俤影を追う

「やだ……嫌だよ。ずっと一緒にいるって言ったじゃないか。ねぇ、お願いだよ……目を覚ましてよ……ねぇ」
 どこか遠くから声が聞こえてくる。
 これは、この声は、誰に話しかけているのだろうか。
 でも何だかとても懐かしい感じがする。
 自然と口が動き出しそうになる。だがどれだけ動かそうとしたって、体には全く力が入ってくれない。
 あぁ、ごめんね。大好きだよ。あなたともっと一緒にいたかったなぁ……。あなたは、幸せになってね。

 ◇

 そこで私は目を覚ました。どうやらバスを待っている間に眠ってしまっていたようだった。
 急いでスマホで時間を確認する。私が乗る予定だったバスは十数分前に出発してしまったようだった。
「あぁ、やっちゃった。次は一時間後だよ……」
 思わずそんな声が漏れる。
 はぁ、と一つため息をこぼしてから、私は先ほど見た夢のことを考える。
 妙にリアリティの高い夢だった。まるで本当に自分が死んでしまったかのような気分だった。体が重くて、痛くて、苦しくて。今考えただけでも思わず泣きそうになってくる。あれは何だったんだろう。
 そんなことを考えていたとき、ふと自分の喉がカラカラになっていることに気づいた。
 あぁ、喉が渇いたなぁ。
 きっとさっきの夢の中で必死に何かを言おうとしていたから、連動して現実でも何かしら声を出そうとしてしまっていたんだろう。確かこの近くに自販機があった気がするから、そこで何か買うか。
 先ほどまでの思考を放棄して、心の中で独り言を呟きながら、私は座っていた少しだけ古びたベンチから立ち上がろうとした。
 と、立ち上がった瞬間、腰に激痛が走った。
「痛っ」
 あまりの痛さに思わず大きな声が出てしまう。どうやら座りすぎと寝すぎでだいぶ体が固まってしまっていたようだった。私は腰を大事に抱えながらゆっくりと立ち上がり、自動販売機のある方へと向かった。
 何だかずっと泣き出してしまいそうになるのを抑えながら、一歩ずつ腰をかばうようにゆっくり踏みしめながら歩いていたとき、カランカラン、という軽快な音を立てながら、私の足元に、まだほんの少しだけ中身が残っていそうなサイダーの缶が転がってきた。
 思わずそれを拾い上げる。そしてそのまま、缶が転がってきた方を見た。
 そこには一人の青年が立っていた。彼は何とも感情の読み取れない表情を浮かべたまま、ただただそこに突っ立っていた。
「あの……」
 私が思わず声をかけると、青年はハッとしたようにしながら私の方に駆け寄ってきた。
 彼は私の方をまじまじと見つめながら、何か言いたげに口をもごもごしていた。だが何を言ったらいいのか分からないのか、やがて困った顔を浮かべて黙ってしまった。
 こちらとしてもどうしたらいいのか、何と声をかけたらいいのか分からなかったが、沈黙に耐えきれなくなって思わず話しかけた。
「これ、好きなんですか?」
 そう言って私は先ほど私の足元に転がってきたジュースの缶を彼の方に差し出す。その表面には「抹茶サイダー」と書かれている。
「えっ……あぁ、はい」
 目線を泳がせながら言う彼を見て、少しだけ不審に思いつつも、なぜだかそんなに嫌な気はしなかった。それどころか、どこか愛おしさや懐かしさのようなものも感じてしまって、私はもっと彼と話してみたいと思っていた。
「私もこれ好きなんですよ。死んだ両親がよくこれを買ってくれて。売っている自販機少ないから、見つけると思わず買っちゃうんですよね」
 私は彼の方を見つめた。一方の彼は愛おしいものを見るかのように微笑(ほほえ)みながら、「分かります」と返した。
 瞬間、温かい風が頬を吹き抜けた。それが妙に心地よくて、私も彼も顔を見合わせて微笑んだのだった。



 それから彼と仲良くなるのに、そう時間はかからなかった。好きなドリンクが同じなだけでなく、好きな食べ物も、趣味も、価値観なども同じで、とにかく彼とは気が合った。
 何回か友達として会った後、私から告白して付き合うことになった。
 彼といるのは本当に楽しくて、安心できて、幸せだった。それは彼も同じなようで、私は彼とともに幸せを噛みしめるその瞬間が本当に幸せで仕方がなかった。
 幼い頃に不慮の事故で親を失った私は、長い間孤独を抱えたまま生きてきた。だが、彼に出会い、抱えきれないほどたくさんの愛をもらえたことで、心の傷は少しずつ()えるようになっていった。
 ある日、自身の境遇を思いきって彼に打ち明けると、偶然にも彼は私と同じような境遇であることが分かった。車の事故で両親を、そして病気で最愛の弟までもを失い、今は頼れる親族もほとんどいないのだということを私に打ち明けてくれた。
 愛を渇望していた者同士、強く()かれあった私たちは、すぐにお互いにとってかけがえのない存在となった。彼は私の全てだった。
 だが彼は幸せそうな顔をすると同時に、少しだけ悲しそうな顔をするときも多かった。なぜそのような顔をしているのか聞いても、彼は「何でもない」と言うだけだった。明らかに何でもないわけがないような顔をしていたが、それ以上踏み込んで聞く気にはなれなかった。いや、「聞けなかった」の方が正しいかもしれない。その真相を聞いてしまったら、何かが壊れてしまいそうな気がして、私は聞けなかった。
 彼は私といるときに、時々「夢みたいだなぁ」と呟くことがあった。最初の方は聞き流していたけれど、あまりにも何度もそう言うので、何か深い意味があるのかもしれないと思い、「何それ、どういう意味?」と茶化すように聞き返したことがあった。そのときも彼は、「いや、別に。そんなに深い意味はないから」と言い、明らかに何かを隠しているような素ぶりを見せた。そんな彼に腹が立ったり、不安になったりしなかったわけではなかったが、これまた踏み込んで聞く気にはならず、「夢だったら覚めなきゃいいのにね」と適当に返しておいた。私がそう口にしたとき、彼は悲しそうに笑って「そうだね」と言った。それ以上は私も彼も何も言わなかった。
 そんな風に日々を過ごして、彼と付き合い始めてからちょうど半年が経とうとしたとき、私たちは一緒に隣県にある水族館にデートに行くことになった。当初は近くにあるプラネタリウムに行く予定だったのだが、彼がそこは嫌だと何度も何度も言うので、仕方なく水族館に行くことにした。



