Green Green Days

 ディア メアリー

 この物語を愛しいあなたへ捧ぐ

トム・グリーンウッド 













 



 開け放した二階の窓から見える庭で、草花と木の淡い緑が音を立てて揺れている。(まぶ)しい朝陽が降り注ぎ、視界一面、葉の上に散らばった露が光を受けてちらちらと瞬く。未だ寒くも穏やかな風は、薄いカーテンを(ひるがえ)して部屋に入り込むと、ぼくが持つ本のページをめくろうとした。あわててそれを押さえたぼくは、髪を吹き抜けるその風の思わぬ心地よさに気づいて、もう一度目をあげた。
 軒の陰から、緑をかき分けるようにして延びる細いレンガ道へとひとりの少女が飛び出していった。長い髪をなびかせる少女は、振り仰いでぼくを見つけると、その色白の顔にいっぱいの笑みをためて大きく手を振る。
「お兄ちゃん!」
 ()かすようにぼくを呼ぶ高い声に、思わず微笑み返す。本を机に置いてぼくは階段を駆け下り、玄関の扉を開けて庭に出た。生えたての草の香りがさっきよりも濃く鼻をくすぐる。ぼくを呼んだはずの妹の姿が見えないので見回していると、彼女は扉の裏に潜んでいたらしく、わっと叫び声をあげてぼくに飛びついてきた。少し大げさに驚いてみせるのにも、すっかり慣れていた。
「おはよう、オリヴィア。寒くない?」
 薄手のウールの上着に麻のロングスカート、見え隠れする素足がやけに寒そうに見えて、ぼくはそう言った。ぼくのお腹のあたりに赤い髪をうずめたまま、「ううん、平気」と妹が答える。
 彼女はそのすぐあとに離れて小さな手を差し出した。指の間から何かがこぼれそうになるので、ぼくは思わずそれを彼女の手ごと自分の両手で包み込んでみた。その中にあったのは、ゼラニウムの真っ赤な花びら。まだ散ってから間もないように見えたそれは、夜の間の強い風のしわざかもしれなかった。そうして今朝の空気は雪解け水のように冷たいから、彼女の手も同じように冷たかった。ぼくは少し赤らんだ柔らかな両手に花びらを握らせたまま、温度が等しくなるまで包んでいることにした。
 オリヴィアは兄のぼくがまだ起きないうちから庭先に出て、夜の間に倒れた花たちを世話してくれていたらしい。鉢植えのゼラニウムはすっかりその花びらを散らせてしまっていて、けなげな少女は(かじか)む手で熱心にそれを拾い集めた。そうとは知らず呑気(のんき)に読書をしていたぼくが、こうして手を温めることで罪滅ぼしできるどうかはわからないけれど、花を慈しむ彼女が去年よりもうんと大人になったように感じて、嬉しくも寂しい心地がするのだった。
 一年前、両親は流行(はや)り病で立て続けにこの世を去って、それまでの何不自由ない生活も、浴びるような愛もその冬を境になくなった。残ったのはかつて花屋だった一軒家と、持て余してしまうような広い庭だけ。
 ロンドンにいる親戚の元に身を寄せるようにと、母は最期にそう言った。ここからロンドンへは無理をすれば歩いてでも行ける距離だが、ぼくはそうすることを選ばなかった。だって、大好きな庭で大好きなオリヴィアと暮らす毎日を、多少苦労しても続けたかったからだ。
 ぼくが手を離すと、オリヴィアは大切に温めたゼラニウムの花びらを背伸びして空に掲げる。花びらはすぐさま風にそっとさらわれてゆき、彼女は風の行った方向に祈るような仕草をした。ぼくも合わせてお祈りをする。妹は、散った花にまで愛情をかける優しさは父に、聡明(そうめい)で勉強熱心なところは母に似ていた。が、たったの五歳で両親を亡くした彼女が、彼らのことをどのくらい覚えているかはわからない。ただ、美しかった母の面影を残す赤毛が繊細に揺らめく後ろ姿を見ていると、ぼくは彼女をほんとうに幸せにしてあげられるのだろうか、とぼんやり思う。
 ぼくたちの家はイングランドの南部、最寄(もよ)りの街から森を隔てた丘陵の上の、小さな村の端にあった。あまり人が頻繁に訪れる地域ではないものの、両親はそこそこ評判のいい花屋だったこともあり、庭先で花を売るのと野菜の自給だけで生活ができていたらしい。
 だが、時代の流れは永遠を許さなかった。革命に浮かされた人々は田舎の花屋なんかにまるっきり興味がなくなったのだろう、客足が減ってそれだけでは商売が成り立たなくなった。それ以降はもっぱら街に出て切り花をあちこち売り歩くようになり、ぼくが五つになる頃には、家事をしながら花を育てる母と数日ごとに手押し車を引いて帰る父の姿が当たり前の風景になっていた。ぼくたち兄妹はそんな生活の(すべ)を引き継いで、何とかお金を工面しながら、ときには村の大人の助けも受けてこの暮らしにしがみついていた。
 慣れない仕事に苦しむぼくを、妹のオリヴィアはあらゆる手で元気づけようとしてくれた。花の世話を進んで引き受けてくれたり、椅子に乗って一緒に厨房(ちゅうぼう)に立ってくれたりとかいがいしく頑張る彼女の姿は、不安に押しつぶされかけていたぼくに何度勇気をくれたかわからない。それでぼくはいつまでもこの生活を守っていこうと心に決めるのだった。
 丘のふもとから柔らかな草の匂いが吹き上げてくる。赤レンガと白塗りの柵で整えられた広い庭は、薄紫や空色のヴィオラが至るところに群生して咲いているおかげで、寒い冬の間も彩りを失くさずにすんでいた。だが、軒下のイベリスの細い茎なんかは、ぼくの管理が甘いせいで霜に当たって枯れてしまった。人通りも減り、どことなく物寂しかった丘の上にも、しかし、少しずつ花や若葉が芽吹きはじめている。それは春の知らせとともに、農家にとっての最も苦しい季節を越えることができた嬉しさをも連れてきた。
 春の訪れの喜びをオリヴィアも感じているのか、はしゃいだ様子でぼくの手を引いてレンガ道を駆けていく。つたの巻きついた()び鉄のアーチをくぐり抜け、一段下にある開けた芝生に出た。少し窮屈そうな木靴に覆われたオリヴィアの足が、生えたばかりの草を踏みつけて、青くみずみずしい香りを舞いあげる。優しい陽の光がじかに降り注いで、前を行く柔らかな髪にあかがね色の輪をかけた。
 花の名前をどれだけ覚えたか、オリヴィアはこうして外に出るたびにぼくに教えてくれた。花壇の隅で少しずつゆるんでいる白い(つぼみ)は、スズランにも似たスノーフレークの花。店の古い看板の下で咲きはじめた、一回り背丈の低いのはワスレナグサで、彼女によればこの指先ほどの大きさの青い花だけでなく、ピンクや白の花をつけることもあるという。用具小屋の壁を()うように飾っているのは、彼女が特にお気に入りのクレマチス。実は、この花びらに見えるのは色のついたがくなんだよ、と得意げに教えてくれた。
 まだ六歳のオリヴィアは、いつの間にか倍の年齢のぼくよりもずっと花に詳しくなっていた。両親が(のこ)した花の図鑑や植物の育て方を事細かく記した大量の本は、どれもまだオリヴィアには難しいだろうと思っていたのだが、そんなことはなかったようだ。

