勇者は量子力学的に世界線を渡る
この作品を書いた動機は「異世界転生というものに対して、何かしら物理学的な説明がつけられるのではないか」と考え始めたことでした。それが成功しているかどうかは、読者の皆さんにご判断いただければ幸いです。
「よくこんな理屈こねるなあ」と理系の方々にも、苦笑しつつお楽しみいただけますように。
1
俺が一角隊に加わったきっかけは、非常に単純だった。
職もなし、食う物もなし。
もちろん家もなしという状態で王都をさまよっていた時に、掲示が目についたのだ。
『一角隊 補充につき新人を求む』
とある。
「一角隊って何だろ? 何をするんだろ?」
見当すらつかないまま、物は試しと門番に尋ねてみると、
「一角隊の募集には、性別年齢などの制限は一切ない」
という答えだった。
こんなところでも三食は食わせてくれるし、少ないが給料も出るので、その場で応募を決意した。
「よし」
と門番はうなずき、俺をある部屋へ案内した。
部屋の中には背が低く、ヒゲもじゃで豚のように太った男がおり、このイノシシみたいなのが隊長だそうだ。
驚いたのは、俺の入隊がこの場で許可されたことだ。
翌朝から、さっそく訓練が始まった。
2
馬術については、俺も一通りの知識を持っていた。
何を隠そう学生時代には馬術部に所属し、基本的な技術と知識は持っていた。
それがこんなところで役に立つとは思ってもいなかったが。
俺は厩舎へ連れて行かれ、自分のものとなる一頭と初めて対面した。
俺の背中にはサヤがあり、物干しざおほどもありそうな長いヤリが刺されている。
正直に言えばヤリなど、手にするのはもちろん、目にするのさえ初めてだったが、イノシシ隊長から軽く見られるのもシャクだから、何でもない顔をしてやった。
ヤリがずいぶんと邪魔で動きにくいが、なんとか馬の背にはい上がると、イノシシ隊長が口を開いた。
「ようし、ヤリを構えろっ」
「なあ隊長、ヤリを構えて、俺は何と戦うんだい?」
ここでイノシシ隊長は笑ったのだ。
「知らなかったのか? お前は魔狼と戦うのだよ。一角とは魔狼を退治する仕事だ。森には近頃、人食い魔狼が出るのでな」
とんでもない職場にまぎれ込んだことにやっと俺も気がついたが、もう遅い。
3
俺に与えられた馬は、アオという名前だった。
馬術部にもかつて同じ名の馬がいたから、親近感がわかなくもない。
訓練は続き、あるとき俺たちは訓練場内の別の場所へと移動した。
それは最も奥まった位置にあり、2重の塀で囲まれ、出入口には常に歩哨が立つほど警戒が厳重な場所だった。
「あれは何だろう?」
とは思っていたが、今や俺とアオはそこへ向かって進んでいる。
塀と同じように2重の門があり、一つ目の門を入った時点で、まず背後の門がしっかりと閉じられた。
それほど警戒が厳しいのだ。
ついに内側の門が開かれ、内部の様子が俺の目前に姿を現した。
内部は丸く、充分な面積があるが、一種の決闘場のようになっている。
2者がぶつかり、殺し合いをする場所だと一目で知ることができる。
2者が入り、出てくるのは1人だけ。
観客席はないが、まわりを囲う塀は高く、乗り越えて逃げ出すことはできない。
合図もしないのにアオは勝手に前進し、丸い土地の中央に立った。
その背後で最後の門が閉じられたのだ。
俺はキョロキョロしたが、壁にもう一つの出入口が存在することに気づくには、時間はかからなかった。
そして、ついにそれが開かれた……。
4
数週間後、訓練を終えた俺は森へと旅立つことになった。
森は王都の北に位置し、植物が濃く、暮らす動物も数多い。
王都を出発して以来の旅が、まるで俺には実感がなく、夢か幻でも見ているような気がした。
