死を乗り越える為には
「素晴らしいですね。何と言う曲ですか?」
一頻り演奏し終えた後、突然背後から拍手の音がしたので、青年は思わず後ろを振り向いた。
初老の男性が柔和な笑みを浮かべて立っていた。そして、上の言葉を発したのだった。
広大な公園の隅の方にあるベンチに腰掛けて、青年はフルートの練習をしていた。青年の背後には、ちょっとしたアスレチックの様な遊具群に向かう細い道があるのだが、この時間帯に通る人は先ず居ない。
初老の男性は歩み寄って来ると、ベンチの背凭れに手を掛けて支えにしながら、よいしょと腰を掛けた。
「クラシック、でしょうね、きっとね」
「ええ…カール・フィリップ・エマヌエル・バッハと言う人の曲です」
青年ははっきりと区切りながら発音した。
「はぁ!」
初老の男性は、素っ頓狂な声を上げて、ちょっとおどけた様な表情をした。
「あの、所謂『バッハ』の、息子ですよ」
青年は、初老の男性の首が、やけにげっそりしている感じがして、少し不安になった。
初老の男性は、青年の胸の内を見透かしたのか、身の上話を始めた。
「実はつい昨日迄、ちょっと、入院してましてね…勿論、それなりに、病そのものでなかなかしんどいんですが、何と言いますが、それ以上に、退屈で退屈で、とにかく…いやもうそれで…自分が本当にしたいのは何か、自分が本当に欲しい物は何か、そういう事が、はっきり判りますね、こういう時にね」
初老の男性の声は所々で掠れた様になった。
「とにかく、音楽に飢えましてね、特にね。本当に、心が、からからに、乾いてる、干からびて来てる感じでね。姪っ子が携帯ラジオを持って来てくれたんですが、それで、音楽が流れたりして来るとね…心臓に、と言うか、五臓六腑に、染み渡る感じがするんです。スポンジにジュワーっと染み込むみたいに。もうね、ラジオに齧り付いて、とにかく、音楽なら何でも…どんな物でも懸命に聴きました。そんな感覚は、初めてでしたね、人生でね」
初老の男性は、生涯最後に言いたい事はこれだと言わんばかりに、熱っぽく語った。
「もう、お身体の方は、すっかり良くなったのですか?」
青年は尋ねた。
「まぁ、一応ね…」
初老の男性は口をつぐんだ。
遥か上空の、鉤状の雲が、まるで音符の様に見えた。初老の男性の心情を音楽にしたかの様に、何處か激しいものに、青年には思えた。
「…いや、邪魔してしまって申し訳無い、どうかお続けになって下さい、もう行きますから。いや、楽器の音がしたもんですから、本当に、思わず、吸い寄せられる様に此處迄来てしまいました。それはフルート、ですね?」
「はい」
「フルートというのは、近くで聴くと、なかなか太い音がするんですね。こう、ズーンと響きました、本当に、心に響きました」
初老の男性は背凭れに手を掛けると、立ち上がった。
「…病に立ち向かう為には、医者の、医療の力が必要ですね、これは確かな事です、本当に。だが」
青年も、思わず立ち上がった。
「死を乗り越える為には、音楽、或は、芸術の力が必要だと、痛感、本当に、痛い程にね、そう感じましたね」
死を乗り越える為には