透明たちの混沌
spring
子供の頃に持っていたあれこれは、喪ったのではない。
喪ったのではなく、鈍ったのだ。
◇/サラン、現在
耳朶を飾った金色のピアスは、歩くたびに周辺の気流をわずかに変化させる。耳もとでうねる風の音は心地よく、煩わしいとは思わなかった。
ときおり日用品を買いに外出することはあっても、楽しみのために着飾って出掛けるということは、近ごろめっきりなくなっていた。夫を亡くして二年になるから、ひとりでの生活自体にはもう随分と慣れてきている。ただ、複数人だからこそハードルの下がるイベント──お洒落をして映画を観に行きましょうとか、ちょっといいお食事に行きましょうとか──にはめっきり足が遠のいていた。いくら家とその周辺で暮らしが立ち行くといってもこれは良くない。今月七十六になる私は外から内から刺激を与えないとあらゆるものが鈍麻してゆくばかりである。それで、今朝思い立って明るい色のワンピースを引っ張り出し袖を通してみた。ヘアメイクを施しピアスを付けて、勢いのままこうして街へ繰り出して来たわけである。
私の若い頃と、この街はずいぶんと変わった。明るく瀟洒で、すべてが整然としていて。
着たきりのぼろでその日の暮らしに精一杯だったあのときの私は、同じく埃と混沌にまみれたあの街でこそ紛れて生き延びられたのかも知れない。そういう時代だったのだ。誰もが貧しく、誰もがさもしくならざるを得なかった混乱の戦後。私のような孤児だって珍しくもなんともなかった。今の街はもう、後ろ暗いところはどこにもない。それとも巧妙に隠されているだけか。
歩き疲れて立ち寄ったカフェでテラス席を選ぶ。街中ではあるけれどそこまで騒々しくはなく、目の前のささやかな広場には小さな子供達が駆け回って遊んでいた。コーヒーを楽しみつつ眺めているうち、ひとりの女の子に目が留まる。なにやら作業に熱中しているらしい彼女は、細くて柔らかそうな猫っ毛をひとつのおさげに編んでいた。
唐突に、私の内側に衝撃が走った。
〝スー〟。
私のスーを捜さなくては。夢の中で焦るときのように心がふためいて思わず立ち上がり、やがて脱力して座り込んだ。
時折、何かのきっかけで少女時代の記憶の断片が思い出されることがある。けれど、どれもがほんの一瞬火花のようにチカッと光るばかりで全体像が掴めない。これは昔からそうで、私は十代までの記憶のほとんどが欠落している状態で半生を過ごしてきた。
ただ、「スー」という名を持つらしい幼い少女の面影だけ、不意に奥底に眠った記憶から湧き上がることがある。断片といえどこれだけ何度も思い出すのだから、私にとってかけがえのない存在だったに違いない。なのに思い出せない。思い出せないことが悲しい。
私はどこかへ行かなければならない。そして見つけなければならない。焦りにも似たその衝動は今に至るまで、ずっと私を急かし続けていた。
◇◇/サラン、過去
たいていの女の子は蝶々結びの結び方を覚えるのと同じ年頃に、三つ編みの編み方を覚える。
七歳のスーがここに入ってきたのは昨年のことだから、彼女には親から自然と学びとるような基礎的な技術すら持ち合わせていないところがあった。髪を編むのもそのひとつで、スーの細くて長い髪の毛を編んでやるのが十三の私の日課だった。飲み込みの早いスーはやがて自分でも難なく編めるようになったけれど、彼女は甘えるように私に「頭の真後ろでひとつに編んでほしい」とねだるのが常だった。同室だったこともあってか、スーは私に特段懐いていたように思う。
国営第一女学院。それがこの施設の名前だった。森の奥深くにひっそりと佇むその学院に、誰もが入れるわけではない。そうして、誰もが望んでここに入ったわけでもなかった。大抵の少女は本人の知らぬところで選別されて、十歳前後で強制的にここに連れてこられる。
私も十歳までは周りと同じように地元の学校に通っていたのだが、ある日担任の教師にそっと呼び出され、誇らしげな校長と両親の集まる部屋で簡素な別れの挨拶と激励の言葉を掛けられたのち、有無を言わさず送り出された。突然の変化を受け入れられず、入学してしばらくは泣いて過ごした。両親が私を送り出したのは身の安全と福祉を保証されたからだとは聞いていたのだが。確かにここでは爆撃や飢えに怯えることはない。それでも大人たちに裏切られたような私の傷つきはずっと消えなかった。ここにいる他の子達も似たり寄ったりな状況だったらしい。白羽の矢が立てられ、国営第一女学院の生徒の一員になるのは家族にとっても学校にとっても名誉なことらしかった。何も知らないのは連れてこられた少女たちだけだった。知らないことで却って想像力は逞しくなる。そして各々の考察を囁き合ううち、うわさになる。学院内には夢見がちなものから恐ろしげなものまで、さまざまなうわさが根を張り絡み付いていた。
「ねえ!」
まだ編んでいる最中だというのに、スーが頭を勢いよく振り向けて話しかけようとした。私はそれを制する。向き直って鏡台の鏡に映りこんだスーの目線は、それでも背後の私の顔を追っている。
「今日もサランのレッスンについて行っちゃだめ?」
スーは私のレッスンによくついて行きたがる。フィジカル系のレッスンは年齢に関係なく皆が自由に受けることができるのでこういうことがよくある。このところ受けているのはバレエで、主体的に受けている私より、懐いてくっ付いてきたスーの方がずっと筋がありそうだ。承諾すると、スーは思わず飛び跳ねそうになって慌てて止める仕草をした。
私の生まれた家は貧しかった。父は季節労働者で収入は安定せず、おまけに弟や妹が三人もいたから私はいつもお腹を空かせて下の子たちの世話に明け暮れていた。戦争のせいで段々と物資が不足するようになってさらに苦しくなったけれど、それでも家族でいれば私は幸せだった。
ひどく大人びた容姿のスーだが、彼女の中身は年相応の七歳だった。私がスーにあれこれ構ったのは彼女が妹のようで放って置けなかったから。外界の情報が遮断され、家族との連絡すら禁じられているここで味方がいなければ、まだ幼いスーにとっては相当なダメージに繋がってしまうだろう。
