トップシークレット☆ ~お嬢さま会長は新米秘書に初恋をささげる~【減筆版】
プロローグ
――「初恋は実らない」なんて、一体誰が言い出したんだろう? もし初めて恋に落ちた相手が運命の人なら、百パーセント実らないとは限らないのに。
実際、わたしがそうだった。生まれて初めて恋をした相手が運命の人になったのだ。
わたしの名前は篠沢絢乃。現在まだ十九歳という若さながら、日本屈指の大財閥〈篠沢グループ〉の会長兼CEOである。
そして、わたしが初めて恋に落ちた相手は桐島貢。わたしより八歳年上で、会長秘書兼わたしの個人秘書でもある男性だ。
彼との出会いは今から二十ヶ月前。先代会長だった父・篠沢源一の四十五歳の誕生日だった。
わたしと彼との間には年齢差や経済格差、身分の差など様々な障壁があったけれど、それらを乗り越えて無事に結ばれた。わたしの初恋は見事に実ったのだ。
わたしは今、彼が初恋の相手で本当によかったと心から思っている。彼と一緒でなければ、父を早くに亡くした悲しみを乗り越えることも、現役高校生として大きな組織の舵取りをすることもできなかっただろうから。
そして今日この日、わたしは愛しいこの男性と新たな旅立ちの時を迎えようとしている――。
父の誕生日
1
――わたしが彼と初めて出会ったのは、二年前の十月半ば。グループの本部・篠沢商事本社の大ホールで父の誕生日パーティーが開かれていた夜のことだった。
父の家族として、母の加奈子とともに出席していたわたしは突然姿が見えなくなっていた父を探して会場内を歩き回っていた。やたら裾が広がってジャマになる桜色のミモレ丈のドレスに、歩きにくいハイヒールのパンプスでドレスアップして。
父はその数日前から体調を崩し、体重もかなり落ちていたけれど、「自分の誕生祝いの場に出ないわけにはいかないだろう」と無理をおして出席していた。
「どこかで具合悪くなって、ひとりで倒れてたりしないかな……。なんか心配」
一度立ち止まり、辺りをキョロキョロと見回したその時だった。貢がその会場にいることに気づいたのは。
彼が明らかに会場内で浮いているなと感じたのは、彼ひとりだけが(わたしを除いて)ものすごく若かったから。着ていたのはグレーのスーツだったけれど、まだなじんでいない感じが見て取れたのだ。多分、入社してまだ五年と経っていないんじゃないかな、とわたしには推測できた。
身長は百八十センチあるかないかくらい。スラリと痩せているけれど、貧弱というわけでもなく、程よくガッシリとした体型。そして、顔立ちはなかなかに整っている。間違いなく〝イケメン〟のカテゴリーには入るだろう。何より、優しそうな目元にわたしは惹かれた。
それともう一つ、彼が周りの人たちに対してあまりにも腰が低かったから、というのもわたしが彼に注目した理由だった。この日招待されていたのはグループ企業の管理職以上の人たちばかりだったけれど、彼が役職に就くには若すぎたし、そもそもウチのグループに二十代の管理職がいたなんて話、わたしは父から一度も聞かされたことがなかった。
「もしかしてあの人、誰か他の招待客の代理で来てるのかな……?」
――と、思いがけず彼とわたしの目線が合った気がした。
あまりにもジロジロと凝視しすぎていたかも、と少し気まずく思い、それをごまかそうとこちらから笑顔で会釈すると、彼も笑顔でお辞儀をしてくれた。
……なんて律儀な人。こんな年下の小娘に丁寧に頭を下げるなんて。――彼に対するわたしの第一印象はこれで、気がついたら彼のことが気になって、彼から目が離せなくなっている自分がいた。
この感情が〝恋〟なのだと気づいたのは、その翌日のことだったけれど……。だってわたしは、それまでに一度も恋をしたことがなかったから。
「――あっ、いけない! パパを探してる途中だったんだ!」
わたしはハッと我に返り、彼のことをもっと見ていたいという誘惑を頭の中から追い払い、再び広い会場内を早歩きで移動し始めたのだけれど。その時、母が貢と何か話している光景がわたしの目に飛び込んできた。
母は楽しそうに彼をからかっているように見え、それに対して彼は何だか恐縮している様子で、母にペコペコと頭を下げているようだった。
「ママ、あの人と一体、どんな話をしてるんだろう……?」
二人の様子も少し気になったけれど、その時の優先順位は父を探すことの方が上だったので、その疑問はとりあえず頭の隅っこへと追いやっておくことにした。
「――あっ、いた! パパー!」
その少し後、わたしはバーカウンターにもたれかかっている父の姿を見つけた。
「絢乃? どうしたんだ、そんなに血相かえて」
「どうしたんだ、じゃないでしょ? パパのことが心配だったの!」
そう言いながらわたしがカウンターの上にチラッと目を遣れば、そこにはウィスキーの水割りが入ったグラスが。
「お酒……飲んでたの? ママに止められてるのに」
咎めるわたしに、父は困ったような表情を浮かべてこう言った。
「心配するな。これでまだ一杯目だから。誕生日なんだから、これくらい許してくれよ、な? 頼むから」
いい歳をしてダダっ子のような父に、わたしは思わず吹き出してしまった。これでオフィスにいる時には、堂々たるボスの風格を湛えていたのだ。そんな父のギャップを見られるのは、家族であるわたしと母だけの特権だったかもしれない。
「仕方ないなぁ……。じゃあ、その一杯だけでやめとこうね? ママもそれくらいなら許してくれると思うから」
「ああ、分かってる。すまないな。絢乃もいつの間にか、こんなに大人になってたんだなぁ」
「……パパ、わたしまだ高校二年生だよ?」
どこか遠くを見るような目をして言った父に、わたしはそうツッコんだ。けれど、多分父が言いたかったのはそういうことじゃなかったのだ。
父親にお説教ができるくらい、わたしが成長したと言いたかったのだと思う。
――わたしは初等部から、八王子市にある私立茗桜女子学院に通っていた。
女子校に入ったのは両親の意向では決してなく、わたし自身の意思からだった。「制服が可愛いから」というのが、その理由である。
父も母も、わたしの教育に関しては厳格でなく、どちらかといえば「お嬢さま=箱入り娘」という考え方こそ時代遅れだと思っていたようだ。わたしには世間一般の常識などもちゃんと知ったうえで、大人になってほしいという教育方針だったのだろう。
その証拠に、両親はどんな時にもわたしの意思をキチンと尊重してくれて、わたしがやりたいと思ったことには何でもチャレンジさせてくれた。習いごとに関してもそれは同じで、父や母から強要されたことはなく、わたしが自分から「習いたい」と言ったことをさせてくれていた感じだった。
だからわたしは、初等部の頃からずっと電車通学だったし、放課後には友だちとショッピングを楽しんだり、カフェでお茶したりといったことも禁止されなくて、のびのびと自由度の高い学校生活を送ることができたのだと、両親には今でも感謝している。
――それはさておき。
「あら、あなた。こんなところにいたのね。……まあ! お酒なんか飲んで! ダメって言ったでしょう!?」
父と二人で楽しく談笑していると、そこへ母がやってきて、父の飲酒に目くじらを立て始めた。「体調が悪いのに飲酒なんて何を考えているの」「心配している家族の気持ちも考えて」と、まるで母親に叱られる子供みたいに母から叱責されている父が、わたしはだんだんかわいそうになってきた。
「ママ、そんなに怒ったらパパがかわいそうだよ。今日はお誕生日なんだし、それくらいわたしに免じて大目に見てあげて!」
自分も父の飲酒を咎めていたことなんか棚に上げて、わたしは父の味方についた。妻と娘、両方から集中砲火を浴びせられたら逃げ場を失ってしまうからだ。ましてや父は篠沢家の入り婿で、立場が弱かったから。
「ね? ママ、お願い!」
手を合わせて懇願したわたしに、母はやれやれ、と肩をすくめて白旗を揚げた。父もそうだったけれど、母も何だかんだ言ってわたしにめっぽう甘いのだ。
「…………しょうがないわねぇ。ここは絢乃に免じて目をつぶってあげる。ただし、その一杯だけにしてね?」
「分かったよ。ありがとう、加奈子。君にも心配をかけて申し訳ない」
父は許可してくれた母にお礼とお詫びを言って、チビチビとクラスを傾けた。母はどうやら娘のわたしにだけでなく、夫である父にも甘かったらしい。
――結婚前、篠沢商事の営業部に勤めるイチ社員に過ぎなかった父は、当時の上司――営業部長の勧めで会長令嬢だった母とお見合いし、その日にすぐ共通の趣味であるジャズの話で意気投合したそうだ。そんな二人が結婚を決めるのに、それほど時間はかからなかったらしい。
二人は結ばれるべくして結ばれたので、父は母のことを本当に愛していたと思う。娘のわたしが見た限りでは、夫婦仲もよかった。
そして、父は一粒種だったわたしのことすごく大事に思ってくれていた。
わたしも父のことが(もちろん、母のことも)大好きで、尊敬もしていたので、子供の頃から「わたしが父の後を継ぐんだ」と思うようになったのもごく自然なことだったのかもしれない。
わたしたち親子三人は本当に、心から幸せだった。――あの夜から三ヶ月後までは。
2
父が倒れたのは、それからすぐ後のことだった。突然ひどい目眩に襲われ、立ち上がれなくなってしまったのだ。
わたしと母が驚いて呼びかけると、父はどう聞いても大丈夫じゃないでしょうと言いたくなるような声で「大丈夫だ」と言った。
「〝大丈夫〟なわけないでしょ!? 顔色だって悪いのに」
わたしはそんな父を𠮟りつけた。父の体調がすぐれないのは誰が見ても明らかで、もうパーティーどころではないだろうとわたしも思った。というか、最初から無理をして出るべきではなかったのだ。
「パパ……、今日はもう帰って休んだら? そんな状態じゃ、もうパーティーどころじゃないでしょ?」
「そうね、私も絢乃の意見に賛成。あなた、帰りましょう? すぐに迎えを呼ぶわ」
「……ああ、そうだな。申し訳ないが、そうさせてもらうことにするよ」
母は家で待機していたわが家の専属運転手に電話をかけて迎えを頼むと、わたしにも頼みごとをした。父が途中でいなくなると、会場にいる人たちが混乱すると思う。だから父の代理として会場に残り、頃合いを見て閉会の挨拶をしてほしい、と。
「うん、分かった。任せて。ママ、パパのことよろしくね」
わたしは母の頼みごとを二つ返事で快諾した。責任重大だったけれど、こうなったらもうやるしかない、と腹を括った。
――それから十数分後に運転手の寺田さんが到着し、母とともに父の体を支えて会場を後にした。多分、彼が運転してきた黒塗りの高級セダンはビルの地下駐車場に止めてあったのだろう。
「お嬢さまは一緒に帰らないのか」と彼が不思議そうに訊ねたので、母から頼まれたことを話すと納得してくれた。
その五分後に黒塗り車が夜の丸ノ内の街に紛れていくのを、わたしはホールのガラス窓越しに眺めていた。
その後はやっぱり、父の具合を心配する人たちが押しかけてきて、わたしはその対応に追われた。それも落ち着いた頃、わたしはようやく自分がいたテーブルに戻ろうとしたのだけれど……。父が倒れたショックからか、対応疲れからか軽い目眩を起こしてしまった。
「――絢乃さん、大丈夫ですか!?」
倒れそうになったわたしを支えてくれたのは、慌てて飛んできた貢だった。――あ、この人はさっきの……。わたしの名前を知っていたことは不思議だったけれど、彼が助けてくれたのが偶然だとは思えなかった。
「あ……、ありがとう。大丈夫だよ、ちょっとクラッときただけ」
「よかった。少し休まれた方がいいんじゃないですか? 絢乃さん、何か召し上がりました?」
「うん。パパがあんなことになる前に、けっこういっぱい食べてたから」
わたしがそう答えると、彼はホッとしたように「そうですか」と笑いかけてくれた。
父が倒れたばかりだというのに、わたしまで倒れていられなかった。わたしには母から託された任務があったし、初対面の彼にも心配をかけるわけにはいかなかったから。
「――じゃあ、絢乃さんはここで座ってお待ちください。何か甘いものと飲み物をもらってきます」
「えっ、いいの? 何か申し訳ないなぁ」
出会ったばかりの、しかも助けてもらったばかりの彼にそこまで気を遣わせてしまい、わたしはちょっと罪悪感をおぼえたけれど。彼はやんわりと首を横に振った。
「いいんです。僕も食べたいので、そのついでですから。――飲み物は何になさいますか?」
「そう? ありがとう。じゃあ……オレンジジュースにしようかな」
「分かりました」
彼は頷き、ビュッフェコーナーへいそいそと歩いていった。
「あの人、スイーツ男子なんだ……。なんか可愛いかも」
その後ろ姿を眺めながら、わたしは心がほっこりするのを感じた。倒れかけたのを支えてもらった時には、心臓がドキンと脈打つのを感じたはずなのに。
「そういえばわたし、まだ彼の名前聞いてない」
もしかしたら、この夜限りの出会いだったかもしれないのに、名前を知りたくなったのはなぜだろう? ……きっとこの時すでに、わたしは彼との縁を感じていたのだろう。
――父の状態が心配だったわたしは、彼を待っている間に母のスマホにメッセージを送った。
〈もう家に着いた? パパの様子はどう?〉
すぐに既読はついたけれど、なかなか返事は来なかったので余計に心配が募った。
「――お待たせしました! 絢乃さん、どうぞ」
それからしばらくして、トレーを抱えた貢がテーブルに戻ってきた。二人分のデザート皿とドリンクを運ぶのに、会場にあったトレーを借りたのだろう。
「ありがとう。――あ、そういえば貴方の名前は……」
小ぶりなケーキ四種盛りのお皿とオレンジジュースのグラスを受け取ったわたしは、改めて彼に名前を訊ねた。
「ああ、そうでしたね。申し遅れました。僕は篠沢商事総務課の社員で、桐島貢と申します。今日は課長の代理として出席させて頂いてます」
彼はアイスコーヒーで喉を潤すと、丁寧に自己紹介をしてくれた。
「桐島さんっていうんだ。代理だったんだね。そんなの、イヤなら断ればよかったのに」
「いえ、本当は断るつもりだったんですけど。課長の強引さに押し負けて引き受けざるを得なかったというか……。他に引き受けてくれる人もいませんでしたし」
彼は困ったような表情で、代理出席の裏側を打ち明けた。……確かに彼はお人好しに見えるけれど(そして実際に〝ド〟がつくほどのお人好しだったけど)、それをいいことに言うことを聞かせる上司って、これじゃまるで……。
「桐島さん、それってパワハラって言わない?」
「そう……なりますよねぇ」
わたしが眉をひそめると、彼はあっさりその事実を肯定した。
「でも結果的には、今日この代理出席を引き受けてよかったかなぁとも思ってます。こうして絢乃さんと知り合う機会にも恵まれたわけですし」
何だか嬉しそうに、彼はそう続けた。でも次の瞬間、慌てて顔の前で両手を振った。
「……あっ、別に逆玉に乗れそうだからってあなたに近づいたわけじゃありませんからね!? 本当に打算なんて一ミリもありませんから!」
「分かった分かった! そんな必死になって否定しなくても大丈夫だよ。貴方がそんな人じゃないって、見ただけで分かるもん。……ところで、わたしの名前ってママから聞いたの?」
ムキになる彼が面白くて、わたしは声を上げて笑った。そのついでに、彼がどうしてわたしの名前を知っていたのかという疑問をぶつけてみた。
「はい。あと、高校二年生だということも。名門の女子校に通われていることも。……ですが、どうしてお分かりになったんですか?」
「さっきママと話してるところ、チラッと見かけたから」
「ああ……、そうでしたか」
疑問が解決したところで、ようやくわたしはケーキにフォークを入れた。
「……美味しい。甘いもの食べるとホッとするなぁ」
「本当ですねぇ」
内心ではそういう状況ではないと分かっていたけれど、ほんの少しだけの休息時間。それだけで心には少しゆとりが生まれた。
「……そういえば、お父さまは大丈夫なんでしょうか」
「うん、気になるよね。さっき、わたしからママにメッセージ送ってみたんだけど、まだ返信がないの」
「そうですか……。実は社内でも以前から噂されてたんです。『会長、最近かなり痩せられたなぁ』と。社員みんなが心配していたんですが、まさかここまでお悪かったとは」
貢もわたしと同じくらい沈痛な面持ちでそう教えてくれた。
父はボスだからとお高く留まっていなかったので、社員全員から慕われていたらしい。父の体調がすぐれなかったことにも、家族であるわたしと母よりも会社の人たちの方が先に気づいていたようだった。
3
「あの……ですね、絢乃さん。非常に申し上げにくいんですが」
「はい?」
「お父さまはもしかしたら、命に関わる病気をお持ちかもしれません。ですからこの際、大病院で精密検査を受けられることをお勧めしたいんですが」
あまりにも重々しい事実を突きつけられ、わたしはガツンと頭を殴られたようなショックを受けた。でも、彼が父のためを思って言ってくれていることもちゃんと分かっていた。
「そうだよね。わたしもそう思う。でもね……、パパって病院嫌いなんだぁ。だからちゃんと聞いてもらえるかどうか」
わたしは二つめのケーキを食べる手を止めて、眉根にシワを寄せた。
父は昔から大の病院嫌いで、少し体調を崩したくらいでは病院に行こうとせず、いつも「これくらい、家で静養すればよくなる」とワガママを言っていた。けれど、さすがに命が脅かされるような大病の可能性がある以上、父には是が非でも検査を受けてもらわなければと思った。
「でも、そんなこと言ってられないよね。ママにも協力してもらって、どうにかパパを説得してみる。桐島さん、アドバイスしてくれてありがとう」
「いえ、そんな感謝されるようなことは何も……」
彼は照れくさそうに謙遜したけれど、わたしは彼に本当に感謝していた。自分の身内のことを言うなら誰にでもできるけど、お世話になっている勤め先の上役とはいえ赤の他人のことを心配してそういうアドバイスができる人はそうそういないと思ったから。
* * * *
――貢と二人、美味しいケーキを味わいながら楽しくおしゃべりをしていると、あっという間に三十分ほどが過ぎていた。
母に送信したメッセージに返信があったのはそんな時だった。
〈絢乃、返信が遅くなっちゃってごめんなさい! パパは寝室で休ませてます。
あなたのタイミングでいいから、閉会の挨拶よろしく。招待客のみなさんにちゃんとお詫びしておいてね〉
返信はこれだけかと思ったら、ピコンと次のフキダシが出てきた。
〈あと、あなたの帰る手段として、総務課の桐島くんに家まで送ってもらうようお願いしておきました♡ 彼にもよろしく言っておいてね♪〉
「…………えっ!?」
驚いて、思わずスマホの画面を二度見した。と同時に、貢と母が何を楽しげに話していたのかが分かった気がした。
「絢乃さん、どうかされました?」
「ううん、別にっ!」
わたしはブンブンと彼に向かって首を振り、「ありがとう。了解」と返信してピンク色の手帳型スマホカバーを閉じた。
それにしても、母の手回しのよさには恐れ入る。母はわたしが幼い頃まで、公立中学で英語教師をしていたのだ。わたしの弟か妹を流産して、体を壊して離職してしまったけれど。
「もうすぐ八時半か……。そろそろかな」
本当なら、主役である父が帰ってしまった時点で終わらせるべきだったパーティー。予定より少し早いけれど、これくらいの時刻がちょうどいい頃合いだろうとわたしは決めた。
「――桐島さん。わたしはそろそろ、ママからのミッションを果たしてくるね」
「はい、行ってらっしゃい。オレンジジュースのお代わりを用意して待っています」
「ありがとう」
わたしはステージの壇上に立ち、スタンドにセットされたマイクを手に持つと、深呼吸をしてからスイッチを入れて話し始めた。
『――皆さま、本日は父のためにお集まり下さいまして、本当にありがとうございます。わたしは篠沢源一の娘で、絢乃と申します』
そこまではよかったけれど、次に何を言うべきかわたしは困ってしまった。どう言えば、招待客のみなさんが納得して下さるのか……。これはきっと、いずれは大企業グループをまとめていくことになるわたしへの試練だと考え、自分なりに言葉を選んでみた。
『……えー、皆さまもお気づきかもしれませんが、本日の主役である父は体調を崩して早めにこの会場から引き揚げさせて頂いております。予定より早い時刻ではございますが、このパーティーはこれでお開きとさせて頂きたいと思います』
当然の結果として、会場内はざわついた。けれど、それはわたしの想定内だった。
『本日ご出席下さった皆さまには、娘であるわたしが両親に成り代わりましてお礼申し上げます。と同時に、この場をお騒がせしてしまいましたことも併せてお詫び致します。皆さま、お気をつけてお帰り下さい』
深々とお辞儀をしてから顔を上げると、目の前は招待客の皆さんの不安そうな表情で溢れかえっていた。
「これでよかったのかな……」
わたしも不安に駆られながら席に戻った。将来の経営者としては致命的かもしれないけれど、元々人前に出て話すようなことが苦手だったので、自分にとって初めてのスピーチの及第点がどれくらいなのか分からなかった。
テーブルに戻ると、約束どおり貢がジュースのお代わりを用意して待っていてくれた。
「絢乃さん、お疲れさまでした。喉渇いたでしょう」
「うん。ありがとう」
冷たいジュースで喉を潤し、ホッと一息ついたけれど、わたしの心配ごとがこれですべてなくなったわけではない。父がとにかく心配で、早く自由が丘の家に帰りたいと思いながらもまだもう少し彼と一緒にいられたらという気持ちもあった。
……そういえば。
「ママからの返信に書いてあったんだけど、帰りは貴方が送ってくれるって?」
「はい。お母さまから直々に頼まれました。まさかこういう事態になるとは思っていらっしゃらなかったでしょうけど」
「そうだよね……」
母が何を思って彼にそんな頼みごとをしたのか、その時のわたしには分からなかったけれど。少なくとも父がパーティー中に倒れたのは母にとっても想定外の出来事だったはずだ。
「そういえば桐島さん、お酒飲んでなかったもんね。それもこのため?」
彼が会場で飲んでいたのはアルコール類ではなく、アイスコーヒーだった。
「ええまぁ、そんなところです。僕、アルコールに弱くて。少しくらいなら飲めるんですけど」
「そっか。わざわざ気を遣ってくれてありがとう。じゃあご厚意に甘えさせてもらおうかな」
「はい。……僕のクルマ、軽自動車なんですけどよろしいですか?」
「うん、大丈夫。よろしくお願いします」
自動車にまったくこだわりのないわたしは、ペコリと彼に頭を下げた。
――それから数分後、わたしは貢が運転する小型車の助手席に収まっていた。彼は最初、後部座席を勧めてくれたのだけれど、わたしが「助手席に乗せてほしい」とお願いしたのだ。
「……えっ、このクルマって桐島さんの自前なの?」
「ええ、入社した時から乗ってます。でも中古なんで、あちこちガタがきてて。そろそろ新車に買い替えようかと」
そう答える貢はすごく安全運転で、そういうところからも彼の真面目さが窺えた。
「新車買うの? どんな車種がいいとかはもう決まってるの?」
「ええ、まぁ。父がセダンに乗ってるので、僕もそういうのがいいかなぁと思ってます。現金でというわけにはいかないので、頭金だけ貯金から出してあとはローンになるでしょうけど」
「そっか……。大変だね」
新車を購入するという彼の心意気は褒めてあげたかったけれど、サラリーマンの身でローンの返済に追われる彼のお財布事情が心配だった。
「ところで絢乃さん、助手席で本当によかったんですか?」
「うん。わたし、小さい頃から助手席に乗るのに憧れてたんだー♡」
満面の笑みで答えたわたし。物心ついた頃から後部座席ばかりに乗せられていたので、長年の夢が叶った瞬間だったのだ。
「そうですか……。それは身に余る光栄です」
「え? 何が?」
彼が小さく呟いた言葉に、わたしが首を傾げると。
「絢乃さんの助手席デビューが、僕のクルマだったことが、です」
彼は誇らしげにそう答えた。
初めての恋と大きな覚悟
1
わたしには、彼が少し照れているようにも見えた。ハンドルを握る彼の横顔が月明かりに照らされて、思わずウットリと見とれてしまう。……どうしてわたし、彼のことがこんなに気になるんだろう?
――その後の会話は、彼の家族の話題に移っていった。
桐島家のお父さまは大手メガバンクの支店長さん、お母さまは若い頃保育士さんだったそうだ。貢には四歳上のお兄さまもいて、調理師として飲食店で働いていると聞いた。将来的には自分でお店をオープンさせたいのだとか。
「へぇー、スゴいなぁ。立派な目標をお持ちなんだね。桐島さんにはないの? 夢とか目標とか」
「…………まぁいいじゃないですか、僕のことは。今はこの会社で働けているだけで満足なので」
彼は明らかに、この質問への答えをはぐらかしていて、わたしはちょっと不満だった。
「そんなことより、ちょっと不謹慎な質問をしてもいいですか?」
「……えっ? うん……別にいいけど」
「お父さまに万が一のことがあった場合、後継者はどなたになるんでしょうか」
つまり、父が亡くなった後ということだろう。娘であるわたしに気を遣って遠回しな表現をしてくれたのだと、わたしはすぐに気がついた。
「う~んと、順当にいけばわたし……ってことになるのかなぁ。ママは経営に携わる気がないみたいだし、わたしは一人っ子だから」
ちなみに母も一人娘だったので、父が婿入りすることになったのだ。
「お母さまは確か、以前教員をされていたんですよね。中学校の英語の」
「うん、そうなの。だから元々経営に興味がなかったみたい。祖父が会長を引退した時も、自分は後継を辞退してパパに譲ったみたいだし。まぁ、ウチの当主ではあるんだけど」
その祖父も、今から五年前にこの世を去った。前年に心臓発作で他界した祖母の後を追うようにして。祖母が亡くなってから、祖父の体調が悪くなったことをわたしもよく憶えていた。
「親戚の中には、パパが後継者になったことをよく思ってない人たちも少なくなかったなぁ。また揉めることにならなきゃいいんだけど」
わたしは遠からず起きるであろうお家騒動を想像して、ウンザリとドレスの上に着ていた白いジャケットの襟をいじりながらため息をついた。
「名門一族って、どこも大変なんですね……」
「うん……、ホントに」
彼の素直なコメントに、わたしも頷いた。
篠沢家も明治時代から代々続く経営者の一族だ。過去には遺産相続や後継者のことで何度も揉めごとがあったに違いない。……まさかわたしまで、しかもあんなに早く、その渦中に放り込まれることになるなんて思ってもみなかった。
「絢乃さん、一人っ子だとおっしゃってましたよね? ご結婚される時はどうなるんですか?」
「やっぱり、相手に婿入りしてもらうことになるんじゃないかなぁ。パパの時みたいに」
父の旧姓は井上といい、二歳上のお兄さん――わたしから見れば伯父がいる。伯父の家族はもう十年以上前からアメリカ在住だ。
「じゃあ……、僕もその候補に入れて頂くことは可能ですか?」
「…………えっ!? ……うん、多分……大丈夫だと思うけど」
一瞬彼の言っていることが理解できず、キョトンとなりながらも真面目に答えると、彼からは「冗談ですからお気になさらず」と肩をすくめられた。
本当に冗談だったのかな? 本気ならいいのにな……と思いながら、わたしの胸は高鳴っていて、自分でも戸惑っていた。
――もうすぐ恵比寿というところで、クラッチバッグの中でスマホがヴーッ、ヴーッ……と振動した。
「……あ、電話だ。出てもいい?」
急いで画面を確かめると、かけてきたのは母だった。
「どうぞ。お母さまからですか?」
「うん。――もしもし、ママ? 今、桐島さんのクルマの中なの」
彼は電話中、横から口を挟もうとしないで運転に徹してくれていた。
『そう。今日はお疲れさま。閉会の挨拶、ちゃんとできた?』
「うん、どうにかね。自分なりには。――ところでパパの様子は?」
『今はぐっすり眠ってるわ。顔色もちょっと落ち着いたみたい』
「そっか、よかった」
とりあえず落ち着いているようだと分かって、わたしもホッと胸を撫でおろした。
「あのね、ママ。パパのことなんだけど。桐島さんが言うには……」
わたしは貢からのアドバイスと、彼と話していたことを母にも伝えた。
「……でね、わたしだけじゃ心許ないから、ママにも協力してもらえないかな……と思って」
『分かったわ。ママも桐島くんのアドバイスは的確だと思う。パパのためだもの、協力するわね』
「ありがと、ママ」
母が非協力的だったらどうしようかと思っていたけれど、その返事を聞いてわたしも安心した。
『あとどのくらいで着きそう?』
「あとねぇ、えーっと……」
貢に自由が丘まであと何分くらいか訊ねると、「十分くらいですかね」と答えてくれた。
「十分くらいだって」
『そう。じゃあ待ってるわね。今日は本当にありがとう。桐島くん、いい人でしょう? 絢乃からもちゃんとお礼言っておいてね』
「……うん、分かった」
終話ボタンをタップすると、信号待ちに引っかかった貢と目が合った。
「――何ですか?」
「ママが桐島さんに『ありがとう』って伝えてほしい、って。あと、わたしからも……ありがとう」
「いえ……」
二人分の感謝を伝えられた彼は、照れくさそうに視線を前方へと戻した。
* * * *
――自由が丘に建つ篠沢邸の前で、貢はわたしを降ろしてくれた。わざわざ助手席のドアを、執事のように外から開けてくれて。
「今日はお疲れでしょう。ゆっくり休んで下さいね」
「うん、ありがとう。――あ、桐島さん。あの…………」
そのまま運転席に戻ろうとした彼を、わたしは慌てて呼び止めた。このまま別れてしまうのは名残惜しいし、彼とはまだまだ話したいことがたくさんあった。
でも、ここでの長話は迷惑だろうから……。
「連絡先……、交換してもらえないかな…………なんて」
初対面の夜にこんなお願い、厚かましいかな……と思い、ダメもとのつもりで言ってみたところ。彼はあっさり――というよりむしろ若干食いぎみに「いいですよ」とOKしてくれた。
「……ありがと。あの、これからウチでお茶でも飲んでいく?」
「いえ、遠慮しておきます。もう夜も遅いですし、明日も仕事があるので。僕はこれで失礼します」
「……そう? 分かった。じゃあ……おやすみなさい」
さらに引き留めようとしたら断られたので、内心小さく肩を落とした。
「おやすみなさい、絢乃さん。連絡お待ちしています」
「えっ? ……あー……うん。ハイ」
別れ際に微笑みかけられ、わたしは彼にまともな返しができなくなってしまった。
「――はぁ~……、なんか顔が熱い……」
彼の車を見送りながら、両手で火照った頬を押さえていた。
彼が最後に言った「連絡を待っている」というのは、父への説得がどうなったか教えてほしいという意味だったのか、それとも別に意味があったのか。もしも後者だったら……?
彼も、わたしに好意をもっているということだろうか。
「……〝も〟って何だ」
思わず自分の考えにツッコミを入れてしまい、笑いがこみ上げた。
その時はまだ、彼に対するこの複雑な感情が何だったのか分からなかったけれど、今なら分かる。わたしに自覚がなかっただけで、すでに恋の沼にはまっていたのだと。
「そんなことより、パパの説得頑張らないと!」
ニヤついている場合じゃないと気持ちを切り替え、わたしは二階建ての洋館の前にどっしりと存在する玄関ゲートをくぐったのだった。
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高級住宅街の一角に建つ篠沢邸は、第二次大戦後に建てられた白壁の大邸宅だ。庭こそないものの、立派な門構えとリムジンが三~四台は駐車できるカーポートが家の立派さを物語っている。
洋館だけれど玄関でスリッパに履き替える日本式の生活スタイルなので、わたしはスリッパの音をフローリングの床に響かせながらリビングへ飛び込んだ。
「――ただいま」
「お帰りなさい、絢乃。桐島くんは?」
先に帰宅していた母は、部屋着姿で出迎えてくれた。
「もう帰っちゃった。ウチでお茶でも、って引き留めたんだけど」
落胆して答えたわたしを、母は優しく慰めてくれた。
「そうなの。彼は優しいから、絢乃が疲れてるだろうからって遠慮したのかもしれないわね」
「うん、そうみたい。でも連絡先は交換してもらえたから」
そして、出迎えてくれたのは母だけではなくもう一人。
「お帰りなさいませ、お嬢さま。奥さまから伺いました。本日は大変でございましたねぇ」
「ただいま、史子さん」
彼女は住み込み家政婦の安田史子さん。当時は五十代半ばくらいで、家事一切を任されていて、すごく働き者だ。もちろん今も篠沢家で働いてくれている。
「ママ、これからパパの説得に付き合ってくれる?」
「えっ? いいけど……あなたも疲れてるでしょう? 少し休んでからでもいいんじゃないの?」
「ううん、わたしなら大丈夫だから。行こう」
この時のわたしを突き動かしていたのは責任感だったのか、父への思い遣りだったのかは今でも分からない。母もわたしから強い意志を感じたらしく、快く父のところへついてきてくれた。
検査を受けるよう母とわたしから勧められた父は、案の定顔を曇らせた。不機嫌になるほどではなかったけれど、あまりいい反応ともいえなかった。
「パパ、お願い。わたしもママも、検査を勧めてくれたその人だってパパの体が心配なんだよ? だからその気持ちは分かってほしいの。パパだって病気が早く分った方が安心でしょ?」
渋っていた父に、わたしはとどめの一押しをした。母とわたしの顔を見比べた父はとうとう降参した。
「…………分かった、私の負けだよ。絢乃の言うとおりだな。明日にでも検査を受けてこよう。加奈子、私の携帯で後藤に連絡を取ってみてくれ」
「ええ」
母は父に言われたとおり、父のスマホで電話をかけた。当時、大学病院の内科で勤務医をしていた後藤聡志先生は、父と学部は違ったらしいけど大学の同級生で、父が亡くなった後大学病院を辞めてクリニックを開業したと聞いた。
「――後藤先生、明日の午前中に検査も含めて診察して下さるって。あなたのこと笑ってらしたわよ。『あいつ、未だに病院嫌いなのか』って」
「そうか。じゃあ加奈子、明日は付き添いを頼む。絢乃はどうする?」
父に訊ねられたわたしは少し考えた。本当は父に付き添いたいけれど、まだ子供のわたしが一緒に行ったところで何ができるんだろう、と。
「……わたしは、学校に行くよ。里歩と待ち合わせしてるし」
親友に心配をかけてはいけないと思い、付き添いを断った。中川里歩は初等部を受験した頃からの大親友で、経営コンサルタントをされているお父さまも含めて家族ぐるみで親しくしている。
「だからママ、パパの病気のこと分かったらちゃんと連絡してね。――じゃあわたし、もうお風呂に入って寝るから。おやすみなさい」
「そう? 分かったわ。おやすみなさい」
「おやすみ、絢乃。今日はすまなかったな」
両親に「おやすみ」をもう一回言ってから一階にある両親の寝室を出て、わたしは二階にある自室へ上がっていった。
* * * *
――この家の各部屋には、それぞれ専用のバスルームとトイレ・洗面スペースが完備されている。里歩に言わせれば「ホテル並みの設備」なのだとか。
わたしはそんな自室のバスルームに入り、バスタブの蛇口を開けてから、部屋着のワンピースに着替えた。茶色がかったロングヘアーをパーティー用にカールさせたスタイリング剤とメイクはバスルームで落とすことにして、クラッチバッグに入ったままだったスマホを取り出した。
クイーンサイズのベッドの縁に腰かけ、里歩と貢、どちらに先に電話をかけるべきか迷う。貢とは連絡先を交換したばかりだったし、まだ自宅――代々木の実家近くにあるというアパートに着いているかどうかも分からなかった。
それに……、わたしから男性に連絡を取るのは初めてだったので、ためらっていたというのもあったし。
「うん…………、よしっ! やっぱりここは桐島さんが先でしょ!」
彼の連絡先を呼び出し、緊張から震える指で発信ボタンをタップした。……もう家に着いているかな?
『――はい、桐島です』
「……あ、桐島さん。絢乃です。今日は色々ありがとう。――今、大丈夫かな? 何か食べてる?」
第一声が「もう家に着いた?」ではなく「何か食べてる?」だったのは、彼の話し方が何だかモゴモゴしていたからだった。もちろん、家に着く前に軽く何か食べている可能性もなかったわけではないけれど……。
『ええ、大丈夫ですよ。もう自宅に着いて、夜食にコンビニで買ってきたパンを食べていただけですから』
「ああ、そうなんだね。――あのね、桐島さん。さっき、ママと一緒にパパの説得頑張ってみたの」
『そうですか。――で、どうでした?』
彼は「そうですか」の後に「ちょっと待って下さいね」と呟いて口の中のものを飲み込んだ後、続きを促した。
「明日ママに付き添ってもらって病院に行ってくる、って。大学病院にパパのお友だちが内科医として勤務してるから、その先生に診てもらうんだって」
『そうですか、ちゃんと病院に行かれるんですね。それはよかった』
「うん。まだ安心はできないけど、とりあえずパパが病院に行く気になってくれただけでも一歩前進かな。アドバイスをくれたのが貴方だってことは言わなかったけど、言った方がよかった?」
わたしはあえて、貢の名前を出さなかった。父が機嫌を損ねた場合、彼にまでとばっちりが行く可能性を考えてのことだった。
『いえ……まぁ、僕はどちらでもよかったですけど。絢乃さん、ご存じでした? お父さまは篠沢商事の社員や、篠沢グループの役員全員の顔と名前を記憶されてるんですよ。なので、今日会場にいたのが僕だということも気づかれていたはずです』
「えっ、そうなの!? パパすごすぎ……」
彼が打ち明けてくれた父の驚愕の事実に、わたしは絶句した。父の頭の中が、まさか脳内データベース化していたなんて……!
