百合の君(31)
山を下り、家に帰った園は、父の望にこっぴどく叱られた。
「今までどこ行ってたんだ!」
「おくがみ山に」
「山の上はまだ冬だぞ! 死人だって出る」
園はうなずいた。首の骨が外れてしまったのではないかと思うほど、すとんと顎が落ちた。父はまだ何か言いたげに園を睨みつけ、肩を上下させていた。
涙が出てきたことに気付いたのは、嗚咽が止まらなくなってからだった。園は自分がどうして泣いているのか、分からなかった。
あえて言えば、父から叱られたことで命がけの登山からの生還が強く実感されたということ、その口調がかつてないほど厳しかったということ、登山の達成感、その後の失望、初めて見物した戦の興奮などあまりに極端な感情の揺れが、はけ口を必要としていたこと。
そしてあらゆる感情が混ざり合って、外界のあらゆる物を取り込み、アメーバのように新たな感情に分裂していたのだった。
少年は、その原始生物のあまりに強い生命力に振り回されそうになるのを、必死にこらえた。
父は温かいお茶を子に淹れて、自分も飲んだ。園も温かい湯呑に手を伸ばした。おいしかった。一口すすってその香りと味におどろき、二口目で飲み干した。園は初めて緑茶をうまいと思った。それまでは、ただの苦い物だと思っていた。
「何しに行ったんだ?」
父が努めておだやかな声を出そうとしているのが、園にも分かった。
「山の上のけ色を知りたくて」
「で、どうだった? その景色は?」
「思ったより、ふつうだった」
望は安心したようにため息をついた。
「それでいい、普通が一番だ」望の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。「お前はこの家の跡取りなんだ。この百鳥家は今でこそ百姓をしているが、この父の父の代までは五明剣といって公方様の次に偉い侍だったんだぞ。お前のじいさまはまだ子供だった父を連れて、働きに働いた。この父も働きに働いてやっと地主と言われるまでになった。危ないことは、もう何もしなくていいんだ。ただこの父の畑を耕していれば、お前は豊かな生活ができる」
望は茶をすすって、再びため息をついた。まだ三十代なのに深くしわが刻まれたその手は、真っ黒に汚れている。園はその手を軽蔑した。湯呑を置くと、白い釉に緑茶が取り残されている。
湯呑もふかふかの座布団も、自分の家のものとは思えない程、他人行儀に白々としている。園は、馬と走っていた男を思い出した。あの男はきっと、こんな手はしていない。陶の湯呑も綿の座布団も持っていないだろう。馬を追い越し彼の夢に追いつくまで、一生走り続けるだろう。天蔵とあの男を追いかけているうちに、道端の石ころの中にもこの宇宙が現れ、広がり、目の前にあるのと同じ黄金の夕焼けが重なった。
あの場所こそが、俺の居場所だ。俺はあの世界に、なんとしても帰らなくてはならない。
百合の君(31)