老僧と子猫

老僧と子猫

 年老いたお坊さんは、いつもの様に寺で努めながら、掃除も、読経も、写経も、心から集中していた。しかし、いつの日からか寺に住み着いた子猫の事だけは、常に頭の中にあった。
 あの子は今日も元気に、遊んでいるかな。腹は空かせていないだろうか。母猫と逸れてしまったのだろうか。寂しくはないだろうか。
 そういった心配事の様な気遣いが、何故か止まらなかった。
 老僧は、幼い頃に流行り病で、母を亡くした。父は出稼ぎに行ったきり帰ってこなかったため、彼は生きるためにも、幼くして抱えた苦しみを乗り越えるためにも、出家した。
 そんな彼だからこそ、だろうか。自らが、あの子猫について気を遣う事が多い理由は、それは親心であると気づいた。自身が、幼い時に家庭を失った経験から、当時の心細さ、ひもじい想い、底無しの孤独、これらの負の感情が、自分で体験した苦しみが、あの子猫にも重なってしまうのだった。

 ある日の事だった。老僧は、典座の一人に猫の事情を話して頼み、南瓜の一切れを譲ってもらった。いつも、あの子猫が日向ぼっこをしている門にまで足を運ぶと、やはり、子猫はごろごろと気持ち良さそうに寝転がっていた。
「腹が減ったら、食べなさい」
 その様に一言声をかけて、また、一度念じて、老僧は門の内側へと戻った。
「みゃお」
 彼の背に向かって子猫は鳴いた。

 老僧が子猫に南瓜を食べさせてからというもの、彼が座禅をする時には、必ずと言って良いほどに、あの子猫が姿を現した。
 ある時は、老僧の隣で毛繕い。ある時は、老僧の背中にもたれ掛って昼寝。またある時は、彼の膝元に丸まって、まるで、彼の事を親だと思っている様だった。
 また、不思議な事に、老僧にも変化が起きた。以前までは、仏頂面であった彼の表情が柔らかくなり、時折、笑顔を見せる事もあった。
 数十年の生涯に於いて、親を亡くして以来の安らぎであった。
 いつもの様に、座禅に努めていると、子猫が、みぃみぃ、みぃみぃと大きく鳴いた。
 老僧の右手を何度も何度も、強く叩いた。
 彼にとっては、何が起きたのか解っていなかった。気づけば、目の前に子猫がいる。周囲では、雲水達の慌ただしい声と足音が聴こえる。が、そういった雑音は、次第に遠ざかっていくのだった。

 老僧は、懐かしい浜辺にて、潮騒を聴いていた。膝には、どこか見覚えのある少年が座っている。
 彼は少年に、ここがどこかを訊いた。
「お爺さんも、良く知っている場所だよ。お爺さんの、故郷でしょう、ここは」
 やはり、そうだった。ここは自分が生まれ育った漁村の、夕焼けが美しい海辺だ。
「そろそろね、お母さんが迎えに来るはずなんだけど、お母さん、なかなか来ないね。なんでだろう」
 老僧は、少年に教えてあげた。
「君のお母さんは、病気で亡くなったんだ。仏様に成ったんだよ」
 膝元に座ってる少年は、俯き、涙をポタポタと落とす。
「うん……。うん。本当はね、ぼくも知ってはいるんだ。ただ、覚悟だけが決まらなくて、お母さんが死んじゃった日の事を、認めたくなくて、このまま、東へと引き返して、お坊さんたちがいるお寺にお願いをして、出家しようと思うんだ。ぼくが生きるためには、それしか道が無い。……お爺さんは、どう思うかな」
 老僧は、両腕で少年を抱きしめた。自身も、嗚咽を堪えながら、大粒の涙を零しながら。
 彼は、赦してくれ、赦してくれ、と繰り返した。
「私はお前の事を、幼かった当時から今に至るまで、そう、私自身を、愛する事ができなかった。只管に、哀しみも憤りも悔しさも、寂しささえをも押し殺して、自分を否定してきた。仏門に入り、漠然と悟る事を目指し、胸中にて泣いている幼いままの自分に、見て見ぬふりをしてきた。向き合う事に耐えられない過去から、逃げ出していたんだ」
 少年は、彼の腕をそっと抱いて、嬉しそうに話した。
「ありがとう、お爺さん、人や子猫だけじゃなくて、自分の事も大切にしようという心を、やっと持ってくれたね。その心は、深く根差して、立派に伸びる木になって、多くの枝葉が茂るだろうね」

 少年の姿は、あの、見慣れた子猫に成っていた。
「毎日食べさせてくれた、南瓜のお礼ですにゃ」
 子猫は、老僧の足元に寄り添い、立ち上がるように促した。
 彼は、肉体を失った魂だけの在り方で、一切の苦しみから離れ、次の修行へと向かった。
 親心から差し出した、ただ一切れの南瓜による御縁によって。

老僧と子猫

老僧と子猫

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2025-04-25

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