海からきた弓取り
「おい、弁慶、お主ならできるか」
義経が振り返って尋ねた。
「いえ、それがしの弓の腕前は、薙刀よりも遥かに劣りますゆえ……」
「そうか、うむ……やるのであれば、射損ずる訳にはいかぬのだが……誰か、我が軍の中で、あの扇の的を射る者はおらぬか」
あの扇の的とは、平家軍の小舟に掲げられた、日の丸の扇のことである。平家軍の船団から離れてただ一艘だけ浮かんでいる小舟の柱に、金色の的が挟まれていた。
しかし、源氏軍が今いる砂浜からその扇の的までの間は、矢で捉えるには遠すぎる。普通の武士はおろか、歴戦を戦い抜いた猛者でも、射るのは難しいと考えられた。そのため、義経も、わざわざ名乗り出てくる者はいないだろうと思っていた。
案の定、諸将は俯いたり、他の者の様子を窺ったりして、義経と目を合わせないようにしている。失敗すれば末代までの恥となるのは必定。そう源氏軍全員が思っていたからである。辺りは静寂に包まれた。
だが、ここには与一がいた。
《あれを射抜けるのは、某しかいるまい》
誰もが無理だと思っている中で、与一だけは扇を射落とす自信があった。弓こそ、与一のお家芸であったのだ。
《まさに出世のための絶好の機会。これを逃す訳にはいかぬ!》
与一、ここぞとばかりに大声を張り上げた。
「僭越ながら、某にお任せくだされば、あの扇の的を射落として御覧に入れまする。某は下野国の住人、那須与一に候!」
一息に言い切り、与一は顔を上げた。義経から「その意気やよし」とお褒めの言葉を頂けると信じて。
しかし、その期待は泡沫のごとくあっけなく消え去った。義経を始め、源氏軍の諸将は、誰一人として与一など見ていなかったのだ。
その理由は与一にも分かった。
与一の発言に横槍を入れるかのように、海からざんぶと音を立てながら何かが浮いてきたのである。源氏軍の人々は何事かと思い、一斉にその得体の知れぬ何かに注目したのだ。
「誰だ」
義経の横で、弁慶が怒鳴る。
そこには、群青色の装束を身に纏い、亀に乗り、奇妙な箱を持った、謎の青年がいた。
少し前まで、その青年は海の中にいた。
「どうしても、行ってしまうのですか」
乙姫が悲しそうに言った。
「はい。家では母が待っていますので」
青年は顔色一つ変えずに頷いた。
「しかし、今行っては駄目なのです。今、あなたが暮らしていた砂浜では……」
「いいえ。僕の決意はもう固まった。だから、今すぐ帰ります」
「違うのです。もし今、砂浜に行かれると……」
青年は乙姫の次の言葉を遮って叫んだ。
「いや、もう決めたことなのだ。何があろうと、たとえ死んでも、僕は帰るぞ!」
「……そうですか。死ぬ覚悟があるというのであれば、もう私も引き止めはしませんわ」
「では、さようなら」
青年は一礼して、乙姫に背を向けた。
「待ってください!」
乙姫が何かを思い出したかのように叫び声を上げた。思わず青年は振り返る。すると、乙姫の華奢な腕の中には、朱色の紐に結ばれた漆塗りの箱が収まっていた。
「何ですか、これは」
青年は尋ねた。
「これは玉手箱です。万が一危険なことがあった時のためにお渡ししておきます。きっと、役に立つでしょう」
「危険なこと? そんなの、ある訳ないでしょう。家に帰るだけですからね。まあ、一応頂きます。ありがとう、乙姫さま」
「気を付けてくださいね。くれぐれも……」
青年は玉手箱を持って、亀に跨り、海底から浮かび上がった。
――そして、戦争真っ只中の砂浜に辿り着いたのだ。
源氏軍の人々は、煌びやかな格好をした突然の乱入者に驚き、きょとんとしていた。
一方の青年も、重苦しそうな鎧兜に包まれた大勢の人々に囲まれ、状況が分からず、きょとんとしていた。
ただ一人、いや一匹、亀だけは全てを察し、ぽちゃん、という音を残して海の中へ逃げてしまった。
この音で我に返った義経は、突然青年に跪いた。
「神様!」
「へ?」
「このような時に海から現れるとは……この方は、神様に違いあるまい!」
それを聞き、納得した他の諸将も、主君に倣い、次々と青年に向かってひれ伏し始めた。与一だけは少し遅れてしぶしぶ膝を屈した。
「我らをお助けくだされ、神様。あの扇の的を射落とすべきところ、恥ずかしながら、我が軍にはそれを成し遂げられる腕前の弓取りがおらず難儀しておりました。願わくはあなたのお力を拝借いたしたい!」
突然の展開に、青年は首を傾げる。
「僕が……神様?」
「白を切られるおつもりか。だがこの義経の目は騙せませぬぞ。その神々しいお姿といい、お出ましになった時機といい、あなたが神様でなければ説明がつきませぬ。さあ、どうぞこちらへお越しくだされ」
「ちょっと待ってくださいよ。状況がよく分かっていないですし、それに僕、まだやるって言っていませんよね?」
青年の言葉に対し、義経は顔を上げ、青年と目を合わせる。その鋭い眼光は、青年の肝を潰すには充分であった。義経に睨まれた青年は、たちまち怖じ気づいてしまった。
「な、何でもやります、何でもやりますから! だから殺さないでください……」
「あなたを殺す理由がどこにありましょうか。あなたは我らを救うお方。いざ、その腕前をお示しくだされ!」
