消えない物
「不二屋書店」閉店を知り、そして思ったこと。
本当に最近のウェブニュースはくだらない記事ばかりが、まるで吟味されたかのように並んでいるなと辟易している。痩せた太った、美人すぎる、ファンも絶賛、驚愕。どれも使い古された言葉や、オーバーな見出しで人を騙す。最近はもうその手は食わないぞと、手の内を知った私は良質な記事だけを読むように心がけている。そんな中、物を書く私にとって、そして読書好きの人にとってまた残念なニュースが、そのくだらない記事の中に一つ、真珠のように掲載されていた。
東急自由が丘駅前のシンボルとして、一〇二年間、親子三代にわたって営業を続けてきた「不二屋書店」(東京都目黒区)が二十日、幕を下ろすという。一〇二年といえば一九二三年、大正十二年、関東大震災があった年から営業を始めたということになる。東京が壊滅的な被害を受けた、あの惨状から世の中が復興していく中で、出版業界も作家も、そして読者も活気づいていた頃だった。
まだラジオ放送も開始されていない、そういった中で、活動写真と呼ばれた映画が日本国内でも製作され始めて、まだ数年が経ったという頃のこと。こうやって、今あるものを省いていくことで、当時、本というものがどんな存在だったかが、浮かび上がってくるようである。
パソコンというものが普及してから急速に進んだ、相次ぐ書店の閉店は今や歯止めがかからない状態に陥っている。わざわざ紙本を持たなくてもスマートフォンでことが足りてしまう、と言った意見も耳にするが、果たしてそれだけが理由であろうか。私はそれだけが理由ではないと思っている。第一、本を読むという人間が、パソコンの普及以前から減少し始めているということが、全ての原因だと私は考える。
人々はいつから知性を身につけることをしなくなってしまったのだろうか。自己啓発本などを読書と言っている人間は、論外である。
スマートフォンが云々ということではない。人間が本を読まなくなったという表れである。これは危機的状況である。たかが本と人は思うかもしれないが、されど本である。散々、書いているが、読書は自己との対話である。その対話をする力を身につけるのが読書なのである。これ以外に方法はないのである。これでしか身につけることができないのである。自己との対話もできない人間が、人の気持ちを理解できるはずがない。円滑な人間関係を築けるはずがない。頭で読むのではない、心で読むのである。だから、自己啓発本は読書ではないと私は言うのである。
紙本でなくても用が足りるとコメント欄に書いていた人もいたが、私は様々な理由で紙本が廃れてしまうということは決してないと思っている。それは、一時のことで起こる現象かもしれないが、紙は永遠に残り続ける。紫式部の「源氏物語」に代表されるように、何年経っても紙が消え去ることはないからである。 映画の世界もフィルムからデジタルへと移行したが、これもフィルムのように一〇〇年経っても映像が消えないかと問われると、歴史が浅い分、断言できないところが致命的である。
今、制作された映画が一〇〇年後、見ることができない状態になっているかもしれないということである。人が追い求めて辿り着いた技術の極致とでも言おうか、手軽さや便利さを優先して、その結果、一〇〇年後、現代の文化が水泡と化したとなったら、シャレにはならないのである。
映画と同じように、本も紙でなければ残ることは決してないと思う。本屋がなくなってしまうのだから、古本屋なんてものも一〇〇年もしないうちに、もしかしたらなくなってしまう運命かもしれない。文房具屋も然り、人間の仕事でさえ機械がやって除けてしまう時代だから、人間自体がもうこの世からいなくなってしまうのも時間の問題かもしれない。
結局、人間の首を絞めているのは人間自身である、ということに辿り着く。
「不二屋書店」が一〇二年の歴史に幕を下ろすという話からずいぶん話がずれてしまったが、私は紙だけが持つ良さというものを、数少ない読者が感じているだけでも、紙の本がなくなるということはないと思っている。紙本の何が一番利点かと言うと、スマートフォンと違い、誰にも読書の時間を邪魔されるということがないことである。スマートフォンで電子版の本を読んでいると、必ず通知が来てページから目を離さなければならないが、紙の本にはそういうことがない。紙の本を読むのに、スマートフォンを片手に本を読むバカはいない。どっぷりその世界に浸りたいのが読者である。それを邪魔するスマートフォンは、読者の敵でしかない。
これまでレコードがCDに取って代わって、何十年と時が流れたが、それでも結局、レコードは復活し、細々とCDと共存していることを考えると、紙の本が全くなくなってしまうという時代は、私はきっと来ないと断言しても良いと思っている。
良いものは良い。結局、これに尽きるのである。いつの時代もそうだが、それまであったものを手放したことによって、それを知らない次の世代が台頭してくる。すると、過去にあった物の良さというものを、必ず次の世代の中に感じ取る力を持っている誰かが必ずいるのである。結局のところ、時代は廻り、そしてまた、良いものは廃れない。数は減ってもなくなることはない。そういうものなのではないだろうか。
本屋が閉店してしまうことは、本当にスマートフォンのせいだけなのだろうか。それは本を読まない人間の、都合のいい言い訳でしかないのかもしれない。
スマートフォンのブルーライトは読書どころか、人の生活をも脅かす悪魔の光である。長時間、浴び続けるのは良くない。子供の視力がどんどん低下していっているのは、紙本のせいではない。このブルーライトのせいである。そうと分かっていて、紙本を必要としないのは長い目で見ていいことでは決してない。
やはり私は目を大切にして、死ぬまで「紙本」を読みたいと思っている。
消えない物
2025年2月18日 書き下ろし。