俺の頭の中では、あの丸い決闘場での出来事が、何回も何回も思い出され、再生された。
アオと俺の目の前にあったもう一つの出入口がついに開かれたとき、姿を現したのは本物の魔狼だったのだ。
たった1匹ではあるが、餌も水も充分に与えられた、状態のいい個体だ。
この魔狼の名は黒華というのだと俺は教えられたが、黒華はこの決闘場で何年間も飼われてきた。
その名の通り、ただ一筋の白い毛もなく、口中の赤と牙の白さ。
光を反射して、ときおり輝く目を除いては、魔狼の形に切り抜かれた黒いシミのような印象なのだ。
グルルル……。
黒華がうなった。
ヤリを構える俺と向かい合って、おびえている様子はない。
決闘場のまわりを囲む壁には、いくつかののぞき穴があり、そこに人の目があることに俺は気がついていた。
役人たちがいて、俺の戦いぶりを観察しているのだ。
5
突然、決闘場の中に声が響いた。
朗々として、しっかりした男の声だ。
俺は耳を澄ませた。
「お前は今からその魔狼と戦うのだ。壁に沿い、お前の頭上には台があろう?」
「あれかい?」
「あの台には生肉が置かれている。台上へたどり着き、生肉をとれば黒華の勝ちだ。それを邪魔することができれば、お前の勝ちとしよう」
「俺は、いつまでその邪魔を続ければいいんだい? 一日中はやってられないぜ」
俺の言い分に、のぞき穴の向こうの男は苦笑したようだ。
「お前の実力を私が認めれば、お前の勝ちとしよう。他に質問は?」
「ない」
フフフとまた声は笑い、次のように付け足した。
「言っておくが、黒華はまだ一度も負けたことがないのだぞ。この場で命を落とした新兵は10人では足らぬ……。それでもやるかね? 今すぐ辞職することもできるのだぞ」
男の声が消えた後、しばらくはその場を沈黙が満たした。
アオの鼻息だけが聞こえている。
それに慰められ、やっと俺は口をきくことができた。
「いいぜ。その黒華とやらを出せよ」
6
森には、たくさんの人間が住んでいる。
しかし町が存在するのではなく、あるのは村とも言えない小さな集落ばかりだ。
こういった集落は人口も少なく、守りも薄い。
農家が固まるばかりで、警備兵すらいない。
ある日、村人が1匹の魔狼を見かけた。
「どうやら村の様子を偵察に来たらしい」
と村人たちが考えたのも無理はない。
そして馬を飛ばし、役人に護衛を訴えたのだ。
その解答として俺が派遣されたのだが、カイ村というところで、王都からさほど遠くなかったのは幸いだった。
従者を引き連れ、俺とアオは森の中の暗い街道を進んだ。
カイ村に到着したのは夕暮れ前のこと。
さっそく村長の家に招かれ、食事を出されたが、それもそこそこに俺は村の中を歩き、見て回った。
「魔狼たちは、どのルートで村へ入ってきて、どの家を襲い、どう引き上げるつもりだろう?」
村の見回りを一通り終え、俺が村長の家へ帰ってきたのは、まだ宵の口だった。
村長の家といっても、村の他の家々と代わり映えはしないが、与えられた部屋の粗末なベッドの中で、俺は眠りについた。
俺が目を覚ましたのは、真夜中過ぎのこと。
これまでの経験から、魔狼は夜明け少し前に襲撃してくると分かっていた。
ほとんど例外はなく、理由は誰も知らなかったが、
「死体を森へ引きずって帰るのに夜明けの薄明かりが必要なのだろう」
とは噂されていた。
俺が馬屋へやってくると、すでに従者も起き出し、アオに馬具を乗せる作業が始まっていた。
もちろん俺も手伝い、用意は済んだ。
ロウソクの光しかないが、アオの鼻息も普段よりも大きく聞こえる。
ヤリの刃先の鋭さをもう一度確かめ、従者を馬屋に残し、俺とアオは暗闇の中へ出て行ったのだ。
7
夜が明けて……。
首都から一角が到着したことは、村の全員が知っていた。
