はや夕暮れにて候
2023年~作品
薄昏
今ははや夕暮れにて候。
夕闇には一面の鴉の群れが舞い飛んでいた。
遠くの山並みの地平線には、今にも陽が沈もうとしている。そのオレンジ色の光が、暗黒の原野にゆっくりと落ちようとしていた。
ここは主戦場の会津若松城からは離れた地域で、川沿いの平原が広がっている。斎藤は城下で遊撃手として新政府軍への掃討作戦に従事していた。すでに敗色は色濃く、城の大半には新政府軍の砲撃で城塞のあばら骨が見えている。それは遠目にも斎藤の目には観察できた。京都からこの方、新選組はずっと敗戦が続いていた。この戦いに意味があるのか。その内心の思いを斎藤はずっと否定し続けている。認めたくない現実の否定が彼の習い性であった。
しかしこの掃討作戦で彼はすでに負傷していた。もうすぐ陽が暮れる。この会津は京都よりも北の地域で、京ならば九月末ではそれほど冷えることもないが、この負傷した体でこの冷たい地面に這いつくばっていれば、体温の低下は免れまいと思った。こんなケガで死ぬ俺ではない、そう思ったが、剣を握る片腕が動かなかった。止血しなければ、確実に血を失って死ぬ。
その時斎藤の目の隅に、誰かが小走りに駆けてくる足元が見えた。女の足、いや少女だ。背嚢のような袋を斜めに下げている。おかっぱの少女でまだ幼い。濃い藍紫の着物姿だった。しかし体中が煤けていた。砲撃跡を一人で歩いてきたようだった。少女は斎藤の前で立ち止まって見降ろし、斎藤に言うともなくつぶやいた。
「……は、知りませんか……。」
斎藤は無言である。おそらく家族を探している少女なのだろう。しかし彼女に現実の厳しさを教えてやることは、斎藤には徒労に思われた。この少女は家族を失い、俺はもうすぐ命を失う。それだけのことだ。この少女にもいずれわかることだ。
と、少女は不意にしゃがみこんだ。背嚢の袋から白い布を取り出し、付近の地面から枯れ枝を探し拾い集めた。そして斎藤の負傷した腕を取り、血が流れている腕をぎゅっとひっぱり枯れ枝を二本充てた。斎藤は痛みに呻いた。少女は無言のまま布を口にくわえてびっ、と手で引き裂いた。それで腕をぐるぐると巻いていった。乱暴で原始的なやり方だが、斎藤のケガを止血しようとしていた。そしてそのあと傷ついた胴にも包帯の布を巻いていった。
「すまん……。」
斎藤は少女に言ったが、少女は何も答えなかった。その包帯を巻く手元に、夕日の薄闇に照らされて赤いものが見える。痣のようだった。見たところケロイド状で、古いやけどの跡のように見えた。それは何か赤い花模様にも見えた。痣があるのは右手だった。利き手の痣か。目立つな、かわいそうに。と斎藤は頭の隅で考えた。
と、少女は立ち上がり、斎藤に軽く一礼をすると、来た道を引き返しはじめた。ケガの手当をし、斎藤が問いに答えなかったので、もう用向きはないという趣だった。しかし礼をしたところを見ると、どうも武士の娘であるらしかった。
「おい。」
と、斎藤は言ったが、少女は斎藤を振り返らなかった。遠くで散発的な砲声が鳴っていた。
あの時の少女の後ろ姿を、斎藤は今ではほとんど思い出すことはない。
明治十一年(1878年)秋。
前年秋の西南戦争にも決着がつき、斎藤は今では警視庁警部補である。西南戦争で川路利良の率いる警官抜刀隊として陸軍に配属となり、薩摩の軍と戦った。その軍功で警部補に昇進した。長州の陸軍に取り立てられたのは斎藤としては元新選組からの過去の経緯からして、あまりうれしいことではなかった。しかし四の五の言ってはいられない。家には細君の時尾もいる。自分ひとり気ままに流浪している時代は、斎藤にとってはすでに過去のものだ。何かを為すには身を固めよとは言ったものである。彼は古来からの男の風習に従ったまでのことだが、それでわが身が盤石の砥に屹立したと思わずにはいられなかった。従ってあの少女の心寂しい後ろ姿を思い出すことは、もうないのであった。
