筍掘り
筍掘り
祖父の家の近くには『お山』と呼ばれる小高い山があった。
お山は竹林に覆われ、春先にはおいしい筍がどっさり採れた。子どものころは所有者の許可を得て、祖父といっしょに筍掘りに出かけたものだ。
お山へ入る際、祖父のそばを離れないこと、万が一はぐれてしまってだれかに――たとえ家族や友人の声だとしても――名前を呼ばれても応えず振り向かないこと、祖父が私を見つけるまでその場を動かず摩利支天の真言を唱え続けることを耳に胼胝ができるほど念押しされた。
祖父はお山の中で私をまったく別の名前で呼んだ。
私が結婚し、曾孫の顔を見せてから数年後に祖父は亡くなった。
空き家になった祖父の家の取り壊しと土地の売却が決まった。
取り壊しの直前、遺品整理のために祖父の家へ赴いた。「最後にひいじいじのおうちに行きたい」と訴えた五歳の娘も連れて。
遺品整理とはいえ、祖父の生前におおかたのものは処分しておいたので、形見になりそうなものを親族で分け合った。
私は黒水晶の数珠、娘は古いお手玉――確か祖母のお手製で、祖父が大事に取っておいたものだ――を譲り受けた。
残った細々としたものを片付けていると、従兄が青ざめた顔で駆けこんできた。
「庭で遊んでおったはずの子どもらがおらん」
庭には娘を含めた、上は小学一年生から下は三歳までの子どもが五人いたはずだ。
私は血の気が下がる音を聞いた。
家じゅう大騒ぎになり、総出で周辺を探し回った。
太陽が傾きはじめても子どもたちは見つからなかった。父と伯父が最寄りの交番へ車を飛ばした。
「もしかしたら、お山へ行ってしまったんじゃあなかろうか」
母がぽつりと呟いた。
「どうすればええんじゃ。お山の作法はじいちゃんしか知らんのに」
伯母が顔を両手で覆う。突然、従兄が「筍!」と叫んだ。
「そうだ、筍だ。おまえ、毎年じいちゃんといっしょに筍掘りにお山へ行ってたよな?」
従兄は私の肩を掴んで揺さぶった。
「おまえなら、お山の作法わかるんじゃないか?」
私はがくがくと頷いた。
従兄が運転する軽トラに乗ってお山に着いたころには、すっかり夕暮れ時になっていた。
久しぶりに訪れたお山は子どものころのままだった。
緩やかな斜面から伸びた竹林が薄ら寒い暗がりを落とし、そのまま頭から呑まれてしまいそうだ。あたりには鳥の声ひとつ聞こえない。
「ああ――やっぱりだめだ。俺はこっから一歩も動けん」
運転席でハンドルを握ったまま、従兄はぶるぶると震えている。
私はひとり軽トラを降りると、祖父に連れられて何度も歩いた獣道をたどっていった。
仄暗い竹林へ足を踏み入れると、キ――ンッと耳鳴りがした。
風に揺れる竹がほかの竹とぶつかって、カランコランと木琴に似た音を立てる。
竹と竹のあいだで、人影のようなものがくねくねと踊っている。
「おーい、まてよー」
従兄の声が後ろから追いかけてきた。
「おーいってばー」
従兄の声が名前を呼ぶ。祖父がお山の中で私を呼んでいた名前だ。
従兄が知るはずのない呼び名を知っている声は徐々に数を増やし、従兄、父、母、伯父、伯母と、ここにいない親族の声を真似て呼びかけてきた。
「おかーさぁーん」
娘の声が聞こえた。
思わず振り返りそうになったが、立ち止まって深呼吸。
腹に力を込めて摩利支天の真言を唱える。お山へ入る前に必ず祖父と練習をしたおかげで、いまでもすんなり諳んじられた。
真言をくり返すうちに声は消え、人影のようなものは私を見失ったように竹林の奥へ散っていった。
カランコランと竹の鳴る音が戻ってくる。ザクッ……ザクッ……と、聞き覚えのある足音が前から近づいてきた。
竹と竹のあいだから祖父が現れた。
年季が入ったキャップと野良着。首には馴染みの工務店からお年賀で貰う薄手のタオルを巻き、両足には踏ん張りの利く地下足袋を履いている。
手には筍掘りに欠かせない鍬。背中には大きな背負い籠。
「えれぇぞぉ。じいちゃんとの約束、ちゃんと守れたなぁ」
真っ黒に日焼けした顔の皺を増やして笑う。私は真言を唱えながら膝から崩れ落ちた。
祖父はうんうんと頭を上下させた。