この年齢で連れてこられる少女は異例だという。その理由も分かる気がする。スーの美しさは圧倒的に群を抜いていた。
この学院に集められる基準というのは、ある子は容姿の麗しさ、またある子は一定以上の才能などそれぞれだ。その少女たちの魅力をさらに際立たせるためにきめ細かな教育を施し、幼い頃から外見も技能も洗練された華やかな才女を産出する──というのがこの学院の目的なのだと、表向きの理由を学院長は度々説明した。
スーの美貌は整いすぎていて、愛らしいというよりも神々しさ、恐ろしさすら感じさせるものだった。この年齢でこれほどまでの美貌を有していれば、どこへ行くにも目立って浮いて、異質になってしまう。完璧すぎて「かわいい女の子」の枠に収まらないのだ。美女をそのまま小さくしたような見た目のスーは、人目のつかない森の奥深くのこの学院に保護されていた方が、却って安全なのかも知れなかった。
おかしな話だ。日々の食事もままならない、生きるのにやっとのこの時代に、私たちは不自然に過保護に、この森の中で丁重に守られていた。
summer
◇◇/サラン、過去
霖雨が続き、寒さと暑さが行きつ戻りつ繰り返され、そうこうしているうちに気温は上がり樹々の緑が濃くなってくる。揺らめいて揺らめいて夏になる。
夏は待ちに待った季節だ。
どこかしら陰っていた森が鬱屈さを和らげ、唯一明るくなる季節。森の中の夏は濃く短いのだと知った。高原の別荘地のようなここは、暑さはあるが不快というほどではない。樹々の葉は揺れ、風は乾いて清涼だった。汗はすぐにその風で引いた。
開け放たれたこの窓越しからでも、風や木漏れ日は存分に感じ取ることができる。レッスン室でストレッチしているのは二十名ほど。私の隣で開脚屈伸をしているスーは、不自然な体勢も無理なくこなす。彼女の長い髪を頭の天辺でゆるくシニヨンに纏めたのは、私だ。
スーの頬は色も質感も白桃のようにふくらかで、覆っている細やかな産毛が光を受けてきらめいている。産毛は耳までも続き、その先にごく小さなピアス穴が開いている。視線に気がついたスーは不敵に笑った。
スーの家系ではピアス穴は幼い頃から開けられるのが慣わしだったらしい。彼女の母親もその母親もみなそうされてきたそうで、代々受け継がれている耳用の宝飾類を装着するためだとか。異民族の寄せ集めでできたようなこの国では、隣人でさえ有している文化が驚くほどに違う。
ここに入学する際、スーは通常なら娘が結婚するタイミングで引き継がれるその耳飾り一式を母親から譲り受けたのだそうだ。つまり、国営第一女学院に入学するというのはそういうことなのだった。
強制入学させられて、初めのうちは何も分からない状態の少女たちも数日すると置かれた状況を悟るようになる。高い石垣と門衛で厳重に囲われたここは一度入ったら自分の意志では出ていくことができない場所であること。運命だと受け入れてどこかに〝呼ばれる〟までここで暮らすほかないこと。その先で待っているのは何であるのか──肝心な部分は知らされず、不確かに飛び交ううわさから推測するしかない。要はこの学院は緩やかな監禁の園だった。学園の目的や存在さえも一般の国民からは匿秘されているのだと知ったのは、ずっと後のことだ。
諸々のショックと悲しみを癒すのが、主に寄宿舎で共同生活を営むルームメイトたちで、その種の絆は女学院の生徒全員をうっすらと繋いでいた。同じ傷を共有している、その想いが失った生来の家族の穴を埋める代替の家族のようなものを形成して、少女たちは不思議と学院に馴染んでいくのだった。
昨年は熱心にバレエのレッスンを受けていた私だが、次第に回数を減らしていき、今年はほとんど参加していなかった。私に向いているのはもっと静かで確固とした表現方法ではないかと思えたのだ。幼い頃から活字に惹かれていた私は、その頃から文章で自分を表現することを覚えていった。
一方のスーは私なしでレッスンを受けるのにもすっかり慣れたようで、このところは各々の得意分野に没頭していた。それぞれのことに夢中になっていても、私は毎朝スーの髪を編む。夕方、水浴びをして大食堂で食事と休憩をした後、それぞれの部屋に帰って休む。ベッドでスーと他愛のない話をしながら眠りに就くのもまた、日課のひとつだった。昨年も今年も、変わらずそうした。
◇/サラン、現在
今の私から見れば、年幼く純粋な少年少女らは〝透明たち〟と表現するのが相応しい。
こんなに暑いのにそれをものともせず、通り向こうの公園で汗を光らせ駆けている子どもたちの様子が見える。どうしてあんなに元気なのだろう。一瞬、緑濃い森の中で駆ける長い髪の少女の残像がよぎった。
ドレッサーの一番上の小さな抽斗を開けて、手前の華奢なピアスを装着する。ゴールドのスイングする細いバーが二連になっている珍しいデザインだ。ずっと昔から持っているものだけれど、ひとつは紛失してしまったのか右耳分しかない。記憶は薄っすらとこれがとても大切な品なのだと指摘するように感じるのだけれど、思い出せない。
記憶を取り戻したいという思いは、夫が亡くなって以降殊に強くなっている。
ひとりきりの生活で自分にフォーカスが当たるようになったから、伴侶の死を目の当たりにして死と自分との隔たりがぐんと距離を縮めたように感じたから……だろうか。謎を謎のまま終わらせてしまうのは、いけない。
身だしなみを整えたのは来客があるためだ。昼過ぎに担当編集のY氏が訪ねてくる。長年作家として活動していた私だけれど、このタイミングで話しておきたいことがあった。
*
「夏が苦手なんです」
すぐに体調を崩してしまって──アイスコーヒーを出しつつ世間話のつもりで発した私の言葉に、Y氏は顔を上げて深刻げに眉間の皺を深めた。深刻に捉えられるような年齢なのだと気がつく。
「それはいけませんね。次回作はゆっくり進めていきましょう。お体に障るといけませんし」
「そのことなんですが」
私は心ともなく右耳のピアスに手を伸ばす。触れた途端、静かに揺らいだ。
「記憶が」
「記憶?」
彼は私の唐突な切り出し方に戸惑ったようだった。
「実を言うと私、二十歳辺りから前の記憶がないんです」