斎藤はそれなので今朝も事務用の職務で机に向かってペンで書類を書いている。その後は書類を持って川路のところへ向かわねばならない。ペンでの書き味にももう慣れてしまった。筆を使うことは所内ではめったにない。用務の張り紙を書く時ぐらいである。
と、その時執務室のドアが乱暴に開いて、宇治木が入って来た。彼は元薩摩藩の藩士である。総大将の西郷の部下の一人だったが、陸軍に投降したので、斎藤が拾ってやった。西南戦争ではかなり腕が立つ男だったので、見どころがあると思い、負傷して病院にいるのを、警視庁に来ないかと誘った。そういう時の斎藤は好々爺の山口二郎である。宇治木は打ち首になることを恐れていたので、二ノ五を言わず斎藤に従った。
それで今は斎藤の部下の剣客警官隊に所属していて、帝都の守りについているのだが、何分西南戦争からの恨みがあり、素直に職務を行わないところがあった。要するに職務質問などを横柄に行うのである。帝都にいる民草は長州になびいた者たちであり、彼にとっては仇敵であった。長州は同じ倒幕の絆を結んだ藩だったのに、西南戦争で袂を分かったのである。それは斎藤にとっては面倒な事柄であり、彼はそのような宇治木に引導を渡すのは先送りにしていた。彼も腹の底では長州の連中を好かなかったからである。
宇治木は部屋を横切り、忌々しそうにどすんと椅子に腰を下ろすと、タバコに火をつけた。見るからにいらいらしている。と、斎藤の隣の席の丸メガネの男の事務員が、斎藤に耳打ちした。
「山縣卿がお出ましになったんですよ。宇治木は懲戒されました。」
「なに。」
「たまたま馬車で通りかかったんですがね。運が悪かったなあ。山縣の昔の知り合いにからんだもんだから。」
斎藤はふん、と鼻を鳴らすと、宇治木の机に歩み寄って言った。斎藤もタバコを取り出して口にくわえた。
「山縣卿に会ったのか?」
「会ったからどうだっていうんです?あんなやつ、なんで俺が怒られるんだよ。」
「その男が山縣卿のお気に入りだったってことか。」
「ですよね。そうでなきゃ俺が怒られるはずないだろ。俺はふつうに職務質問していただけなんだ。」
斎藤は苦笑いの顔で聞いている。もちろんこいつはふつうに質問なんかしていない。
「で、どんな男だったんだ。どこぞのお華族さまか?」
「ああ元老院関係の?まさかね。薄汚い侍風情の恰好をした男ですよ。赤毛だったな。左頬に十字の刀傷がついていましたね。ちょっとだけ腕が立つ風だったなあ。ちょっとだけ。」
斎藤の目が光った。
「ほう。赤毛ね。」
「女を連れていたんですよ。そいつに職務質問していたら、そいつが出てきてね。俺に刀で斬りかかってきました。」
「しかしおまえは斬られていないな。」
「そうです。どうも木刀だったのかなあ?いや、刃はあったはず……。」
宇治木が頭をひねっているのを、斎藤は軽く頭をこづいた。
「これに懲りてもう女をひっかけるなよ。」
宇治木は口をとがらせた。
「なんであいつ、廃刀令なのにしょっぴかれねえんだ。」
「それは建前だ。おまえもわかっているはずだろ。もういい。俺が外回りに出る。」
「え、斎藤さんが?」
「ちょっと気になる用事ができた。」
斎藤はそう言うと、部屋をあとにした。
斎藤は山縣卿の登壇する道筋を知っていた。むろん馬車道で三宅坂の陸軍省の建物に乗り付ける。これは明治五年に会津藩松平家上屋敷の建物にあった兵部省から出火した銀座一帯の大火事で、すぐに太政官発布され、兵部省は陸軍省と海軍省となり、明治十一年に現在の三宅坂へ陸軍省の新設の建物が建設された。つまり今年建てられたばかりの新設の今風の洋館建築なのである。そこへ山縣は馬車で向かう途中であったのだ。この三宅坂は元彦根藩井伊家上屋敷の跡地である。井伊家と言うと桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の家である。