義経は立ち上がり、青年を促す。そこで初めて、青年が武器の一つも持っていないことに気が付いた。
「失礼ながら神様、弓はお持ちで?」
「え、弓? そんなもの、ありませんが……」
「なんと。やはり、神様の国は我々人間の住む世界とは違う。弓がないとは、これすなわち神界が平和な証。誠に素晴らしきことかな。この義経、感服いたした!」
義経に煽てられ、青年はまんざらでもない気分になってきた。自分は本当に神様なのだろうか。もしそうであれば、自分は何だってできるのかもしれない。そう思い始めていた。
「しかし神様なら、初めて使う弓でも必ずや容易く扱うことができましょう。私の弓をお貸しするゆえ、是非これであの扇を射抜いていただきたい!」
青年は義経から弓と鏑矢を渡される。この時、彼は波打際から五間ほど離れていた。与一ですら、この距離から射ても的まで届かないだろう。しかし、青年はそんなことはお構いなしで、いきなり矢を取って番え、狙いを定めた。
《僕ならできる……神様だか何だか知らないけど、僕ならあの扇の的を射落とせる……そうだ、あれくらい射落とせるさ……》
青年は心の中で念じた。
《僕ならできる……何故なら僕は……僕は……僕は……》
「乙姫さまの心を射止めたのだから!」
叫びながら、青年は矢を放った。風は追い風、矢は一直線に飛ぶ。矢はその飛距離を伸ばして扇に近付いていく。そして。
その矢は何の役割も果たさず、波打際の手前に落下した。
その瞬間、源氏軍からは落胆の声が上がった。それはあたかも、本当に神から悪いお告げを授かったかのように。
「我らは神様に見放された。これが天命か」
義経は天を仰いだ。義経たち源氏軍は、青年の失敗を責める訳でもなく、ただ自分たちの運命を受け入れているようであった。
「某がやっていたら、こうはならなかったのに」
ただ一人、与一が小声で不服を唱えた。
「うぬ、何を申すか! お主のような信心のない者がおるから、かようなことになったのだ!」
それを聞き逃さなかった義経が与一に掴みかかってきた。与一も負けじと義経の腕を押さえる。それを弁慶が間に入って止めようとする。あれよあれよと源氏軍の陣営は大混乱に陥った。
一方の平家軍からは、青年の失敗を受けて冷ややかな笑い声が上がっていた。
「はっはっは、今のを見たか。源氏の武者のへっぽこぶりには呆れるわい」
船上にいた平家軍の大将の一人が、大声で笑った。
「今こそ好機。やつらの混乱に乗じて、一気に攻めるぞ。皆の者、進め!」
大将が号令をかけるとともに、平家軍の船団が渚に向けて押し寄せてきた。
「殿! 敵襲でござる!」
弁慶が声を荒らげた。が、義経は頭に血が上りすぎて全く聞く耳を持たない。義経がこの有り様では、源氏軍の諸将もどうすることもできない。そうこうしているうちに、矢が届く距離にまで平家軍に詰められていた。
「あれが何者かは存ぜぬが、まずは先程の奇妙な男を討ってやる。覚悟せよ」
そう言うと、大将は弓を取り、青年目掛けて矢を放った。風は止んでいた。矢は一直線に青年の方に進んでいく。
青年は、この時初めて乙姫が言っていたことの意味を知った。が、時既に遅し。もはや青年には逃げる余力すらなかった。青年は死を覚悟した。
その時。突然、嵐のような強風が吹いた。それによって、矢の軌道がいくらか逸れたのである。そして矢は、青年ではなく、青年の横に置いてあった玉手箱に命中し、貫通した。
玉手箱に大穴が開き、その隙間から白い煙が上がる。その煙は、強風に煽られて、青年だけではなく、砂浜の源氏軍をも覆い、さらには海上の平家の船団まで巻き込んだ。煙は、もはや霧と言って差し支えないほどまでに辺りを覆った。
やがて、その煙は晴れ、あとには老人になった青年、老人になった源氏軍、そして老人になった平家軍が残った。ある者は腰が曲がり、別の者は額に皺が深く刻まれ、その横には今にも倒れそうな者までいる。全員、しばらくは何が起きたのか理解できず、呆気に取られていた。
与一に掴みかかっていた義経は、体勢を保てず前に倒れた。与一も寄りかかられるままに倒され、間に割って入ろうとしていた弁慶も道連れになった。先程まで血気盛んだった三人が、覇気を失って今や砂の上に横たわることしかできない。
片や海上では、平家軍の大将が今度こそ青年を仕留めんと二の矢を番えていた。しかし、その腕は震え、狙いが定まらないどころか、弦も充分に引けていない。やがて放たれた矢は、案の定明後日の方向へと飛んでいった。少し前に青年の命を脅かした弓は、もはや無用の長物でしかない。
すると突然、それらを見ていた青年が笑い始めた。それに続いて、義経も笑った。弁慶も笑った。与一も笑った。源氏軍全員が笑った。平家軍全員も笑った。何が何だか訳が分からない。もはや彼ら全員、笑うことしかできなかった。
戦場は、笑い声に包まれた。この瞬間、誰もがだらしなく大口を開けて笑っていた。腹が痛くなるまで、いや、腹が痛くなっても、笑い続ける以外の選択肢などなかった。そして、この笑いが止まることはなかったのである。
この様子を、先程海中に避難していた亀が、海上に頭を出して眺めていた。亀は静かに潜り、この状況を乙姫に報告するため、竜宮城への帰路に就いた。
海からきた弓取り