ヒトとして生まれて・第15巻
はじめに
星空文庫の「短歌de1998」の記述において、IHI大手町本社に
おける川合部長との出会いが、俳句入門のきっかけとなり、今日の
短歌の世界への仲間入りに繋がったことを紹介したが、当時、私が
そもそも「俳句入門」するきっかけとなった、大手町本社部門への
人事異動と、私が、生涯の師匠と仰ぐ川合部長との出会い、および
当時の本業の緊迫した状況などについて記述しておくことにしよう。
序 章
1990年7月1日(月曜日)の1週間 ~大手町本社への人事異動~
7月1日(日)付けで武蔵野事業所から大手町(本社)に人事異動
となり、実質的には7月2日(月)から、航空宇宙事業本部の大手町
本社「企画部」に出勤することになった。
武蔵野事業所に配属となったのが、1961年(昭和36年)であるので
武蔵野事業所における勤務は、約29年間ということになる。最初の
配属先は航空機用の純国産ジェットエンジンの設計部門であり5年後
には純国産ジェットエンジン量産化のために、生産事業部の製造部門
で、約5年間にわたって設計部門の立場から製造支援に携わった。
その後、1970年(昭和45年)の瑞穂工場の操業開始に伴い組立と
総合運転試験場の部門が大移動を果たし、ジェットエンジン完成工場
として、エンジンの新規製造は勿論、エンジンオーバーホール工場と
しても本格的な操業を開始した。
田無工場から瑞穂工場への工場丸ごと移転の際は、若手メンバーの
代表として「引っ越しプロジェクト」に参画、プロジェクトの遂行に
おける醍醐味を体験、以降は「インダストリアル・エンジニアリング」
(管理工学)の技術者として、工場内のレイアウトや物流システムの
構築などに従事、当時は生産管理部門のスタッフも兼務していたので
純国産ジェットエンジンの生産計画や全日空からのエンジンメンテの
日程計画およびオーバーホール工事期間の大幅な日程短縮なども完遂、
工場内の幅広な改善活動などの推進の中で「生産性向上運動の旗振り」
や「瑞穂工場の人員計画」など、若手ならではの意欲的な業務展開を
推進してきた。
私にとっての瑞穂事業所における卒業研究は、自動倉庫の総合計画
であったが自動倉庫建設費の予算取りから始まってIHI物流事業部
との共同事業など、専任スタッフとして、建設および運営開始に成功、
顧客である防衛庁の施設部にも同規模の施設導入を物流事業部に協力
する形で成功させた。
それまでも自動倉庫の建設計画には専任の課長が居て予算取りなど
に三度チャレンジして失敗、インダスリアル・エンジニアの立場から
私が急遽、引っ張り出されてのチャレンジであった。
その後は、田無地区の生産事業部の統括部門に異動して、棚卸資産
の圧縮運動などに携わり、航空宇宙事業本部のTQC運動を統括する
部門に異動、京浜地区の異業種交流の活動にも参加、1990年7月1日
付けで大手町本社部門に異動となった。
瑞穂工場における生産性向上運動においては、一貫して、日本IE
協会(日本インダストリアルエンジニアリング協会)を通じて異業種
間でのIE実践交流会を通じて切磋琢磨を重ね私が独自開発を進めた
「ビデオIE」による生産性向上の技法は関東地区のIE活動に限定
することなく、IE分野ではトヨタが席巻していた中部IE協会にも
召喚されて生産性向上運動の交流を継続させていただいていた。
しかし、今回、大手町本社に異動を命じられた課題は全社全本部的
に、生産事業部門は勿論、オフィス部門にあっても「総コスト半減」
の命題であり、今までとは、まったく勝手が異なるアプローチであり
従来の経験則は通用しないと思われる点において、勝手がまったくと
云って良いほどに違っていた。
ところで、7月2日(火曜日)に、最初に指示された業務は・・・
〇 V50運動の立ち上げ
具体的には(V50運動の旗振り役として)
〇 シンボルマーク表彰式の準備
〇 V50運動の社内報への掲載
〇 広報ステッカーの手配
〇 V50運動についての本部長からのインタビュー記事の手配
〇 V50運動用Tシャツの見積もり
〇 V50運動についての週報のフォーマットの設定
などであった
どうやら航空宇宙事業本部長として就任した大慈弥GMの脳内には
運動開始にあたってのイメージは、既に構築されており首脳部内でも
コンセンサスは得られており、実際の旗振り役を待つばかりの状態に
スタンバイとなっているようだ。
ところで、ここで「V50運動」という命名についても、その心を
理解しておく必要がある。
〇 当時、航空宇宙事業本部が置かれた経営環境は、国内官需を主体
とした防衛産業中心の航空機用ジェットエンジンの設計・製造・販売
が主体であり、これから先、海外民需に向けたジェットエンジン開発
や生産への取組み、さらには拡販などを考えた時に、現状の事業体質
を大転換して行かないと、事業本部として 「大幅赤字への転落」が
予測されていた
〇 その背景にある実情としては、当時の 「円高の基調」にあって
航空機用エンジンおよびエンジン部品などの輸出にあってはざっくり
コストを半減させないと大幅赤字への転落は避けられない
〇 これは、エンジンやエンジン部品と云った「ハード面に限らず」
オフイス部門におけるコストに関しても、半減しないと大幅赤字への
転落は避けられない状況にあると考えられていた
そこで「V50運動」としたのは、あらゆるコストを、半分にして
勝利(ビクトリーのV)を勝ち取りたい、と、いう考え方である
それでは、何故、私が急遽、大手町本社に呼ばれたのか?