つまりは新政府と言っても、江戸時代に権勢を誇った大名屋敷の跡地に建物は建てられているのだった。その三宅坂からほど近い町人の町というと麹町界隈だろう。その横の大通りをまっすぐ行くと四谷見附があり、甲州街道につながる。斎藤は山縣の住む家屋敷の場所までははっきりとは知らないが、おそらくその道筋に問題の「赤毛の男」が出没した町人の出入りする店なりがあると踏んだ。馬車道の大通り沿いに斎藤は歩いた。明治の世で侍のなりをしている、貧相な男と言えば、そのような行動範囲が考えられた。
女連れで警官に難癖か、と斎藤は思う。幕末の頃抜刀斎と呼ばれた男の顔が自然脳裏に浮かんだ。宇治木の言った男の顔の特徴は、その男とよく似ていた。何度か幕末の頃抜刀斎とは剣を交わした。函館戦争でも見かけた気がする。しかその時はそんな軽薄そうな男には見えなかった。できればまた手合わせしてみたいものだと思っていたが、俺の見当違いか。あれからもう十年以上たったのだ。
斎藤は元江戸城、今は皇居のお堀端に立っている。堀の池の中を、大きな黒い鯉がぬらぬらと泳いでいるのが見えた。平和だなと思い、またタバコに火をつける。あまりお吸いにならないで、と時尾がいつも言うセリフを思い出した。肺に悪いですわ。斎藤は時尾との馴れ初めを思い出す。会津藩を左遷され、函館戦争を経て蟄居先の津軽の斗南藩は地獄だった。冬は極寒の園だった。そんな氷の大地であったから、斎藤も地元の郷士の薦めるままに時尾と一緒になったのかもしれなかった。平凡だがぬくもりが欲しかった。
斎藤はお濠で一服した後、麹町界隈の路地裏を回った。大通りと交差する路地の角に、近頃はやりの牛鍋屋が店を出していた。「赤べこ」という看板が掲げられていた。と、その店の暖簾くぐりから出てきた男がいる。一瞬抜刀斎かと思ったが違った。頭が箒のように逆立った髪型で赤の手ぬぐいを巻いた白いつなぎ姿の男だった。見たところ河岸で働く人足のようだ。その男が斎藤を一目見るなり、呼び止めた。ポケットに手を突っ込んでいる。
「おい、警官さんよ。あんたに話がある。」
「なんだ。」
「あんたこれを知ってるか?俺のダチ公がこいつで死にやがった。こいつはとんでもねぇ薬だぜ。」
その男がポケットから手を出して、薬包をかざしているのに斎藤は気づいた。きれいに折り紙されている薬包だ。
「俺ぁ相楽左之助って言う。喧嘩屋稼業の喧嘩屋斬左ってぇのは俺のことだ。」
「知らんな。」
「じゃあ今日から知っといてもらおうか。おまえら警官が取り締まりをさぼりやがるから、こんな薬が出回っているんだぜ。そいつについてはどうなんだよ、え?」
「おまえの親友が死んだのは傷み入る。しかしそんな喧嘩腰で言われることはない。第一、俺の任務ではない。」
「なんだと、てめぇ。あやまらねぇのかよ。」
「難癖つけたいのならあいにくだな。その薬は証拠品として預かっておこう。」
「あやまるまで渡さねぇぞ、こら。」
「まるでガキだな。鑑識に回すからおとなしく渡せ。」
「おまえらみたいな役人がのさばってっから、人が死ぬんじゃねぇか!あやまれ!」
左之助はそうどなると、斎藤目掛けてストレートの拳を繰り出した。だが斎藤は難なくそれを片手で制した。左之助と徒手空拳で数度渡り合うと、斎藤はとどめの一撃を素早く左之助の腹に入れた。左之助は呻いてその場に倒れこんだ。歯を食いしばりながら左之助はつぶやいた。
「てめぇ、絶対許せねぇ……。」
斎藤は痛みに呻いている左之助に詰め寄ると、その顔をあげさせて言った。
「おい。この薬はどこで手に入れたんだ?言え。」