「そうだ、死んでも口は止めんじゃねぇぞ。こっから先はおらぁが案内すっから、おめぇはじいちゃんのあとしっかりついてこい」
私は涙目になりながら首肯し、祖父を拝んだ。祖父はくるりと背中を向けると、昔のように矍鑠とした足取りで歩きだした。
私は必死に祖父を追いかけた。体感では一時間も二時間も過ぎた気がするのに、竹林の中は薄墨色の夕闇に閉ざされていた。
頭上を仰ぐと、折り重なった竹の隙間から茜空が見える。スマホのライトを点けていないにもかかわらず、祖父の背中も竹の根が血管のように浮きでた斜面もはっきり視認できた。
私は無駄な思考は放棄した。お山の中では祖父の言うとおりにするほかない。
祖父は基本的に温厚でやさしい老人だが、怒らせるととんでもなく怖かった。幽霊でも拳骨は痛いのだろうかと考えていると、数メートル先で足を止めた祖父がちょいちょいと手招きしていた。
私が走り寄ると、祖父は太い古竹の根元を慎重に鍬で掘り起こしはじめた。
「子らぁにお手玉を持たせたろ。中身の小豆が魔除けになってくれたおかげで、おらぁが先に見っけられたんじゃ」
祖父は鍬で慎重に土を掻きだしていく。私は悲鳴を上げそうになった。
土中から姿を見せた大小五つの筍は、産着を重ねたような皮の内側に見覚えのあるお手玉を抱きこんでいたのだ。
「子らぁはよっく眠っとる。摩利支天様のお力をお借りしてめくらましをかけたんじゃが、夜が明けるまでにお山から出んと本物の筍になっちまう」
祖父は筍をすべて取り上げると、背負い籠に入れて私に背負わせた。
ずっしりとした重みが両肩に食いこむ。寝入った娘をおんぶしたときより重い。
「帰り道はわかるな?」
頷いてみせると、祖父は眦を下げて破顔した。
「里に下りるまで振り返るなよ。おらぁの声がしても、それはおらぁじゃねぇからな」
私は涙で声が詰まらないように堪えながら再度頷いた。
もう祖父はいっしょに帰ってはくれない。今度は私が娘たちを無事に連れて帰る番だ。
私はもういちど祖父を拝んで深く一礼すると、踵を返して全力で走りだした。
「達者でなぁ」
祖父の声が背中を押す。
怖気立つ夜の気配を乗せた風が竹林を吹き抜け、ザ――ッと笹鳴りが走った。
しなる竹がカランコランと鳴子のような音色を響かせた。
私は転がる勢いで斜面を駆け下りた。
喉の奥が痛い。声は掠れ、真言の途中でつっかえてしまう。
「おぉーい」
背後から祖父の声が呼びかけてきた。竹と竹のあいだで人影のようなものが蠢き、底知れぬ夜の闇を引き連れて迫ってくる。
「まーてよー」
「せなかのたけのこおいてけよー」
「うまそうなたけのこおいてけよぉー」
祖父を模倣する何かの声はもはや数えきれなかった。
不意に、怒りが恐怖に打ち勝った。
大好きな祖父を虚仮にされ、わが子を食い物扱いされ、腹の底から激しい感情のうねりが沸き起こる。
私は喉が潰れんばかりに声を張り上げた。
竹の天蓋高く真言が反響すると、呼び声は急速に遠退いていった。
人影のようなものの動きが緩慢になり、やがて闇のむこうに溶け去る。
勢い余って靴底が滑り、私は尻餅をついたまま斜面を滑り落ちた。
竹林がふつりと途切れた。
視界が真っ白になり、とっさに両腕で顔を庇う。
「おーい!」
従兄の声が近づいてくる。真言が途切れてしまっていた。
反射的に身を竦めると、従兄の声が焦った様子で「子どもらだ!」と叫んだ。
「怪我ぁねぇか!?」
「大丈夫ですか?」
「女性と子どもを五人、発見しました!」
父と伯父、それに知らない声がいくつも聞こえた。犬の吠え声も。
突然抱きしめられてパニックに陥ったが、涙まじりの父の声が「もう大丈夫だ」とくり返し告げた。覚えのあるてのひらが背中を撫でさするうちに呼吸が落ち着いてくる。
おそるおそる瞼を持ち上げると、目の前に父の泣き顔があった。
「よかった。本当によかった。おまえまで山に入ったって聞いて心臓が止まるかと思ったぞ」
「お父さん、あの子は? 娘は? 子どもたちは?」
「そこにおるよ」
父の腕の中から振り返ると、警察官や地元の消防団員が毛布やバスタオルでくるんだ娘たちを抱き上げ、担架に乗せているところだった。
