弥生日日草

弥生日日草

 *



朝。六時きっかりに目覚める。寧ろ、目が覚める。すーっと朝日が差し込んで、くしゃっと寄った掛布団をなぞっている。

「きょう、月曜日だっけか。」

むくっと起き上がって、顔を洗いに行く。さわさわと冷水で肌を締めた。幾らか朝も暖かくなってきたようだ。気が付けば、外もだいぶ明るい。

自作のドクダミの化粧水でカサツキを潤し、手元を探った。かじかむ人差し指にコンタクトを。小さくすすけた鏡には、目を見開いた私。



 また春が来た。



ここでの生活もこの春で五年目。私が大学を卒業して、上京、就職するときに一人暮らしを始めた。家賃三万円、築五十二年、その名も「つづら荘」。風呂無しシャワーだけ、トイレは今やノスタルジックな和式。年頃の女子、いや女の城がそれでいいのか、なんて世間の眼的には言われるかもしれないけれど、特に不満はない。というか不満を抱く気力もない。

「朝から…私何考えてるんだろ」

私は再び凍みる冷水でぱっぱと頬を叩き、よれた黒髪をうなじで束ねた。台所に向かい馴れたノールックで卵を割り、小ぶりな中華鍋に注ぎ入れる。と同時に後の六畳間を見やる。白い布団の抜け殻は二つ。「彼」はもう出てったようだ。じゃあ、卵は一つでいい。

「あ、焦げる」

ゆうべ炊いた硬いコメと、丸い桶型の納豆。それと目玉焼き。味気無いって言ったらそうかもしれないけど、別にそれでいい。目玉焼きには醤油。それ以上の冒険をする気は更々ない。ただ、半熟には拘るけど。

「彼」は今朝は神社か、それとも隅田川。きっとそんなとこだろう。自分の、もしゃもしゃという咀嚼音だけが響く朝の食卓。話し相手に点けたテレビでは、どこかの民放のアナウンサーがこの時だけ畏まって、世の中の喜怒哀楽を伝えている。その後は若い芸能人が嬉々としてミニゲームをやる。平和なこと。

「ふう」

ささっと平らげた朝ご飯を流しに置くと、眼前にはラップに覆われた目玉焼きが一つ残っていた。一つでいい、とか言っておきながら癖で作った目玉焼き。我ながら親切な癖だと思う。



カラッと鍵を回して、トタン屋根の外階段をコツコツ下る。よし、何とか間に合う。古書店が集まる細路地を抜けて、左に。少し小走りで歩みを進めていくと、メトロのマークが見えてくる。仕入れから帰って店を開け始める魚屋。その奥のブティックでは腰の曲がった老店主がシャッターを弱々と上げている。越して来た頃と比べれば、淡路町も少し淋しくなった。時が経てばそりゃ、変わる。変わらないのはその周りのビルの高さと無機質さ。空を見上げればここが東京のど真ん中である事を思い出す。上京する前に思い描いていた華やかさは無いけれど、そんなに居心地の悪いところではなかった。



 *



朝。六時。

「うーん… ふわぁあ…」

とろんとした目で、まだ眠そう。あーあー涎が……。

「んー? ぐるるるぅー」

おーい、まだお休みですか。随分ご立派なご身分で。

「んあー?」

「うん、そうだ。今日は月曜日。だからお前に会いに来たんだよ。 タク。」

そう言うと、「タク」と名付けた三毛の野良猫は、パッチリと水晶玉のような眼を此方に向けてくる。どの位の齢かは知らないけれど、その下腹部の末広がり具合から人間で言ったらシルバー位だろうか。

「くーんうーん」

「はいはい、これな。」

そう言って取り出すはツナ缶。このご老体を少しは気づかい、三〇円高い「ライト」にしてやっている。そんな気遣いをよそに、タクはその顔をオイルまみれにしながら随分美味しそうに食べている。おい。

「んんー」

こんな日々が始まったのも五年前…位。大体毎朝はこの近辺の猫ちゃん達に会うことに費やす。何曜日はどこの誰…という具合。それで五年。

「はい、ちょっと失礼するよ。」

そう言ってファインダー越しに、喉を鳴らして上機嫌になっているタクを収める。朝日の明るさが有るから露出は抑え目に。F値は2.5、シャッタースピードは1/125。

 パシャっ

小気味良いシャッター音。この「天然」の感じは、最近主流のデジタル一眼レフでは味わえない。そう、自分が使っているのは今や生きる化石となりつつある、フィルムカメラ。コニカミノルタになる前のミノルタ社が発売していたTC-1…と言っても好きな人にしか分からない。特に昔レトロが好きだとか、最近増えたとかいう昭和マニア的なものではない。ただ、一眼デジタルに抵抗がある。それだけ。メモリカードさえあれば何度も上書き保存で撮れるデジタルよりも、その一回一回が真剣勝負のフィルムカメラの方に愛着があるのだ。



ふらふらと朝の淡路町を歩く。地名的には「神田淡路町」。その前はもう少し、何というか賑やかな街に居たから、ここの静けさには、たまに…ツンとなる。ど真ん中のくせに、流れている時間と空気がゆっくりだ。

「おはよう!あんた昨日夜遅かったじゃないのー」

これは例外だ。まあ大家の柴山さんは悪い人ではない。ふわっとした返事をして、そそくさと階段を上がった。ガンガンと鉄板を鳴らして、二〇二号室。ここも変なところだ。周りのビルに埋もれた木造建築。東京にもまだこんなレトロが残っている。

「あ、もう行ったのか」

アルミのドアノブを回すと奥の方でつっかえた。何日もその姿を見ていない鍵…たしか左のポッケに…。錆びついた鍵で奥底をこねくると弱気に薄いドアが開いた。

「…ただいま」

冷蔵庫から500ミリの牛乳パックを取り出し、卓上の目玉焼きをラップのままレンジにかける。赤色に染められたハコの中でターンテーブルを目玉が回る。目が回らないかい?「目玉」焼きだろ?…は?…今日の自分は何処か調子がいいらしい。

 ちーん

よし、うすらオレンジの目玉が固めの黄色に変わった。昨今この「目玉」を突き刺して、垂れ溢れる橙のしずくできゃーきゃー言ってる女子が居るようだ。何か、違うと思う。何処かで何か、引っ掛かる。ただそれだけ。

「いただきます。」

ふと、狭苦しい食卓の対岸に目を向ける。「彼女」がしまい忘れた醤油差しが漫然とこちらを見ている。いや、申し訳ないがその手には乗らない。油がかった白の上に、香ばしい茶色の洪水。中濃でもお好みでも無く、ウスター。少しスパイスでツンとして、しゃばしゃばのそれが良い。ふとテレビを点けると、

『ごめんなさい、最下位は牡牛座のあなた…』

と言っていた。十三日振りの牡牛座。最近周期が変わった。占い師も焦ってるのだろうか。

「変えなきゃ」とでも。



正直、変わりたいとか、変えたいとか、そんな事は思わない。

ただ、流れる日々があって、それに流される自分がいて。ただそれだけ。



とりあえず、「彼女」に目玉焼きの礼を言うとする。



 *



朝九時からの八時間勤務の後、少し残業をして帰路に着いた。閉店は二十一時だから、一日八時間は余裕でオーバーしてくる。まあ私は正社員じゃなくて派遣だから何か反骨する余裕もない。

「明るい。十八時なのに。」

店の入るビルから出ると、すぐに丸の内の駅舎が目に入る。三月に入った辺りから夜もだいぶ日が伸びてきて、薄い青色の空に赤煉瓦が映えていた。冬の夜にひとり寒い寒いと唱えながら帰った日々も少し愛おしく感じる。薄情なものだ人間は。すたすたと歩みを進めつつ、今晩の献立を考える。昨日は魚だったから、今日はお肉にしよう。そう決めると、歩みを止めてスマホを鞄から取り出した。

 【 夕飯は? 18:17 】

「ゆ」と入力するだけで出てくるこの予測変換。毎日のように「彼」に送るこのフレーズは、いつのまにか小さな機械にさえ見透かされて、一歩先を行かれている。まさに予測変換。なんか情けない。

 【 夕飯は? 18:17 既読 】 すぐに既読が付く。

しかし私がタイムセールの値札と睨めっこをしている間も、音沙汰は無い。そう、これは「彼」からの返事。「要らない」という意味。前はその四文字がちゃんと返ってきていたけれど、いつからか無言の返事に変わった。空気での会話。いや、阿吽の呼吸とかいうそんな高貴なものじゃない。



家に帰ると、ドアが開きっ放しだった。思わず「…ただいま?」と小さく呟いてみるも、物音一つしない冷えた部屋。「彼」はよく鍵を閉め忘れる。どういう訳かは理解できないけれど、その「彼」曰く『閉めたつもりだった』らしい。そのたんびに一応言ってはみるものの、その約束が果たされたことは記憶の限り無い。

「はあ」

憂さ晴らしに、豚小間が入ったビニール袋をどすんと机に置いてみるけれど、心は別に晴れやしない。

「あ」

甘かった。私の目の前には、間抜けに口の開いたまんまの牛乳パック。嫌な予感がしてその口に鼻孔を近づけると、ツンとした臭いがする。

「あー今日は二つ目か。」

春うらら。とうとう牛乳も腐る季節になってしまったようだ。ここで

【なんで、牛乳、出しっぱなし?】

と怒りをぶつけていた頃が懐かしい。けれど今はため息一つでどこか心が埋まる。というかそれで納得させておかないと回るものも回らなくなるし、そこで我を通すよりは、という安全装置がいつしか働くようになった。思考の放棄、とは言いたくないけれど。