 見頃を迎える花々の顔ぶれが二、三度変わり、いよいよ春も過ぎようとしている。そんな日の朝、ぼくは庭を出てあたり一帯を眺めていた。家の前を通る小道を越えて向こうへ行くと、川の流れや規則正しく並ぶ街の石屋根をはるか遠くに見下ろすことができた。眼下のよく陽の当たる草地には自生のタンポポが、(ちょう)を誘いながら、いくつもの黄色い群れをなして坂を下った先の方まで続いている。
 ふいにシャツの裾を引っ張られて、振り向くとオリヴィアがいた。促されるままにしゃがむと、彼女は背伸びして、背中に隠していたらしい何かをぼくの髪に載せた。見て、と言うので、手に取ってみれば、シロツメクサの花冠だった。
「オリヴィアが作ったのか?」
「うん、お兄ちゃんにあげる」
 オリヴィアは嬉しそうに微笑む。
 花冠の作り方は、去年だったか一昨年(おととし)だったか、ぼくがオリヴィアに教えたのだった。そのときは上手くできなくてふたりして笑ったものだったが、見違えるほどに上達していたので驚く。
 形のいい花ばかりが丁寧に編まれてできた白と緑の輪につい見入っていると、その輪の中でオリヴィアはもう次の対象に興味を移していた。走っていく小さな背が振り返って何か叫んでいるので、ぼくは花冠を持ったまま立ち上がって追いかけた。
 ぼくが追いついたとき、彼女の手にはひとつの綿毛が握られていた。おそらく今年最初の綿毛なのだろう。ありふれたものだが、まるで宝物でも見つけたかのように彼女の目は輝いていた。
「彼らは君に飛ばしてもらうのを待ってるんだよ。さあ、息を吹きかけて」
 ぼくが促すと、オリヴィアは数秒の間じっと綿毛を見つめ、それから思い切り吹いた。綿毛は一気にばらけて散って、ゆるやかに舞い上がって、浮いては沈み、回りながら遠くの空へ飛んでいく。
「あの綿毛はどこに行くの?」
 綿毛の見えなくなった空を見上げ、オリヴィアがそう尋ねた。
「どこだろうね。お兄ちゃんにもわからないな」
 もし綿毛に心があったとして、綿毛自身にだってそれはわからないはずだ。どこか別の場所、例えば川を越えた草原で、あるいはひとつ遠くの街の路上なんかで、新しい命を始めるのかもしれない。それとも、水に落ちて腐ったり、誰かの革靴に踏まれて潰れたりして、永遠に芽を出さないなんてこともあるのだろうか。
 ふうん、と、考え込んでいるのかそれとも興味を失ったのかという調子でオリヴィアが呟いた。それきり、ぼくたちは黙っていた。
 ぼくらにもいつか同じように、この生活を終えてどこかへ行く日が来るのだろうか。
 わからない。将来のことを考えるのが怖いと思った。何になりたいとか、もっとこんなものを見て生きていきたいとか、望むものはただひとつを除いて何もなかった。
 ──ただ、いつまでも、ずっと、この暮らしが続けばいい。