その結果がどうなったか、はたして魔狼は襲ってきたのか、興味を持たぬ者はいない。
村長の家の庭には、朝から村人たちが詰めかける騒ぎになった。
「村長さん、昨夜の一角はどうなったね?」
「魔狼は出たのかい?」
「どこの家が襲われた?」
口々に質問が発されるが、その答えは村長も知るはずがない。
そこへ俺が帰ってきたのだ。
俺とアオの姿に大人たちはざわめき、子供らは歓声を上げかけたが、すぐに静かになった。
アオは背後に長い縄をたらし、3匹の魔狼を引きずっていたのだ。
アオの重々しい足音に、ズルズルと地面の上を引かれる音が混じる。
いずれも成長しきった大人の魔狼だ。
驚くほど大きく、長い体はすでに事切れ、血にまみれている。
ワイワイと騒がしかった村人たちは、冷水でも浴びせられたかのようになった。
従者がやってきて、俺がアオの背から降りる手伝いをし、一瞬のうちに周囲は血の匂いで満たされた。
村人たちが言葉を失っているのを見て、
「やってきた魔狼は11匹。そのうち3匹を倒して、残りは逃げた。逃げたうちの1匹には致命傷を負わせたから、当分この村に魔狼は姿を見せないだろうな」
と俺が言葉をかけても、返事はないのだ。
「悪いが庭を貸りるぞ。退治した証拠に、3匹の尾を持ち帰らなくてはならない」
8
倒された3匹は、もちろん俺の功績になる。
持ち帰った尾は、剥製師の手で剥製にされる。
ためしに一角のカブトの後ろを見るとよい。
そこには小さく控えめであるが、毛皮で作った房飾りがぶら下がっている。
その一つ一つが、退治された魔狼の尾から作られたものなのだ。
今回のカイ村での功績で、俺のカブトには3つの房飾りが見られることだろう。
だが、よく見てほしい。
カイ村は、俺にとって最初の戦場だったはずだ。
であるのに、俺のカブトには、すでに房飾りが一つ取り付けられている。
しかもこの房飾り、まるで夜のように黒い色をしているのだ。
魔狼には色々な毛色がある。1匹1匹、異なっていると言っていい。
白や黒一色の個体もあるが、多くは灰色や茶色など、様々な色が混じった毛をしている。
しかしこの房飾りは、まるで暗闇のように黒い。
そう……。
あの丸い決闘場の中で、俺は黒華を倒していたのだ。
9
まだ一人前でない新兵が、腕試し用に飼われていた本物の魔狼を倒してしまう。
そんなことは前例がなく、誰も予想しなかった。
それほどの大事件だったのだ。
あの日……。
丸い決闘場の中、大きな音と共に扉が開かれた。
続いて黒華の鎖が外される。
周囲の壁には、いくつもののぞき穴が開かれ、
「どうなることか」
と男たちが観察している。
新兵が実戦に投入される前の最終テストなのだ。
しかし新兵がこれに合格することなど誰一人、期待していない。過去に合格した者もない。
受験者は馬上にいても結局、何もできないまま黒華を見送り、黒華は頭上の台に飛び上がり、まんまと生肉にありつくのだ。
その飛び上がる足場として、黒華は受験者を用いるのに過ぎない。
要するに受験者は、ただ黒華の踏み台にされるためにやってくるのも同じだが、ヤリを持ってはいても、何センチもないところで魔狼の息づかいを聞き、うなり声が耳をいっぱいにする。
その恐怖に耐えることができるか。恐怖に打ち勝つことができるか。
ただ、それだけを見るテストだったのだ。
ところが俺は黒華を倒してしまった。
いつものように、
「踏み台にしてやろう……」
と黒華は全身を縮め、バネのように宙を飛んだ。
躍動する魔狼は美しい。
10
実を言えば、俺は以前にも一度、死んだことがある。
そのときに真実を悟ったのだ。
俺と黒華の関係がまさにそうだが、
『2者が衝突し、どちらかが死ぬまで殺し合いをする』
俺が死ぬか。