 デート当日。その日はひどく雨が降っていた。
 彼とのいつもの待ち合わせ場所である例のバス停のベンチに座りながら、降りしきる雨をただただ見つめていた。木製の屋根に雨粒が当たる音が妙に心地よくて思わず聞き入る。
 とそこで、激しい雨音に紛れながら、私のスマホが鳴る音がした。着信主は大体見当がついている。私はわざとその電話には出なかった。
 何度か着信音が鳴った後、今度はLINEの通知音が鳴り出した。ピコンピコン、という軽快な音を立てながら、私のスマホにどんどん通知がたまっていく。
 私は大きく息を吐きだすと、そっとカバンからスマホを取り出し、その画面を確認する。
 着信もLINEも全て彼からのものだった。スマホのロック画面には彼から届いたLINEのメッセージがいくつも並んでいる。
「ねぇ、どこにいるの?」「なんで電話に出ないの?」「何かあったの?」「お願いだから電話に出て」「返信して」「お願い」
 いくつも並んだ彼からのメッセージを見ていると、自然と涙が溢れてきた。だが、ここで泣きじゃくってるわけにもいかないため、何とか涙を拭きながら、震える手で彼からのメッセージに返信をする。
「何でもない」「ごめんね」
 そのメッセージにすぐに既読がついた。その瞬間、また彼から電話がかかってきた。私はスマホをぎゅっと握りしめながら、ゆっくりと「応答」のボタンを押して電話に出る。
「今どこにいるの!?」
 電話がつながった瞬間、彼は怒鳴るようにしてそう聞いてきた。電話の向こうの彼は走っているようで、雨の音と、はぁはぁという彼の吐息が聞こえてきた。
 私は泣いているのを彼に悟られまいと、必死に自分を落ち着かせながら言葉を返す。
「どこにいると思う?」
 彼からの返答はない。ただはぁはぁと息を切らして雨の中を走っている音が聞こえる。
「ヒントはね、私の一番大切な場所だよ」
 その言葉で彼は私がいる場所に見当がついたのか、ハッと小さく息を漏らした後、目的地へと向かってさらに走るスピードを高めたようだった。
「絶対にそこから動かないでね!」
 言い切るより少し前に、彼は電話を切った。
 ツーツーツーという無機質な音だけが響くスマホを耳につけたまま、しばらく私は動けずにいた。そうしている間にも視界はどんどんとぼやけてくる。溢れて止まらない涙を何度も何度も拭いながら、彼がここにやってくるのをただただ待った。
 それから数十分ほど経ったとき、誰かが走って近づいてくる音が聞こえてきた。私は両手で涙を拭った後、彼の前では涙を流すまいとぐっと唇に力を込めて音のする方へと向き直った。
 はぁ、はぁ、はぁ、と荒く息を吐きながらやってきたのはやはり彼だった。傘もささずに走ってきたようで、全身雨でびっしょり濡れていた。
 彼が何か言おうとするより前に、私はゆっくりと口を開いた。
「そんなに濡れてちゃ風邪ひいちゃうね」
 ベンチから立ち上がって、彼の濡れた体を持っていたハンカチでそっと拭く。
 あまりにものんきで、この場にはそぐわないことを言っているのは分かっていた。だがどうしても、本質的なことに向き合うのが怖かったのだ。
 彼は私の言葉を聞いて、一瞬固まった後、呆れと困惑が混じったような表情を浮かべた。
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。なんで待ち合わせ場所にいなかったの? なんでこんなところにいるの?」
 彼は怒っているというより、とても悲しそうだった。その表情の真意を何となく私は分かっていた。そして、彼がそんな表情をする理由も、彼がこんなにも焦っている理由も全てが何となく分かっているからこそ、今こんなことをしているのだった。
 私は再びベンチに腰かけた。その瞬間、風が音を立てて私の頬を強く撫でる。その風をほんの少しだけうざったく感じながら、彼からの問いかけに対し、わざと無視をするように別の言葉を返す。
「ねぇ、何回目なの?」
 私は彼の方をまっすぐ見つめた。彼は大きく目を見開いたまましばらく固まっていた。
「それ、どういう意味?」
 ゆっくりと口を開いた彼から出てきたのはその言葉だった。
「そのまんまの意味だよ。あなたがタイムリープしてくるのは何回目なの、って聞いてるの」
 雨脚が強まる中、その音に負けまいと張り上げた声が少しだけ震えていることに気がついた。でも、彼の前で泣くわけにはいかないため、さらに唇を強く噛みしめて何とか泣き出してしまいそうになるのをこらえる。
「何を言って……いや、なんでそれを?」
 彼は驚きながら、私の横にそっと腰かける。
 彼の口から出てきた言葉は思った通りのものであった。まぁ、そりゃそうだろうな、と思う。だって自分でもよく分からないからだ。よく分からないし、何の確証もないのに、私には確かに分かっていることがあるのだ。
「分からないよ。分からないけどさ、そんな気がしてたまらないんだ。そんな夢をずっとずっと見続けるの」
 そこで一度言葉を切る。
 彼と出会ったあの日に見たのと同じような、自分がもうすぐ死ぬと思われる場面の夢を、一週間に一回くらいのペースで見続けていた。夢に見る場面はほぼ毎回違っていたが、一番最初に見たあの瞬間だけはよくループして夢に出てきた。
 自分が死ぬ瞬間の夢を見たときは必ず、起きたら体のどこか一部が痛んだ。その痛みは夢を見続けるごとに少しずつ強まっていった。どんどん強まり耐えられなくなっていく痛みに恐怖を覚えたが、そのことを彼に相談することはできなかった。
 彼に心配をかけたくなかったのはもちろんだが、夢を見ていくうちに、これがただの夢ではなく全て現実に起こったことであり、その全ての真実を彼は知っているのではないかと思い始め、彼にこのことを相談して彼の口から本当のことを聞くことに恐怖を覚えたからでもあった。
 次の言葉を言うのが怖い。でも、そこに踏み込まないわけにはいかない。
「ねぇ、私はもうすぐ死ぬんでしょ。そしてそれは、避けられない運命なんでしょう?」
 冷たく強い風が私の頬をひっかく。
 彼は何も言わなかった。何も言わず、ただただ涙を流すだけであった。
 あぁ、やっぱりそうなんだ、と思う。意外と自分の心は落ち着いていた。怖くないわけがない。でもなぜか、そのことを聞き出す前よりもその怖さは和らいでいた。
「何度も……何度も君のことを助けようとしたんだ。デートに行く場所を変えたり、デートに行く日付を変えたり、君をずっと家の外に出さないようにしたり、いっそのこと付き合わないようにしたり。とにかく思いつく限りのこと全てをしたんだ。でも全部だめだった。どれだけ対策を施したって、君が死ぬ場所を、日付を、方法を変えることはできても、君が死ぬ運命自体を変えることはできなかった。今度こそっていつも思うのに、どうしたって運命を変えられないまま、僕たちが出会うあの日に戻るんだ」
 苦しそうにそう言う彼を見ているだけで、自然と涙が溢れてきた。彼はどれほどの苦しみや悲しみを一人で抱えてここにいるのだろうか。そんなことを考える。だが今の私には、はかり知ることなどできなかった。
「だから今回は、私の代わりに死ぬことにしたんだ?」
 確証なんかなかった。でも、最近の彼の様子を見ていたら、なぜかそんな気がしてならなかった。だから今日、私は約束をすっぽかしてこの場所に来たのだった。
「一回目に私が死んだのは、あなたとの待ち合わせをしていたあの駅の入り口で、事故に巻き込まれたからだった。あなたを待っていた私のもとに、ちょうど暴走した車が突っ込んできて、私は死んでしまった。だからあなたは今日、本来の待ち合わせ場所から少し離れた嘘の場所を私に伝えて、自分はその事故が起きるはずの場所に行き、いざという時は私を守れるように、ってしながら、自分は身代わりとなって死ねるようにしたんでしょ?」
 私からの問いかけに彼は何も答えなかった。肯定もしなかったが、否定もしようとしなかったため、きっと合っていたのだろうと思った。
 私はしばらく彼が何か言い出すのを待っていた。だが、待っていてもいっこうに口を開きそうにないので、仕方なく言葉を続けた。