──主婦でありながら作家を続けることを夫が許してくれたのは、時代を鑑みるに随分と寛大なことであったように思う。というより、夫は作家としての私を好ましいと思っている節があったのか。今となっては分からないけれど。
ぽつぽつと思い出せる私の記憶は二十代から始まる。その日稼ぎの暮らしから抜け出し、やっと生活が落ち着いてきた頃。それ以前の記憶は夢のように靄がかかってはっきりしない。記憶を失うほどだ。おそらく酷い思いをしてきたに違いないが、思い出せないからこそ私の心は守られているのだろう。生活が安定したのは夫と結婚したからで、彼といつどうやって知り合ったのかすら私は覚えていない。夫によると、当時の私は過去の記憶を忘れてはいなかったらしいけれど、どの時点で忘却したか。私の保持している過去は、作家としての日々、夫との穏やかな暮らし……どれだけ遡ってもそればかりだ。
彼に私の過去をどんなに尋ねても、「君は知らなくていい」の一点張りだった。そうしてとうとう、その秘密を墓場にまで持って行ってしまった。
「──でも思い出したいんです、私は」
窓の外に向けていた視線を戻すと、曇った表情のY氏と目が合った。先生──と彼は口を開く。
「先生はさきほど“忘れているからこそ心が守られている”と仰っていましたが、それはその通りなのだと思います。ご主人が先生に決して語られなかった理由もおそらくそこにある。先生のお若かった時代を考えると……あの頃は戦時下でしたから。相当惨い、トラウマになるような……。いえ、トラウマの結果記憶が乖離している、と言ったほうが良いのかも知れませんが。それでも──思い出したいのですか」
Y氏の危惧は尤もだった。確かに客観的に考えればそうなのだろうけれど。
私には生家の記憶すらない。その心許なさといったらない。苦しまないで済むとしても忘れているのが幸せだとは限らない。それに何より、早くあの女の子を。
〝スー〟を。
「それでも、思い出したいんです……」
思い出してと、あの子が言っているから。Y氏は唸った。
「だとしても、私には賛同し難い話です」
アイスコーヒーのグラスの水滴が流れ、氷がカラリと音を立てた。それを合図にY氏はやっとグラスに口をつける。
「──昔」
森の奥に隔離された女学院があったなんていう話を耳にされたことはありませんか、何の脈絡もなく、ついと私の口をついて言葉が出た。
「いいえ。そういった記憶が? 」
分からないの、ほんの断片が浮かび上がるだけだから──振った頭に合わせてピアスのスイングが混沌として揺れた。
「私の思い出したい記憶というのは、その頃のものなのかも知れません。ふと、そう思って」
戦時中のあのごたごたで、悪いことも怪しいこともみな有耶無耶になってしまった。その有耶無耶に紛れて助かった人は幾人もいて、他でもない私もその一人なのだった。身元がはっきりしない私がこうして日の当たる場所にいられるのは、きちんとしていない世界に紛れて騙し騙し通り抜けて来られたから。
「その、ごめんなさい。話を戻しますと」
居心地が悪くなった私は無為に座りなおす。
「しばらく記憶を取り戻すことに注力したいと、それを基にして次回作に繋げられるかも知れないと、お伝えしたかったのですけれど……。でもYさんにご心配をおかけしてしまいましたね」
私の言葉も耳に入っていないかのようにY氏は長らく考え込んでいた。
「お時間のことは構いません。構いませんが──」
でも、こちらがどうお答えしようと先生のなさることはきっと変わらないんでしょう、最終的にY氏はそう言って苦笑した。
*
人に話したことで、覚悟が定まった気がする。Y氏とは少なくとも十数年並走してきた仲だ。最終的に彼は後ろ盾になってくれるだろう。
自分の中の暗さと明るさの差異がひどく眩しくてくらくらする。惨憺とした記憶に混じる、強烈に幸福な記憶。そのどちらもが身体を駆け巡っているような。ゆえに眠れぬ熱帯夜である。昼間思い出しかけた森の中の女学院について調べてみるが、目ぼしい情報は出てこない。電子機器の明かりは白すぎて目の奥が痛い。
あなたがいないことで私の鎮痛効果は終了したのです、時々そんなことを思う。
私は本当は私はずっと痛かったのだ。その痛みを長年和らげてくれていたのは夫で、その夫も居なくなって。
今になって。
夏は苦手だ。いつからだったか。
擦った瞼がやわらかい。
目の奥の痛みは消えなかった。
autumn
◇◇/サラン、過去
私たちは鑑賞用。透明で柔らかな間だけ庇護を受ける。
ときおり、こんなにも長い年月生きているように感じるのに、未だ十代である自分を不思議に思ったりした。
「サランは私たちの生活とは別の、異世界を作り出すね」と乳白色の歯を見せてスーが笑いながら言ったのはいつのことだったか。そのあまりに純粋でてらいのない言い方に、私はやられてしまったのだった。
サランは異世界を作り出すね。
*
十五歳の私は、自分の想像力と文章力だけで物語を生み出すことができるという喜びに夢中になっていた。もともと昔から「本」という存在に崇高な憧れを抱いていたから、拙いながらも自分にもそれができるのだと分かったときの興奮といったらなかった。日夜夢中になって紡ぐその物語を読ませる相手は、専らルームメイトであるスーの役割だった。無邪気なスーはなんでも面白がって読んでくれたから、私は得意になってますます執筆にのめり込んでいった。
「いつも揺れている感じがするの」
私が執筆に夢中になっていたその頃、スーはバレエに夢中になっていた。常に体を動かしている彼女ならではの感覚なのかも知れなかった。
「揺れてるって?」
「あのね……」
寝巻き姿のスーは起き上がって、自分のチェストの一番上の引き出しから何かを取り出し、手で大事そうに包み込んで戻ってきた。ビロード製の黒い箱が、九歳のスーの小さな掌にちょこんと乗っている。私ははっとしたが、スーは造作もなく蓋を開け、中身を指で摘んで私に見せた。
摘まれたそれは揺れて、さらに波及して揺れる。その動きは決して止まらず、定まらず、形があってないようで、直線の金属の連なりなのに柔らかくうねる細い金糸のようで。
