地平線の彼方へ

 私の住んでいる四階建てのマンションの階段をやっとの思いで上り、戸口に近い廊下を歩いていると西の空には茜雲が丹沢の山並みを染めていた。
遠くに幾重にも重なる丹沢の山々はここから見ると都会の喧騒を忘れさせてくれる美しい自然の光景だ。時折りわずかながら富士の頂が姿を見せてくれる。

中華街での占い稼業の仕事を終えて妻に(お風呂入れるよ)と毎度の言葉にせかされて気持ちよく風呂に入っていると、時折りこの幸せな空間に容赦なく入り込んでくる魔物がいる。犯人の魔物とは私が過去に犯した罪深い行為の数々が罪悪感となって脳裏を素通りしてはまた戻ってくるのだ。
忘れたくてもその魔物は私の脳を容赦なく責め立てるのだ〔よくも、お前は気分良く湯船に浸かっていられるな〕と言っている様に。
まるで奥深い雪の降る闇夜に、古びた山小屋の木戸をギーギーと音を軋ませて入り込む冷たく鋭い風のようだ。
私は、長く人生を歩いてくると様々な人間模様を背負って歩くので闇夜を歩いてしまう事も仕方ないと自分に都合良く納得させて生きているがこの魔物は消えることなく現れるのだ。
この悪魔の様な重苦しい心にさせる原因は何かと言うと、自分の人生はなんだったのだろうかと、振り返ってみる事で答えが自ずとう生まれてくる。
己のしでかしてきた過去の社会人としての生き様が、家族や友人を含め様々な人に迷惑をかけてきた罪悪感の魂に追いかけられている有様なのだ。罪深い矢が追いかけてくるのであった。
社会に貢献した行為や人間性があったのかと己に問うてみても八十三歳のこの年まで声を出して言える貢献は皆無と言える。
逆に肩身の狭い想いの行為行動は数え切れない。
津波の引潮の様に一度悪に染まった私はそこから抜け出すのに人生の大半を使ってしまったと思う。勿論人によって罪悪感は違うと思う。私の場合は素直だった青春がどんどん色が重なり黒く暗くなって行く自分の歴史を反省を込めて記したいと思い過去の生き様を振り返ってみました。

1942年の真冬、私は母の船に乗ってあの世からこの世に来たようだ。あれから既に八十三年の月日が過ぎた。母は親不孝な私を残して一足先にあの世に帰って行った。
馬鹿な事を言うなと思うでしょうが、私は馬鹿の意味がイマイチわかりません。よく、あいつは馬鹿な男だと言う言葉を聞きますが、一般的には常識が無い、世間から逸脱しているとか言う軽蔑用語の類だと思う。私の人生もこの馬鹿な男の範疇だと思います。
私もそろそろ遺言書を書かなければならない。孝行息子に私の負債を負わせるわけにはいかないからだ。ダメ親父なのだ。
借金は200万位だか五十年の延滞利息が付いて1000万ぐらいになっていると思う。もう八十三歳だから財産放棄で終わらせるつもりだ。我が人生で子供達に財産など何も残せてやらなかった事を悔やんでも手遅れだ。謝るしか無い。今は精神的にはその辺を彷徨っているのだか、走馬灯の様に昔の私の行状を重ねて行くとこうなる事は必然と思える。
暗い話だか生命のある限り私の幼少期から今日までをた取ってみたいと思います。それはまさに人生の旅路のビデオテープみたいなもので私自身の心の絵の具を知る上で楽しみな事です。嘘は言葉が生きていません。
また文章を書き留める事が趣味で売れそうも無い小説を何冊も書いて日々を過ごす時期もありました。最近は書く事、それが私の場合は健康維持の秘訣と思える歳になりました。
これから書こうとする主題はなんだろうかと考えてみてもなかなか見当たらない。推理小説、文芸風、時代物、科学、色々な文学の方向はあるけれど、私には専門知識も無いし敢えて言うなら雑文家かな。つまり意図しない文章しか浮かばない。下手な油絵が好きで私の人生の伴走者の様に付き纏ってきたからおそらく仕上がりの文章は絵と同じで感動する様な文章にはならないで彷徨い歩いできた光景しかうかびません。
人生終活の日々です。昨今は最後にたどり着いた横浜中華街での占い稼業と僅かな年金をいただいて暮らしています。生活の糧になっている占い師ですが私は師と思った事はありません。相談者の苦悶と言うか悩み事の相談には占いと言う手段が一つの方策だと言う事に自分なりに気がついて、私みたい無駄な人生航路を歩まない様にと人生相談風の占いに生き甲斐いた言うか存在感を見つけて細々と生きているのが今の私です。