「みんなすやすや寝とるよ。あちこち汚れちゃいるが、怪我はしとらんようだ」
父の言葉にへなへなと力が抜けた。
私たちを捜索していたらしい人びとが持つ懐中電灯の白い光が無数に交錯し、とっぷりと日が暮れた空に竹林を黒々と浮かび上がらせる。
お山から冷たい風が吹きつけ、ささやくような祖父の声が「またなー」と耳の奥に木霊した。
そこで私は意識を失った。
ここから先は後日談である。
昏倒した私と眠りこける子どもたちは病院へ搬送されたが、私があちこちにすり傷をこさえていただけだった。
翌日には無事全員退院し、私は母に泣かれ、従兄は父と伯父からこっぴどく怒鳴られた。
子どもたちにお山へ入った理由を問いただしたが、五人とも何ひとつ憶えていなかった。庭でかくれんぼをして遊んでいたところで記憶が途切れているらしい。
「あのね、夢の中でひいじいじに会ったんだよ。ひいじいじとお山に行ってね、たくさんたけのこ採ったの」
娘は楽しそうに教えてくれた。
「でもね、たけのこいーぱっい採りすぎちゃったから、ひいじいじがおすそわけしてこなくちゃいけなくなったの」
代わりに私が迎えに来るから、それまでお手玉をして遊んでいるよう祖父から言いつけられたのだという。目が覚めると病院のベッドで、私の顔を見て「ひいじいじの言ったとおりだ」と安心したらしい。
娘が持っていたお手玉の袋を開けると、中には黒く萎びた小豆が詰まっていた。
私が上着のポケットにしまっていた数珠は黒水晶がすべて白濁していた。魔除けとしての力を使い果たしたのだろう。
もしもお手玉も数珠も持っていなかったら、いまごろどうなっていたのだろうか。
「おうちに帰ったら、お手玉に新しい小豆を入れて縫い直してあげるね」
「うん! また夢でひいじいじに会ったら、いっしょに遊ぶんだぁ」
娘の笑顔に、私は複雑な気持ちで笑い返した。
退院後、私と娘は両親が住む市街地の実家に移った。
私は父から聞きだしたお山の所有者に連絡を取った。緊急事態とはいえ無断で私有地に入ってしまったことを謝罪しようと思ったのだ。
所有者は地元に古くからあるお寺で、祖父の家系の菩提寺でもあった。
電話口に出た年配の住職は「ご無事で何よりです」と心底安堵した様子で言った。
「このたびはご迷惑をおかけしました」
「いえいえ。おじい様にはお山の管理を任せっきりで、こちらこそお世話になっておりましたから」
「祖父がお山の管理を?」
「ええ、ずっと昔から。おじい様の……何代前からでしょうかねぇ」
意外な事実に唾を飲んだ。
住職によると、祖父の家が建つ土地はもともとお寺の土地で、お山の管理を任せる代わりに先祖に譲り渡したらしい。
それから何代にも渡りお山の管理を続けてきたが、晩年の祖父が「自分を最後に、土地を手放したい」と相談してきたのだという。
「お子さんは皆さん家を出ているし、お山の管理を任せるにはお子さんにもお孫さんにも荷が重いだろうとおっしゃっていましたよ。ちょうどお山を含めたあたり一帯を買い取りたいというお話をいただいたところだったので、いったんうちがおじい様の土地を買い直すことにしたんです」
「その、つかぬことをお聞きしますが……あのお山には何か曰くがあるんですか?」
「曰く、と申しますと?」
「祖父の家では、お山はとてもおそろしい場所で、粗相のないようにときつく言い含められていたので」
「然様ですか。曰くというか……先代からは、あのお山は古墳だと聞いております」
「古墳?」
「ええ。かなり古い時代の墳墓だそうです。埋葬されているのはどこのだれか不明らしく……まあ、おそらく当時の土地の有力者でしょうな」
住職は軽く笑い、祖父も古墳だと知っていたはずだと語った。お寺にはその程度しか話が伝わっていないという。
「古墳を買い取りたいというのは、どこかの大学か研究機関ですか?」
「いえいえ、海外の企業ですよ。なんでもお山を切り開いてソーラーパネルの発電所を作るとか」
「えっ?」
私は耳を疑った。電話のむこうで住職が苦笑いをしている。
「最近は檀家も減るばかりで、田舎の寺もなかなか経営難でしてねぇ。まあ手厚くお経を上げさせていただいて大目に見てもらおうかと」