『――それはともかく、絢乃さんは明日どうされるんですか? お母さまとご一緒に付き添いに?』
「ううん、わたしは明日学校に行くことにした。友だちに心配かけたくないし、パパのことはママに任せようと思って。病名が分かったら連絡してってお願いしておいたから」
『そうですね、僕もそう思います。絢乃さんがついて行かれても、かえってご両親に心配をかけてしまうだけでしょうから』
「やっぱり……そうだよね」
わたしがもっと幼い子供だったら、間違いなく「一緒に行く」とダダをこねていただろう。でも十七にもなったら、どの選択が自分のために一番いいのか分かるようになるものだ。
『明日はきっと、お母さまから連絡があるまで絢乃さんも落ち着かないと思いますが……。あなたの判断はきっと間違っていないと僕は思いますよ』
「うん。桐島さん、ありがとね。貴方も、今日はお疲れさま。今日はこれで失礼するね。これからお風呂に入ろうと思ってたところだから」
『そうですか。あの、湯冷めしないように気をつけて下さいね。それじゃ、おやすみなさい』
彼に「おやすみなさい」を返してから電話を切り、今度は履歴から里歩の番号にコールした。
「――あ、里歩。今大丈夫? あのね、今日――」
彼女にも、パーティー会場であった出来事を話して聞かせた。「詳しい話は明日してあげるね」と言って。
3
――翌朝。学校へ行く支度を終え、朝食を済ませたわたしはダイニングで紅茶を飲んでいた母に声をかけた。
「……じゃあ、行ってきます。ママ、パパのことは任せたよ。連絡待ってるから」
「ええ、分かった。行ってらっしゃい」
史子さんが用意してくれていたお弁当の保冷バッグを持ち、スクールバッグを提げて家を出ようとしていると。
「絢乃、制服のリボン曲がってるわよ。直してあげる」
「あ……、ありがとう」
母は手慣れた手つきで、わたしの胸元の赤いリボンを直してくれた。
クリーム色のブレザーの制服は東京中の女子中高生たちの憧れらしく、初等部から唯一変わらないこの赤いリボンは茗桜女子の生徒たちのお気に入りなのだ。もちろんわたしも。ちなみに母もOGなのだそう。
「……はい、できた。行ってらっしゃい。里歩ちゃんによろしく」
「うん、行ってきます」
父のことはもちろん心配で、付き添いたい気持ちもまったくなかったわけではないけど。自分で「学校に行く」と決めたので、母を信じて連絡を待つことにして家を出た。
* * * *
里歩との朝の待ち合わせは、初等部に入学した頃からの習慣だった。里歩の家があるのが新宿で、京王線への乗換駅も新宿なので、自然と京王線の新宿駅ホームでの待ち合わせになったのだ。里歩は中等部からバレー部に所属していたので、朝練がない日限定だったけれど。
「――あ、絢乃! おは~!」
待ち合わせのホームで元気よく手を振ってくれた里歩に、わたしも少し元気を取り戻した。身長が百六十七センチもある里歩は、同じ制服を着ていてもスカート丈がわたしよりちょっと短くなる。わたしはきっちり膝丈だ。
彼女はショートボブにした髪型と長身のせいで、制服を着ていなければ時々男の子に間違われることもある。
「おはよ、里歩。待った?」
「ううん、あたしも今来たとこだよ。今日来なかったらどうしようかと思った」
「昨日の電話で『行く』って言ったでしょ。何の心配してんのよ」
「そうだけどさぁ。――絢乃、昨日は大変だったね」
「うん。まさかパパがあんなことになるなんて……」
父が倒れたことはショックだったけれど、なぜか思い出したのは貢のことだった。
「でもね、悪いことばっかりじゃなかったの。実は、昨日の電話では言わなかったんだけど、ちょっと気になる人ができちゃって」
「ええっ!? マジ? どんな人?」
わたしが頬を染めながら打ち明けると、里歩が前のめりに食いついてきた。
「篠沢商事の社員の人なんだけど、二十代半ばくらいで、顔はそこそこイケメンだよ。身長は百八十ないくらいかなぁ。真面目だけど優しくて、すごく親切にしてくれた。帰りもクルマで家まで送ってくれたんだよ」
「あらあら」
――前日の夜、バスタブに浸かりながら考えていたのも、貢のことばかりだった。一人の男性のことがこんなに気になったのは生まれて初めてのことで、これが「恋」というものなのかとわたしは初めて知った。
「もしかしてアンタ、その人のこと好きになっちゃった?」
「…………えっ? うん……そうかも」
素直に認めたことで、「ああ、やっぱりそうなんだ」と自分の中でしっくり来た。
「なるほどねぇ♪ どうりで今日、髪もお肌もいつもに増してツヤツヤなわけだ。アンタはいっつも可愛いしスタイルいいけどさぁ」
「そう……かな?」
わたしは普段から髪やお肌のケアに手を抜かない主義だけれど、恋をしたら幸せホルモンがいっぱい出るのでより髪やお肌のツヤがよくなる、ということらしい。
「その人、桐島さんっていうんだけどね。もう連絡先も交換してあるの。昨日会ったばっかりなんだけど……」
「それって〝一目惚れ〟ってことだよね?」
「えっ、そう……なのかな」
わたしは別に、ルックスだけで彼に惹かれたわけではないのだけれど。知り合ったばかりの相手に恋をしたということは、つまりそういうことなんだろうと解釈した。
「でも、パパが大変な時にいいのかなぁ? ちょっと不謹慎だよね……」
「そんなことないんじゃない? そういう人が一人でもいるっていうのは心強いよ。精神的支柱っていうか、心の拠りどころっていうか? アンタの恋、あたしは応援するよ」
「そうかなぁ……。ありがと」
――そんな話をしていると、ホームに電車が滑り込んできた。朝の通勤・通学ラッシュの真っ只中で、この日も車内は混み合っていた。
「――あのね、里歩。わたし昨日、覚悟を決めたの。パパに万が一のことがあったら、わたしが篠沢グループのリーダーになるんだ、って」
里歩と二人、ドア付近に陣取ったわたしは彼女に自分の決意を打ち明けた。
「えっ、そうなの?」
「うん。昨夜、閉会の挨拶した時にね、これは遠くない未来に自分がやらなきゃいけないことなんだって思ったの。だから今から覚悟決めとかなきゃ、って」
本当に覚悟を決めたのは、帰りの車の中で貢と話していた時だったけれど。
「へぇー、スゴいじゃん絢乃! マジ尊敬するわー!」
「そんなに大げさなことじゃないよ」
「いやいやー。あたしが同じようにやれって言われても絶対できないもん。マジでスゴいって」
「そんなことないと思うけどなぁ」
わたしは謙遜したけれど、里歩は「またまたぁ」と尊敬の|眼|差しをやめようとしなかった。
「……あ、そうだ。わたし今日、ママから連絡あったら早退することになると思うから」
「そうだよね。オッケー♪ 授業のノート、アンタの分も取っとく」
「ありがと。頼んだよ」
* * * *
――午後の授業が始まって間もなく母からスマホに電話があり、わたしは早退することになった。電車での帰宅ではなく、迎えが来ると言われた。
「……あの、先生。母から後で連絡があると思うんですけど、早退届は――」
通話を終えたわたしが、クラス担任である女性国語教諭に早退することを伝え、そう訊ねてみると。
「明日も登校してくるなら、その時で構いませんよ。ご両親によろしく伝えて下さいね。篠沢さん、さようなら」
「はい、……失礼します」
急いで帰る支度をして、校門の前で迎えを待っていた。数分後、迎えに来たクルマは我が家の黒いセダンではなく、見覚えのありすぎるシルバーの小型車。
「…………えっ!?」
「絢乃さん、お迎えに上がりました。どうぞ乗って下さい」
「桐島さん……? どうして」
迎えに来てくれたのは篠沢家の専属運転手である寺田さんではなく、なんと貢だった。
「お母さまから頼まれたんです。『絢乃さんの学校まで迎えに行ってやってほしい』と。直接ではなく、会長秘書の小川さんを通してですが」
「……そう、なんだ」
どうして母がわざわざ彼に迎えを頼んだのか、彼と小川秘書とはどんな関係なのか。疑問はたくさん浮かんできたけれど、とにかくわたしは前日と同じように助手席に乗り込んだのだった。
4
状況的には前日とほとんど変わっていないのに、わたしは何だかソワソワと落ち着かなかった。「彼のことが好きだ」と自覚したせいだったのかもしれない。
「……迎えに来てくれたのが桐島さんで、なんかビックリしちゃった。てっきり寺田さんが来るものだと思ってたから」
それでも何か言わなきゃ、と話題を探して口を開いてみた。彼に父の病気のことを話すには、まだタイミング的に早いと思ったから。
「寺田さんって、昨夜パーティー会場に来られていた方ですか? 五十代後半くらいでロマンスグレーの」
「そう。篠沢家の専属ドライバーさんなの。もう三十年くらい、ウチで働いてくれてるらしいよ」
「そうなんですね」
貢はこんなくだらない話題なのに、律儀に相槌を打ってくれた。
「……でも、ビックリしたけど嬉しかったよ。来てくれたのが貴方で。……ってこんな時に何言ってるんだろうね、わたし! ゴメンね!?」
好きな人が迎えに来たからって浮かれている場合ではない、と我に帰り、この話は一旦リセットした。
「ねえ、貴方と小川さんってどんな関係なの?」
これは多分嫉妬なんかじゃなくて、純粋な疑問だった。彼女が母からの個人的な頼まれごとを貢に託したということは、二人がプライベートでも近しい関係だからなのかな、と。
「小川さんは、僕と同じ大学の二年先輩なんです。学生時代から色々とお世話になっていて……。でもそれだけです。先輩は僕のことをただの後輩としか思っていませんし、多分好きな人がいるはずなので」
「…………小川さんに、好きな人?」
貢はなぜか言い訳がましく弁解していたけれど、わたしはそれよりもそっちの方が気になっていた。そして何となく分かっていた。それが父であることが。けれどそれは決して不倫なんかじゃなく、彼女の片想いだった。
「――ところで絢乃さん。お父さまの病名は何だったんですか? お母さまから連絡があったんですよね?」
「うん……、ちょっと待って」
わたしがなかなかこの話題を言い出せなかったのは、まだ心の準備が整っていなかったからだった。あまりにもショックが大きすぎて、胸が押し潰されそうで、気持ちの整理ができなかったからだ。
「…………パパね、末期ガンで、余命三ヶ月だって」
やっとのことで言うと、彼もハッと息を呑んだのが分かった。
「病状が進行しすぎて、もう手術はできないって。通院で抗ガン剤治療を受けることにはなったけど、それでどこまで持ちこたえられるか、って……」
「…………そう、ですか」
鼻をすすりながら言ったわたしに、彼も茫然となっていた。
「……どうしてこんなことになっちゃったのかな。どうしてもっと早く気づいてあげられなかったんだろう? わたし……悔しい! どうしてわたしじゃなくてパパだったんだろう……」
とうとうこらえきれなくなり、わたしは泣き出した。彼の前で泣きたくなんかなかったのに、悔しさと絶望と、何だかよく分らない感情から涙は次々溢れてきた。父にこんな試練を与えた神様を恨んだ(とは言っても、我が家は無宗教だけど)。
貢はわたしが泣いている間ずっと、見ないフリをしてくれていた。わたしに気が済むまで泣かせてあげようという、彼の優しさだったんだと思う。
「――ゴメンね、桐島さん。もう大丈夫」
「落ち着かれたようですね。よかった。――絢乃さん、僕から一つアドバイスさせて頂いてもいいですか?」
「……うん」
彼が励まそうとしてくれているのだと分かり、わたしは彼の方に向けて顔を上げた。
「お父さまの余命をあと三ヶ月しかないと悲観せず、あと三ヶ月もあると前向きに捉えてみてはどうでしょうか」
「うん……?」
「三ヶ月もあれば色々できますよ。ご家族で思い出を作ったり、親孝行もできます。お父さまが死を迎えられるまでの覚悟……というか心の準備も十分にできるはずです。これからの三ヶ月間、お父さまとの一日一日を大事に過ごして下さい。何かあれば、何でも僕に相談して下さいね」
「うん……そうだよね。パパは明日すぐにいなくなっちゃうわけじゃないんだもんね。桐島さん、ありがと! 貴方がいてくれてよかった」
彼の言葉で気づかされた。三ヶ月という、父に残された時間は決して短くないんだと。わたし一人だったらもっと悲観していたかもしれない。でも、彼のおかげで少し前を向けた気がした。
* * * *
「――絢乃さん、僕は会社へ戻らないといけないので、これで失礼します」
篠沢家の前でわたしを降ろしてくれた貢は、残念そうにそう言った。
「わざわざ仕事を抜けて来てくれたの? ありがとう。ゴメンね」
そのせいで彼が上司の人に怒られたら……と、わたしは気が咎めたけれど。
「いえいえ、会長夫人の頼みごとでしたら上司にも咎められないでしょうから。では、これで――」
「あっ、ちょっと待って!」
何かお礼をしなきゃ、と彼を引き留め、スクールバッグからピンクゴールドの長財布を取り出した。一万円札だと彼に気を遣わせてしまうし、かと言って千円札では少なすぎる。悩んだ末に五千円札を抜き取り、二つに折り畳むと彼の右手に握らせた。
「これ……今日のお礼と、泣いたことへの口止め料込みで」
「そんな、受け取れませんよ。お金が欲しかったわけじゃありませんから」
「受け取ってくれないと困る。今のわたしにはこれくらいしかお礼できないから、ね?」
わたしは紙幣を握らせた彼の手にぐっと力を込めた。そんなわたしの圧に負けたのか、彼はとうとう折れた。
「……あなたには負けました。ありがとうございます。お父さまが心配でしょう? 早く行って差し上げて下さい」
「うん。じゃあ……また」
わたしは頷き、彼に背を向けた。彼がお金を受け取ってくれたことに満足したからじゃない。何より父と話がしたかったから――。
玄関で、もどかしい思いでスリッパに履き替えてリビングに飛び込むと、父はケロッとした顔をしていた。母の話では、余命宣告の時に父もその場で一緒に聞いていたはずなのに。
「――おかえり、絢乃」
「ただいま……。パパ、大丈夫なの? 余命宣告受けて、ショックだったんじゃないの?」
「そりゃ、まぁな。ショックを受けなかったと言えばウソになるが……。お父さんは前を向くことにしたんだ。これから残された時間を、お前やお母さんと一緒に大事に過ごそうと。ちゃんと会社にも顔を出す。体が動く間はな」
「そっか……」
父も覚悟ができているようで、わたしに語った内容も貢からのアドバイスと同じだった。父は自分の病気と、命と向き合うことに決めたのだ。それならわたしも、父の命の期限と向き合わなければ。
「わたしも、これからパパともっと話したい。一緒に思い出いっぱい作ろうね」
「ああ」
父が病気と闘うのなら、ひとりでは闘わせない。精一杯、父を支えていこうと決めた。
――わたしは夕食の時間まで自室で過ごし、その間に里歩とメッセージのやり取りをした。
〈パパ、ガンで余命三ヶ月だって!
ショックだけど、パパが治療頑張るならわたしも前向こうって決めた。
桐島さんもそう言ってくれたから……〉
〈そっか。あたしも安心したよ♪
桐島さんってホントいい人みたいだね。あたしも会いた~い!!!〉
〈いつか里歩にも紹介するよ。楽しみにしててね♡
明日も学校行くから、今日の午後のノートよろしく。〉
父の余命宣告というつらい現実にぶち当たっても、わたしは前向きな気持ちでいられた。それは里歩というかけがえのない親友の存在と、初めての恋の魔力がそうさせてくれたのかもしれない、と今は思う。
父の最後の望み
1
――こうして父は、出社しながら通院でガン治療を受けることになった。主治医である後藤先生も許可して下さっていたらしいけれど、それが本当だったかどうか今となっては確かめようがない。
父の会社での様子は貢がわたしに教えてくれていた。時々目眩やひどい頭痛に襲われ、倒れることもあったという。それでも父は仕事を愛し、治療と並行して会長としての職務に奮闘していた
貢とは電話で話したり、メッセージのやり取りをすることがほとんどだったけれど、彼は時々わたしをクルマで色々な場所へ連れ出してくれた。「学校と家の往復だけでは息が詰まるだろうから、たまに息抜きでどこかへ連れ出してあげて」と母から頼まれたそうだ。
電話では話しにくいことも、直接顔を見てなら話しやすい。それに何より、想いを寄せている彼に会えるのがわたしは嬉しかったので、母には本当に感謝している。
そんな日々が一ヶ月ほど経った頃――。
「絢乃さん、今日はどこに行きたいですか?」
この日の放課後も、彼は学校の前まで迎えに来てくれて、制服のまま助手席に乗り込んだわたしにそう訊ねた。どうでもいいけど、三時半ごろに来ていたということは会社に定時までいなかったということだ。どうなっていたんだろう?
「とはいっても、あまり遠くへは行けないんですけどね。遅くなるとお母さまに心配をかけてしまうので」
「う~んと……、今日は世界一のタワーに行ってみたいかな。実は一度も行ったことないの。っていうか隅田川の向こう側に行くのも初めてで」
「へぇ、初めてなんですか?」
「うん。東京で生まれ育って十七年経ったけど、ホントに一度も行ったことない。実はパパが高所恐怖症でね」
父はそのくせ、飛行機に乗るのは平気だったというから不思議だ。
「そうなんですね。僕も行くのは大学時代以来なんです。――じゃあ、行きましょうか」
そうしてシルバーの小型車はスタートした。
「――あ、そうだ。僕、新車買いましたよ」
「えっ、もう買ったの?」
わたしは耳を疑った。たった一ヶ月前にその話をしたばかりだったのに、彼の決断力というか行動力には恐れ入る。もしくは、彼に新車購入を決断させる何かがあったのだろうか。
「はい。といっても内装をカスタムしたりしたので、まだ納車はされてないんですけどね。全部で四百万くらいかかってしまいました」
「新車ってそんなにかかるんだ……」
わたしが物心ついた頃には、我が家にはすでにクルマが三台あったので(例の黒塗り車と父の乗っていたセダンと、史子さんが乗っている小型車だ)、自動車を買うのにどれくらいの費用がかかるかなんて考えたこともなかった。それはもしかしたら、裕福な家庭に育ったせいで金銭感覚がおかしくなっているからかもしれないけれど。
「……っていうか桐島さん、今日も会社早退してきたんだよね? 大丈夫なの?」
わたしは会社内での彼の立場を心配して、そう訊ねた。
「大丈夫ですよ。……実は僕、以前から総務課で上司のパワハラ被害に遭ってまして、部署を異動することにしたんです。で、今は異動先の部署の研修中で早く退勤させてもらってるんです。お母さまの計らいで」
「そっか……、異動するんだ。どこの部署?」
「えーと……、それはまだお教えできません。そのタイミングが来たら、真っ先に絢乃さんにお伝えします」
わたしの質問にお茶を濁した彼は、「できればその時が来ないでほしい」と言っているようにも思えた。
「あと、新車も真っ先にあなたにお披露目しますね。楽しみにしていて下さい」
「うん、楽しみにしてる」
推定年収六百万円の彼が、その年収の三分の二もかかる大金をはたいて購入した新車。最初に披露してくれるのがわたしなんて嬉しくて仕方がなかった。
「――わぁ……、スゴくいい眺め!」
わたしのお小遣いで二人分のチケットを買って天望デッキに上がった途端、わたしはガラス越しに見えた東京の街並みに歓声を上げた。地上三百五十メートル地点から見ると、篠沢商事本社のある丸ノ内も新宿の高層ビル群もミニチュアのように見えた。
「気分転換できました?」
「うん! 来てよかった。桐島さん、連れてきてくれてありがとね!」
行き先をリクエストしたのはわたし自身だったけれど、イヤな顔ひとつせずに付き合ってくれた貢は本当にいい人だ。
「――ところで絢乃さん、お小遣いって毎月いくらくらいもらってるんですか?」
彼が素朴な疑問を口にした。わたしが学校から家まで送ってくれたお礼にと五千円札を握らせ、タワーの入場チケットも彼の分まで買ったので訊きたくなったのだろう。
「んー、毎月五万円。でも、わたしには多いくらいなんだよね。ブランドものとか好きじゃないし、高校生の交際費なんて限られてるでしょ」
特に使い道のないお金は余る一方で、わたしの長財布はいつもパンパンになってしまっていたのだ。
「確かにそうかもしれませんけど。お嬢さまって、もっとお金を湯水のように使うイメージがあったので、つい……」
「よそのお嬢さまはどうか知らないけど、ウチはそんなことないよ? パパは元々一般社員だったし、ママだって教師やってた頃は自分のお給料、自分で管理してたっていうし。わたしも、そんな両親を見習ってるから」
彼の持つイメージはわたしと真逆だったので、苦笑いしながら答えた。
里歩と放課後にお茶する時だって、わたしは高級カフェよりもお手頃価格のコーヒーチェーンやファストフード店を選んでいたし、コンビニでスイーツやペットボトル飲料を買うこともしょっちゅうだ。そうやって、いかにお金をかけずに楽しく過ごせるかということを心掛けていた。ケチだからではなく、里歩や周りの人たちに気を遣わせたくないから。
「お金がたくさんある人ほど、お金の使い道には気を遣うものなんだって。これ、ママの請け売りね」
「なるほど……」
よそのお宅はどうだか知らないけど、少なくともウチは代々そうしてきた。
「――お父さまとは、お家でどんな感じですか?」
「パパが病気だって分かってから、よく話すようになったよ。学校のこととか友だちのこととか、TVの話題とか。今までこんなに話してなかったことあったのかー、ってくらい。大した内容でもないのにね、何か話してるのが楽しいの」
父との関係を訊ねた彼に、わたしは目を細めながら答えた。秋は日暮れが早く、西の空はオレンジ色と紫色のグラデーションになっていた。
「余命宣告された時はショックだったけど、今はパパと過ごす時間の一分一秒が尊く思えるの。そう思えるようになったのは貴方のおかげだよ。桐島さん、ホントにありがと」
そう言って彼に向き直ると、夕焼け色に染まった彼の姿にドキッとした。あまりにも幻想的で、ロマンチックだったから。
「いえ、感謝されるようなことは何も……。ですが、僕のアドバイスが絢乃さんに受け入れて頂けたようでよかったです」
彼はまた照れたように謙遜した。彼は元々照れ屋さんなのかも、と思った。
「そういえば、もうすぐクリスマスですね。絢乃さんはもう予定が決まってらっしゃるんですか?」
「……う~ん、まだ特にこれといっては。桐島さんは? 彼女と過ごしたりするの?」
わたしは当たり前のように訊ねたけれど、そういえば彼に恋人がいるかどうかもその時はまだ知らなかった。
「いいえ、僕もまだ何も。というか彼女はいないので、今年もきっとクリぼっちですね……」
彼は、バックに某大物男性シンガーのクリスマスソングがかかりそうな感じで答えた。
「……そう。わたしは毎年、親友と二人でお台場にツリーを見に行くんだけど、今年はそれどころじゃないからなぁ。親友も遠慮するだろうし」
「そうですよね……。今年のクリスマスは、絢乃さんがお父さまと過ごされる最後のクリスマスですもんね」
「うん……」
彼に言われて気がついた。そうか、父と過ごす最後のクリスマスか――。
2
――翌日の終礼後。教室で帰る支度をしながら前日の貢との話を里歩に聞かせると、彼女にこんな質問をされた。
「ねえ、アンタと桐島さんってもう付き合ってんじゃない?」
「付き合ってないない! お互いそれどころじゃないし、そもそもわたし、『付き合う』の定義が分かんないもん」
「そうかなぁ? じゃあさ、定義が分かってたら付き合ってるってこと?」
「それは…………」
わたしは詰まった。たとえ定義を知っていたとしても、付き合っているかどうかをわたし側だけで決めるわけにはいかない。
「桐島さんの方の気持ちが分かんないと、付き合ってるとは言い切れないんじゃない? ……多分」
苦し紛れにそんな言い訳をしてみると、里歩がニヤリと笑った。
「あたし思うんだけどさぁ、多分桐島さんもアンタのこと好きだね」
「えっ!?」
「だってさぁ、大人の男が好きでもない女子高生と連絡取り合ったり、ドライブデートに連れ出したりする? ヘタしたらパパ活と間違われかねないのに」
「パパ活なんて、彼はまだそんな歳じゃないよ」
わたしは反論した後、論点がズレていることに気がついた。言い方こそ乱暴だけれど、里歩の言いたかったことは的を射ていた。
「そう……なのかなぁ」
もしそうならいいのになぁと思いつつ、そうじゃないと思っていた方がいいとも考えた。期待していたら、違った時のショックが大きいから。
「――あ、ところでさ。今年のイブなんだけど、お台場行きはやめてアンタの家でパーティーするってどう?」
「パーティーって、クリスマスパーティーのこと?」
「うん。ホームパーティーなら、絢乃もお父さんの心配しながら出かける必要ないし、お父さんも体調よければ参加してもらえるし。いいんじゃない?」
「なるほど……、ホームパーティーか。いいかも」
里歩の提案は、ナイスアイディアだとわたしも思った。どうして気づかなかったんだろう?
「みんなでケーキとかごちそう食べて、歌って、プレゼント交換とかやってさ。楽しそうじゃん? あたし、久々に絢乃の手作りケーキが食べたい♪」
「うん! じゃあ、久しぶりに腕ふるっちゃおうかな」
わたしは学校でどの教科も(体育だけは除いて)成績がよかったけれど、中でも家庭科の成績はピカイチだった。料理は得意中の得意で、趣味はスイーツ作りなのだ。それはもう、プロ級の腕前と言ってもいい。
「家に帰ったら、お父さんとお母さんにも話してみなよ。あたしの提案だって言っていいからさ」
「オッケー、分かった」
里歩のことは両親もよく知っていたし、この提案を却下される心配はなかったので、わたしも即答した。
「ところで、今日は王子さまの迎えはないわけ?」
「うん。彼も忙しいみたいだし、そうしょっちゅうは来てくれないよ」
その頃、貢は新しい部署へ異動するための残務処理やら何やらで忙しそうだった。それに、「王子さま」って何だ。彼は一般的な会社員なのに。……そりゃ、見た目は確かに〝王子さま〟っぽいけど。
「あっそ。じゃあまた明日ね。あたし、今日はこれから部活なんだ。キャプテンになったからもう忙しくてさ」
「うん、また明日ね。夜に連絡するよ」
わたしは部活に出るという里歩と別れて、一人で昇降口を出た。茗桜女子は、靴を履き替えない欧米スタイルなのだ。
* * * *
――その日の夕食の時間、わたしは両親に里歩から提案されたクリスマスパーティーの話をした。
「……あら、いいじゃない! やりましょう、クリスマスパーティー! ねえあなた?」
母はわたしの話を聞き終えるなり、乗り気になった。
「そうだな。お父さんも体調がよければ参加しよう。疲れたらすぐ部屋に戻るが、それでもよければな」
「それはもちろんだよ。パパの体調が第一だもん」
わたしも母も、父には無理をさせないつもりでいた。もちろん、提案してくれた里歩もそうだろう。
その頃の父はもう、抗ガン剤の中で最も強めの薬すら効果が出ないくらいに病状が悪化していて、後藤先生からも「年を越せるまで体力がもつかどうか分からない」と言われていた。歩くことさえままならず、移動は車イス。会社に顔を出すことも困難な状態になっていたのだ。
「そうだ、絢乃。クリスマスパーティーに一人、招待してほしい人物がいるんだが。篠沢商事の社員で、桐島という男だ」
「えっ、桐島さんを?」
父の口から彼の名前が飛び出すとは思ってもみなかったわたしは、動揺から思わず声が上ずった。
「なんだ、絢乃は桐島君と知り合いだったのか。――彼には会社で何度か助けてもらっていてな、礼をしたいと思っていたんだ」
「そうだったんだ……。うん、分かった。わたしから連絡してみるね」
「あら、よかったわねぇ絢乃。桐島くんのこと好きなんだものね?」
「えっ!? ママ、いつから気づいてたの……」
図星を衝かれてうろたえるわたしに、父も「やっぱりそうか」と頷いていた。母どころか、父にまで彼への気持ちがバレバレだったなんて……!
「…………実はそうなの。わたしね、生まれて初めての恋をして、その相手が桐島さんで」
これは愛読している恋愛小説から得た知識で、父親というのは娘の恋人がどんな男性でも気にいらないものらしい。だから、わたしも父に申し訳ないと思ったのだけれど。
「いいじゃないか、絢乃。彼が相手なら、お父さんは大賛成だ。きっと絢乃のことを大事にしてくれる、桐島君とはそういう男だ」
「そうね。ママも、彼が絢乃の彼氏になってくれるなら大歓迎だわ」
「あ……そうなんだ。でも、わたしたちまだ付き合ってるとかじゃ……」
両親が早とちりをしてそんなことを言っているんじゃないかと思い、わたしは慌てて否定したけれど。そこではたと気づいた。わたしと彼が交際を始める前に、父はこの世からいなくなってしまうかもしれないんだ、ということに。
「絢乃、次はいつ言えるか分からないから、今言っておく。――絶対に幸せになれ」
「あなた……」
遺言のように言った父に、母も涙ぐんでいた。今思えば、きっとこれが父の最後の望みだったんだ――。
「…………うん。パパ、ありがとね。じゃあ、クリスマスパーティーをやるってことで、里歩に連絡入れとくね。あと桐島さんにも、わたしからちゃんと伝えとくよ」
「ありがとう、絢乃。頼む」
「うん」
* * * *
――夕食後、自室に戻ったわたしはさっそく里歩にメッセージを送信した。
〈里歩、朗報だよ! クリスマスパーティー決行します!!
パパもママもすごく乗り気になってくれたよ♪
あと桐島さんも招待することになりました♡〉
〈よっしゃ、オッケー☆ じゃあイブの予定空けとく。
桐島さんも来るんだ? 絢乃、ドキドキだね……♡〉
〈うん、パパから頼まれたの。ついでに、わたしが彼に恋してることもバレてた(汗)〉
〈あれまあ〉
里歩からの「あれまあ」の後には、「それは困ったねー」と言っている可愛いペンギンのキャラクターのスタンプが押されていた。
〈別に困ってはいないよ。
というわけで、プレゼント交換もやるからねー♪ 何がもらえるか楽しみ♡
わたしもプレゼント、頑張って選ばないと!〉
里歩から「りょーかいしました!」のスタンプが返ってきたところでアプリを閉じ、彼には電話でイブのパーティーのことを伝えたのだった。
「――桐島さん、今大丈夫? あのね、イブなんだけど……」
3
――そして、父と過ごす最後のクリスマスイブ当日。
「ふぅーーっ……。絢乃、飾りつけはこんなカンジでいい?」
学校はすでに冬休みに入っていて、午後イチで来てくれた里歩はパーティー会場となったリビングダイニングの装飾やケーキ作りなどを張り切って手伝ってくれた(とはいっても彼女は料理があまり得意ではないので、ケーキに関してはイチゴのトッピングを手伝ってもらっただけだった)。
彼女はもう十年以上前から篠沢邸に遊びに来ていたため、我が家でも「勝手知ったる」という感じだった。
「うん、いいんじゃない? ツリーも飾ったし、このサンタ帽もクリスマスらしくていいと思う。ありがとね、里歩」
里歩の長身は、高いところにガーランドを飾るのに大いに役立った。わたしや母では身長が足りなくて届かないのだ。
「桐島さん、そろそろ来るかなぁ」
「そうだね。夕方六時スタートって伝えてあるから、もう来る頃かな」
わたしは腕時計を見ながら、里歩に答えた。
――あの夜、「クリスマスイブの夕方から我が家でパーティーをやるんだけど、来ない?」と彼を電話で誘ったところ、最初は「僕が行ったら場違いなんじゃないですか」と遠慮していたけれど、父が招待したいんだと伝えると、かしこまったように「参加させて頂きます」と言ってくれた。
後から知ったことだけれど、彼はウチに来ることを「敷居が高い」と思っていたらしい。何の負い目もないはずなのに。それとも、わたしに好意を持っていることを父に後ろめたかったんだろうか。
――ピーンポーン……、ピーンポーン……。
六時少し前、リビングにインターフォンの音が響いた。……来た来た!
カメラ付きインターフォンのモニターを確認すると、「ちょっとおめかししました」という感じの私服姿の彼が映っていた。
「――はい」
『あ、桐島です。今日はお世話になります。――クルマ、カーポートに勝手に停めさせて頂きましたけど』
「いらっしゃい、桐島さん! 全然オッケー☆ 門のロック開いてるからどうぞ入って」
モニターを切ると、史子さんがポカンとした顔で後ろに立っているのに気がついた。
「……あ、ゴメンね!? 史子さんの仕事取っちゃって」
「いいえ、よろしゅうございます。お嬢さまのお知り合いの方でございましょう?」
「うん。パパの会社の人だよ。今日のメインゲスト」
その言い方は少しオーバーだったかもしれないけれど、父が招待した相手なのだからあながち間違ってはいないはずだ。
「分かりました」とニコニコ顔で頷き、史子さんはやりかけだった他の仕事に戻った。
「――じゃあわたし、桐島さんを出迎えに行ってくるね」
里歩にそう言ってリビングを出ようとすると、「絢乃、ちょっと待ちな」と引き留められた。
「なに?」
「アンタ、鼻のアタマにホイップクリーム付いてるよ。その顔で彼を迎えるつもり?」
「えっ、ウソ!?」
彼女はさりげなく、デニムのミニスカートのポケットから手鏡とポケットティッシュを取り出し、わたしの鼻に付いた汚れを拭き取ってくれた。
「……はい、取れた。まったくこの子はもう、手がかかるんだから」
やれやれ、と呆れたように肩をすくめた里歩は、同い年だけれどわたしのもう一人の〝お母さん〟みたいだった。
「ありがと。じゃあ、今度こそ行ってくるね」
「――絢乃さん、今日はご招待、ありがとうございます。おジャマします」
「いらっしゃい! 来てくれてありがとう。どうぞ、これに履き替えて。会場はリビングダイニングなの」
わたしは玄関にいる貢をとびっきりの笑顔で迎え、来客用に用意された紺色のモコモコスリッパを勧めた。ちなみに、里歩もそれの色違いであるピンクのスリッパを履いていた。
「……あの、玄関に女性もののウェスタンブーツがあったんですけど。あれはどなたのですか?」
「わたしの親友だよ。中川里歩っていう子で、今日も午後イチで来て準備を手伝ってくれたの。後で紹介するね」
「……そうですか」
廊下でのわたしとの会話中も、彼はソワソワと落ち着かない様子だった。やっぱり、わたしのカンは当たっているんだろうかと思い、先手を打ってみた。
「――ねえ桐島さん。わたしとちょくちょく会ってること、パパに後ろめたいと思ってるなら大丈夫だよ? パパも知ってるもん」
「え…………、そう……なんですか?」
「うん」
わたしは頷いてから、「それはどうして」と理由を掘り下げられたらどうしようかと思った。ここは告白するタイミングではなかったし、うまく言い逃れる自信もなかったから。
「ああ、そうだったんですか。よかった……」
ようやくホッとした様子の彼を見て、わたしのカンは当たっていたんだと確信した。まだ、彼がわたしに対して抱いている好意が恋心かどうかまでは分からなかったけれど。
「――ところで今日、お父さまの具合は……? もう会場にいらっしゃるんですか?」
「まだ部屋にいるみたい。具合は相変わらずかな。気分がよければ顔出してくれるって言ってたけど」
「そうですか」
その頃の父は、後藤先生も言っていたとおり体力はほぼ残っていなくて、気力だけで生きているような状態だった。体重もかなり落ちてはいたけれど、最近の抗ガン剤は副作用が少ないらしい。髪が抜け落ちるようなこともなく、痩せた以外は病気になる前の父とほとんど変わっていなかった。
「……もう、わたしもママも覚悟はできてるの。パパは十分頑張ったんだから、旅立った時は『お疲れさま』って見送ってあげようね、ってママと話してて」
彼が気を遣わないように、わたしは努めて明るい口調を心掛けた。
父の余命宣告をされた日に泣いて以来、彼の前では一度も涙を見せないようにしていた。彼は優しい人だから、わたしが泣いていたらきっと自分のことのように心を痛めてしまうだろうと思ったのだ。
「……って、なんかゴメンね! 今日はこんな湿っぽい日じゃないよね」
「絢乃さん……、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫! ――あ、ここがリビングダイニングね。どうぞ」
わたしが無理をしているんじゃないかと心配してくれていた彼に、わたしはカラ元気で答えた。
「里歩、桐島さんが来てくれたよー。……って、パパ! 今日は気分いいみたいだね。よかった」
貢を連れてリビングダイニングに戻ると、車イスに乗った父が里歩にサンタ帽を被らされていた。
「会長、今日はお招き頂いてありがとうございます。お邪魔させて頂きます」
「桐島君、堅苦しい挨拶は抜きにしよう。よく来てくれたね、ありがとう。楽しんでいきなさい」
「はい」
勤務先のボスに対しての接し方で挨拶した彼を、父は穏やかな笑顔で迎えた。「社員はみんな家族」という考え方がここでも表れていて、父らしいなと思った。
「――それで、こちらが絢乃さんのお友だちの」
「中川里歩です。初めまして、桐島さん。絢乃がいつもお世話になってます」
「ああ、いえ。初めまして、里歩さん。桐島貢と申します。よろしく」
彼はわたしと同じく八歳年下の里歩に対しても態度が固く、わたしも里歩も苦笑いした。
「桐島さん、もっと肩の力抜いて。里歩はわたしと同い年だよ」
「そうですよー。ほら、リラーックスして」
「……はあ」
わたしと里歩が貢の肩や背中をポンポン叩くと、彼は困ったような笑顔を浮かべた。
ちなみに、あれから一年半が経った今でも、彼の里歩に対する態度は相変わらず堅苦しい。この後、彼とわたしとの関係性が変わったせいもあるのかもしれないけれど。
4
――それから二時間半ほど、わたしたちはクリスマスの楽しいひと時を過ごした。
オープンサンドやパイシチュー、ローストビーフなどのごちそうに、里歩が差し入れてくれたフライドチキン、そしてわたしお手製のクリスマスケーキがテーブルに並び、BGMにはクリスマスソングが流れていた。
わたしがワイルドにフライドチキンを頬張る姿に貢は目を丸くしていたけれど、「おかげで自然体の絢乃さんが見られて親近感が湧きました」と彼は嬉しそうだった。
手作りのケーキは白いホイップでデコレーションしたイチゴショートで、実は香りづけ程度としてスポンジにリキュールを少し入れていた。父は甘いものがあまり得意ではなかったためだ。でも、娘であるわたしが作ったお菓子は喜んで食べてくれていた。楽しみにしてくれていた父に、このケーキを美味しく食べてもらいたいという思いでこのひと手間を加えたのだった。
「――それでは、今からプレゼント交換を始めま~す☆ まずはわたしから」
わたしは用意していた三つの包みを、里歩・父・貢にそれぞれ一つずつ手渡していった。
「里歩にはこれ。寒い中部活に行く日もあるだろうから、マフラーと手袋ね」
「わぁ、ありがとー♡ 大事に使わせてもらうね♪」
「パパにはこれ。最近背中が痛そうだから、クッションにしたの」
「ありがとう、絢乃」
「そして、桐島さんにはこれ。……っていっても、包みの形でバレちゃってるだろうけど、ネクタイです。わたしのセンスで選んでみました」
実は、彼へのプレゼント選びにいちばん悩んだ。父への贈り物は何度か選んだことがあったし、親子なので好みも把握していたけど、若い男性へのプレゼントを選ぶのはこれが初めてだったから。
「僕にまで? ありがとうございます。……これ、僕にはちょっと派手じゃないですか?」
包みを開いた彼は、赤いストライプ柄のネクタイに困惑していた。
「えっ、そうかなぁ? 濃い色のスーツに合わせたらステキだと思うけど」
彼はまだ若いし、イケメンなのだ。少しくらい派手なネクタイを締めたって十分似合うはずだと思った。
「そう……ですかね? ありがとうございます」
「んじゃ、次はあたしからね。絢乃、メリクリ~♪」
貢がネクタイを押し頂いたところで、里歩がわたしにプレゼントを手渡してくれた。
「っていうか、絢乃の分しか用意してなかったんだけどさ。開けてみ?」
「うん、ありがと。……わぁっ、〈Sコスメティックス〉のフェイスパウダーと口紅だ♡ しかもこの色、新色じゃない?」
「そうだよ。この色、アンタに似合いそうだなーと思って。ちなみにパウダーのコンパクトはこの季節限定のヤツなんだ」
里歩はボーイッシュに見えて、実は美意識が高いのだ。わたしへのプレゼントにコスメを選ぶなんて、そんな彼女らしい。
「絢乃さん、〈Sコスメティックス〉ってウチのグループにある化粧品メーカーですよね?」
「そう。価格帯が安いから、OLさんとか女子大生だけじゃなくて女子中高生にも人気あるみたい」
「へぇ……」
〈Sコスメティックス〉が創業されたのは、祖父が会長だった頃らしい。母も創業に一枚噛んでいたとかいなかったとか。
「……あの、僕は何も用意していないんですが……」
「ああ、私もなんだが」
女子二人のプレゼント交換を終えたところで、貢と父が申し訳なさそうに手を挙げた。
「いいよ、気にしないで。二人はこのパーティーに参加してくれただけで十分だから」
「そうですか? 何だか、招待されたのに手ぶらで来たのが申し訳なくて。……あ、そうだ。絢乃さん、後ほど少しお付き合いして頂けませんか? お見せしたいものがあるので」
「……えっ? うん、いいけど」
彼がわたしだけにそっと耳打ちしてきたので、わたしはドキッとした。そんなわたしたちの様子を、両親と史子さん、里歩の四人がニヤニヤしながら眺めていた。
――その後、わたしたちは部活の話題で盛り上がった。
里歩がバレー部のキャプテンで、花形ポジションのウィングスパイカーだと知ると、貢はしきりに感心してしまいにはセクハラまがいの発言まで飛び出した。わたしがその場でたしなめたけれど。
そして、彼はわたしと同じく帰宅部だったらしい。てっきり何か運動部に入っていたんだと思っていたわたしは、意外な事実に驚いた。
八時ごろに「疲れたから先に休む」と言った父を母が寝室へ連れていき、その三十分後に片づけを手伝ってくれた里歩が粉雪の舞う中を帰っていった。
そして、史子さんも他の家事をするためにリビングダイニングを出ていき、わたしと貢の二人だけになった。
「――あの、絢乃さん。僕もそろそろ失礼しようかと思ってるんですが、よかったら今から僕の新車、ご覧になりますか?」
「えっ?」
「先ほど、『お見せしたいものがある』と言ったでしょう?」
「あ……」
そう言われて、わたしはやっとピンときた。確かに彼は、プレゼント交換の時にそう言っていたけれど。「わたしに見せたいもの」というのは新車のことだったのだ。
「やっと納車されたので、今日乗ってきたんです。絢乃さんに真っ先にお披露目するとお約束していたもので」
「そういえば……、そうだったね。じゃあちょっと待ってて。部屋からコート取ってくるから」
外は雪が降っていて、タートルネックの赤いニットと深緑色のジャンパースカートだけでは寒いので、わたしは自分の部屋まで上着を取りに戻ろうとしたけれど。
「お嬢さま、上着をお持ち致しましたよ」
絶妙なタイミングで、史子さんがわたしお気に入りのダッフルコートを抱えてリビングへ戻ってきた。
「ありがとう、史子さん。じゃあ、ちょっと出てきます」
「今日はお世話になりました。楽しかったです。それじゃ、僕はこれで失礼致します」
わたしは彼女に手を振り、彼は丁寧にお礼を言って、カーポートへ向かったのだった。
「――これが僕の新車です」