「そのことに気づいたとき、私はあなたが許せなかった。私は一ミリもそんなこと望んでないのに、私にはあなたがいなきゃ意味ないのにって。でもあなたが何度も……何度も何度も私を助けるためにタイムリープをしているかもしれないって考えたとき、私はどうするべきか分からなくなった。残された方の苦しみや悲しみを私は経験していないから。それがどれほどのものなのか、私には想像することしかできないから。だからあなたのために、あなたの思うままにした方がいいのかもしれないと思った」
 そこで一度言葉を切って、私は彼の方を見る。彼は両目から大粒の涙を流して小さく首を振りながら、私の言葉にしっかりと耳を傾けていた。そんな彼の様子を見るだけで、苦しさと彼への愛しさがこみあげてきて、再び涙が溢れてくる。
 嗚咽(おえつ)交じりで上手く声を発せない中、私は再び口を開く。
「でもできなかった。あなたをなくしてしまうのが怖くて怖くて仕方がなくて、知らないふりをし続けるなんて、ただあなたが死んでしまうかもしれないのを待つことなんてできなかった。だからごめんね。やっぱりあなたの思うままにはしてあげられない」
 そうきっぱりと言い切った後、私は彼の瞳をまっすぐに見つめた。もうそこに迷いなどないからこそ、その思いと決意を彼に分かってほしくて、私は彼を見つめ続ける。
 彼はしばらく考え込むようにして俯いた後、ゆっくりと口を開いた。
「僕だって君の思うままにはしてあげられないよ」
 雨音にかき消されそうな声でそう呟いた後、彼はパッと顔を上げて私の方を見た。その瞳、そしてそこから流れる涙は降りしきる雨粒とは比べものにならないほど綺麗だと思った。
「もう君を失いたくないんだ。本当は僕だって死にたくない。君と一緒に生きられるならそうしたいよ。でも、どれだけ君の死の運命を変えようとしたって、どんな手を尽くしたって、どうしようもできないんだ。君だけが、僕を置いていなくなってしまうんだ。だったらもう、僕が代わりになるしかないじゃないか。それ以外、君を助ける方法なんてもう思いつかないんだよ」
 泣きながら訴える彼を見ていると、決意が揺らぎそうになってくる。でもどうしても、彼の思う通りにするわけにはいかない。だってそれは、私だけではなく、「一回目に死んだ私」の願いでもあると思われるからだ。
 正直今だって、自分が一度死んだこと、そして目の前にいる彼がタイムリープをして私の前に現れたことを完全に信じきっているわけではない。全てに現実味などなくて、私にとってはただの夢でしかない。それでも、何度も見た私が死ぬ瞬間の夢、そしてそのときの妙にリアリティの高い痛みや苦しさのことを考えると、どうしてもただの夢と言い切るわけにもいかないのである。何より、彼がタイムリープをして私を何度も助けにきていると考えたら納得のいく彼の言動がいくつも存在するのだ。もうそう思わないわけにはいかないのだ。
 しばらく私と彼は黙っていた。彼に言いたいことはたくさんあるけれど、言うべきことは何も思いつかなくて口を閉ざしていた。彼もそうなのか、あるいは私が何か言うのを待っているだけなのか分からないが、同様に何も言わなかった。
 その間にも、雨脚はさらに強くなっていた。小さく雷の音も聞こえてくる。
 雷は昔から大嫌いだったな、とふと考える。理由はありきたりなものだが、とにかくあの音と振動が怖くて、嫌いで、仕方がなかった。そんな私を、彼はいつも優しく抱きしめて、「大丈夫だよ」と何度も声をかけてくれた。あぁ、あの温もりが本当に大好きだったなぁ、と考えてまた泣き出しそうになってくる。そして、夢の中の「一回目に死んだ私」も同じことを考えていたなぁと思い出す。私にはあるはずのない記憶。それでも鮮明に覚えている。あの温もりに包まれながら、最期を感じたあの瞬間、私は確かに幸せだったのだ。
 はぁ、と大きく一つ息を吐いてからゆっくりと口を開く。
「もう終わりにしよう」
 彼は静かに何度も首を横に振った。そんな彼を私はただただまっすぐに見つめる。
 お願い、分かって。
 そんな気持ちを込めながら彼の顔を(のぞ)き込むようにして見つめた。
 彼はしばらくしてゆっくりと私に視線を合わせると、はぁ、と小さく息を漏らした。
「僕はどうしたらいい?」
 雨音にかき消されそうなくらいの声で言う彼を見て、また泣きそうになってくる。さっきから泣きそうになってばかりだな、とふと考えた。本当は今すぐにでも泣き叫んでしまいたい気持ちでいっぱいだった。それに本当は、自分の死を、彼との別れをすんなりと受け入れたくなんてなかった。何度も同じ夢を見て、その度に自分はどうするべきか考えて、心構えをきちんとしてきたつもりだったが、本当は今でも迷いと恐怖を抱いていた。でもそれを口に出してしまえば、彼はきっとまた私を助けようと何度も何度もタイムリープをして、その度に悲しみ、苦しむことになると思うから。それに、彼を自分のせいで失うのは嫌だし怖かった。だから私は最後まで、大丈夫であり続けなきゃいけないのだ。
「そばにいて。それだけでいい。それだけがいいの」
 言っている自分の声がまた震えていることに気づく。雨の音に紛れてそれが彼に分からなければいいな、と考える。
 彼は「分かった」と言って静かに私の手を取った。その手から伝わる温もりに再び泣きそうになってくる。
 私は彼の手を自身の両手にとって、それを右頬へそっと近づけた。彼の体温をもっと感じたかったからだ。頬からじんわりと伝わる温かさに自然と涙が出てくる。
 私の涙をそっと拭いながら、彼は何かの糸が切れたかのように泣き出した。きっと、「何度目かに死んだ私」も最期の瞬間同じことをしたのだろうな、と唐突に考えた。そして、そのときの私は、今のように、いや今以上に幸せを感じていたのだろうなと思った。
 彼が涙を拭うために添えてくれた手をぎゅっと握りながら、私は再び彼の方を見つめた。涙で濡れている彼の瞳とふっと目が合う。その瞬間、彼が私を強く抱きしめた。
「君に辛い選択をさせてごめん」
 絞り出すような声で言う彼の瞳を見つめたまま、私は静かに首を横に振った。
「最初は確かに辛かったし怖かったけれど、今はとっても穏やかな気持ちなの。だからもう謝らないで」
 彼の瞳から再び(あふ)れ出してきた涙を拭いながら、私は一呼吸置いて言葉を続ける。
「私のことを何度も何度も助けようとしてくれて本当にありがとう。それだけで私はとっても幸せだよ」
 そう言って私は彼に向かってゆっくりと微笑みかけた。
 この言葉に確かに嘘はなかった。でも本当は、生きて彼と一緒にいるこの時間が何よりも幸せだと感じ、そんな時間が一生続いてほしいと願ってもいた。それが決して叶わない願いなのだとしても。
 再び涙が溢れて止まらなくなりそうなのを彼に見られまいと、彼からすっと顔を背けた。そしてそのまま、彼に顔を背けたのを不自然に思われないよう、頭を彼の肩に預けた。
 雨に濡れて冷え切っている中にも彼の温もりが感じられて、ほんの少しだけ心が安らいだ。
「あぁ、やっぱ落ち着くなぁ」
 降りしきる雨の音に負けないよう、少しだけ声を張り上げた。それでも彼には聞こえなかったようで、彼はきょとんとした顔で「なんて言ったの?」と聞き返してくる。
「いや、そんな重要なことじゃないの。ただ、しばらくこうしていてもいい?」
「もちろんいいよ」
 彼は優しく私の頭を撫でた。その手は小さく震えている。彼もきっと泣いているのだろうなと思った。
 地面に打ちつける雨の音がほんの少しだけ弱くなる。
「とっても落ち着くなぁ」
 今度は聞こえるだろうと思ってもう一度言うと、今回はきちんと聞き取れたようだった。
「ほんとに? それはよかった」
 その声は相変わらず少しだけ震えていたが、本当に嬉しそうなのは伝わってきた。
「もう少し。もう少しだけこの温もりに甘えててもいいかな」
 彼は何も言わず首を何度も縦に振った。
 そのまま私は、彼の温もりをもっと感じられるようにとゆっくりと目を閉じた。
 昨晩からずっと泣いていたから、泣き疲れていたようで、目を閉じて少ししただけで私は眠りについていた。