なかなか生臭い話に「はあ」と返すしかない。さすがにまずいと思ったのか、住職は咳払いをした。
「そうそう。おじい様のお血筋は代々信心深くいらっしゃって、ことのほか摩利支天様を篤く信仰されていましたね」
「ああ、はい、祖父もそうでした。そちらのお寺のご本尊なんですか?」
「いいえ、違いますよ」
またもや予想外の回答に私は混乱した。
お寺は摩利支天と縁もゆかりもなく、祖父の家系に伝わる独自の信仰だという。
「摩利支天様はかつては武士の守り仏とされてきましたから、おじい様のお血筋もどこかのお武家様の末裔なのかもしれませんなぁ」
私はなんと反応すればいいかわからず、「祖父は時代劇が好きでしたから、あんがい当たりかもしれません」とお茶を濁した。
住職との電話を切ったあと、私は父に尋ねた。
「うちの家系って、元は武士だったの?」
祖父の次男に当たる父は首を横に振った。
「そんな上等な身分じゃねぇよ。じいさんによると……修験者とも忍びとも言えないような流れ者だったらしい」
「流れ者?」
「俺も兄貴も詳しくは教えてもらえなかったんだよ。ただ、ご先祖は後ろ暗い過去があって住んでた土地を離れたそうだ」
従兄と同じく、伯父も父も幼少期からお山へ本能的な恐怖を抱き、一歩たりとも足を踏み入れられなかった。孫の中で唯一私だけが祖父についてお山へ入ることができたのだ。
しかし、女の私は田舎の考えでは跡取りになれない。両親は落胆するどころかひどく安堵した。
祖父も私に家業を継がせるつもりはなかったようで、自分の代で家屋敷を手放し、お山の管理から手を引く算段を整えたらしい。
「じいさんが何度もおまえをお山に連れていったのは、自分が死んだあとに何か起こっても対処できるよう保険のつもりだったんだろう。そのおかげでおまえも子どもらも無事に帰ってこられたんだ」
「……うん」
私にはまだ腑に落ちないことがあった。
「ねえ、お父さん。おじいちゃんは……本当にお山が古墳だって言ってた?」
「どういう意味だ?」
「あそこが古墳だって聞いても納得できないの。だれかのお墓っていうよりは――」
私は思わず口元を押さえた。鼓膜にこびりついた呼び声がよみがえる。
ひどくおぞましい、おそろしいものが封じこめられているような――言葉にすることも憚れた。
父は眉をひそめて「もう、お山のことは忘れろ」と言った。
「あそこはうちとは関わりがなくなったんだ。もうすぐ家も取り壊される。二度と近づく必要はねぇ」
「……そうだね」
父の言葉に押し切られ、私は頷いた。
「おかあさーん!」娘の呼ぶ声に意識が切り替わる。
「ばあばがねぇ、たけのこご飯作ってくれたよー!」
「えー、本当?」
台所から走ってきた娘を抱き止める。両手で抱え上げると、祖父から託された背負い籠の重みを思いだした。
「のんのんさまにおそなえするんだってー。そしたらね、ひいじいじもおいしーって食べてくれるって」
「そっかぁ。じゃあいっしょになむなむしようね」
「うん!」
娘は笑い声を上げて首にかじりついてきた。私は小さな体を強く抱きしめ、「またなー」という残響を記憶の奥底に押しこんだ。
二度と耳にすることはない。
――だがもしも、私の手が届かない場所でこの子に何か起きるかもしれないとしたら、私も祖父と同じ保険をかけるだろう。
未来の娘を守るために。
祖父の家が取り壊されて間もなく、その土地を含めたお山一帯はとある企業の所有となった。
お山を覆う竹林は切り払われ、ソーラーパネルの発電所を建設する工事がはじまったが――なかなか進展しないらしい。
風の噂では作業員の負傷が後を絶たず、行方不明者まで出ているそうだ。
しかし、私たちはもはや関わりようがない。
伯父と父は墓じまいを行い、親族揃って慣れ親しんだ土地を離れた。
私は娘を連れて自宅に戻り、すべて忘れたふりをして日常を再開した。
最近、両親が近隣へ越してきた。仕事柄不在がちな夫は、両親が近くに来てくれて安心だと喜んでくれている。
私は母から貰ったお裾分けのタッパーを冷凍庫へしまいこんだ。
今晩の夕食は筍ご飯だ。
筍掘り