 春の花が散ってしまい、夏が来た。乾いた夏だった。
 手押し車にあふれかえるほどの花を載せて、いつものようにぼくは街へ赴いた。育てた花を売り、そのお金で買い出しをするためだ。
 普段と違うのは、横にオリヴィアがいること。歩く距離が長いのでオリヴィアには大変だろうと思い、今までは連れてこなかったのだが、ついに一緒に行きたいと彼女が言い出したのだ。
 村から街へ行くには、丘を下りながら続く林道を抜けなければならない。オリヴィアが途中の崖から落ちやしないか、街に着けば好奇心の塊のような彼女が興奮してどこかへ行ってしまうのではないかとぼくは気が気ではなかったが、むしろ彼女は何も言わずに斜め後ろをついてきている。そうしながらも口を開けっぱなしにして(せわ)しなくあたりを見回しているのだから、はやる気持ちを抑えているに違いない。歳に似合わないそんな態度が、ぼくにはかえっていじらしく見えるのだった。
 街には野菜や本、雑貨を売っている店が軒を連ねていた。足元には、曲線状に並べられた石畳が、波のように曲がりくねって、分岐と合流を繰り返しながら見えないほど遠くまで続いている。あちこちで元気に客を呼び込む声や客同士の笑い合う声がして、車を押すガラガラという音も次第にその喧騒(けんそう)にまぎれていった。
 今日、ぼくらは花をできるだけ多く売ってお金にかえなければならない。普段はオリヴィアにも我慢を強いてしまっているから、できることなら何か彼女が望むものを買ってあげたいと思った。甘いお菓子でも、服でも、おもちゃでもいい。ぼくが彼女くらいの歳の頃にしていた贅沢(ぜいたく)を、ほんの一部でもいいから彼女にもさせてあげたかった。
 果物屋の前を通りかかったとき、店主のおじいさんが顔を出してぼくに声をかけた。
「おお、トム坊やじゃないか。その子は妹さんかい?」
 はい、とぼくは答えた。この人とは何度も売り歩いているうちに何となく顔見知りになっていたが、自分の境遇のことは話していない。余計な迷惑をかけてしまいたくはなかった。
 人懐っこいオリヴィアは無邪気に挨拶して、早くもおじいさんに気に入られていた。ほどよく日焼けした顔に人の()い笑みを浮かべたおじいさんは、ぼくが今日も花を売りにきたと知るやいなや、気前よく十束も買ってくれた。
「半分は店に飾ろうかな。あとの半分はばあさんの機嫌直しに使わせてもらおう」
 そんなことを言いながらしわだらけの目元をさらにしわくちゃにして、それから真っ赤なリンゴをひとつずつくれて、ぼくたちを送り出してくれた。ぼくは勢いよく一礼して、車を押してまた通りを歩きはじめた。
「オリヴィア」
 隣を歩くオリヴィアに声をかけると、彼女は目をあげた。日差しのせいか、ブルーの目がさらに青く透き通って見える。
「欲しいものがあったらぼくに言って。我慢しなくていいよ」
「ほんとう?」
 オリヴィアの笑顔がとうとう満開になった。子どもらしい表情に胸のあたりが熱くなって、ぼくはなるべく力強く頷いてみせる。
 大きな書店のある十字路に差し掛かったあたりで、ぼくと同じくらいの歳の男の子がためらいがちに声をかけてきた。彼は少しどもりつつ、花束が欲しいと言った。
「ありがとう。プレゼントですか?」
「はい、母にあげたいんです」
 彼は伏し目がちに、照れくさそうに答える。オリヴィアがすかさず割って入り、車に積んである切り花のうちおすすめのものを列挙した。男の子は当惑したように目を丸くして、しかし熱心にオリヴィアの話を聞いている。商売人の才能なら大人にも引けを取らないくらいだな、と妙にくすぐったい気持ちがした。
 男の子は迷った表情も見せながら、「じゃあ」と言い、オリヴィアの一押しの中からいくつかを選んだ。ぼくはそれを束ねてリボンで結ぶ。出来上がった小さな花束を両手で渡すと、それまで緊張していた男の子の表情が柔らかく(ほころ)んだ。差し出してくれた硬貨を礼を言って受け取り、ポケットから取り出した革袋にしまう。
 花束を抱えて弾むように駆け出した後ろ姿を見送って、ぼくはオリヴィアの方を振り返った。
「なんていい日なんだろう、オリヴィア! ぼくたちの育てた花が売れて、ずっと遠くの知らない誰かを喜ばせるんだ」
 悪いことのために花を買う人はいないだろう。ぼくたちの元に訪れる人は、誰かの笑顔のためか、あるいは感謝を告げるためか、はたまた別れを惜しむためか、人を想う温かい気持ちをもって花を手にするのだ。ぼくはそのことで胸がいっぱいになり、今にも跳び上がりたい気分をこらえた。
 そのあとも街の隅から隅までを歩き回って行商を続けた。ついでに食料と日用品の買い物もした。肉は高いので、代わりにパンと少しの果物を買う。
 花は少しずつ減った。それと逆を行くように雲は増えて、陽の光が弱まってきた。涼しくなったので、歩くスピードも上がる。オリヴィアは疲れた様子をそこまで見せなかったが、ぼくは気をつけて普段より頻繁に休憩を挟むようにした。ベンチに腰かけ、昼食代わりにとリンゴをかじると、甘酸っぱい香りが鼻を突き抜ける。火照(ほて)った身体にしたたるほど豊かな果汁が染み渡って、暑さが飛んでいくように感じた。オリヴィアには少し大きい方をあげたのだが、よほどお腹が空いていたのか、ぼくより早く食べ終わっていた。リンゴみたいに赤くした頬を押さえて幸せそうに細めた目が愛らしかった。
 騒がしく人々が行き交う通りを眺めながら何気ない話を交わしたあと、立ち上がってまた歩きはじめた。ひたすらぼくのあとをついてきていたオリヴィアが自分から興味を示したのは、街角の小さな雑貨店だった。
 店に入ると、そっけない「いらっしゃい」とともに優しい木の香りが迎える。まだ新しいであろうその店内には、高そうな文具や何に使うかわからない陶器か何かの物体が棚や床の上に綺麗に並べられていた。一通り見て回ったのち、オリヴィアが欲しがったのはひとつの髪飾りだった。それは大ぶりの白い花を模したもので、何枚も重なった独特なつやのある花びらは、薄手のシルクでできているらしい。
 洗いたてのような真っ白なシルクの花は、確かに美しかった。が、どうもぼくにはその花が(まが)い物のような気がしてならなかった。花なら家にほんものがいくらでもあるのだから、と別のものをぼくはすすめたが、オリヴィアは「これがいいの」と譲らない。
 そんな彼女の様子を見て、一瞬でもためらったのをぼくは恥ずかしく思った。勘定をすませ、裏側についた金属の留め具で髪を挟んでやると、紛い物だなんていう思いは完全に消えた。つい目を奪われてしまうぼくをよそに、丸い鏡越しに自分の姿を見たオリヴィアは、照れたように、嬉しそうにスキップした。