相模原の日帰り温泉でくつろいでくるのが楽しみです。そんな一日で生きています。暇に任せてつれずれなるままに我が身の歴史を振り返って見ることに致しました。

 東京空襲て新宿渋谷方面は暗い夜空に赤か染まっていた。
三歳になっていた酒屋の長男坊東一郎は隣人の青年ターちゃんの肩車に乗って赤く染まる笹塚方面を眺めていた。ターちゃんはB29爆撃だ空襲だ、と教えてくれた。数人の黒い影が開成道路から緊張しながら空を見つめていた。幼い私には暗い屋根づたいに火事で染る空が見あるだけで東京が空襲に会っているなど思ってもみなかった。三歳だものわかるはずもありません。
酒屋は国鉄中野駅から南に3キロほど下り甲州街道に突き当たる400メートル手前の四角にあった。多田商店街の一角にあり木造の40坪の借地に父が15年前に祖父の力を借りて開店したらしい。角店の酒屋は二階建ての四十坪の店でた夏目の木が店の脇に一本立っていた。夏目の実は甘くて美味しいかったのを覚えています。母は働き者で熊本の天草から、近所に嫁いだ姉を頼って女中奉公をしながら父と出会って結婚したと聞いている。父は技術者になりなかったらしいが祖父が男三人に酒屋をやらせたと言う。その真ん中の息子が私の父である。
祖父は当時日本で輪タクの元締めをしていたらしい。背中には羽衣の刺青があり、博打が好きで世間では一筋縄ではいかない男だった様だと父から聞いたことがある。丁半博打を開いて警察に御用になったことがあると父から聞いたことがある。
そんな祖父が引退後は鍋屋横丁の長男の酒屋の家に住んでいてたまに父のお店に通ってきていた。祖父は幼い私と姉達をつかまえては火ばちで餅を焼いてくれた記憶がある。
戦争は日々悪化していき警報が鳴ると家族全員で逃げ出した。
避難場所は近くの多田小学校の近くの防空壕に家族六人で夜中に逃げた。両親た私達兄妹は履き物、オニギリ、水筒など必需品などを腰に潜りつけて逃げ出した。小学校は店の左側の道を歩いて10分ぐらいの所にあった。右側を行くと当時東大の分校があり、そこに逃げた人は死者も出たという。人の運命は哀しくてわからないものだ。
戦況が悪くなり、長女は学徒疎開に行き、残りの家族五人は長野県伊那市の農村に疎開す事になりました。田園風景の静かな農村でした。母屋のある農家て隣の作業場を治して部屋を貸してくれました。
戦争のせの字もしらない私は畑に出てはバッタとりや魚とりに夢中で遊んでいました。父は体力が弱くて兵隊には行けませんでした。
どのぐらい疎開していたかはわかりませんがまもなく終戦となり、東京に帰ることになった。蒸気機関車デコイチは真っ暗な煙を出しながら信州の山河を超えて新宿にたどり着いた。私の幼い記憶に残るのは満員の客車の窓から外に出された記憶がある。その後はどうなったかは記憶にはなく気がついたときは、中野区多田町のバラック建屋の酒屋であった。酒屋は再建して酒醤油味噌が主な商品で母が手拭いわ被り鼻を黒くしながらタドンを丸くこねていた。
弟な昇は何処で覚えてきたのか分かりませんが、進駐軍の歌で〔向こう通るはジープじゃないか、あなたに彼方に君に僕、、、〕とチョコレート、ガムなどを貰ってきた事を覚えています。
酒屋付近の光景は開成道路を挟んで前はラーメン屋と時計屋、生地屋で斜め反対側の角店はパン屋でその隣は植木本屋さんでその隣は私幼友達だったコー坊で後に神奈川県の役人になった。パン屋の左隣は靴屋さんだった。その先が空き地になったい、よく、メンコやビー玉、ベーゴマなどをしていた。この賑やかさは終戦から二、三年は経っていたと思います。
メンコは駄菓子屋さんで売っていて母がよく買ってくれましたが、すぐ負けてしまうので父が手作り作ってくれました。
今思うと親不孝重ねた親に申し訳ないと想うばかりです。
時はすぎて行き小学校に通う様になりました。
酒屋のお店から子供足て15分ばかり歩いて行くと正門に八重桜が毎年見事な花模様を見せてくれました。
四年生のころ、レッドパージで担任の男の岡田先生が学校を辞めることになり、優しい先生でしたのでお別れは寂しい思いをした覚えがあります。
小学校六年になり中学校は立教、暁星中学校を受験しましたが見事に不合格でした。