黒華が死ぬか。
その結果なのだからつまり、黒華と俺の両方が生き続けるという世界線は存在しないわけだ。
平行世界という言葉を耳にしたことがあるだろう。
まさにその通り。
死の瞬間に俺が会得したのは、『世界線渡りの術』とでも呼ぶべきものだったのだ。
だから元いた世界線では俺は死んでおり、葬式が行われ、遺骨が墓に入れられたのは間違いない。
だがこちらの世界線では、俺は生きてピンピンしている。
まるで1番線から2番線へ電車を乗り換えるように、俺は世界線を乗り換えたのだ。
もちろん俺だって、どの世界線へも好きなように渡ることができるわけではない。
渡りを実行できるのは殺害される瞬間だけで、渡ってゆく先の世界線は、必ず『事象の地平線(イベント・ホライズン)』の内側になくてはならない。
だが相手とは殺し合い、命の取りっこをしている最中なのだ。
互いの距離はごく近いわけで、局所性の禁忌を破る心配はない。
よしんば破ったとしても、その瞬間、俺と相手は『量子的にもつれている(エンタングル)』のだ。
アインシュタインが聞いたら、きっと顔を真っ赤にして怒るだろうが、エンタングルに際して局所性はもはや意味を持たず、犬のエサにくれてやるしかない。
『俺と黒華が戦って、どちらが強いかやってみる』
とは、ただの測定行為でしかない。
そこで波動関数が収縮して、なにがしかの結果が与えられるわけだ。
シュレディンガーの猫のことを思い出してみるがいい。
結果(=測定結果)とはつまり、『俺が生き残るか』『黒華が生き残るか』の二つに一つでしかない。
量子力学的要請により、ここで世界線が2つに分岐するわけだ。
一方の世界線では『俺が生き残り』、もう一方の世界線では『黒華が生き残る』。
黒華が生き残る世界線では、俺の死体が無残にも地面に横たわっているわけだ。
だが俺は世界線を乗り換えている。
こちらの世界線においては、黒華の死体が地面に転がることになるわけだ。
11
もちろん俺は武術なんて素人だし、ヤリを扱ったことさえない。
だけどいくら素人でも、あの長さなのだ。
やたらと振り回せば、マグレで刃先が命中することだってあるだろう。
心臓を突き、黒華を一瞬で絶命させてしまう場合もあり得る。
もちろんその確率は低い。
100分の1か、それ以下かもしれない。
だがそれは問題ではない。
なぜなら、自分が黒華にマグレ勝ちしてしまう世界線を選んで、俺は乗り換えるからだ。
死の瞬間(正確に言えば殺害される瞬間)に、好きなように世界線を乗り換える力。
それこそが、俺が得たものだったのだ。
前回の俺の死にざまについて興味を持つ人はいなかろうが、一応書いておくと、俺は殺人事件の被害者になった。
どこかの男が、ある男に強い恨みを抱いていた。
二人の間に何があったのかは知らないが、殺意を感じるほどの強烈な恨みではあったらしい。
俺は電車に乗って座席に座っていただけなのだが、殺したいほど憎い男と俺の横顔が、偶然ながら非常に似ていたらしい。
男はナイフを取り出し、俺の左胸を思い切り突いたのだ。
俺は即死したのだが、その時に読んでいたのが、何の因果か量子力学の教科書だった。
そして開かれていたページが、何を隠そう『物理量の測定と波動関数の収縮』について述べていた。
知らず知らず世界線のありようについて思いをはせつつ、俺は殺された。
その結果がこれなのだ。
だから俺は21世紀の日本から、今のこの世界へと転生してきている。
ここは日本とは全く違い、大学もなく高校もなく、まだまだ文明と呼べるものはロクに存在しない。
森には魔狼が出現し、王都では城を建てて王が統治している。
12
ある頃から森人たちは、森の中で奇妙な物を目撃し始めた。