 時折車輪が跳ねて、ゴトンという音を立てる。一瞬遅れて、袋に入ったパンと果物も跳ねたり木箱の中を転がったりする。
 薄暗くなる前に帰るつもりだったのに、寄り道が多かったせいか売り切るのに手間取ってしまった。ぼくはオリヴィアを連れ、急ぎ足で街をあとにした。
 丘からは坂を下ってきたので、帰りは反対に上り坂が多くなる。ぼくも一日歩き回って疲れ果てていたくらいだから、幼い妹にはなおさらだった。手押し車に乗りたいとせがんだオリヴィアは、今は荷台の上でうずくまりながら静かに眠っている。赤毛の中で清らかに咲くシルクの一輪を眺め、痛みでどうにかなりそうな足を励まして、ぼくはひたすらに車を押し続けた。
 草原を突っ切る砂の道は、ゆるやかに上りながら小さな森へと続いている。街を出てしばらくは通行人と何度かすれ違ったが、森に入ると人もほとんど見かけなくなった。普段は日光をよく通す林だが、何しろ空がもう薄暗いので、道はさらに濃い暗がりへと影を落としていた。坂は少し角度を増して、曲がりくねりながら何度か分岐して長く続いている。人ひとり乗せている分、いつものように進むことができない。手と背中にじんわりと汗がにじんでいく。
 オリヴィアと街を歩くのは、疲れたけれど楽しくもあった。あれほど喜んでくれるのなら、もっと早くから連れてきてもよかったな、と思った。今度来るときにはもっと贅沢なものを食べさせたいし、買ってあげたい。そのためにはもっとたくさんの花を育てなければ。他の街にも連れて行けば喜ぶだろうか。そうだ、たまには足を延ばして、海を見に行ってみるのもいいかもしれない。とにかくどんな方法でも、オリヴィアを幸せにしてあげられるのならば──。
 突然、左の車輪が何かに引っかかる感触がした。そのまま弾き返されそうになって、力を込めて押すと、石か何かに乗り上げたのか、車がぐらりと右に大きく傾く。
 あたりが暗いせいと、考えごとに没頭していたせいで、すぐそこが崖だったことに気づかなかった。腕に力を込めるほどに重みを増すばかりの車は、汗ばむ手から強引にすり抜け、あわててつかみ止める間もなく、眼下の暗闇に吸い込まれていく。
 少女の悲鳴が闇の奥でいやに響いた。それがぼくの心臓を切り裂いた途端、意識を失いそうになるのを感じながら、ぼくは崖に飛び込んでいた。着地したときに両足を酷い痛みが襲う。妹の名を呼び、恐怖を打ち消すために意味をもたない絶叫をあげながら走った。が、足の痛みと混乱でまっすぐ進むことができず、何度も肩が木にぶつかる。こらえ切れなくなった両脚はとうとうくずおれて、ぼくの身体はそのまま斜面を無様に転がり落ちた。
 うつ伏せに倒れ、苦い土を吐き出す。咳き込みつつやっとの思いで立ち上がったぼくはもう一度オリヴィアの名を叫んだ。しかし、どこからも返事がない。(しび)れはじめた足ではもはや立っていられなくなって、そこから無理に這い回ったが、探しても探してもオリヴィアの姿は見えなかった。
 大人を呼ばなければ、との直感がぼやけた思考に突き刺さった。それは愚かな閃きだったのかもしれないが、そうするより他にないと確信したのだ。実のところ、見るに堪えない姿になったオリヴィアを見ればどうにかなってしまいそうな気がして、怖くて仕方がなかったのかもしれない。
 優しい果物屋のおじいさんなら助けてくれるだろうか。いや、たとえ彼でなくとも、街の人に聞けばどうすべきか教えてくれるはずだ。そう心の奥で呟いたぼくは、道もない斜面を必死に下りはじめた。
 足の激痛に耐えながらしばらく坂を下っているうちに、やっともと来た道を見つけた。腹這いになって腕と膝の力を頼りに先を目指そうとする。が、歩いていたときには近いと思っていた街の入り口は、信じられないほど遠くに見えた。
 戻るべきか。しかし人のいる場所で最も近いのはあの街だけ。何としてでもたどり着かなければ、と思い直したとき、ふいに誰かの呼び声が響いた。
「おい少年、大丈夫か!」
 その声を聞いた途端、(もや)がかかったようなぼくの意識が輪郭を取り戻す。(すす)汚れのついた服の大柄な男の人がひとり、こちらに駆け寄ってくるのが見えた。(かす)れる声で、助けて、と叫びながら手を伸ばす。
 彼はぼくが足を怪我していると見るや、ぼくを背負い上げて歩き出した。どうした、と聞かれたので、ぼくは事情を洗いざらい話す。時折波のように襲ってくる痛みにうめきながら、妹が落ちたんです、と必死に訴えた。
 その人の背は汗で冷たかった。彼は早足で歩きながら、それは大変だと、真剣な調子で呟く。
「街の人を集めて探しに行く。おまえはまず手当を受けるんだ」
 ぼくは彼の肩越しに力なく頷いた。
 