「知らねぇ。ダチ公の住んでた長屋に残ってたんだよ。ダチ公が手に入れた先は、俺は知らねぇ……。」
「本当だろうな?見たところ毒薬のたぐいではなさそうだ。麻薬、かな?」
左之助と名乗った男は、罰の悪い顔をしてうつむいた。やはりそうか、と斎藤は思った。ふつうの毒薬ならこんな絡み方はしまい。左之助は小声で言った。
「最近賭場にも全然来ねぇし、出歩いているのも見かけねぇから、どうしたんだって長屋を訪ねたら、目ん玉かっ開いておっ死んでいたんだ。ガリガリに痩せてた。もうダチ公じゃねぇみたいになっていて……部屋ん中が台風来たみてぇに荒れてたんだ。おそらく部屋ん中で苦しんで暴れたんだろうな。俺はもうショックで……。あんな風に死ななくたって……。」
左之助の目に涙が光っているのを見て、斎藤は考えを改めた。この男は純粋に義侠心から絡んできたのだ。
「おまえの言い分はよくわかった。とりあえずおまえの知り合いの住んでいた長屋に案内しろ。何か痕跡が他にもあるかもしれない。」
斎藤はそう言うと左之助を立たせて歩き出した。左之助はふてくされた様子でポケットに手を突っ込んで肩をいからせて歩いた。斎藤に殴られたことは面白くなかったに違いない。歩きながら言った。
「まあちょっと女好きなやつだったよ。酒場で知り合った女としけこんだりしてよ。でも悪い奴じゃなかったんだ。少し喘息持ちで咳していたからな。それで女から薬を渡されたんじゃねぇかって。」
「女に心あたりは?」
「ねえよ。あったら俺がそいつを警察に突き出してたさ。俺はそっちの方はご免だから、知らねぇっつってんだよ。あんたみたいな警官で歳食ってるやつなら、地回りのこととかよく知ってんだろ?え?ここだな。」
左之助が示した先はおんぼろ長屋だった。窓の障子紙がすべて破れている。鍵はかかっていなかった。左之助が戸を開けると、無人の部屋の埃くさいにおいがした。
「薬のあった場所はどこだ?」
斎藤が左之助に言うと、左之助は箪笥を指さした。
「その一番上の段に入ってた。まだ残ってると思う。」
斎藤が箪笥を確かめてみると、薬包が幾つか残っている中に、一枚の紙が折りたたんで入れられていた。斎藤は開けてみた。ある医院の名前と番地が達筆でしたためられていた。
「なんだこれは…………小国診療所?病院の名前か?まさか、そこで手に入れたということか?」
左之助が横から言った。
「そこへは俺も行ってみたが、老人の医師が一人いるだけで、心当たりはまったくないと言われた。もちろんそんな薬は処方していないと剣もほろろに言われたさ。」
斎藤は少し考えて、「まあそこへ行ってみるか。」と言った。
斎藤が考えるに、この左之助の友人が薬を飲み続けたのは、おそらくやつが言った通りに体へいい薬だと言われたからで、待ち合わせ場所にこの診療所の名前を使ったに相違ない。もちろんこの医院に関係しているようなふりもしたに違いない。医院に出入りしている女だろうか。看護婦か何かなのか?しかし医院の老人は薬に心当たりはないと言った。病院内にある薬で作ったものではなさそうだ。するとどうなる。
斎藤の勘では無論それは出入りの業者の関係者に間違いはない。薬を入手できる女であり、診療所に近づいても不審に思われることはない女。薬剤を運ぶ女か。その診療所では外国の薬を扱っているのではないか?斎藤は瞬時にそこまで計算した。
「この診療所の場所をおまえは知っているのか?」
斎藤が尋ねると左之助は答えた。
「ああ、港に行く道の近くだぜ。よく船乗りのやつらが利用している。案内するぜ。」
