「英雄譚」
雨が踊る夜、か細い白の縫糸を上機嫌にくるくるリボンの真似して回す夜。見捨てられて忘れられた古本の、三日月のおつかい真綿の蛾の羽ごろも、星屑を散りばめられて言葉達が目に目に姿を化えていくのは、草木の夜更かし丑三ツ時。
「約束」と言う名前の錆びた鍵の束で、想い出の扉を一つ一つと開けては閉める老夫あり。彼は此処図書塔の番人、記憶の灯台守、昔はさぞや美麗であった故国に住まう唯一人の人である。
昔、この国は輝いていた。オーロラが光を失わないように、この国も光を失わなかったのである。それでも国は忘れられ、一片のハギレしか残らなかった。
この小さな布片は蓬と梅の花を縫いあわせたもので、彼のしなびた片手に握れるほどのものだったが、これが何の一部であったのか、それともこれが全てであったのかなどは分らない。分らないけれど、老夫はそれを溝の泥に捨てようとは思わなかったようで、夕日が昇る朝から月が昇る夕方、雨の真夜中までひと時も手放さないでいたのである。
図書塔は忘れられた場所に建つ、そしてそれを見つけられる者はいない、塔の景色も出す音も全て建物内部で鎮まって、外に一つも様子を発さないから。内海だけに向けられたパレットもレコードも、外の刺激を恐れるもの。だから救けも求めない。それはまるで老夫の人生そのもののような在り方で、彼が自分と図書塔をかさねているかは難しいが、居心地がよさそうなのはよさそうだ。だって、今日も塔に向かって
「やい、この木偶ノ坊め。いつまで此処に突ッ立ッて居やあがる。いつまで居るんだこんな場所に。」
挨拶をきちんとしているでしょう?それに、見て。鍵束だって投げつけないし傷が入らないようにいつもハギレで包んで持ち歩いているのだから。
「何だッてんで此の国に現れおった。貴様の目論みなど判っているわい、お見通しじゃ、お見通しじゃ。」
図書塔の内装は一日で変わる、毎日違う形と色の階段を老夫が昇る時、必ず呟く二言三言。
昇り終った踊り場から彼の読書は始められる、ドッカと床に腰かけて口を尖らせギョロギョロと両眼玉を歩かせる、一人きり。
「第一話目」
「全部父さんの所為だ!」
最愛の弟が心を病んだと知った時、青年は母親の前で父親に怒鳴った。
「お前の所為であの子はおかしくなったんだ。」
父親は青年にそう言い返した、妻の前で。二人の言葉と母の姿は、布団に潜る少年に聞えていた、彼は眠っているのではなく、声を立てずに涙を落すのが上手になっただけであった。
青年の父親は牧師であった。若い頃から祖父に神に仕える者としての立場の教えを受け、その界隈では名の知れた人であり、妻と子供二人に恵まれ、そして家族は飢えることも暴力を奮われることもなく進んでいったが。
青年はおとぎ話が好きだった。一匹だけ家に居るぬいぐるみで物語を作り、弟に読ませた時がよくあった。最初首をかしげていた弟もだんだんお兄ちゃんの楽しいお話に笑うようになり、学校を卒業する頃には家で一番の読書家に成長していた。
「もっとたくさん、いろんな話を聞かせてあげたい。」
弟はうさぎのぬいぐるみをいつも両手で胸に抱きかかええる子だった。
「生きた動物と触れ合えたのなら、どんな物語を思うだろう。」
動物に携わる仕事で彼と相性が良かったのは役所内の動物保護課の業務であった。生体販売が禁止とされたこの国では、動物を家族にするには動物保護課が開く研修を月に五回以上受け、試験に合格した人が次のステップ、トライアルお預かりに進むことを認められ、相性が良ければそのまま家族の一員に、相性が合わなければ一旦保護課に動物を帰し、職員とヒアリングを交えながらお迎えする子を決めていくのだ。
そのため保護課はとても忙しい。全国に数ある役所も人員が一番多く割かれているが、飼主候補の調査、研修、お迎え後の定期的な訪問調査…人を監視確認する業務に追われ、動物達の面倒を手厚く見るのは順番が後になってしまっている。
「動物達の面倒が見たい」
青年は保護課を目指し資格を取得するための勉強に励み、優秀な成績で見事合格したのである。
「第二話目」
絵本は夢を見ていたのだ。誰かに背表紙を撫でられて目と目が合って頁をめくられる表情を。その顔は喜びに潤み悲しみを花開かせる時もあるのだろう、そんな風の日の刻に自分の声が届くのを、触れてもらえることを大切に夢思っていたのである。
「その願いは叶えられたのか?」
老夫の問いに星は瞬いたが、ひどくゆったりとしたものだったので
「お前は惑星みたいな奴だ、愚鈍な奴め。」
竹箒で暮葉をジャッジャッと掃き散らす。
「何故儂が此奴の面倒を見てやっているのかの、やれ、暇な爺さんは仕事の遅い雑用係さ。こんな鍵なんぞ大事なくせに儂に任せよって、ただじゃあこき使われてやるものか、爺の性根が如何に厄介か思い知らせてやる。そうしたらもうこンな木偶ノ坊とっとと姿を消してくれるだろうからな。」
じいさん得意気だ、でもあゝ見て御覧、図書塔にとっては出現も消失も自由気まま。今まさに姿を消したり現れたりを明滅させて楽しんでる。
さあどうします老夫殿?