それは、体毛に一筋たりとも色の混じらない真っ白な魔狼だった。
緑色の瞳と赤い口中。ピンク色の足裏をのぞいては、本当に白ばかりの魔狼なのだ。
目撃して生き残った者は多くないが、その言によると、この白い魔狼はどうやら群れのボスらしい。
常に群れの先頭を切って走り、獲物に飛びかかるのも矢のように素早いとのこと。
温暖なこの地方では冬でも雪がなく、多少はあこがれが混じっているのだろう。
あだ名好きな森人たちは、この魔狼を『雪華』と名づけ、恐れたのだ。
雪華は月のない暗い夜を狙い、待っていたに違いない。
ある夜の一角の砦でのこと。
いつものようにアオを馬屋へ戻し、俺は兵舎のベッドに入った。
しかしトロトロとまどろみかけた頃、突然の騒音に起こされたのだ。
俺だけではない。
すぐに兵舎の全員が毛布を押しのけ、起き上がった。
魔狼の咆哮なのだ。
それも1匹や2匹ではない。
おそらく何百という魔狼たちが、一角の砦を取り囲んでいる。
砦のまわりに人家はないが、離れた村でも咆哮は充分に聞こえただろう。
尋常な事態ではない。俺たちは兵舎を飛び出し、馬屋へとむかった。
馬屋でも全員が起き出し、馬たちに馬具を着ける作業が始まっていた。
みな無言で、手だけを動かしている。
ちょうどアオの身支度も済んだところだ。
数人の同僚と馬を並べ、俺は外へ出て行ったのだ。
月のない暗い夜だったが、魔狼の目は光をとてもよく反射する。
砦を囲む森を見回し、俺は息をのんだ。
本当なら塗りつぶしたように黒いはずの茂みが、まるで数百匹のホタルのように点々と光っている。
それがすべて魔狼の目なのだ。
誰かがつぶやいた。
「魔狼は何匹いるんだ? まるで勝ち目がないじゃないか」
「一角は何人いる?」
と俺は声をかけた。
「22人、いや21人かな? 魔狼は200はいるぜ…」
「なら1人10匹ずつ倒すさ」
それだけ言い残し、俺はアオにムチをくれた。
同時にヤリを手に取り、体勢を整えたのだ。
13
だが多勢に無勢という言葉が、これほど似合う場面も珍しい。
普段であれば10匹魔狼がいても、一角を見れば、まず5、6匹は逃げる。
だから一角は、残る4、5匹を相手にすればいい。
しかしこの夜は違った。
数に頼み、魔狼たちはほとんど逃げなかったのだ。
砦にいた一角の全員が出撃し、その中には例のイノシシ隊長の姿まで見える。
イノシシ隊長も自分の馬に乗り、ヤリを振り回しているのだ。
あの体格だから、太い腕から繰り出される突きは力があり、時々は刺された魔狼の悲鳴が聞こえるほどだ。
だがこれほどの数が相手では、どうしようもない。
ついに、
「砦に火をかけろ。炎で魔狼どもを追い散らせ……」
とイノシシ隊長も命じるほかなくなった。
命令はすぐに実行されたが、皮肉にもオレンジ色の炎は、黒々とした魔狼たちの姿を、ただ浮かび上がらせるだけに終わった。
メラメラと燃える炎を恐れて逃げ出す魔狼など、ほとんどいなかったのだ。
もちろん、すでに多くの魔狼が倒され、地面に横たわっている。
しかしまだ、数え切れないほどが砦を取り囲んでいる。
砦はグルリを塀で囲まれておらず、北側はそのまま森の丘陵へとつながっている。
斜面を駆け上がれば、簡単に行き着くことができるのだ。
アオの手綱を取り、俺は駆けることにした。
目指すは丘陵の頂上。
足元に群がる魔狼を蹴散らし、ひづめの下に巻き込みながら、アオは猛然と駆けはじめた。
14
俺の意外な行動に驚き、目を見張ったのは一角たちばかりではない。
魔狼たちも同じで、一瞬は俺の包囲を解き、道をあけたほどだ。
まるで波をかき分ける船のようにして、アオは歩みを進めることができた。
やがて登り切り、俺は丘の頂上で振り返った。いったんヤリを置き、叫んだ。
