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フリーズ162 レポート『輪廻と解脱、涅槃』
輪廻と解脱、涅槃
引用箇所は『』で括っています。
1『ミリンダ王の問い』より
最初に『ミリンダ王の問い』における輪廻と解脱の思想について触れる。
出家した最上の目的をミリンダ王に問われたナーガセーナは、出家した目的は苦を滅することだと告げた。『実にわれわれの最上の目的は、生存に執すること無き完全な涅槃であります』とナーガセーナは語っている。
ナーガセーナは輪廻を信じている。ある者は次の世に生を結び、ある者は結ばないと語る。『煩悩のある者は次の世に生を結びますが、煩悩のないものは次の世に生を結ばない』と語る。この煩悩のあるなしは執着のあるなしと関係している。執着が無い者は煩悩が無い。生に執着があると煩悩となりその者は輪廻転生する。
『ねはんとは止滅のこと』とナーガセーナは語る。つまり、苦しみが止むことだと考える。ナーガセーナは愚かなる凡夫は『生まれ・老い死ぬこと・憂い・悲しみ・苦痛・悩み・悶えから解脱せず、苦しみから解脱していない』と語る。愛執が滅び、執着が滅び、生存一般が滅び、生まれが滅びる。そして、生まれが滅びることで、「老い死ぬこと・憂い・悲しみ・苦痛・悩み・悶え」が滅びる。つまり、涅槃とは全ての波が止むことだと考えている。
生まれることこそ苦の元凶と捉え、次の生を結ばないことを願うのが解脱であり出家修行なのだろう。ナーガセーナは続けて『正しい注意と智慧と他の善き法』によって人は解脱し、彼の者は再び生を結ばないと語っている。
次の生を結ばないと既に決まっている者は、『ある種の苦しみの感じを感受し、またある種の苦しみの感じを感受しないのです』とナーガセーナは語る。肉体的な苦しみは感じるが、心的な苦しみは感受しないとナーガセーナは語る。賢者は賢いが故に心的な悩みや苦しみから離れているが、生きている以上肉体的な苦しみは伴ってしまうことは避けられないということなのだろう。
サーリプッタ長老からの引用として『我は時の来たるを待つ』という文言が、一度悟った後は死ぬだけであることを分からせてくれる。賢者は心的な悩みや苦しみからは離れるが、肉体的な苦しみは続く。だから、自分から死なずに自然に死ぬまで待つのだろう。
出家者は身体を愛しく思わないという記述も興味深い。だが修行のために身体を維持し保護するという。
釈迦の無余依涅槃は完全な涅槃とナーガセーナは語っている。死ぬ事でやっと輪廻転生から去ることができるのだろう。体を伴った悟りである有余依涅槃は完全な解脱ではないのかもしれない。
ナーガセーナは業思想を受け入れているように思う。名称と形態と呼ばれるものが輪廻転生し、次の世に生まれ変わるとナーガセーナは語る。悪業を犯した者は次の世に生まれて来る時、その犯した悪業から逃れられないとナーガセーナは語る。業はまるで影のように身体に伴い、決して離れることなく、人格的個体に随伴しているとナーガセーナは語る。
『ミリンダ王の問い』についてまとめると、ミリンダ王もナーガセーナも輪廻転生を信じている。ミリンダ王はナーガセーナへどうすれば解脱が出来るか問い、ナーガセーナはその質問に答える。業や執着する心、苦しみからの解放、煩悩の滅却などをナーガセーナは語り、ミリンダ王は悟りへの理解を深めている。
2『パダールタダルマサングラハ』より
自我(アートマン)について。『身体・感覚器官・意に知性はない』という主張から始まり、感覚器官はどこまで行っても、あくまでも道具であると主張している。知性によって、アートマンとしての自我が知られると主張する。
身体に内属している静止と活動により、努力を行う主体としての身体において支配者が想定される。知覚をしている何か一つのものが存在すると推察する。楽・苦・欲・憎しみ・努力などという属性によって、それらを保持し維持する存在者を推定できる。
『パダールタダルマサングラハ』では輪廻思想として、その者が犯した業に相応しい、その業に対応する身体・感官・対象・楽とその者が結ばれると主張されている。犯した罪障などの蓄積した業によって、例えば餓鬼や畜生などの境涯へと輪廻転生してしまうと主張されている。輪廻転生を促進する功徳や罪障により人間や神々までも、天界や人間界、地獄などにおいて繰り返し輪廻に囚われるとされる。
人が死に、彼の身体から意が抜け出る。その際、去る運動と生まれ変わる時に新たな身体へ近づく運動が生じる。これらの運動は不可見力(功徳や罪障)を動力因として発生し、自己と意が結合することで輪廻転生し生まれるという世界観だ。つまり、『パダールタダルマサングラハ』においては、意が輪廻転生する主体だと主張している。
功徳は自己(自我、アートマン)の保持する性質の一つに過ぎなく、行為者の解脱の要因であり、それは感官を超越する。『功徳は最後の楽を認識することによって破壊され』るという。また、『罪障も自己の性質であり、罪障の行為者にとって、不幸と苦悩との原因であり、感官を超越しており、最後の苦を認識することによって破壊される』という。これをまとめると、つまり、功徳と罪障はともに最後の認識によって破壊されるもので、輪廻転生には随伴しないものだと分かる。要するに輪廻転生すると功徳も罪障もリセットするが、リセットする前にその業に相応しい身体に結びつくということである。
功徳の成就法は罪を犯さない他に、階級別に定まっている。このことから当時の人々は功徳や罪障を輪廻転生の原因として捉えているということが理解できる。
解脱論として、『真理についての知識が生ずると、無知が終焉し、そこで無執着となると、貪欲と嫌悪などが存在しないから、それらから生ずる功徳と罪障が生じなく』なる。すると、かつて積み蓄積した功徳も罪障も享受することによって消滅する。これにより貪欲などの煩悩が終結し、それを特質とする功徳が、一種の満足した楽を享受し、身体を嫌悪して消滅する。この時、輪廻の原因としての功徳や罪障が消滅することによって、種子を欠いた自己は身体を跳ね除け、再び輪廻転生しなくなり、涅槃寂静となる。
『パダールタダルマサングラハ』についてまとめると、人々は輪廻転生し、意が輪廻の主体であるとする。功徳や罪障によって生じる業が次の生を決める輪廻転生の鍵となる。解脱は執着や功徳、罪障から離れて生まれることの無いことを指す。
フリーズ162 レポート『輪廻と解脱、涅槃』