その日の朝

 また、悪い夢をみた。背中にはじっとりと汗がにじんでいる。何度も見る夢は、こんな情景である。天井から壁、床はすでに炎に包まれている。炎熱の中で、我が身を掻きむしる。理不尽な仕打ちに「なぜだ」と叫ぶ。髪が燃えあがる。そして目が覚める。嫌な臭いが鼻腔に残っているようで、憂鬱な気分になる。
 悪夢は、何かの兆しだろうか。そんなことを思う自分を恥じた。「運」とか「天命」などという不確かなものは信じない。そんなものにすがるのは、無能の愚か者である。立ちはだかる障壁は、我が腕と才覚で切り崩す。その生きざまを貫いてきたのだ。心を奮い立たせようとする自分を感じるのは老いのためか。いや、老いてなどいない。まだやるべきことがある。まどろみの中で、とりとめもなく反芻するのは、昨日と同じである。
 日の出には間がある。障子に微かな光が感じられる。外が騒がしい。若い者が喧嘩でもしているのか。こうした実に些末な出来事から、一日は始まるのだ。
 廊下を足音がかけて来る。
「上様、上様」
 甲走った少年の声である。
「何かある」
「謀反で御座います」
「誰か」
「明智の者と見えまする」
 彼は、己を押し潰そうと襲い掛かる敵に身震いした。恐れではない。久々に感じる生きている証である。

 彼は二本目の籤を引いた。「また凶か」三本目を引いた。吉である。つまらないことをしたものだ。あの男なら、こんな馬鹿なことはすまい。天命などは歯牙にもかけぬ男である。それがあの男の強さ、これが己の弱さ。彼の心は鉛を飲んだように重い。「天よ、あの男を殺すことを命じよ」。彼は、その証が欲しいのであった。
 彼は雲間の月を仰いだ。天は、あの男を越えられぬことを悟らせるのか。ならばそれで構わぬ。天命がいかにあろうとも、あの男を殺そう。天があの男に与するのなら、天もろともにあの男を殺してやろう。「迷ってはならぬ」と、自らに命じた。

 朝日が昇る頃に寝所を出た。にわか造りの堤を歩くことを常としていた。己が作った湖が目の前に広がっていた。一塊の孤島のように高松城が黒い影となっている。
「もう落ちるな」瓜の熟すのを待つ百姓のようだと思った。我はもともと百姓だ。百姓下郎の身から、天命のままにここまで登り詰めた。神仏をありがたいとは思わぬが、天命は信ずる。人は天命には逆らえぬものである。しかし、あの方は天命を変えようとなさる。それがあの方の並外れた才覚ではあるのだが……。空が白み始めた。ふたたび、あの方の姿を思い浮かべようとした。

 此処は堺。夜も明けやらぬ薄暗がりの中、人馬はすでに商いに動いている。まだ床の中にいるこの男は、深く溜息をついて、顔を歪めた。昨夜の酒宴を思い返していたのである。安土の城下を逃げるように出立すると、虎口を脱した心地がした。そのため、昨夜はいつになく饒舌だった。
「わしは天に従うばかりである。耳をそばだてて天の声を聴き、天を味方とする」
「天が殿に味方せぬ時はいかがなさいますか」
「天には逆らわぬ。腰をかがめ、身を低くして、時満つるまで待つ」
「天を味方につけた三河守様にあだなす者などおりますまい」
 堺の者どもはそつなく言った。この時、男は総身(そうみ)が震えた。あやつらはわしの行状をあれに告げるに違いない。「三河守様は、今は身を低くしておりますが、時満つるのを待っておりまするぞ」
「つまらぬことを言ってしまった」と、男は吐き捨てた。わしはあれを心底恐れておる。そしてこの世の誰よりもあれを憎んでおる。男は床から起き上がる気力さえも萎えていた。

 信長は(つる)を引き絞った。前庭に溢れた明智の雑兵に向けて矢を放った。大波のように寄せくる軍勢を押し返すことなどできない。無駄な所業は承知でも、二の矢、三の矢を放つ。雑兵はその形相を見て取れるまでに迫った。力の限りに弓を引いたところで、高い音を発して弦が切れた。「これも天意か」。
 廊下に取りつく者どもを槍で突き伏す。一発の轟音が空気を震わせる。銃弾が脇腹を貫いた。朱に染まった獲物に襲い掛かる雑兵の勢いはさらに増して、奔流となって押し寄せる。「これまでか」とつぶやいて、奥の間に入った。煙の臭いが漏れている。蘭丸が寺に火をかけたのである。
 浅井や朝倉、武田もこのように滅んでいったのであろう。奴らを滅ぼしたのは我である。我を滅ぼさむとするのは光秀か。光秀ごときが我を滅ぼせようはずはない。光秀ならぬ者が我を滅ぼそうとしている。その者こそが真の敵である。
 信長は生き抜くことを決意した。いかにしてもこの窮地を脱する。生涯をかけて求めたのは、この敵を屈服させることであると悟った。その時である。髪が炎となった。あの嫌な臭いが鼻腔に満ちた。

その日の朝

その日の朝

作:福内鬼外

  • 小説
  • 掌編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-04-03

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