「さあて雪華とやら、隠れてないで出てきな。お前は俺が目当てなんだろう?」
俺は続けた。
「これを見ろ」
カブトの後ろに手を回し、俺は毛皮の房飾りをちぎり取った。
それを高くかざして見せたのだ。
黒い毛でできた房飾り。
黒華のものだ。
馬上生活で鍛えられた俺の声はよく通り、仲間たちの耳にも入った。
それは魔狼たちも同じで、いつの間にか戦場は静かになった。
人間と馬と、魔狼たちの息づかい。
そこへ木の燃える音が混じるだけだ。
俺の声が響く。
「こいよ雪華。お前の亭主を殺したのは俺だよ。くやしけりゃ、かたき討ちに来な」
俺はさらに叫んだ。
「早く出てこないと、形見を火中に放り込んじまうぞ」
本当に俺はそうしたのだ。
手袋をした手を離れ、黒い房飾りは宙を舞った。
投げられると、思いがけない勢いで房飾りは飛んだ。
15
もちろん、黒華の形見が炎に焼かれることはなかった。
驚くほど大きく、しなやかな物体が群れの中から突然現れ、房飾りを追ったのだ。
口を開き、牙を巧みに用いて、歯の間にとらえた。
雪華だ。
体長は他の魔狼よりも一回り大きく、尾は魔女の髪のように長い。
毛は透き通るように白く、その姿には俺もため息をついたほどだ。
しかし、やはり雌であるということか、黒華ほどの巨大さはない。
それでも他の魔狼たちを従える威厳を、雪華は充分に備えているのだ。
「おやおや、お前があいつの女房か? ザコたちを下がらせろよ。俺たちだけでやろう」
首をかしげ、俺はアオの鼻息に耳を澄ませた。
「アオもそう言っているぞ。お前も女王なら数に頼まず、勇気を見せたらどうだ? サシの勝負といこうや」
例のイノシシ隊長。
隊長にまで上り詰めたからには、やはりただ者ではない。
機を見て逃す、ということはなかった。
俺の声を聞き、すぐに部下たちに命じたのだ。
「森に火をかけろ。ザコどもには目をくれるな。丘を取り囲む形で、雪華が逃げ場を失うように燃やせ。やつの退路を断つんだ」
「そんなことをしたら、あいつ(俺のこと)も逃げ出せなくなります」
しかしなんと、真っ当な疑問を述べる部下を、イノシシ隊長はブン殴ったのだ。
「俺の知ったことじゃねえ。魔狼の牙から森人を守るのが一角の使命だ。雪華は魔狼どもの女王だ。雪華を倒すしか方法はねえ」
「でもあいつは?」
「雪華は、あいつが黒華を殺したと、なぜか知ってやがった。人語も分からないはずの獣だが、見ろ」
イノシシ隊長は指さした。
今しも丘の上では、雪華と俺がにらみ合っていた。
「雪華の目を見ろ。青黒い炎が燃えてやがる。あれはただの獣じゃねえ。魔性のものだ」
16
5回、6回と、俺と雪華は体をぶつけあった。
そのたびにヤリの穂先が挑み、雪華の毛をかする。
もちろん雪華も、それにやられることはない。
1度か2度は、雪華がアオの背に乗って来もした。
だが、すかさず俺がヤリでなぎはらう。
魔性の物を目の前にして、なぜこれほどの勇気が出せるのかと自分でもいぶかしむほどだった。
俺と雪華の鬼神がかった戦いぶりに魅入られ、他の連中は体を動かすことさえできなかった。
そしてついに雪華が、俺を森のさらに奥へといざなったのだ。
雪華が前を行き、アオは後を追おうとした。
オレンジ色の炎に包まれた茂みの向こう側へと進もうとした。
ここで突然、俺は気がついたのだ。自分が炎に囲まれかけている、ということに。
「ええい、なんとかなるさ」
自分でも気づいていたが、俺にはどうも楽観的過ぎるきらいがある。
俺とアオが雪華と共に火中に姿を消した後、他の一角たちは馬にムチをくれ、あちこちに火傷をしながら逃げ出すのが精一杯だった。
森と砦は、そのまま完全に焼け落ちてしまった。
翌朝には黒々とした一面の燃え残りと灰、焦げた大地以外は何もなかった。