「…」

六畳間を遮る、この家で一つのカーテンを一気に閉める。豚の小間切れで焼肉にしようかと思っていたけど、やっぱり気が変わった。今日はカレーにする。もう期限の切れそうな冷蔵庫の住人を五右衛門風呂で煮え湯の刑に処す。これで今日は帳尻を合わせて、さっさと寝る。ぶつぶつ呟いて板張りの洗面所に行くと、床に鎮座するプラのバスケットが目に入った。その中には少し土の付いた「彼」の服の上に、タオルが二つ。せめてもの反省だろうか、綺麗に三つ折りになって重なっている。「彼」はいつもタオルを二枚使う。それも手ぬぐいサイズのを二つ。頭と体に分けているのだか、洗顔にでも一枚は使っているのだろうか。私は流石にそこまでは知らなかった。

それにしても、「彼」の見透かしたようなこのタオル。真ん中ではなくて、バスケットの端に狭く並んでいるものだから、本当は二枚使うことに気兼ねしているのかもしれない。この「彼」の癖も変わらない。相も変わらず。



焼肉のタレで汚れた平皿と、異臭を放っている牛乳パックを前に、私は色々と物思いに耽っていた。変わるものと変わらないものがある中で、私はどちらに居るのだろう。というか、どちらに属すべきなのだろう。え、何考えてるんだ私。こんなことを考えるようになってしまったのは、何処かに何かを忘れてきてしまったからなのか。それとも何なのか。

「…なんで、だろ…」

くすんだ鏡を見つめて歯を磨きながら、横目に二枚のタオルを認めて。

その言葉は、冷えた脱衣所に浮いて消えた。



 *



 ピピピ ピピピ

「うーっ…」

よれた丸首の間から手首を突っ込み、左脇の辺りをまさぐる。

【37.6】

あーまだか…。これは長引きそうだ。体温計を握ったまま、右手を宙に投げる。春うらら、即ち杉や檜の子供達が宙を飛び交う季節。この時期になると、どうも身体がおかしくなる。一般的な鼻汁、くしゃみに始まり、目の痒み。そして喉が痛み始めると次第に倦怠感が襲ってくる。そうなると数日間寝込む羽目にいつもなるのだ。そこら中に浮く、見えない奴らにここまでやり込められるとは、もはや降参するしかない。

バイブが鳴って、スマホを取り出した。

【三木本出版 瀧川さん】

…うわ、まずい。

「はい、もしもし…」

「どうした?今日ネガの回収日だったろ?もう時間とっくに過ぎてるぞ」

「そうですよね…実は…」

そう話を始め、瀧川さんには「花粉症ごときで…」「本当に写真の仕事無くなるぞ」と散々嫌味を言われながらも、何とか窮状を伝えられた。考えてみれば確かに「花粉症で寝込んでいる」と言って納得してくれる人はどれ位いるのだろう。

「じゃあとりあえず、状況は分かったから、速達でネガ、編集部に出しといて。分かったね?」

「はい…ご迷惑をお掛けします」

天井を虚無に見つめていると、年季の入ったその木目板の中に、顔様のものが見えてくる。こんな風になる時は、大抵もうアウト。ただ、こういう時にしか味わえないこの世界観も嫌いではない。こういう レア に自分はどこか惹かれるきらいがある。フィルムカメラだってそうだ。今時、デジタルが主流の中で、現像までは「写真」にさえならないそれは、何とも言い難い奥深さ、奥ゆかしさがあって、ついその内奥まで突き進みたくなってしまう。しかし時代からすれば圧倒的淘汰第一候補。そんな中でも俺の我儘を受け入れ、猫の専門誌に毎月裏表紙として採用をし続けてくれている瀧川さんは相当寛大な人だ。感謝、という言葉では逆に失礼ではないかとさえ思う。

でも、ときたま思うこともある。どうして自分はここまで色々と拘るのか。これという理由も、本当は確度を持って言えないのに。

「んー…あー…」

凝りに凝った背筋を伸ばして時計を見遣る。…正午。あばらの出た自分の下腹部に、少しの空腹を覚えた。勢いの良い春の風が六畳間をガタガタと揺らす。すると薄いつづら荘は金属音を出して揺れる。

…これは外に出たら…間違いなく、死ぬ。

どうしようか。これは困ったことになった。外には出れない、しかし小腹は空いた。出前を頼もうか、最近近所にできたピザ屋のチラシが入っていたはずだ。…あ、でも今日本当は瀧川さんから貰う予定だった月賦は、勿論のこと、手元には無い。…ならば……諦めるか。



そう決めて、ペットボトルの水を取り出そうと冷蔵庫に手を掛けたとき、そこにそれはあった。麦茶の入ったジャーの対面。茶色のそれはカレーライスだろう。丁寧にラップで綴じられている。少し、体温が上がった気がした。何とも言えない謝意がここにも生まれる。

数秒それに思索し、平皿いっぱいに盛られていたそれをそおっと取り出して、レンジに掛ける。

「いただきます」

もくもくと湯気を立てて、香ばしいスパイスの香が鼻をくすぐる。一口含むと、正直何の味かは分からなかった。最初に当たったのは何故か短冊切りのじゃが芋、合挽きの挽肉、そして…ちくわ…?もきゅもきゅとした歯触りが脳に反芻される。ただ…旨い。きっと冷蔵庫の住人達の総処分だったのだろう。それにしても、豪快なのに大味でないのは何なのだろうか。空いていた小腹は一気に埋まり、少しの安堵に包まれた。「彼女」の作る料理は大体いつも、多い。自分は決して少食な部類では無いと思うけれど、大抵七分目できつくなってくる。世の中には「ありがた迷惑」という言葉があるが、それは「彼女」のちょっとした心遣いなのだ。決して口には出さないが、そのことを今は知っている。



 *



「先輩、大丈夫ですか?」

「あっごめんごめん、大丈夫」

金曜日の昼下がり。お客様には見えない裏の倉庫でせっせと本の整理を続ける。まさにバックヤード。東京駅に来たついでのサラリーマンも疎らになって、少し落ち着いていた。この時間帯は遅い昼休みのOLさんがちらほら見えるくらいだ。

「そういえば、先輩って、彼氏いましたか?」

「…ん?」

急に脈絡無く突拍子もない事を言い出すのは「しずちゃん」。二〇歳、大学生。丸眼鏡がトレードマークの、同僚兼この職場唯一の話し相手だった。

「いや、先輩最近ぼうっとしてること、多いじゃないですか。まるで恋する乙女みたいに」

…多分、それは違うと思う。ただ単にぼうっとしてるだけで、そういう訳では無いのだけど。

「そうですかー?…まあ、そうだと思いましたよ!」

この娘こはかなり図太い所がある。ただ、憎めない子だからなかなかに可愛がっているのだけど。

「じゃあしずちゃんは?大学の彼氏とはまだ続いているんだっけ?」

「あー、まー、お陰様で…えへへ」

そんな丸眼鏡は大照れしながら、髪先を人差し指でなぞる。彼女には大学に彼氏が居るようで、何だかんだまだ続いているようだった。その二人の浮いたり沈んだりする様子を大人顔で静聴するのも、この昼下がりの名物みたくなっている。

「あ、でも先輩ってやっぱ彼氏いますよね!」

「んー?どうして?」

私は話を右から左に流して、手はひたすら本をなぞる。

「ふふふ、先輩の水筒ですよ」

〈迷〉探偵はおさげをゆさゆさ揺らしながら、嬉々として私に詰め寄ってきた。

「先輩、いっつも麦茶ですよね。水筒の中身」

「あぁ、そうだけど…」

「麦茶って、普通作っても一人で飲み切るのってきついじゃないですか。でも先輩は欠かせず毎日、そう冬でもあっためて麦茶持ってきてましたよね。だから、これは同居人がいる若しくはよっぽどの麦茶フリークなんじゃないかなあって!」

…ん?うーん…同居人って言ったって、家族かもしれないでしょ?とツッコミはせずそのまま黙々と手を動かす。

「彼氏、なのかねえ…」

そういえば、同居人の「彼」は何なのだろうか。いや、何なんだろうっていうのは何か変だけど、どういう説明書きが付くのだろう。彼女に説明するならば、どういう説明が適切なのだろう。あんまり考えたことがなかった。というか寧ろこの問いから何となく逃げていた気がする。昔は言えた答えが、出てこない。付き合ってる、と言われれば付き合っているのだろう。恋人かと聞かれれば、恋人だと答えるのだろう。でも、そこですぱっと言葉に出来ない私がいる。性別、男。年齢、三十手前。親密度、それなり。関係性…、ならば、「恋人」? …何かが違う。それだけでは埋めきれない何かを、私は感じている。