 ◇

 遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてくる。
 私はそっと目を開けた。
 そこに広がっている景色を私はよく知っていた。そこは、何度も夢で見た、一回目に私が死んだ駅前だった。
 でも、何かが違う。何が……。
 そう思って急いで周りを見渡したその瞬間、私はその違いに気がついた。そのまま視線を下に向ける。
 視線の先に広がる真っ赤な光景を見て、思わず戸惑いを覚える。
 なんで……どういうこと?
 そう口にしようとしたが、私の口は何かにあやつられるように別の言葉を口にしていた。
「ねぇ、やだ……やだよ。ずっと一緒にいようって、いてくれるって約束したじゃん。ねぇ、目を覚ましてよ……私の前からいなくならないでよ……まだずっと一緒にいたいよ……」
 自然と涙が溢れ出してきていた。それと同時に、言葉にならない悲しみや恐怖などの様々な感情が一気に押し寄せてくる。この胸が張り裂けそうになるほどの苦しみを、絶望を、私はよく知っている。置いていかれる側の抱えきれないほどのこの感情たちを、私は何度も何度も経験していたのだ。
 そう気づいた瞬間、頭の中にいくつもの映像が流れ込んできた。
 洪水のように一気に記憶が流れ込んできて、その衝撃で頭が割れそうなほど痛くなる。その痛みに必死に耐えながら、私は押し寄せてくるいつかの記憶たちと向き合う。
 そうか。だから私は……死の運命から逃れられないのだ。
 全てを思い出してきたそのとき、目の前にぼんやりと少年が現れた。この子は、確か……。
 私が思い出すより前に、少年はふらっと私の方にやってくると、耳元でそっと伝言をささやいた。
「……彼を、よろしくね」
 そのまま少年は、「彼」と似たような笑みを浮かべながら、はるか彼方へと消えていった。

 ◇

 ハッと目を覚ました。そのまま私は彼の肩から飛び起きる。
「どうしたの!? 大丈夫?」
 彼が慌てて私の方を覗き込んでくる。
「大丈夫。ちょっとびっくりするような夢を見ただけだから。びっくりさせてごめんね」
 そのまま私は彼に表情を見られないように抱きついた。嘘をついているわけではなかったが、自分が動揺しているのを彼に見破られたくなかったからだ。
 先ほどの夢で見たことを、そしてそこで私が理解し、思い出したことを、現実の私も理解できてはいても、まだ受け入れ、信じきれていなかった。
 現実に意識を戻した瞬間、再び耳に入ってきた激しく降りしきる雨音を今は鬱陶(うっとお)しく思いながら、今一度頭を整理する。
 あれはただの夢なんかじゃなく、きっといつかの「私」が体験した本当の出来事なんだ。そしてその夢を、彼が助けようとした全ての「私」が、今の私と同じように見たのではないだろうか。
 少しずつ、だが意外にあっさりとその事実を飲み込みながら私は考える。
 私はこれからどうすべきなのだろうか。
 私がこれからしようとする選択は本当に正しいのだろうか。
 誰よりも私が、これから一人取り残される彼がどのような思いを抱え、どのような道をたどることになるのか理解しているはずなのに、「私だけが死ぬ」という選択肢を選んでもよいのだろうか。
 どれだけ考えたってその答えは出せそうになかった。ならば、これ以上迷って躊躇(ためら)いが出てしまわないように……。
「そろそろいこうかな」
 小さく呟いた。雨の音に紛れて彼に聞こえなければいいと思いながら。でも今回は彼の耳にきちんと届いたようで、何も言わず彼は泣き出した。
 たまらず涙が溢れ出しそうになるのを必死に(こら)えながら、私は必死に言葉を紡いだ。
「あなたと出会えて本当によかった。大好きだよ。私がいなくても幸せになってね」
 彼の返事を聞く前に、私は立ち上がって歩き出した。これ以上彼といれば、今口に出してはいけないあの一言がこぼれ出してしまいそうだったからだ。
「待ってよ。まだ行かないでよ。まだ君に言いたいことがたくさんあるんだ。それに……君のいない未来でなんて僕は幸せになれないよ。ねぇ……」
 彼の方へと振り向きたくなるのを必死に堪えて歩を進める。水たまりを踏んで足へと雨水が飛び散ってくるのも今はどうでもよかった。それよりも早く、彼のもとから離れたかった。
「せめて、君が死ぬ直前までそばにいさせてよ! お願いだから」
 それではだめなんだ。今《》回《》は《》、あなたがそばにいてはきっとだめなの。
 その言葉はどうやら口から外に出ていたようで、私の腕をちょうど(つか)もうとしていた彼が怪訝(けげん)そうな表情を浮かべた。
「今回は、ってどういうこと? それに君は、そんなに急いでどこに向かっているの?」
 彼の瞳が小さく揺れる。
「君は何か知っているの?」
 私の腕を握る力が次第に強くなる。
 何も知らないと嘘をついても、彼はきっとすぐに見抜いてしまうだろう。でも何を、どこまで話したらいいのかよく分からなかった。
 しばらく二人の間に沈黙が流れる。
 そのときまでもうあまり時間はないことは分かっていた。それでも何も言葉が出てこなくて、私は(うつむ)きながらただ黙っていた。
 その沈黙に耐えられなくなったのか、彼が再び口を開いた。
「ねぇ、何を隠してるの? 今更君を止めようなんて思わないから、本当のことを話してよ」
 涙で濡れた彼の瞳がビー玉のようにキラキラと光り輝く。その美しさに思わず見とれながら、ゆっくりと口を開いた。
「今日の午後五時三十八分、この先にあるコンビニエンスストアの駐車場で、店内から出てきた強盗犯に歩行者が刺される事件が起きる。店内にいた店員は軽傷で済むんだけど、駐車場で刺されたその歩行者だけが亡くなってしまうの。その被害者が、あなたの予定なの」
 地面にたたきつける雨の音が強くなる。
 私は彼の方をおそるおそる見た。彼は本当に意味が分からないといった表情を浮かべている。
「え? ……どういうこと?」
 彼は次に困惑した表情を浮かべた。
「君には未来が見えてるの?」
 私は小さく首を横に振る。
「違うの。そういうわけじゃなくて……」
 そこで一度口をつぐんだ。この先を言ってもいいのか、今になって迷いが出てきたからだ。だが、今更ごまかしたり、嘘をついたりするわけにもいかなくて、意を決してその先を口に出した。
「全てを話そうとすると色々長くなるんだけど……すっごく簡単に言うなら、あなたが私を助けようとタイムリープするよりも前に、死んでしまったあなたを助けるために私も何度もタイムリープをしている、というか、していたみたいなの」
 彼はさらに状況が飲み込めないというような表情を浮かべる。色々と聞きたいことはあるようだが、混乱していて何から聞いたらいいのかも分からないようで口を開いては閉じてを繰り返していた。
「本当にファンタジーの世界のような話なんだけど……って、タイムリープをしている時点でもう非現実的ではあるんだけど。とにかく、あなたを助けようと何度も何度もタイムリープをしているうちに、もうあなたを助けられないんじゃないかって思い始めて……いっそのことあなたの後を追って死んでしまおうと思ったの。そのときに、私の目の前に死神みたいな少年が現れたの」
 今の私にはあるはずのない、いつかの記憶を思い起こす。