イノシシ隊長は部下たちに命じ、もちろん焼け跡を捜索させた。
しかし部下たちは、不思議な報告をしたのだ。
「雪華の死体がどうしても見つかりません」
だがこれには、イノシシ隊長もあまり驚かなかったようだ。
「まあそうだろうな。なんといっても魔性の物だからな」
「それだけじゃないんです。アオの死体は発見できました。でもあいつは……」
「まさか、あいつも見つからないのか?」
と、今度はイノシシ隊長も目をむいたかもしれない。
「死体どころか、ヨロイのカケラさえありません」
その後、俺の姿を見た者はいない、とイノシシ隊長は王都に正式に報告した。
17
この後起こったことについては、もう見当がついているかもしれない。
『雪華とともに炎に飲まれかけたが、かろうじて自分だけは生き延びることに成功した』
という世界線へと俺は移動したのだ。
雪華は炎の中で死んだはずである。
アオも助からなかったが、それだけは少しかわいそうに思う。
数日後には、俺は王宮で王の前へ引き出されていた。
もちろん反逆者や犯罪人としてではない。
森の中で道を見つけ、何でもない旅人のようなふりをして、俺は街道沿いに王都まで戻ってきた。
どこかに落ち着いて仕事を見つけ、静かな暮らしをしようと思っていたのだが、王都の入口ですぐに見つかり、一角隊へ連絡が入れられてしまったのだ。
飛んできたのはイノシシ隊長で、俺の顔を見るなり、
「お前、生きていたのか」
と抱き着いてきたのだから、たまらない。
そのまま馬に乗せられ、やって来たのが王城の広間だった。
18
広間というのは、学校の体育館ほどのサイズがある部屋だが、俺が入っていった時、ついと立ち上がった人物がある。
部屋の一番奥にあり、一段高くなった台の上にあるイスだ。
デカく重そうなイスで、いかにも権力者専用という感じじゃないか。
この男、俺も顔を見るのは初めてだったが、茶色いヒゲを生やした口を開いたのだ。
「おお勇者どの……」
これが王都の主であって、王国の支配者、つまりダラク王その人だった。
飛び切りの美男子というのではないが、背が高く無駄のない筋肉質の肉体が、その衣装を通しても感じられるのだ。
この王についてこれまでに聞いた噂話が、俺の頭の中にいろいろと思い出され、よみがえってきた。
いわく、ただ支配者というのではなく、ダラクは真の武芸者であり、酒もタバコもやらず、女も寄せ付けず、享楽的な生活におぼれることはない。
常日頃から鍛錬を欠かさず、いざ戦争という時でも先頭に立って戦う男だそうだ。
そのダラクがイスから立ち上がり、俺の手を取るために近寄ってくるのだ。
もちろんダラクは、俺のことをほめそやした。
森に巣くう魔狼たちというのは、王を悩ませるほどの大問題だったのか。俺は初めて認識した。
つまり俺の功績はそれほどまでに素晴らしいものらしいが、賞賛の言葉の中で、王は知らず知らず、決定的な単語を口にした。
「勇者どの、褒美は何でも取らせよう。言ってみるがよろしい」
俺は答えた。
その答えを耳にして、イノシシ隊長などは心底たまげた顔をしていたが、知ったことではない。
王も驚きを隠せないようだ。
俺はこう言ったのだ。
「褒美として望むことはただ一つです、陛下。俺と一対一で戦い、雌雄を決していただきたい」
もちろん王は目を丸くしている。
「なんと?」
「陛下は名だたる騎士、武芸者であらせられる。戦えばおそらく俺が負け、カーペットを血で汚し、無様な死体をさらけ出すことでございましょう」
「それでも戦うというのかね? 何のためだ? どういう意味がある?」
ここで俺は、笑いを隠すのに苦労した。
「意味と言えばただ一つ。陛下の胸をお借りして、自分の技を試してみたい。それ以上なんの意味がございましょう」