 街では店主たちが店じまいに追われていた。酒場らしき木造りの建物には、仕事終わりの労働者たちが集っているのだろう、灯りと笑い声とが漏れ出てくる。そのままぼくは診療所のようなところに担ぎ込まれ、四つほど並んだ(ほこり)っぽいベッドのひとつに仰向けに寝かされた。
 崖から転落したときに両足首の骨が折れていたらしい。ぼくの足に()え木を手早く巻きつけた白髭の医師は、しばらく絶対にここを動くなと釘を刺してどこかへ行こうとしたので、ぼくは医師を呼び止めて尋ねた。
「さっきの人たちは、妹を探してくれていますか」
「ああ、それと何人かの警備が行ったよ。もっとも、夜だから難航するかもしれんがな。もし妹さんが生きていたらここに運んでもらうことになっているから、とにかく安静にして待つことだ」
 医師はそう言ったきり部屋を出て行ってしまった。
 ほっとするべき内容のはずなのに、なぜか一気に口の中がまずくなった。ぼくは何をやっているのだろう。自分よりも酷い怪我を負っているかもしれないオリヴィアを森の中に置き去りにして、自分だけ先に治療を受けているという事実が、やはり誤った判断だったのだとどうしようもない自責の感情を押し上げてくる。押し上げられた感情は強烈な吐き気となって、ぼくはその場で起き上がり、吐いた。何度も何度も吐いた。涙まで一緒に出てきて、どうしようもない焦りと情けなさにかられながら、激しく慟哭(どうこく)した。
 翌日、花をかたどったシルクの髪飾りだけがぼくの手に載せられた。表面は傷つき、酷く泥に汚れていた。オリヴィアはやはり見つからなかったのだという。ぼくは震える手でそれを握りしめた。
 髪飾りがあったということは近くにいたはずだ、もう一度探してくださいとなおも追いすがるぼくに、助けてくれた彼はきっと他の誰かに先に助けられたのだろうとなぐさめの言葉をかけた。そんな都合のいいことと、ぼくは内心で思ったが、一方で彼の推測はぼくにとってただひとつの希望になってもいた。それでぼくは彼の言葉を無理矢理にでも信じるしかなかった。
 足が治るのを待って、やっと家に帰ることのできた頃には、夏はもう過ぎようとしていた。帰れば何事もなかったかのようにオリヴィアと再会できるのではないか、そんな(かす)かな想像を胸に、
「ただいま」
 なんて呼びかけてみるのだった。
 