「先輩、異性の同居人で、お互い独り身で、恋愛関係じゃ無いなんてこと有ります?」

「どうだろうねぇ…。すぱっと何でも定義づけ出来る訳じゃないんじゃないかな…。」

身にも合わない言葉が口を突いて出てくる。珍しいな。でも、何でもかんでも定義づけ出来る訳じゃないんだろう、この世界は。

「慣れ、って怖いよ」

「慣れ…ですか?」

「うん。きっと世間的にはよくある事だろうけど。例えば新鮮さが無くなるとか、昔のようにときめかなくなる、とか。」

「へ?」

「そういう事を感じているうちはまだ良いんだろうな。それを通り過ぎると、いつの間にか戻れなくなっている。ただ時に飲まれて、生きている。そして、分からなくなる。時は流れるもの。」

「うーん……難しいです……ごめんなさい!ギブです!」

多分、この子には分からないんだろうなーといつの間にか澄ました大人顔をしている自分がいる。褒められたもんじゃないけど。でも、同時に彼女もいつか私と同じような気持ちになることがあるのだろうかと不安になる。そして、しずちゃんの今後を密かに祈る自分もいる。自分の事は棚に上げといて。

「ほら、品出しいくよ」

「はーい」

明日はきっと家族連れにシニアのお客さんも増える。東京のど真ん中で働くって、そういう事だ。



 *



「あれあんちゃん、今日は奥さんに締め出されたの?」

「え?違いますよ。ていうか、奥さんじゃないですよ。そもそも」

小洒落たジャズが流れる店内は、朝が早いお年寄り達でいくらか席が埋まっている。ゲートボールのスティックで更に席は埋まる。その足元を這うように滑り抜けるグレーの猫。その名をミーちゃん。ここ『喫茶白鳥』の看板猫だ。小川町から徒歩五分のところにあるこの店は昔ながらの喫茶で、御年八十三のマスターが切り盛りしている。「朝飯抜き」の時は、ここのモーニングにありつくのがルーティンだった。

「そうかいそうかい。でも、もう何年淡路町に住んでるんだい?長くなるだろう」

「もうすぐ五年…ですかね」

「ん?」

この何年かの間にも、マスターの耳はどんどん遠くなり、動きは少しぎこちなくなった。初めてここに来たのは五年前の春、そう今頃。猫好きの間では少し有名なこの店は、元々気にはなっていたが、入ってみると更に気に入った。流れる時間が、よりゆっくりに感じられて、世間の喧騒から逃れられる。

「あ、今日はあれなんですよ。何か後輩と劇観に行くって」

「ほー。それで朝飯抜きになって、ここに来たってか」

「そんな感じです」

「彼女」は朝から何処かに出掛けていった。何処に行くのかは聞いていない。食卓の上に置いてあったチケットから知った事だ。徐に、手元の手帳をパラパラと捲ってみると、見渡す限りの白紙が広がっている。自分に何も予定は無い。

「でもあんちゃんも、もう三十になるんだろう?そろそろ、とか思わないの?」

ピッチャーを掲げてコーヒーを注ぎ入れるマスターは、器用にもその最中にこちらに話しかけてくる。

「ああ…」

三十になったら身を固める、確かにそうなのかもなとは思う。マスターの年代からしたら、二十七の俺でも既に遅いってことなのだろう。学生の頃、付き合っていた彼女に「将来結婚できたら良いね」と言われた事を思い出す。もうすぐ手が届きそうでありながら大人未満の、あの頃の俺達は、その言葉を夢と理想の象徴として妄想を描いていた。しかし社会人になると、そういう訳ではいられないということが分かった。いつの間にか。理想と現実の狭間に立って、達観していた。まあ、前提として俺が社会人を名乗っていいのかは自信が無い。

「…良いもんですか?それって。」

一瞬の静寂と共に、漆黒の一滴がコーヒーカップに落ちる。

「んー?どうしたよ急に」

「え、いやー聞いてみたいなと思って」

マスターはそうかと呟いて、一度裏に入っていった。そして持ち帰ってきたのは、朽ちた写真立てだった。

「かみさんだよ。亡くなった」

少し埃がかったその写真は、年月を感じさせる褪せたセピア色をしていた。モノトーンの世界に閉じ込められているのは、恐らく若い頃のマスターとその奥さんだろう。写真館で撮ったもののようだった。

「今と違って、恋愛で娶るなんてなかったからね。見合いだったんだよ。それも親だけのね」

「…」

「…それだから、かみさんと初めて会ったのは、婚礼の日。白化粧が初対面だった。」

山形の農家の家に生まれたマスターは、そのお見合いで奥さんと結ばれ、その後三人の子宝に恵まれたという。今からしたら異文化に思える、その見合い。何も知らない赤の他人と明日から家族になる、というのにはやはり抵抗感を覚える。

「でもね、良かったよ。あいつと出会って。」

「そうですか。喧嘩とか無かったんですか?」

「はは、そりゃ、何も知らない同士だから、食の好みに始まって、色々な事で当初は揉めたよ。だけど、時間が経つうちに、無くなってるんだよ。そんな蟠りは。」

そんなものなのか…。ふーんと返事を返しつつ、何回か自分の言葉で考えてみる。でも経験値が足らず、雲を掴むようにその答えは消えていく。

「…秘訣は何だったんですか。円満の。今の自分には、いまいち想像できなくて。」

「へへっ、よく言うよ。」

「そうですか?」

「うーん…まあ、慣れじゃないの」

「慣れ、ですか」

「そうよ、慣れ慣れ。」

慣れで五年目。何の変化も無く、今年も千鳥ヶ淵の桜の満開予報が伝えられた。ふと、マスターのセピア写真と、まっさらな手帳を見比べる。同じ「慣れ」でも何が違うんだろなと自分に冷笑してみる。

「ただね、早くに亡くなっちゃったよ。癌だった。」

「え、そうだったんですか…」

「それで白鳥も一人で回すようになって。そこで初めてかみさんの大切さを思い知らされたよ。それでもって毎朝、この写真に手を合わせる。へへっ薄情なもんだよな」

マスターは軽口を叩くけれど、その口元は淋しさを顕わしている。何も噛みしめることなく悠々と流される自分は、幾らか自由で幸せかもしれない。でも、俺はまだマスターの知っているものを知らない。そう、その思いを。それが違うのだ。

「だから、その手帳、奥さんと埋めなよ?」

唐突にマスターが言う。「ん?」と返すように聞こえないふりをしつつ、俺は逃げるように淹れたてのブラックを一口啜った。俺には、まだ早い。





レバニラ炒めをじっと見つめて、ため息をつく。なんでかは分からないけど。伸びた日も暮れて、外では車とバイクの喧騒が聞こえる。そのざわめきが静謐な一室に虚しく響く。一膳の箸と、椀。「彼」は何処かに行っていてまだ帰ってきていない。二十七歳、三十路。今日はそういえば、誕生日だった。そういえば。

今朝の「彼」も、何も変わらなかった。いつものように六時に起きたら既に外に出ていて。少し早くカメラを携えて帰ってきたかと思うと、何も言わず納豆を食べ始めた。テレビでは二十四節季の豆知識が披露される。そう、毎年この日の朝はこれだった。お天気お姉さんが、春めいた服装でほぼ去年と変わらぬ原稿を読んでいる。慣れた光景。ふと、「彼」を見る。黙々と納豆を食べている。それ以外は何も無かった。

知らず知らずのうちに、年を取っていて、少しずつ化粧が薄くなっていく。レバーなんて求めるのも、いつからだっただろう。ロースが食べられなくなるなんて、大人の「見栄」だと思ってたけど、ヒレに寄っていく自分がいる。夕闇の階下の路地を、野良猫がゆったり歩いていく。手元のスポンジはせわしなく動く。私もそのうち誰かと結婚して、子供を産んで、専業主婦にでもなるんだろうな、なんてあの頃は漠然と描いていた。でもそのうち、そんな当たり前のような道程は、案外無い物だってことに気付いた。そんな道から逸れた私。また一歳、年を取っちゃった私。誰かに使われるべき私のレバーも、段々年を取っていく。

「このままでいいの?」

私の友人は、会う度にこの質問をしてくる。旦那の話、子供の話、そしてこの質問。「さあね」と答えると、呆れをなしてその友人はまた周回を繰り返した。この質問を自問自答する時、私は「考えない方が健康的」という答えを導き出す。思考放棄。ロースと共に、色々置いてきたのだろう。私は。



「ただいま」と、突然後ろから声がした。「彼」が帰ってきた。「おかえり」と、私もスポンジを見ながら声を無気力に飛ばす。いつも通り。何も。「いってらっしゃい」も、「おかえり」も、システマチックに、無機質に口を突いて出てくるようになった。わざとじゃ無いけれど。

じっと食卓の傍に立つ「彼」を見つめる。くしゃくしゃのカーキのジャケットを椅子に掛けて、ふとこちらに顔を向けてくる。その顔には何故か土が付いている。今日もきっと猫と戯れてきたのだろう。