「わぁ、カッコいい! これってけっこう高いヤツだよね?」
彼が披露してくれた新車は、〈L〉のシルバーカラーのセダンだった。ちゃんと4ドア仕様で、内装はぬくもりを感じる濃いワインレッドのシート。父の愛車も同じメーカーのだったけれど、色は紺色で型も少し古かった。
「はい。内装も、絢乃さんに乗って頂くことを考えてこの色を選びました。どうですか?」
「うん、すごくステキだし、乗り心地もよさそう。でも、どうしてわたしのためにそこまで?」
彼が新車をカスタムしたのは、わたしを乗せること前提だったように聞こえて、わたしは首を傾げた。
「実は……ですね、こうしたのは僕の異動先にも関係があって……。もう、絢乃さんには申し上げた方がいいかもしれませんね。僕の異動先というのは、人事部・秘書室なんです」
「秘書……?」
彼が覚悟を決めたように打ち明けたので、わたしは瞬いた。彼は父に死期が迫っていたことを知っていた。そして、父の後継者になるのはきっとわたしだということも。まさか父の死を予測してここまで準備していたわけではないだろうけど……。
「はい。こういう言い方は誤解を招きそうですが、お父さまの跡を継がれるのは十中八九あなたでしょう。僕は万が一そうなってしまった時のために、異動や新車購入を考えていたんです。あなたを支えるため、あなたのお力になるために」
彼は誠実に、この決断に至った経緯をわたしに話してくれた。きっと彼の中で葛藤もあったんだろう。この話をしたことで、わたしを傷付けてしまったらどうしよう、と。
涙の決意表明
1
「本当は、話すべきかどうか、ここに来るまで迷ってたんです。でも、絢乃さんが『もう覚悟はできている』とおっしゃったので、僕も打ち明ける決心がつきました」
「うん、大丈夫。パパのことはもう覚悟できてるし、貴方がパパの死を望んでたなんて思うわけないよ。だってわたし、貴方がそんな人じゃないってちゃんと知ってるから」
「絢乃さん……」
「だから桐島さん、これから先、わたしに力を貸して下さい。わたしのことを全力で支えて下さい。よろしくお願いします」
彼がここまで覚悟を決めている以上、わたしも半端な覚悟でいてはダメだ。そう思って、彼に冷えた右手を差し出した。
「はい。誠心誠意、あなたの支えになります。こちらこそよろしくお願いします!」
彼は両手で、差し出したわたしの右手を握り返してくれた。
「……絢乃さんの手、冷たいですね」
「え……?」
「ご存じですか? 手が冷たい人は温かい心の持ち主なんですよ。僕はよく知っています。絢乃さんがお父さま思いの心優しいお嬢さんだということを。そんなあなただからこそ、僕もあなたのお力になりたいと思ったんです」
彼の優しくて温かい言葉に、わたしの涙腺が緩みそうになった。彼はずっと見てくれていたんだ。父の病気が分かった時から、わたしがどれだけ父のことで心を痛めていたのかを。だから、八歳も年下のわたしにこんなにも優しく誠実に接してくれていたんだ――。
「――絢乃さん、僕はそろそろ失礼します。明日も出勤なので。また何かあったら連絡下さいね」
「うん。そっか、明日もお仕事じゃ、風邪ひいたら大変だもんね。気をつけて帰ってね。また連絡します」
「はい。――それじゃ、また」
彼を見送った時、初めて「このまま帰らないでくれたらいいのに」と思ってしまった。淋しさで胸が苦しくなり、涙がひとしずく、頬を伝って落ちた。
* * * *
わたしは家の中に戻ると、二階へ上がる前に父が休んでいる両親の寝室に立ち寄った。
「――パパ、具合はどう?」
「……絢乃か。お前、コートなんか着て、どこかへ行っていたのか?」
わたしの声に目を覚ましたらしい父が、答える前に目を丸くした。
「ああ、うん。桐島さんが帰る前に新車見せてくれるって言うから、見送りがてら一緒にカーポートまで。里歩もそのちょっと前に帰ったよ」
「そうか」と父は起き上がることなく頷いた。もう起き上がることさえつらいくらい、体中痛かったんだと思う。
「絢乃、クッションありがとうな。これがあるだけで、背中が少し楽になったよ」
「喜んでもらえてよかった。まぁ、気休めにしかならないだろうけど」
「絢乃、……お前、泣いているのか? 何だか目が赤いぞ」
「えっ? 泣いてないよ、今は。さっきね、桐島さんがすごく優しい言葉をかけてくれて、それでグッときてちょっと泣いちゃっただけ」
彼は「手が冷たい人は温かい心の持ち主だ」って言ったけれど、そう言った彼の手も少しヒンヤリしていた。貴方の心も十分あったかいよ……。
「そうか、桐島君が……。彼がいてくれたらお前も安心だな。彼が秘書室へ異動したことは知っているか?」
「うん、さっき本人から教えてもらったよ。わたしを支えるためだ、って」
それはつまり、わたしが正式に父の後継者候補となったということなんだとわたしは解釈した。そしてその解釈が正しかったことを、父の次の言葉で確信した。
「実はそうなんだ。お母さんも同意のもとで、もう遺言書も作成してあってな。そこで正式にお前を後継者として指名した。絢乃、お前の意志を確かめず勝手に決めてしまったが、これでよかったのか?」
その話は初耳だったけれど、わたしの心はもう決まっていた。この家に一人っ子として生まれた以上、これはわたしが背負っていく運命なんだと。何より、それが父の最後の望みだったから――。
「うん、大丈夫。もう覚悟ならできてるから。パパには色んなこと教わってきたし、教わってないことも周りの人に助けてもらいながら頑張ってみるね」
「そうか、よかった。これで、この先も篠沢グループは安泰だな」
父はわたしの答えに満足したらしく、安らかな笑みを浮かべていた。
「それじゃ、お父さんはまた眠らせてもらうよ。おやすみ。――絢乃、お母さんと篠沢グループの未来をよろしく頼む」
「……うん。おやすみなさい」
わたしも父に「おやすみ」の挨拶を返したけれど、最後の一言はわたしへの遺言だと思った。
――もっと強くならなきゃ。そう決意したのは、多分この夜だったと思う。もう泣いてなんかいられない。わたしが父の代わりに母とグループを守っていかなきゃいけないのだから……と。
そして、父とまともに会話ができたのは、その夜が本当に最後となってしまった。
――父はその翌日から昏睡状態に陥り、母が呼んだ救急車で後藤先生が勤務されていた大学病院に搬送された。いくら本人が入院を拒否していたとはいえ、この時ばかりはそんなことに構っていられなかったのだ。
そして、年明け間もない一月三日の朝――。
「――一月三日、八時十七分。死亡確認しました。……本当に残念です」
先生からの連絡で朝早くから病院に駆けつけていた母とわたしは、後藤先生から父の永眠を伝えられ、母はその場でわたしにしがみついて泣き崩れた。でも、わたしは泣かなかった。もちろん悲しかったけど、いちばん悲しいのは母だと思うと申し訳なくて泣けなかった。
ベッドの上に横たわっていた父の亡骸は、ただ眠っているだけのように安らかだった。また目を覚まして、わたしたちに「おはよう」と笑いかけてくれるんじゃないか……。ついそんなことを考えてしまった。
「私は医師として、患者の最期は何度も看取ってきたはずなんですが……。井上の死は本当に残念でなりません。医者が泣いてはいけないと分かってはいるんですが……」
後藤先生もショックを受けてしゃくり上げていた。確かに、医師が患者の死を看取るたびに泣いていたんじゃキリがないだろうし、冷静に受け止めなきゃいけないんだろうけれど。さすがに親友が旅立ってまで冷静沈着ではいられないだろう。親友である父のために、もっとできることがあったんじゃないかと後悔の念に苛まれていたに違いない。
「先生、顔を上げて下さい。先生は最後まで、父の治療を頑張ってくれたじゃないですか。おかげで父は安らかに旅立っていけたと思います。本当にありがとうございました。父が、お世話になりました」
本当なら母が言うべきだったことを、わたしは号泣していた母に代わって言い、先生に頭を下げた。それでも涙は出なくて、自分でも何て冷たい娘だろうと思ってしまった。
「――パパ、今までホントにありがとう。お疲れさま。もう苦しまなくていいからね。後のことはわたしに任せて、天国でゆっくり休んでね。……バイバイ、パパ」
わたしは精一杯の別れの挨拶をして、「ママ、そろそろ帰ろう」と背中をさすりながら母を促した。母は喪主となり、葬儀社の手配やグループの顧問弁護士の先生などに連絡したりしなければならなかったからだ。
そして、一族の中で母や父のことを|疎ましく思っている人たちと、後継者の座を巡って争うことになるだろうと、わたしはとてつもなくイヤな予感がしていた。
2
――タクシーで家に帰ると、わたしは部屋へ戻ってすぐに貢へ電話をかけた。
「桐島さん、……パパが、今朝早くに亡くなりました。すごく穏やかな最期だった」
『そうですか……。わざわざご連絡ありがとうございます』
彼はわたしが強がっていたことに気づいていたと思う。そのうえで、あえてわたしにお礼だけを返してくれた。
「これからママが葬儀社の人に連絡して、葬儀の打ち合わせをするんだけど。多分、パパの遺志を尊重して社葬っていう形になると思うの。桐島さんも参列してくれる?」
『もちろんです。その時には、絢乃さんの秘書として参列させて頂きますね。まだ正式な辞令は下りていませんけど』
「うん、ありがと」
電話を切った後、今度は里歩にも電話で父の訃報を伝え、アメリカに住む井上の伯父にはメールで父の死を知らせた。
* * * *
父が亡くなった日が友引だったため、翌日の夜がお通夜となり、そこで父の遺言書が公開された。
父個人の財産だった数十億円の預貯金は、母とわたしとで半分ずつ相続することになった。ここまではよかったのだけれど、問題は〈篠沢グループ〉の経営に関する項目だった。
後継者としてわたしが会長に就任することが望ましい。そして、グループ企業全社の資産・株式・土地・建物の権利もすべてわたしに譲る。――当然、この内容に反発する人たちが出てきて、母だけでなくわたしまでその人たちに敵視される事態となってしまった。
「……絢乃、これで本当にいいの? あなたまであの人たちに恨まれることになるけど」
わたしのメンタルに受けるダメージを心配してこっそり耳打ちしてくれた母に、わたしは作り笑いを浮かべて「大丈夫」と頷いた。
この時から、わたしは悲しみや怒り、悔しさなどネガティブな感情を表に出さないようにしようと決めた。自分の心の中だけで消化してしまおう、と。
反対派の人たちとの争いは、翌日執り行われた父の社葬の後、振舞いの席に第二ラウンドを迎えることになった。
* * * *
――父の社葬は、篠沢商事本社ビルの大ホールで営まれた。お世辞にも〝しめやか〟とは言い難い式で、ホール内には殺伐とした空気が流れていた。
式を取り仕切っていたのは、貢も少し前まで在籍していた総務課。受付には黒のスーツ姿の女性社員が座っていて、司会進行は貢の同期だという男性が務めてくれることになっていた。
「――絢乃、おばさま。この度はご愁傷さまです」
大人っぽいダークグレーのワンピースの上に、同系色のコートを羽織った里歩が、ブラックフォーマルのスーツに身を包んだ母と黒のワンピース姿のわたしを見つけて駆け寄ってきた。
「里歩、来てくれてありがと。おじさまとおばさまは?」
「どうしても外せない用事があってさ、今日はあたしが名代で来た。香典も預かってきたよ」
「そう。里歩ちゃん、ご苦労さま」
泣き笑いの表情で里歩に接していた母とは対照的に、わたしは上辺だけの笑顔を薄っすら浮かべていただけだった。父を失ってすぐに親族から負の感情を向けられたわたしは、防御策として心をフリーズさせることにしたのだ。
「……絢乃、アンタ大丈夫? 相当ムリしてるっぽいけど、これじゃそうなっても仕方ないか」
会場に流れていたピリピリした空気に、里歩も気づいていたらしい。
「アンタの一族、かなり荒れてるとは聞いてたけど、ここまでひどいとはねぇ」
彼女は慰めるようにわたしの肩を叩きながら、露骨に眉をひそめた。
「大丈夫だよ。あんなの放っとけば。わたしは別に何とも思ってないし」
「それならいいんだけどさ。あたし、式の間ずっとアンタの隣に座ってるから。何かあったら言いなよ?」
「うん、ありがと」
そんなわたしたちのところへ、黒のスーツに黒いネクタイを締めた貢もやってきた。
「――桐島さん、ご苦労さま」
「絢乃さん、この度はご愁傷さまです。――ああ、里歩さんも来て下さったんですね。ありがとうございます」
「ああ、いえいえ。ウチの両親も絢乃のお父さんにはお世話になってましたから。桐島さん、絢乃の秘書になったそうですね」
彼が秘書になったことは、前もって里歩にも伝えてあったのだけれど。
「はい。絢乃さんはこれから篠沢グループを背負って立つ人ですから、僕でお役に立てることがあればと思って」
「桐島さん、ちょっと厳しいこと言いますけど。絢乃の秘書になるってことは、この子に自分の生活全部をささげるってことだって分かったうえで決めたんですよね? あたし、あなたにいい加減な気持ちでそんなこと軽々しく言ってほしくないんです」
「里歩! それはちょっと言い過ぎだよ!」
「いえ、いいんです。もちろん、僕もそのつもりでいますよ。絢乃さんのことは僕が全身全霊お守りすると決めましたから」
困惑して親友をたしなめたわたしに、彼は本気の覚悟を見せてくれた。
「……それならいいんです。ごめんなさい、偉そうなこと言っちゃって。絢乃のこと、これからよろしくお願いします。――絢乃、ホントごめん」
「ううん、いいよ。ありがと」
わたしは貢に対しても、薄っぺらな笑顔で受け答えしていた。でも、二人とも、特に貢は気づいていたと思う。わたしのメンタルが、ギリギリのバランスを保って持ちこたえていただけだということに。
* * * *
――父の社葬は一般的な献花式で行われた。篠沢家が無宗教のためだ。
大ホールの壇上に父の遺影と棺を中心とした大きな祭壇と献花台が設えられ、参列者がそこに白い花を一輪ずつ手向けていった。お別れの言葉を述べるも述べないも個人の自由。
喪主である母に続いて父に花を手向けたわたしは、何も言わずに遺影を見つめていた。もう決意表明は済んでいたし、「さよなら」は言いたくなかったから。「何て冷たい娘だろうか」と、他の親族には思われたかもしれない。
式典の間ずっと、里歩が母と反対側のわたしの隣に、貢もすぐ後ろの席に座っていてくれたので、わたしも何とか落ち着いていられた。
全員の献花が終わり、いよいよ出棺という時になって、里歩が「あたしはここで帰るよ」と言った。
「絢乃、ごめん! あたし、今日はあくまで両親の代理だしさ。桐島さんがいてくれるなら大丈夫だよね?」
「うん……。里歩、ホントにありがとね。学校はしばらく忌引きになると思うから、三学期が始まったら先生によろしく言っておいて」
「分かった。――桐島さん、あたしはこれで失礼します。絢乃のことお願いしますね」
「はい、任せて下さい。お気をつけて」
コートを着込んでホールを後にした里歩を見送った後、貢が「それでは、そろそろ僕たちも参りましょうか」と着ていた黒いコートのポケットからクルマのキーレスリモコンを取り出した。社用車ではなく、彼の愛車のキーだ。
「斎場まで、僕のクルマで送迎致します」
「うん。桐島さん、よろしくお願いします」
「桐島くん、ありがとう。安全運転でよろしくね」
「はい。――では、お二人は後部座席へどうぞ」
彼はロックを外すと、うやうやしく後部座席のドアを開けてくれた。
3
――午前の、他には誰もいない斎場で父に最期のお別れをした後、黒塗りの社用車やハイヤーなどでズラズラとついてきていた親族一同とわたし・母・貢の三人を除く役員や幹部の人たちは帰っていった。……村上社長のご一家と一緒のクルマに同乗してきていた小川さんも。
「――奥さま、絢乃さん。私は本日付で会長秘書の任を離れ、村上社長に付くことになりました。これまで本当にお世話になりました。秘書の業務につきましては、桐島くんに引き継いでおりますので彼のこと、よろしくお願いします」
「ええ、聞いてるわ。あの人が直々に指名したんでしょう? あなたも夫によく尽くしてくれてありがとう」
「……はい、ありがとうございます。会社を辞めるわけではないので、絢乃さんが会長に就任されたらまたお会いすることもあると思います。――絢乃さん、私もあなたが会長になって下さることを願う者の一人です。頑張って下さいね」
「はい。小川さん、父のために色々とありがとう。わたしも貴女が父の秘書でいてくれてよかったと思ってます。これからもよろしく」
「はい……! では、私もここで失礼致します」
小川さんは社長ご一家とは別に帰るらしく、スマホのアプリでタクシーを一台手配していた。その時に涙を浮かべていたのは、やっぱり父のことが好きったからだろうと思う。
父の棺が火葬炉に入れられると、わたしたちは待合ロビーではなく奥の座敷へと移動した。ここからが、振舞いの席という名の親族戦争第二ラウンドの始まりだった。
お座敷にはこの日のために発注された美味しそうな仕出し料理が並んでいたけれど、好き放題に父やわたしの悪口を言う親族たちにイライラして、味なんてほとんど分からなかった。
「――加奈子さん、あんたの婿さんもとんでもないことをしてくれたもんだ。死んだ人のことを悪く言いたかぁないが、グループの伝統を思いっきり引っかきまわしてくれた挙句、こんな小娘を後継者に指名するとはな。まったく、よそ者のくせに何を考えてたんだか」
「そうだそうだ! 元々このグループは、篠沢一族が回していたっていうのに。それをあの婿さんが、一人残らず末端企業の閑職なんかに追いやっちまいやがって。会長の権力を笠に着て偉そうに!」
わたしは機械的に箸を動かしていたけれど、だんだん聞くに堪えなくなっていた。わたしのことを「頼りない」とか「まだ子供のくせに」とか言うのはまだいい。それは事実だし、自分でもそう思っていたから。でも、最後の最後までグループのためを思っていた父のことを悪く言われるのは我慢がならなかった。
「……………………うるさい」
「絢乃?」
「絢乃さん?」
「うるさいうるさいうるさいうるさいっ!」
ずっと溜めに溜め込んでいた感情がとうとうマグマのように噴き出し、思いっきり叫んだ後過呼吸を起こしそうになった。わたしの異変に気づいた貢が、わたしの背中を軽くさすりながら母に声をかけた。
「……加奈子さん、絢乃さんの具合があまりよくないみたいなので、ちょっと外へお連れします。よろしいですか?」
「ええ。桐島くん、ありがとう。お願いね」
「何なんだ君は! 赤の他人が出しゃばるんじゃない!」
「彼はこの子の秘書なんだけど、何か問題ある?」
母が食ってかかってきた親族を睨みつけながら、貢に「早く行きなさい」と手で合図を送っているのがわたしにも分かった。
――わたしはコートとバッグを持ち、彼に連れられて待合ロビーに来た。ドリンクの自動販売機二台と、ソファーとローテーブル数セットが並ぶロビーには化粧室もあり、座敷ほどではないけれどちゃんと暖房も効いていた。
「――絢乃さん、もしかしてお父さまが亡くなられてから一度も泣かれていないんじゃないですか?」
わたしをソファーに座らせ、自分も隣に腰かけた彼が、優しく問いかけてきた。
「うん……。だって、ママの方が絶対悲しいはずだもん。ママが先に泣いちゃったら、わたしは我慢するしかなかったの」
これはやっと吐き出すことができたわたしの悲しい本音であり、きっと貢が相手だったから打ち明けられたんだと思う。
「それだけじゃなくて、あの人たちひどいよ! なんであんな死者に鞭打つようなこと、平気で言えるんだろう? 信じられない!」
ずっと溜め込んでいたマイナスの言葉が、一度口をついたら止まらなくなった。彼はそれもすべて受け止めたうえで、わたしの背中を優しくさすりながらこんな提案をしてくれた。
「絢乃さん、ここなら僕以外に誰もいませんから、思いっきり泣いてもいいですよ。この際、思い切って心のデトックスしちゃいましょう。僕はあなたの秘書ですから、すべて受け止めますよ」
「……………………う~~~~……っ」
彼の大きな手のひらの温もりでわたしのフリーズしていた心が溶けて、ボタボタと大粒の涙がこぼれた。わたしはそのまま大きな声を上げ、背中を丸めて泣きじゃくった。
「わたしだって、パパが死んじゃって悲しいよ……。でも……っ、ママが先に泣いちゃうからわたしが泣くわけにいかないじゃない……。ママはずるいよ。悲しいのはわたしだっておんなじなのに……っ」
彼はその間ずっと、優しく背中をさすり続けてくれていた。わたしには兄弟がいないから、兄がいたらちょうどこんな感じなのかなとも思い、ホッと心が安らいでいった。
でも、彼はわたしにとって兄のような人ではなく、好きな人。初めて好きになった人。だから、この安らぎはきっと兄弟によってもたらされるものではなく、もっと別の……。
「――絢乃さん、少し落ち着かれました? そろそろ顔を上げませんか?」
「…………やだ。だってわたしの今の顔、多分すごくブスだから」
お葬式の日だからもちろんノーメイクだったけれど、思いっきり泣いた後だからきっと顔がグチャグチャで、そんなブス顔を彼に見られるくらいなら死んだ方がマシだと思った。
「そんなことないですよ。大切な人を思って流された涙はキレイだと僕は思います」
「え……?」
「ほら、全然ブスなんかじゃないです。泣いた後の絢乃さんも十分キレイですよ。だって僕、あなたの泣き顔は前にも見ていますから」
「ああ……、そういえばそうだった」
父の余命宣告を受けた日にも、わたしは彼のクルマの助手席で泣いていたのだ。
「――さて、心がスッキリしたら喉渇いたんじゃないですか? 何か飲まれます?」
「あー、うん。じゃあカフェオレ。あったかい方がいいな」
「分かりました」
彼はホットのカフェオレ缶と、彼自身が飲むと思われる微糖の缶コーヒーを買ってすぐに戻ってきた。
「――絢乃、もう落ち着いた?」
二人で缶コーヒーをすすっていると、母もロビーにやってきた。
「うん、もう大丈夫……と言いたいところだけど、わたしママにもちょっと怒ってるの」
「……え?」
「パパが死んだとき、わたしだって悲しかった。なのにママが先に泣いちゃうから、泣けなくなっちゃったんだよ!」
わたしは「怒っている」と言いながら、言っているうちにまた涙がこぼれてきた。
貢はわたしの言うに任せて、止めなかった。ちゃんと言いたいことは言うべきだと、わたしに伝えたかったんだと思う。
「ごめんね、絢乃。気づいてあげられなくて。だからもう泣かないで」
「うん……。ママ、わたし決めたよ。もう言いたいこと我慢するのはやめる。ありのままのわたしで、パパを超える篠沢のリーダーになる。わたしが責任を持って篠沢グループを引っ張っていく。だから……、ママと桐島さんにも力を貸してほしい。お願いします」
「もちろんよ」
「僕でよければお力になりましょう。よろしくお願いします、絢乃会長」
「うん!」
わたしは頼もしい二人の前で、涙を流しながら決意表明をしたのだった。
4
「ところでママ、話し合いはどうなったの?」
やっと泣き止んだところで、わたしはもっとも気になることを母に訊ねた。母ひとりがロビーに出てきたということからして、円満に終ったとはどうしても思えなかった。
「結局、あれからこじれにこじれてねぇ……。あなたの会長就任は、明後日に開かれる臨時株主総会まで持ち越しになったわ」
「そっか……。でも、株主さんたちで賛成の人が多かったらあの人たちも文句は言えないってことだよね」
株主総会での決議は多数決で行われるらしい。ということは、わたしが新会長に就任することを過半数の人が賛成してくれれば、わたしは正式に父の後継者として認められるということなのだ。
「そうね。でもあの人たち、特に宏司さんがね、兼孝叔父さまを対立候補に立てるって言いだしたのよ。『あんな小娘にグループを任せるくらいなら、親父が会長になった方がよっぽどいい』って」
「……ふーん? 何考えてるんだろ、あの人」
ここで名前が挙がった「宏司さん」というのは亡き祖父の甥、大叔父の兼孝は祖父のすぐ下の弟にあたる人で、父が会長になることに反対していたのも主にこの宏司さんだった。
大叔父は当時の年齢で六十代後半だったけれど、それまで経営に直接関わったことのない素人、という意味ではわたしと立場が変わらなかった。それなのに会長候補に擁立されたのは、宏司さんが年功序列・男尊女卑という古臭い考えに固執しているからに他ならなかった。
「今の時代、そんな考え方ナンセンスよね。というわけで、今日の話し合いは見事に決裂。あの人たちはみんな先に帰っちゃいました」
「…………なるほど」
どうせお骨上げの時、あの人たちに用はないのだ。それならさっさとお帰り頂いた方がわたしと母、そして貢の精神安定のためにもいい。
「桐島くん、ありがとね。あなたの機転のおかげで、絢乃があれ以上傷付かずに済んだわ」
「いえいえ。秘書として、あの状況ではああするのが最善だと思いましたので」
「うん、ホントにありがと。わたし自身、あれ以上あそこにいたら自分がどうなっちゃうか分かんなくて怖かったもん。連れ出してもらえてよかった」
泣くだけならまだいいけれど、もし怒りが爆発してしまったら人として言ってはいけないことまで口走ってしまう恐れもあったのだ。最悪の事態を未然に防いでくれた貢には、本当に感謝している。
* * * *
――それから一時間ほど後。わたしたち親子だけでお骨上げをして、ロビーで待っていてくれた貢の愛車で家まで送ってもらうことになった。
「井上の伯父さまも、今日のお葬式に来たかっただろうなぁ。お悔やみのメールはもらったけど」
実の弟を亡くした伯父は、さぞ残念だっただろう。できることなら帰国して、一緒にお骨上げもしたかっただろうと思った。でも急なことだったので飛行機のチケットが取れず、泣く泣く帰国を断念したそうだ。
「そうねぇ。残念だけど、こればっかりは仕方ないわよ。今ごろ、海の向こうで別れを惜しんでいるでしょうね」
「うん……」
小さな骨壺を抱え、後部座席で残念そうに肩をすくめた母に、父の遺影を膝の上で抱えたわたしは頷くしかなかった。でも、父と兄弟仲のよかった伯父のことだからきっと、休暇を取って帰国し、ウチに立ち寄って手を合わせに来てくれるだろう。
「――ねえママ、これからのことで、ちょっと相談があるの。桐島さんにも聞いてもらいたいんだけど」
わたしは二人に、自分の中で温めていた新たな決意を話しておこうと思い立った。
「なぁに?」
「僕は運転中ですけど、ちゃんと耳だけは傾けているので大丈夫ですよ。おっしゃって下さい」
彼はハンドルを握りながらも、わたしの話はちゃんと聞いていますよという感じで、わたしに話の続きを促した。
「うん、じゃあ言うね。――わたし、高校生と会長兼CEOの二刀流でいこうと思ってるの。どっちも頑張りたいから、二人にもぜひ協力してもらいたくて」
「分かったわ。絢乃が自分で決めたことなら、喜んで協力させてもらいましょう。で、具体的には何をしたらいいの?」
「まず、ママにはわたしの会長としての業務を代行してほしいの。学校に行ってる間、会長がいないことになっちゃうでしょ? 宏司さんは多分、鬼の首でも取ったみたいにそこを非難してくると思うから、その予防線ね」
「なるほど。あの人も当主である私には偉そうに言えないものね。いいわよ」
「ありがと、ママ。――で、桐島さんにはわたしだけじゃなくて、ママの仕事もサポートしてあげてほしいの。二人分の秘書の仕事をやることになるけど大丈夫?」
「大丈夫です。お任せください。総務でこき使われていたことを思えば、それくらい何でもないですよ」
二人から秘書として頼られることは、ものすごく大変なことだと思うけれど。それすら楽だと思えるくらい、前にいた部署ではひどい目に遭わされてきたんだろうかと、わたしは胸が痛んだ。
「ごめんね、桐島さん。貴方には苦労かけちゃうと思うけど、よろしくお願いします」
「ごめんついでに、私からもひとつお願いがあるのよ。絢乃は八王子の学校から、丸ノ内のオフィスまで通うことになって大変だと思うの。だから、秘書の業務としてこの子の送迎もお願いできないかしら?」
「かしこまりました。お引き受けしましょう」
「ありがとう、桐島くん。無理を言っちゃってごめんなさいね」
「えっ、いいの? ありがたいけど……なんか申し訳ないな」
「いえいえ、絢乃さん。ボスに気持ちよく出社して頂き、快適にお仕事に励んで頂くのが秘書の務めですから。……というのは小川先輩の請け売りですが」
彼がボソッと最後に付け足した一言で、わたしは吹き出してしまった。
「なぁんだ、そうなの? 小川さん、そんなこと言ってたんだ」
「……今日、やっとあなたの笑顔が見られましたね、絢乃さん」
「…………え?」
ポカンとしてルームミラーを見上げると、そこには穏やかな笑顔の貢が映っていた。
「やっぱりあなたは、笑っている方が魅力的です。僕も、絢乃さんがいつも笑顔でいられるように秘書として頑張りますね」
「あ…………、うん。ありがと。よろしく」
彼の言葉で頬を真っ赤に染めるわたしを、母は隣でニコニコ笑いながら眺めていた。
――貢はわたしたち親子を、きちんと自由が丘の篠沢邸の前まで送り届けてくれた。
「桐島くん、今日はお疲れさま。明日も出勤でしょう? 家に帰ったらゆっくり休むのよ。お清めの塩も忘れないようにね」
「はい。加奈子さん、絢乃さん。これから何かと忙しくなりますが、三人で頑張っていきましょう」
「うん。今日はホントにありがと」
二日後の株主総会は、土曜日だし寺田さんが送り迎えしてくれるので彼の送迎は不要だと伝えた。
「――桐島さん。今日から貴方を正式に、会長秘書に任命します。正式な辞令ではないけど、心して受けるように」
「はい。謹んで拝命致します」
早くもわたしと彼との間に主従関係が生まれ、こうしてわたし・篠沢絢乃の二刀流生活が始まろうとしていたのだった。
放課後トップレディ、誕生!
1
――その二日後、臨時株主総会で新会長を決める決選投票が行われ、わたしは大叔父に大差をつけて無事会長就任が決まった。
「――桐島さん! わたし、新会長に決まったよ」
『本当ですか? おめでとうございます! では、僕の会長秘書拝命も無事に決まったということですね』
帰りのクルマの中で貢に電話をかけると、彼はわたしの会長就任を心から喜んでくれた。
「うん。明後日にも人事部から正式な辞令が下りると思う。というわけで改めて、これからよろしくお願いします」
わたしはそこから自分が行ったスピーチの内容や、社長であり本部の役員でもある村上さんの応援演説がいかに素晴らしかったかを彼に話した。そして、株主総会前の二日間で練りに練った、本社幹部の人事についても。
社長は村上さん留任で、常務は秘書室長の広田妙子さん、専務は人事部長の山崎修さんがそれぞれ兼任してもらうことにした。三人とも父のよき理解者で、協力者でもあった人たちで、わたしにとっても強い味方になってくれることは間違いないと思ったのだ。
『そうですか、社長が味方について下さったのは大きかったですね。村上社長は確か、お父さまの同期組でしたよね。営業部でいいライバルだったとか』
「そうなの。彼を社長に任命したのもパパだったんだって。若い頃はどっちがママのハートを射止められるか争ってたらしいよ」
『へぇ……、そんなことが』
電話口にそんな話をしていたら、隣に座っていた母に「その話はもう時効だから、あんまり続けないで」と苦笑いされた。
『それはともかく、明後日は朝十時から就任会見が開かれるんですね。スピーチの原稿は用意しておいた方がよろしいですか?』
彼はさっそく秘書の業務として、そんな提案をしてくれた。わたし自身会見なんて初めてのことだったので、それはとてもありがたい提案だと思った。
「そうだなぁ、わたしとしてはあった方が気持ち的に助かるけど。大まかな内容で作っておいてくれたら、あとは自分で考えて話すから」
『かしこまりました。では、簡単な内容の原稿だけ、僕の方で作成しておきます』
「ありがと。じゃあよろしく」
――何はともあれ、母が会長代行、貢が秘書、そして強力な首脳陣という万全な体制で、この二日後にわたしのトップレディ生活は幕を開けることとなった。
* * * *
――そしてやって来た、会長・篠沢絢乃のお披露目の日。
その朝、わたしはある決意を胸に秘め、自室の洗面台の前に立った。
丁寧に泡立てた洗顔フォームで顔を洗い、自慢のロングヘアーをブラッシングして、ウォークインクローゼットに足を踏み入れた。
「――よし!」
勇ましい気持ちで手にしたのは学校の制服である白いブラウスとブルーグレーのプリーツスカート、クリーム色のブレザーに赤いリボンの一式と、黒のハイソックス。制服姿で就任会見に臨むことで、〝女子高生と大財閥の会長〟の二刀流に挑むわたしの並々ならぬ決意を示すことにしていたのだ。
神聖な気持ちで身支度を整え、姿見に全身を映すと、同じ制服姿だけれど普段と違うわたしが見えた気がした。
「――おはよう、絢乃。もう支度できてる?」
廊下から母の声がした。どうやら史子さんではなく、母自らわざわざ呼びに来たらしい。
「は~い、もうバッチリだよ! 今行くね!」
わたしはウォークインクローゼットを出ると、大きな声で呼びかけに答えた。
通学用の黒いピーコートとスクールバッグを手に廊下へ出ると、グレーのパンツスーツ姿の母が軽く眉をひそめた。
「あなた、その格好で会見をやるってことは……。何を言われても覚悟はできてるってことでいいのね?」
その言い方は、非難しているというよりむしろ母親としてわたしのことを心配しているようだった。
「うん。わたしなら大丈夫だよ。後継者として指名された時から決めてたことだから」
わたしの覚悟の大きさを感じ取ったらしい母は、「分かった」と納得してくれた。
「じゃあ、朝ゴハンにしましょう。九時ごろに桐島くんが迎えに来るから」
「そうだね。彼も今日、本格的に秘書デビューだもんね。きっと張り切って迎えに来るよ」
彼の話になるたびに、わたしの表情はついつい緩んでしまう。やっぱりこれって、恋の魔力のせい……?
「――それにしても、その潔すぎる性格といい、一度決めたら絶対に曲げない意志の強さといい。絢乃はホント、パパにそっくりだわ」
「そうかなぁ? じゃあ、ママにそっくりなところってどこだと思う?」
わたしが首を傾げると、母は大まじめな顔で「顔かしらね」と答えた。
* * * *
――九時少し前。わたしと母が朝食を済ませ、優雅にコーヒー(わたしは父に似てコーヒー好きなのだ)と紅茶を飲んでいると、インターフォンが鳴った。
『――おはようございます。桐島です。お迎えに上がりました!』
「はーい。すぐ出られるから待ってて」
心なしか弾んだ声の彼に、わたしもウキウキと元気よく応じた。
「じゃあママ、行こっか」
「ええ。――史子さん、行ってきます」
史子さんに「行ってらっしゃいませ」と笑顔で見送られながら、わたしたち親子は出陣したのだった。
「――絢乃会長、加奈子さん。おはようございます」
「おはよう、桐島さん。……あ、そのスーツ……」
カーポートで待ってくれていた貢に挨拶を返したわたしは、彼が真新しいネイビーのスーツに身を包んでいることに気がついた。
「ああ、これですか。絢乃さんがプレゼントして下さったネクタイに合わせて新調したんですよ。どうです、似合いますか?」
彼は嬉しそうに、ストライプ柄の赤いネクタイに手をやった。
「……うん、すごくカッコいいよ。でも、このためにわざわざ新しいスーツまで買うとは思ってなかったから、ちょっとビックリしちゃって。それ高かったんじゃない?」
「いえ、量産品なのでそんなにかかりませんでしたよ。ですからご心配なく」
「それならいいんだけど。桐島くん、その時の領収書かレシートがあったら、その分絢乃に清算してもらえるわよ」
「えっ、そうなんですか?」
突如会話に割って入った母のアドバイスに、彼は目を丸くした。そして、わたし自身も、そんな仕組みがあったと知ったのはその前日のことだった。
「そうらしいよ。わたしも昨日まで知らなかったんだけど。あと送迎にかかったガソリン代も、レシートがあったらちゃんと清算するから」
「しかも経理部を通さずに、絢乃個人がね。これ、会長秘書だけの特権なのよ。衣服代とか交通費は会長から直接清算されるシステムなの。夫が始めたことなのよ」
「へぇ……、それは助かります。会長秘書って仕事量も多そうですけど、それに見合ったメリットもあるわけですね」
彼はこの時ほど、「会長秘書になってよかった」と思ったことはなかっただろう。激務に追われる分月給も他の部署より高く、好待遇なのだから。そうでなければ、好きこのんで選ぶ職種ではないと思う。貢はどうだか知らないけれど。
「そう。だからこれから一緒に頑張ろうね!」
「はいっ! では、車内へどうぞ。ここでは寒いですから」
後部座席のドアを開けてくれた彼にお礼を言い、わたしたち親子は暖房の効いた車内のシートに腰を下ろしたのだった。
2
――クルマをスタートさせる前に、わたしと母は貢からネックストラップ付きのIDカードを手渡された。
これは彼も持っている社員証とほぼ同じもので、それぞれ違う十二ケタのナンバーとカタカナ表記の名前が刻字されている。彼のものと違う点は、顔写真と部署名が入っていないことくらいだろうか。
「これからお二人は、このIDを入構ゲートに認証して頂くことになります。紛失されると再発行の手続きが面倒なので、くれぐれも失くされないようにお願いします」
「分かりました。失くさないように気をつけるね」
手続きが面倒、という部分に彼の本音が滲んでいる気がして、わたしは苦笑いしながら答えた。
「――ところで絢乃会長。そのお召し物は……、通われている学校の制服……ですよね」
「ん? そうだよ」
視線を落としてスカートの裾に入った赤い一本のラインを見つめていると、彼にそんなことを訊ねられた。彼はそれまでにも何度かわたしの制服姿を見ていたはずだけれど、この日は状況が違うので、彼が疑問に思ったのは無理もなかっただろう。
「……それが、あなたの並々ならぬ覚悟の表れということですね。どんな批判も甘んじて受け止める、と」
「うん。理解してもらえて嬉しいよ。もしかしたら、貴方には反対されるんじゃないかって心配だったから。でもこれがわたしの信念なの」
「まぁ、いくら反対したところで無駄なんだけどね。この子、あの人に似て頑固だから」
母は半分諦めたように肩をすくめた。「頑固」という言い方はちょっと不本意だったけれど、一本筋がとおっているという意味ではまぁ違わないかな。
「僕も正直、心配ではあるんですが……。ボスがお決めになったことに、秘書が異議を唱えることはできませんから。できる限り応援はしたいと思っています」
「ありがとう、桐島さん!」
「では、そろそろ参りましょうね」
――そうして、シルバーのセダンは丸ノ内へ向けて走り出した。
* * * *
「――とりあえず、今日の会見用に簡単なスピーチ原稿を用意しておきました。会社へ着きましたら、会見の前に確認しておいて頂けますか?」
彼は秘書らしい口調で(「秘書らしい口調」ってどんなものなのか、わたしにもよく分かっていないのだけど)、わたしに言った。
「分かった。ホントに作っといてくれたの? ありがとう! でも最初からそんなにマメすぎると後からストレスで胃がおかしくなっちゃわない?」
「大丈夫ですよ。僕はこう見えて、けっこうメンタル強いんで。そうでもなければ、僕はとっくに会社を辞めてます」
「……はぁ、そうなんだ。桐島さん、前の部署で相当ひどい目に遭ってたんだね」
「なになに、何の話?」
彼のハラスメント被害を知らなかった母が、首を傾げた。そんな母に、わたしが知っている限りのことを話して聞かせると、母は「う~ん」と唸った。
「あら……、あなた苦労してたのねぇ。多分、あの人も知らなかったんじゃないかしら。知っていたらもっと早く助けてあげられたのに」
母も言ったとおり、父はハラスメントのことを把握していなかったとわたしも思う。でなければ、あの社員思いだった父が何もしなかったわけがない。
「いえいえ、お気になさらず。もう終わったことですから」
彼は部署を異動したことで解放されたんだから、もう大丈夫だろうと思った。
「――そういえば、今日の会見はTV中継されるだけでなくネットでも同時配信されるそうですよ。そしたら絢乃会長は一躍有名人になりますね」
「あら! そしたら毎日メディアから取材の依頼が殺到して忙しくなるわね! 母親の私も鼻が高いわ」
「え…………。それでグループの評判が上がるのはいいけど、わたし個人まで有名になっちゃうのはちょっと……」
貢の言葉で一緒になって盛り上がっている母をよそに、わたしは困惑していた。
企業のトップとして世間の表舞台に立つのと、悪目立ちするのとはわけが違う。ただでさえわたしは人前に立つことが苦手なのに、有名人として祭り上げられてしまったら最後、プライバシーもヘッタクレもなくなってしまう。あくまで仕事と私生活は別、プライベートではひとりの普通の女の子でいたかった。
「ねえ、桐島さん。盛り上がってるところ悪いけど、お願いだから、受ける取材は最低限の数に絞ってね。でないとわたし、絶対にキャパオーバーになっちゃうから」
わたしは運転席のヘッドレストを掴み、彼に切実に訴えた。
「分かってますよ。あなたが忙しくなりすぎたら、秘書である僕自身の首も絞めることになってしまいますからね。そこはこちらでどうにか調整します」
「よかった! ありがとう!」
わたしは別に、「取材は一切受けません」と言うつもりなんてなかった。経営者となった以上は、少しくらい顔を売ることも必要なのだと父から学んでいたし、それが元で、新しい業種や業界との繋がりができることもあるからだ。でも、必要以上の取材を受けてしまうとわたしもキャパオーバーになってしまうし、何より本業である仕事と学業にも支障をきたす恐れもあった。
貢は秘書として、ボスであるわたしのスケジュールを管理する立場にあるので、メディアへの露出をどの程度に抑えるのかも彼の仕事となった。真面目だけれど優しい彼に一任しておけば安心だとわたしも思った。
「僕は秘書として、あなたに気持ちよくお仕事をして頂けるよう、これから色々な工夫をしていこうと考えてます。――絢乃さん、コーヒーお好きですよね?」
「えっ? うん。でもどうして分かったの?」
わたし、彼に自分がコーヒー好きだと話したことあったっけ?
「お父さまの火葬中、号泣された後にカフェオレをお飲みになっていたので、多分そうではないかと」
「あ、そっか。よく憶えてたね」
「ええ。僕も大のコーヒー好きなので、同じコーヒー好きの人は何となく分かるんです。実は昔、バリスタになりたいと思っていたこともあったので、淹れる方にも凝っていて……。それで、絢乃会長がご休憩される時に、僕が淹れた美味しいコーヒーをぜひ飲んで頂こうと考えているんです。ご期待に沿えるかどうかは分かりませんが」
「……そうなんだ。それは楽しみ」
わたしは顔を綻ばせながら、初めて彼に家まで送ってもらった夜の会話を思い出した。彼にははぐらかされたけれど、これが彼の夢だったのか……。
「ところで桐島くん、私は紅茶党なんだけど。あなた、紅茶も淹れられるの?」
「申し訳ありません。紅茶はちょっと専門外なので……、これから勉強させて頂きます」
彼は母の無茶ぶりにも、誠心誠意答えていた。まさか本気で紅茶の勉強まで始める気だろうか?