 読みかけの本を閉じて庭先に目を向ければ、見頃を迎えそうな夏の花々の向こうに忙しなく動く赤毛の少女がいる。名前を呼んで近づくと、彼女は小さなブリキ製のじょうろを手に水やりをしているところだった。熱い日差しが、畑にもレンガ道にも等しく降り注いでは短い影を作っている。彼女の白い肌は少しばかり日に焼けているように見えた。
 袖のない薄いドレスに身を包んだオリヴィアは、手も顔もわずかに土に汚れていた。裾にも土がついてしまっているが、本人は気にしていない様子だ。
 今日は街へ出かけようか、とぼくは誘った。たまには仕事を休んで、遊びにだけ行こう、と。それはただの気まぐれだったが、オリヴィアはお気に入りの髪飾りに手をやってはにかみ、目を輝かせながらこう言った。

 ──オリヴィアは何と言っただろうか。
 乱雑にノートを閉じ、ペンを地面に投げつける。頭を抱えて言葉にならないうめきをあげたあと、ふと目線をあげて目の前に広がる庭を見た。
 庭を彩っていた草花は茶色く枯れ、木々は葉を落としきっていた。ぼくの他には人影ひとつなければ、物音もない。時折、丘のふもとの方から寒い風が吹き上げては、ぼくの前をまるで無関心に通り過ぎていく。どこかからまたふいにオリヴィアが飛び出してぼくを驚かせてきやしないか、なんて期待にすがってみるけれど、そんな日々とは似ても似つかない寂れた風景がいやでも現実を突きつけてくる。
 ありえない妄想をノートに書きつらねている自分が急に恥ずかしくなってきて、膝に顔を突っ伏してもう一度うめいた。外の風景は見れば見るほど惨めな心持ちがして、ぼくは立ち上がって家に入ると、ドアを全力で閉めた。