「洗濯物、畳んどいたから」

「あぁ」

そう言い残して、洗面所に移る。そして、水が流れる音がする。「あぁ」か。花粉由来のくしゃみを一つ。また台所に戻ってきて、椅子に座る。

「あ、瀧川さんから封書届いてた」

ラップを取って、卓上のレバニラを当たり前に食べ出した。何も話すことは思い浮かばない。喧騒がまた部屋に響き出す。詰まった時間。無。

「今日もタクの所行ってたの?」

「まあ」

「…そっか」

椅子に足を乗せて、膝を抱いていた。その視線はゴールデンが流れるテレビに向いている。でも興味なさげにすぐにレバーへと目を落とす。

「白鳥の前通ったとき、ミーちゃんが外出ててさ、ひなたで気持ちよさそうにしてた。」

「そう。今日暖かかったからね」

このままでいいの?と聞く友人は、あながち間違っていないのかもしれない。それぞれが単発的に、日々を営む。この六畳間の空気を吸って、ただ吐く。何も貯まらなくても、時は先へ進む。この日々が、この時間が、あと幾らか伸びていくうちに私も少しずつ残り時間が削られていく。それで良いのか、それが良いのか。その延々の周回の中でまた、時は勝手に進んでいく。何か一言言い出したら。もし、一言、言い出したとしたら。そんな逡巡も、浮かんでは消えて。でも、本当にそうなったら。何かが、動き始めるのかもしれない。

「これ」

頭を横に静かに振って風呂に立とうとした時、「彼」の方からビニール袋の擦れる音がした。そのまますっとコンビニの袋が突き出される。「どうぞ」と「彼」は呟いた。

正直、何のことやらさっぱり分からなかった。

二人の間の沈黙が起きて、何とも言えない気持ちが心の中に広がる。

白い透けの向こうから、「ケーキ」の文字が見える。

期待していなかったそれに、また私の心は少し揺れる。何とも言えない気持ち。本当は期待していたくせに。去年は何も音沙汰は無かったし、今朝もそんな素振りは見えなかった。

「私に?」と聞くと、「…まあ」と虚ろ気に「彼」は返事をした。「食べる?」と彼が聞いてくると、「まあ。」と私は答えた。



無味な空間に、白いクリームの付いたプラスチックの蓋と、赤い苺の一人用ドームケーキがぽつんとしている。

「半分、要る?」

「いいよ別に」

伏し目がちの彼に、厚かましく小皿に分けた半分をやる。ごく普通の、苺のケーキ。生クリームと、苺のソースと、スポンジ生地。端から縦に、フォークで割く。なんでコンビニのケーキ、と落ち着き払って達観する自分がいる。

…でも、嬉しかった。顔は平静でも、奥底では、温かかった。

「なんで、急に?」

最後の一口を口に放り込んだ時にふと聞くと、「彼」は少し目を流して「いや、別に」と答えた。よく分からないところが彼らしいと思った。それが、「彼」だった。

「ありがとう」

生クリームが擦り込まれたフォークを舐めきる。

「どういたしまして」

蓋についたクリームをこそいで、私は少し笑っていた。



 *



役終わりのコンドームをじっと見つめて、ふと息をつく。夜明け位から降り出した雨が、六畳間の窓を打つ。東の方から鬱陶しい灰雲が流れついてくるのが、その窓越しに見えた。春の天気は変わりやすい。彼女は、すぐ隣で寝ている。何事も無かったかのように。 液溜めの中には、白濁したそれが静かに漂っている。



撮影帰り、俺は近くのコンビニで陳列棚の前に突っ立っていた。「テリーヌショコラ」、「ダブルクリームのカスタード&ホイップシュー」「もっちりみたらし団子」…最近のコンビニは色々あるんだな。表面的には統一されたラッピング、その下でそれぞれが色華やかに冷やされている。凝視する。彼女は、何が好きだろうか。洋菓子か、和菓子か。税抜き価格を見て、ポケットの中の小銭に何度も触れる自分は、情けなかった。

去年の今日、確か俺は本当に忘れていたんだと思う。悪気とか、心が離れたとかどうとかでは無くて、忘れていた。その頃は色々とぱっとしなかった時期で、大体家に居るのが辛くなって、東京の北の方をふらふらしていた。その翌日、昨日が誕生日だったという事を思い出した。何を言い出そうと言い訳になってしまうから、躊躇して無言のまま春を終えた。ただ、自分が傷つきたくなかった。

春の晴れ間のように、幸せを感じる時は、すぐに何かとすり替わってゆく。このままでいい、このままがいいと思っても、これで良いのか?という不安定がすぐに顔を出す。でも、今の自分の無力さが分かっていたから、ここで何か言い出すのは、動輪を押してみるのは、無意味だと決めつけて背を向けた。それがしたかったんじゃない。ただ、それが一番良かったんだと思う。その時は。

六畳間の薄暗の中で、静かに座っている。自分の中で、日々作られて、性衝動に駆られて出てくる、数億個のコイツらは、ゴムの中で息をする。その蒼茫たるアタマで、ゴムに封じられたそれの存在意義に考えを遣る。人の目には見えないけれど、繋いでいくそれ。その全ての役目をゴムという無機質に剝ぎ取られて、何で居るのだろうか。存在しているのだろうか。

「何考えてんだ」

賢者の時間に加えて余計な脱力感に襲われた。下はとっくに萎えきっていた。



洗面所の小窓には、外の水滴が垂れていく。足元もまだ冬の空気を残して、指から冷えていく。そのサッシの所にあるタッパーへ鋏を入れる。豆苗がまた輪廻して、貪るように伸びていた。一本一本丁寧に切り込む。何度も使い込まれて、だいぶ細くなった新芽を見て、こんなのまで喜んで食べる人間は残酷かもしれないとさえ思う。

「おはよう」

少し髪の崩れた彼女が起きてきた。休日なのに、六時きっかりに起きている。

化粧っ気のない、その素朴な肌を横目で見つめる。素直に、綺麗だと思う。何?と言わんばかりにこちらに向けてくる視線を一度は捉えるも、何処かに飛ばしてしまう。無機な時間が流れている。

「朝、適当で良い?」

「うん」

そう言って彼女は、狭い台所に立った。空いた冷蔵庫から何かを取り出して、小刻みな包丁の音が冷えた空気を鳴らす。その後ろ姿は見慣れたようでいて、久々に見たような気もした。無心に、ただ見つめる。雨は暫く止まないらしい。

「はい」と言って、彼女は皿を差し出した。まだ黄身の明るい、目玉焼きだった。

「いただきます。」

箸で縦に割くと、熱い卵の汁が真っ白な皿の上を流れていく。

「どう?」

納豆を片手に彼女が聞いてくる。



 半熟、だな。



きっと彼女は忘れていたのだろう。そして、俺も何も言わない。

無駄に迸る卵と、隅のゴミ箱に捨てられた白い汁つゆ。

繋がったようでいて、まだ君は遠い。君と俺の、コトバとカラダは一致しない。



 *



まどろみの中で、夢を見ていた。そよ風のように頭の中を駆けていって、すぐに消えてしまう泡沫の夢だった。



あれは、確か初春の頃。まだ冬の寒さが底に伸びていく中、大学の友人に『五美大展』という美術大の合同展に誘われた。一応就職も決まった折何処か落ち着いて、淡々な日々が流れていたから、気晴らしにでもなればと思ってその誘いに乗ったのだ。

真っ白い壁で三方が囲われたギャラリーには、ある美大の写真学科の作品が綺麗に並んでいた。他の分かり易い造形美術や絵画に比べて、そのエリアは人が疎らでどこか物寂しかったのを覚えていた。

私は、右の端から順々にその写真たちを眺めていく。誘った張本人である友人は既に隣の部屋に移っていたので、一人でじっと何かを見い出そうとした。どの写真も、エフェクトが掛かっているような、そんな写真だった。「一瞬を切り取りました」という文句が付いてそうで、気取った感じがした。こういう芸術の世界には造詣が無い自分だったから、おこがましいなと気後れしつつ、左へ、左へ、移っていく。白い壁と、黒い額縁と、明朝体のタイトル。その無機質さが足音を響かせる。

『ビードロ』というタイトルの写真があった。その前で私は自ずと足を止めていた。どこかの砂地に立てられたラムネのガラス瓶と、三毛猫。その瓶の中にはまだビー玉が残っていて、その猫が覗くようにしている写真だった。時間の幅を感じた。その陽気を感じた。

「…うわあ…」と思わず声に出していたのだろう。不意に、男性の声がした。

「それ、実は自分が撮ったんですよ」

その男性はくしゃっとした頭に変に長いシャツという、いかにも芸術家といった格好をしていた。その前髪の間から、黒い、透き通った瞳が覗いている。

「あ、そうなんですね。すみません、ついじろじろ見てしまって」

「あーいえいえ、こちらこそお邪魔しちゃってごめんなさい」

「彼」は、か細い透った声で話した。何とか場を持たせようと、「素敵な写真ですね」と私は返した。

「そうですよね、可愛いですよねこの猫。」

「え?」

「あぁ、いや、猫、可愛いじゃないですか。」

「あ、あぁ」

「だから、それを撮りたいなって。そう思っただけなんですよね。ま、同期の他の写真に比べて浮いてるとは思いますけど」

「いや、私は好きですよ。この写真。雰囲気が伝わってきて。」

私の褒め言葉に不意を突かれたらしく、その顔は黒目を大きく見開いていた。これが彼との最初の出会いだった。

「猫だって、ビー玉、取りたいんですよね。ほら、子供の頃取りたかったでしょ?だから、人間と同じなんですよ。動物だって。」

彼は、こんな広い思考の人で、暖かな人だった。そんな所に知らぬうちに惹かれたのだろう。



私はその後、千代田の外れに、大学のあった埼玉から引っ越した。絵に描いたような東京の街が見える、家賃三万の家。そのタイミングで彼との同棲が始まった。彼は卒業した後、バイトを転々としながら、フリーの写真家として何とか生計を立てていた。

