ゆれるもの(掌編)

 素足にはじめてふれたのは植物だった。そして次にしっとりとしたもので足うらのすべてが包まれた。わたしは後に、それが牧草と豊かな土壌と知る。普遍的で、しかし重要な物事はなんでも後々わかってくる。だから、そのときのわたしは、子どもにちかい存在だったかもしれない。とにかく、わたしは瞼をひらいた。見るためだった。そこには大地があった。風が自由に踊れるような、どこまでも続く土地だ。清々しく、わたしは遠征としては悪くない、と思った。
 彼はそのような場所にぽつんと立っていた。わたしが彼を視界に入れたのを確認すると、彼は云った。

 「ぼくは貴方を知っている。貴方は天使というものだ。ぼくはいつも天国を見ているのだ。だからわかる。貴方は天使だ。」

 わたしがまず彼から発見したのは、まなざしに一切の曇がないことだった。そして次にみすぼらしさだった。だからわたしは彼の存在を了承した。

 「ではあなたも堕天したというわけ?」
 「いいや、ちがう。けれどぼくは貴方を見たことがある。天国で見たのだ。それは美しい場所だ。そこに貴方はいた。たしかにいたのだ。」

 透きおとっているのは瞳だけではなかった。その声は風に愛されていた。その証拠に彼の声は風によってわたしの体まで純粋なことばのまま運ばれた。染みわたるようだった。彼もわたしの存在を了承している、とわかった。わたしと彼は大して歳にちがいがない格好をしていたし、存在が平等に扱われることを感じとれた。だからわたしは彼の施しを受けることにした。食事と寝床さえあればよかった。しかし彼は贅沢ができるどころか、最低限の暮らしさえも難しいのだった。彼は羊飼いの見習いで、ちっぽけな賃金しか貰えないのだ。それでも彼は当然のことのようにわたしに施した。それはきっと、わたしが天使だからだ。

  ◯

A「ひとりきりでいると、あるものが見えてくる。見えてくるより現れてくるが正しいのかもしれない。あるものは、ぼやっとした曖昧な輪郭のまま、そこにたしかに存在するようになり、だんだんとはっきりした輪郭を持ちはじめる。だから結果として、見えてくるとも云える。それが何を体現したものなのかは、その人によって変わるだろう。なぜなら人は孤独だからだ。そしてその孤独から見えるものを何と形容するかもその人によって変わるだろう。たとえば光だったら、祈りの現れかもしれない。たとえば炎だったら、怒りが関係しているかもしれない。そういった曖昧な視界は、人々を恍惚とさせることもあれば、惑溺させることもある。そしてそれらを、愛、という人がときどきだが、存在する。ほとんど欲望だ、と揶揄する。それでも、その人には見えてきて、存在していき、たしかにある、という結果が生まれているのだ。」

  ◯

 彼は困窮していた。しかし納屋での共同生活は悪くなかった。彼はやさしかったし、わたしも穏やかな性格だった。争うようなことも起きなかった。このときが、わたしたちを祝福しているかのようだった。それにわたしたちはすべてのことを分けあった。食物、寝床、奉仕、遊戯、それらあらゆるもの。ときには性欲も。けれどその方法はセックスでない。わたしたちはとても動物的な行為以外によって、快楽を得た。そのひとつに、ことばがあった。わたしたちはたくさん話した。そして沈黙もした。そのすべてに含まれるものを感じた。わたしたちはだんだんと共通意識を持った。発さないことばによる仲間意識だ。その意識はわたしたちを包んで、柔らかい、束縛めいた感覚に陥らせた。

 「ぼくは貴方を信頼している。だから貴方もぼくを信頼している。そうでしょう?」
 「そうね、わたしはあなたを信頼している。それはたとえば、羊にふれるときのような、体温を感じるものよ。そして羊の死を悟るような、残酷なものよ。」

 わたしたちはセックスは疎か、ふれたこともなかった。肉体による接触ではなく、精神による接近が、わたしたちにより神秘的な優越感を与えた。わたしたちの会話は、もはや成されるものではなく、自然的に流れ、溶けてしまうような、あまりに儚い事象だった。それは彼の云う、天国を眺めること、に似ていたはずだ。彼はわたしに余白を委ねていた。