 植物は芽吹き、育って、花を咲かせ、実をつけて、やがて枯れていく。種は新しい命となり、また芽吹いていく。
 その循環が美しいと言う人もいるが、そんなものはまやかしじゃないかとも思う。
 (ほこり)っぽい板張りの床にそのまま座り、カーテンを閉め切った薄暗い部屋で物思いに沈む。いつからこうしているのか忘れてしまった。何も食べず、眠っているのか起きているのかもわからないような状態でただ座っているだけだ。
 いつかのシロツメクサの花冠は赤茶けて、もうかつて植物だったことすら忘れさせてしまうように汚く乾いている。ずっと変わらない暮らしを望んでいた。ただそれだけなのに、時間は残酷で、永遠を許さないものだ。一度何かが崩れてしまえば、それは連鎖して止まらず、元に戻ることはない。
 唯一変わらないものがある。手の中には、シルクの花の髪飾りがひとつ。表面には傷がついているが、土汚れは何度も何度も指でこするうちにほとんど綺麗に消えていた。散らず、(しお)れず、美しい姿を永遠に約束されたそれは、ぼくにとってただひとつの心の支柱になっていた。時間の流れをいやでも感じさせるから、ほんものの花は嫌いになった。
 ぼくの時間はあれからずっと動かないままだ。けれども、ぼく以外の時間は季節を引き連れとどまることなく動いていく。冬が来て、春、夏、秋が来て、それを何周も何周も繰り返した。十周、いや、それ以上は繰り返したように思う。
 ぼくはどうだろうか。声変わりした。背も伸びた。髭も生えている。子どもの頃のシャツは着られなくなった。お兄ちゃんでありたかったぼくはとっくに消えて、無為に時間を過ごすだけの、人ですらない何かになってしまったみたいだった。
 少しずつ寒さがゆるみ、春の始まりが近づく。窓の隙間から部屋に入り込む、暖かい湿った風が、ふいに懐かしい匂いを含んでぼくをゆるやかに巻き、気づけばぼくは庭へと誘われていた。
 空には薄く雲がかかり、その隙間から優しい陽が差している。目の前には相変わらず殺風景な庭がある。何もない乾燥した畑には雑草がまばらに生え、花壇の隙間を()うレンガの道には砂が積もっていた。
 花はもうひとつも咲いていない。長らく手入れをしていなかったのだから当然だ。もし残されたのがぼくでなくオリヴィアだったなら、彼女は絶対に庭をこんな風にはしないだろうと思った。散った花に祈りを捧げる後ろ姿を思い返して、ぼくは今さら申し訳なさでいっぱいになった。
 ふと、陽の当たらない用具小屋の壁に目が止まる。灰色の壁を這う(つる)の上に、白いクレマチスが一輪咲いていた。荒れ果てた庭で草花もことごとく枯れてしまった、そんな環境の中で、丈夫なものだけが自ら芽を出して花を咲かせていたらしい。
 ぼくは花に近づいた。生きている花を見るのはいつ以来だろうか。真っ白なその花は、みずみずしい小ぶりな葉を携えて、わずかな空気の揺らぎに合わせてそっと震えるように動いている。ぼくは立ち尽くしたまま、花をいつまでも眺めていた。そのとき、
「あの」
 と、微かな声がした。
 ぼくは驚いて、振り返る。長らく人に会っていなかったから、どのような反応をすればいいのかわからなかった。
 そこには見たことのないひとりの女性が立っていた。赤みがかった前髪の隙間から、その優しげな印象に似合わない痛々しい傷跡が見え隠れしている。柔らかく、しかしまっすぐにぼくを見る瞳、そして白いドレスを着てすっきりと立つ姿は、春先のスズランかスノーフレークを思わせた。
 ──オリヴィア?
 言いかけるが、声にならない。心臓が激しく脈打ち、震えながらぼくは何度も彼女の姿を確かめた。唇も喉も震えて上手く言葉を発せず、ただ見つめていることしかできない。
「あの、ここはお花屋さんですか」
 彼女は遠慮がちに、しかしはっきりとそう言った。彼女がなぜそんなことを言うのかと戸惑うぼくだったが、彼女が指さしている花の絵が描かれた看板に気づく。
 すぐに、オリヴィアは皮肉を言っているのだと思った。荒れ果てた庭のありさまを見て、管理を怠っていたぼくを怒っているのだ。だから、ぼくは、
「ごめん」
 と言った。辛うじて絞り出した声だから、オリヴィアには聞こえなかったかもしれない。なおも震えるぼくは、立っていることができずそのまま地面に崩れ落ちた。
 オリヴィアが息をのむ音が近くで聞こえ、それから肩を抱き起こされた。どうされたんですか、と心配そうに彼女が尋ねる。身体のどこにも力が入らず、答えようにも何も言うことができなかった。
「顔が青いわ。もしかして何も食べていないんですか」
 背中をさすりつつ、まるで知らない人を助けるかのようにオリヴィアはそう言った。そうじゃない、とぼくは思ったが、話せそうになく頷くことしかできない。
「ちょうどパンを持っているから。ね、召し上がってください」
 言いながら(かばん)から紙の袋を取り出し、ぼくに差し出す。入っていたのは丸いパンだった。ずっと食事をとっていなかったことを思い出し、急に空腹に襲われたぼくは、気づけばパンに勢いよくかぶりついていた。
 パンを飲み込むと、震えがいくらかおさまった。代わりに涙があとからあとからあふれてきた。オリヴィアに会えたことがあまりにも嬉しかったからか、生きていたことに安堵(あんど)したからか。泣きながら謝り続けるぼくを彼女は、大丈夫ですよ、と慰めてくれた。
 相変わらずぼくは情けない兄で、彼女は気丈(きじょう)な妹だった。それでも、もう戻ってくることはないと思っていた愛しかった暮らしが今になって(よみがえ)ってくるようで、そんなぼくの情けなさや彼女の気丈さにさえ今はずっと溺れていたいと思えた。
「綺麗ですね」
 ふと、オリヴィアは呟いた。泣き顔を見せまいとうつむいていたのに、思わず顔をあげてしまった。彼女の視線の先には、クレマチスの白い花がある。
「これは、何という花なのですか」と、彼女がぼくに尋ねるものだから、ぼくは驚いた。一番好きなクレマチスの名前を忘れているはずはないと思ったからだ。戸惑いつつもぼくが答えると、クレマチス、と彼女は小さな声で繰り返す。ブルーの瞳はまっすぐな好奇心に満ちていた。
 ぼくは呆然としてオリヴィアを眺め続けた。彼女の身長は見違えるほど伸びていて、少し背伸びをすればぼくに届いてしまいそうだ。話したいことも、聞きたいことも、いくらでもあるはずなのに、なぜか口をついて出るのはありふれた会話ばかりだった。
 ぼくは恐る恐る彼女の名前を聞いた。彼女は「メアリー」と名乗った。幼い頃に事故に()ってそれ以前の記憶がなく、育ての親に仮につけてもらった名なのだと。衝撃を受けてしつこく問い詰めれば、旅の途中だった行商人の一団に助けられ、遠く離れた彼らの街で彼女は現在の両親に引き取られた。怪我は酷かったものの、今はこれといった不自由もなく元気に暮らしているのだという。
「あなたは不思議ですね。何でも話してしまいたくなるなぁ」
 ふふ、とリズミカルな息が葉を揺らす。ぼくは(いばら)の茎にしばられたように、そこから動くことができなかった。