「――さて、もうじき着きますね」
彼の言葉で窓の外を見ると、赤レンガでできたレトロなJR東京駅の駅舎が見えていた。
――パパ、いよいよ約束を果たす時が来たよ。わたしは空を見上げて、天国にいる父に心の中で語りかけた。
3
――篠沢商事の丸ノ内本社ビルは地上三十四階、地下二階の三十六階建ての超高層ビルだ。
地下駐車場でクルマを降りたわたしたち三人は、地下一階の出入り口にある入構ゲートを抜けるとエレベーターに乗り込み、記者会見の会場となる二階の大ホールへ向かった。IDカードはエレベーターの中で首から提げた。
「――今日の会見で司会を担当するのは、総務課の久保という男です。憶えていらっしゃいますか? お父さまの社葬の時にも司会進行を務めていたんですが」
「……ああ、何となく憶えてるかも。ちょっと軽い感じの人だよね、確か」
久保さんという男性のことが記憶に残っていたのは、彼の持つ雰囲気がお葬式という場から少し浮いているように感じていたからだった。それは〝場違い〟という意味ではなくて、見た目が何となくチャラチャラしているように見えたからなのだけれど。
「……う~ん、確かにアイツはちょっとチャラチャラしてますよね。特に妙齢の女性に対しての態度が」
貢のコメントもなかなか辛辣だった。あの日が初対面だったわたしでさえそう感じたのだから、同僚として総務で一緒に仕事をしていた貢はわたしより久保さんのことをよく知っているはずなので、実感がこもっていた。
「っていうか、司会って広報の人がやるんじゃないんだね」
「確かに、そこは僕も不思議なんですよね。もしかしたら元々は広報の仕事だったのに、総務課長が手柄を横取りしたのかもしれません。あの人ならやりかねない」
最後に彼は苦々しく吐き捨てた。わたしはその総務課長さんの人となりを彼の話でしか知れなかったけど、きっとものすごく自分勝手で横暴な人なんだろうなと想像がついた。
「まぁ、久保本人に訊いてみないと何とも言えませんけどね。アイツは目立ちたがりなんで、もしかしたら自分から『やりたい』と名乗りを上げたかもしれませんし」
「…………うん、なるほど」
わたしは貢ほど久保さんのことを知っているわけではないので、曖昧に頷いておいた。
そうこうしているうちにエレベーターは二階に到着し、わたしたちはホール正面のドアではなく側面のドアから入った。
「――絢乃会長、加奈子さん。コートとバッグは僕がお預かりしておきます。そして、こちらが会見のスピーチ原稿です」
「ありがとう。……うん、この内容で大丈夫」
「よかった」
スピーチの内容は大丈夫そうだったけれど、大丈夫ではないことが別にあった。
ステージ横のカーテン越しにホール内を覗いてみると、新聞社や雑誌社、TV局やニュースサイトの記者と思しきマスコミ関係者が大勢詰めかけ、会見が始まるのを今か今かと待ち構えていた。
わたしはそれを見た途端に極度の緊張状態に襲われ、制服のスカートの裾をギュッと握りしめることでどうにか落ち着きを取り戻そうとした。
「――絢乃さん? もしかして緊張されてます?」
わたしの異変に目ざとく気づいた貢が、優しく声をかけてくれた。ここで名前呼びだったのは、彼なりの気遣いだったんだと思う。
「うん……。だって、あのカメラ一台一台の向こう側に何万人、何十万人もの人がいるんだって思ったら……」
父が倒れたパーティーの夜、大勢の人の前に出る恐怖はある程度克服できたと思っていたけれど。あの時とはそれこそケタ違いの人数で、緊張感だってあの時の比ではなかった。
「う~ん、なるほど……。僕、こういう時によく効くおまじないを知ってますよ。よろしければお教えしましょうか?」
「……おまじない?」
「はい」と彼は何だか得意げだった。もしかしたら、彼もわたしと同じくあがり症だったのかもしれない。
「子供の頃に、母から教わったベタなおまじないなんですけど。『目の前にいるのは人間じゃなく、カボチャだと思え』だそうです」
「カボチャ……。確かにベタだね」
わたしは思わず笑ってしまった。昭和の昔からよく知られているベタベタなおまじないを、ボスであるわたしに得意げにレクチャーしてくれるなんて。彼は何ていうか、本当に純粋な人だ。
「ありがと、桐島さん。もう大丈夫! 貴方のおかげで、おまじないなしでもやれそうな気がしてきた」
彼のおかげで思わぬ形で緊張が解け、勇気が出てきた。これならスピーチだけじゃなく、質疑応答でどんなことを訊かれても胸を張って答えられそうだと思えた。
「そうですか。僕は何も特別なことはしてませんが、お役に立てたようで何よりです」
あくまで謙虚な彼。でも、わたしは彼のそういうところが好きだ。
『――お集りのメディア関係者のみなさま、お待たせ致しました。ただいまより、篠沢絢乃新会長の就任会見を始めたいと思います』
演台のマイク越しに、久保さんのよく通る第一声が響いた。――いよいよだ!
「じゃあママ、行こう!」
「ええ」
一つ深呼吸をして、わたしたち親子は壇上に上がった。わたし一人じゃなく母も一緒に会見に臨んだのは、母が会長の業務を代行することを発表するためだった。わたしの説明だけで伝わらない部分を、母の口から補足説明してもらうことになっていたのだ。
『――本日この場にお集りのメディア関係者のみなさま、TV・ネットワーク上でこの会見をご覧のみなさま、初めまして。わたしが本日付をもちまして篠沢グループの会長に就任致しました篠沢絢乃でございます。これまで亡き父が行ってきたこのグループの舵取りを、まだ高校生のわたしが引き継がせて頂くことになりました』
貢が作成してくれた原稿どおりに、まずはそこまでを一息に話してから周囲の反応を窺ってみた。……案の定、記者のみなさんはわたしの制服姿にざわついていた。この会見はネットでも同時配信されていたというから、ネット上はもっとざわついていたことだろう。
『わたしの服装については、これからお話します。わたしは父の遺言で後継者として指名された時から決めていたことがあります。それは、高校生活と会長職との二刀流。つまり、学業と職務との両立を遂げるということです。会長に就任するにあたり、わたしが高校を辞めてしまうことを父は決して望んでいないと思います。――父は遺言書と一緒に、この手紙を遺していました。わたし宛ての個人的な遺書です』
わたしはお守り代わりにブレザーの内ポケットに忍ばせていた封筒を取り出し、中の便箋を広げた。
『ここにはこう書かれています。「お前は会長に就任するからといって、楽しい高校生活まで手放すことはない。決めるのはお前だ。いずれこの地位を重荷に感じる時が来たら、他の人間に譲るのも退任するのもお前の自由だ」と。もちろん最初から退任するつもりで後継を受け入れたわけではありませんが、残り一年余りの高校生活に見切りをつけてまで会長という地位に固執する気もありません。ただ、その選択によって業務が滞ってしまうようなことはあってはならないとわたしも思っています。そこで、わたしはその打開策を考えました。わたしが学校にいる間、この篠沢家の当主である母に会長の業務を代行してもらうという考えです』
そこで母が演台の前にやってきて、この考えに自分も納得していること、自分は院政を行うつもりはまったくないということを説明し、再びわたしが今後このグループをどのように運営していきたいかを述べて、会見は質疑応答に移った。
4
――記者会見が終了した後、母は「これからのことについて村上さんと打ち合わせしたいから、先に上に行ってるわね」と言って、エレベーターで重役フロアーである三十四階へ上がっていった。
「――あ、久保さん。司会進行お疲れさまでした!」
わたしは貢と一緒に、父の葬儀に続いてこの会見の司会を務めてくれた貢の同期に声をかけた。
「会長! お疲れさまです。桐島も。わざわざどうされたんですか?」
「貴方の進行がよかったおかげで、記者会見がスムーズにできました。ありがとうございました。父もよくこうして社員の頑張りを労っていたそうなんで、わたしもそれに倣ってみたんです」
仕事に当たり前のことなんてないんだ、と父もよく言っていた。だから頑張った社員はちゃんと評価していたし、ミスをした社員がいたとしても厳しく叱責せず、必ず挽回のチャンスをあげていたそうだ。願わくば、わたしもそうでありたい。
「ああ、そうでしたか。――ところで、どうして広報の人間じゃなくて総務の僕が司会をやってたんだ、って思ったでしょう? 桐島、お前もそう思ったよな?」
「ええ、確かに思いました。桐島さんや母と一緒に『どうしてだろうね』って不思議に思ってたんです。ね、桐島さん?」
「はい。――俺は、あの課長が広報から手柄を横取りしたんじゃないかって思ったけど……。違うのか、久保?」
貢はどうやら、家族や同期、友人など親しい相手には一人称で「俺」を使うらしい。というか、こちらが彼の地のようだ。
「実は、広報にいる同期が今日の司会をやることになってたんですけど、急に体調を崩して休んでしまいましてね。それで『お前、司会は慣れてるだろ? 任せた』って本人から代打を頼まれたんです」
「なるほど。じゃあ、お前が自分からしゃしゃり出てきたわけじゃないんだな?」
「当たり前だろ? いくらオレが目立ちたがりだからって、こんな重要任務を『オレやりま~す!』なんて軽々しく言えるワケないじゃん。……あ、失礼しました」
彼らはつい同期のノリで話していたけれど、わたしの存在を思い出すと神妙に姿勢を正した。
「なるほど。でも、貴方は確かに司会に向いているとわたしも思います。適材適所だったんじゃないかな。また何か会見をやる時は、久保さんに司会をお願いしてもいいですか?」
「最高のお褒めの言葉、ありがとうございます! その際はぜひお声がけ下さい!」
わたしからの高評価に、久保さんは天にも昇るような気持ちだったに違いない。これが彼のやり甲斐に繋がれば、わたしはトップとして嬉しい限りだ。
「――会長、桐島は不器用だけどいいヤツですよ」
「え? うん……、知ってますけど」
「総務ではお人よしすぎて、上司からいいように使われてましたけど。真面目だし、仕事は丁寧だし、思い遣りもあるし。会長の秘書としても、絶対に頼りになると思います。……ですから桐島のこと、よろしくお願いします」
同期を思う久保さんの熱い言葉に、わたしも胸を打たれた。彼は友人として、新たな道を歩み始めた貢の背中を押そうとしてくれているんだと思った。
「はい。彼のことはわたしにドンと任せて下さい! じゃあ失礼します。桐島さん、行こう」
「ええ。――じゃあ久保、またな」
わたしも久保さんにペコリと頭を下げて、貢と一緒にエレベーターホールへ向かった。
「――それにしても、久保さんって同期の人の代理だったんだね。それも個人的に頼まれたって」
「ええ、僕も意外でした。課長の手柄じゃなかったなんて。でも後から揉めませんかね? 広報部と総務課」
「うん……。これはもう、部署ごとに仕事を割り振るシステムを変えていかなきゃいけないかなぁ」
会長として早くも見つかった問題点。この、一人一人が自分に適性のある仕事を任せてもらえないという部署ごとの縦割りシステムは、色々なところで綻びが出ていただろうし、社員もきっと働きにくさを抱えていただろう。
「桐島さんだって、入社前にはこの会社でやってみたいと思った仕事があったでしょ? 総務課に配属されたのは貴方の意志じゃないはずだよね」
わたしには、彼が最初から総務の仕事をバリバリやりたがっていたとは思えなかった。総務課は縁の下の力持ち、といえば聞こえはいいかもしれないけれど、その仕事内容はほとんど雑用だ。イベントの進行など、時々やり甲斐を感じられる大きな仕事もあるにはあるのだけど。
「はい。入社前には、この会社で大好きなコーヒーに関われる仕事をやってみたいと思ってたんです。マーケティング部とか海外事業部とか、そういう部署に配属されたらいいな、って。ですが、いざ入社してみたら配属先は総務課で正直ガッカリしました。でも一度決められた配属先に異議申し立てはできないじゃないですか。だから、与えられた仕事をこなしていくしかなかったんです」
「なるほど……。バリスタになりたかったんだもんね。じゃあ今は? そっちの方面の仕事にもう未練はないの?」
もしかしたらわたしと父は、彼の夢を完全に奪ってしまったんじゃないかと良心が痛んだ。
「……未練は、ないこともないですけど。秘書でしたら望んでいた形ではないですが、少しはコーヒーに関わる仕事ができるので、それはそれで僕としては満足です」
「そっか。それならよかった」
彼はどうしてバリスタになる夢を諦めてしまったのか、なかなかその理由を話そうとしなかったけれど。わたしの秘書になることで、形を変えて夢に一歩近づくことができるならわたしにも喜ばしいことだった。だって彼の喜びは、彼に恋をしているわたしの喜びでもあったから。
* * * *
――会長室は重役専用フロアーである三十四階のいちばん奥にある。この階に他にあるのは社長室と小会議室、そして秘書室と給湯室で、給湯室を除く各部屋に専用の化粧室が完備されている。専務と常務の執務室は一応あるのだけれど、現在は人事部長と秘書室長が兼任しているため使用されていない。
給湯室は会長室から直接繋がっていて、これは祖父がこのビルを建てた十年前にこういう設計にしてほしいと頼み込んだらしい。
貢のIDを認証させて初めて入室した会長室は、シンプルながらも異空間のような重厚感があった。
会長のデスクと秘書のデスクにはデスクトップのPCが完備され、会長のデスクは断熱・遮光ペアガラスがはめ込まれた西の窓に背を向ける形で配置されている。あとは大きな本棚やキャビネット、応接スペースにはグリーンのベルベット生地を使用した対面式のソファーセットと木製のローテーブルがあるだけ。なのに、インテリアのひとつひとつに高級感が漂っているのだ。
「――では、僕はコーヒーを入れて参ります。会長はデスクでお待ち下さい。お好みの味などあればおっしゃって下さいね」
「うん、分かった。じゃあミルクとお砂糖たっぷりでお願い」
「かしこまりました」
貢は専用通路を通って給湯室へ入っていき、わたしは暖房が効いた室内でPCを起動させて待つことにした。自分のIDと、父が設定した〈Ayano0403〉というパスワードでログインし、動画配信サイトを開いた。記者会見がネットでも同時配信されていると聞いたので、どんなコメントが来ているか確かめたかったのだ。
「……おー、けっこう好意的なコメントが多い。――お?」
コメント欄をスクロールさせていき、ある書き込みに「いいね」が多くついていることにわたしは目をみはった。
「――お待たせしました。……会長、どうかされました?」
十分ほどで彼はトレーを抱えて戻ってきたけれど、それまでサイトのコメント画面に釘付けになっていたわたしは彼に声をかけられてやっと気がついた。
「あっ、桐島さん、おかえりなさい。ちょっとこれ見てみて!」
わたしに手招きされて隣でPCの画面を覗き込んだ彼も、「おお!」と歓声を上げた。
そこに書かれていたコメントがこれだった。
『放課後トップレディ、誕生! 彼女のこれからに期待!!』
「――これって最上の褒め言葉ですよね、会長」
「うん、嬉しいよね。――あ、コーヒーありがとう。いただきます。……わぁ、いい薫り!」
わたしは会長としての最高のスタートに胸を高鳴らせながら、ピンク色のマグカップに入ったコーヒーの薫りに顔を綻ばせた。
縮まらないディスタンス
1
――就任会見の日の午後から、わたしにはさっそくメディア媒体の取材申し込みが殺到した。でも貢が秘書として、わたしに負担がかからない程度に数を調整してくれたので、わたしも取材を受けることが苦痛にならずに済んだ。
新聞社、経済誌、ニュースサイトにTVの取材と媒体は様々だったけれど、わたしはそのどれにも真剣に受け答えしていた。中でもTVのニュース番組の取材では社内の様子も撮影されたので、社員のプライバシーにどこまで配慮してもらえるかが心配だったけれど、放送された内容ではキチンと顔にぼかしが入り、声も変えられていたので「これなら大丈夫だ」とプロのメディアの仕事に脱帽した。
その他にも、取引先から「新会長に挨拶したい」と詰めかけた重役の方々をもてなしたり、各部署を激励がてら視察して回ったり、様々な決裁をしたり……。会長の仕事は思っていた以上にたくさんあった。そのうえ、忌引きが明ければ学校もあって、母や貢がサポートしてくれなければわたし一人ではとても手が回らなかっただろう。
「――会長、これ見て下さいよ。当分休憩時間のおやつには困りませんね」
就任一週間後には、給湯室の冷蔵庫の中が取引先から頂いたケーキやスイーツでいっぱいになっていて、わたしも貢にその光景を見せられた時には声を上げて笑ってしまった。
「っていうか、一ヶ月もしたらわたし太ってるかも」
もしくは血糖値が異常に高くなっているかのどちらかだろう。……それはさておき。
通常の業務以外にも、わたしには会長としてすべきことがあった。それは社内における、決して少なくはない問題点の改革だ。とはいえリストアップは父が生前しておいてくれたので、わたしはそれに自分で気づいた問題点を付け足してやっていくだけでよかったから、それもあまり大変だとは思わなかった。
でも――、わたしにはその頃忙しくなった日常とは別にして、ある悩みがあった。それは、想いを寄せている貢との距離がなかなか縮まらないことだった。
お休みの日を除いてほぼ毎日顔を合わせ、仕事の時も行き帰りの車内でも密室に二人きりなのに、彼はわたしに対していつも一歩引いている感じだった。彼の真面目さはわたしもよく知っているし、そこに惹かれたのも事実。でも、彼の態度からしてわたしに好意をもっていたことは明らかだったんだから、わざわざそれを隠す必要なんてあったんだろうか?
そんなふうにモヤモヤした思いを抱えながら、一ヶ月が過ぎた頃――。わたしに〈Sコスメティックス〉からあるオファーが来た。
「えっ、春の新作ルージュのCMに出るんですか? わたしが?」
会長室の応接スペースで向き合った〈Sコスメティックス〉の販売促進部と広報部の部長さん――どちらも三十代くらいの女性だった――が、「ぜひ絢乃会長に、春から売り出す新作ルージュのイメージキャラクターを務めてほしい」と言ってきたのだ。
「そりゃあ……、わたしもおたくの商品の愛用者ですけど。コスメはもちろん、スキンケアやヘアケア、ボディケア商品まで。でもCM出演なんて……、わたし素人なのに」
「弊社の商品をご愛用して下さってるんですね、会長! 感謝します。……実は、これまでイメージキャラクターを務めて下さっていたモデルの女性が、スキャンダルで降板してしまいまして。後任に誰を起用しようかと相談していた時に、TVの報道番組でお見かけした会長の清楚な感じがイメージにピッタリはまっていたので、こうして出演交渉に参った次第でございまして」
「……はぁ」
揉み手せんばかりに愛想笑いを振りまく彼女たちに、わたしはタジタジになっていた。こういう時の対処法を知っていそうな貢に頼りたかったけれど、彼は給湯室へお茶を淹れに行っていてその場にいなかった。
「ちなみに、このルージュの新しいキャッチコピーがですね、『キスしたくなる春色ルージュ』でして、男優さんとの共演になります。キスシーンが見どころになってまして――」
「き……っ、キスシーン!?」
貢が戻ってきたタイミングでわたしは思わず声が上ずってしまい、緑茶の入った湯呑みが三つ載せられたトレーを抱えた彼に「どうかされました?」と首を傾げられた。
「あの……、何か問題でも?」
「……ごめんなさい。わたし、申し訳ありませんけど今回のお話はお断りします。正直迷ってはいたんですけど、キスシーンがあるっていうのはちょっと……」
わたしには貢という想い人がいるのに、ファーストキスを好きでもない(かと言ってキライとも言い切れない)男性に奪われるのはイヤだった。それも、このCMのシリーズに出演している俳優さんはたとえ演技でも本当にキスをすることで有名な人だったのだ。
「そうですか……。分かりました。残念ですが、会長がそこまでおっしゃるのでしたら、我々も別の女性にあたるしかありませんね。では、せっかく淹れてきて下さったので、我々はこのお茶を頂いたら失礼致します。お忙しい中お時間を割いて頂いてありがとうございました」
「そうですよね。こんなに美味しそうなお茶、飲まないともったいないですもんね」
彼女たちはちょっと残念そうに肩をすくめた後、「いただきます」と言って温かい緑茶をすすり始めた。
わたしも心の中でもう一度「ホントにごめんなさい」とお詫びしてから、お茶をすすって「あつっ!」と顔をしかめた。実はわたし、猫舌だったのだ。
「――どうしてCMの話、お断りしたんですか?」
〈Sコスメティックス〉の二人が帰っていった後、応接スペースで冷めたお茶を飲んでいたわたしに、向かい側に腰を下ろした貢が驚いたように訊ねた。
「会長、あちらの商品の大ファンでしたよね? またとないチャンスだったんじゃないですか? もったいない」
「だって……、キスシーンがあるっていうんだもん。小坂リョウジさんって、ドラマでもCMでもホントに相手にキスするって有名なんだよ」
「だからといって、そんな無碍に断るなんて……」
眉をハの字にして困っていたわたしの弁解に、彼は「そんなの会長らしくないです」と言った。
「わたしね、ファーストキスは絶対、好きな人としたいの。だから断ったの」
「好きな人と……って、えっ? ファーストキスなんですか」
「うん」
わたしは彼の顔をじっと見つめ、「貴方のことだよ」と目だけでメッセージを送ってみた。
「……そうでしたか。それならお断りしたのも仕方ないというか、納得できますね。ですが、会長の好きな人か……」
ところが、彼はうろたえるだけでそれが自分のことだと分かっているのかいないのか、わたしにはどちらとも判断できなかった。
「…………何ですか? 僕の顔に何かついてます?」
「えっ? ううん、何でもない!」
知り合ってからそろそろ四ヶ月が経とうとしていて、傍から見ればドライブデートみたいなことまでしているというのに。わたしの気持ちに気づいていないようなのはどういうことなのか。そこまで自分に想われている自信がないのか、それともただ単に鈍感なだけなのか? 「初恋って厄介だなぁ」と、わたしはこっそりため息をついたのだった。
2
――翌日の終礼後。わたしは教室で帰り支度をしながら、里歩と話していた。彼女も学年末テスト前ということで、部活はお休み。もうすぐ貢が迎えに来るので、「あたしも久々に桐島さんに挨拶して帰るよ」ということになった。
「――へぇ~、アンタCMのオファー断ったんだ。もったいない」
「里歩、彼とおんなじこと言ってる……」
わたしが〈Sコスメティックス〉のCM出演を辞退したことを話すと、里歩の反応は前日の貢とほぼ同じだった。
「だってさぁ、アンタ以上の愛用者はいないっしょ。なのに断っちゃうなんて」
「そんなこと言われても、わたしは女優でもモデルでもアイドルでも何でもないんだもん。俳優さんとキスシーンやれって言われても困る」
百五十八センチの身長にサラサラのロングヘアー、長い睫毛と目鼻立ちのハッキリした顔、そして恵まれたプロポーション。わたしは確かに外見こそ芸能人っぽいかもしれないけれど、あくまで一般ピープル、普通の女の子だったのだ。……そりゃまぁ、少しばかりTVには出ましたけども。
「そうだけどさぁ……。小坂リョウジがファーストキスの相手っていうのはちょっといただけないか。だってアンタ、桐島さんの方がいいもんねぇ」
「…………うん、それはそのとおりなんだけど。そんなに茶化さないでよ。わたし今、本気で悩んでるんだから。彼との距離がなかなか縮まらないこと」
貢がわたしの初恋の相手だということは、里歩もよく知っていた。
茗桜女子はお嬢さま学校ではあるものの、こと男女交際についてはオープンだ。他校との交流もあり、里歩みたいに彼氏がいるという子も珍しくなかった中で、わたしは男性に対して奥手だったせいもあるのか恋自体したことがなかったのだ。だからこそ、好きな人との距離の縮め方が分からなくて悩んでいた。
「ふーん……。っていうか、アンタたちまだ付き合ってなかったの? もう知り合って四ヶ月っしょ? もうとっくにくっついてると思ってた」
「だって、今はそれどころじゃないもん。仕事いっぱい抱えてるし、経営の勉強も学校の勉強もあるんだよ? とてもそんな心の余裕なんか」
「まぁ、アンタはそうだろうね。人を好きになったのも初めてだし、どう行動していいか分かんないっていうのはあたしも理解できるよ。じゃあ、桐島さんの方は? 彼は一応恋愛経験ありそうだし、そこんところどうなわけ?」
「えっ? ……う~ん、どうって言われても……。真面目な人だし、上司と部下っていう関係上、いつも一歩引いてる感じだからなぁ。彼がホントにわたしのこと好きなのかどうかもまだよく分んないし」
彼もわたしのことが好きらしい、というのは里歩が以前くれた情報のみで、本人に直接確かめたわけではないし、わたしには確かめる勇気もなかった。でも、前日のうろたえぶりからすると、里歩の推測はあながち外れてもいないような気がしていた。
「……あ、それ確かめたいなら今の時期チャンスなんじゃない? ほら、もうすぐバレンタインデーだしさ」
「バレンタインデーか……。そういえばそんな時期だね。忙しくて忘れかけてたけど」
昇降口へ向かって歩いている途中で、里歩がまたもやナイスな提案をしてくれた。恋する人にとって、バレンタインデーは絶対に外せないビッグイベントだ。
初等部から女子校に通っていて、これまで恋愛経験ゼロだったわたしは〝女子校バレンタイン〟しか知らずに育ってきた。具体的にいうと、同級生や後輩の女の子からチョコをもらったり、里歩と友チョコを交換したり。男性にチョコをあげたのは寺田さんと父くらいのものだ。
でも、この年は違っていた。生まれて初めての、好きな人=本命の相手がいるバレンタインデー。これはわたしにとってすごく特別な意味を持っていて、わたしの恋のこれからを左右する日といっても過言ではなかった。
「でしょ? もう思い切って告っちゃえ! バレンタインデーに手作りチョコでも渡してさ、桐島さんにアンタの気持ち伝えて。そのついでに彼の気持ちも確かめたらいいんじゃない?」
「そんな、『告っちゃえ』って簡単に言うけど」
「んじゃ、告るのは別にいいとして、チョコだけでもあげたら? 桐島さんってスイーツ男子だし、絢乃の手作りチョコなら喜んで受け取ってくれると思うよ」
「手作りねぇ……。やってる時間あるかなぁ」
里歩の言うとおり、彼は甘いものに目がないし、わたしからなら受け取らないはずがない。ただ、手作りというのは……。会長に就任してからというもの、色々と多忙になったためあまり時間が取れなくなっていたのだ。
「そこはまぁ、来週はテスト期間だし。休みの日もあるし? あたしも部活休みだし準備とか手伝ってあげられるから」
「うん……、じゃあ……考えてみようかな」
「――『考えてみる』って何のお話ですか? 絢乃さん」
「わぁっ、桐島さん! ビックリしたぁ」
いるはずのない人の声が急に聞こえてきて、わたしは思わず飛び上がった。でも、何のことはない。わたしたちはおしゃべりしている間に校門の前まで来ていたのだ。
「お……っ、お疲れさま。早かったねー」
「桐島さん、こんにちは。今日も絢乃がお世話になります」
「こんにちは、里歩さん。今日はたまたま道路が空いていたもので、早めに来られたんです。――ところで何のお話をされていたんですか?」
わたしの笑顔が若干引きつっていたことにも、里歩が一緒にいることにも彼は動じることなく、彼女への挨拶もそこそこにサクッと本題に戻した。
「ああ、『もうすぐバレンタインデーだね』って話してたんです。ね、絢乃?」
「うん。……桐島さん、あの……。あ、そろそろ行かないとね。寒いし、ママが待ってるし」
「そうですね。では里歩さん、我々はこれで」
「はーい☆ 絢乃、また明日ねー♪ 仕事頑張って!」
「うん、また明日」
里歩に手を振ると、彼女が「絢乃、ファイト!」と言っているのが口の動きだけで分かった。――「ファイト!」って何を? 彼とのこと?
「――そういえば先ほど、里歩さんとバレンタインデーのことで話されていたんですよね」
オフィスへ向かうクルマの中で、貢が改めてわたしに訊ねてきた。
「あー、うん。まぁ、そんなところかな」
厳密にいえばちょっと違ったのだけれど、正確に伝える勇気がわたしにはなかった。
「で? それがどうかしたの?」
「えーと……、絢乃さんは、チョコレートを差し上げる相手っていらっしゃるんですか? その……義理も含めて。確か小学校から女子校ですよね?」
「ああ、そういうことね。去年まではパパにもあげてたかな。学校では里歩に友チョコでしょ。今年はあと寺田さんと、村上さんと山崎さんと広田さん、あと小川さんにも。桐島さんがお世話になってるからね」
名前を挙げたほとんどが、会社でお世話になっている人ばかりだ。当然そこには同じ女性である広田常務と小川さんも含まれていた。
「はぁ、そんなに……」
彼はそこに自分の名前が入っていなかったので、「僕はもらえないのか」と落胆しているようだったけれど、それは彼の早合点だった。
「あと……ね、貴方にも。一応手作り……の予定」
「……えっ? 本当ですか!?」
ガッカリしていた彼の表情が、その一言でパッと明るくなった。彼もわたしからのチョコを期待していたということは、やっぱり……。里歩の言っていたことは間違っていなかったのだろうか?
「――あ、来週は学年末テストの期間で学校が早く終わるの。だから十一時半ごろに迎えに来てもらっていい? ランチは社員食堂で一緒に食べようよ」
「はい、かしこまりました」
そう答えた彼の声も、心なしか弾んでいた。
3
「――美味しい~♡ このボリュームとクオリティが五百円で食べられるってなかなかないよね」
学年末テスト期間の翌週、わたしは貢と一緒に篠沢商事の社員食堂で昼食をとっていた。この日のメニューは、わたしはフェットチーネのカルボナーラ、貢はビーフシチュー定食。どちらも五百円、ワンコインだ。
ちなみに篠沢商事の社食は外部発注ではなく、グループ企業の〈篠沢フーズ〉が一手に引き受けているので、低価格でメニューも豊富なのが特徴である。これをまだ学生の身で味わえたのは会長特権かもしれない。
「あ~、幸せ~~♪」
「会長って何か召し上がっている時、すごく幸せそうな顔になりますよね。見ている僕の方まで幸せな気持ちになりますよ」
彼は目を細めながら、美味しいパスタに顔を綻ばせるわたしを眺めていた。
「キライな食べ物とか、苦手な食べ物ってないんですか?」
「んー、ワサビとカラシはダメだけど、あとは特にないかな」
「そうなんですね……」
彼はまた目を細めた。
秘書室に異動してから、彼の精神状態は穏やかになっているようでわたしもホッとしていたけれど、まだ彼を苦しめていた根本原因が解決したわけではない。もしかしたらその時にもまだ進行形だったかもしれないのだ。
会長就任から一ヶ月。バタバタしていたわたしの周りも落ち着いてきた頃だし、そろそろ動き始めるにはいい時期じゃないだろうか。そう思った。
「――ねえ桐島さん。ランチが済んだらわたし、ちょっと抜けるから。貴方は先に会長室に戻っててね。すぐに戻れると思うけど」
「……はぁ、分かりましたけど。どちらへ行かれるんですか?」
「人事部、山崎さんのところ。貴方が受けてたハラスメント問題について、そろそろ動いてみようと思って。『餅は餅屋』って言うでしょ?」
ハラスメント問題の調査にはきっと時間がかかる。まずは山崎さんに、総務課の現状を調べてもらおうと思った。
「……えっ? いえ、ですが……。会長自ら動かれるようなことでは……」
「こういう時こそ、トップが動かなくてどうするの? 大丈夫だから、ここはわたしにドーンと任せなさい。ね?」
「…………はい」
「あと、バレンタインチョコもちゃんと用意するから。お返しは考えなくていいから、その代わりに誕生日プレゼント、よろしくね」
「はぁ。お誕生日はいつでしたっけ?」
「四月三日、だよ」
「了解しました」
――この後、わたしは彼への本命チョコをどんなものにするか、そして彼は多分、わたしへの誕生日プレゼントに悩んでいたことだろう。二人で考えごとにふけりながらランチを食べ続けていたのだった。
「――じゃあわたし、人事部に顔を出してくるから」
「はい。行ってらっしゃいませ」
わたしは人事部のある三十階でエレベーターを降り、貢が乗ったエレベーターはそのまま最上階へと上がっていった。
人事部はこのフロアーでエレベーターホールから見て奥の方、人事部長室はその一番奥、会長室のちょうど四フロアー下にある。
「――上村さん、お疲れさま。山崎部長はいらっしゃいますか?」
執務室の前、秘書席に座っていた専務秘書の女性に声をかけると、彼女はわたしの顔を見て一瞬驚いた後、「ええ、いらっしゃいます。お呼びしましょうか?」とわたしに訊ねた。
「ううん。わたしから押しかけてきたんだし、中に入らせてもらえればいいから。山崎さんにちょっと大事な話があって……」
「そういうことでしたか。分かりました。どうぞお入り下さい。――お茶、お持ち致しましょうか?」
「ああ、すぐに失礼するからお構いなく。ありがとう」
上村さんの許可を得たわたしは自ら部長室の木製ドアをノックした。ちなみに会長室のドアも木製だけれど、重みというか重厚感は人事部長室や他の執務室の方が少し軽いと思う。わたしは建築家でも設計士でもないのでよく分からないけれど。
「――はい。誰だね?」
中から聞こえてきたダンディーな声の主は、「わたし、篠沢ですけど」と名乗ると慌ててドアを開けに出てきて
「これは会長! 失礼致しました。どうぞ」とわたしを招き入れてくれた。
「――どうされたんです、会長? わざわざ私を訪ねてこられるとは」
応接スペースの革張りソファーに腰を下ろすと、彼は会長自らの突撃訪問に首を傾げた。
「何か用がおありなら、会長室へお呼び下されば私の方から参りましたのに」
「今日はわたしから貴方にお願いがあって来たんです。頼みごとをするのに呼びつけるのは失礼でしょう?」
これはわたしの方針であり、亡き父の方針でもあった。たとえ上司と部下の関係であっても、頼みごとをする時には自分から出向くべし。
「まぁ、確かにそのとおりですな。――で、私にお願いしたいこととは?」
「山崎さんの方がよくご存じだと思うんですけど、総務課でハラスメントの問題が起きているそうですね。それについて、内密に詳しい調査をお願いしたくて。今も進行形なのか、とか大体どれくらいの人たちが被害に遭っているのか、とかそのあたりについて調べてほしくて」
「はぁ、そういうことでしたらお安いご用ですが。会長はそれを知ってどうされるおつもりなんですか?」
「実は……、わたしの秘書の桐島さんもその被害に遭ってたみたいなんです。彼は異動することでそれ以上の被害を回避できましたけど、問題自体が解決したわけじゃないですよね。なので、わたしはこの問題の全貌が分かったら世間に公表しようと思ってます」
不祥事は隠蔽することなかれ。これもまた父の信条だった。たとえ一時的に会社のイメージが悪くなったとしても、すぐにプラスに転じるから、と。
「わたしとしては、年度末までに決着をつけたくて。あまり時間がないのでできるだけ迅速に動いて頂けますか?」
「…………分りました。さっそく動いてみましょう。会長のご期待に沿えるかどうかは分かりかねますが」
「お願いします、山崎さん。――お時間取って頂いてありがとうございました」
「いえいえ。また何かお役に立てることがありましたら、いつでも相談にいらして下さい」
わたしは「それじゃ、失礼します」と言って人事部長室を後にした。
「――あ、会長。おかえりなさい」
「ただいま。わたし最近、やっとここが自分の居場所なんだなぁって思えてきたよ」
PCで仕事をしながら笑顔で出迎えてくれた貢に、わたしも笑顔で応えた。
「それはよかったです。――それで、専務は何と?」
「うん、さっそく動いてみるって。年度末まであんまり時間ないからね。彼も忙しい人だし」
わたしが年度内にこだわっていた理由は、新年度から入社してくれる人たちを安心して迎え入れたかったから。誰が好きこのんで問題のある企業に入社したがるものか。
「――さて、じゃあ今日の仕事にかかりますかね。桐島さん、これは明日の会議で使う資料?」
PCを起動させる前に、わたしはデスクの上に置かれた書類に目をとめた。
「ええ、そうです。午前のうちにまとめておいたんですが……、何か問題ありました?」
「う~ん、誤字脱字はないけど。わたしはこっちの表現にした方が伝わりやすいかなーって」
わたしのデスクまで不安そうにやってきた彼にそう言いながら、プリントアウトされた資料に赤ペンで修正を入れた。
「ああ……、なるほど。確かにそうですね。ご指摘ありがとうございます。会長は書かれる字も丁寧でキレイですね」
「え……、そうかな? ありがと。そんなストレートに褒められたらなんか照れちゃうよ」
彼は本当に優しくて実直で、そして褒め上手な人だ。なのに、どうして彼女ができないんだろうとわたしは不思議で仕方がなかった。
4
――そして数日後のバレンタインデー当日。
「会長、学年末テストは今日まででしたよね。お疲れさまでした。――で、その紙袋は何ですか?」
この日も午前十一時半ごろに学校まで迎えに来てくれた貢が、スクールバッグだけでなく大きめの紙袋を抱えて助手席に乗り込んだわたしに目を丸くした。
「ああ、これ? 後輩の女の子たちからチョコいっぱいもらっちゃったの。もちろん里歩からのもあるよ。で、一人じゃとても食べきれないから会社の給湯室で保管しといてもらおうかなーと思って」
「へぇー…………、そうなんですか。本当にあるんですね、女子校バレンタインって」
今の時代、バレンタインチョコは男性だけのものじゃないのだ。自分用にお高いチョコを買う女性もいる。わたしみたく、本命チョコを頑張って手作りする女性だっていないこともないけど。
「まぁね。でも、こんなの里歩がもらった分とは比べものにならないから。『女の子にモテまくるってのも困りもんだねー』って、里歩笑ってた。あの子、彼氏もちゃんといるんだけどね」
「う~ん、何となく分かるような、分からないような……」
女子校ではしばしば、カッコいい先輩が人気を集める傾向にある。某歌劇団みたいなものだ。わたしがたくさんチョコをもらえた理由は、多分世間的に有名人になったことだろうと思う。いわゆる〝有名税〟というやつだろうか。
「でも安心して。もらうばっかりじゃなくて、わたしもちゃんとチョコ用意してあるからね」
「えっ? もしかして僕の分は……」
「それはナイショ♪ じゃあクルマ出して下さ~い」
「はい!」
彼はいつもの五割増しで張り切ってアクセルペダルを踏んだ。
彼へのチョコは、ネットで検索したレシピを元に母や里歩にも手伝ってもらって作った。初心者向きの簡単なものではなく、プロのショコラティエが作るような手の込んだものだ。ラッピング用品まで自分で選ぶくらい気合の入った本命チョコだった。
でも、他の人にあげる分はそこまで手をかけていられないので(本当に申し訳ないと思っているのだけれど)、スーパーで買ってきた大袋の個包装チョコレートを小さなギフトパックに小分けしたものを用意していた。そうすることで、一応の差別化をはかったのだ。
「――じゃあこれ、冷蔵庫で保管お願いします」
会長室に着くとすぐ、わたしはチョコがたんまり入った紙袋を貢に託した。
「かしこまりました。これでまた、当分おやつに困りませんね」
「うん……。でも何日も続けてチョコばっかり食べてられないから、秘書室のみなさんで分けてもらってもいいよ」
「えっ、いいんですか!? ありがとうございます!」
「うん。くれた子たちには悪いけど、もらったものをわたしがどうしようと自由だもんね」
「そうですよね」
食べ物をもらっていちばんよくないのは、食品ロスを出してしまうことだ。大勢で分けることでそうならなくて済むなら、それに越したことはないと思う。
「あと、これは桐島さん、貴方に」
わたしはスクールバッグに忍ばせていた、ポップなデザインの小さなギフトボックスを彼に差し出した。
「約束どおり、頑張って作ってみたの。口に合うかどうか分かんないけど」
「……えっ? ありがとうございます。お忙しいのにわざわざ本当に手作りして下さったんですか?」
「うん、里歩とかママにも手伝ってもらったけどね。食べたら感想聞かせて?」
「はい!」
彼は天にも昇るような様子で(他にどう表現していいか分からないけど、多分あっていると思う)、包みを自分のビジネスバッグにしまっていた。
彼の他に手作りチョコが当たったのは里歩と寺田さんだけ(彼には数個試食してもらっただけだ)なので、実はかなりレアなのだ。貢は気づいていなかっただろうけれど……。
「では、僕はちょっと給湯室へ行って参ります」
「あ、じゃあわたしもちょっと出てくる。村上さんたちにチョコ渡してくるから」
彼はわたしがスクールバッグから取り出した数袋のギフトパックに「あれ?」という顔をした。
「他の人の分は手作りじゃなかったんですね。会長はそういうところ、こだわられる人だと思ったんですが」
「まぁね。細かいことはいちいち気にしないの。じゃ、行ってきま~す♪」
わたしはとっさに笑ってごまかしたけれど、それには特別な理由があるんだと果たして彼が気づいていたかどうか――。
その後わたしは社長室、秘書室、人事部を回って日ごろお世話になっている四人にチョコを渡していった。
広田常務と小川さんは「私たち女性なのに、よろしいんですか?」と遠慮がちだったけれど、「糖分の補給はお仕事の効率アップのためにもいいから」と言って受け取ってもらった。わたしからの差し入れだと思ってくれたらそれでいい。
「ただいま。――わっ、桐島さん! それどうしたの!?」
チョコを配り終えて会長室へ戻ると、デスクの上にこんもりと積まれたチョコレートの包みを前にして彼が困惑顔をしていた。
「ああ、おかえりなさい。どうしたもこうしたも、これ全部僕が女性社員たちから頂いたチョコです。多分、義理ばかりだと思うんですが」
「へー……。桐島さん、人気あるんだね」
義理ばかり、と聞いてもわたしは正直ショックを隠せなかった。もしこの日、真っ先にチョコを渡していなかったら、彼にチョコをあげる勇気がしおれてしまっていたかもしれない。
「それだけもらえるなら、わたしからのチョコはいらなかったかもなぁ。……ごめん、何でもない」
すねたようにこぼした言葉に、彼は素早く反応した。
「……会長? 会長が下さったチョコって、もしかして……」
「貴方は、どっちだと思う?」
彼は気づいたかもしれない。わたしからのチョコが本命だということに。わたしの、自分に対しての気持ちに。
そして彼の気持ちにわたしもまだ気づいてはいなかった――。
* * * *
――その日の帰りにも、彼はいつもどおりにわたしをクルマで家まで送ってくれたのだけれど……。
「……あ、久保さんの分のチョコ、用意するの忘れてた」
「アイツの分は別に用意されなくていいです」
クルマを降りる前、わたしがポツリとこぼした一言に、彼は過敏に反応してブスッと吐き捨てた。というか、今思えば久保さんの名前に反応していたような……。
「えっ、どうしたの? 桐島さん、今日はなんか変だよ?」
普段の彼なら、こんなふうに突っかかってこずに聞き流すはずなのに。
「……絢乃さんって、まだお気づきになっていないんですか? だとしたらかなり鈍感ですよね」
「…………えっ?」
彼が何を言っているのか理解が追いつかないままわたしがパニックになっていると、次の瞬間彼はとんでもない行動に出た。なんと、わたしの唇を強引に奪ったのだ!