 ◇

 もう何度目かのタイムリープをして、それでも彼を救うことができなかった私は、全てを諦めて後を追って死のうと駅のホームから飛び降りようとした。
 そのとき、私の目の前に死神が現れたのだった。その見た目は死神というより、ただの人間の少年という感じで、「死神」という表現が正しいのかはよく分からなかった。だが、それが「死神みたいなものだと思ってくれればいいよ」と言っていたので、とりあえずは死神だということにしておいた。
「本当に死んでしまってもいいの?」
 初対面の死神にそれらしいことを言われて思わずイラっとしてしまう。
「だってしょうがないじゃない。どうしても助けられないなら、いっそ私も死んでしまった方が幸せなんだもん」
 死神は私を射抜くかのように、こちらの方をじっと見つめていた。その表情は少し悲しげにも見えて、私は思わず戸惑う。表情を(うかが)おうとじっと死神の顔を見ていると、どこか見覚えのあるような気がしてきた。
「あなた、どこかで……」
 私の声をかき消すかのように死神も話し出した。
「彼は死ぬはずの人間だから、彼が死ぬ運命はどうしても変えられないんだ……だけど、一つだけ彼を救う方法がある」
 「一つ」と言うと同時に、死神は器用に人差し指を立てる。その様子が何だかおかしくて、私の言葉が遮られたことなんかどうでもよくなってしまった。
「その方法って?」
 死神は勿体(もったい)ぶるように、私に背を向けて一、二歩向こう側に歩みを進めた後、ゆっくりと口を開いた。
「君が彼の代わりに死ぬことさ」
「は?」
 思わず口に出していたが、それほど驚いたわけでもなかった。まぁ、そうだろうな、と思っていた。だが……。
「だけど、自分が一度代わりに死のうとしたとき、死ねなかったじゃないか、とでも言いたいんだろう?」
 私の思っていることはお見通しのようで、口に出すより前に言われてしまった。
「それは、彼を救うためには条件があるからだよ」
 少年姿の死神はどこか悲しそうな表情を浮かべたまま、それをごまかすように得意げに話す。その姿にさすがに違和感を覚え、どうしたのかと聞こうとしたが、また死神の言葉によってそれは遮られてしまった。
「まず一つ。死神と契約すること」
 死神はまた器用に人差し指を立てる。先ほどまでの違和感も忘れてそちらの方に思わず注目していると、死神は不満げに何かを待つような態度を示した。その顔にもう悲しげな感じはなく、ただの年相応の無邪気な少年の顔にしか見えなくなっていた。
 急に不満げな様子を見せてどうしたのかと様子を窺うと、死神は小さく首を縦に振りながら、ほらお前もと言わんばかりに手のひらを上にして軽く前後に動かした。
 あぁ、そういうことか、とやっと気づいた私は、先ほどの死神の発言を「理解した」という意味を込めて大きくうなずいた。同時に、こいつめんどくさいな、と思っていたのは悟られないようにしながら。
 私がうなずくのを見てやっと満足したのか、死神はまた得意げに話し出した。
「二つ目。彼やそのほかの人が死に巻き込まれないような形で、彼と同じ時間、場所で君だけが死ぬようにすること」
 何だか急に難しくなったな、と戸惑いつつも、一応把握はしたのでうなずいておく。
「以上!」
「えっ、以上!?」
 思わず声に出して驚いてしまった。まだまだありげな表情をしていたのは何だったんだ、とつっこみたくなるのをこらえる。
「そう、条件は以上! あとは注意なんだけど、彼がいつ、どういう死に方をするかは、君と彼がどういう行動をとるかによって変わるから、そのときにならないと分からないんだ。だから、ボクの方から……まぁ何とかして教えるね!」
 そんな適当で本当に大丈夫なのかと心配にはなったが、今はこの死神にすがるほかないと分かっていたため、ぐっとこらえて「お願いします」と言っておいた。
「じゃあ契約をしよう」
 そのまま死神はこちらの方に右手の小指を差し出してくる。
「彼を助ける代わりに自分の命を差し出す、と宣言しながら君の小指をボクの小指に絡ませて」
 死神らしくない無邪気な笑顔を浮かべながら、さらに小指をこちらに差し出してくる。その小指は、ほんの少しだけ震えているようにも見えた。
 差し出してきた小指に自身の小指を絡ませようと、腕を伸ばそうとしたが、自身の体は思い通りに動いてはくれなかった。どれだけ動かそうとしたって、ただ震えるだけで、全く動くことはなかった。
「やっぱり死ぬのは怖い?」
 何かを見透かすような瞳で死神は問うてくる。
 私は小さく首を縦に振った。
「じゃあやめる?」
 その声は、今までに聞いたことのないくらいとげとげしく、だがどこか震えも感じさせるようなものだった。
 死ぬのは怖い。だけどそれよりも、彼のいない未来で生き続けていく方がずっと辛くて、怖いのだ。だから、やめるなんていう選択肢はない。絶対に彼を救う。そのためなら私の命だって何だってくれてやる。
 ぎゅっとこぶしを握りしめた後、自身の腕を勢いよく前へと出して、死神の小指を強引に自分の小指と絡めた。
「彼の代わりに私の命を差し出します。だから彼を助けてください」
 その瞬間、目の前をまばゆい光が包み込んだ。
 その光に思わず目がくらんでいると、自身の小指から小さな指の温もりが消えるとともに、少し遠くから死神の声が聞こえてきた。
「契約成立だよ。あとは頑張ってね」
 そのまま死神はゆっくりと揺れながら消えていく。
「待って! あなたにまだ聞きたいことがあるの。あなた、どこかで私と会ったことない?」
 その問いかけに死神は悲しそうに微笑むだけで答えなかった。代わりに、「ごめんね……彼を頼んだよ」と呟きながら消えてしまった。

 ◇

 死神とのやりとりをかいつまんで彼に話した。彼は信じられないというような顔で、それでも真剣に私の話を聞いていた。
「もう時間がないの。お願いだから一人でいかせて」
 彼に懇願する。
 彼は少しだけ考えるような仕草を見せた後、首を横に振った。
「そんなことやっぱりできないよ。せめて、僕も一緒に死なせてくれよ」
「だめよ。あなたは生きなきゃだめ!」
 吐き捨てるように言いながら、私は傘もささずに目的のコンビニエンスストアへと歩き出した。これ以上彼と言い合いをしていても(らち)があかないと思ったからだ。
「ついてこないで。さっき、もう止めない、って言ったでしょ。だから本当のことを話したの。約束を破るの?」
 彼は何も言わなかった。ただ黙って私の後をついてくるだけだった。
 あぁ、彼に馬鹿正直に死の詳細を話さなければよかったと今更後悔する。もし私が彼と同じ立場だったら、私だって同じようなことを思って、同じような行動をするだろう。そんなこと分かっていたはずだ。なのに、なんで話してしまったのだろう。
 はぁ、と自分に対してため息をつく。そのため息は風にのってすぐに遠くへと運ばれた。
「ねぇ、いいかげんにしてよ」
 振り返ったすぐ先に彼はいなかった。その代わり、少し離れた道の端で何やらスマホを操作していた。
 何をしているのかと少し考えた後、すぐにその答えにたどり着いた。急いで彼のもとへと駆け寄ってそのスマホを取り上げる。
「警察に連絡しようとしてるでしょ!」
 彼は否定しなかった。どうやら私の予想は当たっていたようだ。
「邪魔しないでよ! もし失敗したら、私が死ねなかったら、あなたが死んでしまうの!」
「それでいいじゃないか。元々僕が死ぬ予定だったんだろう? だったら僕が死んでそれで終わりでいいじゃないか」
「それじゃだめなの。あなたは死んじゃだめ。私が死ねばそれでいいの。なんで分かってくれないの?」
「そんなの、受け入れられるわけないだろう。僕はそんなこと望んでないって君だって分かっているだろう?」
 そんなこと分かっている。それでもあなたには生きていてほしいの。分かってよ。
 その言葉を口に出すことなく、迫りくるそのときに向かって私は再び歩き出した。
「待ってよ! そのスマホを返して。まだ事件を止められるかもしれないだろ」
 彼の言葉を無視して、私は足早に目的地へと向かう。もう時間がない。
 彼がまだ何か言っているのが聞こえるが、雨音に紛れて上手く聞き取ることはできない。
 死神。見てるんでしょ。だったら彼が事件に巻き込まれないように何とかしてよ。
 届きそうもない願いを死神に託す。
 目的地であるコンビニが見えてきた。時計で時間を確認する。
 午後五時三十六分五十三秒。このペースで歩けば、予期された時間には十分に間に合うだろう。
 突然、後ろをついてきている彼の方へと振り返った。急な出来事に、彼は驚いたような仕草を見せて立ち止まる。
 灰色に染まった空とそこから絶え間なく降り続ける雨をしばし見つめた後、私は一つ深呼吸をしてゆっくりと口を開いた。
「大好きだよ……ばいばい」
 そのまま私は、彼のスマホを今来た道の方へと投げた。
 そちらの方に彼の注意がひきつけられる。その間に、私は急いでコンビニエンスストアへと向かった。
 彼が遅れて私を追いかけてくる音が聞こえる。だが、彼の足が私よりも遅いことはよく知っている。
 ある意味賭けではあったが、きっと彼は間に合わないだろうという自信があった。
 私の足音と飛び散る水の音、秒針が時を刻む音と降りしきる雨の音、そして私の呼吸と心拍の音の全てが重なって、だがそれぞれ鮮明に聞こえてくる。
 走っているはずなのに、周りの景色の流れが、自分の足音が、とてもゆっくりしているように思えた。
 ゆっくり流れていく景色をぼんやりと眺めながら走っていると、頭の中に彼や家族との思い出が次々と蘇ってきた。どれも幸せな記憶ばかりで、また涙が溢れてきてしまう。涙で視界が揺れて足元がおぼつかなくなるが、それでも止まることなく走り続ける。
 彼や家族との幸せだった日々を思い出していくうちに、今まで感じていた不安も恐怖もだいぶ和らぎ、自然と穏やかな気持ちになっていた。
 一度大きく息を吐く。
 今度こそ、これで終わりにしよう。



