
ムラヨシさん
料理研究家のムラヨシマサユキさんが亡くなって、早や三ヶ月が経とうとしている。昨年、師走に入って容赦なく目に飛び込んで来た突然の訃報に、不覚にも涙したことを、昨日のことのように思い出す。
ムラヨシさんをNHKの「きょうの料理」で初めて見たのはいつのことだったか。そんなことをいちいち覚えていなければならないという、そんな堅苦しい感じの人ではなく、テレビの画面からでもきっと穏やかで優しく、懐の大きな人だったのだろうと容易に察せられた。美味しいものを食べると、人は幸せな顔になる。だから、食は人を笑顔にし心穏やかにする。それを全身に纏ったような、そんな人だったように思う。
私が初めてムラヨシさんを見た時の印象は、何か「おかしな髪型」というのが正直なものだった。たくさんの人に、その存在を覚えてもらうための戦法だったのか、私は知らないが、私が抱いたこの印象は、ムラヨシさんが亡くなるまで、いや、亡くなった今も良い意味で何一つ変わらないままである。「変な髪型」のムラヨシさんを見かける度に、私は失礼ながらそう思い、どうしてこの髪型なんだろうと思いながら、ムラヨシさんの作るお菓子や料理を見て、美味しそうだなと思い、気がつくと静かに「きょうの料理」のエンディングを迎えるというのが、毎度のことだった。
「きょうの料理」には不定期で出演されていたのか、レギュラーだったのか、それとも私がたまたま見ていなかったのか。そこのところは不明だが、見かけなければ「そういえば、ムラヨシさん出てないな」と思ったり、姿を見かければ「今日も美味しそうなものを作っているな」と思ったり、もちろん、料理研究家である彼が、そんな変なものを作るわけがなく、毎度毎度、それは食欲をそそる美味しそうなものを番組で作って紹介していた。
いちごのパンケーキツリー、シフォンケーキ、ウェルシュビスケット、フライパンお焼き、ゆずはちみつのレアチーズケーキ、味しみレモンケーキ、それは数え上げたらきりがないぐらい、プリンもあったな、どれも美味しそうなものばかりだった。
昨年、暮れも近づいた頃、ムラヨシさんの出演回で好評だったシフォンケーキの回が、真夜中にひっそりと追悼放送された。もうテレビでお見かけすることもないのだと思ったら、この追悼放送を見ておきたいと思い録画した。最初の数分見ただけで、その先を見ることができなかった。何だか物悲しくなってしまって仕方がなかったからである。
そんな状態で年が明けて、ムラヨシさんが亡くなって早三ヶ月になろうとしている先月末、「きょうの料理 強火で行こうぜ!」が放送された。
この日は、生前親交があった料理研究家の今井亮さんときじまりゅうたさんが出演し、ムラヨシさんが残したじゃがいも料理のレシピを元に調理しながら、ムラヨシさんとの思い出話を時折交え、番組は進んでいった。本来なら、この日はムラヨシさんが出演する回だったという。突然の訃報を聞かされたお二人も、まだ悲しみが癒えない中でのテレビ収録だったのではないだろうか。涙で収録が止まってしまわなかっただろうか。そんな私の思いをよそに、お二人はまるで、ムラヨシさんが今もそこら辺にいるかのような振る舞いをされていた。一緒に番組収録をしている、そんな心持ちだったのかもしれない。
番組も終わりに近づいた頃、何事もなかったようにエプロンをしたムラヨシさんが、おかしな髪型でまた笑顔で登場するのではないかと、私はちょっと期待してしまったが、当たり前だがそれはなかった。
今回紹介されたじゃがいもの料理は、どれも簡単で美味しそうだった。いつも見ているばかりで、実際に作ったりすることは稀だったが、今回ばかりは何か一品作ってみようと思った。 この料理を考えたムラヨシさんは、もうすでにこの世を去ってしまったが、きちんと分量を記したレシピは残り、そのレシピ通りに料理をすれば、ムラヨシさんが作った通りにはならないにしても、ムラヨシさんの料理を九十九パーセント再現できて、またその味を楽しむことができるのだと思っていたら、きじまさんも「レシピは残る」と同じようなことをおっしゃっていた。
ムラヨシさんは逝ってしまったが、おふくろの味ならぬ、「ムラヨシの味」は残して逝ったのである。
生前、ムラヨシさん自身がどんな風に思い、考えていたかは分からないが、自分の考えた料理がたくさんの人の家の膳に上がり、たくさんの人々の空かせた腹を満たし、何より幸せな気持ちにさせ、笑顔にさせる。自分がいなくなっても、誰かの家の中にそっと入り込み、もしかするとその家の定番料理になり、代々受け継がれていく料理になるかもしれない。そんな風に思っていたとしたら、テレビを通して視聴者や、自身の主催していた料理教室の生徒さんたちの手によって、ムラヨシさんの願いはきっと叶う筈である。料理研究家として、こんな幸せなことはない。
早速私もじゃがいものピザを作ろうと思っていた矢先、先に母に作られてしまった。とても美味しかった。どうして私はムラヨシさんが元気なうちに、彼の考え出した料理を作らなかったのだろうと思ったら、再び私の目に涙が浮かんだ。
これからも、ムラヨシさんのあのおかしな髪型と、美味しそうな数々の料理のレシピは、料理を愛する人々の心にずっと残ることだろう。
ムラヨシさん
2025年3月5日 書き下ろし
2025年4月16日 「note」掲載