「目が苛立って適わんわい!ネオンの化け学を鵜呑したような真似しおってからに、もういい、建つならずっと建っとれチカチカするな!」
老夫は怒って階段昇りいつもの場所にふんぞった座った、今日はどの子の呼び声が届くかな?
「第三話目」
弟は職場でずっと泣いていた。涙声で電話をしメールをし、資料を作りゴミを集めて捨てに行く。
「助かる」
「ありがとう」
と褒められることがある。当然の労いは、正社員がしたくない仕事をこなす弟への労いたりえているかなんて、その場の人達は考えない。
一日中心は濡れて、全身が漏れなく濡れて、そうして心の部分小さな歯車は錆びて、きしんで、動けなくなってしまった。
うつ病患者は会社に要らない、休職を与える価値も無い。士気を上げるのに濡れて湿った雑巾は必要無い。
さよならに呪いを込めて、弟は仕事を辞めた。丁度三ヶ月ごとの更新の日であったからと説得を受けて、とても、とても、丁寧で丁重なご説明をどうも。
心療内科に通う準備は整っていた。人は怖いけれど社会復帰を目指して、道中の時雨榎の御神木の横の階段を昇り月を仰ぐ。弟だけの友達は、その月の光に照らされながらふわりふわりとやって来た。
「マカロンと、お雛さま。それからスミレのサーカステント、幕の中はまだ見ちゃだめなんだって。羽が生えたマカロンはね、其処等の鳥と同じくらいうつくしいよ。それで、音符のダイヤモンドが、半音のトパーズと手を取ってね、一音上にずれたメヌエットを教えてくれるのよ。」
弟は幼い頃からの含羞の微笑みで綴っていた、物語、自分のための物語を、自分一人で。
「第四話目」
昔聞いた民謠で、雪の蛾の噺があったような気がする。この図書塔におさめられているかは知らないが、探してみようという気になったのはどうせ暇だと思ったからでもなさそうな。
この鎮魂の塔へ集められたもの達に規則は無く法則も無い。分類にすら分けられる事を認められていないこの空間で目当ての本を探すのならば、心と頭に思い描くしかない、読みたいものの切れ端を、羽たたきよりもピアノ線の震えよりも細かい音、その声が自らを呼んでいると気が付くように。
「おお、これか。」
老夫は国が去ってから此処に入り浸っていたので、説明も無い図書塔での振舞方を手さぐりながらも確実に掴んでいた。
「あゝこんな表紙だったかなあ。」
春の月、薄桃色のぬくい雨が糸を枝垂れる刻の頃、花は正体を次々雫と顕し、人が目を覚ましていても見えない隙間の夜の刻、一匹の蛾が月の恵みをいただく身体で飛んでいた。翼は朧にたなびいて後ろ惹かれる生娘の髪のなめらかさ、季節の香り、でも…
「雪じゃあないな。間違うたか。」
中途で止めて白い頭をぼりぼり掻く。
「一度開いたら終いまで読まなきゃならん。」
ぶつくさ口を尖らせてばかりも仕様が無いので胡坐をかいてさ
「少しは有難く思え。お前もどうせ何処ぞの扉からのこのこやって来たんだろう、全部きちんと開けてやったからね、儂に連られてふらふら来おって、おとなしくしろ、読んでやれんだろう。」
バーコードの無い画用紙に積んで重ねた文字と絵達、それはまるで、幼い誰かを喜ばすために描かれたようなたどたどしさ。
「第五話目」
自分で物語を描き始めた弟は、もう兄の話を必要としなくなっていた。
その日から弟は大きな音や怒鳴り声、苛立ちの溜息に恐れ新しく音楽も好むようになった。ステンドグラスの回廊、ガラスタイルのサーカス・シルクハット、雪の王国、包み菓子の囀り、朝顔の手鞠と星屑の白粉花。愛された言葉は物語へと紡がれて心に滴り涙の見分けをつかなくした。そして父親は彼の一族で最後の牧師となることを決めた。
北極星は搖るがないのに、羅針盤は往々にして狂い出す、次に指したのは正しい北ではなく、仇のような東の方角。弟は眠る時でも隣に鼾をかく兄の機嫌を伺っては布団を目と口に押し付けた。
「英雄譚」