 左手前のコンビニの入り口から、少しだけ血のついたナイフを持った男が焦ったように走って出てくる。その後ろには、肩に傷を負いながら、必死に男を追いかけようとしている男性店員の姿が見える。
 男と目が合った。
 その瞬間、自分の体が、心臓が、凍りつくような感覚に襲われる。
 もう怖くなんかない。そう思っていたはずなのに、私の体は小刻みに震え出していた。
 恐怖で視界が暗くなっている間に、男が私の方へと駆けてくる。
 漠然とした恐怖で体を引こうとしたときにはもう遅く、まばたきのその間に、男は目前へと迫ってきていた。
 もう一度男と目が合う。
 先ほどまで泳いでいたはずの男の目にもう迷いはなかった。
 男は口の端をいびつに吊り上げながら、ナイフを持った右手をこちらの方に突きだす。
 嫌だ。怖い。
 思わず目を閉じる。
 黒い視界の中、グサッ、という鈍い音とともに腹部に激痛が走った。目をつぶったせいで余計にその痛みに感覚が集中する。
 目を開けて、真っ赤に染まりつつある自身の腹部を見ながら、そこにそっと手を当てる。少しだけ温かい赤色の液体が私の手をどんどん染めていく。
 痛い。苦しい。そう思ったのも束の間、視界が揺れる。
 そのまま私は地面へと崩れ落ちるようにして倒れこんだ。
 目の前にどんどん赤い染みが広がっていく。
 その光景を見て、自身は死ぬのだという実感が湧いてくる。やっぱり死ぬのは怖かった。
 恐怖で泣きそうになるが、いっこうに涙は出てこなかった。
 感覚が薄れていくのが分かる。もう痛みは感じなかった。思考も、感情も少しずつ薄れていく。
 どこかから声が聞こえてくる。叫び声や呼びかける声など様々な声が入り混じっているようだった。
 だがその声の一つ一つが何を言っているのか全く分からなかった。
 意識も遠のいていく中で彼のことを考える。
 最後までわがままを言ってごめんね。
 大好きだよ。
 あなたともっと一緒に生きていたかったなぁ……。