「待って、」
 最後に、ぼくは彼女がここに来た理由を聞いた。
 彼女は花を()でるように、ゆっくりと言葉を選んで答えた。
「花を買いに来たんです。大切な人に、あげるための」
 メアリーは近いうちに結婚するのだという。その人に贈るため、花の綺麗な場所を探してこの村にたどり着き、散策するうちにここの看板を見つけたのだと嬉しそうに話してくれた。
 にわかに衝撃がぼくの胸を打った。オリヴィア──メアリーは、ぼくの知らない間に、ぼくの知らないところで、新しい暮らしを始めていたのだ。嬉しさと安堵、そして少しの寂しさが混ざり合い、渦を巻いて、また両目からあふれ出しそうになった。ぼくは「そうか、おめでとう」という言葉でそれをせき止めた。それだけでいっぱいだった。
 花屋はもうやめたのだと、ぼくは正直にそう話した。メアリーは少し残念そうに眉尻を下げたあと、「でも、これからはちゃんと食べてくださいね」と微笑んだ。
 ぼくは、せめてものお礼にと言ってシルクの髪飾りを彼女に渡す。古くてあまり綺麗なものではないし、唐突な贈り物は彼女からしても不自然だっただろう。だが、どうしても渡さずにはいられなかったのだ。彼女は「可愛らしい」と言って素直に喜んでくれた。そうして丁寧に礼をし、ぼくに背を向ける。

 いつかの美しさを失った庭を、柔らかい陽の光がそっと包んで、純白のヴェールのように、全てを一段淡い色に変えていた。微風(そよかぜ)の中で、心地よい緑の匂いが浮かんでいる。
 風がさらりと通り過ぎた。
 その透明な、透き通る風に、ぼくは呼びかけた。
「また、来てくれますか」
 彼女は振り返って何か答えたが、何と言っているか聞こえなかった。
 ぼくは何も聞き返さなかった。
 草を揺らして通りゆく風の方向に、柔らかく、柔らかく、手を振る。


 親愛なる、メアリー様
 
 あなたがここに来てくれたことは、きっと何かの導きであると、ぼくは切にそう信じたく思います。
 あなたの元気そうな姿を再び見ることができて、ぼくは幸せでした。
 ぼくがあなたの兄であること、そしてあなたがぼくの妹のオリヴィア・グリーンウッドであることを知らせるのは、新しい暮らしに歩み出そうとするあなたにとって迷惑かもしれません。それでも、ぼくはあなたに真実を伝えたかった。あの美しい日々はほんものだったと、確かめたかったのです。
 そして、もしも、もしもあなたが、失くしてしまった記憶をたずねたいと思ってくださるのなら、もう一度ぼくに会いに来てください。そしてそのときには、この物語をあなたに聞かせたい。
 だから、またね。どうか幸せで。

愛を込めて、
トム・グリーンウッド



 開け放した二階の窓から、綺麗に手入れした庭が見える。優しい光が降り注ぎ、心地よい春風が吹いている。
 風がカーテンを揺らしてぼくの上を通り抜ける。
 ぼくはペンを置くと、手紙をそっと丸めて捨てた。

Green Green Days

Green Green Days

【「ただ、いつまでも 続け。理想の暮らし。」】舞台は名誉革命後のイギリス・イングランド。 幼くして両親を失った兄妹トムとオリヴィアは、遺された広い庭で花を育て、売ることで生計を立てていた。 風に散りゆく花を眺め、トムは願う。 ただ、いつまでも、ずっと、この暮らしが続けばいい──。 作:双月意沙

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-04-03

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