和は自分で望んで受験したわけではありません。成績も良く無いのはわかっていましたから。
見栄を張って姉さん達が親を説き伏せ受験させたと今では思っています。私の兄妹は三人とも姉ですからオモチャはお人形さんでしたと言はれていたそうでさす。それを思うだけでボンボン扱いが推測できます。 小学校の宿題でひらがなの あ の字が書けなくて母が一所懸命手に取り教えてくれたこともありました。勉強は嫌いで近所の子供達とメンコビー玉、チャンバラ、ベーゴマなと体育会系の少年でした。ですから私立の有名校の受験は仕方なしに受けた様なものでした。
酒屋を継がせるには配達があるから、丈夫な体力と、算数だけで間に合う時代だったから親も何を考えていたのか不思議でなりません。
当時は酒屋の免許は酒税を扱う関係から免許制でしたから特異な存在と思われていたのでは無いかとおもいます。私立中学校の試験に落ちた結果私は近く中野区立第一中学校で学ぶ事になりました。
中学校は神田川の支流で地元の人は方南川と呼んでいた川の側にあり閑静な場所です。今は地下鉄方南町の側です。
まともに覚えている授業は社会だけで、数学英語は全くだめで、高校は都立高校の受験が失敗私立の獨協高校に行くことになりました。この高校の三年間は私の人生にとっては充実した日々でした。
英語がダメで一からやり直しと思いドイツ語を学び始めましたが、ついて行けずドイツ語も諦めました。
私の精神的な問題もあったかもしれません。
(どうせ酒屋の長男だから勉強しても無駄だ〕と言う逃げ道をつくっていたのです。
高校三年になると私はどうせ酒屋の跡取りだとレッテルを貼っていたし、親も酒屋を継がせると思っていたから勉強など関心が薄かったのだ。
当時の酒屋の営業は御用聞きといって毎日の様に各家庭をまわって、酒、味噌、醤油、砂糖、塩、その他必需品の注文をとって糧にしていたのだ。勿論店売りもあるけれど。
(おはようございます。和泉屋ですが今日の注文はいかがですか〕
でな具合の注文取りでです。紺の前掛けを巻いて腰に小袋をつけて荷台のついた自電車で一軒一軒まわっていくのです。当時は信州から都会に出てくる若い人も店員として働いていましたが酒屋を継ぐとなると店員さんと同じで御用聞きをしますから恥ずかしくて跡継ぎだけはごめんなさいと思っていました。近所には仲の良い女性の同級生もいましたし、若き熱烈な青春を走ろうする若者には納得できない世界だったのです。
中学時代の後半になると担任の先生が親に都立四商高校の進学を薦めに家庭訪問で来てくれたのですが、私は母と先生のいる前ではっきりと商業高校はいかないときっぱりと断言したのです。借方、貸方とかの簿記は現実的な勉強だから私には夢も希望も無いような世界に当時はみえたのです。どちらかと言えば芸術系が私の心どこかに潜んでいたかもしれません。
小学校五、六年にころ、多田小学校の手前の広場で当時の娯楽として流行っていた大衆劇団の尾上菊之丞一座が来て夕方から股旅の出し物を公演していたのです。原っぱにテント小屋をつくり舞台には古びた緞帳がありました。私の住まいでもある酒屋に宣伝用ポスターを張ったことで劇団員が無料招待してくれたので一人で観劇に出かけたのです。酒屋から歩いて五分ぐらいの人気のない野原に劇団員の名前の入ったのぼりが数本風になびいていました。
演目は覚えていませんが(国定忠治)擬きの時代劇でした。私は一番前の舞台の前に座り緞帳に隠れるようにし熱心に心を震わせて見ていました。どんな場面か忘れましたが、娘と育ててくれた祖父との別れの場面か、チャンバラの悲しい場面かそんなところだと思います。私は古びた緞帳の袖を手繰り寄せ涙を拭いた記憶が今でも鮮明に残っているのです。感涙です。この優しい性格の流れも姉の三人娘の人形さん遊びの影響だと思います。兄でもいて、柔道、剣道でもしていたら私の性格も逞しくなったかもしれません。話は遡って高校時代の続きです。商業高校受験を辞めたのですが普通高校の受験勉強不足で不合格になり、たまたま父の関係で私立高校の目白にある獨協高校を受験を勧めてくれた問屋さんがいた縁で入学ができました。数学がたまたま家庭教師が教えてくれた問題と似ていたので高得点につながったと思っています。