(仔細は分からないが)
〇 かつて、瑞穂事業所の瑞穂工場において「生産性向上運動」の
旗振り役を担っており、即戦力として期待出来る
〇 実践的な面からは、瑞穂事業所で管理工学の技術者として生産
管理部門の工事面(官需)を主導していた立場から、急遽、民需で
あるANAからのエンジンオーバーホールの工事期間短縮において
当時の改善状況がかんばしくないことから、ANA社との緊急会議
において、突然、生産管理部長(大慈弥氏)に会議室に呼び出され
て駆けつけ顧客からの要望事項を緊急メモ的にノート2冊に渡って
記述、その日からの緊急取り組みで「工事期間30%短縮に成功」
当時は、ANA社からも出世払いというジョークも加えられて新橋
の料亭でご馳走になったことがあるが、その時の一連の経験則など
が、大慈弥本部長の記憶に蘇って大手町本社によびだされたことも
否定出来ない経験則としてはあった・・・
などが考えられるが、当時、私としては全社的な不況の再来など
があればコンサルタント業への転身など準備は出来ていた状況には
あったので、即刻、対応出来たが、実際に大手町本社に通ってみて
通勤時間に約2時間を要することには辟易とする思いであった。
1990年7月9日(月)の1週間 ~V50運動のスタート~
大手町本社への出勤は2週目となる。V50運動の準備室も決定し
ていることは統括にあたる部長が川合氏、旗振り役の事務局スタッフ
が私(当時48歳)、先ずは、お互いの自己紹介から会話が始まる。
私が知る限りでは、川合部長は東京大学の法科を首席で卒業された
秀才で、温厚な人当たりは誰からも好かれるタイプと云える。私のこ
とは大慈弥本部長から詳しく聞いていて、良くご存じという人間関係
から交流が始まった。
V50運動のスタートに当たっては、航空宇宙事業本部が置かれた
立場から、V50運動の趣旨や必要性について大慈弥本部長から説明
が予定されており、具体的な活動は、その後からということになるが
「事業本部の全員にその必要性を繰り返し説明して行く必要性」では
一致しているものの、最初から、難しい局面が予想された。
その端緒として、7月9日(月曜日)には、V50運動のシンボル
マークの表彰式が行われて、印刷会社に向けて「ステッカー」の印刷
が発注された(V50運動の顔となる存在だ)
喫緊の課題としては、7月から、大手町本社の企画部で、全本部に
またがる規定類について一括管理することになった。従来は各工場の
総務課に規定類の統括部門があり、工場の総務課長が既定の制定など
について指導されている姿は散見された。
現在は、航空宇宙事業本部も大規模な組織となり、本部機能として
TQC推進部が規定管理を担っていたのだが大手町本社の企画部では
法規関連の専門職も顔を揃えており法規類に習って航空宇宙事業本部
における法規にも準じた位置付けとして、本部内の規定類を企画部で
統括するようになった様である。
私も生産事業部の瑞穂工場で執務していた頃は、工場内の規定類は
必須のものとして、その管理類には精通していたこともあり、本部内
の規定管理についても、即戦力として期待され、担当する業務の一つ
として、主担当に選任された様である。
そこで、V50運動の旗振り役としての任務は、当面、急を要する
業務はないと見越して、航空宇宙事業本部の規定類の引継ぎから任務
が始まった。
川合部長にも規定管理類の統括部長として業務の立ち上げには率先
垂範で取り組んでいただき、事務局として新たな規定化や改定版など
の発行に当たっては、発行が決裁された後の「印刷」「配布」などに
ついては、アウトソーシングとしての印刷会社が特定されて自ら規定
をコピーしたり、社内メールで発送したりの手間は省かれた。
この間に、川合部長との業務展開や交流を通じて、私が感じ取った
ことは、従来、私が体験・経験してきた「業務展開とは違う世界」も
あるのだというカルチャーショックであった。
私の業務展開における「世界観」も、この時に激変したと云える。
〇 従来、私が体験・経験してきた設計部門や生産事業部門において
は、必ず「論点があり」その論点を核において対局する幾つかの考え
があり、お互いに長所と短所を探り合って、結論を導いていた。
(そのため時には激しい論戦もあった)
〇 それに対して、川合部長のアプローチは、まったく異なったもの
であり、最初からメンバー間は、同じ方向に向かって席についている
印象なのだ。根本的になにが違うかといえば、相手の論点を認めた上
で、新たな論点を重ねて行くため、議論がより糸の様に強靭なのだ
私は、V50運動の旗振り役として、これから活動して行くときに、