「……これでも、まだお分かりになりませんか? 僕の気持ちが」
「…………えっと」
わたしはファーストキスを奪われたという事実と、いつもの誠実で紳士的な彼からは想像もつかなかった強引さとで頭の中がこんがらがってしまい、冷静さを失っていた。
「…………あの、これがわたしの初めてのキスだってことは、貴方も分かってるよね?」
彼だって知らなかったはずはない。だって、つい数日前にわたしの口から聞いていたはずだから。
「はい、知っています。それから、絢乃さん。あなたが僕のことをどう思われているのかも」
「……………………ええっ!?」
わたしだってそりゃ、彼との距離が縮まらなくて悩んでいた。でも、これじゃあまりにも展開が早すぎる!
「…………あああの、ゴメン! わたし今、頭混乱しちゃっててどう言っていいか分かんない。……えっと、ちょうど週末だし、明日と明後日で頭冷やすから、今日はこれでっ! また来週ね! おっ、お疲れさま!」
「…………はぁ、お疲れさまでした」
わたしは彼とまともに顔を合わせられないまま、この日は彼と別れたのだった――。
繋がり合う気持ち
1
「――ただいま……」
「絢乃、おかえりなさい。――あら、なんか顔赤いけど大丈夫? 熱でもあるの?」
玄関でわたしを出迎えてくれた母は、わたしの顔が真っ赤になっていたことに目ざとく気づいた。
「あ、ううん。そういうんじゃないから大丈夫。ただ……」
「ただ?」
わたしは貢にキスされたことを母に打ち明けようとして思いとどまった。母もわたしが彼に恋をしていることは知っていたけれど、果たして彼の方の気持ちまで知っていたかどうかは分からなかった。もし万が一、打ち明けたことで彼に不都合なことが起きてしまったら……?
「…………うん、まぁ。その……何でもない。桐島さんとみんなにはちゃんとチョコあげられたから。あ、これね、学校の後輩の子たちからもらったチョコ」
ごまかすように、小さめの紙袋を母に差し出した。
「あら、いいの? ……これだけ?」
「ううん。もっとたくさんもらったけど、ここにあるのは手作りの分だけ。市販品は会社の給湯室に保管してもらうことにしたの」
さすがに手作りチョコまでお裾分け、というわけにはいかなかったので、その分だけは別にして家まで持ち帰ったのだ。
「じゃあ、夕食後のデザートに史子さんと寺田と四人で頂きましょうか。絢乃、お腹空いてるでしょう? もう夕食にしてもらう? 今日はクリームシチューですって」
「うん……、そうしようかな。部屋で着替えてくるね」
わたしは家に帰ってからずっと、母とも目を合わせられなかった。
「そういえば、昭和のロックバンドの曲によく似た状況の歌詞があったな……」
里歩が好きな曲で、わたしもストリーミングで聴かせてもらったことがある。この時のわたしの状態は、あの歌詞と見事にシンクロしていた。
* * * *
「――で? なんでアンタ、そこで告らなかったかな……。っと、おっしゃ、ストライク!」
翌日の土曜日。わたしは午後から里歩に誘われて新宿のボウリング場にいた。彼女はここでも運動神経のよさを発揮して、ストライクやスペアを量産していた。
「だって、気が動転しちゃったんだもん、それどころじゃ……、あー……」
対いてわたしのヘタクソな投球は見事に溝へ吸い込まれていった。ピンが倒れたとしても、せいぜい端っこの二~三本くらい。そのせいでわたしのスコア表には、数字よりもガターの「G」の文字の方が多かった。
「アンタってボウリングもダメダメなんだね」
「はいはい、どうせわたしは運動オンチですよー。ホント、里歩が羨ましい」
スキニーデニムにパーカー姿の里歩は、脚が太めなことを気にしているらしい。でも、スポーツのセンスがまるでないわたしは彼女の筋肉質な脚がカッコいいと思う。
「だいたいさぁ、ボウリングにロングスカートで来るってどうよ」
「それは別にいいじゃない」
里歩の指摘に、わたしは口を尖らせた。
――二ゲームほど遊んだら、体力に自信のある里歩はともかくわたしはもうすっかりヘトヘトになってしまった。
「…………疲れたね。もう終わろっか」
「うん。里歩、ありがとね」
わたしから「もう終わろう」と言う前に、里歩の方から言ってくれた。
「――ところでさ、どうして桐島さんが昨日のタイミングでキスしたか、なんだけど」
「うん……。彼、ああいうことしそうな人じゃないと思ってたのになぁ」
休憩しに入った駅ビルのカフェで、アイスラテを飲みながらわたしは頬杖をついてそうこぼした。店内は暖房が効いていたので、冷たい飲み物でちょうどよかった。
「あたしが思うに、それって彼がアンタの気持ちを知ったからなんじゃないかな?」
「あー……。そういえば昨日、そんなこと言ってたような気が……。パニクってて頭に入ってこなかったけど」
彼は気づいていたのだ。わたしからのチョコが本命=わたしが自分を好きなんだということに。
「だってさ、こないだCM出演のオファー断った時にアンタ言ったんでしょ? 『ファーストキスは絶対、好きな人としたい』って。彼もそれ憶えてたんだよ」
わたしと同じものを、ガムシロップ少なめで飲む彼女はわたしと同い年なのに少しだけ大人に見えた。
「…………うん、確かに言ったけど。あれじゃあんまりにも急展開すぎるよ。理解が追いつかないってば」
「でも、キスだけで済んだと思えばさ。桐島さんはまだ紳士的な方だと思うよ。ヘタすりゃ押し倒されてたかもしれないんだから」
「おし……、えっ!?」
あまりにも生々しい言葉が出てきて、わたしはギョッとなった。
「っていうかさ、アンタもしあのCMの話受けてたら、小坂リョウジにお持ち帰りされてたかもよ?」
「お持ち帰り? ……っていうかなんで急に小坂さんの名前が出てくるの?」
「アンタ知らなかったの? これこれ。今ネットで騒がれてるんだよ」
里歩は自分のスマホでニュースサイトを開き、テーブルの上に置いた。わたしが覗き込んだその画面に表示されていたのは――。
「『小坂リョウジ、共演女性モデルと熱愛発覚! CM撮影現場から自宅お持ち帰り!』!?」
「そ。もしオファー断ってなかったら、アンタがこうなってたかも、ってこと」
「ええー……」
里歩の言葉にゲンナリしたわたしだったけれど、同時にあの時お断りしたのは間違いじゃなかったなぁとも思えた。
だって、貢はまかり間違ってもこんなことをするような人じゃないもの。
「あーあ、ショックだなぁ。あたし小坂リョウジのファンだったのに。幻滅……」
里歩がボヤき始めたのを、本人には申し訳ないけれどわたしは笑いながら見ていた。
「――でも、今日は誘ってくれた里歩に感謝しなきゃ。ひとりで家にいて悶々としてたって埒あかなかったから」
「だしょ? こういう時は、恋愛上級者の里歩サマを頼ればいいんだって」
わたしは本当に幸せものだ。だって、こんなに頼もしい親友に恵まれたんだから。
* * * *
――お店を出たところで、里歩が立ち止まって「あ、ライン来てる」とスマホを見た。
「ライン? 彼氏さんから?」
「ううん、お父さんからだ。これからお母さんと三人で買い物に行かないか、って。あたし、そろそろスマホの機種変したいと思ってたから、お父さんにお願いしてみようかな」
……お父さんと三人でお出かけなんて羨ましい。わたしにはもう、二度とできないことだったから。
「里歩、行ってきなよ。お父さんには甘えられる時に甘えさせてもらわなきゃ、いなくなってから後悔するよ」
「絢乃……。ありがと、じゃあ今日はここでバイバイだね。また連絡するから」
「うん。今日は付き合ってくれてありがと」
里歩と別れた後、ひとりで駅ビルの中をブラブラ歩いていると――。
「あのさ、間違ってたらゴメン。――篠沢、絢乃ちゃん?」
「……はい? そう……ですけど」
後ろから唐突に男性に声をかけられ、わたしは戸惑いながら振り返り、その男性の顔をまじまじと見つめた。この人、誰かに似ているような……。
「あ、ゴメン! オレは決して怪しいモンしゃないから。……っていうか、オレの顔に何かついてる?」
「あー……、いえ。ちょっと知り合いに似てるなぁと思って。でも誰だったか思い出せなくて」
「ああ、そういうことか。――オレの名前は、桐島悠。弟がいつもお世話になってます、絢乃ちゃん」
「桐島? ……って、ああ! もしかして、桐島さんのお兄さまですか? 調理のお仕事をなさってるっていう」
そうか、貢に似ているんだ。ちょっと猫っ毛な髪質や、優しそうな目もとや、シャープな顎のラインが。
貢には四歳上のお兄さまがいると、わたしもその四ヶ月前に聞いていた。この男性はちょうど三十歳前後、年齢的にも彼の四歳くらい上に見えた。
「大正解♪」
貢のお兄さま――悠さんは、嬉しそうにニンマリ笑った。
2
「……って言っても、言葉だけじゃ信じてもらえねぇだろうから」
彼はそう言って身分証明書をわたしに見せてくれた。
「これで納得?」
「はい、大丈夫です。――ところで悠さん、よくわたしだってお分かりになりましたね」
悠さんも多分、わたしの姿はTVやネットでご覧になっていたと思う。でもそれは全部制服姿で映っていたはずだ。ちなみにこの日のわたしは、ピンク色のアーガイル柄が入ったベージュのハイネックニットに茶色いコーデュロイのロングスカート、焦げ茶のロングブーツにライトブラウンのダッフルコートという私服姿だった。
「そりゃまぁ、私服来てても醸し出すオーラっつうか、気品みたいなのは変わんねぇもん。――今日はひとり?」
「いえ、さっきまで親友と一緒でした。ふたりでボウリングに行ってて。……悠さん、は? 飲食系って、土日は書き入れ時なんじゃ?」
土曜日の夕方四時ごろは、飲食店ならディナータイムの仕込みやら何やらで忙しい時間帯だ。ウチのグループの傘下にも飲食チェーンがあるので、わたしも一応そのあたりの事情には詳しいわけである。
「うん。でもオレ店長やってて、今日は早番だったから今が帰りなんだ。副店長がいりゃ店は回るし。んで、絢乃ちゃんにここで会ったのはマジで偶然だから」
「はぁ、なるほど」
悠さんはご自身の事情を簡潔に話してくれたけれど、最後に偶然を強調したのはどうしてなんだろう? というか誰に対しての弁解?
「――あ、そうだ。絢乃ちゃん、これからちょっと時間もらえるかな? アイツのことで、君に話があんのよ」
「ええ、大丈夫ですけど。『アイツ』って弟さん……貢さんのことですか?」
「うん。じゃあ、ちょっと付き合ってもらおうかな」
貢のことで、と言われるとわたしも断れなかった。やっぱり、彼の考えていることが気になって仕方がなかったから。……でも、この時の光景って傍から見たらナンパの現場と捉えられても不思議じゃなかったと思う。
――悠さんに連れられて入ったのは、駅ビル近くにある分煙式のセルフカフェだった。
「絢乃ちゃん、喫煙席でも平気?」
「はい、大丈夫です」
店員さんに「喫煙席に、二人」と告げた悠さん。どうやら喫煙者、それもかなりの愛煙家らしいと分かったけれど、わたしは特別不快にも感じなかった。同じ兄弟でも、貢はまったくタバコを吸わない人なのだけれど。
「絢乃ちゃんって、タバコ平気な子なんだな」
彼がブラックコーヒーのカップを前にして向かいの席に座り、手慣れた仕草でタバコに火を点けるのをわたしが平然と眺めていると、感心したようにそう言われた。
「はい。三年前に亡くなった祖父もタバコを吸う人でしたから。両親はまったく吸わないんですけど……あ、父はもう過去形か」
父を亡くしてまだ一ヶ月半くらいで、もう過去形になっていることにわたしの心はチクリと痛んだ。まだ〝父の死〟というものを現実として受け入れられていなかったからかもしれない。
「――ところで、貢さんのことでわたしにお話っていうのは? 昨日、何か連絡があったんですか?」
わたしはケーキセットについていたホットのカフェラテを一口すすってから、本題を切り出した。ちなみにケーキはバレンタイン期間限定のガトーショコラだった。
「連絡があったっつうか、アイツ毎週末には実家に帰ってくんのよ。で、昨日もそうだったんだけど、なんか様子がヘンでさぁ」
「ヘン、って……どんなふうに?」
困惑ぎみに語りだした悠さんに、わたしは眉をひそめた。それには多分、前日の出来事が――わたしが関係していると思ったから。
「昨日、バレンタインだったじゃん? んで、チョコいっぱいもらってきたからって、オレに分けてくれたまではよかったんだけど。やたら機嫌いいかと思ったら急に黙り込んだり、ソワソワしたり。ちょっと情緒不安定っぽい感じ?」
「う~ん……」
わたしはどうコメントしていいか分からずに唸り、ガトーショコラにフォークを入れた。甘いけれどちょっとほろ苦いチョコレートの味は、何となく恋をしている時の感情に似ているかもしれない。
「……あ、そういやアイツ、絢乃ちゃんからもチョコもらったって言ってたな。手作りだって嬉しそうにして、オレも『一個くれ』って言ったんだけど、一個もくれなかったんだよ。――っと、んなことはどうでもいいや。絢乃ちゃん、アイツからチョコの感想もらった?」
「はい、ラインでもらいましたけど……。これ見てもらえますか? ちょっと、一人で読むの恥ずかしくて」
わたしは前夜に彼から受信したメッセージの画面をスマホに表示させてテーブルの上に置いた。
〈手作りチョコ、ありがとうございました。すごく美味しかったです。〉
「――なんだ、普通の感想じゃん。これがどうかした?」
「問題はその後なんです。そのまま画面、スクロールさせてみて下さい」
「……うん、分かった。――うーわー……」
彼がゲンナリした声を上げたその理由は――。
〈でも、僕には絢乃さんの唇の方が甘かったですけどね。〉
「…………何だこれ!? アイツ、めっちゃキザじゃんー。しかも見事に既読スルーされてやんの!」
あまりにもキザすぎて彼らしくない一文に、悠さんはお腹を抱えて大爆笑し始めた。
「でしょう? わたしも、これを読んだら返信に困っちゃって」
「あー、おもしれー! でもそっか、これで納得いった。アイツ、今朝めっちゃ落ち込んでたんだわ。なるほどなぁ、これが原因だったんだな」
「そりゃあ、せっかく手作りチョコの感想を送ったのに既読スルーされたんじゃ、落ち込んでも仕方ないですよね」
わたしは貢に対して申し訳ない気持ちになった。せめて感想をくれたお礼だけでも返すべきだったのに。既読スルーはやっちゃいけなかったかな。
「うんまぁ、それもあるけど。多分、アイツ自身がこの一文を送信した後、めちゃめちゃ悶絶してたはずだからさぁ。『なんで俺はこんなこと書いちまったんだぁ!』って。だってこれ、絶対アイツのキャラじゃねぇもん」
「……えっ?」
「多分、昨日君のファーストキスを強引に奪ったことも後悔してると思う。君があれで機嫌を損ねちまったんじゃないか、ってな。んで、この既読スルーで君を完全に怒らせちまったって思い込んだんじゃねぇかな」
「わたしは別に怒ってなんか……。ホントに気が動転してただけなんです。でも、貢さんはどうしてそんなにネガティブな方に解釈しちゃったんでしょう? 男性ってみんな、そんなに自分に自信がないものなんですか?」
貢が初恋だったわたしには、男性の心理を理解しようとするのはそれこそ司法試験並みに難しかった。
「いや、みんながみんなアイツみたいってわけじゃねぇよ。少なくともオレは違う。……それはともかく、アイツがあんななのはちょっと恋愛恐怖症だからかもなぁ。過去の失恋とか、他にも色々引きずってああなってるだけだから」
さすがはご兄弟だけあって、悠さんは貢のそのあたりの事情についてよくご存じらしい。恋愛恐怖症になってしまうほどの失恋(とその他諸々)って一体……? わたしはものすごく気になった。
「あの……、それってどんなことがあったんですか? お兄さまはご存じなんですよね?」
「それはオレに訊くより、アイツが話したくなった時に聞かせてもらった方がいいと思うよ。……でもさ、オレが思うに、アイツは絢乃ちゃんに嫌われるのが怖いだけだと思うんだよなぁ。絢乃ちゃんも気づいてるんだろ? アイツが君のことをどう思ってるのか」
わたしはコクン、と頷いた。里歩がずっと前に言っていたとおりだったのだ。わたしが勝手に「そんなわけないじゃない」と否定していただけで。
3
「そして多分、君とアイツはすでに両想いのはずだ。……違うかな?」
どうしてそこまで分かったのか不思議に思って目をみはると、悠さんはそれを肯定と受け取ったらしい。
「どうやら当たりみたいだな。だってあのチョコ、本命だったんだろ? アイツが昨日もらってきたチョコん中で、手作りはあれだけだったから」
「……はい」
わたしは素直に認めた。いくらお菓子作りが得意な女子でも、わざわざ義理チョコまで手作りにしないだろう。……まぁ、そういう女子も探せばどこかにいるかもしれないけれど。
「わたし、生まれて初めて好きになった人が貢さんなんです。知り合ったのがちょうど父が倒れた頃だったんで、彼の存在はものすごく心強くて。わたしが前向きな気持ちになれたのも、父の死を心から悲しんで思いっきり泣くことができたのも彼のおかげなんです。それに、今でもすごく助けられてます」
彼がいなければ、わたしが父の死からここまで立ち直れたかどうかも、会長の仕事と高校生活という二刀流だってうまくやり遂げられていたかどうかも分からない。
「――あの、悠さんはご存じですか? 貢さんがいつからわたしのことを好きになったのか。……もしかして、初めて会った時から……とか?」
「うん、実はそうらしい。でも、どうしてそう思ったの?」
「それは……、初対面の夜に、彼が言ってたからです。わたしのお婿さん候補に、自分も入れてもらうことは可能ですか、って。……その時は彼が『冗談です』ってごまかしてたんで、わたしも本気で言ってるのかホントに冗談なのか分からなかったんですけど」
「へぇー、アイツそんなこと言ったのか。でも兄のオレが思うに、そりゃ本気だな」
「やっぱり……。悠さんもそう思われますか?」
前日の彼の言動から、わたしもやっとそれが本気だったんだと受け入れることができた。けれど、同時に「わたしなんかでいいんだろうか」という気持ちもあった。八歳も年下だし、まだ子供だし、彼の恋人になるならもっとふさわしい、お似合いの女性が他にいるんじゃないか。と。
でも……、わたしが彼を好きだという気持ちも、彼も同じ気持ちだったらいいなぁと思っていたことも事実なのだ。
「ということは……、わたしも貢さんも一目ぼれ同士だったってことですよね」
「えっ、そうだったのか? つうことは、アイツと君って知り合った時からすでに両想いだったっつうことかー」
「そう……なりますね。そっか、そうだったんだ……」
その時になってやっと、出会ってからの彼の優しさの意味が心にストンと落ちた。彼がずっとわたしに対して親切だったのも、葬儀の日に親族の前からわたしを連れ出してくれたことも、思いっきり泣かせてくれたことも全部、わたしへのまっすぐな恋心からだったんだと。もちろん、わたしの秘書になってくれたことも。
でも元々誠実な彼のことだから、そこに下心とか打算なんて入り込んでいなかったと思う。
「わたし……、貢さんに謝らなきゃ。既読スルーしちゃったこと。それと、彼にちゃんと気持ち伝えます。だって、誤解されて落ち込まれてるのはイヤだから。――悠さん、ありがとうございました」
「いやいや、いいって。んじゃ、オレはそろそろ帰るわー。あ、アイツにオレのことで何か言われたら、『ナンパされわけじゃない』って言っといてよ。オレ彼女いるし、間違っても弟が惚れた女の子に手ぇ出すようなことは絶対しねぇから」
悠さんはそう言って、すっかり冷めたブラックコーヒーを飲み干した。
「はい、分かりました。そう言っときます」
「よしよし。あ、でも連絡先だけは交換しとこうか。アイツと何かあった時に、絢乃ちゃんがオレを頼れるように」
「ええ、いいですよ。交換しましょう」
わたしは「これってナンパにならないのかな……」と思いながら、悠さんと連絡先を交換した。
――わたしもカフェラテとガトーショコラを平らげたタイミングで、悠さんと二人でお店を出た。
「じゃあな、絢乃ちゃん♪ 貢によろしく。自分の気持ち、しっかりアイツに伝えな」
「はい。今日は本当にありがとうございました!」
わたしは新宿駅前の適当なベンチに腰を下ろし、バッグからスマホを取り出した。メッセージアプリのトーク画面を開き、彼からのメッセージの返信を打とうと思ったけれど、気が変わった。
「こういう時は、ライン打つより電話の方がいいよね」
緑色のアプリを閉じ、電話のアイコンをタップした。履歴から彼の番号をリダイアルする。わたしから彼に電話するのは実に一ヶ月ぶりだった。
『――はい。絢乃さん、どうされたんですか? お電話なんて珍しいですね』
「桐島さん、お休みの日にごめんね? 今、どこで何してるの?」
休日の彼をわたしは知らなかった。週末は実家に帰っていると聞いたけれど、それ以外の情報が極端に少なかったのだ。「コーヒーとクルマが好き」ということ以外に、どんな趣味を持っているのか聞いたことがなかった。
『今は……市谷ですかね。今日は朝から都内のカフェ巡りをしていたんです。ちなみに、僕が会社でお出ししているコーヒーの豆も、実家近くのコーヒー専門店から仕入れてるんですよ。……っと、長々と失礼しました』
自分の好きなことについて生き生きと語る彼は、すごく微笑ましかった。
『それはともかく、絢乃さんは今どちらに?』
「わたしは今、新宿にいるの。里歩と一緒にランチして、ボウリングして、別れた後貴方のお兄さまに声かけられてね。ついさっきまで一緒だったの」
『えっ、兄にですか!? それってナンパじゃ……』
「ナンパじゃないよ。お仕事の帰りに偶然わたしを見かけて声をかけただけだって。……確かに、外見がちょっとチャラチャラしてるから誤解されそうではあるけど」
お兄さまが想像していたとおりの反応に、わたしは電話口で苦笑いした。
悠さんは、外見的には久保さんにちょっと似ているかもしれない。彼の四~五年後、という感じだろうか。
「そんなことより、わたしが今日電話したのはね、貴方と話がしたくて。電話じゃなくて、直接会って話したいの。あと、昨日の既読スルーについても弁解させてほしい。だから……、今から会えないかな? 新宿まで来られる?」
『そこは〝謝りたい〟じゃなくて〝弁解させてほしい〟なんですね』
彼は愉快そうに笑った後、「分かりました」と言った。
『ここからそちらまで近いので、あと十分くらいで着けると思います。では今からクルマで向かいますね』
「うん、待ってるね」
――電話を終えた後、わたしは彼がすぐに見つけられるようその場を動かずにいた。
「昨日のこと謝るだけじゃダメだよね。ちゃんと彼に告白しよう。……でも、何て言ったらいいんだろう……?」
生まれて初めての愛の告白に、どんな言葉を選べばいいのかを一生懸命考えながら、わたしは彼が来るのを待っていた。
「――絢乃さん、お待たせしてすみません」
それから十分もしないうちに貢の愛車が目の前に停まり、運転席の窓から彼が顔を出した。
「ううん、待ってないよ。っていうか謝らないで。呼びつけたのはわたしの方なんだから」
彼に会いたい、と言ったのはわたしのワガママだったのに、どうして彼が謝るの? 謝らなきゃいけないのはむしろわたしの方だったのに。
「あ……、ですよね。絢乃さん、あまり長くクルマを停めておけないので、とりあえず乗って下さい。どこかへ移動しましょう」
路上駐車は迷惑になるし、こんな公衆の面前で告白するのも憚られる。そんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、彼はクルマを一旦降りて助手席のドアを開けてくれた。
4
「――ところで、どこに行きますか?」
わたしがシートベルトを締めたところで、彼が行き先を訊ねてきた。
「う~ん……、じゃあ久々にあのタワーに行きたいな」
「分かりました。じゃあ、隅田川方面に向かいますね」
そうしてシルバーのセダンは滑らかに走り出した。
「――そういえば、会社の往復以外にこうやって桐島さんのクルマでおでかけするの、久しぶりだよね」
わたしは思い出したようにそう呟いた。というか、クルマが変わってからは初めてだった。
父が亡くなる前には、貢が学校帰りのわたしを迎えに来てくれて、クルマであちこちへ連れ出してくれていたのに。忙しくなったからそれどころではないというのもあって、八王子から丸ノ内、丸ノ内から自由が丘のルートだけになってしまった。
「そうですね……。もう二ヶ月ぶりくらいになりますか? あれから僕と絢乃さんとの関係も変わってしまいましたからねぇ。僕もおいそれとお誘いすることがためらわれてしまって」
彼はきっと、わたしと自分との関係が〝上司と部下〟の関係に変わったことを気にしていたんだと思う。
「わたしは別に何も変わってないよ? だから貴方も、自分の立場がどうとか気にする必要ないんだよ」
彼が前日あんな行動に走ってしまったのも、自分で自分の気持ちを抑えてきた反動だったんじゃないだろうか。
「……はぁ」
「そういえば、桐島さんの私服姿見るの、今日で二回目だね。いつもそんな感じなの?」
わたしは珍しくスーツ姿ではない(休日だから当たり前か)彼を、まじまじと眺めた。
初めて彼の私服姿を見たのは、我が家で行われたクリスマスパーティーの時だったけれど、この日もその時と同じくピッタリとしたブラックデニムを穿き、襟付きのシャツとニットを合わせてダブルボタンの紺色のコートを合わせていた。
「ええまぁ、外出の時はだいたいそうですね。家ではスウェットとかけっこうラフな感じなんですけど。逆に兄は家でも外でもあまり変わらないですね。仕事へ行く時にもカジュアルスタイルですから。絢乃さんもご覧になったでしょう?」
「うん。カジュアルっていうか、ちょっとルーズな感じ? でも、出勤の時まであれって社会人としてどうなんだろう?」
悠さんの服装はダボッとしたカーゴパンツと、トレーナーにダウンジャケットの組み合わせだった。わたしは別に、相手がどんな服装をしていようと何とも思わないけれど。周りの人たちからどう見られているのかは気になる。余計なお世話かもしれないけれど。
「飲食チェーンですし、制服があるから大丈夫なんじゃないですか。あれできちんとTPOはわきまえてるんですよ」
「へぇ……、そうなんだ」
彼はお兄さまの話題になると、何だかご機嫌ナナメだった。……あれ、おかしいな。兄弟の仲はいいはずなのに。
「あのね、桐島さん。もしかして、お兄さまにヤキモチ焼いてる? だとしたらホントに心配いらないからね? お兄さま、彼女がいらっしゃるらしいから」
「彼女、いるんですか? ……何だよもう、兄貴のヤツ! 話してくれたっていいのに、水臭い!」
そのせいで余計な心配しちまった、とか何とか独り言をブツブツ言い出し、わたしの顔を見るや「……すみません」と小さく謝った。
姉妹ならきっと、お互いの恋愛の話をよくするだろうけど、兄弟だとそういう話はあまりしないんだろうか?
でも、悠さんは貢の恋バナをよく聞かされていたはず。なのにご自身の恋愛については貢に話されないというのはどういうことだろう? ……まぁ、延々ノロケ話を聞かされても迷惑だろうけれど。
* * * *
――タワーの天望デッキに着くと、休日のせいか前に行った時より人でごった返していた。時刻は夕方五時。ちょうど夕日が沈み始めた頃で、西側の窓辺はキレイな夕焼けの写真をSNSにアップすべくスマホをかざす女の子のグループやカップルたちで賑わっていた。
「――ホントは、こんな人が大勢いるところで言うようなことじゃないと思うんだけど……。昨日はライン、返事返さなくてごめんなさい!」
わたしは開口一番にそのことを彼に謝った。弁解ならその後にすればいい。まずは自分に非があったことを認めて詫びるべきだと思った。
「でもね、それにはちゃんと理由があるの。……最初のメッセージで返信しようとしたら、その後あんなこと書かれるんだもん。わたし、どう返していいか分かんなくなっちゃって。ただ、それは怒ってたわけじゃなくて、気が動転してたっていうか、パニクってたっていうか……。とにかく頭の中が真っ白になっちゃってて」
「そうだったんですか。僕はてっきり、絢乃さんがヘソを曲げちゃったんで返事を下さらないのかと思ってました。で、それからずっと自己嫌悪に陥っていて、『もう顔も見たくない』、『声も聴きたくない』と言われてしまったらどうしようかと。なので、先ほどお電話を下さった時は驚きましたけど嬉しかったです」
貢自身、気にしていたんだと分かり、わたしの中の迷いが消えた。自分の気持ちは、態度とかじゃなくてちゃんと言葉にしなきゃ伝わらないんだと。
「わたし、男の人を好きになったの初めてだから、貴方の気持ちはちゃんと言葉にして伝えてくれないと分かんないよ。だからここで改めて聞かせてほしい。ちゃんと貴方の想い、言葉にして言ってくれないかな」
「はい、……えっ!? す、好き? って、僕をですか?」
「…………だからそう言ってる。わたし、初めて会った日から貴方のことが好き。好き好き好きっ!」
途中からシャウトみたいになってしまい、言い終えた後にはゼイゼイと息を切らしていた。もっと可愛い告白のしかたもあったはずだけど、初めての告白だったわたしにそんなことを考えている余裕はなかった。
「……ありがとうございます、絢乃さん。じゃあ、僕もちゃんと言葉で伝えないと、あなたの気持ちにお応えできませんね。――僕も、絢乃さんのことが好きです。今までも恋愛はそれなりにしてきたはずですけど、それが全部絢乃さんに出会うための布石だと思ってしまうくらいに好きなんです。僕と、お付き合いして頂けますか? 僕をあなたの彼氏にして下さい。お願いします」
「はい……、喜んで。こちらこそ、これからもよろしくお願いします」
わたしは彼と気持ちが繋がり合ったことを確かめると、そこが大勢の人の前だということもお構いなしに彼の胸に飛び込んだ。彼もためらうことなくそれを受け止めて、わたしをギュッと抱きしめてくれた。
――それが、わたしと貢の関係が〝ただの上司と部下〟から〝恋人同士〟に変わった瞬間だった。
「……ねえ、わたしたちの関係って、会社内では秘密にしてた方がいい……のかな?」
そこでわたしはふと思った。職場恋愛自体は問題にならないと思うけれど、さすがに会長と秘書という間柄での恋愛関係となると、他の社員たちに示しがつかないんじゃないか、と。
「そうですよね……。僕は別に気にしなくていいと思いますけど、秘密の恋愛の方がスリルがあっていいと思います」
彼は無邪気に笑いながら、楽しそうにそう言った。
彼のために、わたしができること
1
――こうして恋愛関係になったわたしと貢は、より多くの時間を一緒に過ごすようになった。
付き合い始める前は、会社帰りにはまっすぐ家まで送ってもらうだけだったけれど、交際を始めてからは一緒に夕食を摂ってから帰るようになったり。土・日のどちらかには二人の都合が合えばドライブデートをしたり。
そして、わたしが彼を呼ぶ時の呼び方も変わった。仕事の時は相変らず「桐島さん」だったけれど、プライベートでは「貢」と下の名前で、しかも呼び捨てするようになったのだ。
初めてできた彼氏、それも年上の彼を呼び捨てにするのはものすごく勇気が要ったけど、「貢さん」じゃあまりにも他人行儀だし、彼がそれでいいと言ってくれたので、わたしもそうすることにしたのだった。
何より年上の彼氏を名前で呼び捨てにすることで、ちょっと背伸びをしているような、自分がほんの少しだけ大人になったようなむず痒い気持ちになったというのは事実だった。
それでも会社では、両想いになった日に決めたとおりわたしたちが恋愛関係になったことを秘密にして、あくまで〝上司と部下〟〝会長とその秘書〟としてふるまっていた。もちろんそれだけで隠し通せるとは思っていなかったし(恋愛経験のある彼はともかく、これが初めてだったわたしは)、秘書課には人の恋愛沙汰に敏いお姉さま方がいるので見抜かれていた可能性も否定できないけれど。
――そんな中で一ヶ月が過ぎ、世間ではホワイトデーを迎えた。
バレンタインデーに女性社員からたくさんチョコをもらっていた貢は、きちんと全員分のお返しを用意していた。それをみんなに渡し終えて会長室へ戻ってきた彼は、わたしにも小さな包みを差し出した。
「絢乃さん、バレンタインチョコありがとうございました。これは僕からのお返しです」
それは赤いリボンで閉じられた、淡いピンク色の不織布の小さな袋。用意する数が多かったのと、相手に気を遣わせないようにという彼の配慮からだろうか。そんなにお金はかかっていないような気がした。
「……えっ? ありがと……。でも、わたしの分のお返しは要らないって言ったのに」
「確かにそうおっしゃっていましたけど、会長の分だけ用意していないとかえって周囲の人たちから怪しまれますので。迷惑とは思いますが、受け取って頂けませんか?」
「そんな、迷惑なんて……。すごく嬉しいよ。ありがと。開けていい?」
口では「要らない」と言ったけれど、本当はもらえれば嬉しいなぁと思っていたチョコのお返し。まさか本当にもらえるなんて思っていなかったので、わたしは彼を見直した。
リボンを解き、開いた袋に入っていたのは可愛いウサギの刺しゅうが入った桜色のタオルハンカチと、同じ色のアルミホイルに包まれた小さなハート形のチョコレートが二粒だった。
「このハンカチ可愛い……! ありがと、大事に使わせてもらうね! チョコは仕事しながらつまもうかな。貴方が淹れてくれたコーヒーのお供に」
「喜んで頂けてよかった。クリスマスに、僕からは何もプレゼントを差し上げられなかったので、名誉挽回といいますか……。実はチョコレートがついているのは会長の分だけなんですよ」
「えっ、ホントに? じゃあ、これ一つだけ特別ってことだね」
わたしがバレンタインチョコで他の人との差別化を図ったように、彼もお返しのプレゼントに恋人となったわたしへのスペシャル感を出したかったのかもしれない。
「なんか『愛されてるなぁ』って感じがする」
部屋の中に二人きりなのをいいことに、わたしはそう言ってフフフッと小さく笑った。
――彼とお互いの想いが繋がり合ったあの日。わたしは家の前までクルマで送ってくれた彼を、思い切って夕食に誘ってみた。
「……ねえ、桐島さん。よかったら、ウチで一緒に夕飯食べて行かない? ママにも今日のこと、報告したいから」
ちなみに、わたしが彼のことを「貢」と呼ぶようになったのはその後のことであり、この日がわたしと彼が夕食を共にするようになったキッカケとなったのだけれど。
「ええ、ではお言葉に甘えてお邪魔します」
初めて出会ったあの夜には、お茶に誘っただけで遠慮された。そんな彼が、この日初めて我が家での夕食の誘いを受けてくれたのは(クリスマスパーティーに呼ばれたという前例があったからかもしれないけど)、間違いなくわたしとの間に確かな信頼関係が築かれていたからだろう。……まあ、晴れて〝彼氏〟になったわけだから、彼女の家にお邪魔するのはごく普通のことで、断る理由もなかっただろうし。
――夕食の席で、わたしが貢と付き合うことになったと報告すると、母はすごく納得した様子だった。
「やっぱり、あなたたちはこうなるって早い段階から分かってたのよねぇ。絢乃、おめでとう! 桐島くん、絢乃をよろしくお願いします」
「もちろんです。ただ、絢乃さんがおっしゃるには、社内では恋愛関係にあることを秘密にしておいた方がいいのではないか……と」
「…………あら、そうなの? まぁいいんじゃない? 絢乃がそうしたいって言うんなら。親としても、子供の恋愛に干渉する権利なんてないし」
母はクールにそう言って、グラスに入った白ワインを呷った。でも、母らしいなとわたしは思ったものだ。決して過干渉ではなく、それでいて放任主義というわけでもなく、ほどほどの距離間でわたしの考えは尊重してくれる。それがわたしの母・篠沢加奈子という人なのだ。
里歩にはその夜、メッセージアプリで報告したけれど、『おめでとう』の後に『初恋の人が初めての彼氏なんて、何て羨ましい!!』と返信が来た。じゃあ里歩の彼氏は初恋の相手じゃないのかと訊きたかったけれど、彼女のプライバシーに関わることだと思ったのでやめておいた。いくら親友同士といっても、踏み込んでいい問題とそうじゃない問題の線引きは大事だから。
貢は貢で、お兄さまに報告したらしい。自分から伝えたのか、お兄さまにせっつかれて暴露したのか、それはわたしにも教えてくれなかったけれど。とにかく、翌日悠さんに『弟さんとお付き合いすることになりました』と送信したところ、『アイツに直接聞いたから知ってるよ。おめでとう』と返事が来たのだ。
「――そういえば、そろそろ年度末ですよね。山崎専務にお願いしていた件、どうなっているんでしょう?」
わたしにコーヒーを出しながら、彼が心配そうに首を傾げて言った。総務課でのハラスメントについて調べておいてほしい、とお願いしていた件のことだ。
「そうだね……。山崎さんは仕事熱心な人だから、ちゃんと調査はしてくれてると思うけど。そろそろ報告が来てもおかしくない頃だよね」
コーヒーをすすりながら、わたしはデスクの上に置かれた固定電話を気にした。連絡が来るとしたら内線電話か、もしくはわたしのスマホに直接かかってくるのか……。
と思っていたら、わたしのデスクではなく秘書席の電話が鳴った。着信音のパターンからして内線だと分かり、貢が受話器を取り上げた。
「はい、会長秘書の桐島です。――ああ、山崎専務。――はい、お待ち下さい」
通話を一旦保留にした彼は、「会長、専務から内線が入ってます」とわたしに告げた。
「やっぱりね。分かった。繋いで」
わたしは自分のデスクで、彼に繋いでもらった内線に出た。ちょうどウワサをしていた時にかかってくるなんて、ナイスタイミングだ。
「はい、お電話代わりました。篠沢です」
いくつかのやり取りの後に受話器を置くと、わたしは貢にこう告げた。
「――桐島さん。これから山崎さんがここにいらっしゃるから、お茶の用意をお願い」
「かしこまりました」
彼は頷いて、給湯室へと消えていった。
2
「――会長、急に押しかけてしまって申し訳ございません」
山崎さんは応接スペースのソファーに腰を下ろすなり、わたしに深々と頭を下げた。
「専務、お茶をお持ち致しました。どうぞ。――あ、コーヒーの方がよかったですか?」
「いやいや。ありがとう、桐島君。いただくよ」
貢は専務が湯呑みを引き寄せたのを確かめてから、デスクに戻ろうとしたけれど。
「桐島さん、ここにいて。貴方にも一緒に聞いてほしい話だから」
わたしはそんな彼を引き留めた。この話は彼にも関係のあること、いやむしろ彼こそがいちばんの当事者だったのだから。
彼がわたしの隣に腰を下ろすと、山崎さんが口を開いた。
「――会長、報告が遅くなってしまい申し訳ございません。先日会長からご依頼のありました、総務課のハラスメントに関する調査についてですが」
「いえ。お忙しい中無理なお願いをしてしまったのはこちらですから、どうぞお気になさらず。――それで、どうでした?」
「私どもの調査の結果、総務課のハラスメント問題は現在も続いていることが判明致しました。それも、課に在籍している社員の実に九割が被害に遭っている、と」
「そんなに被害者が……。でも、どうやってそこまで調べたんですか?」
山崎さんがローテーブルの上に置いた資料を手に取ってパラパラめくりながら、わたしは愕然とした気持ちで訊ねた。
「何とアナログな方法だろうかと思われるでしょうが、総務課の社員一人一人に聞き取りを行いました。わたしは昔人間ですので、地道にコツコツしかできませんもので」
「それは大変でしたね。ご苦労さまでした。ありがとうございます」
「それで、山崎専務。僕からも質問なんですが……、そのハラスメントを行っていたのはもしかして、島谷課長ではありませんか?」
貢の口から、初めて具体的な人物名が飛び出した。もしかして、彼を苦しめていたのもその人だったの?