斎藤らは長屋の路地を出て南の新橋の方向に向かって歩き出した。距離は少しあるが、その中間地点に小国診療所は存在する。途中今では皇居になっている元江戸城がそびえたつ。斎藤らがたどり着いた頃には、刻限は夕刻に近くなっていた。馬車通りから少し入ったところの寺や商店が立ち並ぶ筋に診療所の看板は掲げられていた。前をひっきりなしに人や荷馬車が通り過ぎていく。港からの資材を運んでいる。またその一部を明治五年に開業した烏森駅(のちの新橋駅)から横浜駅に運ぶためである。翌年の明治六年から貨物列車が一日一往復で、すでに運行をはじめていた。
と、斎藤が見ている前で、診療所の前に一台の荷馬車がとまった。菰掛けした中はガラスの瓶がぎっしり詰まっているようである。おそらく診療所で使う薬剤だろう。馬車の後ろの席から長い黒髪の女がひとり降り立った。右手で紫紺の道行の膝の埃を払いのけている。菰包みからおがくずが出ていたらしい。前の御者の男に
「荷下ろしするわ。私も手伝うから、手伝って頂戴。」
と女は声をかけた。見ていた斎藤の目がすうっ、と狭まった。
今女の右手あたりにちらりと赤い痣が見えた気がした。忘れていた何かを思い出したような気がした。
斎藤は左之助を促し荷馬車に歩み寄った。女は瓶詰めの箱を下ろしていたが、二人に気づくと横の御者に目配せした。御者の男は素早くまた馬車に乗り込もうとした。女も逃げる気だ。そうとわかると斎藤はダッシュして女の足にタックルしてひっかけた。女は転倒して叫んだ。
「何をするのッ?!」
「なぜ逃げる。職務質問するだけだが。」
斎藤は女の左足に足を乗せ体重をかけた。女は呻いた。
「警察・・・。」
「わかっているじゃないか。この薬に見覚えがあるか、答えてもらおう。」
斎藤がポケットから白い薬包を取り出して見せると、女の顔色が変わった。
女は顔を背けると、震える声で答えた。
「知らないわ。あたしたちはこの医院に薬を運んでいるだけなんです。頼まれて。」
「誰にだ?」
「それは言えません。本当なんです。信じてください。」
「とりあえず、署まで来てもらおうか。この薬で死んだ人間がひとりいるんだ。おまえが渡したんじゃないのか?」
女は唇を噛んで黙り込んだ。こうしてそばで見てみると、なかなかの美女だった。唇は血のように朱いし、目鼻立ちもすっきりと整い目も大きく華やいでいる。動揺して息が乱れている様は、まだ若いにもかかわらず色気が匂う年増の様子だった。その観察でつい油断したのだろう。背後で左之助が「おいっ。」とどなった。瞬間、斎藤の後ろからさっきの御者が両手を握った拳こぶしで脳天を殴りかかってきた。むろん斎藤はすぐに反撃に出たが、その隙に女はするりと斎藤の膝の下から逃げだした。
「しまった。」
左之助が御者の男を飛び蹴りして取り押さえた。
「てめぇっ、抵抗するところを見ると案の定じゃねぇか。おいおっさん、女を逃がすな!」
左之助に言われるまでもなかった。
斎藤は逃げる女の後を追いかけた。道行のぞろりとした着物を着て草履を履いているはずだが、女の逃げ足は速かった。何かの訓練を受けている女だと、斎藤はピンときた。巧みに人込みの中を回避していく様も、障害物の徒競走の訓練を受けた感じだった。なるほど、会津藩にいた女か、と斎藤は思った。斗南藩にもいたかもしれない。だとしたら。
と、道がぶつりと途切れて港の水路の前に出た。これ以上は行けないはずだ。と、斎藤が見まわすと、女が思いがけない様子でそこにいた。というよりも、見知らぬ怪人に肩の上に抱き上げられていた。斎藤が「待て。」と言うと、陣笠をかぶった背の高い怪人は「おっと。」と笑った。すでに水路の向こうの突堤の上に立っていた。その間には幅5メートルほどの水路があった。水路は深くて海とつながっている。斎藤では追いすがることは無理だった。唇に高楊枝をくわえた怪人は言った。
「ふふふ、この女は預かるよ、元新選組の旦那。この顔に見覚えがあるかね、お互い嫌な稼業に落ちぶれたもんだ。」
と言うなり、怪人は夕陽の傾く中ひょう、と後ろに飛んで魔法のようにかき消えた。
はや夕暮れにて候