「本当にそれだけか?」
「事前にお言葉がいただきとうございます。万が一にも俺が勝利した場合には、俺をご自身の後継者であると正式にお認めいただくこと。これだけでございます」
19
「やめとけバカ。陛下は天下一の武芸者だ。万が一にもお前の勝ちはないぞ」
いつの間にかそばに来ていたイノシシ隊長が、お節介にも俺の耳にささやいた。
だが俺は笑い、太った肩を押しのけてやった。
俺は言葉を続けた。
「陛下、いかがでございます? 褒美として、決して不相応なものではないと存じますが」
もちろん、まともに戦って勝てる相手でないことは、俺も百も承知している。
だが俺には計算があった。
この国では、何にも増して騎士道が重んじられる。
王自身も騎士であるから、もちろん騎士道を重んじる。
そして騎士道においては、他の騎士から命を懸けて挑まれた場合には、逃げることは許されない。
俺の申し出を王が拒絶することはあり得ないのだ。
王は挑戦を受け入れ、俺たちは戦うだろう。
一角に加わって、俺だって多少は武芸を学んだのは間違いない。
日本にいてさえない学生をやっていた頃とは、筋力も体力も素早さも段違いだ。
しかし一方、ダラクは武芸者のカガミだときた。
まず俺の勝利はあり得ない。
俺は刃先を食らい、この床の上で死ぬだろう。十中八九は……。
だが俺には残りの1割、いや1パーセントでもいい。
俺には世界渡りの術があるのだ。
結論だけを書こう。
俺は今、新たな世界線で王をやっている。王城が俺の住居となった。
20
前回で物語を終わってもよかったのだが、せっかくだからもう少し書いておこう。
俺が新王として立つと、国中から様々な連中が挨拶に訪れた。
まるで、そういう連中で王城の広間がいっぱいになったような印象だったが、その中で一人の女の姿が印象に残った。
まだ若く、美しいドレス姿なのはもちろんだが、遠くからでもひどく目を引いたのだ。
我ながらスケベ根性だが、そばにいたイノシシ隊長に質問してみたほどだ。
「あの女はいったい何者だね?」
「ああ、あれは亡くなった前王陛下の姉君ですな。匂うように美しい方だが、残念なことにまだ独身でしてな」
「前王の身内なら、俺のことは恨んでいるだろうな」
するとイノシシ隊長は、意外なことを口にした。
「とんでもありません。前王は騎士から挑戦を受け、その結果倒れたのです。その名誉には一点の曇りもありません」
「ということは?」
「姉君はもちろん、前王の身内の中には、陛下に悪感情を持つ者など一人もおりません。それは保証いたします」
そんなものか、と俺は思った。
この世界の物の考え方は、どうもまだ理解できない。
俺は前王の姉という女を眺め直したが、そのとき気が付いた。
女もこちらを向き、歩いて来ようとするのだ。
真っ白なドレス以外に装身具は何も見当たらないが、それでも髪は流れるように豊かで、たいそう美しい姿なのだ。
女がいよいよ目の前にやって来たとき、俺は気が付いた。
装身具を帯びない姿と思っていたのだが、実は片方の耳に、小さなイヤリングをぶら下げていたのだ。
だが宝石でも貴金属でもない。
変わったイヤリングで、動物の毛でできているではないか。
涙のような形にコロンと丸まり、耳たぶの下で揺れているのだ。
「!」
言葉は発しなかったが、俺はショックを受けた。
あの形、毛皮の黒々としたツヤには見覚えがある。
燃える森の中で焼けてしまいはしなかったのか。
そして次の瞬間、シミ一つない雪のように白い肌に、緑色の瞳をきらめかせ、女は俺の耳にささやいたのだ。
「一度エンタングルしたなら、そう簡単にはほどけるものではありませぬぞ」
(終)
勇者は量子力学的に世界線を渡る