなんだ。」
 悪いことではないのに,とても悪いことになってる,彼の場合。
「そうなんだ,彼の場合。」
 でも今は違う。
「そう,今は違う。」
 何かあった?
「そう,あったんだ。」
 それは例の腕時計?
「であって,それを身につけたジンクス。悪いことで留まらなかった彼は,良いことをもってみんなのもとに留まる結果を選んだんだ。」
 彼が留まることになった良いジンクス。気になるね,とても聞きたいと思う。
「その期待に応えたいと思うよ。」
 有難う。
「どういたしまして。」
 うん。それで?
「繰り返しになるけど,腕時計のジンクスは桃の香りがしたんだそうだ。ベランダに干した夜明け間近の洗い立てのシャツは,実際に彼が済ませた事実だ。朝帰りの徹夜明け,昨夜の宅配の不在票を片手に,再配達の操作を電話で済ませてから,彼はシャツを脱ぎ,Tシャツを着て,柔軟剤は使わずに通常コースで仕舞い込んだネットごと洗ってから,次の目的地へのルート検索するための雑誌を買いに行くのを最終目的地として,鍵を取った。そうしたら電話が鳴り始めた。知らない通知番号ということは,スマートフォンが表示するただの数字が教えてくれた。知らない電話ともう分かった。」
 彼はそれ,取ったの?
「彼は取ったよ,知り合いが知らない番号から,電話を掛けてきてもおかしなことはないからね。子機の緑の通話ボタンを押して,『もしもし』に警戒した用心と『どなたですか?』と伺う感じを伝えて,相手の返事を待った。逡巡の気配は黙っているからこそ,電話口で聞く側に回った彼によく伝わって,彼は『元気ですか?』と尋ねられた。『どうですか?』と二度までも確認までされた彼は,何が起こっているのか把握するのに時間が掛かった。」
 イタズラ電話,ってわけじゃないんだ?
「真剣味がかった声は,本当に彼に尋ねていた。しかし相手が誰なのが知れないのに『はい,元気です。』とか,『そうでもないんです。』とか,思うままに彼の体調のキャッチボールを始めても,話がどこに転がって落ちるか知れない。だから素直に応えることなんて出来なかった。だから今度ははっきりと尋ねたんだ,彼は丁寧にもはっきりと,『(あなたは)どちら様ですか?』と,口元の電話口に向かって。」
 しかし相手は答えない?
「というのが謎を含んだ話の展開として,あるべき姿で受け入れられる流れなんだろうけど,彼の話の場合,相手は答えた。『ササクラ』が名乗られたんだ。でも『ササクラ』さんは彼の用意した知り合った人のためのどの椅子にも座らず,また彼の中で何処にも歩き回ることもなかったから刺激なんてなく,奥に部屋にいる誰も起こしはしなかった。ただ電話口で,彼の前に立っているだけだ。そうして彼の返事を待っていた。」
 知り合いじゃないってことは,全くの赤の他人?
「あちこちを歩き回って飛び回っていた彼だから,記憶に残らない出会った人も当然一人以上いると,彼も思っていたのだけれど,電話番号,ましてや自宅の電話番号なんて,記憶に残っている人にしか渡していない,と彼は覚えている。だから彼は一応知り合いの,赤の他人の『ササクラ』さんと決め付けたんだ。」
 一応なのは,別の可能性を考慮して?
「記憶に残っている知人の誰かが『ササクラ』さんとこれまた知り合いで,彼の自宅の電話番号を教えていない,とは言えないからね。だから『一応』なんだ。」
 じゃあ,私も彼に付き合って,『ササクラ』さんは彼の一応の知り合いと決め付けることにするね。
「有難う。」
 どういたしまして。それで?
「当たりより障りが無いように,特に曖昧に気遣った挨拶を挟んで彼は,この際だから『ササクラ』さんとより知り合いになろうと思って,『ササクラ』さんのように『ササクラ』さんに,『ササクラ』さんも元気であるかとと聞いてみたり,今お掛けになっている電話をしている場所を聞いてみたりした。けれど『ササクラ』さんは頑固なようで,彼が元気かどうかということを,彼が元気なように元気ですと答えても,『お元気ですか?』と聞いてくるばかりで,投げた質問は質問で帰ってくるばかりだった。会話は電話帳で次に話し相手を指でなぞって,探しているみたいだった。」
 『ササクラ』さんは,その,変わった人と,いうこと?