その繊細なつくりのピアスを初めて目にしたとき、私は吸い込まれるように見入ってしまった。
「……これって、お母さんから貰ったっていう?」
スーはことんと頷く。代々受け継がれてきた装飾品を、こんなに無防備に私に見せてしまって良いものなのか。
「〝二重振り子〟って言うんだって。この形だとすごく揺れるって」
二重振り子なら聞いたことがある。振り子の先にさらに振り子をつけて、際限なくスイングするその動きはやがてカオスと呼ばれる運動を展開させる。実際目の当たりにすると、法則性があるようでないような動きが神秘的で、まるで生きているみたいだ。
私ね、こういうダンスがしたくて、私の中に、こんな風に揺れてるものがあるような気がして──言葉にするのが難しいのか、スーは辿々しく語る。
「バレエのうごきだけじゃきっとできないの。だけど、他にどうしたらこれを表現できるのかも分からない」
理由もなく、スーの体が動きたがっているのだ。
「私、書きたい」
考えるより先に、声が出ていた。
「え?」
「私にこれをモチーフにした物語を書かせて欲しいの。おねがい。そうしたら──」
スーの絵画のように整った顔の、その目が大きく円く拡がる。
「そうしたら、スーは踊れると思うから。私の物語なら、スーは踊れる。そうでしょ?」
スーの目がベッドサイドの僅かな灯りにきらめいて、次の瞬間小さな躰が歓声と共に飛びついてきた。
それからひと月程だろうか。私の生活は執筆一色になった。就寝前の薄暗がりの中、スーの細い指に摘まれてきらめき揺れるあのピアスを見た瞬間からすでに物語は生まれていた。あとはそれを宝石の原石よろしく丁寧に削り整えて磨くだけだった。
物語には力がある。読むだけでも影響力は充分に発揮されるのだが、書くとなると確実に持っていかれる。分厚い本の各頁にみっしり詰まった文字群を見るとき、人の反応は大体二手に分かれるように思う。文字量に圧倒されて興味を失い本を閉じてしまう人と、その文字量にぞくぞくと魅せられて取り憑かれてしまう人。私は後者だったのだろう。そういうものを見つけたときに──。
揺れるのかな。
自分にとってのそれを見つけたとき、きっと揺れる。魂とも呼ぶべきような何かが。まさにスーのあのピアスのような揺れ方で、輝き方で。自分にとってそれほどきらめき揺れているそれも、興味のない誰かが見たら何も輝いていないのだろうか。執筆のあいだ、ずっとそんなことを考えていた。
書き上げた物語の内容自体はそれほどはっきりとは覚えていない。本気で取り組みはしたけれど何しろ夢と現実の区別が曖昧になるくらいのめり込んで書いたし、それ以上にスーが私の物語を基に踊ったダンスのインパクトがあまりに強烈で、上書きされてしまったのだ。
スーは執筆中から私の物語が気になって仕方ないようで、いつにも増して私の周りをうろついていた。書き上げると、一晩で読んでしまった。その時だっただろうか。サランは異世界を作り出すね、とスーが言ったのは。
「サランの物語が本になったらなあ」スーはそう言い足した。「立派な革表紙でね、タイトルは金の箔押しなの。中身はもちろん活字で印刷されてるの。私、その本が欲しいなあ」
──ねえ、スー。笑ってしまうけれど、あなたのその言葉で、私は作家になりたいと思ったのです。本になった私の世界を活字にしてびっしり詰めて、あなたに贈りたいと思ったのです。
ねえ、スー。小説って一体どうやって書くものかしら、と未だに思いながら書いています。あなたのために、書いています。
あなたに続きをせがまれることの快感を手探りに、とにかく今までやってきたのでした。
*
ちょうど良い折に学院主催の発表会があり、そこでお披露目したいとのことで私はスーからダンスの練習風景を覗くのを禁じられていた。そんなわけで、私の物語がスーの中でどうダンスに昇華されたのかを知ったとき、スーはステージの上、マスタードイエローの衣装を身に纏いまばゆいスポットライトを浴びていた。
ただの少女とは思えないスーの神々しい輝きに、生徒や教師、来賓でいっぱいになっていた公会堂はその瞬間しんと静まり返る。それまで比較的に和やかに進んでいた発表会が清澄な緊張感に包まれ、手脚を目一杯伸ばしたポーズから厳かにダンスは始まった。
音楽はバレエ音楽によく使われるジゼルだったが、ダンスはバレエを下敷きにしてはいるものの伝統的なそれとは明らかに異なる。四肢の長くてしなやかなスーは濃いめのメイクを施し優雅に動き、バレエの型から徐々に外れた表現に移ってゆく。関節がどこなのかすら分からなくなるほど腕と脚はなめらかに波打ち、その動きはやがて全身にまで及び大きく激しくなる。ときおり見せるアントルシャやジュテは舞い上がる羽のように軽やかで、子どもとは思えない妖艶さがあった。
脳裏にあのピアスが浮かぶ。そして私とスーしか知らないあの物語──。
文字が畝った。
幻想かもしれない。けれど、踊るスーの耳の黄金の二重振り子とリンクするように、私がインクで書いた文字が確かにスーと一緒に畝り舞っていた。
他人には届きようのない才能。
ああ、この子はどうして。
どうして。
創作を創作で返されるということが、これほど魂に響くなんて知らなかったのだ。
クリエイターとクリエイターが本気で関わりあうとここまで剥き出しになってしまう。だって、創作ってそういうものだ。互いが互いに嘘をつけない。当たり障りのない会話をすっ飛ばして、いきなり相手の柔らかいところに触れられてしまう芸術のこわさ。
融け合っているのにそれぞれ別の世界線にいるような。
近いような突き放しているような。
これがスーの揺れ方なんだ。
私たちは、常に揺らめいて定まることがない。そう、特別なことなんかじゃない。揺れているのが通常なのだ。そんなことに気が付かなかったなんて。
もっと揺れて。もっと激しく、激しく振れ。
あんなに高く遠いところにいるはずのスーの、なめらかな肌に産毛がきらきら光っているのさえ見える気がした。
