Forget me not
かつて人間の男女は一つの球の形をした生き物であったと大昔の哲学者は言う。アンドロギュノスと呼ばれたそれは、完璧ゆえに傲慢であった。
だからその傲慢さに怒った神は、アンドロギュノスを二つに割ってしまった。半分になったアンドロギュノスが、今の人間である。そして半分に分かれた人間は、世界のどこかにいる自分の片割れを探して生きているのだ。元は一つだった存在の半分、運命の相手を。
───なら、私の運命の相手はどこにもいないのだろうか。
少年はこの話を知った時、そう思った。
少年の体は、男と女どちらの要素も持っていた。幼い頃は現代のアンドロギュノスだと言われたことがある。その時は意味がわからなかったが、今ではわかる。しかし、少年の体は完璧ではなかった。男としても女としても、次代に繋げる能力が無いのだ。他にもところどころ欠陥がある。二十歳まで生きられたら奇跡だと言われたのは、少年が審神者になってからのことだった。
かれは審神者になるために生まれた命、この国の歴史を守るために生まれた命である。自分が短命なのは、生命の理を完璧に理解し制御しようとした人間への神様からの罰なのだと、少年は思うことで気持ちに何となく折り合いをつけた。仕方ないことだと。仕方ないのなら、せめて精一杯生きようと思った次第だ。
愛を知りたい。恋をしてみたい。これが少年の人生の目標である。もちろん、審神者としての使命こそが自身の人生であることは分かっているのだが、それはそれとして、この短い命に花を添えられたら、素敵だと彼は思っていた。
そして、少年は恋をした。人ならざるものに。
『彼』は黒い服を身に纏い、黒い髪に、赤い瞳を持っていた。色素の無い髪と瞳の少年とは真逆の、しなやかな黒猫のようなその姿。はじまりの一振り、打刀。加州清光に恋をしたのだ。……かれが十歳の頃である。
「加州さん、」
少年の本丸は加州清光を顕現させた後、すぐに休眠状態に入った。初陣で傷を負い血を流して帰ってきた加州清光に、少年はパニックを起こし、霊力の暴走を引き起こしてしまったのだ。
かれを中心に起こる大嵐に、こんのすけは驚き政府へ救援要請をしに走ったが、加州清光は血まみれの体のまま、嵐の中心の少年にゆっくりと歩み寄り、その風でさらに身が斬られようとも構わず、かれをぎゅうと抱きしめた。
「ごめ、なさい。ごめんなさい加州さん。いたいでしょう、いやだったでしょう」
「ううん、痛くないし嫌でもない。ただ、さ……こんな姿でも、俺のこと、愛してくれる?」
「そんなの……」
震える瞳───上手く見えない欠陥品の瞳で、少年は加州清光を見つめた。
「私、あなたがすきよ。加州さん……」
ゆっくりと嵐が収まった。これが、かれの恋の始まり。
少年が自身の霊力をある程度制御できるようになるまで、かれと加州清光は出撃も鍛刀もせずに、ひっそりと暮らすことを許された。大侵寇を乗り越え、しかし多数の犠牲となった審神者が出た後、少年の本丸はようやく始動したのである。少年の本丸にはかれの霊力に影響されたのか、小さな青い花───勿忘草がそこかしこに咲き乱れている。大きな実をつけない花であった。その花とは裏腹に少年と加州清光の四年間は、少年の恋の蕾が花になって、実が成り熟すまでじゅうぶんな時間だった。
「主、ただいま」
「おかえりなさい。皆無事で何よりです、隊長の加州さんには誉をあげないとね」
「へへ、ありがと。……主、これお土産。これくらいなら歴史に影響は無いし。あげる」
顕現したばかりの刀たちを連れて維新の時代に向かった加州清光が、報告のために審神者の部屋の襖を開けた。近侍であり第一部隊の隊長。加州清光は今や審神者の頼れる懐刀となっていた。
そして、たった今彼は、審神者の少年に赤い花を差し出していた。そっと受け取った審神者の少年は、花を頬に寄せて微笑む。
「まあ、お花……! 知らないお花だわ、何かしら」
「海辺に咲いてたんだ。あの時代の人に聞いたら、ハマナスって言うんだって」
「ハマナス。ふふ、加州さんの瞳の色みたい」
「そう?」
「そうよ。……あら、ハマナスってローズヒップのことなのね。実も花も体に良いみたい」
「ろーず……薔薇の仲間?」
「ええ、バラ科のお花だそうよ。花言葉は……まあ、すてき。『旅の楽しさ』『幸せの誓い』ですって」
少年は赤い花を胸に抱いたまま、微笑んだ。
「旅の楽しさ、幸せの誓い……加州さんらしい花言葉ね」
「ふふ、主花言葉好きだよね。で、どういう意味?」
加州清光が片眉を上げて問いかける。少年はくすりと笑いながら、そっと花の香りを吸い込んだ。