「その時点では彼も『そう』思っていた。『ササクラ』さんが言う『お元気ですか?』に対して,『はい。』以外に口にすることもしていなかったからね。切るタイミングを耳で見計らって,『また今度。』と『失礼します。』をセットメニューのように続けるつもりだったんだ,ずっと。でも出来なかったのは,『ササクラ』さんの声色のせいだったんだ。」
 声色で切れない電話?うーん,想像出来ないから,その点,分からない。具体的に聞いても,問題はないよね?
「勿論,その通りだよ。『ササクラ』さんも声色について話す前にまず大事なのは,『ササクラ』さんの声はどう聞いても男の人のものである,ということだ。だから彼が切れない声色には,色っぽいことが含まれたりしない。」
 惑わされて,とか想像を掻き立てられて,とかじゃなく,ということなのね?
「そういうことだね。」
 うーん,でもそのまず大事なことを聞いたら聞いたで,より分からなくなっちゃったよ。唆された色香を耳元に置いておきたい以外に,切れない電話の理由って,想像出来ない。
「うん,想像し出来ないし,し難いとも思う。彼の話を聞くまで,僕は想像すらしなかったしね。ただ,切り難いのは分かる気がするんだ。」
 例えば,どういうこと?
「本を読むのが好きな僕だから,本を読むことで例えるけど,本の中の話は必ず一人,語る人が要るんだ。両極端に言ってしまってそれが左に居るような作者本人であっても,右しか見ない神様のような名前も名乗らない第三者のようなものであっても,いずれにしろ何かしらを語る。語って始まる物語なんだ。この点は,分かってもらえるかな?」
 うん,大丈夫。本は借りて,少なく読むことを心掛けてきた私でも,分かるよ。
「専ら貸すのは僕なんだけど,うん,良かった。話を進めるね?」
 お願いします。
「結局は声があるんだ,どの本にも,必ず一つは。重低音が効いた丁寧に諭されても良い声,巧さと疾さで風を起こして読者の目を覚まさせて眠らせない声,距離が近い耳元でキーキー声が似合いそうな,ハイテンションで意地悪そうな声と,距離を測ると見失いそうな囁きで,それでも確かな気持ちを歌う気持ちに彩られた声とが,重なって生まれる声。船頭のように居るけど居ない様に扱われる職人気質な,地の文の声。どこを開いて,またはどこを読み飛ばして読んで見ても,声がない本はない。物語でも,勿論違いはない。」
 語るということ。書いても変わらないってところ。
「僕もそう思う。変わりはないし,代わりはない。それが声だと,僕は思う。」
 うん,分かる気がする。分かりたいと思う。
「嬉しいね,有難う。」
 ううん,うん。それで?
「読むことは聞くだけ,話すのはその声だ。こちらから語りかけても返事は返ってきたりしない。返ってきても,受け取る人はやっぱり自分だ。自問自答を往復して,分かったこともあるし,分からないままのことがある。だからまた本を読む。それしか何も聞けやしないから。そうしてまた分かったことと,分からないままのことを手に持って,本を閉じる。それを繰り返す。ザラつきなんだ,癖になるんだ。」
 うん,それで?
「閉じたくない時がある。ずっとその声に浸っていたい時。数ページ先に在って,まだ読み進めていない自分を待っているような,『早く』と言ってる割に『楽しんで』と『ゆっくり』を並列的に並べて,後にも先にも行けないで,ただただ『今読む』しかない時間。今だけの時間。切りたくないんだ,短くも。伸ばせないんだ,無駄に長くなんて。」
 幸せな拘束時間。
「縛られてる感覚がないほどにね。恐らくで,しかも想像に留まるけれど,彼にとっての『ササクラ』さんの声の色は,これに近かったんじゃないかって思うんだ。一応の知り合いである『ササクラ』さんのことは,一応も満たせず思い出せないけど,その声は知ってる。しかも後ろの過去からじゃなくて,常に向いている先の未来において,だ。予感でしかなく,確信なんて持てないから,ザラつく様に乾くんだ。美味しく水を飲めると,何故か分かって歩みを止められない旅行者のように。」
 それが切れない電話の理由となる,耳を話せない『ササクラ』さんの声色。
「そうなんだと思う。確かめようがないけどね。」
 うん,短いけど,分かった気がする。それで,彼と『ササクラ』さんとの電話は,彼にとってどうなったの?
