
恋した瞬間、世界が終わる 第88話「タンゴ、ワイドオープンスペース」
「これが、カルディだ」
「これは、マテ茶ですね!」
身なりの良い店員が帰り際に渡してくれたケースをリリアナに見せようと開いたら、わあ素敵なドレスね!の感動の声が先に来るかと思っていたのだが、高架下商店街の車内の中で、エンジンと、ピアソラ の音楽に重なってきたのは、
「P……?」
の非ユニゾン的、非ハーモナイズ的、簡単に言うと調和とは程遠い行き場所のない宙吊りになった音の「P」だった。
きっとそれは、コルトレーンも、ドルフィーも、マイルス・デイヴィスも戸惑うアドリブを決めてしまった。じゃあ誰なら許容するのか? デレク・ベイリーとか、大友良英とか、菊地成孔? 昔持っていたフリー・インプロヴィゼーションのギター奏者の名前が思い出せないのだが…。
ここで反響した「P」は、ロゴになっている文字で、メジャーリーグのチームのフィラデルフィア・フィリーズのことだった。
ケースの中身の大事な衣装をきっと感激で手に取って掲げてみようとしたリリアナの眼下には、そう、フィリーズの帽子が2個と、同じくフィリーズのパーカーの2着が、手品の種を見つけてしまった時に慌てて取るであろう代償動作でどうにかして塞がなければならない衝動を、塞の神の役割が芽生えた今まさに起こさせようとしていた。しかし、彼らは控え選手なのだ。せっかくここまで来れたのだから、せめて代打ででも出場させてあげないか? 三振? 良いだろう。それがこの後の人生に役立ってくる経験さ。という、私の視線に気づいたのもまた、リリアナだった。
(身なりの良い店員はフィリーズのファンなのだろう。ファンでなければどういった経緯なのか? できれば、ヤンキースかドジャースの方が良かった。そっちの方が現在は着用している人が多いから目立たないのだが、そんな私たちの都合に合わせて自身のアティテュードを変えることは野暮なことだからまあ、ケセラセラ)
そんな控え選手のおかげで、フィラデルフィア・フィリーズのファンに変装した私たちは、大型スーパーマーケット内のカルディで様々な国の輸入食品に紛れた棚の中に、キラッと光ったであろうもの。リリアナのマテ茶購入という所願成就を果たし、いつの間にかフィリーズの試合結果を確認したい気持ちになったのだが、今日は9月の末。メジャーリーグはもう終盤、物語の佳境に。フィリーズというチームは今年は強いのだろうか? ワールドシリーズに行けるのだろうか? 昔、ライアン・ハワードという選手がいた。穴が大きいが、四球と、本塁打と打点を稼げる優れた選手だった。日米野球で、外国人打者のスイングの軌道としては苦手となる日本人投手の投げたフォームボールを見極めて見逃し、その次の球をホームランにした時は、この選手はとんでもない選手になると思ったのだが。その年が、選手としてのピークだった。
そんな回想を、カルディでの買い物を済ませた後の大型スーパーマーケット内のスターバックスの椅子で、変装したことによる外的な面での安心から緊張感がほぐれてきた格好で、ショットグラスのエスプレッソのシングルに浮かぶクレマの泡の消えてゆく時間経過に委ねていた。
「マテ茶はありますか?」
その前面には、所願成就の果てに、またマテ茶を求めるリリアナの姿があった。スターバックスにはマテ茶はないよ。
しかしながら、人間の店員と、AIの店員が並び働いている。そう、そのはずだ。というのも、見分けがつかない。そう思うと、あのファミレスは人間の店員がどれほどいたのか?
リリアナが妥協して注文したコーヒーを待っている間、ノートパソコンを開いてみた。
「ん? なんで?」
ノートパソコンのデスクトップ画面に
よくわからないリンクが貼られていた
ためらった
リンク先へ飛んでみるか、ためらった
それが冥界へのリンクであるかのように、ためらった
ーーわたしの中を何かが通り過ぎる
誰か、何かの面影、手元のエスプレッソのクレマの泡が揺れる
そして、わたしを引きつける言葉を放つ
ファイル名: Good Idiot
リンク先、警告音が鳴ったーー
スターバックスの店内、吹き抜けのワイドオープンスペースへ音が漏れる。
通り過ぎたる足を止め、振り返る客、店員。視線が集まる傾向を見たリリアナは、手品の種を見つけてしまった時に慌てて取るであろう代償動作すら忘れてしまったかのように、青ざめた。店内のBGMとはハーモナイズされ、音は大きく増幅してゆく、
待ち
待ち
待ち続け
時が来た
【このファイルを開くまで、音は鳴り続ける】
その判断の先、
迷いを振り払うかの如く、ファイルをクリックした
残り10秒で止まったストップウォッチ
それは招待状だった
きっと彼らからの舞踏会への
これがココが店員に言い残したその招待状なのか
見られていたということか?
