
失くさないために捨てる
最近、物を所有していることに苦痛を感じるようになった。とはいえ、物を集め所有することは私の生きる楽しみでもあり、大きな喜びでもある。
必要なものだからこそ手に入れ、長い間、手元に置き愛でたいのである。それは自分の中にある、物を所有する意義や掟というものに沿って考えた時、その基準を満たしているから問題ではないのだが、それ以外に漠然と所有し続けている物に関しては、そろそろどうにかしたいと思うようになった。そうかと言って、全く未練がないわけではない。
元来、物を買う時、消耗品以外は処分するという前提がなく、とことん大事に扱う私は、数十年前の物であろうと手垢もつけず、すこぶる状態は良好である。どこも悪くなければ、ゴミとしてポイと捨ててしまうには、余りに惜しいものばかりである。誰か欲しいという人があれば、景気よくポンとあげてしまうのも惜しくはないが、やはり捨てるという行為が私を大きく悩ませるのである。
それでもだいぶ物は減って、私の身の回りはスッキリしたかに思われたが、古書収集をするようになってしまったことで、またその広々としていたスペースがにわかに狭くなって来た。これはどうにかしなくてはならない。
人生を豊かにするもののうちの一つが「物」であるのと同じように、その人生をある意味窮屈にさせるものも、また皮肉であるが「物」なのである。
先日、BS松竹東急で「ハロルドとモード」という映画を見た。生きる意味を見出だせず、自殺の真似事ばかりをするかなり風変わりな19歳の青年、ハロルドと恋に落ちる79歳のモードをルース・ゴードンが悲喜こもごも、チャーミングで魅力たっぷりに演じていて非常に胸がスッとした。
物語も終盤に差し掛かった頃、モードは第二次世界大戦中ナチスの迫害に遭い、強制収容所に収容されていたことが判明する。その過酷な体験から、今を楽しく精一杯生きて、人生を謳歌している。
二人が恋に落ち、デートも終わりに近づいた漆黒の宵。海岸でハロルドがモードにメッセージ入りのコインをプレゼントする。モードはそのコインを手のひらにのせ、じっと見つめると嬉しそうな顔をして、ハロルドに礼を言った。そのコインを大切にポケットなりハンドバッグに仕舞うのかと思いきや、次の瞬間、モードはそのコインを惜しげもなく海へと放り投げてしまった。驚くハロルドにモードが言った。
「これで失くすことはないわ」
このセリフを聞いた時、こんな風に物と向き合えたら、それも人がくれた物と向き合えたら、どんなにか気が楽だろうと思った。
戦時中、全ての財産を没収されて身一つで強制収容所に送られ、そして生還を果たしたモードは、物を所有するということの幸せを経験できなかった。物を所有することに、大きな意味を見出せなかったのかもしれない。
大切なものは自分の胸の中にしまっておけば、どこにいても誰にも持ち去られる心配はないし、失くしてしまう心配もない。過酷な半生を送ったことで身に付けた、物に囚われないモードの人生哲学だったのかもしれない。理由は何であれ、こんなにシンプルな物の考え方はないと、私はつくづく感心したのだった。
その後、ハロルドとモードは互いの愛を確かめ合い、めでたく結ばれたが、モードは80歳の誕生日に服毒自殺を遂げてしまう。映画の解説では、年若いハロルドを思っての服毒自殺と書かれてあったが、私はそんな思いとは裏腹に、この幸せをモードは二度と失いたくなかったからではないかと思った。愛するハロルドからもらったコインを、ものの1分もしないうちに景気よく海へと投げ捨ててしまったモードである。ハロルドの愛は自分の命にも代え難い、二度と失いたくない大切なものだったのだろうと思われる。
生きるという選択肢もあった筈だが、ここでモードが死を選んだことは、人生の敗北なんかでは決してない。むしろ、人生の勝利だったのではないか。
ナチスによる迫害で命を落とすことは、彼女にとって不本意なことだった筈である。幸運にもモードは生還を果たし、今、最愛の人に愛されている。これほど人生で尊く、幸せな瞬間はないのではないだろうか。自らの命を投げ出すことで、モードは生涯幸せなままで死んでいった。物など、場合によっては自分の命をも所有せずとも、人は幸せになれるのである。
物欲にまみれた私は、どれだけ素敵な人が目の前に現れようと、物に縛られて死んでいくのではないだろうか。それもまた、私にとっては幸せな人生かもしれない。いつかモードのように潔くなれたら、果たして私はそれを幸せと感じるのだろうか。
失くさないために捨てる
一見矛盾しているように見えるが、捨ててしまえば失くす心配もない。これは理にかなっている。しかし、捨てずに持っていたいと思うのが人間である。どうしたら身の回りをスッキリ保てるか。死ぬまで私にはわからない。
2025年2月25日 書き下ろし
2025年4月23日 「note」掲載