スー、あなたと私は思わぬ不遇によって引き合わされた。貧しさという痛みから逃れた代わりに、新たに離別という痛みを耐えなければならなかった。でも、この痛みを伴う世の中であなたは鈍くも強くもならなくていいと思う。だって私がいるのだから。繊細で純粋な感性のまま、分け隔てがない優しさを持ったまま、無邪気なあなたのままで私をひりひりさせてよ。新しい世界を見せてよ。
大人になっても、幾つになっても、おばあさんになっても死ぬまでも、私も文章を書き続けたい。書き続けよう。大丈夫。私にはスーがいるのだから。私にはそれができる。
今思うと、あの瞬間は私の人生の最高潮だった。
winter
◇/サラン、現在
もうずいぶんと沢山のことを忘れてしまった。どんなに鮮烈で、重大な記憶さえも。
忘れているから生きていけるのだろう。
永遠などない、と私ははっきりと言い切れる。何かの絆がずっと、何百年も何千年も変わらないことなどあるだろうか。重なり重なる傷に、少しずつ諦念が入り込み熱意が薄れていく方が自然なのではないか。
*
今夏から、私は思いつく限り自分の記憶を呼び覚ませそうなあれこれを試みてきた。今まで記憶が微かにでも呼び覚まされた状況を書き並べてみたり、再現できるものは再現したり、もう一度その場所へ行ってみたり。けれど何を試しても記憶の靄は晴れてくれない。二、三度Y氏から近況を窺う連絡が来たりしたが、私はなにひとつ進展を報告できないでいた。
「私の作品は、無意識に私の記憶を反映していたりするのかしらね」
Y氏は何かと私を気にかけてくれる。仕事に情も半分混じっているのか、彼は冷たい風のなか他の用事のついでだと言って訪ねてきてくれた。他愛なく呟いた私の言葉にY氏はああ、と唸る。
「“記憶”という観点で考えたことはなかったのですが、先生の作品を初めて拝読したとき、どこか浮世離れしているなと感じたんです。お気に障られたなら申し訳ありません」
「いいえ。でもどういうことでしょう」
「先生はこの現実世界とは微妙に違う、パラレルワールドのような設定を多く書かれますよね。主人公は十代の少年少女が多い。十代の記憶のない先生が十代の主人公を描かれる──でもそこに不自然さは全くない。それで、くだらない夢想なのですが」
冗談です、と笑いながら前置きしてY氏は続ける。
「実は私は、先生は本当に現実世界から隔離されて過ごした経験がおありなのでは、と考えていたところがあります」
突拍子もないその言葉に私も思わず笑ってしまったが、一瞬胸をちくりと刺された思いがした。
「先生が以前話された女学院の話も、あながち妄想ではないと思っています。私も調べてみたのですが、一般的な記録にはそういった施設の存在は出てきませんでした。でも、裏を返せば戦争ってそういうものですから。極秘情報やら隠蔽やら記録の抹消やら。とはいえ体験した個人の記憶は残ります。でも、年月が経てばそれもかなり朧げなものになってしまいます」
「記憶の中にしか存在しない歴史──」
「記録になくとも記憶になくとも、なかったことにはなり得ません」
忘れていても。
「事実は変わらないのだからそれでいいんじゃないでしょうかと、私はお伝えしようと思っていました。でも」
迷いました──ほとんど溜息のような声を発してY氏は俯き、鞄の中を探り出した。
「先生が記憶を取り戻したいと仰ったとき、正直動揺しました。先生にずっとお知らせできずにいたことがあります。ご主人からの預かりものです」
彼が鞄から物々しく取り出したのは、原稿を入れるのにいつも使う、見慣れた分厚い封筒だった。
◇◇/サラン、過去
この静かな森で暮らしていると、今が戦時下だということをうっかり忘れてしまいそうになることがある。特にこの時期、雪が降る直前の森は神聖なほど厳かだ。寒さは厳しいけれど思考は研ぎ澄まされる。私は未だ自分の物語とスーの披露したダンスの素晴らしさを噛み締め、余韻に浸っていた。
今まで私たちは世間から隔離されたように平和で恵まれた生活を享受していた。はじめこそ罪悪感を感じたけれどやがて慣れた。でも、その豊かさもひと月ほど前から急激に失われつつあるのを感じる。それははじめ食事のメニュー内容だとか、リネン類の交換頻度だとかに表れた。やがて立て続けに職員の離職、それに伴う予定変更、余裕のなさから来る苛立ちの空気へと波及していった。
無秩序、混乱、雑駁。教師たちの顔にも次第に翳りが見えはじめる。戦況は思わしくないらしい。私は街にいる自分の家族のことが気掛かりで堪らなかった。
ある日、私はふと食事の時によく言葉を交わしていた同級生の少女を何日か見ていないことに気がついた。不安になって見渡すと、大食堂に集う生徒の数が明らかに疎らになっていることに愕然とする。まさか。
──「連れて行かれた」?
急激な恐ろしさがぞっと私を包んだ。生活の余裕のなさ。教師たちの憔悴。悪化したであろう戦況。そしてその今になって数を増す、理由も知らされず去っていく少女たち。きっと全部繋がっている。どう考えても彼女たちのその先の、幸せな姿は想像しがたい。
この学院には卒業生がいない。生徒の出入りは在校生に知らされることなく、いつの間にかどこからともなく少女がひとりふたり加わって生活を共にしいつの間にか誰かがいなくなっている……というのが常であったから幾らか慣れているつもりだった。でも、これほどあからさまに幾人もの少女たちが居なくなることは。
罰が下ったのだ、と思った。みんなが必死に生き繋いでいる時期に、こんなところで何の心配もなく遊び暮らしていたから。罪悪感に満たされ誰にともなく叱責されているようで、落ち着かない。
スーの引き取り手が決まったことを知ったのはそんなときだった。
私がそれをいち早く知れたのは幸運なことだった。レッスン中、トイレに立った際に事務室から漏れ聞こえた声に聞き耳をたてながら、私は怒りに燃えていた。
──来月にはあの子も。あの一番小さな子。
──まさか、だって……。あの子まだ九つでしょう。
九つ、というところでスーのことを言っているのだと分かった。
──なりふり構っていられないんでしょ、みんな自分で精一杯で。可哀想だけれどあんなに高値がつく子はいないし、あちらから引き取り要望があれば学院長だって、ねえ。
可哀想?