当時の獨協高校は医者や歯科医の息子がかなりいたので進学校でした。周りの友達と比較すると酒屋の御用聞きの人生はとても夢も無く耐えられる青春なかったのです。
ですからやけ気味て教科書を買わないで教師を困らせた事も数々ありました。悪ガキでも友達はできるので、同じクラスて蒲田駅近くの布団屋さん山内と言う友達がいた。
その父親が亡くなった翌日の葬式に私と彼は大井競馬場に馬券を買いに行ったのだ。
今思えば親が競馬好きだったので大井競馬場に行っても怒らない、むしろ良い弔いになると屁理屈をつけて二人で馬券を買ったこともある。そうかと思えば、学校をサボって新宿歌舞伎町の裏にあったキャバレー女王蜂に行き大人になる訓練だとか言っては遊んだ事もあった。飲み代が足らなくなると友人の山内は布団の仕入れ先のお店に行ってお金を借りてきたこともあった。正にお互いに不良仲間だ。私は高校三年になった春のころクラス仲間は来年は大学受験になるので勉強に力を入れてきたので何故か私は元気が無くなって来た。どうせ酒屋になるのだから勉強しても無駄だし、今更遅れている勉強を始めても真面目なクラスメートにはついていけないと言う諦め感がありクラブ活動に身の置き所を求めて新聞部の部長の席が受験勉強のため誰も部長にならないので私がやる事にしたのです。
学校新聞はタプロイド二面で月一発行で早稲田の印たのです。していました。私はあのインクの匂いが大好きでいまでも懐かしく思います。時には授業を忘れて編集にパワーを注ぎ込みました。新聞の広告取りに力を注ぎ、酒屋の倅だから親に頼んで缶詰の広告や、色色な広告を取りまるで営業マンでした。その努力?があってか、新聞部の財政は豊かで数名の部員でよくカツ丼を食べました。流石にその金でキャバレー遊びはしませんでした。勿論キャバレーは一回だけでもしかすると卒業した後、予備校時代と錯覚しているかもしれません。
いずれにせよ、それはされ、これはこれと公私混同はしません。武士の魂?が何処かに残っていたのかもされません。
他校訪問と言う機会があり良く女子校の新聞部の女学生が訪問に来ました。こんな時は手勢が少ないので臨時の部員候補が喜んで会ってくれました。青春の華やかな場面でした。

地平線の彼方へ

地平線の彼方へ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-04-10

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