「返事もしなくなって,出掛けるための最後の準備としてする,あの腕時計のベルトを手首に巻き付けることを彼が片手間に行っていても,『ササクラ』さんの声が聞こえなくなることは一分もなくて,その真摯さも子機の通話を押して回線が繋がってから色褪せているように,思えなかった。『お元気ですか?』はずっと真っ直ぐ,電話口の彼に向けられていたんだ。穴を止めて腕時計を身に付け終わって,彼はテーブルの椅子に座った。もう出掛けるための最後の準備として,電話を切る前にじっくり腰を据えて,『ササクラ』さんの声を聞くために。」
 うん,それで?
「繰り返される『お元気ですか?』。繰り返すのは『ササクラ』さん。色褪せない真摯な姿勢,そして彼はその声をずっと先にある未来において,知っている。彼の今は今もこうして,流れていって,彼はまた彼の意思で彼の時間を,過ごすのだけれど,後ろなんて見もしないで,隣の声も,耳で聞いたりしないままで,でも『ササクラ』さんはやっぱり『今も』,彼に聞くんだ。『お元気ですか?』と,真摯に聞くんだ。」
 うん。
「僕が言うと比喩になる。けれど彼にとっては,実際にあったこととして,彼は返事をしないで後ろを振り向く,十分な時間を貰えた。『隣』はだから,途中で,見ることが出来た。母は手作業で靴下を箱に詰め込んでいて,父は主に天気のニュースを見ていた。弟は彼の身長に届かない分,手を伸ばして,何度も背伸びをしていた。知り合いは,みんながみんな,手紙のように,彼の名前を回し読みしていた。最後に読んだ一番手前の人の声は『ササクラ』さんにしか聴こえなかった。『ササクラ』さんはまた,『お元気ですか?』と聞いてきたんだ。」
 うん。
「蝶々の意思は,ひらりひらりと舞うものだ。もう既に翔び尽くしたから今は悠々と遊んで,不安定なんだ。だから後ろも隣も,頭に入っているように,前にように翔び尽くしたり,初めてのようにぐるぐると同じところを翔んでみたりするのかもと,思う彼に,気付いた彼が答えたのは『僕は元気です,ササクラさん。』と,同じようで違う返事だった。』
 うん,違うね。
「そう,違う。」
『ササクラ 』さんもそれに気付いた?
「『ササクラ』もこれに気付いたんだろう,彼はそう言っていた。『ササクラ』さんは『それは何より。』と『お気を付けて。』を,二回ずつ繰り返してから電話を切ったから。言葉になれないツーツー音には彼は何も応えなかった,そうだよ。」
 うん。そっか。それから彼は?
「出掛けようとしていた彼だから,何より近い,ベルトを締めた腕時計を見て時間を確認した。午前七時,何となく,一番朝らしい時間に思えた。流れっぱなしのニュースだって,意識してきちんとしている内容だった。それを消して開いていた,ベランダの窓を閉める丁度,買い替えたばかりの洗剤は,桃の匂いでシャツを揺らしてから,彼に鍵をかけさせた。彼の世界に奥行きが生まれて,良いことの数も増えたみたいな気持ちになった。覚えているかな?彼はその日一日,出逢った良いことは,他の日と違ってその日だけにしたもので,思い出せたことと結びつけて,決めつける。ジンクスは個人的で良いというのが彼のポリシーで,因果関係をユニークに取り扱う癖があるんだ。」
 思い出した,今聞いてね。そして?
「そして,彼はまさに比喩として,歯車みたいにジンクスを,腕時計と組み合わせてからその日の予定を立て直すために,ファーストフードへ,朝食しに行ったそうだ。バイトはまだ,辞めたばかりで新しいのも探してはいなかったそうだよ。」
『ササクラ 』さんとジンクス。彼のきっかけ。
「うん,そうだね。彼のきっかけだ。」
 それで,今面接に向かおうとしているバイトは,何回目?
「確か五回目,とか言ってたかな?全国展開しているホームセンターの,納品整理とかレジ打ちとかそういうものなんだけど,彼はトラベルコーナー担当をご所望してる。知識,経験,そして情熱は誰にも負けないんだそうだよ。大丈夫って,根拠なく言っておいた。理由も聞かない彼は,とても彼らしい,彼だった。」
 会ったこともないのに分かった気がするのも,彼らしい?
「実にって程に。彼らしい。」
 そう言われて笑顔しか見せないのも?
「彼らしい。」
 そっか,うん。良いね,彼。
「概ねは。たまにフラつくから,癖は完治してなくて,困る。」
 それは仕方ないんじゃない?
「だから性質(たち)が悪くて,余計に困るんだよ。」
 うん,だから仕方ないんだよ。
「抵抗は無駄になりそうだね,この流れは。仕方なさそうだ。」
 その通り,仕方ない。
「うん,仕方ない。」
 それで,話はこれからどこに向かうの?やっぱり,彼女と彼の物語?