 死にたく、ないよ。 

 ハッと目を覚ます。
 目の前には無機質な白色の天井が広がっていた。
 驚いて起き上がろうとする。だが、腹部が痛んで上手く起き上がることはできなかった。
 お腹をかばいながら、今度はゆっくりと体を起こす。
「なんで私……生きてるの?」
 そう呟きながら、何か情報を得られるものはないかと急いで辺りを見回す。
 とそのとき、ベッド脇の棚に何かものが置かれていることに気づいた。
 急いでそれを手に取る。
 それは、中身の入った抹茶サイダーの缶だった。
「なんでこれが……?」
 意味が分からなかった。
 私は失敗したのだろうか? 彼はもう死んでしまったのだろうか?
 でも、だとしたらなぜこれが今ここに置かれているのだろう?
 だって私がこれを好きだと知っているのは、彼だけなのだ。その他の人が置いたとは到底思えない。
 ということはまだ彼は生きているのだろうか?
 でも、これを置いて、あるいは託して、もう彼はとっくに死んでしまっているということもありうるのではないか?
 そもそも私はどれだけ眠って、今は一体何月何日なんだ?
 様々な考えが、疑問が、頭の中に溢れてぐるぐると動き回る。混乱しすぎて、頭の中がもうぐっちゃぐちゃになっていた。
 とりあえず今日の日付を確認しようと辺りを見渡すが、確認できそうなものは見当たらない。
 いっそのこと隣や向かいのベッドの人にでも聞いてしまいたい気持ちはあったが、カーテンがしまっていてとても話しかけられそうにないので、看護師さんか誰かが来るまで待つことにする。
 だがしばらく待ったって、誰かが来るどころか、誰かが近くを通る気配すらなかった。
 しびれを切らして別の手段に頼ることにする。
 死神。どっかで見てるんでしょ? だったら、何が起きたのか、とか、彼が今生きているのかどうか、とか教えてよ。
 返事が返ってくるとは到底思えなかったが、一応死神に頼んでみる。
 案の定、返答はなかった。
 やっぱりだめか。
 そう思った瞬間、目の前にあの死神が現れた。
「うぉ! 本当に出た!」
 驚きのあまり思わず口から声が漏れる。
「君が呼び出したんだろう?」
 いたずらっぽい笑みを浮かべて問いかけてくる。
 いや、そうだけど。まさか本当に出てくるとは思わないじゃないか。
 口には出さなかったが、死神には全て読まれているようだった。先ほどよりもさらにいたずらっぽく笑っている。その様子は死神というより、ガキという名の鬼のようだ。
「で、用件は何だっけ?」
 わざとらしくそのガキはもう一度問いかけてくる。だが、その表情は先ほどとは違い、心なしか泣きそうにも見えた。
 どうしたんだろうと疑問に感じつつも、とりあえず自分の用件を片づけることにする。
「だから、彼がどうなったか、とか、なんで私は生きているのか、とか、私が眠っている間に起きたことについて教えてほしいの」
 病室に私の声だけが響いている感じがする。だが今は、恥ずかしがってもいられない。とりあえず現状を把握しなければ。
「彼は……生きているよ。彼も、君と同じようにあの日あの場所で強盗犯に刺されたんだ。で、君より早く目を覚ました。だから、君の想像している通り、そのサイダーを置いたのは彼だ」
 目頭が熱くなる。
 彼が、生きている。そして私も、こうして生きている。
 にわかには信じられなかった。夢でも見ているんじゃないかと思った。
 だが、頬をつねれば痛みが伝わってきた。これは確かに現実なのだ。
「でも彼は、事件が起きたあの日、そして君を助けようと何度もしていたタイムリープに関する記憶の全てを失ってしまったんだ。だから、今の彼には分からないし、到底理解できない。君が今感じているのと同じだけの喜びや感動が。そして、今までの君が体験した、いくつもの苦しみや悲しみ、やるせなさや痛みなどの抱えきれない感情や記憶が。その全てを孤独に抱えていくことが、君に科せられた代償だ」
 代償、という言葉に、心臓がどくん、と鳴る。
 その瞬間、開けられた病室の窓から入ってきた風が、私の髪を揺らした。それと同時に、死神の瞳が潤んで少し揺れているのに気がつく。ビー玉のように輝くその瞳を、私はよく知っている、気がする。
「代償ってどういうこと? そもそもなんで私も彼も生きてるの? どちらかの死は絶対に避けられない運命だったんでしょ? だったらなんで……今こんなことになってるの?」
 聞きたいことが溢れて止まらず、思わず質問に質問を重ねてしまう。
 でも本当に今のこの状況が信じられないのだ。彼とともに生きる未来が、幾度となく願って、その度に無理だと突き付けられて諦めてきたその未来が、今自分の目の前に確かに存在することが信じられないのだ。
 私の命を代償にしなければ守れなかった彼の命が、私がこれから抱えることになる孤独や苦しみなどの感情だけで救えるなんてそんなことが本当にあるのだろうか?
 答えを求めようと死神の様子を窺うが、死神は俯いたまま何も話そうとしなかった。
 病室の窓からまた風が入ってくる。少しだけ生ぬるいその風が妙に心地よい。
 とそこで、窓際に一つだけ小さな花瓶が置かれていることに気がついた。中には、どこかで見たことがあるような小さな明るい青色の花が束になって生けてある。
 あの花は……なんていう花だったっけ?
 必死に考えるが、思い出せそうにない。何度かどこかで見かけたことだけは思い出せるものの、その名前に関しては全く何も出てこなかった。
 別のことに気を取られているうちに、死神はゆっくりと口を開こうとしていた。急いでそちらに意識を集中させる。
「もう時間がないんだ。だから手短に話すね。君たちが二人とも生きている理由は、ボクが君たちの死の運命を変えるための取引をして、やっと今回になってそれが成立したからなんだ。今までは、何度取引をお願いしても、『今はだめだ』とか言って受け入れてもらえなかったんだけど、君が、『自分だけが死ねばいい』と全てを諦めて死を望むのではなく、『彼と一緒に生きたい』『死にたくない』と心の底から生きることを望んだから、(つい)に受け入れてもらえることになったんだ」
 今話されていることやその理屈を、すぐに完全に理解することはできなかったが、必死に話す死神の様子を見て、こちらも必死に耳を傾ける。
「取引の条件は主に三つ。一つ目は、片方だけが関係する記憶や体験とそれに伴う感情や痛みを孤独に保持し続けること。これがさっき君に話した代償だね。二つ目は、この取引に関連する全ての者が何か大事なものを一つ差し出すこと。彼とボクのはもう決められているんだ。君には後で何を差し出すか聞くね。そして最後の三つ目は……」
 そこで死神は一度口をつぐんだ。
「やっぱり、忘れないうちに君が何を差し出すか聞いておこうかな」
 そう言って小さな右の手のひらをこちらに差し出してくる。
 急に何か差し出せと言われても、何がいいのか全く分からなかった。何をどこまで差し出せば、その取引とやらに見合うのだろう?
「あなたと彼は、何を差し出すの?」
 参考程度に死神に問いかける。
 死神の体が小さく上下に揺れた。明らかに動揺している様子だった。
「彼はある人物に関する記憶を、そしてボクは……ボクの死神としての命を差し出すんだ。だって、それが取引の三つ目の条件、『ただし、取引をする者自身はその命を引き換えとして差し出すこと』だからね」
 あくまでも明るく振舞うが、その体は小さく震えていた。
 私は死神の小さな体をそっと抱きしめる。人間の体温よりかは冷たいが、(かすか)かに温もりが伝わってくる。
「私、思い出したの。ずっとあなたのことをどこかで見たことがあると思っていたけれど、やっと思い出した。あなたは彼の、遥希(はるき)の死んだ弟の未来(みくる)君でしょ」
 ハッと短く息を吐く音のすぐ後に、糸が切れたかのように泣き出す少年の声が聞こえてくる。うわぁん、うわぁん、と泣く声は見た目相応の幼さを感じさせた。
 嗚咽交じりの声で少年は、「そう。ボクはっ……ボクの名前は……死神なんかじゃなくて、未来、なんだ」と必死に答える。
 やっぱりそうだ。彼に、数回だけ写真を見せてもらったことがあったのをやっと思い出した。
 私の肩で泣きじゃくる少年の頭をそっと撫でる。柔らかな髪の毛が私の指を包み込んだ。
「死神であるボクにはずっとお兄ちゃんの寿命が見えてて……ボクはずっとお兄ちゃんを救いたいと思っていたんだ。でも死神であるボクには、救うどころかお兄ちゃんを死へと引きずり込むことしかできないから。だから君に託したんだ。時間もかかっちゃったし、君を何度も苦しめたけど、それでも何とか君もお兄ちゃんも救える方法にたどり着いて、それで二人が幸せになれるのなら、ボクには後悔なんてないんだ。命を差し出すことについても、ボクにできるのはこれしかないから、不安も後悔もない。でも……」
 そこで一度言葉を切る。
 少年は私から離れると、窓際に置かれた花瓶の中から青い花を一輪だけ取り出した。
 その花を両手で抱くようにしながら、震える唇をゆっくりと開く。
「でもやっぱり、死ぬのは怖いんだ。ただでさえ一度死んだのに、もう一度死ぬなんて、今度こそボクの存在が完全に消えてしまうなんて、考えただけでも怖いよ」
 はぁはぁ、と息を荒げ、唇を震わせながらも必死に言葉を紡いでいくその様子を、私はただ見ていることしかできなかった。
「だけどそれより怖いのが、お兄ちゃんに忘れられてしまうことなんだ。さっき言ったろう。お兄ちゃんはある人物に関する記憶を差し出すって。それがボクのことなんだ」
「そんな……」
 思わず口に出してしまう。もう一度死ぬというだけでも、とても怖くて辛いのに、大切な人にまで忘れ去られてしまうなんて……。
 私なんかにはとても計り知れないような苦しみや恐怖を、このか弱い一人の少年が全て背負うことになることが果たして正しいことなのだろうか。だったら私が……。
「こんなことになるんだったら私が死ねばよかった、とか思わないでね。だって今のこの状況は、ボクも望んでいたんだから」
 震える手で私の手を強く握りながら、少年は無理に笑顔を作る。この子にだけはこの顔をさせたくなんかなかったなぁと今更後悔の念を覚える。
「どうにかして、彼が差し出すものを変えられないの?」
 少年は小さく首を横に振った。
「これは取引をするときに絶対として、死神の長に一方的に決められたから、ボクにはどうしようもないんだ。本来は取引に関する者全てが自分で選べる、というか選ばなければいけないみたいなんだけど、今回はボクとお兄ちゃんが本当の兄弟だっていうこともあって、ボクたちは勝手に決められちゃったんだ。ほんと、死神って意地悪だよね」
 ずっと握りしめていたために、少しだけしおれてしまった勿忘草(わすれなぐさ)の花を、少年は悲しそうに笑いながら見つめた。その瞳は、いつかの彼と同じように、ビー玉のようにキラキラと光り輝いていて、思わず目を奪われる。
 今にも涙が溢れ出して止まらなくなりそうな少年に、何か言葉をかけなければと思うのに、頭の中には何の言葉も浮かんでこなかった。
「ボクが人間として死ぬ前日に、お兄ちゃんがお見舞いに来てくれたときに言ったんだ。『死んじゃっても、ボクのこと、ボクとの思い出を絶対忘れないでね』って。ボクが死んじゃう前に何でも願いを叶えてあげる、って言われたけど、ボクが死ぬ前にしたお願いはそれだけだったんだ。なのに、それも叶わないんだなぁ……」
 少年の(ほお)を大粒の涙が伝っていく。
 私の知らないいつかの記憶を見るかのように、少年は少し遠くを見つめていた。そんな少年の姿が、ほんの少しだけ揺れて薄くなる。
「もう本当に時間がないみたいだ。何を差し出すか決めた?」
 溢れてくる涙を拭いながら少年は尋ねてくる。
 自分は何を差し出すべきなのか、必死に考える。だが、考えても考えても何も浮かんでこなかった。
 とそこで、ふと思い立って少年の方を見つめる。
「ねぇ、未来君。お願いがあるんだけど」
 少年は優しい微笑みを浮かべながら首を小さく傾げる。
「なぁに?」
「私が差し出すものを、あなたに決めてほしいの」
 涙で()れた少年の瞳が大きく見開かれる。驚きと困惑の表情を浮かべたまま、少年はしばらくの間固まっていた。
 だが少しずつ事情を理解したのか、真剣な表情に戻った後、私の方をじっと見つめながら考えるような仕草を見せた。
 自然と心臓の鼓動が速くなる。
 私は今から何を失うのだろうか。
 恐怖はさほどなかったが、緊張や不安が強く心の中を渦巻いていた。
「決めたよ」
 強い光をたたえた瞳で、少年はこちらをまっすぐに見つめてくる。その表情にもう迷いも戸惑いもなかった。
 思ったよりも早くやってきたその瞬間を、固唾(かたず)()んで待つ。
 目の前にいる少年の次の言葉で、私の運命が決まる。
「お姉ちゃんが差し出すのは――」
 口を開くのと同時に、少年はその右腕を私の顔に向けて伸ばしてきた。
 少年の右手が私の顔にそっと触れる。そのまま顔のある一か所を、小さな親指で優しく横に撫でた。
「これがいいと思うな」