「あなたと一緒なら、どんな時も楽しくて幸せよ、ってこと」
少し照れくさそうに言う少年に、加州清光はふっと口元を綻ばせた。
「……主、そういうことをさらっと言うの、ずるいよ」
そう言いながらも、彼の赤い瞳はどこか優しい色を帯びている。
「加州さん、」
少年は机の上の小さな花瓶を手に取り、ハマナスをそこに挿した。鮮やかな赤が、部屋の中でひときわ目を引く。その隣には、すでに別の花が活けられていた。小さくて、青い花───勿忘草。
「勿忘草って、主の霊力が影響して咲くんでしょ?」
「ええ、気づいたら咲いていたの。だから、特別な花だと思ってるわ」
少年は青い花にそっと指を這わせた。その小さな花々がひっそりと、それでも力強く咲いている様子が、どこか自分と似ている気がした。
「この花の名前、英語で言うとForget-me-notなのよ」
「ええと……忘れるな、ってこと?」
加州清光がぽつりと呟く。少年は微笑んで頷いた。
「ええ。花言葉もね、『真実の愛』と『私を忘れないで』なの」
静かな空気が、ふたりの間を流れる。やがて、加州清光は微かに笑いながら、少年の手からハマナスの花瓶を受け取り、慎重に勿忘草の隣に並べた。
「じゃあ、主。どっちの花も忘れないでよ」
「もちろんよ。……加州さん、あなたもよ」
私を、忘れないで。
少年の言葉に、加州清光は一瞬だけ目を見開いた。そして、すぐにいつものように、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべる。
「俺が主を忘れるわけないじゃん」
その声は軽やかで、けれどどこか、そっと心の奥に刻み込むような響きを帯びていた。
(ああ、好きだわ)
少年は、目を細めて加州清光を見つめる。
「加州さん、」
少年はぽつりと呼びかけた。少し前まで無邪気に笑っていた声とは違う、静かで、けれど何かを確かめるような響きを持つ声だった。
加州清光は、そんな少年の様子に気づいたのか、軽く瞬きをしてから「ん?」と返す。少年は少しだけ唇を噛み、それから意を決したように口を開いた。
「……本当の運命の人じゃなくても、いいかしら?」
加州清光の赤い瞳がわずかに揺れる。
少年は、そっと己の指先を見つめた。そこには小さな青い花、勿忘草が咲いていた。霊力の影響で咲いた花。まるで、自分の心を映すように。
「昔ね、アンドロギュノスの話を聞いたの。人は元々、一つだった存在の半分で……本当の片割れを探し続けるものだって」
「ああ、知ってるよ。じじ……一文字則宗から聞いた。プラトンの『饗宴』でしょ」
「ええ……けれど、もし私の半分がどこにもいなかったら? もしくは、もう出会えないとしたら?」
少年は加州清光の方へ顔を向けた。
真っ直ぐな瞳。けれど、その奥にはかすかな寂しさが滲んでいる。
「本当の片割れじゃなくても、私はあなたを運命の人にしたい。あなたを、愛しているわ」
はっきりとした言葉だった。
加州清光は、その言葉をしばらく飲み込むように黙っていた。
やがて、彼は静かに笑った。
「……主、そういうことを簡単に言うの、ほんとずるいよ」
「簡単になんて言ってないわ」
少年は小さく息を吸い、加州清光の手をそっと取る。
ひんやりとした指先。同じく冷たい己の手を重ねると、どこか心地よく馴染んだ。
「私はね、加州さん。たとえ神話のように”本当の”運命の人がいるとしても、そんなの関係ないと思うの」
「……」
「あなたと出会った。それだけで、私の世界は変わったのよ」
赤い瞳が、じっと少年を見つめる。
その視線は、普段のように軽くも飄々ともしていなくて、どこか真剣な色を帯びていた。
「……俺でいいの?」
「いいのじゃなくて、あなたがいいのよ」
そう告げた少年の瞳には、迷いがなかった。加州清光は小さく笑うと、そっとその手を握り返した。
「じゃあさ、俺も言うね」
少年は一瞬、驚いたように目を瞬かせた。加州清光は、少しだけ悪戯っぽく口角を上げながら、それでもどこか優しく囁く。
「主が俺を運命の人にするなら、俺も主を運命の人にするよ」
「……加州さん」
「本当の片割れなんて、どうでもいい。俺は、今ここにいる主が好き」
少年の心臓が、大きく跳ねた。
加州清光の赤い瞳は、夜空に浮かぶ月のように艶やかで、それでいて燃えるような熱を帯びていた。
「主、ずっと俺のこと、忘れないでね」
「ええ、忘れないわ」
「俺も、主を忘れない」
少年の手を握る温もりが、じんわりと染み込んでいく。
外では風がそっと吹き、庭の勿忘草を揺らしていた。
Forget me not