  ◯

B「見えてくるものははじめ、はっきりしないまま現れ、点滅を繰り返す蛍光灯のように細々と存在する。揺れていると云って差し支えない。故にその人は何かを天秤にかけているとも云える。天秤はその人の望むほうに傾くだろうし、恐れるほうに傾くだろうし、つまり、心中が関係するほうへ重心は傾く。そうなれば見えてきたものは、鮮明な姿となるだろう。だからその人は明確に見える、と思う。見えるものは実像として存在する。実像がほんとうに求めていたものであるかは、その人次第だ。これらの事柄を勧めることできない。」

  ◯

 彼との生活は半年ほど経っていた。
 わたしは時が来た、と思った。そもそもわたしにはここにいる理由はなかった。ただ彼のまなざしが美しく、興味を唆るもので、彼もまた、わたしという天使を欲していたに過ぎず、わたしはそれをなにか特別なことのように感じていただけだ。わたしたちはあるひと時をとても優美に過ごした。そのことにわたしは満足していた。
 しかし彼は違うようだった。とても不思議に感じた。彼は絶対的なわたしの存在価値を約束したがった。かんたんに云えばこうだ、彼の欲望はわたしの想像を遥かに超えて深いものだった。ことばの余白から恍惚を捉えることができるのは、知性からではなく、渇求によるものだった。しかしわたしは彼を信頼している。いまでもそうだ。
 けれどわたしはことばの交わりを越えてその人自身を渇望することはない。それは肉体に近づく行為だ。わたしたちの間で産まれた優越感は、危うく、小さな綻びで一瞬にして消滅してしまう。まるでわたしの世界と同じように。
 わたしは彼との崩壊を避けたかった。
 その日、わたしたちは出会った牧草地へ出かけた。わたしは素足だった。それが好きだった。人がもっもと地とちかい部位は足だ。足の感覚を研ぎすますのは、もともと言語を持たないものへの敬意だ。わたしは彼に話すことがあると云って、なにげない話をしたあと、こう続けた。

 「だからわたしはあなたを信頼している。けれど、それだけよ。」
 「うん、それだけかもしれない。でもとても重要なことだ。ぼくは貴方を知っているのだ。ずっと昔から。そして知っていくのだと思っている。」
 「知っていく、そうね。そういうこともあったかもしれない。」
 「あったかもしれない……?」

 彼は立ち止まった。困惑した声だった。
 もうわたしはこの牧草地は決して枯れることはない、と知っている。豊かな土壌に恵まれた羊たちがそれに気づいているのか、気がかりだ。すべてがあったことは、すべてを失ったあとにしか気づけない。
 風がわたしたちの間をすり抜けて昇っていった。わたしは彼の瞳を見つめた。

 「わたしたちには共通意識がある。似ているからとも云える。運命であるかもしれない。でもひとつの真実がある。それは互いに偽っているということよ。」
 「偽り?」
 「ええ、わたしたちには偽りがある。なぜならわたしは天使ではない。あなたとは違った世界の人間なのよ。わたしに天国などないし、天使を欲したこともない。」
 「そんなことはない。ぼくは貴方を知っている。」
 「いいえ、知らないわ。あなたはほんとうは、天国さえ知らない。わたしの世界にない場所だから真偽はわからないけれど、あなたはそれについて何も知らないの。……それでもわたしはあなたを信頼している。好き、愛している。あなたもそう感じている。そうでしょう?」
 「……そうだ、ぼくは貴方を愛している。愛している。それは羊の毛なみを撫でたいと思うことに似ている」
 「ええ、そうよ。そう思うこと、に似ているの。決して撫でてはいけないのよ」

 わたしのことばに彼が続くことはなかった。わたしたちはことばに含まれるもので深く関わってきた。だからそれが、彼がわたしのすべてを了承した、という合図だとわかった。わたしは決して彼に触れることはなかった。ただこれほどまで切ない想いが肉体を震うとは思ってもみなかった。わたしの胸のあたりが大きく震えていた。視界がはっきりせず、大地が歪んでいくようだった。わたしは彼からすこし離れて、ちょうど出会ったときのように向かい合った。はじめに素足にふれた植物は牧草だった。それは彼から教えてもらった。なにもかもことばで教えてもらい、教えた。でももうわたしと彼にことばはいらないのだ。わたしは動悸とふらつきによってまさに天へ昇っていくようだった。その状態のまま地から素足をはなす。
 かんたんにすべてがある世界から元の世界へと帰還した。

ゆれるもの(掌編)

ゆれるもの(掌編)

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-02-25

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