 少年の体が、微かな光を帯びながらゆっくりと消えていく。
 その小さな体に向けて私は左手を差し出した。
「あなたが消えてしまっても、私は絶対忘れないから」
 不安と恐怖でいっぱいになっているこの子に、私ができることなんて数少ないけれど。それでも、少しでいいからその不安と恐怖を和らげてあげたかった。
 小さく震える手が私の左手に重なる。その手をぎゅっと握りしめた。か弱い力で私の手が握り返される。
 まるく大きな少年の目から止まることなく涙が溢れ出していた。その涙を私の右手でそっと(ぬぐ)う。そのまま私は、未来君の顔をこの左目に焼き付けられるように、ぐっと顔を近づけた。
「私たちを助けてくれてありがとう。あなたに出会えて本当によかった」
 少年の瞳を見つめながら、私は必死に言葉を紡ぐ。顔は涙でぐしゃぐしゃだし、声も情けないぐらい震えていたが、今はそんなことどうでもよかった。
 とにかく私は伝えなければいけない。無様(ぶざま)でも情けなくても何でもいいから、私はこの少年に言葉をおくらなければいけないのだ。
 左手に触れる少年の手の感触がどんどんなくなっていく。
 お願い、まだ消えないで。まだ言いたいことも、話したいこともいっぱいいっぱいあるの。
 少年を(つな)ぎ止めるかのように手を強く握ろうとするが、その手は空を切った。
 戸惑いながら少年の顔を見つめる。その表情に、もう不安も恐怖もなかった。穏やかな笑顔を浮かべながら少年はやっと口を開く。
「ありがとう。ばいばい、お姉ちゃん」
 そう言って微笑んだ少年の顔は、彼にとてもそっくりだった。

 プシュッ、という軽快な音が聞こえるとともに、風にのってやってきた抹茶の独特な匂いが鼻を突き抜けた。
「はい」
「ありがとう」
 公園のベンチに座って、彼が開けてくれたサイダーの缶を受け取ろうとする。だが、上手くいかず私の手は空を切った。
「あっ、ごめん。まだ距離感掴みにくいよね」
 申し訳なさそうな顔をして言う彼を見ているだけで、心がとても痛んだ。
 彼は私の右手を握りながら、その手にゆっくりとサイダーの缶をのせてくれる。
「色々ごめんね。ありがとう」
 何だか泣き出しそうになってしまうのを、必死に笑顔を作って止める。
 温かい風が私たちの間を吹き抜けた。その風にのって、どこからかやってきた花の香りと、手に持ったサイダーの抹茶の香りが混ざる。その不思議で、でも妙に心地よい匂いに思わず目を閉じる。
 次に目を開けたときには、彼が私の左目の方へと手を伸ばしてきていた。
 そのまま彼は、義眼の入った私の左目の下瞼をそっと横に撫でる。
「強盗犯にお腹を刺された上に、倒れたときの頭への損傷で左目も失うことになるなんて。なんで君が、君だけが、こんな目にあわなくちゃならないんだ……」
 私の顔を右手でそっと包みながら、彼は悲痛な表情を浮かべる。
 彼は知らない。
 私が何度、「なんで彼が死ななければならないんだ」と思い、苦しみ、神様を恨み続けたかを。
 彼の死の運命とやらに逆らうために、何度ももがき、苦しみ、絶望して、諦めそうになったことを。
 そして、それでも彼を救うことをやめられなかったことを。
 彼を救おうとして、そのために私が死のうとして、何度も味わい、繰り返してきた、苦しみや悲しみ、やるせなさや後悔、絶望や痛みなどの抱えきれないほどの感情や記憶を。
 彼は何も知らないし、何も分かってくれない。
 でもそれでいいのだ。
 左目なんかなくたって、これから先、様々な痛みや苦しみといった体験や記憶を孤独に抱えていくことになったって、それでいいのだ。だって……。
「私たちは二人とも生きていて、今一緒にいられてる。それで……それだけでいいじゃない」
 今二人でいるこの瞬間が、どれほど特別で、幸せで、信じられないものなのか、彼には理解できない。
 だから、この言葉に込められた意味も、重みも、彼にはよく分からないのだろう。彼は、返答に困ったような様子でただ笑みを浮かべていた。
 分かってもらわなくたっていい。それでもいいから、彼に聞いてほしかった。
「それに、私のこの左目にはとっても大切で素敵なものが、光景が、焼き付いているから。それでもう十分なの」
 彼の顔をまっすぐと見つめる。左が欠けた私の目に、その顔を焼き付けるように。
 彼はきょとんとした顔を浮かべた後、ふっと笑った。
「そっか。君がそう言うなら、きっとそうだね」
 そう言って彼は、再び私の左目の下をそっと撫でる。私もその手に重ねるようにして、一緒に左目を撫でた。
 目の前の銀杏(いちょう)の木々が風に揺れる。ざわざわと微かに聞こえる音が心を(いや)す。
「あっ」
 彼が呟く声が聞こえて、急いでそちらに注目した。
「間違えて緑茶サイダー買っちゃったみたいだ」
 明らかに残念そうな顔を浮かべながら、彼は緑茶サイダーの缶を開けると、しぶしぶといった様子でそれを飲み始めた。そのあまりにも幼稚な表情や様子を見て、私は思わずくすっと笑ってしまう。
 そのまま私は、サイダーを飲む彼の横顔を見つめる。
「ん? どうかした?」
 缶から口を離して、彼は問いかけてくる。
「いや、やっぱり似てるなぁ、と思って」
「え、誰に?」
 食い気味に尋ねてくる彼を無視して、私は彼が持っていた緑茶サイダーを取り上げると、それを一口、口にした。
「うーん、やっぱり全然違うな」

俤影を追う

俤影を追う

【本当はあなたと生きたかった】繰り返す死の運命に抗った、私と、あなたと、だれかの記憶の物語。 作:立花莉都

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2025-04-03

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著作権法内での利用のみを許可します。

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