最初は、五年も続くとは思っていなかっただろう。けれど、気が付けばそんなに経っていた。一日一日。彼と寝食を共にした日々。彼の好みが次第に分かっていくのは新鮮な感覚だったと今思い返せば思う。空気のような、時間が流れていった。あっという間。だけど、そこには一枚の写真も無い。





香りは、人の記憶を呼び醒ます。案外それは詳しくて、再び目にするよりも克明にその時の事、その時の景色を思い出させてくるものだ。目の前では、土鍋に入った淡麗なつゆがぐつぐつと煮立っている。



 この昆布の出汁の香り、あの時の。



三年前の、真冬の事だったろうか。出先から帰ってくる時にたまたま彼女とはたと出会った。隅田川の河川敷は冬枯れで、白い息を吐きながら進むランナーしか居なかった。

「仕事終わり?」

「うん。そっちは?」

「また猫を撮りに。」

「そっか」

オレンジのタイルを踏みしめて、家路を辿る。両手をコートに突っ込んで、遠くに見えるスカイツリーを目で追いかけていた。

「寒いね」

「あぁ、寒いよ」

「冬だからね」

「まあね。」

会話も静かで、体がキリリと冷えた。

「冬が来て、ダウンを着ていると、またこのダウン出したんだなって思う。」

「え?」

「夏になると、まだ明るいお風呂場で、夏の夕方だなって思う。」

「どうした?急に」

「いやさ、その時々で、その季節で、これが夏だな冬だなっていう好きな瞬間があるけどさ」

「ほお」

「それと同時に、夏がまた来るんだな、とか、冬が来たら暗くなるんだなって、どこか淋しくなるんだよね」

最初は、彼女が何を言っているのか飲み込めず、よく分からなかった。けれど、その語り

が彼女らしくて、腑にも落ちた。自分の言葉になった。



古書店の間に溶け込むつづら荘が見えた。外のガスメーターがじりじりと数字を鳴らして

いる。

「あれ、あんたら!ちょっとちょっと!」

「あ、こんばんは」

「いやね、私の友達がネギくれたんだけどね、もう段ボールに三箱とか来ちゃってさー。私独りだし、食べ切れないから良かったら貰ってくんない?」

そう言う大家さんは答えを待たずにネギの段ボールを俺に押し付けた。そして寒い寒いと

言いながら、そそくさと自室に戻ってしまう。

「うわあ…こんなに。太くて立派なネギだよ。」

「本当だ」

少し泥の付いた段ボールの四隅まで、ぎっしりとネギが詰まっていた。こんなに大量のネ

ギ…とあ然としていると、「彼女」は意気揚々と部屋に上がり、白い手を凍みる水に浸けて

ネギの泥を取っていた。

「鍋にしようか」

「ネギを?全部?」

「そう」

たまに突飛な事を言い出すんだよなと思った。

「だって、冬が終わったら、鍋を食べたいって思わなくなるでしょ。それにネギも、夏になったら素麵の薬味になっちゃうし。」

「はあ」

ネギを、昆布だしと少しの味噌でくたくたになるまで煮込んだその「鍋」はお世辞にも

美味しいとは言えなかった。不味かったけれど、それはそれで良かった。

「不味いね」

「…そうだね。」

「まあ、冬は、味わえたか。」

「それは確かに」



その思い出が、香りと共に回顧した。寒い冬の日の記憶も、幾らか心地よくなって後に思

い出す。

「おい、聞いてる?」

ん、そうか。ここは冬のつづら荘ではない。

「あ、すみません」

「もう…大事な話なんだからさ」

俺は今、八重洲の鍋屋に居た。眼下には、ネギ、ではなくて、つみれがぐつぐつと煮立っ

ている。そして、瀧川さんが対面に座っていた。



 *



「で、大事な話って…」

「うん…それなんだけどね」

バックヤード。私が店長に呼ばれたのは、三月も終わりにかかる週末だった。

「申し訳ない。僕なりに色々頑張ってみたものの…君の期待には沿えなかった。」

その言葉で、店長が何を伝えたいのかはよく分かった。彼は言葉を濁しながら、精一杯に

皺を作って遥か一点を見つめている。



つまり、私はこの四月で契約が切れるということだ。



「ほら、最近景気が悪いでしょ?うちとしても人件費がねえ…」

言葉を選びつつ話すものの、歯切れが悪い。それなりに頑張ってみたけれど、上には逆

らえなかった、というところだろうか。何だか、寧ろこちらが申し訳ない気がしてくる。

「…本当に申し訳ない。」

自分を言いくるめるように反芻すると、少しずつ、その事実が染みわたってきた。

「いや、分かりました。本当にお世話になりました。」

そう笑顔で言って、頭を下げた。店長は、悪くない。この仕事に就いた当初から面倒をみ

てくれて、書店のイロハを教えてくれた。『優秀な人は逃がしちゃいけない』と言って何と

か契約を更新してくれるよう頼み続けてくれたのも店長だ。おかげで私は沢山の経験を積

むことが出来たし、上京してから今まで生きてこられた。

「ありがとうございました。」

そう微かに呟いて、私は夕方の業務に戻った。



「先輩…本当に居なくなっちゃうんですかー?」

しずちゃんがハイボールを片手に、涙目で私に訴えかけてくる。私が去る事を彼女に伝えると、送別会を勝手に開いてくれたのだった。

「ごめんね。私も、もっと居たい気持ちは山々なんだけどねぇ…」

「やっと仕事も覚えられて、これからってとこなのに…先輩からもっと色んな事、学びたかったですー!」

ぐじょぐじょになりながら話すしずちゃんを横目に、私はレモンサワーを流し込む。年収は二百万ほどだったけど、それでも生活にはそこまで困らなかったし、寧ろ慎ましい生活が性に合っていた。因みに「彼」は不定期収入だから、家計に入ってくる分はそこまで多くない。割合は明らかに私が大きい。

「これから、どうしようかな…」

晴れて、無職。それでも生活は続く。ものを食べれば、電気を点ければ、お風呂に入れば、おカネは無くなっていく。失業保険もそこまでの足しにはならない。本当にどうしようか。次の職場が見つかるまでは…。



彼はどうするんだろう。



定職に就く気はあるのだろうか。結局湧き出してくるこのモヤモヤ。色々なことに向き合うことを後回しにしてきた私。ツケに蓋をしていたのが解き放たれて、どうしようもない虚しさに襲われる。

「先輩、何か、すみません…」

「え? 何で?」

「いや、私、アルバイトなので…」

「知ってるよ。あなたは、あなたで頑張りな!ね?」

「はい!…うわあん…せんぱぃぃい」

「すみませーん、焼酎水割りで!」

「せんぱい、そんなのんでだいじょうぶなんですかあ?!」

「いいのいいの、ほら今日は私の奢りなんだから。」

「本当ですか⁈じゃあ私、芋焼酎でー!」

その後、女二人の酒盛りは日を越えるまで続いた。しずちゃんの彼氏の話に移ったのまでは覚えているが、その後は何も覚えていない。



東京駅の改札を千鳥足で抜けていくしずちゃんを遠目に見守って、私は日本橋口に向かった。不意に時間を確認しようとスマホを見てみると、珍しくLINEの通知が届いていた。



 【ちょっと、話したいことある 22:48】



私の送信だけが並んだ画面に、彼の吹き出しが突き出している。



春はせわしなく動く。何があるか分からない。





「でさ、そいつが、連載組んで欲しいって言ってるわけ。」

「…はい?」

目前にはもくもくと湯気が立ち昇る。瀧川さんから突然の呼び出しを受けて、今俺は似合

わない鍋屋に座っている。それでもって、何が起きているのか分からない。箸を持つ手が

止まる。

「この間、俺の元同僚で、今別の出版社に移った奴と久々に会ったんだけどね、お前の写真を見てさ急にそいつが騒ぎ出したんだよ。」

「え?あのタクの写真ですか?」

「あ、タクっていう名前なの?その猫。まあそれはいいや。それで、その猫がむちゃくちゃ珍しいとか何だかよ。俺にはよく分からなかったんだけど、その三毛猫、オスなんだって?そいつが言うには、三万分の一の確率でしかいないとか。」