「そうだね,そうかもしれない。話の流れの自然なところでは。試してみようか?」
 何を?
「物語をさ,僕と君の二人で。」
 私と君の二人で?
「そう,君と僕の二人で。」
 出来るかな?
「出来るさ,僕はそう思うよ。君の演技はすごく上手だ。」
 素直に受け取れないのは,私のせいと,思えないんだけど?
「そうかい?」
 そうです。
「そうかな?」
 そうだよ。
「そうか,それで,どうする?」
 うん,やってみようと思う。ただね,一工夫はしたいかな。
「どんな工夫?」
 うん,君が彼女を,私が彼になる。そういう工夫。
「君が彼で,僕が彼女になるのかい?」
 そう。どうする?やってみる?
「うん,それもいいと,僕は思う。やってみよう。」
 うん,やろう。
「出会いの始まりは一人の終わり。じゃあ,僕はしゃがんでいるとしよう。大分前に,話したとおり,彼女はフラついて,縋ったり,凭れたり,時々にしゃがみ込むようになってから多分今も,とうとうそうしていると思うから。それは遠くからでも分かるぐらいで,一目で気付いてしまうぐらいに。」
 じゃあ,私は走ろうと思う。その日,彼はバイトの面接を受ける日で,けれど出だしが寝坊だったものだから,結構焦ってもいるしね。いつも被ってるネイビーブルーのキャップはテーブルに置きっ放し,その日の夕飯の,献立に欠かせないお米を研ぎ忘れたぐらい。でもその行き先は見失わない。出会うためには場所を選ぶと良いと,どっかの誰かさんが言っていたものね。避け難いぐらい,ひっきりなしに人が渡るスクランブル交差点。渡る人という人。遠くからでも人も集めてしまう中心地。彼女が降りる,最寄りの駅がある。
「しゃがんだまま僕は,目も覆う。だってまだ青いタクシーが右折できずに停まっていて,傘の表面に施されてた花のピンクが,クルクル回って次々と舞って,落ちていく前の最後には柄の赤さで,中空に支えられたみたいに大人しくなったから。灰色の背景によく似合って,僕の手には馴染まなかったから。ズクンズクンと,頭痛がする。理屈で抑えられない。そういや機嫌も悪かったと思い出してる。」
 ジンクスが好きな私は,その日一日出逢った良いことを他の日と違って,その日だけにしたことでまた,思い出せたことを結びつけて決めつける。ジンクスは個人的で良いというのが私の考え,原因と結果をユニークに取り扱うのが好きなの。例えを一つ言うならね,ホームセンターまでレーザープリンターを買いに行く道すがら,絶版の運命を辿った本が新装開店の古本屋で見つかったとき,私はレーザープリンターなんて無視して,早く起きたその日の朝に,最初に食べたプリン一個を,ジンクスみたいに大事に食べ続けるの。多分ほぼ毎日,欲しいものがあれば確実に二個,食べたりしながらね。そのうちヨーグルトになるかもしれないけど,その時はまたきっと,良いことがあったことになるから。
「うん,それで?」
 でね,桃の香りと,多分会った事はない『ササクラ』さんと電話越しに出会えた腕時計は電池が切れて,止まってるの。細い手首に巻かれて,文字盤だけ白くて,あとの残りは黒いだけ,単純な二色。付いて来る装飾がなさ過ぎの作りは,ある意味で犬の首輪と同じなんだ。縛られて意味を持ってる。でもね,私が変われたジンクス。世界が奥に,広がった出来事。それと関係するから,動かないと知ってて私は身につける。そして見えてから『しまった,まただ。』なんて,思ったりするの。
「残りの時間は?」
 余り無いはず。
「面接には?」
 間に合わないかもね。
「やっぱり世界は動いてる。」
 そういうことになると思う。
「なら,僕も立ち上がらなきゃいけない。できる限り休むようにする仕事は,でもこなさなければ済まないその日だから。頭痛は止まず,しかも仕事は数字を扱う事務職であったとしても。」
 でも確か足も痛いはず。
「そう,ぐっと黙ってる右の足に。何も思ってないかのような左の足。いずれも僕の,足と足だ。」
 お腹も空いてるよね?
「鳴きっぱなし。一番近くの信号機をマカロンに見立てて,短く点滅するその前に,黄色を真ん中から食べてやろうかと思ってる。そう思ってるから機嫌がやっぱり悪いのかもしれない。」
 朝御飯,食べてない?