連れて行かれる子は、可哀想と思われるような扱いをされるの?
──よりによってあんなにお偉いさんの目のある発表会の場で、あの子は特に目立ち過ぎてしまったから。
突如、会話の繋がりが読み取れてしまった。何の為に発表会があるのか。なんだか物々しい来賓の正体は何であるのか。
少女たちの間で根を張り絡みついていたうわさ。ある子はお金持ちに引き取られて養女になるらしいと語り、ある子はお偉い軍人さまの妻に無理矢理させられるらしいと語った。なかには学院長の言うことを素直に信じて、磨いた技能で女優や歌手になれると夢見ていた子もいた。いずれにせよ、私たちは幼かったのだ。もっと惨く、非人道的な少女たちの用い方があるのだとはよく理解していなかった。
来月、私のスーが引き取られる。とびきりの高値で。そして〝可哀想な扱い〟をされる。
耐えられなくなった。怒りで胸が熱くなったまま私は駆けた。心臓が激しく脈打って息が苦しい。
「引き取られる」という言い方は正しくない。正確には「買い取られる」だ。本人たちの知らないところで、値段をつけられて。その先で少女たちがどんな扱いをされようと知ったことではない。でも多分、その少女たちから得たお金の一部で私は今まで養われていたのだろう。あまりにも屈辱だった。
私たちの価値は家畜商の動物たちと変わらないのか。動物よりもずっと複雑でずっと知能のある私たちなのに。違う。国全体がもう、個々の命を虫けらみたいに扱うような精神段階にまで進んでいる。それに慣れきって痛みすら感じない。そうでもしないと自分のほうが狂ってしまうから。
何食わぬ顔でレッスン室に戻る。怒りに燃えてはいたけれど激情のまま行動してはならぬという分別は残っていた。スーを救うためには、注意深く行動しなければならない。スーだけではない。私も含めてここにいる少女たち全員がひどい扱いを受ける前に。
逃げよう。
そう思った。
*
作戦は雪が降る前に決行された。
私達があからさまにそれと分かる反乱を起こしたら、脱出阻止は却って強化されてしまう。ではどうしたらそれが緩むか。私たちは暮らしに満ち足り逃げようなどと頭にもないと思わせること、外部要素からのトラブルによって自分の身が危ういと感じることによってだ。他人に構っていられなくなるような事態が不意に起きれば、大抵の人間は多方面に気が回らない。
手始めに、寄宿舎の談話室で普段よく話す女の子たちに職員室で聞いた会話と自分の計画を伝えていった。スーを守ろう。私たちも売られる前に逃げよう。この話を他の子にも伝えてほしい。
この方法でよく上手くいったとは思うが、短期間で話は職員たちに勘付かれることなく数十人いる少女たち全体に広まった。大人たちは甘く見ていたのかも知れないが、傷んだ心を撫で合って育んだ私たちの絆は強い。ひときわ幼いスーは皆の宝物だった。だから、私は自分のこの計画に誰もが賛同し、サポートしてくれるものと思い込んでいた。
実際はそうではなかった。
スーを守りたい。売られるのは怖い。その心は一致しているのだが、それでも自身は今日明日に売られるわけではない、ここにいた方がましだと、生活を変えるのを望まない少女たちが動揺を見せはじめたのだ。今思えば、急にこんな計画を持ち出されて動揺しない方が無理な話なのだが、そんなことすら考えもつかなかった。
私は焦った。スーが連れて行かれるのは来月だ。こんなことで分断している場合ではないのに。慌てた私は強引にその子たちを励ました。ここに残ったら後で絶対後悔する。逃げた方が絶対いい。そうやって急ごしらえの団結──表面上の団結を作り上げた。
その日、私たちは普段通りを装い夕方まで過ごした。夕食どき、陽が沈む直前の時刻に学院にいるほぼ全員が大食堂に集まってきた。
突如、門衛の職員たちが何事か叫びながら大食堂に入ってきた。
「火事だ! かなり燃え広がっている」
少女たちは一斉にざわめきパニックになる。その動揺が職員にも伝播し、教師たちは慌てふためきながらも「落ち着きなさい」と生徒たちを叱りつける。もちろん少女たちの混乱は意図的なパフォーマンスだ。スーは私の手をぎゅっと握り、もう片方の手でポケットに忍ばせたピアスの箱を握りしめた。
「パニックを起こすの」
作戦共有のとき、私は皆にそう伝えていた。パニックを起こして、移動手段と通信手段を断つこと。外からすぐに助けを呼べない状態にして、職員が自分たちで消火活動に当たるしかない状況に追い込む。その有耶無耶に乗じて門を破壊し、私たちはそこから逃げる。敷地内に一台だけある職員用自動車の鍵の保管方法は職員室の壁に引っ掛けてあるだけという杜撰なものだった。運転技術を持たない私たちがこれを脱出手段として使うには無理があるけれど、門にぶつけて破壊するくらいなら出来るだろう。
皆がざわめいている間に建物全体の電気系統が計画通り落とされる。一層薄暗くなったのを合図に、私たちは堰を切ったように叫び出して方々に駆け出した。
騒ぎの間に門は無事に破壊できたようだった。そばに立っていた女の子が一台の自転車をスーと私に差し出す。全員分はない、貴重な移動手段だ。
「スーを守って」
私が戸惑っていると、その子はちょっと強気な笑顔で私にハンドルを握らせる。
「逃げ切って、私たちの宝物をご両親に引き渡して」
スーが涙を堪えるように唇を内側に巻き込んだ。私は思い切りその子に抱きついて涙を隠した。急いでスーを後ろへ乗せて、私はサドルに跨がりペダルを踏み締める。森を切り拓いただけの舗装されていない道へ車輪を滑らせ、私たちは逃げた。
走る。走る。吐くたびに白くなる息が、熱かった。
吸って。吐いて。吸って。吐いて。
夢中で走る薄暗い森の景色はただぐにゃぐにゃと、柔らかなぼかしがかかっていて夢の中みたいにピントが合わない。