それとも、その前から気づかれていたのか?
「良い機会じゃない」
「何が?」
デスクトップ画面のメッセージを見て、コーヒーを片手にリリアナが言う
「その人たちに、ワタシタチのタンゴ を披露するのよ」
ーー私たちは、立体駐車場に停めた車へと戻った
「ここで踊るわよ」
そういうと、わたしの助手席の収納スペースのグローブBOXをまさぐり、一枚のCDを取り出して、カーオーディオに突っ込んだ
「ハポン、車のライトを強くして」
私はハイビームに切り替えると、駐車している前方に光の通り道が出来て、その光が駐車場の壁の方に向かって、車と別な車、形とまた別な形と、すれ違う何かのシルエットを映した。
それぞれの孤独に刺さる色合いに視えた。
「エンジンは切らないで」
リリアナは音量を目一杯に上げ、助手席の窓を全開にし、そのまま車から出た
「ハポン、こっち」
開け放たれた窓ーーその窓枠の先にフィリーズのパーカーを着たリリアナの上半身の首から下までが収まった。フィリーズの「P」の文字の前で、運転席の私をハイビームで照らされた車の前方へと手招きしたーーリリアナは私をワイドオープンスペースへと連れ出したーー
立体駐車場の中には他の車も多くあり、家族連れで歩く人の姿も見えた
ハイビームの一点は、駐車されていない開かれたスペースを見つけていた。
この雨降りでは外からの日差しが入らないので、見つけることは難しかっただろう。
それを見つけたリリアナは、遠慮深くその後を追っていたわたしを見つけて、そこまで引っ張っていった。
店内の出入り口へと歩く人たちの眼が、私たちに向けられていることを感じた
音が追いかける、
車の窓から離れた場所にも、車内の音、ピアソラ のOblibvionがしっかりと届いた
リリアナは私の左手を取り、右手を重ねた
そして、わたしの両手に、リリアナの両手が重なり
「その空いた手を、背中に手を回して」
私は遠慮気にリリアナの背中に空いている方の手を回した
ハポン、まずは、円を描いて回るわよ
踵を上げて
そう
左足を引いて
右にズレて
右側を開けて
駐車場の視線が私たちへと向けられている
「大丈夫。ハポン、あなたがリードするんじゃないわ」
その視線たちが足を止めていることを感じる
「ワタシがハポンの動きを引き出してみせる」
リリアナは、その間(ま)にアドリブを入れてくる
足を高く上げたり
私の足と足の間に、リリアナの足が出入りする
「ハポン、タンゴは距離感の駆け引きなのよ」
「そんな弱腰じゃタンゴにならないわ」
そういうと、リリアナはわたしの腰に自分の腰をくっつけた
「おい」
わたしの驚きをリリアナは無視し、くっついた腰を紙一枚ほどの距離感にした
「ハポンの片足には鉄球の足かせがついていると思ってみて」
「嫌な例えだな」
「ハポンはその足かせを引きずりながら、ワタシを抱き留めようとする」
「どんな設定だよ」
「ワタシの片足にも鉄球の足かせがついているの。だから、お互いが自由に動かせるのは、足かせがついていない方の片足だけ、わかる?」
「イメージはできるよ」
「そう、その分だけで出来ることをやるの」
「わかった」
「ハポンの足かせは右足にあるわ。そして、ワタシの足かせは左足にある」
「音を聴いて」
リリアナは、車まで戻って選曲をピアソラ のOblibvionに戻した
リズムをとるわよ
いい?
ウノ 、ドス、トレス
ウノ 、ドス、トレス
そう
いいわ
もう一度
ウノ 、ドス、トレス
そう、そのタイミングで動きを合わせるの
膝を緩めて
そう
回るわよ
「足を後ろに蹴り上げてみて」
私が蹴り上げた足に、リリアナは足を絡めた
そこで、私とリリアナはバランスを崩した
駐車場内の眼たちが、息を呑む音が聴こえた
「ハポンッ…!」
私はとっさにリリアナの体を抱き寄せた
床に崩れ落ちる前に、やることがあると思った
今度は間に合うことが出来たのだと
「さっきの足の動きは良かったわ」
リリアナの表情には驚きが伺えた
「それはどうも」
その着地した場所には何かがあるようだった
「でもね、ハポン。その足にはお互いの感情がまだ追いついてないわ」
「なんだって?」
「どこに“P”の文字が出てこようと、ワタシはあなたの声の音を嗅ぎ分けて、そのアドリブにだって意味があることを思い出させてあげるわ」
私の耳に届かなかった声として、リリアナはその感情の後先を駐車場内に残した
恋した瞬間、世界が終わる 第88話「タンゴ、ワイドオープンスペース」
次回は、5月中にアップロード予定です。