「多分そうなんだろうと思う。彼女になってる,僕も食べてないしね。」
 そっか。
「そうなんだ。君は?」
 どうかな。プリンは食べてると思う。だってジンクスだから。私は食べてない。まだ食べてない。
「そうなんだね。」
 うん,そうなの。
「それで?」
 何が?
「彼である君は?彼女である僕は,立ち上がってるから。」
 そっか,そうだね。次は私だね。
「うん,そうなる。規則正しい,物語としては。」
 うん,その前に,もう信号は変わってる?
「多分変わってる。もう青だと思う。」
 じゃあ,走ってきた私はそのままの勢いで,スクランブル交差点を渡す横断歩道の一つを渡ることにする。僅かな望みでも前を向いて,掴んじゃうのが私だから。今までだって,それこそ幼稚園から一人で帰ったらあの時から,物事は著しく順調に進んじゃって,問題はいつまで経っても私の前に出て来れなかったんだよ?足跡を追うしかないみたいに,何も起きずに。強いてあげれば怪我らしい怪我は,新しく買った靴で出来た,右足の踵の靴擦れぐらい。しかも軽い。貼り忘れて,「あ,絆創膏!」と思い出したら,治ってたもの。だから前を向く。そして走り切るの。
「蝶々の意思?もう既に翔び尽くしたような?」
 そして悠々と,今を遊んでいるような,ね。『どこにでも,どこからでも。』。
「でももう,後ろがあるし,だから途中で,隣だって見てしまう。」
『ササクラ 』さん。
「出会えてないのに,出会えた。」
 うん,そう。だから渡りながらも私は,前だけじゃなくて後ろを振り向くかもしれない。同じように前を見て,ぶつかりそうな人は,そこに居ないか,もしくはね,落し物の心配をしているかもしれない。自分で気付けないものだしね。落し物なんて。
「そうだね。気付けないね。」
 うん,気付けないよ
「僕はそこに居るかな?」
 それは君が決めること。それが物語のルールじゃない?
「そうだね,その通りだ。」
 うん。じゃあ,君はどうします?
「それじゃあ,僕は君を見ることにする。青いタクシーは無事に右に曲がって,もう居ないし,僕だって信号を渡らなきゃいけないから。頭痛はしてても,そこに走ってくる人は嫌でも目立つ。だから僕は君を見る。彼である君を見る。」
 じゃあ,私も見る。何度も言うけど,後ろを振り向けば,その途中,動く隣が見えてしまう。そんな時,私を見てる,人が居れば,きっと私は見る。彼女である,君を見る。
「目は合う?」
 合うと思うよ。
「声は?」
 掛けるよ。
「何故だい?」
 分からない?
「分からない。僕は,多分しないから。そう思うから。」
 うん,君はしなさそうだ。
「うん,しないと思う。」
 だから,分からない?
「そう,分からない。」
 でも教えない。理由なんて,一つもね。
「どうして?」
 分からない?
「分からない。でもそれも?」
 うん,教えない。
「そうだと思った。」
 それは分かった?
「そう,分かった。」
 じゃあ,声を掛けても?
「いいと思う。」
 それから?
「それから?」
物語。どこに進むの?
「それはこれから,声を掛けてから,交わすこと,話す言葉にかかわってくるんだろうね。」
 彼と彼女が?
「彼と彼女が。」
 彼と彼も?
「彼と彼も。」
 彼女と彼女は?
「変わりはないよ,彼女と彼女が,話すことが出来るのなら。」 
 話すことが出来れば?
「話すことが出来れば。」
 出来たらいいね。
「出来るさ。彼女は決して,一人じゃない。」
 そうだね。
「そうだよ。」
 あ,最後に聞いてもいい?
「勿論。何だい?」
 蛙,どうするの?
「ああ,その点についても大丈夫だよ。彼と彼女が,上手くやってくれる。」
 小難しそうに。
「そう,小難しそうに。そして彼女を見つけるから。」
 その彼女って?
「分かっている。そうだろう?」
 うん,そう。さすが,分かってらっしゃる。
「僕もそう思うよ。」
 じゃあ,朝御飯でも食べに行く?
「もうお昼に近いけど,そうしてもいいと,思うから。」
 私もそう思う。
「何を食べようかな?」
 分からない?
「うん,分からない。」
 じゃあ,分かり合いましょうか?
「取り敢えず。」
 こんなところからでも。





(つづく。)

かえるろーど。(六)

かえるろーど。(六)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-03-22

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