もうすぐ陽が沈む。その前に森を抜ける。皆無事に学院から出られただろうか。
そのいっとき、老木が倒れてできたらしい隙間から真っ赤な夕焼けを見た。
後に私は、あの時の放火で建物の半分以上が消失し学院は閉鎖したと人伝に聞いた。その後すぐに終戦。逃げきれなかった子も、孤児になった子も、亡くなった子もいたという。
あんなに強引に推し進めた私の脱走計画にみんな協力してくれて。仲間に犯罪めいたこともさせて。なのに誰も守りきれない。私は無能で身勝手な煽動者だ。そして、スーのことまで。
ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい。
なのに、あの日自転車の背中にスーを乗せ、夕陽を浴びながら走っていた私は無責任に幸せだった。
幸せは、浴びる感覚。保存はできない。
幸せにはなぜ切なさが微量に混じるのだろう。
いつか失ってしまうのではないかという気持ちから来る正体不明の恐れのせいか。
あのとき私は、保護も保存もできない幸せをただ浴びていた。
◇/サラン、現在
【サラン、君がどんなに君自身の過去を知りたいと願っても、僕にはそれを教えることはどうしても出来なかった。僕にそれを隠す権利はなく、思い出して受け止める作業は君には本来必要なことだったのかも知れない。だからこれは僕のエゴだ。どうか許してほしい。
僕と君が出会ったのは、M市の戦争孤児救済施設だった。君は一人で路上生活を送っているところを保護されたと聞いている。
君は夜中に突然泣き叫んでパニック状態に陥ることがあった。誰かを探すと言っては突発的に施設を飛び出しもした。のちに僕は、君が探しているのは〝スー〟という少女なのだと知るのだが、何年経っても彼女の痕跡は見つかることがなかった。君はその少女と自分は無理矢理引き離されてしまった、自分が油断していたのだと何度も言っては取り乱していた。君が今も大切にしている片耳だけのピアス、あれは彼女の落としていった宝物だそうだ。
戦争が終わり、僕が職に就いたころ君と結婚した。
君の発作は少しずつ治まってはいたが、まだ油断ならない状態だった。でも、君には武器があった。文章だ。
後悔と悲しみは消えずとも、スーとの美しい思い出もまた、消えるわけではない。思い出を綴ると幾らか落ち着きを取り戻し、原点に帰ることができるのだと君は教えてくれた。「彼女が私の物語の最初の読者でファンだったの」と穏やかな笑顔で君が言ったとき、僕は君から書くことを決して奪ってはいけないのだと悟った。サラン、君は生まれながらの作家なのだと気がついたからだ。
作家というのは、厳密にいえば職業ではないのだろうと僕は思う。作家というのは、あれは性質だ。職にしているいないに拘らず、作家は「なる」とか「ならない」というものではない。書くことで動揺しようがパニックになろうが、君は書かずにいられない。禁じられれば却って苦しくなるものなのだろう。だから僕は君に作家で居続けて欲しかった。
君の書き終えたスーとの日々の記録は、美しかった。戦時中にあんな学院が極秘扱いで存在していたことを、僕は知らなかった。君の十代は理不尽と不穏、美しさと輝きに満ちていた。
サラン、君がスーを救おうと学院を脱出するために必死に取った行動を、僕は罪だとは思わない。悪いのは君を都合よく扱おうとした大人たちだ。
手記を完成させると次第と君の心は安定していった。夜中の発作も治まりかけた頃、僕はそれと反比例するように君の十代の記憶が徐々に喪われていることに気がついた。書き残して安堵したことで、君の脳は記憶を手放すことを選んだのではないかと思う。君がひとりで抱えるにはあまりにも重すぎる体験、そして罪悪感がのしかかって辛かったのだろう。
次第に明るさを取り戻し、作家としても軌道に乗った君を見て、僕は君の記憶を無理矢理呼び覚ますべきではないと思った。またあの地獄のような悪夢を追体験させるのはあまりにむごい。悪夢の中に美しい思い出も混じっているのを承知していながら……僕はスーなる少女が無事でいるとはどうしても思えず、それも含めて……君の少女期を君に思い出して欲しくなかった。君が記憶を取り戻したいと望んでいるのを知っていながら、曖昧にかわし続けてしまった。
君が若い頃書いた手記は長らく僕の手元で保管していた。ただ、僕もいつまで元気でいられるか分からない。僕が先に死んだ場合、若い頃の自分の手記を君が不意に見つけて読んでしまったら、どれほど君にショックを与え傷つけるか。ようやくそこに思い至って、君に手紙をしたためている。
この手紙と君の書いた手記を、君と長年並走してきた編集のY氏に託そうと思う。彼には随分重たいものを背負わせてしまって申し訳ないが。「もし君が独りになった後、自分の過去をどうしても知りたいと君が相談してきたら渡してほしい」とお願いしている。
君にとってスーと過ごした日々がどんなに印象深く素晴らしいものだったか、僕もよく分かっているつもりだ。ただ、僕にはその素晴らしい思い出ごと君に忘れてもらうこと以上の最適解を見つけることが出来なかった。ずっと黙っていてすまなかった。
君の幸福を願っているよ。】
手紙の最後には夫の見慣れた字体でサインが記してあった。
「ご主人がこれを私に託されたのは四年ほど前です」
読み終えたタイミングでY氏はそう補足した。夫の亡くなる二年前。夫もまた、ずっと重たいものを心に抱えていたのか。
「先生のご事情は前担当者から少々ですがお聞きしていました。ご主人は読んでもらって構わないと仰っていましたが、私は読むべきではないと判断しました。ですから、預かりものの重要性の程度が分からず、すぐに先生にご報告できずにいました。申し訳ありません」
「いいえ……」