「…え⁈そうなんですか⁈」

ガタンと音を立てて立ち上がってしまった。周囲の客が不審そうこちらを見る。

「あ、すいません…三毛猫のオスってそんなに少ないんですか…」

それなりに猫を今まで見てきたつもりだったけれど、そんなことはつゆ知らず。あのおじ

いさん、そんなに珍しいにゃんこだったとは。不覚にも、身に合わない大声を上げてしま

った。

「それでさ、その猫をそいつんとこの生活誌で取り上げたいんだと。お前が写真を撮って、何回かの連載にするってさ。」

「えぇ…本当ですか」

「いや正直さ、他社の利益になるようなこと、俺がやるのは良くないんだけどなあ。」

「ですよね…すみません」

確かに瀧川さんからすれば損な話だ。今も箸を右手でくるくるといじっている。

「でもお前、まだあのボロ家に住んでんだろ?」

「まあ、そうですね…」

「いい加減、彼女の脛齧ってないで、食わせてやれよ?」

「あ、それは…はい」

「な」

瀧川さんは、脂で照るおでこをおしぼりで擦るとつみれにかぶりついた。昼間から生も入

れている。俺はまだふわふわしていた。大学を出て、徒然に撮り続けた五年間。このあと

の将来設計も何も無く、いつかは、いつかは何か食い扶持を作らないといけないと思って

いたけれど、踏み出す気持ちがパンクしていた。何処かで、安心していたのかもしれない。

何もしないでも、生きていられるその環境に。

「で、どうする?受ける?」

箸にぶら下がる乾いた白菜を口に入れた。しなしなとして頼りない。今、この仕事を受ければ自分の「キャリア」とかいうのも立ってくるかもしれない。もう少し、まっとうな生活を送れるかもしれない。



「ああ、あの神社の猫?へえ…そんな珍しいもんだったのか」

「みたいですねぇ…」

四枚切りの分厚いトーストにかぶりつく。弾力のあるパンが歯を突き返す。あの後、どうも気が進まず、瀧川さんと店を出た後に唐突に空腹感が襲った。そのままふらふらと淡路町まで帰り、その足で白鳥に入ったのだった。

「ふーん。で、その仕事受けないのかい?」

「…迷ってるんですよね」

「ほーう、何か訳が有るのかな、あんちゃんは。」

「なんていうんですかねえ…うーん」

逃げるようにトーストをもう一口齧る。納豆佃煮トースト。それと絡むチーズが香ばしい。一見イレギュラーなメニューだけど、アバンギャルドなマリアージュが云々。そう昭和のマスターが銘打っている。

「なんか、自分、自分が撮りたいから写真撮ってるだけなんですよね。正直、それで食べていこうとかそういう風じゃなくて。」

「へぇ…幸せもんだねえ」

「まあ幸せ者ですよね。でも、自分が、そんな本当の写真家みたいなことしていいのかなあって思っちゃうんですよ。身の丈に合わないような気がして。」

端的に言ってしまえば、何も変えたくなかった。自分の平凡な日々が好きだったから。新たな仕事となれば、色々と制約が入って息苦しくなるような気がする。自分のやりたい事に限らず、安息できるその日々が消えてしまうような気がする。それはどうしても、気が進まなかった。確かに俺は、マスターの言うように「幸せもん」だろう。自分のお金では満足に食べられないのに、自分の生きる道を優先したがる。日々を変えたくないという理由で、身を立たせることから逃げる。…どうしたらいいのか分からない。ごねることが、自分の存在証明のような気すらした。

「幸運ってのはさ、」

「はい?」

「幸運ってのは、巡り廻るもの。自分の番に掴まないと、次は誰かの所に行くんだよ。」

コーヒーのフィルターの上で、円を描くように注ぎながらマスターは語る。

「案外、掴んでみても良いんじゃない?その仕事。」

「…そうですかね」

分からない。けれど不意に彼女の顔が浮かんだ。彼女なら何と言うのだろう。それが気になった。今まで世話になり過ぎた自分に、一大事を決める自信が無かったのかもしれない。もちろん、負い目はあった。



 *



まだ奥の六畳間で寝ている彼を気遣って、消音でテレビを点ける。いつも見ているニュースのキャスターが変わっている。新年度の編成変更で、見慣れた女子アナは夜のニュースに移ったと聞いた。朝日が薄く差し込む食卓の上には、青色のJRの乗車券がある。【東京→名古屋】。あの日、五美大展に一緒に行った友人が地元で結婚した。それに伴って春先にうちにもラグジュアリーな招待状が届いたのだった。

アラサーに足が掛かるにつれて、身の回りの友人もちらほらと苗字を変えていっている。

来る招待状には大体社交辞令の添文を付けて、返送した。もちろん、仕事で休みが土日

に限らないという特殊な事情もあったのだが。そんな中で名古屋までは往復二万円。宿代、

洋服代、ご祝儀…と更に出費が嵩むこのイベントに「ご欠席」としなかったのは、何とな

くだった。足代と宿代は出してくれるという事に少し安心したのもあったが、勿論その友

人とは親しかったというのもある。

彼の話は聞いた。彼が、どこかの雑誌の人にスカウトされて、写真の連載をオファーされているということ。タクが珍しい猫だったということ。そして、彼はそのオファーを受けるかどうか悩んでいるということ。彼なりに、色々と悩んでいる事は分かった。ただ、目が輝いていた。楽しそうな目をしていた。久しぶりに見たその目が、私には眩しすぎた。

私の失職は、彼にはまだ伝えられていない。あれから一週間と少し。自分の中の道は二つ。とりあえず、糊口をしのぐ為に手っ取り早い仕事を見つけるか、自分の「キャリア」を見つめ直すか。この非正規生活を脱するなら、もっと資格を付けた方がいいのかもしれない。

手元の招待状を見やる。六畳間からは健やかな寝息が聞こえる。もう時間だ。

『明日には帰ります』

そうメモ書きを食卓に置いた。



「また流れてるねー」

人気のブライダルソングが華を添える。少し恰好を整えた私の隣には、いつも「そのままでいいの?」と聞く友人が、フォアグラに手をつけていた。披露宴が始まって、小一時間。会場の華やぎはまだ落ちない。

「そうだねえ。ほら、ミカ、この曲好きだったし。」

「そうだけどさぁ…。あ、こら綾音、お洋服汚しちゃいけないでしょ!」

一人娘の粗相を慣れたように扱う彼女はすっかり母が板についている。学生の頃を思い出せば、意外な気持ちだ。「まさかあんたが母になるなんて」のセリフ通り。自分はどこか澄まして、その様子を見守る。場違い感が否めない。

「まあ、折角のミカの披露宴なんだし、さ?」

「うーん…でも私はやっぱ嫌いだなあ」

一瞬、同じ卓の招待客にも冷えた空気が走る。相変わらずの毒舌ぶりだ。

「あんたさ、結婚式が世間一般でなんて言われてるか知ってる?」

「いや知らないけど」

周囲の目を気にして、私はこそこそと相槌を打つ。

「人生の墓場。」

体感温度が一度下がった。彼女はにやりとして、肉付きの良いその薬指に光る指輪をよそに耳打ちをしてくる。

「結婚をする。幸せだと思い込む。虚像だと分かる。結婚しなければ良かったと思う。別れる。の無限ループ。まあ、人は死ぬから有限だけどね笑」

また客がこちらに顔を向けた。小さく会釈して彼女を小突く。こんな所で何言ってるの、と少し気に障ったが、その妙な説得力に無視もしていられない。

「…でも、旦那さんと何だかんだ言って仲良いんでしょ?」

「えーまあーそうかも」

「結婚してよかった?」

「うーん…そうかも。えへ」

何なんだか。旦那の愚痴を言ったり、「専業主婦もさぁ」とくだを巻く彼女も、案外そんな自分が気に入っているのかもしれない。まんざらでもないようだし。



「ミカ、おめでとう」

「ありがとうー!ごめんねー名古屋遠かったでしょー?」

「ううん。久々に新幹線乗ったよ」

披露宴が終わり、二次会に移った。人が幾らか抜けて疎らになった会場で、忙しい新婦を何とか捕まえたのだった。

「そっちが先だったか」

「あーそうなったねぇ。あ、そっちはどうなの?まだあの写真家と?」

「さあねえ。私は別にまだだよ。」

分かり易く、言葉を濁す。流石に何か察したか、彼女はそれ以上聞かなかった。大学の時も美人で羨ましかったけど、増して綺麗になった彼女。幸せオーラに溢れている。こんな幸せって分かり易いものなのだろうか。

「今は幸せかもしれないけど、愛なんて冷めるもんだからねー?」

「ちょっと、新婦に何言ってんのよー」

綾音ちゃんを引き連れて、お酒の入った熟練妻がくだをまいてくる。

「ねさ、あんたは何で結婚決めたの?」

「は?どうしたのよ急に。」

「いやだって、惚気話聞いたって面白くないじゃない」

突然の質問に、ミカは驚きながらも、素直に考えていた。

「この人になら、自分の全てを委ねてもいいと思ったからかな。」

「…あんた、立派だわ」

すっと空気が締まる。周りもあっけにとられていた。ただ、へえ…と溢す自分には、まだおぼろげだった。



隣のサラリーマンの鼾を聞きながら、窓から暗闇を眺める。もう、静岡だろうか。結局二次会を早めにお暇して、良いお宿も蹴ることにした。新婦にあの友人が「妻の何たるや」を熱伝していたので、酔いも一気に醒めたのだ。名古屋駅で衝動買いした味噌カツ弁当を黙々と食べ続ける。レンタルの式服から解き放たれて、ラフな恰好に戻った。それと対照的な派手なグロスが割り箸に付く。