この方法論こそが、私に求められている姿なのだと実感した。
これは、私が、これからの人生を生きて行く上で、公私を問わずに
求められて行く「理想的なパラダイム」なのだと実感した。
私は、我が家に帰った夕食で、家族全員に・・・
「これからは、お互いに、夕食時に、思い切りの我が儘を云おう」
「そして、そのまま通る我が儘もあれば、通らないものもある」
「それでも胸に収めておくよりも、我が儘は、云ったものの勝」
結果、我が儘な子も育ったが、概ね思いやりのある子が育った
1990年7月16日(月)の1週間 ~生産性の船の講師に就任~
この週は、18日に行われた各部門のV50運動の若手推進者との
「懇談会」がビッグイベントであった。
この各部門の若手推進者との初顔合わせは、先月(6月15日)に
行われておりV50運動の推進チームとして、お互いの紹介と各部門
の取組状況などを中心に交流が行われ、今回は懇談の場として大慈弥
本部長ともざっくばらんな意見交換が行われ、お互いの活動状況など
の自由な交流などが約束された。
後に、この若手メンバーの中からIHIの社長なども誕生しており
当時の上層部のもくろみとしては、将来の幹部候補を見越しての人選
でもあった様だ。
私が選ばれたのは、これら推進チームの世話役的な位置付けであり
この世話役としての選出も7月1日付けでの大手町本社の企画部への
異動も、前月(6月)に私が日本生産性本部が主催する生産性の船に
IE(管理工学)およびQC(品質管理)の講師として乗船している
最中に決定した様である。
生産性の船に講師として乗船する案件については、日本IE協会の
管理部長が、我が社のTQC推進部を訪問して、航空宇宙事業本部の
幹部会に諮られて講師としての収入、108335円は当事業本部の雑収入
として計上することで承認された。
生産性の船での実体験としての模様は日本生産性本部からの発刊で
「生産性の船:研究報告書(1990年/2号船)」に、詳細が記述
されており、約500頁におよぶ活動記録に、私が主担当した研修
チームの活動記録も残されている。
私が担当したGブロックは「IE実践コース」として編成された
3チームで、G1:8名、G2:7名、G3:7名からの集合体で
総勢:22名の精鋭メンバーであった。
生産性の船(2号船)は、 1990年/5月31日にJAL便にて
成田から出発、夕刻の19:15にはシンガポールに到着
○ シンガポールでは6月1日から6月3日の間を陸地で過ごし
〇 6月3日には生産性の船に乗船して「船上研修」を体験
〇 6月7日から6月8日の間は香港の陸地で過ごし
〇 6月9日から6月11日の間は再び「船上研修」
晴海港には6月12日に到着という強行スケジュールであった
生産性の船(2号船)の団長は、味の素株式会社取締役名誉会長の
歌田勝弘氏で、生産性の船(2号船)の乗船者から慕われ、その後も
2号船の会が開催されるほどの人望であった。また団長の言によれば
奥様同伴の乗船は初めての試みであったという。
(私も入社時のIHI土光社長の人望の厚さを思い出した)
1990年7月23日(月)の1週間 ~本部長からの特命事項~
本部長から指示を受けて調査していた決裁書などのハンコの多さに
ついて、川合部長から、ハンコの数などについて、実情を報告、原則
として「起案・照査・決裁」の三つのハンコに必要不可欠な「同意」
のハンコを加えることで現状における決裁のためのハンコは約70%
削減が可能であることが報告された。
(全本部的に決裁業務のスピード化につながる)
同時に本部長からは担当部長に電話した時など会議中のことが多く
各部署の会議の実態についても実情調査が命じられ、会議の在り方に
ついても研究するように指示が出された。
また、私に対する特命事項としては「権限の委譲」について、その
具体的な在り方について、研究しておくように指示が出された。
部門ごとに活動を始めた、V50運動の若手推進チームについても、
部門長などと気さくに意見交流が図れる様に上司に向かって「職位」
で呼びかける習慣を廃して 「さん付け」で呼ぶ運動とその習慣化
が素案として示された。
〇〇事業部長や○○部長という呼びかけでなく・・・
「○○さん」と、呼び掛けて、職位の上下間にある垣根の意識を取り
払って、気軽に意見交流をして行こうと云う考え方である。
これらの、具現化については、航空宇宙事業本部内の社内報である
「信頼運動ニュース」で広報して行くことにした。
1990年8月6日(月)の1週間
~ボストンコンサルティングとの出会い~
夏休み明けということもあって、気分は開放的、大手町本社の勤務
にも慣れたことから、昼休みに周辺の街並みに興味が湧いあたことも
あって、ぶらぶら歩きをしていると「ボストンコンサルティング」の
看板が目に入ったので階段を登るとオフイスの玄関口が目に入った。
当時は、本部長から「権限の委譲」について研究しておく様に指示
を受けていたことから、ボストンコンサルティングの様な組織体では
「どのような捉まえ方をするのだろうか」という興味が湧き、事務所
に戻った後、午後の勤務時間帯に入ってから、川合部長に事情を説明
して了解をいただき、ボストンコンサルティングのオフイスに出向き
フロントの受付の方に事情を話して取次をお願いした。
「突然の訪問であり、企業として予算を用意しての訪問ではないが」
「権限の委譲」という難問を課題として与えられて四苦八苦している
が、経験豊富なコンサルタント会社では「どのような・取り組み」を
されているのか「ヒントをいただければ・ありがたい」と。
フロントの方の対応は俊敏で、私が応接室に案内されて数分の内に
ヴァイスプレジデントの方が応接室に顔を出されて・・・
「日本の企業において、権限委譲の問題は一番やっかいな問題であり
難しい課題と云っても良いでしょうね。日本には、以心伝心的な企業
風土も根付いており業務規程なども完備していないので難しさを加速
させています」
「米国企業などでは業務規程やビジネスルールが良く整備されていて
幹部職や管理職の交替があっても、社内規定に則って、即、権限委譲
を受けた幹部職や管理職は、即日的に就業が可能です」
「具体的な例としては同じ職域で夫婦が一緒に働くことは禁じられて
いるケースが多く、個人間での特別な規範やルールが、暗黙知として
存在することにも予防措置が工夫されています」
「などなど文面からは外れて、日本企業では権限への異常な執着など
特異なケースもあるので、一筋縄ではいかないというのが実情です」
「ただ一つ云えることは日本企業にあっても業務規程などの文書化
は、GEなどを代表とする米国企業に習って、国際企業として生き
残るために強力に進める必要があるでしょうね」
ヴァイスプレジデントの方の説明は一貫して丁寧で分かりやすく
ボストンコンサルタントグループとしての対応には恐縮した。
当方にしてみれば、コンサルタント契約をする確約もなく突然の
訪問に対して「的確なアドバイス」をいただき恐縮してお礼を述べ
席を立った。
そして帰りがけに、フロントまで見送っていただき、帰りがけに
一冊の書籍が手渡された。
「タイムベース競争(90年代の必勝戦略)」と題された書籍で
監修:堀 紘一(ボストンコンサルティンググループ著)と
記されていた。
大手町本社に戻ると、早速、川合部長に報告、アドバイスなど
をいただいた状況なども報告して、早速、精読した。
内容的には、今「V50運動」を進める上で、必須の事柄など
が記述されており、この書籍に対応するビデオ教材などもあると
の案内記事もあったので、川合部長と相談の上で、今後の社内に
向けた教材としても活用できると判断して、V50運動の推進の
ための教材としての購入を決めた。
この書籍のコンセプトは東京で開催されたトップマネジメント
セミナーで、ボストンコンサルタント(主催)で発表した内容を
堀紘一代表取締役社長が自らまとめたものだけに、90年2月の
セミナーには、IHI幹部も参加していた可能性もあり、最近の
大慈弥本部長からの「情報化の決裁の俊敏化」などの具体例にも
照らして、既に、共有出来ている内容もあると即断した。
1990年8月13日(月)の1週間
~航空宇宙事業本部規定類の本社地区への移管~
情報関連機器(電算化計画)決裁の迅速化について具体的な検討が
始まり、航空宇宙事業本部の規定類についても、田無事業所のTQC
推進部から、大手町本社(企画部)への規定類原本の移管が実施され
て、実質的な本部規定類の実務処理が開始された。
1990年8月20日(月)の1週間 ~規定類の実情調査~
権限の委譲をスムーズに進める時の前提となる規定類について米国
企業では規定類やビジネスルールが良く整備されているという状況に
照らして、規定類(全般)を照査したが、航空機用ジェットエンジン
を設計製造するという業種に照らして、品質管理規定や生産に関する
規定類については、万全の体制で整備されていることが確認出来たが
オフイス部門(間接部門と呼ばれている部署)については、規定類に
出来栄えとしてバラツキがみられ、手を入れる必要が感じ取れた。
1990年8月27日(月)の1週間
~規定類の改廃について手本を示すと云う荒業~
航空宇宙事業本部のオフィス部門(間接部門)における規定類につ
いて、先ずは実情調査から着手することにした。前述の様に品質管理
規定や生産に関する規定類については、それぞれの規定についてキメ
細かく整備されており、それぞれの手順が「見える化」されている。
それに比べて、オフィス部門の規定は規定化の対象が極めて少なく
ほとんどの業務が「暗黙知」として、各部署で口伝などによって伝承
されている実態が把握された(要は業務が見える化されていない)
そこで考えた作戦は、本来、規定化は各部署で考えて各部署におい
て起案・照査・決裁するものであって、規定類の改訂などについても
同様の手順を踏んで進める性格のものであるが、先ずは現存している
オフィス部門の規定類について・・・
◯ 規定の内容が部門間にまたがる性格のものであり、規定としての
存在に有意義性が確かなもの
◯ 現存する規定類の中にあって、ビジネスルールとしての位置付け
が適切であって、本来的には部内におけるビジネスルール集に位置
付けされるもの
◯ ワンポイントレッスン的なものや、マニュアル集として集約する
必要があるもの
などに区分して、それらの趣旨を徹底する狙いも兼ねて、現存する
オフィス部門の規定類の総点検から始めて、具体的な改訂案を各部署
に提示するところから着手していった。
各部署にとっては、当初、かなりな迷惑行為として受け止めた印象
もあるが、現存する規定類については、これをやり切った。結果的に
は各部署に規定コーナーが設けられ、規定係も指名されていった。
これはやがて全社的なISO9001認証運動に発展して行くこと
になるが、これは「暗黙知の見える化」であり、ここに行くまでには
我々の立場で、もう一枚の仕掛けが噛んで行くことになる。
これは後付け的に現時点の知見で考察すれば「カオス理論」の応用
といえる。具現的には、カオス理論において有名な「バタフライ効果」
であり、ローレンツ博士の発見として有名な・・・
「ブラジルの一頭の蝶の羽ばたきがテキサスにトルネードを引き起こ
すだろうか?」という、1972年12月29日の講演内容につながって行く
性格を帯びたものかも知れない。
また別な話として南半球から船で熱帯魚を運ぶときに赤道を越える
タイミングで多くの熱帯魚が死滅していたが、業界内のある知恵者の
発案で水槽内に 「ピラニアを数匹」入れたところ、赤道を越えても
生存する熱帯魚が格段に増加したと云う説があるが、オフィス部門の
規定類の改廃を大手町本社の企画部において、徹底的に進めることで
やがて本部内において規定化の推進について目覚めた幹部やスタッフ
によって、ISO9001導入に向けた「業務の見える化」に先鞭を
つけることにつながって行った可能性は否定できないが、そこに到る
までに多くの紆余曲折があったことも確かであると云える。
1990年9月3日(月)の1週間
~V50運動に向けた懸賞論文の原稿用紙の準備~
V50運動の普及活動については航空宇宙事業本部の大慈弥本部長
からの呼びかけや、各部署の幹部からの働きかけ、若手推進委員から
の声掛けなど、多面的に働きかけてきたが、幹部職から従業員までの
「幅広い意見を聴き取って行きたい」という本部長からの呼びかけも
あり、本部内で「懸賞論文」を公募して行こうということになった。
そこで、懸賞論文の応募にも「容易に取り組める様に」という配慮
から我々推進事務局において、懸賞論文の原稿用紙の設定に取り組む
ことになり、各種の原稿用紙を取り寄せて「取り組みやすい」という
視点から、原稿用紙の準備に着手した。
1990年9月10日(月)の1週間
~「タイムベース競争(90年代の必勝戦略)」の紹介~
V50運動を自分たちにとっても身近な課題として取り組んでいた
だく狙いから「懸賞論文の公募」を開始した。同時に、V50運動を
具体的な活動として理解していただく「キッカケ(ヒント)」として
ボストンコンサルティングから入手した書籍である・・・
〇「タイムベース競争(90年代の必勝戦略)」を紹介すると共に
〇「これのビデオ版」を各部門を巡回する方式をとって、川合部長
と共に普及させていった
具体的には
〇9月13日(木):TQC推進部・本社(企画部)・防衛営業部
〇9月18日(火):管理部・品質管理部・電算グループ
〇9月20日(木):航空エンジン事業部・ガスタービン事業
〇9月25日(火):民間エンジン事業部・技術開発センター
〇9月27日(木):生産事業・田無工場
〇9月29日(土):瑞穂工場・宇宙開発事業部
〇10月2日(火):呉2工場
これらの各地区への巡回サービスを完了した段階で「懸賞論文」
についても最終的な応募締め切りをした。
1990年10月8日(月)の1週間
~総論「賛成」各論「反対」という結果に~
V50運動の具体的な活動のヒントとして、各部門を巡回して
「タイムベース競争(90年代の必勝戦略)」を、紹介した結果
各部門から、具体的な声が寄せられ・・・
〇 総論では「賛成」だが
〇 各論では「反対」という生の声が寄せられた
この声の背景には、現在「全員」で今までも業績向上に向けて全員
一丸となって取り組んできており、官需主体ではあるが適正な利益は
確保してきており「それで十分ではないか」という論調である。
一方で世界に視点を転じた時に、ボストンコンサルティングの書籍
「タイムベース競争」で紹介されていたアメリカのGE社においては
ジャックウェルチ会長による衝撃的な企業革新が進められていた。
ジャックウェルチ会長による、企業革新も、先ずは「組織が変革の
必要性に目覚めることが第一歩である」として各個人の行動計画への
決意が、この変革エネルギーの燃料になるとしてウェルチ会長自身が
組織全体の感情的なエネルギーを呼び覚ますことから始めて、自らが
陣頭指揮に立ち上がっていた。
航空宇宙事業本部の大慈弥本部長も情報関連機器(電算化)決裁書
の迅速化のためのハンコ減らしを皮切りに、業務遂行のスピード化の
ための業務のシンプル化に着手していたが・・・
これを全社的に「業務をシンプル化」して「業務のスピード化」を
図るという具体策に発展させて全部門全業務に拡大して推進を図って
行かないと、各部門から寄せられた「総論賛成」「各論反対の声」は
撃破出来ないとして、10月12日(金)に、緊急の会合が持たれて、
我々推進事務局には「S&S活動」の推進する様、全部門に向けての
呼び掛けが指示された。
「S&S活動」とは、あらゆる業務のシンプル化を図り、業務展開を
スピード化して行こうという考え方である。
1990年10月15日(月)の1週間
~懸賞論文の建設的な意見に感動~
V50運動「懸賞論文」の応募作品について大賞候補の予備審査に
着手、応募作品の全てについて読み込みを始め、大賞の審査に当たる
幹部役員に向けて、応募原稿のコピーを配布した。
どの応募作品も、ポジティブな内容で、建設的な考え方で構成され
ており、実現の可能性についてもフィージビリティスタディ的な視点
から具現化の手立てについて、提案者と共に具体的な検討を始める。
V50運動について、各部門を廻り、ボストンコンサルティングの
書籍「タイムベース競争」やビデオなどで運動のキャンペーンを実施
した結果が「総論賛成・各論反対」の反応だっただけに、懸賞論文で
寄せられた建設的な意見には大いに救われた思いであった。
私は、この経験を経て、過日(6月)参加した日本生産性本部主催
の「生産性の船」に講師として参加した際に、講師仲間のビール会社
の元重役の方の話を思い出した。
元重役の方は、現役の頃に業績の振るわない関連会社に出向を命じ
られ、その時の特命事項は「業績の回復の見込みがなければ倒産」の
「段取りまで済ませてから帰って来い」という指示であったという。
元重役の方の現地での認識では、業績回復に熱心な社員が約10%
は居て、企業再建に向けて希望が持てたのだという。その時の元重役
の方の脳裏に飛来した裏付けは、かつての酪農体験の際の先人たちの
生き様であったという。
具体的な話をすれば、牧牛においての話だが、それぞれの牛の群れ
において、概算で、優秀な牛が10%、ダメ牛の比率が10%、普通
の牛が80%、この掛け合わせを生かして全体の群れの改善を図って
行ったのだという。
どの様な方法を採るかというと、優秀な牛とダメ牛を掛け合わせて
新しい家族を誕生させて行き、やがて、全体のレベルを時間をかけて
世代を越えて品種改良して行ったのだという。
この体験を思い出した元重役は、約10%の熱心なメンバーが居る
からには、これらの社員を弾み車にして社内で業務革新を図って行け
ば、この企業は必ず立ち直ると信じて経営再建を成し遂げて、本社に
帰還したのだという。
生産性の船における懇談の場では、私に対して・・・
「実際の活動を観ていて、センスが良いのでビジネスコンサルタント
として十分やって行けるよ」とのアドバイスをいただいた。
当時の私の考えとしては、自分の会社が不況に陥って企業人として
退職せざるを得ない事情が自分の身にふりかかって来た時には先人の
背中を観て考えた時の思いで、ビジネスコンサルタントとして独立ち
出来るように準備を進めていたので、心強い一言であった。
第1章
V50運動「懸賞論文」大賞の表彰が完了すると、1991年4月
からは、総論からのキャンペーン活動による本部全体に向けての牽引
活動から、各論に向けての具体的な「S&S活動」に組織全体で軸足
を移して行くことになる。
「S&S活動」とは、あらゆる業務についてシンプル化(簡略化)を
図り業務スピードを格段にギアアップして行こうという考え方である。
これを具体的に進めて行くために武蔵野事業所の中心地域に位置する
田無事業所に「S&Sプロジェクト」を組織として発足させ、各部門
からエース級のメンバー7名を集めて稼働開始させた。
S&Sプロジェクトを統括する久能部長とUさんと私は、全体視野
で各部門を巡回、他の4名は各自の出身部門に向かって戦略ポイント
を明示して行って、適時、全体的な整合を図っていった。
統括チームとして最初に取り組んだテーマは「会議の層別と効率化」
であり、会議の種類を次の様に分類整理して指針を示した。
〇 伝達会議は、必要な事項を全員に効率よく徹底させて行くもので
朝の安全体操の後などに「5分以内」を原則として運用する。内容
が複雑なものでも会議室には入らずに、その場で15分以内で運用
〇 調整会議については、メールなどで、それぞれの論点を交換して
おき、これも会議室には入らずに、オフイス内の机を囲んで運用
〇 決定会議については、会議室に入り、これも事前にメールなどで
論点を整理しておき1時間以内で運用
〇 重役を交えた中長期の経営戦略的な会議などについては、場所を
社外に設けて、昼夜を通して結論が出るまで議論を重ねる
要は、管理職(基幹職)にあっては、常に「選択肢」を眼前にして
決定を待つスタッフが存在する状態にあり、管理職が会議室に入った
瞬間から、決裁業務が停止することになるので、管理職(基幹職)は
常にオフィス内の眼前に居てこその業務スピードの維持といえる
総括チームとしては、この「会議の層別と効率化」を手始めに活動
を始めたのであるが、このための伝達会議は「15分以内」で運用し
たため、従来の慣習で「遅れて参加しても大丈夫」という認識の方は
会場に着いた時には「誰もいないので驚いた」という後日談が数日を
経て伝わってきた。
この頃から、会議の始まりには、先ずは「お茶でも」という風習は
姿を消した。私が「プロフェッショナルだな」と感じた俳句に次の様
な作品があるが、プロというものの本質を体現させた一句である。
「歩み来し人麦踏をはじめける」 高野素十
定本「現代俳句」山本健吉著にある評によれば・・・
早春の農村風景の1カットである。畦道を麦畑まで歩いてきた農夫
が、そのままの歩調で畑土を踏み歩きながら、黙々と麦踏をやってい
るのだ。畦道をやってきたのも麦踏も同じ歩行動作であり歩行の延長
として麦踏の動作があるにすぎない。
農夫が足を一歩畑へ踏み入れた瞬間、動作の意味が、変質するのだ。
無表情な農夫の動作に何の変化もないが、それがある地点にきて突然
ある意味をになうようになったその突然変異に、作者は興趣をいだい
たのだ。この句は運動する線上の一点を捕らえたのである。
(そこには、麦踏の前に「お~いお茶」はないのだ、会議も然り)
我々「S&Sプロジェクト」の統括チームは3名編成で各部長席を
廻り、各部の「シンプル&スピード」活動の実情を聞いて廻り、善き
事例は他部門にも紹介していったが、けっして会議室に入らずに部長
席の前に3名で座り、会話の状況は部内でも全員が聞き取れる形式で
徹底した。
その時に、私が感じ取ったのは、企業内における経営知識の各部に
向けた提供は必須であり、暗黙知を含めて豊富な経営知識を自分自身
で身に着けて行く必要性を感じ取った。
そして、その時に、思い出したのは、私が新入社員として設計部門
に配属となり純国産ジェットエンジンの量産設計のための図面を大型
製図版に向かって描いている時に、当時、設計課長の留守を預かって
巡回をしていた、当時の今井部長が机の下に落ちていた「クリップ」
を拾い上げて、米国ではこの一本のクリップを拾い上げたことが契機
となり、全社的な業務革新運動につながり成功した企業の事例をお話
しいただいたことを思い出して、1本のクリップからそこまで成功を
させるのは、その経緯において多くの経営論議が重ねられたのだろう
なと、かつての体験を思い出して、そこに到るまでの経営論議の積み
重ねを想像している内に、脳内が刺激され経営知識についての習得の
必要性が痛感された。
【ニュージランドにおける覚醒】
この年(1992年)、50歳になった私に永年勤続の表彰と副賞
としての賞金および長期休暇が与えられて、私は家内と連れだって、
ニュージーランドに出掛けた。
出発は4月7日(火曜日)であったので、地元の稲荷山公園の満開
の桜を堪能してのオーバーシー(渡航)であったので、飛行機の南下
により行く先のニュージーランドでは、紅葉の真っ盛りという体験旅
であった。
このニュージーランドへの旅の記録は、本稿「ヒトとして生まれて」
第4巻に詳述したが、4月14日(火曜日)に日本に帰ってきてから
の奮闘記を重ねて書き記しておきたい。
ニュージーランドでは、二人にとって多くのポジティブな生き方を
している先輩たちに出会い、彼らが自分たちの人生に惜しみなく資金
を投入している姿勢が印象的であった。先輩たちの中で最も目立って
いたのは、新橋で弁護士事務所を開いているご夫妻で、仕事柄から人
との付き合いを大切にされていて、当然、高収入であると推測するが
取り囲む仲間たちも含めて、自分たちの人生への積極的な投資が目に
強く映った。
ニュージランドへの帰り便の機内で、家内からの感想として・・・
「これからは、自分たちへの、積極的な投資も必要ね」という言葉が
発せられて、帰宅後、私に宛てて 「家計費からの投資よ」といって
私に100万円が渡されて「自分で好きなように使って」と差し出さ
れたのだ(私としては少々驚いたが)。
私は、熟慮の上で・・・
〇 これからは、自宅へのインターネット環境の整備も必須になって
来ると考えてパソコンを購入、これは我が家のインターネット環境
として、今日の情報機器環境にもつながっている
〇 次に考えたことは、現在、S&Sプロジェクトの基幹要員として
V50運動「各論の推進」として各部門を巡回、S&S活動の普及
活動を進めているが、幅広の経営論の習得と、従来からの管理工学
(IE)の深堀および放送大学の学びにおける「心理学」や「人間学」
との組み合わせによる「π型の知識経営支援」が必須と考えるので、
幅広の経営論を学べる教材が必須であり、ここに重点的な資金投資
をしたいと考えた
〇 この具体策としては、前述の「タイムベース競争」堀紘一監修を
発刊したプレジデント社から発刊されている「経営大学院」25巻
が最適と考えて全巻を購入した。早速「大型段ボール2箱」が届き、
土曜・日曜日をフル活用して猛勉強を始めた
次回からは、それぞれの役だったポイントを概説することにしよう
001 ビジネス能力開発【発想力】講座
ビジネス能力開発講座のカリキュラムは、テキストとビデオまたは
カセットで構成されており、見聞きが容易な構成になっている。講師
も多彩で「発想力」講座については、堺屋太一(作家)高橋浩(現代
能力開発研究所所長)糸川英夫(組織工学研究所所長)渡部昇一(上
智大学教授)松尾博志(ジャーナリスト)上之郷利明(ジャーナリス
ト)今岡和彦(ジャーナリスト)といった教授陣で、カリキュラムの
内容も多種・多彩だ。
本講座では、第1章で万博、沖縄海洋博、大阪21世紀計画などの
大イベントを企画、演出した名プランナー堺屋太一講師が「発想力の
源泉」について述べ、次いで第2章では、現代のビジネスマンに必須
の「創造的発想法」のテクニック・技法と云われるものを紹介、最後
に第3章では糸川英夫、堤義明、西澤潤一など当代一流の発想家、経
営者を通じて、ユニークな発想を生むために、どのような思考過程を
経て新しいアイデア、視点を掴み取って行くのかを具体的に解明して
行く内容になっている。
私が、最も感銘を受けたのは・・・
〇 西澤潤一氏(東北大学教授:静電誘導トランジスターを発明)の
「強い頭で考え抜く」という独特の取り組み方で実証実験を重視した
取り組みには独特の説得力があり「良い頭より強い頭に鍛え上げろ」
という呼びかけは、万人に勇気を与える語り掛けであった
〇 堤義明氏の軽井沢を夏だけの避暑地から冬のリゾート地に再開発
していった快挙から、次いで、西武球場の創設による野球の世界の
新天地の開発、さらには北海道の富良野地域のリゾート開発におけ
る成功、またその裏側に存在する、人材の活用など、東大出身者の
エリート集団に依存しすぎない経営姿勢などは注目に値する
私が、後に、S&Sプロジェクトの統括チームの一員として各部門
を巡回して、各部門との意見交流を通じて、支援活動を進めていった
際にも「我々が、触媒となって、各部門に化学変化を起こす」という
狙いを果たす過程で、本講座からの学びは、有効な触媒作用を起こす
素材としては、極めて有効であったと考えている。
我々が企業体として扱っている航空機用のジェットエンジンについ
ても、メインエンジンの後部に「白金製の触媒」を装着して、再燃焼
(再加熱)の構造体を有したものもあり、触媒そのものに変化は起き
ないが周辺に化学変化を起こすことは日常的に目にしているプロセス
でもあり、親和性を感じる存在ともいえる。
(続 く)
ヒトとして生まれて・第15巻