予想もしていなかった夫からの手紙。確かに、決して話すまいとした夫の優しさのおかげで、私の数十年間は幸福と穏やかさで満たされていたのだ。今このタイミングで、自分の人生とまるごと向き合う時がやってきたのだろう。
「私も同じ状況に立たされたら、本人に渡すかどうか迷ったと思います。ずいぶんご負担だったでしょう」
改めて封筒を手に取る。ずっしりと重い。この中に、過去の私が今の私のために書いた記録が──森の中の学院のこと、スーにまつわること、そして多くの後悔──が詰まっているのか。
*
Y氏が帰った後、私はすぐに自分の手記を読み始めた。
〝たいていの女の子は蝶々結びの結び方を覚えるのと同じ年頃に、三つ編みの編み方を覚える……〟
書き出しはそう始まっていた。読み始めてすぐ、意識は驚くほどすんなりと過去に飛んだ。私は深い森の女学院で過ごす十三歳のサランだった。誰かの髪を編んでいる。細く淡色をした子どもの髪。その子がじっとしていられずこちらを振り返る。屈託のない笑顔。
「スー……」
今までぼんやりとフォーカスの合っていなかったスーの顔を、私はその時はっきりと思い出した。恐ろしいくらい整っていて、測ったように左右対称で、その美しさゆえに翻弄された無邪気で純粋な。
私のスーだ。
途端に、土石流のような激しさで記憶がなだれ込んできた。秘密裏に営まれた、贅沢で閉じられた暮らし。似たような境遇の少女たち。読み進める。二重振り子のピアス。私の物語とスーのダンスの融合。そして、スーを救おうと私が強引に決行したあの脱出、そしてそれらを書き綴っていた二十代の私。読んで読んで……いけない。溺れそうだ。
ああ、スーと私はなんとか学院から抜け出せたものの、あのとき街は空爆を受けた直後で混乱していたのだった。頼みにしていた私の実家も粉々になっていて、家族は消息不明だった。涙すら忘れるほど途方に暮れた。
役所はごった返していて確認も手続きもできないままたらい回しにされた。飼い猫が急に外の世界に放り出されたみたいに、私とスーはタフに生き抜く知識を持ち合わせてはいなかったのだ。混乱と無秩序の街には奪略と犯罪が横行する。私たちは、悪い意味で浮いていたのだろう。そして、一際目立つスーが狙われた。
スーと数日、家を失った市民たちに混ざって屋根のある野外で寒さを凌ぎながら寝起きした。片時も離れないように気をつけていたのだが、私が寝ている時にスーが知らない男たちに連れ去られそうになった。しばらく揉み合いになった後、スーは男たちの隙を抜けて走り出す。一拍遅れて何人かが追いかける。私は残った一人に押さえつけられて動けない。
まるで世界が夢中みたいにスローモーションで動くように感じられた。早朝なのに光景の色合いもひとりひとりの動きも表情もはっきりと見て取れる。ダンスで培った柔軟性でスーが巧みに男の腕をすり抜けたのも、男が驚いて一瞬フリーズしたのも、たまたま周りで寝ていた人々が起き出して慌てる表情も。スーのフードに隠した一つ編みの長いおさげが露わになり、駆けるたびに左右に揺れるのを私はただ見つめていた。
周りが起きだしたので、私を押さえていた男は諦めて逃走を試みるも周囲の群衆に揉みくちゃにされて捕らえられたようだった。その結末を見届けもせず私はスーを救いに走り出す。身体が思ったように動いてくれない。ただひたすら駆けて見渡してをいつまでも繰り返した。
目を閉じる。夫が真実を伝えられなかったのは無理もない。私はほんとうにたくさん、間違えた。
気持ちの整理をつけようとコートを着込んで外に出る。
まだ陽は高いが風は冷たい。歩くたびに右耳のピアスが揺れて、存在を主張した。
──スーを見つけ出せないまま夕暮れになっても、十五歳の私は現実を受け止めきれなかった。私は何のために女学院脱走を企てた? スーを救うため。皆に迷惑をかけて強引に脱走して、スーをとにかく辛い目に遭わせたくはないという心だけで、私は結局あの子をもっと不幸にしてしまったの?
もしかしたらと一塁の望みをかけて戻ってきた寝床にもスーの姿はなく、何も考えられなくなった。座り込むと、そばで数日寝起きしていた婦人が布に包んだ何かをそっと手渡してくれた。片方だけの二重振り子のピアスだった。
「あの子のでしょう? 」
婦人はそれだけ言ってひたすら背中をさすってくれた。戦争は、経済も人の心も貧しくする。心が荒みきって捨て鉢になる人もいる一方で、変わらず優しく凛とした人もいる。惨めだった。私は、凛とできなかった側の人間だ。
もう、受け止めなければならないのだと思う。「君のしたことは罪ではない」と手紙の中の夫は言う。他人の体験談として聞けば、私もそう言って慰めるだろう。時代のせい。境遇のせい。あの年齢で精一杯よくやった。けれど、スーも同じようにそう言うだろうか。
気が付いた。私はずっとスーに許されたかったのではないか。
いつの間にかカフェの近くに来ていた。そばの広場のベンチに腰掛ける。あの頃の私はずっとスーと一緒にいられると思っていた。いつかあの学院を出ていくことになるということすら頭になかった。頭を占めていたのはただ、スーとの永遠だった。
永遠などないと、今の私ははっきりと言い切れる。
誰かが攫われたり虐げられたり。
死んだり。
殺されたり。
そういう幾つもの分断を通過して今の私がいる。
ふ、と風が動いた。掛けているベンチの隣に誰かが腰をおろしたのだ。何の気なしにそちらを見て、息を止める。
無邪気に振り返ったあの子の笑顔。芸術品のようなあの子の額のなめらかな曲線。白桃のような産毛が光り、産毛は耳までも続き、その左耳に。
私が無意識に自分の右耳のピアスを確かめると、視線に気がついたスーは不敵に笑った。立ち上がった彼女は私の手を取り軽やかに駆け出す。私たちの耳元でそれぞれの黄金のピアスが踊るように跳ねる。
子供の頃に持っていたあれこれは、喪ったのではない。
喪ったのではなく──。
了
透明たちの混沌