「人生の墓場、か。」

何か、東京に帰りたくなった。つづら荘の温かな空気に帰りたかった。「彼」と話がしたかった。ちゃんと話そうと思った。

だから今、東京行の終電に揺られている。



 *



「あ、ここか。」

その日俺は市ヶ谷にいた。小川町から新宿線で西に行くという手間を掛けてここに来たのは、個展の知らせを貰ったからだった。



 水引について 濱田ユウ



シンプルな葉書の裏には、黒いペン字でそれだけが書かれていて、後は住所が端に載っているだけだった。それを見た自分は思わずにやけた。こいつはいつの間に、こんな立派な芸術家気取りになったのだろうと。この濱田、というのは俺の同級生だ。学部も学科も違うものの、何かの機会で出会ったのだったと思う。あまり詳しくは覚えていない。在学当時はなかなかに変わった奴だった。いつも無精髭を生やし、ウエストポーチを真ん前に着ける。何を考えているのかも分からなかったし、自由奔放に動き回っていてせわしなかった。ただ、自分の好きなものに対しては人一倍熱くて、俺はそこに人間味を感じていたのだった。暫く会ってはいなかったが、この葉書がつづら荘に届いた時、「いつから名前カタカナにしたんだよ」と呟いて、赴く事に決めたのだ。



 【アトリエsans fin こちら】



防衛省の隣で物騒だと思った。坂ばかりの町の片隅でそう書かれた看板を見つけると、シックなガラス張りのギャラリーが現れた。中にはちらほらと女性客が入っている。

「よ、久しぶりだな」

不意に声のする方向を振り向くと、白無地のエプロンを着けた濱田そのものが其処に立っていた。ふくよかだった顔がすっきりして、見栄えも明るい。

「ご無沙汰だな。だいぶ女の子入ってるじゃん」

「うるせえな。まあ、見てけよ。」

裸電球の吊るされた室内には、至る所に彼の作品が並んでいて、壁にかかっていたりもした。

「お前、まだコレやってんだ」

「えあ?水引?まあね。だって、楽しいし。」

水引、というのはご祝儀袋とかに載せられている、ソレだが、正式には「水引細工」といい、「水引」は和紙で作った帯紐、つまり素材のことを指すらしい。これは当時からずっと彼が主張していることでもあった。

「だって、未だに細工の事を水引だって思ってる人がいるんだぜ?まだまだだよ。」

やはり。予想通りに熱弁をふるう。彼の卒業制作も、やはり水引を使ったものだった。その後もそれを続けているとは聞いていたけれど、ここまで洗練された作品に昇華しているのは意外で、正直あっけにとられていた。

「こら、お客さんもいるんだから」

奥から小柄な女性が出てくる。何年も会っていないので面影はおぼろげだったが、確かに濱田の奥さんだった。

「久しぶりですね。お元気でしたか」

「まあ、それなりにぼちぼち。」

ふわっとした香りのする彼女も、俺と同い年だった。あの頃からずっと濱田に添っていたその人だ。

「あれ、おなか…」

「ん、ああそうなんだよ。ようやく安定期入ったところでさあ。もう大変だったわ」

「あんたは何もしてないでしょう?」

旦那の嬉しそうな顔を横目に、妻は微笑みながらグーでそいつを突く。少し大きくなっているお腹をさするその手はすっかり母の手をしていた。まさかいつの間に、子供が倍増しているとは。確か23で初めて生まれて、お祝いをしたから、それから五年程で三人も増えたのか。

「まあ、一番はかみさんの身体だからさ。俺に代わって生んでくれるんだし。」

柄にもない事を言うコイツに精一杯の冷笑を送る。

「俺には分からないよ。惚気るなら他所でやってくれよ」

「ごめんねー。ホントにもう!」

濱田が彼女に鳩尾を入れられるのを見ていると、三人の子供が列になって走りこんできた。俺の周りでどういう訳か飛び跳ねている。

「パパーこのお兄さんだれー?」

「パパの友達だよ。赤ちゃんの頃会ってんだぞ?ほら、挨拶しな」

「こんにちは」

三人揃って大合唱と綺麗なお辞儀。一番大きいその女の子は、何時しか会ったその面影があった。

「えーと、なつ美ちゃんだろ?…で?」

「あ、そりゃ知らねえよな。ご存知長女のなつ美、次小一。長男の紘。年中。次女の香帆、三歳。で、あとお腹の中にも居ると。」

お揃いのシャツを着て、ちびっ子三人が横にならんでこちらを凝視してくる。子供は苦手

ではないけれど、その圧に少したじろいでしまった。



「お前は、まだフィルム続けてんのか?」

日が暮れてから、濱田は俺を飲みに誘った。とはいえ、おカネはカツカツのようでチェー

ンの居酒屋の飲み放題で済まされたのだった。

「まあ、ね。ぼちぼち。」

「ふーん、そうか。」

枝豆の房を、塩分を吸い取るようにただしゃぶる。久々に食べたから塩辛く感じた。

「お前も大変じゃないの?子供四人いて。」

「えー、まあなー。ていうか、今度双子だしな。」

「は?」

濱田はにやりと、こちらに視線を向けてくる。まんざらでもないようだ。

「じゃあそれこそ大変だろ?」

「まあ、奥さんには面倒掛けてるよな。家計にも少し、入れてもらってる訳だしな。」

「だろ?」

俺は薄いビールを喉に淹れた。他人事を突くのはまあまあ愉しい。

「でもな、お前だって分かるだろ?」

「何がだよ」

急に真剣な面持ちになって、その男は机を人差し指で小突き始める、

「結局、やめられねえんだよ。芸術の道は。」

キメ顔でこちらを見てくるのが少し癪だったが、不意に「そうだよなぁ」と呟いてしまう。

「そりゃ、芸術で食ってけねえよ。でもよ、この界隈に足踏み入れた以上、もう抜け出せねえんだよな。山手線乗って、会社でパソコン打ってるのとは違う世界を見てるんだっていう自負もあるし、何せこっちは、ゴールなんて無いからね。」

コイツの口癖は「芸術に、終わりはない」だったよな。耳にタコが出来る位聞いていた。

自分に満足したらそれ以上の事は表現出来ない、それが彼のモットーだった。

「だから、きっと、死ぬまで出来ないだろうけど、自分が満足する作品を創ってみたくて、つい続けちゃうんだよ。」

心の底から、その言葉が解った。幾らフィルムを消費しても納得のいく写真が撮れるまで

は、決して終われない。いつ来るか分からない、その「瞬間」に出逢う為に、毎日毎日フ

ァインダーを覗く。結局、俺もコイツと一緒だ。

「お前のアトリエの名前、『終わらない』って意味だろ?フランス語。」

「お、よく分かったな。自分への檄と、水引への愛情だよ。」

「そうか」

「貧しくても、幸せだよ。俺は。好きなことやれて、可愛い奥さんと、ちびっ子たちがいてよ。」

「ふっ、そうだな。」

「ああ」

「双子が生まれたら、お祝いまた遣らなきゃな。花結び、だろ?」

「よく知ってるな。そうだ。何度あっても良いお祝いは、花結び。一度きりで良い結婚はあわじ結び。て、これ以上子供増えたら困るけどな」

にかっと笑うコイツの顔は、あの時から何も変わらない。

「頑張れよ」

「お前も、まだ元気なんだろ?下は」

「ったく、下世話だな」

じゃあな、とまた何時かの邂逅を契って、それぞれの道へ歩き出す。心の充足感が、そっ

と温かくさせていた。

「お前も、頑張れよ!」

濱田は手を突き上げて、こちらを見ている。

「ああ。」

俺は単調にそう答えて、終わらない日々へとまた歩みを戻した。





四月に入ってから、少しが経った。幾らか暖かくなってきたものの、天気予報はぶらついたまんま。未だに冬物のコートをしまえないでいる。俺はというと、特には変わらない。何か変わったと言えば、花粉症の症状がだいぶ軽くなって、クスリ無しで外に気軽に出歩けるようになった位だ。それでも有難いは有難い。

彼女は、年度末が近づくにつれて帰ってくる時間が遅くなっていた。夕食もままならず、気が付けば家には居ないという生活がずっと続いている。それが何故なのかは知らなかったけれど、敢えてそこに立ち入る勇気は無かった。



漢達の声が反響する洗い場を前に、ぶくぶくと肩まで浸かる。白色のお湯がいつもと違ってどうも慣れない。そう、いつものシャワーに代わって久しぶりの湯船だ。

「ごめんねー今水道壊れちゃっててさー!」

そう大家の柴山さんが侘びてきたのは昨日の夜のことだ。いつものように深夜にシャワー

を浴びようと思い蛇口を捻ると、出るものが出てこない。次いで台所も捻ってみるも流れ

るものが流れない。そんなこんなで、つづら荘の向こうの『竹ノ湯』にいた。ビルの袂に

佇むレトロな出で立ち、雰囲気は東京下町の原風景という感じだ。自分自身もかなりの常

連で、『わ』の文字が書かれた木札を目印にここらの住民は汗を流しに来る。



足をいたずらに伸ばしたり、片腕を拭うようにしてみる。ああーと声を出してみる。気持

ちが良い。週末という事もあり、老人から父親に連れられた子供まで賑やかだ。湯船の真

上には、大きな富士山と松林が描かれている。ぼうっと眺めるも、この壁の向こうには「彼

女」が居る。それを思うと変な気持ちだ。



 *



「はあー」

意味もなく、声に出してみる。化粧の落ちた自分の肌をなぞって、少し落ち込む。ふくらはぎは痛いくらい張っていて、自分の徒労をそれで認める。仕事は、とりあえず決まった。四月からの食い扶持を何とか確保出来た。ただ、自分の自信が持てる結果だったかと問われると、分からない。自分のキャリアとか、この先。それを差し置いて、日々の暮らしを営む為の選択だった。



