夜雨

 それはもうすっかり日が沈んで、雲に覆われた空が、静かな藍に移ってゆく時分のことでした。朝からしとしとと降り続けていた雨は終ぞ止みそうになく、道行く人は皆傘を持って、ぶつからぬよう互いを器用に避けながら歩いています。
 私は一日が終わったことで気が緩み、すっかりぼうっとしながら、夕飯は何にしようかなどと考えつつ、いつも通りの帰路を歩いておりました。そうしてやがて、街灯の少ない住宅街へと足を立ち入れた時、私ははたと足を止めました。どこからか、じっとこちらを見る、ふしぎな視線があったのです。
 私はちらと辺りを見回しましたが、それらしき人影は見当たりません。また歩き出そうとすると、くしゅん、とくしゃみする声が聞こえました。びくりとして、それからまた辺りの暗がりに目をこらすと、こちらを見る二つの目がありました。
私はびっくりして声をあげるのをどうにか抑えて、何なのかを注意深く見てみると、それはなんとひとりの子どもでした。真っ黒い髪はしめって艶々として、満月みたいにまん丸な目は、不自然なくらい明るい黄色をしておりました。顔つきは凛として、歳は十二、三ほどいっているでしょうか。髪と同じ、真っ黒な洋服を身につけているので、影に紛れて見えなかったのでしょう。私の胸はまだずっと、どきどきとうるさく鳴っていました。
 彼(この子の性別はどうも判らなかったのですが、一先ずここではこう呼ぶことにいたします)は雨に濡れるのが嫌なのか、軒みたいに飛び出た低木の下に縮こまって、一歩も動かない様子を見せていました。その姿は、まるで野良猫みたいだと思いました。
 この人通りの少ない道で、小さな子どもが一人でいるのは、なんだかおかしな事だと思いましたが、こうして立ち止まってしまった以上、一人きりに残してゆくわけにもいきません。私は小さめの声で、彼に話しかけました。
「ねえ君、そんなとこに居たら風邪を引いてしまうよ。親を待っているならいいけれど、もし傘がないなら、駅までなら送ってあげようか」
 彼はその丸い目を、さらにまん丸くして、私の顔をじっと見つめました。それからゆっくり口を開くと、
「いいんですか」
 と言いました。少しかすれたような、高い声でした。
「駅まででいいのなら」
 私はまた同じことを、確認するように繰り返すと、彼はこくんと頷きました。駅があるのは私の家とは正反対の方角なのですが、彼のことが心配な気持のほうが勝って、面倒だとは思いませんでした。
 それから、どうぞ、と差し出した私の傘の中に、いそいそと入ってきた彼は思いの外小さくて、子どもとはこんなにも小さいものだったか、と私は思いました。それから、自分の傘が大きなもので良かった、とそこで初めて思いました。
 そうして私たちは、駅の方へ歩いてゆきました。二人とも何も言わずに、雨の音だけが、人気の無い辺りにひびいておりました。街灯が少ないので互いの姿ははっきりとは見えません。やがて、静けさに耐え切れなくなった私は、口を開きました。
「今日は朝からずっと雨だったろう。傘を持って出なかったのかい」
 そう聞くと彼は、俯いてじっと黙り込んでしまったので、私はもしや責めてしまったか、とあわてました。けれども彼は顔を上げると、むしろどこか嬉しそうな口調で、こう言ったのです。
「歩いている人たちは皆んな、まあるい小さなお空を持っていらっしゃるでしょう。僕、とても羨ましいと思って、見ていたんです」
 空、だって。
僕が拍子抜けしたようにそう訊くと、彼はまん丸い目でこちらをすっと見て、それから上を見上げて言いました。
「ええ、ほらこの、小さなお空ですよ。道行く人の空には、お天道様こそありませんが、それはいろんな色をしていて、とても綺麗なのです」
 それで私はぴんときました。彼はきっと傘のことを言っているのでしょう。質問に答えてはいませんけれど、傘を空に例えるなんて、子どもらしくて面白いことをするものです。私がそう言うと彼はまた、きょとんとした顔でこちらを見るばかりでした。
私はふと、自分の傘を見ました。黒色の帯にふちどられた、鮮やかな臙脂色をしています。
「それならこの傘は、ひどく不吉な空だなあ。まるで月蝕の空のようだもの」
 私がそう言うと、彼は目を丸くして、それから
「そうですか。ぼくには、晴れた日の夕焼けの、とっても大きなお天道様に見えます。だからぼく、真っ赤なのがいっとう好きですよ」
 と言いました。私は彼の言っていることを考えると同時に、頭の隅でほんの少し、この子の声といい、姿といい、話していることといい、ひどく不思議な感じがするものだと思っておりました。彼の声は、不思議と懐かしい気分になる、たいそう優しい声なのです。それは謂わば、子どもの頃に聞いたわらべ歌にも似ていました。
「どうして、泣いているのですか」
 私は彼にそう言われて初めて、自分が泣いていることに気が付きました。私は彼を驚かせないよう、どうにか答えました。
「ああ、ごめんよ……。きっとずうっと一人で居るうちに、涙もろくなったんだ。きっとそのせいだ……」
 呼吸が乱れないように涙を止めても、彼はまだ、泣いているのを見つめるのと同じ瞳で、私からじっと目を離しませんでした。
 それから彼はひとつ、大きなあくびをいたしました。大きく口を開けて目を細めるその様子は、周りの目を気にしないようで、きっと私の母親などからすればだらしがないと咎められるような姿でありました。それを見て私は、一寸ちぐはぐな感じがいたしましたが、直ぐにつまらない事であると、考えるのは止めました。
「そら、もうすぐ駅だよ」
 やがて駅の明かりが見えるころ、私は言いました。彼は
「ああ、ここか……」
と、どこか独り言のようにつぶやきました。私はその言葉の意味が、ほんの少し気になりましたが、もう聞くことはしませんでした。
時間もすっかり遅くなっておりましたし、もともとあまり人気のない駅でしたから、構内はとても静かでした。駅員の他には、一、二人ほどしかおりません。改札の辺りまで送ると、彼はひとつお礼を言って、入ってきたのとは反対側の出口へと歩いてゆきました。
 私も帰ろうと、踵を返して歩き出しました。雨はいくぶん弱まっているようです。そうしてふと、出口を抜けて振り向くも、もう彼の姿は見当たりませんでした。ただ駅の向こうに、真っ黒な猫の背中がひとつ、走っていったように見えたのです。
 私は夕焼け色の傘を開いたまま、そこへただぽつんと立ち尽くしておりました。

お終い

夜雨

夜雨

夜の帰り道、不思議な少年と出会うお話です。 2018年に書いたものを改稿しました。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-04-05

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