そう思いながら山崎さんの顔を見れば、彼の眉がピクリと動いた。
「当たりだよ、桐島君。君の口からその名前が出てくれてよかった。――島谷照夫課長はいわゆる〝ワンマン管理職〟でしてね、もう二年ほど前から部下にパワハラやモラハラ、女性社員にはセクハラ行為も行っていたようです。その被害内容は、今お持ちの資料にまとめてありますが」
「これは……、ひどいですね。体を壊したり、メンタルをやられて会社を辞めたり休職している人も大勢いるみたいだし」
わたしは資料をめくりながら眉をひそめた。こんな重大な問題が、本当に、しかも現在進行形でこの会社に潜んでいたなんて。
「……あれ? ちょっと待って。山崎さん、さっき問題が起きたのは二年くらい前から、っておっしゃってましたよね? 桐島さんは確か、入社して三年目だったっけ」
「はい、もうすぐ四年目に入りますけど。島谷課長は僕が入社二年目の年から課長になったんで、パワハラに遭い始めたのもその頃からだったんです」
「……なるほど、分かった。ありがとう」
貢の説明で納得がいった。島谷さんという人は、管理職に昇進したことで「自分が権力を持った」と勘違いして部下に偉そうな振舞いをするようになったということか。
「――あの、私からの報告は以上になりますが。これで、この問題を公表する材料は揃いましたでしょうか?」
おずおずと、山崎さんがボスであるわたしの顔色を窺うようにして訊ねた。
「う~ん……。わたしとしては、退職されたり休職している人たちからも話を聞きたいなぁと思ってるんですけど。それはこちらで引き受けますから大丈夫ですよ。山崎さん、この資料頂いてもいいですか?」
「ええ、もちろんです。それは会長に差し上げますので、お好きなようにご活用下さい」
「ありがとうございます。今回はわたしの無理なお願いを聞き入れて下さって、本当にありがとうございました。じゃあわたしも、さっそく明日から動いてみます。聞き取り調査が終わったら会議を開いて、島谷さんの処分などを相談しましょう」
「かしこまりました。後のことは、会長に一任致します。では、私はこれで」
貢に「君が淹れてくれたお茶、美味しかったよ。ありがとう」とお礼を言って、山崎さんは会長室を出て行かれた。
「――ここからは、わたしの仕事だね」
わたしはマグカップと資料を持ってデスクに戻り、改めて資料の内容を確認しながら言った。
「明日からここに載ってる人たちに聞き取りして、証言が集まったら重役会議。その後は……最悪、本部の監査室に動いてもらうことになるかなぁ」
ハラスメント問題はグループ内のコンプライアンスにも関わってくる。本部の監査室はその調査を行う専門部署なのだ。
「そして島谷課長の処分を決めて、記者会見、と。――ですが明日からというのは? 会長、学校を休まれるおつもりですか? ……明日は土曜日なので、来週からになりますか」
「違う違う! 明日は卒業式だから、午前中に終わるの。わたし二年生だから、在校生代表で出席するんだ」
「ああ、なるほど。そういうことですか」
「で、来週からは新入生のための説明会とかがあるから、終業式までは短縮授業に入るの。というわけで、わたしは明日からまた早めに出社できます。以上」
「分かりました、了解です。――ですが、会長はどうしてそこまで……?」
彼は首を傾げた。わたしがどうしてそこまで、社員のみなさんのために必死になれるのか、不思議で仕方がないらしい。
でも、それは父だってそうだったはず。わたしも貢たち社員のみなさんのことを、〝家族〟だと思っているから。それに、この件はわたしが言い出したことだったので、全部人任せにしたくなかったというのもあった。
でも……、いちばんの理由は。
「貴方と、貴方の同僚だった人たちを早く助けてあげたいから。つまり、大好きな貴方のためだよ」
「会長……」
「まぁ、愛されてるって分かったら、その愛に報いなきゃね」
ハッとした彼に、わたしはとどめのウィンクをした。それを見た彼は、何だか嬉しそうにニヤニヤと笑った。
「……なに?」
「…………いえ。先ほどの会長が、ものすごく可愛いなぁと思って」
「え?」
「いえいえ。会長はどんな表情をされていても可愛くて魅力的なんですけど。というか、その表情豊かなところが会長のいちばんの魅力だと僕は思ってます」
「……あ、そう。ありがと」
わたしは嬉しいやら照れくさいやらで、俯いてボソリと呟いた。何だか調子が狂う。
彼はわたしと交際を始める前と後で、わたしへの態度というか接し方が分かりやすく変わった。特に、二人きりでいる時の愛情表現がかなり豊かというか。わたしが「要らない」と言ったホワイトデーのお返しがその最たるものだろう。
でも、それはあくまで二人きりでいる時だけのことで、会社ではあくまで秘書として、わたしの支えになってくれていた。
「――とりあえず、ここに載ってる人たち全員の連絡先、わたしのスマホに登録しとこう。アポ電なしで突撃訪問したって、会えないんじゃ意味ないからね」
わたしは制服のポケットからマナーモードにしていたスマホを取り出し、着信や受信メールなどを確認するついでに連絡先の登録を始めた。個人情報の扱いに厳しいこのご時世に、わざわざ個人の連絡先まで名簿に載せてくれた山崎さん(もしくは秘書の上村さんかな?)は本当に仕事熱心だなぁと思った。
3
――翌日から、わたしと貢は土・日返上で退職した人や休職中の人たちへの家庭訪問を敢行した。
「桐島さん、ICレコーダーって持ってる? 被害に遭ってた人たちの証言、録音しておきたいんだけど」
もしも彼が持っていなければ、家電量販店などで新しく購入しなくてはならないと思っていたけれど(もちろん、わたしの自腹で)。
「はい、持っていますよ。小川先輩から『いつ必要な時が来ても大丈夫なように、常備しておきなさい』と言われて、秘書室の研修が始まってすぐに自腹で購入してあったんです」
「へぇ……、そうなんだ。じゃあ、その分の代金も必要経費としてわたしから清算するね」
――そんな会話をしながら、都内の二十三区内や郊外に散らばる被害者のお宅を訪問して回った。わたしの服装はもちろん、いつもどおりの制服姿だ。
「こういう時くらい、スーツをお召しになってもよろしいんじゃないですか?」
彼は不思議そうにそんなことを言っていた。TPOをわきまえた方がいいという意味で言ったんだと思うけれど、実は「絢乃さんのスーツ姿も見てみたいな」という彼自身の願望も含まれているんじゃないかとわたしは勝手に想像していた。
「ママにもおんなじこと言われたなぁ。でもね、これはわたしのポリシーの問題なの。〝制服姿の会長〟っていうイメージを世間的にもっと定着させたいから。そのために就任会見もこの格好でやったわけだし」
「…………はぁ。こういうところが、加奈子さんもおっしゃっていたとおり頑固……いえ、何でもありません」
頑固、と言われてわたしは思わず助手席から運転席の彼を睨んでしまったけれど、彼が怯んだところでちょっと反省した。
「ううん、ママと桐島さんの言うとおりだわ。やっぱり頑固なのかなぁ、わたし」
尊敬していた父と同じ血が自分にも流れているんだ、と実感できるのは喜ばしいことだけど、こんな変なところは父に似なくてもよかったよなぁと、その一点のみはあまり喜べない自分がいた。
「まぁまぁ、会長。そんなに落ち込まないで下さい。自分のダメなところをすぐに省みることができるのはいいことですよ。それだけ絢乃さんは素直な人だということです。僕はあなたのそういうところも好きなんですよ」
「……うん。そっか、そうだよね。ありがと」
何だか途中から、呼び方が「絢乃さん」に変わったと思ったら、後半は秘書としてではなく彼氏としての意見だったらしい。
「はぁ…………、やっぱり調子狂うなぁ、もう」
「……? 何ですか?」
「別に、何でもない」
恋愛初心者のわたしは、職業上のパートナーでもある彼にこうやってコロコロ態度を変えられるとやりにくくて仕方がなかったのだ。
* * * *
――事前に訪問のアポをとっていたためか、聞き取り調査は割とスムーズに進んだ。同僚だった貢を連れて行ったから、みなさんも話しやすかったのかもしれない(というか、彼がクルマを出してくれないと、そんなにあちこちには移動できないのだけれど)。
やっぱり精神的に参っている人たちがほとんどで、まだ次の就職先が見つかっていない、もしくは非正規雇用でしか働けなくなったという人も多かった。そういう人たちに「もしこの問題が解決したら、ウチの会社に戻って来ませんか?」と声をかけてみると、「前向きに考えてみる」と色よい返事も多くもらえたので、わたしもこの件の解決に俄然ファイトが湧いた。
「――あー、お腹すいた。今日はハンバーガーが食べたい気分~」
とある平日の、会社からの帰り道。わたしは助手席で貢に夕食のメニューをリクエストした。もちろん彼におごらせる気はさらさらなくて、どのお店に行きたいか言っただけのことだ。
ちなみに家庭訪問を行っていた期間は帰りだけ会社に寄らず、彼のクルマで直帰していた。その間に溜まった決裁などの仕事は母にお願いして、わたし個人のノートPCに転送してもらって家で処理していた。
とはいえ、オフィス内でデスクワークをしている時より、外回りの仕事(これは仕事にカウントしてよかったんだろうか?)をしている時の方がエネルギーを消耗するので、帰りには二人とも毎日お腹がペコペコになっていた。
夕食のメニューは毎日その日の気分で決めていて、ガッツリ焼肉の日もあれば回転ずしの日もあったり、ファミレスで済ませることもあった。
「ハンバーガーですか? ……えーと、このあたりに美味しい店なんてあったかな……」
彼は車載ホルダーにセットしたスマホで、ハンバーガーのお店を検索し始めたけれど。前方には超有名なファストフードチェーンの黄色い「M」の看板が見えていた。
「そんなにいいお店じゃなくても、あれでいいよ」
「……えっ? あそこでいいんですか?」
「うん」
――そんなわけで、その日はお互いに好きなバーガーとフライドポテトのセットで夕食を済ませて帰宅。そんなこともあった。――そういえば、ワサビとカラシ以外に炭酸飲料も苦手なんだと彼に打ち明けたのも、確かこの日だったな……。
――そうして、年度末も押し迫った三月二十七日にはすべての証言が揃い、わたしは本部の監査室へ連絡を入れた。
「――監査部長の寺本さんですか? わたし、会長の篠沢ですが。篠沢商事について、大至急監査に入って頂きたい案件があるんです。――ええ、よろしくお願いします」
受話器を置いたわたしのデスクに、会議用の資料を作成していた貢がやってきた。
「会長、島谷課長の処遇を決定する会議は、監査が終わってからということになるんでしょうか?」
「うん、そうなるね。……あのね、桐島さん。島谷さんの処分についてなんだけど、わたしにちょっと考えがあって。聞いてくれる?」
「はぁ、いいですけど……」
そこで彼に話した考えというのは、島谷さんを解雇にするのではなく依願退職扱いにすることだった。彼にも守るべきご家族がいるだろうし、生活を破綻させるわけにはいかない。誰にでもやり直す権利はあるのだから、再就職するにもそちらの方がいいだろうと。
それに、篠沢グループの規定では、解雇されると退職金が半額しか支払われないことになっているけれど、依願退職なら満額が支払われる。そうすれば、彼に再就職先が見つかるまで島谷家の生活も補償できると思ったのだ。わたしから経理部に出向いて、掛け合おうと思っていた。
「確かに、島谷さん自身は会社にも社員のみなさんにも迷惑をかけた。でもご家族には何の罪もないよね。この処分は、世間の容赦ない誹謗中傷から彼のご家族を守るための措置でもあるの。……分かってもらえるかなぁ」
「それは理解出来ますが……、それをどうして僕にお訊ねになるんですか? 秘書だから、という理由だけではないですよね?」
彼はわたしの考えをすべて理解しようとしているんだと、わたしは嬉しくなった。
「それは、貴方がもっとも身近にいる、この問題の当事者だから。世間的に、こういう時の処分は解雇が正しいんだろうけど、貴方がもし島谷さんのしたことを赦せるなら、わたしは退職扱いでも問題ないと思ってるの。どちらの処分にするかは桐島さん、貴方にかかってるってこと」
「…………会長は、解雇にだけはしたくないとお考えなんですよね?」
「うん」
「でしたら、僕も島谷課長は依願退職扱いでいいと思います」
彼は悩むことなく即答した。ということは、もう元上司にされた仕打ちを恨んではいないということだとわたしにも分かった。
「もしお父さまが……、源一会長がご存命なら、絢乃会長と同じく解雇にはなさらなかっただろうな、と思って。お父さまを尊敬されているあなたも当然そうお思いのはずだと考えたんですが……」
「……ありがと、桐島さん。そこまで気づいてたなんて、さすがはパパが見込んだ人だけのことはあるね。――じゃあ、そういうことで、島谷さんの処分については話を進めていくから」
「はい」
――というわけで、本部の監査や重役会議などを経て、島谷さんには退職願を提出してもらい、月末の記者会見を迎えることとなった。
4
――会見を行う前日の三月二十九日のうちに、広報課を通して新聞やTV局、ニュースサイトなどのマスコミ各社に通達してもらい、何についての会見なのかは当日まで伏せておいた。そのため、SNSやネット上の掲示板などでは色々な憶測が飛び交っていたらしいと里歩から聞いたけれど(春休み中だったので、聞いたのは電話でだった)、わたしはSNSをやっていなかったので詳しいことは分からなかった。ちなみに、わたしがSNSを始めたのはその半年ほど後のことだ。
――そして迎えた、記者会見当日の朝。
「会長、おはようございます。今日は制服姿じゃないんですね」
助手席に乗り込んだわたしの服装に、貢はすぐに気づいてくれた。
「おはよう、桐島さん。――今日は大事な会見の日だからね、マスコミの人たちへの印象が大事だと思って、誠実そうに見えるスーツ姿にしてみたの。春休み中だってこともあってね」
この日のわたしは淡いブルーの襟付きブラウスに、濃紺のタイトなスーツと黒のフラットパンプスでビシッと決めていた。ちゃんとビジネスメイクもして、長い髪は焦げ茶色のヘアゴムで一つにまとめて、気分的には就職活動中の大学生、という感じ。
「そうなんですね……。今日の会長は少し大人っぽく見えますよ」
「へへっ、ありがと。就任会見の時は制服だったから、どっちでもよかったんだけどね。ちなみにこのスーツは、三学期も成績がよかったごほうびに、ってママが買ってくれたの♪」
母が選んでくれたこのスーツは、量産品と同じように見えて実はけっこう高価だった。のはおいておいて。わたしは緩んでいた表情をピリッと引き締めた。
「こういう、企業の評判を左右する会見の時って、会見するトップの服装も批判の対象になるんだって。ヘタな格好をして会見に臨んだら、『世間をなめてるのか!』って言われそうじゃない?」
「そうですよね。謝罪会見なのに、真っ赤な服を着ていて『謝る気があるのか』って非難されていた女性議員の方もいらっしゃいましたからねぇ。紺色のスーツを選ばれた会長の判断は賢明だと僕も思います」
「あー、そういえばそんな人もいたねぇ」
わたしはいつぞやのニュースを思い出して頷いた。まだ肌寒さが残るので、羽織っていたスプリングコートを脱いで膝にかける。
「いっそのこと、春休みの間はずっとスーツ姿で出社されるというのは? 気分も変わってよろしいのではないかと。……実は僕、会長のスーツ姿も拝見してみたいとかねがね思っておりまして」
「…………」
最後のセリフ、絶対彼の本心だなとわたしも確信した。初めて披露したスーツ姿を褒められて気をよくしたわたしは、それもいいかもしれないなぁと思った。ポリシーなんて関係なく、大好きな彼のために、彼の願望を叶えてあげるのもいいのかな、と。
「……前向きに検討します」
こう言った時、その意味は二つに分かれる。「本当に前向きに考える」という意味と、「本当はイヤだけど、まぁ一応選択肢には入れておく」というおざなりな意味。この時のわたしの場合は前者の意味だった。
「ありがとうございます」
それを汲み取ってか、彼は嬉しそうにペコリと頭を下げ、クルマを発進させた。
「――ところで絢乃さん、お誕生日に何かほしいものはありますか?」
彼は唐突に口調を変え、わたしにプレゼントのリクエストをしてきた。「会長」ではなく「絢乃さん」と名前で呼ぶ時、それは貢が〝彼氏モード〟に入った時だ。
「ほしいもの、かぁ。わたし、昔からあんまり物欲ないんだよね……。小さい頃から色んなものに囲まれて生きてきたからかも」
そう答えながらも、頭をフル回転させた。「ほしいもの」はなかなか思い浮かばなかったけれど、「これは別にほしくないな」と思うものは浮かんでいたので、それをとりあえず言葉にして言ってみた。彼のことを名前で呼びながら。
「あーでも、ブランド品は別にほしくないかな。っていうか、貢にそんな大金使わせたくないし。お財布事情も知ってるからね」
「コスメはどうですか? クリスマスプレゼントに、里歩さんから頂いてましたよね」
「……貴方、女子ばっかりのコスメ売り場に男ひとりで乗り込む勇気ある?」
「…………いえ、あまり。学生時代にそれで失敗したイヤな思い出があるもので」
ジト目で訊ねたわたしに、彼は肩をすくめながらそんな暴露をした。初めて聞く彼の過去話の続きが気になって、わたしは目だけで続きを促した。
何でも大学時代に交際していた彼女から誕生日プレゼントに『口紅がほしい』と言われたらしく、彼が真っ赤な口紅を贈ったらドン引きされてしまったそうだ。『こんなどキツい色を選ぶなんてどんなセンスしてるんだ』と。
そのオチを聞いた途端、わたしは思わず吹き出した。何でもそつなくこなしていそうな彼の失敗談は、ものすごく親近感があった。
「……うん、なるほどね。やっぱりコスメはやめた方がいいと思う。多分、里歩がまたプレゼントしてくれると思うし、自分でも買えるし」
「…………そうですね。じゃあ、何か別のもので考えます」
彼は神妙に頷き、この話題は打ち切りとなった。
* * * *
――記者会見にはわたしだけでなく、篠沢商事の実質的トップである村上社長も一緒に臨んで下さったので、すごく心強かった。ちなみに司会進行は久保さんで、それもまた頼もしかった。
質疑応答の内容は全部を憶えているわけじゃないけれど、島谷さんへの処遇についてはかなり厳しい質問を受けたと記憶している。解雇処分ではなく退職扱いにしたのは甘かったのではないか、と。
わたしはその質問に対しても、自分の考えを真摯に述べた。この処分は彼の再起と、彼のご家族への配慮を念頭に置いて決定したものである、と。
罪を憎んで人を憎まず、それが父の信条でもあったから――。
* * * *
「――村上さん、会見お疲れさまでした。一緒にいて下さって心強かったです」
会見場である大会議室から重役フロアーに戻る時、わたしは一緒になった村上さんにお礼を言った。わたしが返答に困っていた時、彼はさりげなく助け船を出して下さっていたのだ。
「お疲れでした、会長。桐島君は?」
「会長室で待ってくれています。彼もきっと、会見をネット配信で観てくれていたはずです。この会見は彼のために行ったようなものですから」
「やっぱりそうだったんですね。……いえ、これは失礼。では」
「…………? はい」
村上さんと別れてから、わたしは首を傾げた。――「やっぱり」ってどういうこと?
会長室へ戻ると、応接スペースのテーブルの上にコーヒーの入ったマグカップを用意して彼が待っていた。
「――ただいま、桐島さん」
「会長、おかえりなさい。会見の様子、僕もPCで拝見しておりました。僕のために世間の矢面に立って下さってありがとうございました」
「そんな……、やめてよ。わたしはただ、自分にできることをやっただけなんだから。そんなにかしこまることないよ」
深々と頭を下げて感謝の意を述べた彼に、わたしは苦笑いした。
「ですが、あんなに厳しく詰め寄られて大変だったでしょう」
彼はそう言うとわたしの隣に腰を下ろし、優しく頭をポンポンとなでてくれた。
「よく頑張りましたね、会長」
「……うん。ありがと」
彼の大きな手は、いつもわたしを安心させてくれる。この時もそうだった。わたしはいつもこの手で守られているんだと思うと、愛おしさが増してきた。
「――それはそうとですね、会長」
「うん? なに?」
「僕と会長の関係、もう周りにバレてるみたいですよ」
「…………ええええっ!?」
彼がボソッとした暴露に、わたしは思わずのけぞった。村上さんがおっしゃっていた「やっぱり」って、まさかまさか……!?
次のステップって……?
1
――わたしが公表した篠沢商事のハラスメント問題は、しばらくの間世の中の注目を集めた。当日には株価も下がり、SNSでも騒然となっていたけれど、公表に踏み切ったわたしの潔さが評価されてすぐに落ち着いた。
その後は株価も安定して新年度を迎え、新入社員の挨拶もひととおり終えた四月三日。わたしの誕生日は平日、水曜日だった。
「――桐島さん、今日は夕飯どうしようか?」
夕方六時ごろ、一日の仕事を終えてOAチェアーの大きな背もたれに体を預けて伸びをしながら、わたしは貢に訊ねた。
父の代まで行われていた「会長のお誕生日を祝う会」はわたしの代で廃止することが決まっていたけれど、社員のみなさんからは「会長、お誕生日おめでとうございます」というお祝いの言葉をもらえたし、貢なんかは朝一番に「おめでとう」を言ってくれた。
でも、彼からのプレゼントはまだもらえていなかったし、誕生日くらいはどこか特別感のあるお店で食事をして、二人でお祝いしたいなぁと思っていた。
「それでしたら、僕の方で決めて、すでに予約してある店があるのでそこでディナーにしませんか? 僕からのお祝いということで」
「……えっ? それって支払いも貴方がしてくれるってこと?」
本当にいいのかな……とわたしは胸が痛んだ。「ディナー」という言葉を使ったということは、それなりに高級なお店のような気がしたのだ。
「もちろんです。たまにはいいでしょう? 僕に花を持たせると思って」
彼は笑顔で頷いた。もちろん彼にも沽券というものはあるだろうし、「彼女にカッコいいところを見せたい」という男性ならではの気持ちもあっただろう。そこは素直に甘えるのが〝できた彼女〟というものなんだろうなとわたしは考えた。
「うん、そうだね。ありがと。……じゃあ、お言葉に甘えて」
「ああ、そうだ。ちゃんとプレゼントも用意してありますからね。その時にお渡しします。楽しみにしていて下さい」
「やったぁ♪」
明らかな恋人同士の甘いやり取りをしながらも、わたしは小さな不安に駆られていた。それは、わたしと貢の関係――恋愛関係にあるということが、すでに周りから知られていたということだ。
「――話変わるけど。わたしたちの関係って、社内のどれくらいの人たちにバレてるの?」
「はい? ……ええと、少なくとも秘書室のみなさんと、社長はお気づきになっているかと」
「やっぱり……」
想定の範囲内だったとはいえ、そんなに知られていたのか、とわたしは愕然となった。
「ああ、ですが小川先輩はだいぶ前からご存じですよ」
「えっ、なんで!?」
「僕が個人的に、恋愛相談に乗って頂いていたので……」
「……ああ、そっか。彼女とは大学の先輩後輩だって言ってたよね」
彼が個人的に誰と話そうと、それは自由だ。プライベートにまで口を出す権利はわたしにもないから。でも、秘書としてその口の軽さはどうなのよ、と思ってしまう。……まぁ、職務上の守秘義務を破っているわけじゃないからよしとするか。
* * * *
――彼が予約してくれたお店は、オシャレな洋食屋さんだった。それでいてお財布にも優しい低価格で、これなら彼も支払いに困らないだろうなとわたしもホッとした。
「――食事の途中ですが、これを。絢乃さん、改めてお誕生日おめでとうございます」
そう言って彼がビジネスバッグから取り出したのは、パールピンクの包装紙でキレイにラッピングされた細長い箱だった。大きさは十五センチくらいだろうか。光沢のあるワインレッドのリボンがかけられていた。
「ありがとう! これ開けていい?」
「ええ、どうぞ」
待ってました、とばかりにわたしは丁寧にリボンの結び目を解き、包装紙をはがしていった。すると、そこから出てきたのは上品なピンク色のベルベット地のケースで、フタを開けると……。
「わぁ……、ネックレスだ。可愛い! 貢、ありがとう!」
わたしはキラキラした銀色のネックレスを手に取り、目の前にかざしてみた。チェーンもチャームもシルバーではなく、輝きからしてプラチナ。チャームのデザインはシンプルだけれど可愛いオープンハートで、高級ブランドではないにしてもそこそこ値の張るものだと分かった。
「喜んで頂けてよかったです。……本当は指輪にしようかと思ったんですけど、まだ付き合い始めたばかりなのでちょっと重いかな……と。何と言いますか、束縛しているような気がして」
「指輪ねぇ……。確かにちょっと早いかな。――あ、ねぇねぇ。ちょっと貢にお願いがあるんだけど」
「はぁ、何ですか?」
「これ、今ここで、貴方に着けてもらいたいの。いい……かな?」
わたしは上目づかいになり(計算でも媚びているわけでもない)、彼にお願いしてみた。もちろんその意味は、わたしの首からかけてほしいという方の意味だ。
「え、僕にですか? こういう頼まれごとは初めてなので、うまくできるかどうか……」
「うん、大丈夫。じゃあお願いします」
わたしはもう一度彼に小さく頭を下げて、邪魔になりそうなロングヘアーを右肩から前に流して手で押さえた。
「……分りました。では、絢乃さんの後ろへ行きますね」
背後へ回った彼はわたしからネックレスを受け取り、細いチェーンと格闘し始めた。中でも留め具に苦戦していたらしく、彼の指先が何度もうなじに当たってくすぐったかった。
「……はい、できました。こんな感じでどうですか?」
「ありがとう! どれどれ……、うん。いいじゃん!」
バッグから取り出したコンパクトを開いて出来映えを確かめると、スーツ姿のシンプルなVネックのインナー、その胸元に銀色のチャームがすっきり収まっていた。
「わたし、このネックレス、一生の宝物にするね」
「そんな大げさな……」
彼は呆れぎみに笑ったけれど、わたしは至って大真面目だった。
「――貢、今日はごちそうさま。いい誕生日になったよ。ホントにありがとね」
彼はこの時の夕食を、本当に奢ってくれた。わたしが「割り勘にしよう」と言っても譲らなかったので、最終的に折れたのだ。
「今度お礼しないとね。――あ、そうだ。貢の誕生日って確か来月だったよね?」
「ええ、十日です」
「十日は……えっと、平日か。じゃあ大型連休の間にお祝いしようよ。貴方の部屋で、わたしがお料理作って。どうせなら一緒にプレゼントとケーキも買いに行く? わたし、それまでに自分名義のクレジットカード作っとくから」
「ええっ!? ぼ、僕の部屋で……ですか!?」
わたしの何気ない提案に、彼は激しく取り乱した。
「うん、そう言ったけど。……どうしたの?」
「……そろそろ次のステップか」
「ん? 何か言った?」
「いえ、何でもないです」
「じゃあ、欲しいもの、考えておいてね。値段は気にしなくていいから」
「分かりました。絢乃さんの財力があれば、何でも気前よく買って頂けそうなのでちょっと怖いですが。そうか、クレジットカードって満十八歳から申請できるんでしたよね」
「……まあねぇ♪」
彼はわたしの経済力に舌を巻いた。何せわたしの役員報酬は、月に五千万円(そのうち二千万円は母に渡しているけれど)。それプラス、何十億円という父の遺産もあるのだから。
「あと、お料理なんだけど。何食べたい?」
「そうだなぁ……、カレーですかね。色気ないかもしれませんけど」
「ううん、そんなことないよ。じゃあカレーね。お肉ゴロゴロのビーフカレーにしよう♪」
その後も車内では彼の誕生日についての話題で盛り上がったけれど、わたしは彼がポツリと漏らした「次のステップ」という言葉が気になって仕方がなかった。
2
――その翌日。わたしは仕事のお休みをもらって(学校は元々春休みだったし)、里歩と二人で渋谷までショッピングに来ていた。「おめでとう」の言葉は前日の夜にメッセージアプリでもらっていたけれど、その時に「絢乃の誕プレ、どうせなら一緒に買いに行こうよ」ということになり、母に出社を代わってもらって出かけてきたのである。
「――あ、春の新作ルージュもう発売されてんじゃん♪ これって絢乃がCMのオファー断ったヤツだよね?」
デパートのコスメ売り場で、〈Sコスメティックス〉のブースの前を通りかかった里歩が口紅を一本手に取ってわたしに問うてきた。
「……そうだけど。イヤなこと思い出させないでよ」
わたしは露骨に顔をしかめた。
貢と付き合い始める前、もしもCM出演を断っていなければファーストキスを奪われていたかもしれない相手。その小坂リョウジさんはCMで共演していたモデルの女性とすぐに男女の関係になったらしいけれど、三月のうちに破局したのだと里歩から聞いた。
里歩はその報道を目にするなり彼のファンをやめた。女性に対して節操のない彼に幻滅したのかもしれない。
「じゃあこれ、買わないの? 小坂リョウジのことはアレだけど、口紅に罪はないでしょうよ」
「そうなんだけど、それを塗るたびに小坂さんとキスしてるような気持ちになるのがイヤなの。何だか浮気してるみたいで、貢に申し訳ないっていうか」
もちろんわたしは貢ひとすじだし、浮気心なんてかけらもないけど。わたしが気にしすぎているだけかもしれないけれど……。
「それってアンタの考えすぎじゃないの? ……まぁいいや。どうしてもイヤだって言うなら別のにするかー」
「ごめんねー。せっかく選んでくれようとしてたのに」
「いいってことよ。んじゃあー……、こっちにしよっか。桜色リップグロスとチーク。あとアイシャドウとクッションファンデもね」
気にするなとばかりに肩をすくめ、次々にコスメを選んでくれた親友に、わたしは「うん、それでいいよ。ありがとね」とお礼を言った。
「――ねえ里歩。『次のステップ』ってどういう意味だと思う?」
渋谷センター街のバーガーショップで一休みしていた時、わたしはオレンジジュースをストローですすってから里歩に訊ねた。
「は? 何をいきなり」
大真面目に訊ねたわたしに、コーラを飲んでいた里歩がポカンとして訊ね返してきた。
「昨日、貢が呟いてたの。来月の連休中に、彼の部屋でお誕生祝いしようってわたしが言ったらすごく取り乱してて。『そろそろ次のステップか……』って。これって恋愛で次のステップ、ってこと……だよね?」
「そう……なんでない? っていうか待って。『彼の部屋に行く』って言ったの、アンタ?」
「うん、言った」
「待って待って。となるとさ、彼の言ってた意味合い変わってくるよ」
里歩はポテトをつまみ、うーんと唸ってからそう言った。
「え、そうなの?」
「うん。それが恋愛における次の段階って意味だったら……。キスの次、ってことになるよ」
「それって……、そういうこと?」
わたしだって小さな子供じゃないので、それがどういう行為を表しているのかくらいはちゃんと分かっていた。ただ、口に出すのは少々憚られるけれど。
「あれでしょ。女性は恋愛に心の安定を求めるけど、男性はそれ以上のものを求めてるっていう、男女間における恋愛観の違いみたいな」
「そうそう、それ。……アンタさぁ、まだ付き合い始めて二ヶ月くらいでしょ? いきなり彼の部屋に行くとか無防備すぎ。まぁ、桐島さんなら大丈夫だろうけど」
「大丈夫、って何が?」
「小坂リョウジみたいに女にだらしなかったら危ないけど、彼はちゃんと節操あるし。何より絢乃のこと大事にしてくれてるみたいだからさ。そのネックレス、桐島さんからもらったんでしょ? アンタ愛されてるじゃん♪」
「…………うん。愛されてるし、わたしも彼のこと愛してるから」
わたしは照れながら里歩にそう答えて、ダブルチーズバーガーにかぶりついた。ちなみに里歩が食べていたのはえびフィレオバーガーだ。
「あらあら、ごちそうさま♪ ってことは、もしかしたら二人の関係で次のステップに進みたい、ってことかもね」
「……っていうと?」
「結婚も視野に入れて、ってことかなぁ」
「結婚か……。そういえば貢、初めて会った時からそんなこと言ってたなぁ」
思えばそこから遡ること約半年前、彼は自分もわたしのお婿さん候補の一人に……というようなことを言っていた。あれはやっぱり冗談なんかじゃなく、本気だったのだ。もちろん逆玉狙いでもない。断じて。
「っていってもまだ実感湧かないよね。あたしたちまだ高校生だし、絢乃はお父さん亡くしてまだ三ヶ月くらいだし」
「うん。パパの納骨はもう済ませたけどね、どっちみち喪が明けるまでは無理だもん。……でも、彼がウチの家族になってくれたらいいなぁとは思ってる。すぐにじゃなくてもいいから」
「そうだね。あたしも桐島さんだったら安心してアンタのこと任せられるよ。むしろ不安要素が一コも見当たらないわ」
「うん、ホントにね。あんなにいい人、他にはなかなかいないと思う」
だから、わたしはこっそり思っていた。もし万が一彼とそういうことになったとしても、絶対に後悔しないだろうな、と。
「でもさぁ、彼とイチャイチャはしてるんでしょ?」
「……まぁ、適度には」
わたしもそこは素直に認めた。
キスはもう毎日の日課みたいなものだったし、彼からのスキンシップはしょっちゅうのことだった。とはいっても頭をポンポンされたり、頬に触って「お肌キレイですね」と褒めてくれたり、肩こりがひどい時に肩を揉んでくれたり、その程度。あまりベタベタしてくるわけじゃないけれど、それだけでも彼からの愛を感じられて嬉しかった。
「いいなぁ、大人の彼氏。めっちゃ憧れる~」
「いいなぁ……って、里歩の彼氏も年上じゃない。今年ハタチでしょ?」
羨ましげに目を細めた親友に、わたしはすかさずツッコミを入れた。何を贅沢言っているんだか。
専門学校生である里歩の恋人だって法律上では立派な成人だし、もうすぐお酒が飲める年齢になろうとしていたのだ。
「確かに年齢だけならもう立派な大人なんだけどさぁ、桐島さんに比べたらまだお子ちゃまだよ。落ち着きはないし、余裕もないし」
「いやいや! 貢だってそこまで〝ザ・大人〟って感じでもないよ? あれで意外とおっちょこちょいだし、プライベートでは甘えん坊なところもあったりして」
仕事の時はバリバリ頼りになる秘書の顔をしていた彼だけれど、オンの時とオフの時でギャップというか落差がすごい。その事実は限られた人数しか知らないだろう。
「あら、そうなん? でもさぁ、桐島さんには絶対にブレない信念みたいなのがあるじゃん? 絢乃のことを支えたい、守りたいっていうね。そういうところが大人なんだと思うな」
「なるほど……」
彼の性格は一言で表すと「一本気」、もしくは「一途」。確かに、ひとりの人間としての芯はもうできあがっていると言ってもよかった。そういう意味では「大人」と里歩が評価したのも頷けた。
「あのね、わたしが手作りのお料理で彼をお祝いしたいと思ったのは、彼からもらった愛のお返しをしたいって思ってるからなの。彼に求められたら、できるだけどんなことでも叶えてあげたいなって」
「それが、たとえ際どいことでも? アンタ拒まない自信ある?」
「それは……どうだろ? その状況になってみないと分かんないけど」
わたしは首を傾げながらフライドポテトをつまんだ。たとえそうなったとしても後悔しない自信はあったけれど、絶対に拒まないと言い切れるか、と訊かれたらそこはあまり自信がなかった。
3
――そして、大型連休も終わりに近づいた五月初旬のある日。わたしは午後から貢と二人連れだって、豊洲の大型ショッピングモールを訪れていた。貢の誕生日を早めに祝うべく、この施設に入っている高級志向のスーパーでカレーの材料と彼ご所望のチョコレートケーキ、飲み物を買うことにしていたのだ。
「――貢、今日の主役なのに荷物持ってくれてありがとね。けっこう重いでしょ?」
歩き疲れとショッピング疲れもあり、適当なベンチで休憩している時に、わたしは荷物持ちを買って出てくれた彼を労わった。
ショッピングバッグは食材である野菜や牛肉、飲み物などでパンパンになっていて、かなりの重量になっていたはずだ。こういう時、さり気なく重い荷物を持ってくれる男性がいるのは本当にありがたいと思った。
「いえいえ。これでも男ですから、これくらいの重さは平気です。総務課の仕事で鍛えられましたからね。それより、支払いありがとうございました」
「ううん、いいの。けっこうな金額になっちゃったし、わたしも思い切ってクレジットカード使いたかったんだ」
わたしは春休み中にクレジットカードの申請をして、その審査があっさり通ってしまった。最初は普通のカードだったけれど、一年経った今はすでにゴールドになっている。ブラックになるのも時間の問題かもしれない。何せ、わたしの銀行口座には数十億円という金額が常に入っているし、月に五千万円の収入もあるのだ。……それはさておき。
さすがは高級スーパーだけあって、このお店の商品はどれもいいものばかりだけれどその分値も張るので、合計金額がとんでもない数字になっていた。そこで、支払いをクレジット決済にしてもらったのだった。
「でも心配しないでね。そんなに無駄使いはしてないから。特に自分のためには」
「じゃあ他の人のためには使ってるってことですよね? あまり気前がよすぎるのもどうかと思いますけど」
「うん……そうだよねぇ。分かった。忠告どうもありがと」
彼の言ったことの意味は理解できた。なまじ気前がよすぎると、詐欺に遭う可能性もある。それに、お金目当てで近づいてくる人たちもわんさか集まってくるということだ。つまりはカモにされる危険度が高くなる、と。彼はその心配をしてくれているんだと思った。
「僕は絢乃さんのチャリティー精神、キライじゃないですけど。その懐の深さがいつかアダになるんじゃないかって心配で」
「……そっか」
実はわたし、これでも高額納税者だし、児童養護施設やDV被害者のシェルターなどにも毎月寄付をしている。それが恵まれた境遇に生まれついた人間の務めだと思っているから……と言ったらちょっと高飛車に聞こえるかな?
「――さて、今度は貢のプレゼント買いに行こう。腕時計、どこで買おうか?」
わたしたちはベンチから立ち上がり、次の目的地へ向かおうとした。
腕時計は彼が誕生日プレゼントに「これが欲しい」とリクエストしてくれたもので、ファッションウォッチよりもスポーツウォッチのようなものがいいと聞いていた。その方が丈夫で壊れにくいし、防水加工もされているから、と。
ボスのタイムスケジュールも管理している秘書にとって、腕時計は必需品なので、わたしもそのリクエストを即採用したのだ。
「そうですね……。検索した限りだとこの施設にはなさそうなので、一度出た方が――」
「あっ、絢乃タンだぁ♪」
彼との会話に気を取られていると、すぐ近くからわたしの名前を呼ぶ女の子の声がした。
「あ、唯ちゃん! こんなところで会うなんて珍しいね」
赤い伊達メガネをかけて短めのポニーテールを揺らしながら手を振ってくれた彼女は、三年生で初めて同じクラスになった阿佐間唯ちゃんだった。メガネのフレームと同じ赤いチェック柄のシャツワンピースとニーハイソックスでおめかししていて、いかにも「今日はデートです」と言わんばかりだった。
「……あの、絢乃さん。この方、お友だちですか?」
「うん。四月にできたばっかりの親友で、阿佐間唯ちゃんっていうの。阿佐間先生のお嬢さんだよ」
「阿佐間先生って、今年度からウチの顧問になられた弁護士の?」
「そうそう。わたしもね、始業式の日に唯ちゃんから『ウチのお父さんがお世話になります』って言われた時はびっくりしたんだ」
わたしが貢に説明していると、彼女も向かいで「うんうん」としきりに頷いていた。
「で、この人は絢乃タンのカレシさんだよね? 唯も里歩タンから聞いてるよー♪」
「そうだよ。わたしの彼、桐島貢さん。会長秘書をしてくれてて、すごく頼りになるんだ」
「初めまして、唯さん。桐島です。絢乃さんとお付き合いさせて頂いてます」
「どうも、初めまして☆ 阿佐間唯で~す♪ ウチの父がお世話になってますっ」
バカみたいにかしこまって自己紹介をした貢に、唯ちゃんは楽しげにビシッと敬礼なんかしてみせた。
「…………なんだか、唯さんって個性的なお友だちですね」
「唯ちゃんはアニメのオタクなの。貢、お願いだから引かないでね……?」
「引きませんよ。僕は偏見なんてありませんし、大好きな絢乃さんの大事なお友だちですから」
なかなかに強烈な個性を放つ親友に、彼が引いてしまわないか心配だったけれど。「引かない」と断言してくれた彼は本当に器の大きな人だと思った。
「――ところで、唯ちゃんは今日デート?」
「うん♪ 浩介クンと初めてのデートなんだぁ♡ 三階のシネコンで映画観るの」
「そっか」
浩介さんというのが唯ちゃんの彼氏さんの名前で、一つ年上の大学生だと聞いた。ちなみに二人の共通点は、同じアニメ作品が好きだということらしい。
「そういう絢乃タンたちは? やっぱりデート?」
唯ちゃんが小首を傾げながら訊ねた。
この日のわたしの服装は、七分袖のTシャツの上から薄手のカーディガンを羽織り、スキニーデニムに淡いピンク色のフラットパンプスというちょっとカジュアルダウンした感じだった。貢と一緒だったからデートだと分かったんだろうか。
「うん、まぁね。彼のお誕生日がもうすぐだから、今日彼のお家で早めにお祝いしようってことになって。お料理の材料とかプレゼントとか一緒に買いに来たの」
「そっか、お家デートかぁ。いいなぁ……。あ、シネコンっていえば、今日小坂リョウジさんがそこで映画の舞台挨拶するんだって。里歩タンなら喜んで観にきてたかなぁ」
「小坂さんが? 里歩も来なかったと思うよ。あの熱愛報道でファンやめたらしいから」
「そうなんだ?」
「うん。――あ、ゴメンね唯ちゃん。わたしたち、そろそろ行くから。また連休明けに学校でね」
「唯さん、失礼します」
「は~い☆ じゃあね、絢乃タン」
――彼女はその後、待ち合わせをしていた彼氏さんから連絡があったらしく、スマホの画面を見ながらフラフラと歩いて行った。
「――絢乃さん。小坂リョウジさんっていうと、絢乃さんがCM共演をお断りしたあの人ですよね?」
「そう。あの人、女性にだらしないっていうか、節操ないらしくて。ホント、共演しなくてよかった。わたしは別にファンでも何でもなかったし、貢以外の男性は眼中になかったからね」
「絢乃さん……」
わたしが彼の腕を取ってニコリと微笑むと、彼はまるで思春期の男の子みたいに頬を真っ赤に染めていた。
そんなラブラブモード全開のわたしたちを、まさかのあの人が隠し撮りしていたなんて……。わたしたちはこの時、夢にも思っていなかった。
4
――時計店を何軒か回って貢のプレゼントを購入し、代々木にある彼のアパートに到着したのは午後三時半ごろだった。
「へぇ……。貢ってけっこういいところに住んでるんだね」
重いエコバッグを提げた彼に先導されて、彼の部屋がある二階への外階段をゆっくり上がりながら、わたしは初めて訪れた彼の住まいの感想を言った。
築二十年だというコンクリート二階建てのアパートは白を基調としたモダンな造りで、全部で八部屋入っているらしい。彼の部屋は二〇四号室で、間取りは1K。代々木という土地柄もあって、家賃は月十二万円ということだった。
「ありがとうございます。このアパートには社会人になった年から住んでるんですよ。家賃は高いですけど、その分住み心地はいいんで」
「そうなんだ……。ウチの会社、経理に申請したら家賃補助も出るからね。家計が苦しいなら一考の余地はあると思うよ」
「そうですね、家賃補助を受けられたら生活もだいぶ楽になるでしょうね。考えてみます。――さ、狭い部屋ですがどうぞ」
彼は鍵を開けて、わたしを住まいへ招き入れてくれた。
「おジャマしまーす。……へぇ、キレイに住んでるね。慌てて片付けたようには見えないなぁ。普段から片付いてるって感じ」
わたしはまじまじと室内を見回してみた。リビング兼寝室兼ダイニング、という感じのお部屋には座卓とベッドが置かれているだけだったけれど、収納スペースに恵まれているおかげで物が散らかっておらず、広々と感じられた。
キッチンとトイレ・洗面所・お風呂が一体となったユニットバスはそれぞれ居住スペースから独立した形で配置されていて、使い勝手もよさそうだった。
「男の人のお部屋って、もっとゴチャゴチャしてるイメージしかなかったから。さすがは几帳面なA型って感じだね」
「…………お褒め頂いて恐縮です」
彼は照れたようにボソッと言って、「バッグはベッドの上にでも置いといて下さい」とわたしに荷物の置き場所を伝えた。
「キッチンはこっちです。エプロンもちゃんとありますからね。兄のなんでちょっと大きいかもしれませんけど」
「うん、分かった。ありがと」
キッチンは玄関を入ってすぐ右側にあって、IHで調理するタイプの二口コンロがついていた。調理器具も意外と揃っていて、圧力鍋まであったのにはわたしも驚いた。
「ここにある調理器具って、貢が買い揃えたの? っていうかお料理するの?」
デニム地のエプロンを着けながら訊ねたわたしに、彼は「いえ」と首を振った。
「これ、ほとんど兄の持ち込んだものですよ。時々ここに夕飯を作りに来てくれるんで。僕も兄の手伝いで下ごしらえとか簡単なことくらいはできますけど、ちゃんとした料理はあまり得意じゃないですね」
「え、そうなの? じゃあ、毎日のゴハンは?」
「週末は近所にある実家で食べてます。平日は……兄に作ってもらったり、外食やコンビニ弁当とかですかね」
「あらら、なんか栄養バランスが心配な食生活だね……。今はわたしと一緒にお食事して帰ってるからまだマシかな」
何だか侘びしい彼の食生活に、わたしは軽いショックを受けた。彼の場合、栄養管理はご実家ありき、ご家族ありきだったようだ。というか、ひとり暮らしの若いサラリーマンの食生活なんてこんなものだろうか?
「そうだ! よかったら、これからはわたしも時々ここでゴハン作って一緒に食べようか? お休みの日だけでもよかったら」
「えっ、いいんですか!? すごく嬉しいし助かります!」
わたしの提案に、彼は大喜びした。
「――じゃあ、カレー作り始めよっか。まずは野菜の仕込みからね。貢には……ニンジンとジャガイモの皮むきをやってもらおうかな。ピーラーでも包丁でも、やりやすい方で。手、ケガしないように気をつけてね」
「分かりました」
彼に手伝ってもらいながら、わたしは手際よく材料を炒め、お米を洗って炊飯ジャーにセットし、カレーの隠し味となるリンゴをすりおろし、手早くサラダを作った。
そして煮込み始めて三十分後(下ごしらえやら何やらでゆうに一時間以上を費やしていたのだ)、カレーライスのお皿とサラダボウル、ケーキのお皿などが並ぶ座卓を二人で囲んで乾杯をした。飲み物は二人ともサイダーだ。
「――では、ちょっと早いけど、貢のお誕生日を祝して……」
「「カンパ~イ!」」
グラスの中身に口をつけてから、カレーを食べ始めた。
「……うん! お肉ホロホロになってる~♡ 美味しくできたねー。辛さもちょうどいいし」
「ええ、美味しいです。ジャガイモを大きめに切ったのが正解でしたね。あと、飴色になるまで炒めた玉ねぎが効いてます」
初めて彼のために作ったカレーは我ながら会心の出来で、彼はお代わりまでしてくれた。それでケーキも食べられるの? とちょっと心配になったほどだ。
「カレー、ちょっと多めに作ったからタッパーに入れて冷蔵庫で保存しとくね。明日も温め直したら食べられるから」
「ありがとうございます」
チョコレートケーキも食べ終え、彼が淹れてくれた食後のコーヒーを味わっている時、わたしはこんな話をした。
「――あのね、貢。誕生日前には言えなかったんだけど、わたし、ほしいものがあるの」
「はい? それって何ですか?」
「わたし、新しい家族がほしい。パパがいなくなって、ママと二人だけになっちゃったでしょ? だからかもしれない」
「……というと?」
「そろそろ、わたしも貴方と次のステップに進みたいなぁ、って。……つまりは結婚に向けて、ってことなんだけど。貴方はどう思う?」
首を傾げた彼に対して、わたしは思いっきり直球を投げた。
「どう……って。そりゃあ僕にだって結婚願望くらいはありますよ。その相手が絢乃さんなら言うことなしですけど……。まだ早すぎるんじゃないかと。絢乃さんはまだ高校生ですし、喪中でもあるわけですし」
「うん、それはわたしも分かってる。もちろん今すぐにどうこうっていう話じゃないけど、なるべく早い方がいいな、って」
「…………それは、分かりましたけど。僕でいいんですか? 自分で言うのもナンですけど、僕の家はそんなにいい家柄というわけでもないですよ? ……まぁ、そこそこ裕福ではありますけど」
「別に家柄で結婚するわけじゃないもん。そこは気にしなくていいよ。それに、貴方はもうすでに、わたしのお婿さん候補の筆頭にいるから」
初めて言葉を交わしたあの夜、彼が「自分を婿候補に入れてほしい」と言った時点で、もう候補には入れていた。それが半年経ったその時点では、他の候補がいなかったということもあって彼が婿候補のトップになっていたのだ。
「わたし、本気だよ」
その言葉に嘘いつわりがないことを証明するため、わたしは初めて自分から彼にキスをした。それまでのわたしはただ受け身でいるだけだったけれど、そろそろ自分からそういう行動に出るべき段階に来ていると思ったのだ。
「……これで分かってもらえた? わたしが本気だってこと」
「はい。ですが…………すぐには結婚とか考えられないんで、少し考える時間を下さい」
「…………うん、分かった」
彼がすぐに結婚に踏み切れない理由は、わたしの年齢や家柄の違いだけじゃない。もしかしたら彼自身にもあるのかもしれない、とわたしは思った。
やっぱり悠さんがおっしゃっていたとおり、彼はまだ過去の恋愛で起きた何かをまだ引きずっているんだろうか、と。
過去なんて関係ない!
1
――貢に「考える時間がほしい」と言われてから一ヶ月が経過した。
六月に入り、学校の制服も衣更えをした。わたしの学校生活では最後の夏服シーズン突入で、貢は初めて見るわたしの夏の制服姿も「可愛いですね。よくお似合いです」と言ってくれた。それは嬉しかったのだけれど、わたしの気持ちは梅雨時のジメジメと、彼に一ヶ月も待たされ続けていたモヤモヤであまりスッキリしなかった。
「だからって、こればっかりは返事を急かすわけにもいかないしなぁ……。どうしたもんかな」
彼が給湯室へコーヒーの準備をしに行っていて一人になったのをいいことに、わたしはデスクに頬杖をついて盛大なため息をついた。
結婚というものは、わたしだけの意思で決められるわけじゃない。彼の気持ちを無視しては進められない。だから、彼がそこのところをどう考えているか、キチンと話をして確かめたかった。でも、彼が「考えさせてほしい」と言っている以上、なかなかそのタイミングがつかめずにいたのだ。
もちろん交際そのものは順調で、彼と別に気まずい空気になっていたわけでもないのだけれど。今ひとつ前に進めないというか、ちょっとした引っかかりがあるというか、何だかもどかしい気持ちになっていたことは確かだ。
「貢、一体何が引っかかってるんだろ? やっぱり過去に何かあって、それを未だに引きずってるのかな……」
いくら気になるからといって、彼に正面切って「過去に何があったの?」とは聞きづらかった。彼のプライバシーにズカズカと土足で踏み込むようなことはしたくなかったので、彼の方から話してくれるのをひたすら待つしかなかった。
「もしくは外堀から攻めるか……。悠さんに訊いたら教えてくれるかな?」
わたしは勢い込んでスカートのポケットからスマホを取り出し、悠さんにメッセージアプリで訊ねてみようと思い立ったけれど、「ダメダメ!」と正気に戻った。よそ様の兄弟ゲンカの種を作り出してどうするの!? ともう一人のわたしに叱られた。
「……やっぱりやめた」
もう一度ため息をついてスマホをポケットに戻し、PCに視線を戻した。
「――お待たせしました、会長。今日は蒸し暑いので、アイスカフェオレにしてみました。ガムシロップも入っていますので、そのままお飲み下さい」
そこへ戻ってきた貢は、氷をいくつか浮かべた冷たいカフェオレのグラスを、デスクに敷いたコルク製のコースターの上に置いた。ちなみにこのアイスコーヒーも、コーヒーにこだわりのある彼の手作りだ。一度にたくさん作って、ピッチャーにストックしてあったらしい。
「……あ、ありがと」
オフィス内は冷房が効いていたのでホットでもよかったのだけれど、冷静になりたかったわたしはありがたくアイスカフェオレを頂くことにした。
「……美味しい。市販品とは薫りが違うね」
「畏れ入ります。――ところで絢乃さん、ひとつお願いしたいことがあるんですが」
「ん? なぁに?」
……来た。この切り出し方は会長秘書・桐島さんではなく彼氏モードになっているということだ。
「ここでは何なので、応接スペースで。……プライベートな話なので」
「うん、分かった。じゃあ移動しよう」
応接スペースのソファーセットに向かい合わせて腰を下ろすと、わたしは彼に話を促した。
「――で? わたしにお願いって?」
「ええとですね……。そろそろ、ウチの両親に絢乃さんのことを紹介したいんですけど。大丈夫でしょうか?」
「えっ? それは別に構わないけど……。もしかして、結婚考えてくれる気になった?」
「それはあの……、まだ追い追いということで」
「……なぁんだ」
わたしは期待を込めて彼に確かめたけれど、期待外れな返事が返ってきたのでガックリと肩を落とした。
「あの、それは別としてですね。絢乃さんには僕の〝彼女〟として両親に一度会ってほしいんです。……このごろ、週末は絢乃さんが食事を作りに来て下さるようになったので、両親が淋しがっているというか。僕はここ数年恋愛そのものから遠ざかっていたので、親が心配しているようなんです。それで、一度顔合わせしてもらって、安心させたくて」
「はぁ、なるほどね。つまり、ご両親に『こんな自分にもちゃんと彼女ができたんだよ』って、わたしをご両親に見てほしいわけだ」
「そういうことです。……お願いできますか? ウチの両親はいつでも構わないそうなので、日程は絢乃さんのご都合に合わせますから」
心優しくてご両親思いな彼の気持ちも分かるし、何よりわたしも彼のご両親には一度お会いしたいと思っていた。母には交際を始めた時に報告できたけれど、彼のご両親にはまだご挨拶すらしていなかったのでそれは不公平だと感じていたし。
「いいよ。わたしも、貴方のご両親には一度お目にかかりたいなって思ってたから」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
「じゃあ、いつがいいかな? 早い方がいいよね。今月は……四週目に修学旅行があるから、その期間以外ならいつでも大丈夫だよ」
わたしはスマホでスケジュール帳アプリを開き、予定を確認した。
「今週末、土曜日あたりでどうかな?」
「はい、それで大丈夫だと思います。両親にもそう伝えておきますね」
「サプライズ訪問の方がいいかなーと思ったけど、やっぱり前もってお知らせしておいた方がいいよね」
「そうですね。サプライズはおやめになった方が」
「やだなぁ、冗談に決まってるでしょ」
渾身のボケに大真面目にツッコんでくれた彼に、わたしは苦笑いした。
「でもね、わたし、冗談抜きに貴方とはいい夫婦になれそうな気がしてるの。貴方の部屋のキッチンに二人で立ってお料理してるところなんか、まるで新婚カップルみたいだなぁっていつも思ってるもん」
「…………」
「あくまでわたしの勝手な妄想だから、気にしないで?」
リアクションに困っていた彼にそうフォローを入れることで、あまり真剣に悩まないでねというニュアンスを言葉の端に込めた。
「……あの、先ほどのお話なんですが。両親は多分、僕が絢乃会長とお付き合いさせて頂いていることを知っていると思うんです。兄がバラしていると思うんで」
「そうなの? ……うん、まぁ、あのお兄さまならあり得るね」
「ああ見えて案外口は堅い方なんで、他の人たちにペラペラ喋りまわっていることはないはずですけど。両親になら話しているかな……と」
「なるほどね。じゃあサプライズなんてやってもあんまり効果がないわけか」
「そういうことです」
もし仮に悠さんがご両親にわたしの人となりを話していたら、ご両親もわたしがどういう人間かをよくご理解されたうえで会って下さるということだ。もちろんサプライズなんて何の意味もなくなる。
「よぉーく分かりました。……ところで貢、貴方が恋愛はできても結婚に踏み切れない理由って何なの?」
「……えっ?」
「わたしがまだ高校生だからとか、喪が明けてないからとか以外にも何かあるんじゃない? たとえば貴方自身に」
「……あの、それは」
「もしかして、貴方の過去と何か関係ある?」
「……!」
思いっきり単刀直入な訊き方に、図星を衝かれた彼は大きく目を見開いた。それはこの問題の核心に触れたということであり、わたしは無意識に彼の心の傷を抉ってしまったらしい。
「…………ごめん、貢。わたし、訊いちゃいけないことを訊いちゃったみたい。答えにくいことなら、無理に答えなくていいよ。貴方が話したくなったタイミングでいい。ちゃんと話を聞かせてほしいな。それまでは、わたしもこれ以上突っ込んで訊かないようにするから」
「……はい。お気遣い、ありがとうございます。――アイスカフェオレ、氷が溶けて薄まってしまってますね。淹れ替えてきましょうか」
気まずくなった空気を変えようとしてか、彼は水滴だらけになったグラスに視線を移した。
「うん。ありがと。じゃあお願いしようかな」
わたしは薄まったグラスの中身を一気に飲み干し、空にしたグラスを彼に差し出した。
2
それからしばらく、わたしと貢の間には微妙な空気が流れていた。とはいってもギスギスした感じはなく、交際そのものが危うくなるようなこともなかったけれど、内心は穏やかではない、という方が正しい感じだった。
桐島家のご両親には、その週の土曜日に挨拶に伺った。貢がわざわざわたしの家までクルマで迎えに来てくれて、代々木に向かっている間に彼から聞いた。やっぱり、ご両親はわたしのことを悠さんから伝え聞いていたのだと。
「両親は絢乃さんにお会いできるのが楽しみだと言っていましたよ。母なんか妙に張り切っちゃって、『今日はウチのキッチンで、絢乃さんと一緒にお料理しようかしら』なんて言ってました。多分、『一緒に夕飯を食べて帰ってほしい』ってことだと思うんで、もしご迷惑じゃなければお付き合い頂けると……」
「別に迷惑だなんて……。わたしも楽しみ♪ 桐島家の一員になれるみたいで」
「それはよかった。母も喜びます」
わたしの返事を聞いた孝行息子の貢も、運転席で嬉しそうだった。
賑やかな家庭の食卓なんて、もう何年ぶりだろう? わたしが幼い頃には祖父母もまだ健在で、両親と祖父母、わたし、そして寺田さんや史子さんも一緒にダイニングテーブルを囲んでいた。でも祖母と祖父を相次いで亡くし、父も亡くなったその頃には、一緒に食事するのは母とわたし、寺田さんと史子さんの四人だけになっていた。もちろん里歩が泊まりにきてくれた時や、貢も夕食を共にすることもあったけれど、二人は〝家庭の一員〟のカテゴリーから外れていたし(貢はわたしの中で、もう家族も同然だと思っていたけど)。
父亡きあと、実質母子家庭になってしまった我が家ではもう、大勢で賑やかな食卓の風景なんて当分思い描けなかったので、正直憧れていた。それに、桐島家の食事風景に加わることで、「将来はこんな家庭にしよう」というイメージが湧いてきそうな気もしていた。
「――父さん、母さん、紹介するよ。この人が篠沢絢乃さん。篠沢グループの会長兼CEOで、俺の彼女。――で、絢乃さん。こちらが両親です」
ごく一般的な二階建て住居である桐島家のリビングで、貢がまずソファーセットのいちばん上座に座ったわたしをご両親に、そしてご両親をわたしに紹介してくれた。
「貢! お前は会長さんを軽々しく〝彼女〟なんて呼ぶんじゃない! ……申し訳ありません、絢乃さん。愚息がとんだ失礼を――」
「いえいえ! わたしは平気です。事実ですから。――お父さま、お母さま、初めまして。篠沢絢乃と申します。貢さんとは、四ヶ月ほど前からお付き合いをさせて頂いております。ご子息には仕事でも助けて頂いてばかりで。こんな頼りないボスによくついてきてくれて、支えてくれて本当に感謝しています」
わたしはキチンとかしこまって挨拶しながら、何だか結婚前の両家顔合わせみたいだなぁと思っていた。
桐島家のリビングは我が家のそれほどの広さはないけれど(むしろ、我が家を基準にする方がおかしいのかもしれない)、キレイに片付いていて、それでいて調度品からは家庭の温もりが伝わってくる、そんな空間だった。
「貢の父、篤です。息子がいつもお世話になっております」
「貢の母の、美智枝です。――あ、絢乃さんから頂いたお土産のケーキ、お出ししますね。お飲み物はコーヒーでいいかしら? ウチにはあいにく紅茶は置いてなくて」
「はい、コーヒー大好きです。ありがとうございます」
「あ、じゃあ俺手伝うよ。会社でいつも淹れてるし。――絢乃さん、僕はちょっと席外しますね」
美智枝さんと貢がキッチンへ行き、わたしは篤さんと二人でリビングに取り残された。
「――絢乃さん……いや、会長さんとお呼びした方がいいのかな。貢は、会社でご迷惑をおかけしていませんか? 不器用な子なので、心配していまして。親バカですね」
篤さんはとても温厚そうなお父さまで、なるほどあの兄弟の父親だわ、という感じを受けた。お母さまと同じくらいご子息二人に愛情を注いでいて、きっと育児にも積極的に参加していたんだろうなと思う。
「いえ、彼は本当によく気が利く人で、何事にも一生懸命なので、わたしは助けられてばかりです。ミスもたまにありますけど、そんなの誰にだってあることですから。わたしがまだ社会のことをあまりよく知らないので、彼を通して色々と学ばせて頂いている感じですね」
「そうですか。それを聞いて安心しました。絢乃さんも大変でしたね。お父さまが亡くなられてから、何もかもが変わってしまわれて。ウチの次男があなたの支えとなれているなら、親としても誇らしい限りです」
「そうですね。父が倒れた時から、貢さんはずっとわたしのことを気にかけて下さって、いつもわたしの気持ちに寄り添って下さっています。彼がいなかったら、わたしはきっと今ごろ父を失った絶望感から立ち直れていなかったでしょうね」
そんな彼だからこそ好きになったのだと、わたしはお父さまに打ち明けた。
「そうですか……。絢乃さん、これからもウチの貢をよろしくお願いします。ふつつかな息子ですが」
「はい、もちろんです」
これじゃ完全に結婚の挨拶だ。そう思うと何だかおかしかった。
「――お待たせしました。絢乃さん、お持たせですけどどうぞ」
そこへ、それぞれ大きなお盆を抱えた貢とお母さまが戻ってきた。貢がコーヒーカップを、お母さまがケーキのお皿を配膳していった。
「絢乃さんのコーヒーは、いつもどおり甘めのカフェオレにしてありますからね。今日はインスタントで申し訳ないですけど」
「ありがと。大丈夫だよ、インスタントも普通に飲むから、わたし」
「ケーキはみんないちごショートだからね、お父さん。絢乃さん、わざわざすみませんね、気を遣わせちゃって」
「いえいえ。みんな同じものなら揉めなくて済むかなぁと思っただけですから」
手土産のケーキを買う時、実は相当悩んだのだ。無難に全部同じ種類で揃えるか、それとも別々の数種類を選んだ方がいいのか。はたまたホールケーキを一台ボンと買った方がいいのか。
でも、後者の二つだとかなりの確率で揉める可能性が高かったので、あえて無難にいちごショートで揃えることにしたのだった。
「いただきます。……あれ? そういえば悠さんは?」
さあ食べよう、と思ったところでふとここに一人足りないことに気がついた。
「あら、絢乃さんは悠とも面識があるんだったわね。今日は仕事が早番だって言っていたから、夕方には帰ってくるんじゃないかしら」
「そうですか。悠さんも頑張ってらっしゃるんですね」
「ええ。飲食業界って大変らしいけど、あの子もお給料安くても文句ひとつ言わずに働いてるわ。やっぱり、目標がある人って強いのかもしれないわね。私も結婚前はそうだったもの」
「お母さま、ご結婚前は保育士さんだったんですよね。貢さんから聞いてます」
「そうなのよ。夫は結婚しても仕事を続けていいって言ってくれたんですけどね、結局退職しちゃったの。銀行員の妻が専業主婦じゃないと、体裁が悪いって聞いたことがあったから」
「そうだったんですね……」
というような女同士の会話を小声で交わしていたら、ガチャリと玄関ドアが開く音が聞こえた。
「……あ、悠さん、帰ってきたみたいですね」
「ただいま。……ってあれ? 絢乃ちゃん、来てたんだ? いらっしゃい!」
「おかえりなさい、悠さん。ご無沙汰してます」
「兄貴、ライン見てないのかよ。俺昨日送ったけど?」
「あ、やっべー。お前からのはまだ見てなかったわ。悪りぃ悪りぃ。……あ、ケーキあるじゃん♪ お袋、オレの分もある?」
――そんなこんなで、桐島家のご家族がやっと全員揃った。
3
帰宅された悠さんは、ご両親や貢、わたしが唖然としているのもお構いなしに出されたケーキを食べ始めた。飲み物もなしに。
「――うん、うめぇ! これ、絶対にいい店のケーキだよな。生クリームがしつこくなくてアッサリめ」
「……ええ、まぁ。分かります?」
「うん。オレ料理人よ? 味覚には自信あるから」
「…………はぁ」
うまいうまいと満足げにケーキを頬張る悠さんを、わたしは呆然と眺めていた。
「あー、うまかった! ごちそうさん。――しかしまぁ、玄関開けたらビックリしたぜ。見慣れない女モノのサンダルがあるんだもんな。絶対にお袋のモンじゃない若向きの」
「こら悠、母さんに向かって何て言い草だ!」
「そうだよ兄貴。絢乃さんも呆れてるじゃんか」
「あー……、いえ。わたしは別に気にしてませんけど。お母さまが……」
「いいんですよー、絢乃さん。悠はいつもこんな感じですから、私はもう慣れてます。うるさい家でごめんなさいねぇ」
「いえ。むしろ賑やかで楽しくて、こういう家庭っていいなぁって思います」
わたしはこの時、早くも桐島家の一員になったような気持ちになっていた。――実際に貢と結婚したら、わたしがこの家に嫁ぐわけではなく貢が篠沢家の籍に入ることになるのだろうけど。それでも美智枝さんが義母になることに変わりはないから。
「……悠さん、あの……。ちょっと、貢のことでお訊きしたいことがあるんですけど」
「ん? なに? オレで答えられることなら何でも訊いてよ」
悠さんとヒソヒソ小声で話していると、貢の刺すような視線に気がついた。……これは嫉妬の眼差しなのか、「余計なことを言うな」とお兄さまに釘を刺そうとしているのかどちらだったんだろう?
「あの、…………やっぱりいいです」
どちらにしろ、彼の過去について悠さんに訊ねようとしていたことがバレたと思ったわたしは、質問を慌てて撤回した。
「……あ、そう? 分かった」
わたしに頼ってもらえて嬉しそうだった悠さんも、ちょっと残念そうに肩をすくめた。
そして、わたしと悠さんがどんな話をしていたのか知らなかったお母さまは、首を傾げながらローテーブルの上のコーヒーカップやケーキ皿を片付けていた。
「――さて、そろそろ夕飯の支度をしようかしらね。今日はハンバーグよ」
夕方五時を過ぎた頃、美智枝さんがキッチンへ向かおうとしていた。その時、ふとクルマの中で聞いた貢の言葉を思い出したわたしもソファーから腰を上げた。
「あ、じゃあわたしもお手伝いします。ハンバーグ、大好きなんです」
「あら、手伝って下さるの? 絢乃さん、ありがとう。助かるわ」
というわけで、わたしとお母さまは女二人で仲良くキッチンに立つこととなった。
* * * *
――桐島家のハンバーグは、我が家のと同じく牛豚の合挽き肉のハンバーグだった。
わたしは捏ね終えたハンバーグのタネを丸めて空気抜きすることと、ソース作りを任された。ソースはたっぷりキノコのデミグラスソースだ。
「お袋、絢乃ちゃん。オレも何か手伝おうか?」
プロの料理人である悠さんがキッチンを覗きに来て、声をかけてくれたけれど。お母さまはそれをやんわり断っていた。
「いいわよ。あんたは仕事から帰ってきたばっかりで疲れてるでしょ? 料理は私たちに任せてゆっくり休んでなさい」
彼がキッチンから出ていくと、わたしはブナシメジを裂きながらお母さまに「手伝ってもらわなくてよかったんですか?」と訊ねた。
「ええ、いいの。確かにあの子は料理がうまいけど、プロの味と家庭の味って違うでしょ? ウチの家族は私の味で慣れてるから」
「なるほど。〝おふくろの味〟っていうやつですよね」
「そう。それに、こうしてあなたと二人でお料理するの、楽しみにしてたのよ。ウチには娘がいないから、今日は娘ができたみたいで嬉しいの。もしくはお嫁さん、かしら」
「お母さま……」
「でも、貢は結婚したら、絢乃さんのお家に行っちゃうのよね。やだわ。もうあなたがお嫁さんに来てくれる気になっちゃって。ごめんなさいねぇ」
「ああ、いえ……。実はわたしと貢さん、まだ結婚に向けての具体的な話まではしてなくて」
「あら、そうなの? 確かにあの子、結婚に対しては消極的なのよね。抵抗があるっていうのかしら」
「え……」
思いがけず、お母さまから貢の過去の話が聞けそうな流れになり、わたしは手を止めた。
「……あの、お母さまは何かご存じなんですか? 息子さん……貢さんがそうなってしまった理由を」
お母さまが捏ね終えた肉ダネを成形しながら、わたしは訊ねてみた。
「あの子、絢乃さんにも話してなかったのね。そりゃ、あんな思いをしたんだもの。よっぽど耐えられなかったのね」
お母さまは難しいお顔をしてそう前置きしたあと、ポツリポツリと話し始めた。
「……あの子ね、もう一年になるかしら。お付き合いしてた女性に裏切られたの」
「えっ!?」
「同じ会社の同期だったらしいんだけど。彼女、もう一人の男性と二股かけてたらしくて。……貢はその子と結婚したがってたみたいだけど、彼女はそのもう一人の相手と結婚して、さっさと会社も辞めちゃったらしいの。何でも、どこかの会社の御曹司だったらしいのよ、そのお相手」
「……じゃあ、彼女は貢さんより玉の輿に乗る方を選んだってことですか? ひどい……」
どこの世界にだって、いわゆる〝小悪魔ちゃん〟というのはいるもので、彼が過去に引っかかった女性もおそらくそういう人だったんだと思う。そりゃ、心の傷にもなるだろう。彼が本気で結婚を考えるくらい好きになった相手に、本当は遊ばれていただけだったなんて……。
「じゃあ……、彼はそのせいで女性不信になっちゃったってことですか? つらいでしょうね、貢さん」
大切に想っていた人からの裏切りでトラウマを抱えてしまった彼の心情を思ううちに、わたしは涙ぐんでいた。
「…………あらあら! あなたが泣くことないのに。本当に優しい人ね、絢乃さんは」
美智枝さんはオロオロしながら、わたしにティッシュペーパーを差し出してくれた。
「ありがとうございます……お母さま」
「いえいえ。――あの子、そんなことがあったでしょ? だから、『俺、彼女ができたから会ってもらいたいんだ』って連絡もらった時、一体どんな子を連れてくるのかちょっと心配だったの。でも、こんな年の離れた可愛いお嬢さんでビックリしたわ。勤め先の会長さんだって聞いてまたビックリ」
「そりゃ、驚かれるでしょうね」
まだ少し鼻声のまま、わたしは相槌を打った。
「でも、あの子のために涙を流して下さる優しい女性でよかった。貢から聞いてるわよ。お父さまを早くに亡くされて、悲しむ間もなく跡を継がれたんでしょう? 経営のうえでも会社の利益より、社員一人一人の働きやすさを大事になさってるって」
「はい」
「そんなあなただから、貢も信じようとしてるのかもね。あなたになら裏切られる心配はないでしょうから」
「もちろんです。彼は父が亡くなってから、ずっと支えになってくれているので。わたしも彼がいてくれたから、ここまで立ち直れたようなものです。わたし、絶対に貢さんのこと裏切ったりしません。わたしには彼しかいないので」
彼の過去の恋愛は、本当につらい経験だったと思う。でも、わたしは過去の彼女とは違う。彼には数えきれないほど多くの恩がある。わたしは亡き父と同じく、受けた恩は必ず返す主義なのだ。
「よかった。あなたが恋人なら貢も大丈夫そうね。絢乃さん、あの子のこと、これからもよろしくお願いしますね」
「はい!」
悠さんとお父さまだけでなく、お母さまとも信頼関係が築けたところで、わたしたち女性二人はお料理を再開したのだった。
4
――わたしとお母さまの共同作業で作ったハンバーグが食卓に並んだのは、夕方六時半だった。
フライパンで表面をこんがり焼いてからグリルでじっくり火を通すのが桐島家流で、そうすることで肉汁たっぷりのジューシーな仕上がりになるのだ。わたしも一つ勉強になった。
「――じゃあ、全員揃ったところで」
「「「「「いただきます!」」」」」
五人全員がダイニングテーブルに着いたところで、賑やかで楽しい夕食が始まった。
「うんめぇ~~! これ、マジでプロ級だって! 店に出しても問題ないレベル!」
調理師免許を持っていて、多分この家ではいちばん味覚が鋭いであろう悠さんがハンバーグの出来を絶賛した。
「このソース、マジうまいって。お袋腕上げた?」
「それ、わたしが作ったんです。お口に合ったみたいでよかった」
「えっ、そうなん!? 絢乃ちゃん天才じゃね!? なあ貢?」
「うん。――本当に美味しいです、絢乃さん」
「ありがと」
桐島家のみなさんが美味しい美味しいとゴハンを食べながら談笑している光景に交じっていると、わたしもこの家の家族になりたいと本気で思えた。たとえ貢が篠沢家に婿入りしたとしても、この家と親戚関係になることに変わりはないのだ。
「やっぱり、みんなでワイワイおしゃべりしながら食べるゴハンは美味しいですね。今日は来てよかった」
みなさんの笑顔を見られるだけで、わたしもお箸が進むのだった。
「――じゃあ俺、そろそろ絢乃さんを送っていくから。行きましょうか、絢乃さん」
夜七時半を過ぎ、朝から降っていた雨が小降りになってきた頃、貢がリビングのソファーから立ち上がった。食事の後は、部屋で先に休むと言った悠さん以外はご家族がリビングで思い思いに過ごしていたのだ。もちろんわたしも。
「うん。――今日は本当に楽しかったです。お邪魔しました」
「こちらこそ、今日は来て下さってありがとうございました。貢のこと、頼みますよ」
「またいつでも遊びに来て下さいね。一緒にまたお料理しましょ?」
「はい、ありがとうございます。悠さんにもよろしくお伝え下さい。じゃあ、失礼します」
わたしは桐島家のご両親にキチッと挨拶をして、貢と二人でお家を後にした。
* * * *
「――あー、楽しかったぁ♪ みなさんいいご家族だね、貢のお家」
帰る道中の車内で、わたしは彼のご実家やご家族のことを褒めちぎった。
「貴方はあのお家で、あんなに楽しいご家族に囲まれて育ったからこんなにまっすぐな人になれたんだろうなぁ、ってわたし思ったよ。いい家柄じゃない!」
「絢乃さん、褒めすぎです。ウチはごく一般的な家庭で、名家でもお金持ちでもないですよ?」
ご実家のことをあくまでも謙遜する貢に、わたしは思わず笑ってしまった。
「……何ですか?」
「ゴメン! わたしが言ってる〝家柄〟っていうのはそういうことじゃなくて、ご家族との関係とか家庭環境のことだよ」
「ああ……、そういうことですか」
「うん。そういう意味では、貴方は人柄も家柄も、わたしのお婿さんとして合格。あとは……貴方自身の気持ち次第だけど。……お母さまから聞いたよ。貴方が過去に、お付き合いしてた女性から裏切られて傷付いたって。それ以来、女性不信になってるって。……つらかったよね」
「…………。それで、絢乃さんは泣かれたんですね」
「どうして……」
「夕食の時、絢乃さんの目が少し赤くなっていたのが気になって」
「気づいてたんだ? じゃあ、それを踏まえたうえで貴方に訊くね。貴方は、わたしのことも信じられない? いつか裏切られるって思ってるの?」
わたしは質問しながら、そうじゃなければいいと信じたかった。彼はわたしのことは信頼してくれているはずだ、そうであってほしい、と。
だって、わたしと彼との間にはその時すでに、確かな信頼関係が築かれていたはずだから。
「そんなこと、あるわけないじゃないですか。あなたが純粋でまっすぐな女性だって、僕がいちばんよく知ってますから。そんなあなたが僕を裏切るはずないです。ですが……、やっぱり不安になるんです。一度生まれてしまったトラウマは、なかなか消えなくて――」
「わたし、貴方の過去なんて気にしない。過去なんて関係ないから」
彼の必死な言い分を、申し訳ないと思いながらもわたしは遮った。
「確かに、貴方は過去の恋愛でつらい思いをして、心に大きな傷を負ったのかもしれない。でもね、貢。わたしはこれからの貴方の笑顔を守りたいの。わたしが貴方のトラウマなんてなかったことにしてあげる。だから、わたしを信じて前を向いてほしい。一緒に前に進もう?」
……さて、言いたいことはすべて言った。あとは、彼がどうするかだ。わたしは返事を待つしかなかった。
「……はい。実は僕自身も、このままじゃいけないと思ってたんです。前にも申し上げたとおり、絢乃さんと結婚したいという気持ちはあるので、これから前向きに考えてみようと思います」
「よかった……。ありがと、貢! ちょっとお節介だったよね、ゴメン。貢に迷惑がられたらどうしようかと思って心配だったの」
「確かに、絢乃さんは時々お節介ですけど。僕はあなたのそういうところもキライじゃないですよ」
「えっ、ホント!?」
「というか、むしろ大好きです。絢乃さんのお節介は押しつけがましくないので」
「…………あ、そう」
お節介を「大好き」って言われても……。わたしはリアクションに困った。
「でも、本当に僕でいいんですね? 後悔しませんか?」
「うん。わたしは貴方だからいいの。あの夜、もし他の人に助けられたとしても、わたしはきっと別の形で貴方と恋に落ちてたはずだよ。わたし、貴方との出会いは運命だったって信じてるから」
「絢乃さん……、ありがとうございます。僕もそう信じたいです」
「うん、信じて!」
これでまた、彼との関係が少し前進した気がした。
「――ところで絢乃さん、修学旅行ってどちらまで行かれるんですか? 今月下旬でしたっけ?」
ホッとひと安心したところで、貢がまったく別の話題を持ち出した。
「うん。行き先は韓国だよ。二泊三日でソウルと釜山を回るんだって。ちなみにわたし、韓国語もペラペラだから♪」
「えっ、そうなんですか? でもいいなぁ、韓国……。楽しんできて下さいね。僕のお土産のことは気になさらなくていいですから」
「うん♪ じゃあ写真いーっぱい送るから、楽しみにしててね」
わたしの気持ちはすでに、海の向こうでの楽しい修学旅行まで飛んでいたけれど。わたしたちの絆を試そうとする試練は二人の知らない間に水面下で動き始めていたのだった。
大切な人の守り方
1
――わたしと貢の二人が結婚に向けてゆっくりと動き始めた夏は、短くもゆったりと過ぎていった。
その間にわたしは韓国での修学旅行を目いっぱい楽しんできたし、夏休みの間には貢と二人で夏季休暇を利用して、出張という名目で一泊二日の神戸旅行もした。母から「十月に新規開業する篠沢商事の神戸支社を視察してきてほしい」という命を受け、「ついでに二人で観光でもしてらっしゃい」ということでそうなったのだ。
もちろん、名目はあくまで〝出張〟だったので、ホテルの部屋はふたり別々のシングルルームだったけれど。視察が早く終わったので神戸の市街地で夕食に美味しいものを食べたり、二日目には観光名所をあちこち回ったりもできて、仕事としてもプライベートの旅行としても充実した二日間になった。
もしかしたら、彼との関係も一歩前進するかなぁなんて勝手に期待していたけれど、それは残念ながらこの旅では叶わなかった。でも、たとえ体の繋がりがなくても、わたしと貢の心はちゃんと繋がっているから大丈夫だと思えた。わたしは彼を愛していて、彼もわたしのことをちゃんと大切に思ってくれているならそれで十分だった。
そして季節は秋になり、わたしが貢と出会ってから一年が経とうとしていた頃、わたしは里歩や唯ちゃん、貢の勧めもあってやっとSNSを始めた。
「経営者には発信力も重要だよ♪ 時代の波に乗っかんなきゃ」
というのが親友二人の共通認識であり、貢もそれに賛同した。
わたしは始めたばかりのSNSを活用して、自分自身や篠沢グループのことを大々的に発信していった。インスタではわたしの私生活の様子や、貢のために作ってあげたお料理やスイーツの写真を投稿して、「セレブ=世間とはかけ離れた世界」というイメージを払拭しようとした。その一方で、Xでは秘書である貢や社員のみなさんにも協力してもらい、篠沢グループの企業概要や会社の様子、どういう事業に取り組んでいるかを周囲に理解してもらえるような投稿をしていった。
どちらもフォロワー数はみるみるうちに増えていって、SNSを始めてよかったという確かな手ごたえを感じていたのだけど……。
そんな頃だった。わたしと貢の絆に危機が訪れたのは。
「――絢乃! 大変たいへん! これ見て!」
ある日の終礼後、わたしが教室で帰り支度をしていると、スマホを開いていた里歩が血相を変えてわたしの席まで飛んできた。
「どうしたの、里歩? そんなに慌てて」
「だから大変なんだって! アンタもスマホでX開いてみて! ほら今すぐ!」
「う……うん、分かった」
何が何だか分からないままアプリを開き、彼女の言うキーワードで検索すると、トップに表示された記事にわたしは茫然となった。
「ちょっと何これ!? わたしと貢の2ショットだ。しかもこのアングル、まさか隠し撮り!?」
「みたいだね。顔はハッキリ写ってないけど、全体の雰囲気で何となく誰だか分かるっていうギリギリのアングルで撮られてる。これはちょっと悪質だわ」
里歩もすぐ横で眉をひそめ、低く唸った。これは相当怒っているなとわたしも感じたし、それはわたし自身も同じだった。
記事そのものを読んでいくと、こんな悪意に満ちた内容が投稿されていた。
〈篠沢グループ会長のスキャンダル発覚! 隣に写ってるのは彼氏か!?
大してイケメンでもないのに逆玉を狙った不届き者! 男のシュミ最悪!!
#この男見つけたら制裁 #この男は社会のゴミ 〉 ……
「何なのこれ……。誰がこんなひどい投稿を……」
しかもその投稿のコメント欄はすでに炎上していて、おびただしい数の拡散までされていたのだ。あまりの憤りに、スマホを持つわたしの手がブルブル震えた。
葬儀の日、父のことを散々コケにした親族にさえ、これほど強い怒りを覚えなかった。それは、彼らがわたしの目の前で言いたい放題言っていたから。確かに腹は立ったけど、「ああ、この人たちは所詮この程度の人間なんだな」と思えば諦めもついた。でも、この時は違った。目に見えない人からの悪意ほどおぞましいものはない。
「……この書き込みしたの、男みたいだね。絢乃、このアカウントに心当たりある?」
「ううん、見たこともないアカウント。だいたいわたし、男の人に恨まれる憶えなんて……」
「だろうね。じゃあ桐島さんはどう? アンタにはなくても、桐島さんが誰かから恨まれてる可能性はあるんじゃないの? っていうかこの投稿、明らかに彼に悪意の矛先が向いてるし」
「あ……、確かにそうだね。でも、どうなんだろ……? 彼だって人から恨まれるような人じゃないと思うけど」
「あーーーっ! この服装、豊洲のショッピングモールで会った時のだよね!?」
いつの間にか目の前に来ていた唯ちゃんが、写真に写るわたしたちの服装に気がついて雄叫びを上げた。
「うん……、確かに」
「唯、これ書いた人分かっちゃったかも」
「「えっ!?」」
わたしと里歩は同時に驚きの声を上げ、ドヤ顔の唯ちゃんを見た。
「小坂リョウジさんだよ、多分。あの日、あそこで映画の舞台挨拶やってたでしょ?」
「あ……!」
確かに唯ちゃんの言ったとおり、彼はちょうどあの日、主演映画の舞台挨拶をするためにあの場所に来ていた。
「うん。でね、空き時間にショッピングモールの中をうろうろしてる時、たまたま桐島さんと一緒に歩いてる絢乃タンを見かけて写真撮ったんだよ」
「ちょっと待って、唯ちゃん。小坂リョウジがそんなことした理由は?」
名探偵ぶりを発揮していた唯ちゃんに、里歩が水を差した。
「絢乃タンにCMの共演を断られたから。だしょ、里歩タン?」
「……まぁ、そんなこともあったけど。だからってそれくらいの理由で絢乃のこと逆恨みするかなぁ?」
「う~ん、それは唯には分かんない」
にゃはっ☆ と笑いながら答えた唯ちゃんに、わたしたち二人はのめった。
「…………っていうか里歩、恨まれてるのは貢の方じゃなかったっけ?」
「あ、そうだった。でも、これってホントに小坂リョウジのアカかなぁ? ちょっと待って……。あったよ、公式アカ。でもユーザー名が全然違うね」
里歩は自分のスマホで小坂さんのアカウントを検索したらしく、ヒットしたアカウントには公式であることを表す青い認定マークがついていた。
「ってことは、裏アカか成り澄まし? どっちにしても悪質だよね。……一応、サポートセンターに荒らし行為で通報した方がいいかな」
「うん。でも、多分通報してもキリがないと思うよ。こういうアカはウジャウジャ増殖するから」
「ぞっ、増殖……?」
里歩の指摘に、通報メールを送信し終えたわたしはゾッとした。そんなの、おぞましい以外の何ものでもない!
「そうならないためにも、まずはこの書き込みがホントに小坂さんのアカから発信されてるのか突き止めなきゃだよね。多分、かなりハードル高いと思うけど」
「そうだよね……。もし裏アカウントなら、海外のサーバー経由で作られてるかもしれないもん。そこから先を辿るのはちょっと難しそう。そういうのを調べてくれる、専門の調査会社とかないのかなぁ。ネット犯罪とか、そういう問題に特化してるような」
わたしは頭を抱えた。篠沢グループの中にも調査会社はあるけれど、そこまで突っ込んだ調査はしてもらえない。そこで十分事足りるなら、わたしもこんなに悩まなくて済んだのだ。
きっと貢もこの投稿を目にしているだろう。この先、彼の個人情報を特定しようとする人たちも出てくるだろう。わたしはどうすれば、この悪意から彼のことを守れるだろう……?
「――ところでアンタ、今日は会社行かなくていいわけ?」
彼のことを案じていると、里歩が現実的な指摘をしてきた。そういえば、数分前に彼から「今からお迎えに向かいます」とメッセージが入っていたのだ。
「行かない……わけにはいかないよね。彼もこの投稿見たのかな……って思ったら、彼のメンタルが心配だし。ここはボスであるわたしが頑張らなきゃ!」
というわけで、色々と思うところはあったものの、わたしはこの日も出社することにしたのだった。
2
オフィスへ向かうクルマの助手席で、わたしはため息ばかりついていた。
「――会長、今日は元気ないですね」
そんなわたしの様子を気にかけ、運転席から貢が労わる言葉をかけてくれた。
「うん、まぁ……ね」
「もしかして、会長もご覧になったんですか? SNSの、あの書き込み」
「…………もしかして、貴方も見たの?」
彼はわたしの長い沈黙を肯定と受け取ったらしく、「やっぱりそうでしたか」と頷いた。
「はい。僕だけじゃなくて、お母さまもご一緒に。お母さま、もうカンカンでしたよ。『今すぐ阿佐間先生に連絡して! こんなヤツ、訴えてやる!』って鬼の形相で。〝怒り心頭に発する〟ってこういうことなのかと思いました」
「へぇ……」
もしくは〝怒髪天を衝く〟も可だろう。……それはさておき。
「……何か責任感じちゃって。ごめんね、桐島さん。わたしのせいで、貴方がこんな目に遭うなんて」
「会長が責任を感じられることはないでしょう。僕なら大丈夫ですから。あんな誹謗中傷、痛くも痒くもないですから」
「え? ホントに大丈夫なの?」
「ええ、本当です。僕のメンタルが強いことは、会長がよくご存じのはずでしょう?」
「…………そうでした」
わたしは思い出した。入社二年目からのハラスメント地獄を、彼はずっと耐え抜いてきたのだ。精神的にタフでなければ、彼はとっくに会社を辞めていたはずである。
「それに、僕は自分のことよりあなたのことの方が心配です。もしかしたら、あの投稿を目にした時にご自身のことのように心を痛められたんじゃないかと。お父さまのご病気が分かった時もそうでしたもんね」
「……うん」
わたしがよく知っている彼は、大好きな彼はそういう人だ。いつも自分のことよりわたしや他の人のことを考える。わたしに元気がない時や、落ち込んでいる時にはちゃんと気にかけてくれる、優しい人。お嬢さまのわたしにも、打算抜きで接してくれる純粋でまっすぐな人だ。
「桐島さん、わたし無性に腹が立ったし、それと同時に怖くなったの。相手が見えないのをいいことにして、あんなに他人に悪意を向けられるものなのか、って。でも、同時にこうも思った。こんなことをした人を絶対に許さないって。わたし、貴方を守るって約束したよね? だから、誹謗中傷犯を絶対に見つけて、貴方に謝罪させるから。わたしを敵に回したこと、絶対に後悔させてやるんだから!」
鼻息も荒く宣言したわたしに、彼は呆れ半分思いやり半分という声で言った。
「そのお言葉は大変頼もしい限りですが……、あまり無茶なことはなさらないで下さいね。僕だって守られてばかりではいられませんから。あなたを守りたい気持ちは、僕も同じなんですよ。いざとなったら、あなたをお守りするためには手段も選ばない覚悟です」
「桐島さん……」
わたしはこの時まで、彼の覚悟を見くびっていたのかもしれない。父の葬儀の時、彼が確かに里歩から秘書としての覚悟を問われていたことは憶えていたけれど。そこまで強い覚悟を持って働いてくれていたなんて。
「心配してくれてありがと。貴方はホントに優しいね。でも大丈夫! そんなに危ない橋は渡らないから。……多分」
「多分? 多分って何ですか多分って」
「何でもないよー。さあ、今日も頑張ろう!」
「……はーい」
彼からの鋭いツッコミを見事にスルーして、わたしはごまかすように彼の肩をポンと叩いた。
* * * *
――その日の夕食後、自室で学校の予習復習を終えたわたしは、ふと思い立って机の上のノートPCを起動させた。
ネット犯罪や、SNSでの嫌がらせなどの調査に特化した調査会社はないものか――。それも、正規のルートでは特定できないようなことまで独自のルートで調べ上げてしまえるような。
検索エンジンに「調査会社 ネット関係」というキーワードを打ち込み、エンターキーを叩くと数多くの業者がヒットしたけれど、そこからさらに「独自ルート」というワードで絞り込むと、いくつかの会社や個人事務所だけが残った。
「……あ、ここなんかいいかも」
わたしがそこで目をつけたのは、新宿にある一軒の個人事務所。WEBサイトのPRコメントには「独自のコネクションを駆使して、警察にも特定できないありとあらゆるネットトラブルの原因を特定します!」と強気な内容が書かれていて、興味をそそられた。
サイトにアクセスすると、そこは一組の男女だけで切り盛りしている零細企業らしく、所長さんは元警視庁捜査一課の警部補だったという、元刑事さんの事務所なのに、堂々と警察組織にケンカを売っているのが何だか面白いなと思った。
「まずはお気軽に、相談内容をメールで送って下さい」とあったので、サイトに記載されているメールアドレス宛てに相談したい内容を送信した。連絡先を書き込んでおけば、後から直接電話がかかってくるらしい。
『サイトを拝見しました。わたしは篠沢絢乃と申します。
実は、わたしの大切な人が現在、Xで誹謗中傷の被害に遭っています。それはすでにかなり拡散されているようで、彼のプライバシーを特定しようとする動きもあるみたいです。犯人は裏アカウントを使っているようで、警察や他の調査会社では特定するのが難しそうです。
この件での調査を、ぜひそちらでお願いできないでしょうか。わたしはどうしても、彼を助けたいんです。
このメールを読んで頂けたら、連絡をお願いします。詳しいお話は電話でさせて頂こうと思います。携帯番号は 090―〇〇××― …………』
「――今日中には電話かかってこないだろうから、明日かな……」
とりあえず翌日まで連絡待ち、ということにして、PCを閉じてからスマホでメッセージアプリを開くといくつかの業者の公式アカウントと、貢から新着通知が来ていた。
〈絢乃さん、今日は僕のことを心配して下さってありがとうございます。
僕は本当に大丈夫です。兄からも電話がかかってきて、「あんな書き込み気にすんな!」って言われました。言われるまでもないですけど(笑)
絢乃さんはあれから、何か動きがありました?〉
〈さっき、ネットで見つけた調査会社に相談内容をメールした。今連絡待ち。
場合によっては、わたし明日は会社休むかも。また連絡するね!〉
返信を終えたところで、登録外の番号から電話がかかってきた。番号からして固定電話ではなく、携帯電話らしい。
「――はい、篠沢ですけど……。どちらさまでしょうか?」
『篠沢絢乃さんの番号で間違いないですよね。こちら、〈U&Hリサーチ〉です。先ほどご相談のメール、下さいましたよね?』
「ああ……、はい」
電話の声は、まだ若い女性のようだった。二十歳前後くらいだろうか。
『メール、拝見しました。それで、詳しい相談内容なんですけど。かなりお困りのようなので、明日にでも一度事務所に来て頂けないかと。そこで所長も交えて詳しいお話をしましょうか。調査料金についても』
「はい。……あの、わたし、学校があるので伺うのは夕方になると思うんですけど」
『大丈夫ですよ。所長にもそう伝えます。事務所の場所は分かります?』
「ええ、分かります。ホームページに住所が載ってましたから。では明日、よろしくお願いします。失礼します」
やっぱり会社は休むことになりそうだ。――わたしは急いで母のいるリビングへと下りて行った。
3
――翌日の放課後、わたしは制服のままで新宿にある〈U&Hリサーチ〉の事務所を訪ねた。事務所は一階にコンビニが入っている三階建て雑居ビルの二階にあった。
ドア横の呼び鈴を押すと、ドアがガチャリと開いて顔を出したのはわたしと同い年くらいの女の子だった。身長は百六十センチくらい。ストレートの茶色いロングヘアーをポニーテールにして、パーカーにデニムのミニスカートというちょっとスポーティーな服装をしていた。
「あの……、篠沢絢乃ですけど。今日、こちらへ伺うお約束をしている」
「ああ、篠沢さんですね。あたし、この事務所のスタッフで、葉月真弥っていいます。どうぞ中へ。所長は今、下のコンビニまで買い出しに行ってます。すぐ戻ってくると思うんですけど」
真弥さんはわたしの制服姿に興味津々で、事務所内へ招き入れたあとに「まさか高校生だなんて思わなかったんで、ビックリしました」と笑いながら言った。
「電話で言わなくてごめんなさい。高校生だって言ったら、相談を受け付けてもらえないんじゃないかと思ったから」
「そんなことないですよ。ウチは零細企業なんで、お金さえ払ってもらえるなら依頼人の年齢なんか関係ないですから。――それ、茗桜女子の制服ですよね。いいなぁ」
「ええ。今三年生」
「あたし、新宿の慎英高校に通ってたんです。超がつく進学校。でも、ホントは茗桜に行きたかったんですよね。慎英には、親が行け行けってうるさいから仕方なく」
彼女はそう言って肩をすくめた。親とは折り合いが悪いらしい。
「へぇ……。『通ってた』っていうのは?」
「ああ、そこ辞めて、今は通信制に通ってるからです。二年生です。篠沢さんの一コ下」
「なるほど」
わたしが応接セットの茶色いソファーに腰を下ろしたところで、「ただいま」と野太い男性の声がした。どうやら所長さんが戻ってきたらしい。
「――ただいま」
「あ、ウッチーお帰り。篠沢さん来てるよ」
……「ウッチー」? 所長さんを呼ぶのにフランクな呼び方をするんだなぁと、わたしは小さく首を傾げた。もしかして、この二人も……?
「ああ、どうも。オレがここの所長で、内田圭介です」
「初めまして。わたし、篠沢グループの会長で、篠沢絢乃です」
真弥さんの話によると、内田さんは三十歳。身長は百八十五センチ。刑事だった頃はかなりの武闘派だったそうだ。真弥さんが十七歳なので、まぁ年の差十三歳のカップルもあり得なくはない……かな?
「まぁ、メインで調査してるのはあたしの方で、ウッチーは所長兼パシリって感じなんですけどねー。この人デジタルオンチなもんで」
「〝パシリ〟って言うな!」
というような夫婦漫才(?)を繰り広げた後、内田さんがコンビニで買ってきた冷たい緑茶をグラスに入れて出してくれた。
「ありがとうございます」
「――それで、メールで伺っていた件について、詳しく話して頂けますか?」
わたしがお茶で喉を潤すのを見て、所長さんが本題を切り出すのと同時に、真弥さんはパソコンデスクに向かった。
貢がSNSで悪意に晒されていること、それによって彼のプライバシーを侵害しようとする動きがあることを話すと、内田さんではなく真弥さんの方がわたしに質問してきた。
「その人って、彼氏でしょ?」
「……ええ、実はそうなの。だからわたし、何としても彼のこと守りたくて」
「なるほどね。それで、すでに容疑者っていうか、疑わしい人物っているんですか?」
「一応……。友だちが言うには、俳優の小坂リョウジさんが怪しいんじゃないか、って。でも、嫌がらせの投稿をしたアカウントは彼の公式のものじゃなくて、どうやら裏アカウントらしくて」
「まぁ、公式のアカで堂々とそんなことやるバカはいませんからねー。ちなみに、その人があなたや彼氏さんを逆恨みする理由って何か思い当たります?」
CM共演を断ったことを話すと、真弥さんはデスクトップのPCで小坂さんに関するネット記事を検索し始めた。
「……小坂リョウジ、所属事務所の契約切られてますね。女グセの悪さに事務所も閉口してて、我慢も限界だったってことでしょう。彼はそれをあなたのせいにしようとしてるんじゃないですかね。もしくはあなたという女性に固執してるとか。それで彼氏さんに逆恨みしてるのかも」
「それって……、ストーカー化してるってことですか?」
「そうとも言えるかな。オレの経験上、そういうヤツは強硬手段で直接攻撃に出ることが多い。もしかしたら、君や彼が危害を加えられる可能性もあるかもしれない」
「大丈夫です! そういう時はあたしかウッチーがとっちめてやりますから。こう見えてあたし、実戦空手の有段者なんで☆」
「はぁ……、それは頼もしいです」
真弥さんは再びPCに向き直り、わたしに訊ねた。
「その発信元のアカ、分かりますか?」
「ええ。ちょっと待って……あ、これだ」
「じゃあ、ちょっとスマホ拝借しますね。このアカの持ち主を、IPアドレスから特定してみます」
彼女はわたしのスマホをケーブルでPCに繋ぎ、勢いよくキーボードを叩き始めた。わたしもタイピングの速さには自信があるけれど、彼女のはそれ以上に速く、見事なブラインドタッチだ。相当パソコンに精通していないとこうはならない。
「……あの、真弥さんってどうしてあんなにPC使いこなせるんですか?」
「ああ、彼女はプロのハッカーなんだ。ホワイトハッカー」
「へぇ…………」
ハッカーなんて、映画や小説の中だけの存在だと思っていた。まさか現実にいるなんて! でも、だからこそこの事務所は他でできないような調査ができるんだとわたしは納得した。
「――うん。やっぱ海外のサーバー使ってるね。正規の方法で辿れるのはここまでだけど……、あたしには裏技があるんだなぁこれが♪」
彼女はニヤリと笑って、超高速タイピングで打ち込んだメールをどこかに送信した。その文面は英語、中国語、韓国語やインド語など何ヶ国語もあった。
「裏技……って?」
「真弥には、世界中にハッカーのお仲間がいるんだ。そのネットワークを駆使して、どこの国のサーバーが使われたのかを特定するってわけだよ。な、真弥?」
「正解♪ で、お返事のあった国が当たりってわけ。……よし、ビンゴ!」
彼女のPCに来た返信メールの文面は中国語だった。
「……ってことは、中国のサーバーを使ったってこと?」
「違うよ。中国は封建的な国だから、SNSとかネットサーバーに厳しい規制がかかってんの。正解はシンガポール」
「「シンガポール?」」
思わずわたしと内田さんの声がハモった。
「そ。あの国は多国籍だし、中国からの移民も多いから。ネット関係はけっこう緩いんだよ。メールをくれたあたしのお仲間は、中国から移住してる人。――あー、やっぱりね。このアカが作られたのと同じ時期に、ある日本人男性がアクセスした履歴を見つけたって」
「誰ですか、それって」
「俳優の、小坂リョウジ。つーまーり、このアカは小坂リョウジの裏アカ確定ってこと」
「やっぱり……そうなんだ」
調査結果はほぼわたしの予想どおりだったけれど、確定したことで小坂さんの狂気を見た気がしたわたしには悪寒が走った。
「このデータはプリントアウトして、篠沢さんにお渡しします。これをこの後どう使われるかはあなたにお任せしますね。――で、調査料金についてなんですが」
応接スペースに真弥さんが戻ってきたところで(といってもパソコンデスクはすぐ横にあったのだけれど)、内田さんからそう切り出された。
「ウチの事務所では他の調査会社と違って、ウチでの調査結果を依頼人に言い値で買い取ってもらうシステムになってるんですが……。最低ラインで二十万円になりますけど」
「わたしの言い値でいいんですね? じゃあ五十万円で」
「五十万……、いいんですか? けっこうな大金ですよ?」
「いいんです。これで大切な彼を守れるなら安いものですから。一応、百万円までは出せるように銀行で下ろしてきました」
わたしは通学バッグから現金の入った封筒を取り出すと、そこから半分を引いてローテーブルの上に置いた。
「――五十万円、確かに受け取りました」
貴女は銀行員さんですかと訊きたくなるほど見事な手さばきで現金を数えた真弥さんが、その場で領収書を記入して手渡してくれた。収入印紙がすでに貼られているあたり、そこはキッチリしている。
「これで我々の調査は終了となりますが、また何かあればご一報下さい。この件は事が事なんで。……一応、オレたちももらった五十万円分は仕事しないといけないし」
「分かりました。じゃあ、わたしからお願いというか、お二人に協力してもらいたいことがあるんですけど」
「「協力?」」
「ええ。小坂さんを罠にかけようと思って」
――こうして、わたしたち三人は貢に内緒の反撃作戦を開始したのだった。
4
――わたしと〈U&Hリサーチ〉の二人で決めた作戦は、小坂リョウジさんの裏アカウントにDMを送り、真弥さんがそのアカウントをハッキング。彼をウソの誘い文句でおびき寄せて二人で会っているところを真弥さんに乗っ取った彼の裏アカでライブ配信してもらい、彼が本性を現したところでそのことを彼に暴露するというもの。よくTVのバラエティーでやっているドッキリ企画に近いかもしれない。
万が一のことを考えて、わたしは内田さんと真弥さんと連絡先と名刺を交換した。貢の携帯番号も教え、わたしの身に危険が迫った時には最終手段として彼に知らせてほしい、と内田さんにお願いした。
この作戦については話していないけど、調査については貢にも伝えてあった。調査料金として五十万円を支払ったことには、「そんな大金を払ったんですか!? 絢乃さん、金銭感覚バグってるでしょう絶対!」と呆れられた。わたし自身もそう思うけれど、彼を守るためなら一億円出したっていい。彼の存在は、決してお金には代えられないから。
顧問弁護士である唯ちゃんのお父さまにも、小坂さんを訴える準備をして頂いた。真弥さんにもらった調査内容はその証拠としてお預けした。ただ、正規ではない手段で手に入れた情報なので証拠能力がどうなのかは分からないけれど……。
――そして、作戦決行の日が来た。
その日は土曜日で、貢には前もって「ちょっと用事があるから」とデートの予定を外してもらった。
内田さんの事務所を訪れてから決行日までの数日間、わたしの様子がおかしかったことは彼も気づいていたかもしれない。もしかしたら彼は、わたしの浮気を疑っていたかもしれないけれど、その心配なら皆無だ。内田さんには真弥さんという可愛い恋人がいるわけだし、わたしには貢しかいないのだ。
SNSでの誹謗中傷は、もうこのネタが飽きられていたのかパッタリ止んだ。その代わり、真弥さんが調べてくれた小坂さんのある情報が、Xで拡散されていった。彼はお付き合いしていた女性と破局するたびに、リベンジポルノを仕掛けていたらしいのだ。――これもまた、作戦の一部だった。
普段よりちょっと露出度高めの服装をして、わたしは新宿駅前でターゲットを待ち構えた。少し離れた場所では、スマホを構えた真弥さんと内田さんも待機していた。
「――初めまして、かな? 篠沢会長。こないだはDMありがとう」
「……どうも、初めまして」
こちらの思惑どおりに待ち合わせ場所へノコノコやってきた小坂さんは、すでに化けの皮が剥がれているとは知らずに俳優らしい爽やかな笑顔をわたしに向けた。
彼は二十四歳。年回りだけでいえば、貢より彼の方がわたしとバランスが取れている。……あくまで年回り「だけ」の話だけれど。
「いやぁ、まさか君が俺に会いたがるなんてねぇ。俺もそれだけ有名になったってことかな。CMでの共演断られたから、俺に会いたくないのかと思ってた」
「別にそんなことないですよ。それはそれ、これはこれですから」
……本当は、こんなことがなければお会いしたくなかったですけど。本心ではそう思いながら、それを表に出さないようわたしも作り笑顔で応えた。
「わたしの親友が貴方のファンなんです。五月に豊洲で主演映画の舞台挨拶なさってたでしょう? 彼女、部活があったから行けなくて残念~って言ってました」
これも真赤なウソっぱちだ。里歩はその頃とっくに彼のファンを辞めていたので、行きたがるわけがないのだ。
「へぇ、そうなんだ? 嬉しいなぁ」
「豊洲っていえば、ちょうどあの日、わたしもあのショッピングモールにいたんですよ。彼氏と二人で。偶然ですねー」
わたしは彼が気をよくした手ごたえを得ながら、ちょっと強気にカマをかけてみた。
「へ、へぇー……。すごい偶然だねぇ。っていうか君、彼氏いるんだ?」
彼は平然を装っていたけれど、明らかに動揺していた。わたしはこんな言葉使わないけれど、里歩や真弥さんなら「ざまぁ」と言うところだろう。
「ええ、いますよ。八歳年上の二十六歳で、わたしの秘書をしてくれてます。お金持ちの御曹司っていうわけじゃないですけど、すごく優しくて頼りになるステキな人です。実はわたしたち、結婚も考えてて。でも彼は決して逆玉狙いなんかじゃなくて、わたしのことを本気で大事に想ってくれてる人なんですよ。わたしも彼のこと、すごく大切に想ってます」
「へぇ…………。じゃあ、なんで君は今日、俺を誘ってくれたの? そんな挑発的なカッコして、コロンの匂いまでさせて。……もしかして、俺を誘惑しようとしてる? 彼氏から俺に乗りかえるつもりとか」
この人、どこまで自分大好きなんだろう? きっと今までも、こうやってどんなことも自分に都合のいいようにしか考えてこなかったんだろう。
「まさか」
わたしは鼻で笑い、彼をどん底に突き落とす宣告をした。
「貴方が、その大事な彼を貶めるようなことをしたから、反撃しに来たんです。しかも、このためだけにわざわざXの裏アカまで作って」
「……っ、このアマ……」
「ちゃんと調べはついてるんですよ。だからわたし、逆にそのアカウントを利用しようって考えたんです。貴方の本性を、ファンのみなさんにさらけ出すために。こうやって誘い出せば、プレイボーイの貴方のことだから食いついてくれるだろうと思って。でもまさか、こんなにホイホイ誘いに乗ってくるなんて思わなかった!」
ここまで上手く引っかかってくれるなんて思っていなかったので、わたしは笑いが止まらなくなった。わたしにこんな性悪なところがあったなんて、自分でも驚いた。
「わたしが貴方を誘惑するわけないじゃないですか! 彼を傷つけた相手を好きになるわけないでしょ? 貴方の頭の中、お花畑ですか?」
目の前で彼がプルプル震えているのが分かったけれど、まだこれで終わらなかった。
「わたし、貴方なんか大っっっキライです!」
「……んだと? さっきから黙ってれば好き勝手言いやがって! 俺をバカにしやがって! ふざけんなよ!」
「いいんですかー? そんな乱暴な物言いして。――さっきからわたしと貴方とのやり取り、ぜーーんぶライブ配信されてますけど? 貴方の裏アカから」
「…………!? な……っ」
「はいは~い♪ アンタの裏アカ、あたしが乗っ取っちゃいました☆ 今ねぇ、この様子の一部始終が全国のアンタのファンに垂れ流されてんの。これでアンタ、俳優としても終わったねぇ。はい、ご愁傷さま」
わたしが目配せすると、建物の陰からスマホを構えた真弥さんと、その後ろに控えていた内田さんが姿を現した。
「小坂さん、貴方はこれまでにどれだけの女性を弄んで傷つけてきたんですか。女性だけじゃない。わたしの大切な人まで晒しものにした! 貴方、人の気持ちを何だと思ってるんですか! わたし、貴方のことを絶対に許しませんから!」
「あんた、どうせ逆玉狙って絢乃さんとお近づきになりたかっただけでしょ? もうバレバレ。甘いんだよ、その考えが」
せせら笑うようにそう言って、真弥さんが腰を抜かしている小坂さんを見下ろした。
「わたしは正式に、貴方を名誉毀損で訴えます。顧問弁護士にはもう、訴訟を起こす準備を整えてもらってるので。ちなみに貴方、事務所をクビになってて後ろ盾はなくなったんですよね? というわけで、訴える相手は貴方個人です。覚悟しておいて」
わたしは次の一言で、彼に完全にトドメを刺した。
「この件で、貴方は完全に社会から抹殺されるでしょうね。ご愁傷さま。女をなめるのもいい加減にして!」
こうしてイケメン俳優への反撃作戦は幕を下ろしたのだった。
5
「――あー、せいせいしたぁ! 内田さん、真弥さん、ご協力ありがとうございました」
作戦が無事に成功した充実感から、わたしは探偵のお二人にお礼を言った。
「いやいや。オレ、何もしてませんよ。ほぼ女性陣二人の活躍でしょ?」
「そうそう☆ これで頂いた五十万円分はキッチリ仕事させてもらいましたんで。あたしたちは撤収しまーす♪ あとは彼氏さんとお二人でどうぞ」
「…………えっ? ――貢……」
真弥さんたちが手で示した方向に、見慣れたシルバーのセダンにもたれかかった私服姿の彼を見つけてわたしは大きく目を見開いた。
彼はいつものにこやかさはどこへやら、両眉をひそめて思いっきり仏頂面をしていた。……これは、絶対に怒ってる…………。
「――絢乃さん!」
「ごめんなさい。貢、あの……。お、怒ってる……よね?」
彼はわたしの方へ駆け寄ってきた。彼のこんなに険しい顔を見たのは初めてで、わたしはこの時初めて彼を怖いと思った。オドオドと上目遣いに彼の顔色を窺うと、彼は腕を伸ばしてきてわたしを抱きしめた。ここが思いっきり公衆の面前だということも忘れて。
「……よかった……。あなたが無事で、本当によかった……」
彼に心配をかけた自覚はあったので、わたしもされるがままになっていた。密着していた彼の体からは温もりを感じた。
「ごめんね、貢。心配かけちゃって、ホントにごめん。……でも、心配してくれてありがと。これくらいの方法しか思いつかなくて」
路上で抱き合っていると、周りが何だかザワザワと騒がしくなってきた。
「……とりあえず、クルマに乗って下さい。話はそれからです」
「そう……だね」
これ以上のイチャイチャは人目が気になるので、わたしたちは彼のクルマへと移動したのだった。
「――改めて、貴方には心配をおかけしました」
わたしはいつもの指定席である助手席ではなく、後部座席で彼に深々と頭を下げた。
「ホントですよ。あれほど無茶なことはするなと言ったのに。ヘタをすれば、絢乃さん、アイツにケガさせられてたかもしれないんですからね?」
彼はまだご立腹のようだった。でも、それはわたしのことが本当に心配だったからにほかならない。
「だーい丈夫だって。そのためにあの頼もしいお二人にも協力してもらったわけだし。いざとなったらボディーガードをしてもらうつもりで――」
「イヤです」
「…………は?」
彼に唐突に話を遮られ、わたしはポカンとなった。「イヤ」って何が?
「あなたが他の人に守られるなんて、僕はイヤなんです。あなたを守るのは僕じゃないとダメなんです。……すみません、ダダっ子みたいなことを言って」
「ううん、別にいいよ。貴方の気持ち、すごく嬉しいから」
むしろ、ダダっ子みたいな貴方が可愛くて愛おしくて仕方がないんだよ、とわたしは目を細めた。
「それにしても、僕を守るなら他に方法くらいあったでしょう? あえて僕と離れて、中傷の目を遠ざけるとか」
「それは、わたしがイヤだったの。たとえ貴方を守るためでも、貴方と離れるなんてダメだと思った。だったら、一緒にいながら貴方を守る方法を取った方がいい、って。……まぁ、その分お金はかかったし、ちょっと危ない橋も渡っちゃったけど」
傍から見れば、恋人のためにそこまでやるのかと呆れられるところだろう。確かにそうかもしれない。客観的に見れば、わたしのしたことは世間一般からズレているんだと思う。
でも、本当に大切な人を守ろうと思ったら、その方法は人それぞれでいいんだとわたしは思う。だって、抱えている事情はそれぞれ違うんだから。
「…………まぁ、絢乃さんに何もなかったからもういいです。その代わり、僕に心配をかけるのはこれで最後にして下さいね? 約束ですよ?」
「うん、分かった。もう二度と、こんなことはしないって約束するから」
わたしたちは指切りげんまんして、微笑み合った。
――これで、二人の恋路を阻むものはすべてなくなった。年の差も、身分の差も最初から障害になり得なかったのだ。わたしと彼の心が同じなら。
「――絢乃さん、僕、覚悟を決めました。あなたのお婿さんになりたいです。僕と結婚して下さい。お父さまの一周忌が済んで、絢乃さんが無事に高校を卒業して、そうしたら。……で、どうでしょうか」
「はい。喜んでお受けします!」
彼からの渾身のプロポーズに、わたしは喜び全開で頷いた。
思えば初めてわたしの気持ちを彼に伝えた時、子供っぽい告白になってしまった。でも今なら、彼にとっておきの五文字で想いを伝えられるだろうか。あの時から少し大人になったわたしなら……。
「貢、……愛してる」
「僕も愛してます、絢乃さん」
わたしたちは熱いハグの後、長いキスを交わした。
「――ところで、絢乃さんは高校卒業後の進路、どうされるんですか? 僕、まだ教えて頂いてないんですけど」
帰り道、彼が器用にハンドルを切りながらわたしに訊ねた。……おいおい、今ごろかい。
「わたしね、大学には進学せずに経営に専念しようと思ってるの。やっぱり好きなんだよね、会長の仕事とか会社が」
「……なるほど」
「ママは最初、大学に進んでもいいんじゃないか、って言ってくれたんだけど。最後には折れてくれたの。わたし、これまでよりもっともーっと会社に関わっていきたいから」
「加奈子さん、絢乃さんに甘々ですもんね」
「うん、まぁね。ちなみに、里歩は大学の教職課程取って、高校の体育教師目指すんだって。唯ちゃんはプロのアニメーターを志して、専門学校に進むらしいよ」
卒業後の進路はバラバラでも、わたしと里歩、唯ちゃんとの友情はこれから先も変わらない。きっと。
エピローグ
――こうして、わたしと貢の関係は恋人同士から婚約関係となった。ちなみに、あの騒動のおかげでわたしたちの関係は世間的に公になったのだけれど、これは喜ぶべきだろうか?
去年のクリスマスイブは彼と二人きりで過ごし、婚約指輪はそこでクリスマスプレゼントとして彼からもらった。小粒のダイヤモンドがはめ込まれたシンプルなプラチナリングで、多分価格もなかなかのものだったはず。彼の男気を感じて嬉しかった。
誕生日にもらったネックレスとともに、この指輪もわたしの一生の宝物になるだろう。
その夜は彼のアパートに泊まり、彼の小さなベッドの上で一緒に朝を迎えた。わたしの後から起きてきた彼と目を合せるのが照れ臭かったことが忘れられない。でも、それが結婚生活のリハーサルみたいに思えて、心躍ったのも確かだ。
三月の卒業式には、母と一緒に貢も出席してくれたので驚いた。母の話によれば、その日は一日会社そのものをお休みにしたんだとか。会長の新たな出発の日だから、社員一丸となってお祝いするように、と。
「ママ……、何もそこまでしなくても」と呆れたのを憶えている。
四月最初の日曜日、両家顔合わせの意味も込めて我が家で食事会をした。料理は専属コックさんと母、わたしと史子さんで腕によりをかけて作り、デザートのイチゴのシフォンケーキもわたしが作った。桐島さんご一家のみなさんも「美味しい」と喜んで、テーブルの上にところ狭しと並べられた料理を平らげて下さった。
そこで、わたしと貢は驚くべき事実を知った。なんと、悠さんがお付き合いしていた女性と授かり婚をしたというのだ!
顔合わせの席にはその奥さまもお見えになっていて、お名前は栞さんというらしい。年齢は貢の二歳上で、悠さんが店長を務められているお店の常連客だったそう。そこから恋が始まり、お二人は結ばれたというわけだった。……ただ、順番が違うんじゃないだろうかと思うのは考え方が古いのかな……。
そこから彼が我が家で同居することになり、二ヶ月が経ち――。
本日、六月吉日。真っ白なベアトップのウェディングドレスに身を包み、結婚式場のスタッフによってヘアメイクを施されたわたしは今、同じく白いタキシードの上下に身を包んだ貢と控え室で向かい合っている。わたしたちの出会いから今日に至るまでの思い出を、彼と話しているところだ。
彼はブルーのアスコットタイを結んでいる。これは「サムシング・ブルー」になぞらえたらしいのだけれど……。
「貢……、それって新婦側の慣習じゃなかったっけ?」
わたしは婿を迎え入れる側だけれど、とりあえずこの慣習を取り入れてイヤリングと髪飾りをブルーにした。でも、新郎側がこれを取り入れるなんて聞いたことがない。
「まぁ、そうなんですけどね。僕も気持ちのうえでは嫁ぐようなものなので」
「……そっかそっか。まぁいいんじゃない? 今は多様性の時代だしね」
何も古くからのしきたりに囚われることはないのだ。これがわたしたちの結婚の形、と言ってしまえばそれまでなんだから。
「ところで貢、知ってた? ママがこれまで断ってきた、わたしの縁談の数」
「いいえ、僕は聞いたことありませんけど。……どれくらいあったんですか?」
「聞いて驚くなかれ。なんと二百九十九人だって!」
「えっ、そんなにいたんですか!? 逆玉狙いの男性が」
彼はわたしの答えを聞いて、愕然となった。彼の解釈は間違っていない。
「ママね、わたしが小さい頃からずっと言ってたの。『絢乃には、本心から好きになった人と幸せを掴んでほしい』って。よかったよー、貢がその中に入らなくて」
「そうですね。これが絢乃さんにとって、いちばんの親孝行ですよね」
「うん。わたし、貢となら絶対に幸せになれると思う。やっぱり、貴方とわたしとの出会いは運命だったんだよ。貴方に出会えて、ホントによかった」
「僕も、絢乃さんに出会えてよかったです。もう二度と恋愛なんてゴメンだと思ってましたけど、そんな僕をあなたが変えて下さったんです。ありがとうございます」
こうして向かい合って、お互いに感謝の気持ちを伝え合えるってステキなことだとわたしは思う。この先もずっと、彼とはこういうステキな夫婦関係を築いていきたい。
「絢乃さん、こんな僕ですが、末永くよろしくお願いします」
「……何かそれ、もう完全に花嫁さんのセリフだよね」
思いっきり立場が逆転しているなぁと思うと、わたしは笑えてきた。
「でも、わたしたちって最初っから一般的なオフィスラブと立場が逆転してるんだよねぇ」
「……まぁ、確かにそうですよね」
貢もつられて笑った。今日みたいないいお天気の日には、笑顔での門出が似合う。梅雨の時期なのに今日は朝からよく晴れていて、絶好の結婚式日和だ。
ちなみに、この結婚式場は篠沢グループの持ち物である。新宿にあるこの式場のチャペルで挙式して、敷地内のガーデンレストランで披露宴をすることになっている。
「――絢乃、桐島くん。式場のスタッフが呼んでるわよ。『そろそろフォトスタジオにお越し下さい』って」
控室のドアをノックする音がして、オシャレなパンツスーツを着こなした母が一人の中年男性を伴って入ってきた。
「はい、今行きます! ――絢乃さん、では僕は先に行っていますね。フォトスタジオでお待ちしています」
「うん、分かった。また後でね」
控室を後にする彼を振り返ったわたしは、母と一緒に立っている人物に目をみはった。
父に顔はよく似ているけれど、父より少し年上の優しそうな紳士――。
「やぁ、絢乃ちゃん。久しぶりだね。結婚おめでとう」
「聡一伯父さま……」
それは、アメリカから帰国した父方の伯父、井上聡一だった。伯父にも招待状を送っていて、出席の返事はもらっていたけれど、どうして母と一緒に控室を訪ねてきたのかは分からなかった。
「今日は、来てくれてありがとう。……でも、どうしてわざわざ控室まで?」
「加奈子さんに頼まれたんだ。源一の代わりに、絢乃ちゃんと一緒にバージンロードを歩いてほしい、って。私は父親じゃないが、君の親族であることに変わりはないからね」
「…………伯父さま、ありがとう……。パパもきっと喜んでくれてるよ……」
伯父の優しさが心に沁みて、わたしは感激のあまり泣き出してしまった。
「あらあら! 絢乃、泣かないで! せっかくキレイにメイクしてもらったのに崩れちゃうわ」
「うん、……そうだね。こんな顔で行ったら貢がビックリしちゃうよね」
慌てる母に、わたしは泣き笑いの顔で頷いた。
その後母に呼ばれたヘアメイク担当のスタッフさんにお化粧を直してもらい、わたしはウェディングプランナーの女性に先導され、母と伯父にエスコートされて、最愛の人が待つフォトスタジオへゆっくりと歩いて向かう。少し目が赤くなっていることに、貢は気づくだろうか? でも、これは幸せな日にふさわしい喜びの涙だ。
その途中、わたしは心の中で父に話しかけた。
――パパ、見てくれてますか? 貢はパパとの約束を守ってくれたよ。
わたし、彼となら幸せになれると思う。ううん! 絶対に幸せになるから!
だからね、パパ。わたしは彼と一緒に、これからの人生を歩んでいくよ。
パパがわたしを託してくれて、わたしが初めての恋をささげたあの人と――。
E N D
トップシークレット☆ ~お嬢さま会長は新米秘書に初恋をささげる~【減筆版】
こんにちは、そしてこのサイトでは初めまして☆ 日暮(ひぐらし)ミミ♪です。『トップシークレット☆ ~お嬢さま会長は新米秘書に初恋をささげる~』を最後まで読んで下さり、本当にありがとうございます。
実を言うと、この『トップシークレット☆』という作品が最初に誕生したのは5年半前で、もうそんなに経つのかーと作者も驚いております。それなのに、まだ書籍化できない……(泣) 何故ナゼなぁ~~~~ぜ!?
他のサイトさんではロングバージョン(別名「旧バージョン」ともいう)も公開してまして、こちらは単行本一冊分の内容にギュッと凝縮した減筆版となっております。
減筆するにあたって、減筆前とは少し違う展開を入れてみました。絢乃ちゃんと貢くんの出会いをよりドラマチックにするとかね。その中でいちばん変えたポイントは、何と人気イケメン俳優をヴィラン(悪役)にしたところでしょうか。芸能人が悪役って、何かセレブっぽくない? 具体的にどこがどう変わったのか気になる方は、他サイトさんで旧バージョンもお読み下さい。これ以上ここに書くと完全なネタバレになってしまうので……(笑)
作者プロフィールに旧バージョンのリンクを貼ってございます。
そして、最後まで書いてみて作者は思うのでした。「絢乃ちゃんって、顔は可愛いのに性格オトコマエやな!」と(笑) 読んで下さるみなさんにスカッとしてもらいたくて、楽しく書いてました♪
大財閥に一人娘として生まれ、父親の死後十七歳で後継者となったヒロインの絢乃は、若いのにちゃんとした芯を持つ意志の強い女の子です。それは、彼女自身が会長だった父の背中を見て「わたしも将来、パパみたいな立派な経営者になるんだ!」と思い続けてきたからです。篠沢家の現当主である、お母さんの血が流れているせいかもしれませんが(笑)
その一方で、小学校から高校までずっと女子校に通っていたために恋愛経験はゼロ。そのため、運命的な出会いを果たし、のちに自身の秘書となる桐島くんが初めての恋のお相手でした。
そして、桐島くんもまた過去の苦い失恋から恋愛に対してトラウマを抱え、「もう恋愛なんてまっぴらゴメンだ」と思っていました。草食系な性格も相まって、八歳年下の絢乃ちゃんとの恋はなかなか進展せず、見守る周囲はじれじれ。でも、まるで中学生同士のカップルみたいな二人の恋を応援したくなるのは、二人がいつもお互いのために一生懸命だからだと作者は思うのです。
誰しも甘酸っぱい初恋の思い出をお持ちではないでしょうか。この『トップシークレット☆』を読んで、そんなピュアでキュンキュンな初恋を思い出してみませんか?
最後にもう一度、読者となって下さったみなさん、本当にありがとうございました!