近所のおば様方で賑わう脱衣所は蒸し暑い。湯冷めせぬように手短に服を着て、小さなドライヤーをかける。こういう所に来ると、ついまだまだ若い女の子を見て「肌つやつやだな」とか「張りがあるなあ」とか羨ましがってしまうものだ。変に見られないように目を逸らしながら、鏡の前で、長髪を黒ゴムで一つに結んだ。

この春で、思い悩んだ事。色々あった。そのどれにも何らかの答えは出せてないし、納得はしてない。何かが変わるという兆しも無く、私の眼前には茫漠たる未来が横たわっている。そんな自分は弱いのかもしれない。駄目なのかもしれない。でも、何もそこから抜け出す手段は携えていない。



番頭台まで出ると、湯に濡れてストレートになった髪の「彼」がそこに立っていた。遠くからその立ち姿を眺めてみると不思議な感じがする。ただの、青年に見える。そこら辺に居るような。「長かったね」とぼそりと呟くから、私は「ごめんごめん」と返した。斜め上を見上げて、顎骨のラインを確認するけれど、ご立腹とまではいかないようだ。

「はい」

その顔で差し出してきたのはコーヒー牛乳だった。案外虫の居所が良いらしい。

「ありがと」

プラスチックのラベルを剥がして、蓋を取る。キンと冷えたガラス瓶に唇を当てる。美味しい。ブラックとかけ離れてだいぶ甘いけど、火照った身体に染み渡る。隣の「彼」は、苺ミルクを楽しんでいるようだ。柄に合わず、かわいらしい。

「で、何か話が有るの?君がわざわざ誘ってきたって事は。」

「え?」

彼に似合わぬ台詞を聞いて、一瞬慄く。

透かされた心に浮かぶ、忘れられた言葉の数々が、堰を切って今にも飛び出してきそうになる。でも、少し飲み込む。



 *



「彼女」は、目を伏せた。牛乳瓶を人差し指でなぞって、暫く黙っていた。何か触れてはいけない事に触れてしまったのか、それは分からない。俺も、街ゆく夕暮れの人々に目を流すようにした。

「仕事、クビになったんだよね」

「え?」

「彼女」は何とも言えない表情をして、その目を自分に向けた。内心、そういう事だったのかと符合した。

「まあ、端的に言うと、期限が切れたってこと。それで。」

麦色の瓶を持って、「彼女」は徐に前に出た。

「ごめんね、言わなくて。私も色々悩んでてさ。自分のこの先とか。色々。」

「…」

「一応、次は決まってるから安心して。ちょっと遠いんだけどね。」

俺の言葉を遮るように「彼女」は並べる。その後ろ姿だけで、強がっているのがよく分かった。

「ま、そういう事。ちょっと収入は減るかもしれないけど、なんとかなるよ。」

「…うん」

痛々しいと言ったら、可哀想な気はする。でも、きっとその虚栄の向こう側にあるものに俺は触れられないのだろうという事はよく分かった。

「ん?どうした?そんな辛気臭い顔しないでよ」

「いや、ううん。何でもない」

「そう。で、そっちも何か有るんじゃない?オファー、結局どうしたの?」

踵を返して、「彼女」は平静を装う。でも、その質問には素直に返す必要があるだろう。



 *



正直、ここまで心を搔き乱されるとは思わなかった。何とも言えないこの気持ち。自分の素直な気持ちを吐露したら、壊れてしまいそうで。それに気づかれないように、「彼」に質問を投げつける。雑だけど、しょうがない。

「…俺は、オファー断ったよ。」

「へ?」

バカじゃないの?そんな言葉が口を突く。自分の複雑さは波を引いて、少し頭に血が上る。

「なんで?折角のチャンスじゃないの?」

「…うん。自分勝手なのは分かってる。そして傲慢なのも分かってる。でも、自分の道を貫きたいって思っちゃったんだよな。」

苦々しく噛み潰して出てくる「彼」の気持ち。きっと嘘偽りない。自分で焚きつけておきながら、彼のその返答はすとんと胸に落ちた。

「いや、こんな簡潔に結果伝えられても興醒めだよね。結局お金は君に頼ってるし。情けない。」

珍しくはにかんだ。でもそのえくぼは自信に満ちている。羨ましい。私も、そんな風な自信を身に帯びたい。そう思う。

「ねさ、自分の道、って何?」

「…え」

「言ったでしょ」

「まあ…外からの力じゃ曲げられない、自分が一番信じるもの…って言ったら嘘っぽい?」

「いや、別にそういう訳じゃないけどさ。凄いなって思って。」

「え?」

「あ、ごめん何でもない。」

「そう」

怪訝そうな皺を作る。眉をひそめてそっぽを向いている。このまま「彼」は、どこへ向かっていくのだろう。その眼に、私は映っているのだろうか。



「私と、どうなりたいの?」



この一言は、言えない。たとえ彼が何を描いていたとしても、それを口にする勇気は私には無い。

「そういえば、柴山さんが、契約更新する?って聞いてた。」

「そっか。私から話しとくよ。」

「うん。」

二人で、神保町まで歩いた。裏路地を出て、幹線道路に小さな声で会話をした。そして、歩道のど真ん中で手を繋いだ。道行く人がそれを見ていた。そうしたらその手で、ぎゅっと「彼」を握った。手を繋いだまま、気づけば千鳥ヶ淵の方まで歩いていた。休日だったから沢山のボートが浮かんで、その上を桜が舞っていた。握った手は大きくて、でもどこか遠い。その距離感にすがろうとする自分。

「また春、だな。」

「そう、だね」

幸せとは、何だろう。華々しい街の中で、静かで平らかな暮らしを続けていくこと。

「ねさ」

「ん?」

私が尋ねると、「彼」はこちらを向いた。そのくしゃくしゃとした髪の上に、花びらが付いている。

「明日、何食べたい?」

「…え?」

「何、食べたい?」

「…今晩、じゃなくて?」

「そう」

私はかかとを上げて髪に手を伸ばした。絡んだ花びらを手に取り、ふっと息で飛ばす。そしてもう一度、「明日、何食べたい?」と私は聞いた。

「…ネギの、鍋…?」

髪を掻きながら答える「彼」は、どこか可愛らしかった。

「ネギ、か」

そう返しながら、私はボートに乗る家族を眺めていた。変わらないこと。これが、私の答えだった。



 *



朝。六時きっかりに目覚める。寧ろ、目が覚める。すーっと朝日が差し込んで、くしゃっと寄った掛布団をなぞっている。

「きょう、月曜日だっけか。」

むくっと起き上がって、顔を洗いに行く。さわさわとぬるい水で肌を潤す。あまり目は覚めない。自作のドクダミの化粧水でカサツキを潤し、手元を探った。かじかむ人差し指にコンタクトを。

「あっ」

落とした。幸先の悪い朝だ。奇数になったケースが忌々しい。小さくすすけた鏡には、目を見開いた私。隈が出来ている。春も中頃、新しい職場にもだいぶ慣れてきた。今のところは何とかなっている。寧ろ、毎日が新しいことだらけで楽しくもある。よれた黒髪をうなじで束ねた。台所に向かうと、馴れたノールックに卵を割り、小ぶりな中華鍋に注ぎ入れる。と同時に後の六畳間を見やる。白い布団の抜け殻は二つ。「彼」はもう出てったようだ。じゃあ、卵は一つでいい。

「あ、焦げる」

炊飯器の中の硬いコメと、インスタントの味噌汁。それと目玉焼き。相変わらず味気無いって言ったらそうかもしれないけど、それがいい。目玉焼きには醤油。半熟なのも変わらない。



カラッと鍵を回して、トタン屋根の外階段をコツコツ下る。よし、何とか間に合う。古書店の裏の細路地を抜けて、右に。新しい通勤路は爽やかだ。初夏の訪れも感じさせる。



千鳥ヶ淵の桜は僅かな時間で色を変えた。華やかな薄紅色は、緑の葉になった。

あっという間だなあと思う。切ないな、とも思う。



時は進んでいく。何かをしたとしても、何もしなかったとしても。



変わらぬ日々を紡いでいくだけ。それだけしか、今の私には出来ない。



でも、それが幸せだった。

弥生日日草

弥生日日草

「彼」と「彼女」は、淡路町の片隅にある古くて安い木造アパートで暮らしていた。 野良猫の撮影をする、フリーの写真家である「彼」と、東京駅の書店で派遣として働く「彼女」。二人の出会いは五年前に遡る。東京のど真ん中で質素で何気ない日々を送りながら、年を重ねて、三十手前。周りは当たり前のように結婚していく中で、不思議な同棲を続けていた。恋人のようで、そうではない。だからといって友達ではない。そして全く冷え切っている訳でもない。そんな二人も自分の将来について考え始めるが、その考えを交わすことは無かった。二人は互いに干渉しないようにしながら、それぞれの道を探っていく。これがいつしか当たり前になっていた。 しかし、それぞれに転機が訪れる時、彼らの関係性は揺らぐこととなるー。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2024-04-17

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted