『シナジー、創造と生成のあいだ』展
一
東京都現代美術館で開催中のMOTアニュアル2023『シナジー、創造と生成のあいだ』展の面白さは、主催者のものとは別に生成AIの挨拶文が用意されている所に既に現れていると筆者は思う。
すなわちこれらの挨拶文は共通するプロンプトに基づき作成された点で実にシステマティックなものであり、創造というよりは生成=ものが形になって現れたものといえる。しかしながらそれぞれの内容に認められる異同に着目すると挨拶文の作成者の意思のようなものをそこに感じ取れる。それぞれの内容で指摘される事柄もいちいち尤もで、何を重視しているかという違いによって背後の価値観を想像するのも難しくない。機械的に生み出されたはずの言葉の端々に何かの意思主体による創造性を認めてしまうのだ。創造と生成の二つの言葉が指し示す事態はそう簡単に割り切れるものではない、という大事なポイントがこの挨拶文からしてよく知れる。
企画者の鋭い視点が冒頭から窺える展示会はいい展示だという経験則を筆者は信じているが、それを更に証明しようといわんばかりに本展は作品を出展する各作者に対して創造と生成の関係についての問いを投げかけている。そのアンサーはプロフィール紹介をするパネルの下部に載せられているが、これがまた十人十色の違いと重複を見せていて、それを取っ掛かりに鑑賞する表現作品には発想からの具体化に至る過程を紐解けるような興味深さが満ちていたりと他の展示会にはない制作の現場感覚を想像的に経験することができた。本展を今年ベストの展示会だと称賛できる理由はこの一点で十分と思えるぐらいに刺激的で、楽しくて楽しくて仕方ない時間。それを紹介しないなんて選択を筆者は行えない。
二
芸術との親和性をもって肯定的に語られる想像力は、けれどそんなに自由ではない。なぜならその実際が現実的な出来事からの類推に終始する側面があると思うからだ。
例えば羽ばたく鳥が一羽もいなければ人は空を飛ぶという夢を抱くことがなかったかもしれないし、地球に関する知識経験の積み重ねがなければ宇宙へ行くという考えを誰ひとり持てなかったかもしれない。この目で見ることが叶わない他人の心ないし気持ちを思い描けるのも自身の内面で起こっている感情経験に基づく推測に過ぎないし、そこから転じて他人の言動に対する決め付けがそのまま自分自身の欲望の現れだとする言説にも説得力は生まれる。
要するに現実にあることをもって現実に起こり得ることを頭に思い浮かべる、それがイメージという行為の本質であり、既定路線の延長線上でのみ成立する。ゼロからイチを生み出すという意味理解で用いられる創造性なんてそこには認められない。実際、想像力を養うと喧伝される芸術作品も時代や文化、あるいは個人的な思想信条といった言語的な意味認識で読み解けるものから出来ていて、だからこそストーリー的な解釈も可能となる。今まで見たことがない、というのは今まで気付きもしなかったという意味でしかなく、クリエイティブと称されるものも言葉を鍬として振るい、今まで誰も手を付けていなかった土地を耕す=無価値と認識されてきた分野の価値転倒を図っているに過ぎない。創造という思い込みで私たちは常に夢を見ようと努力しているに過ぎないのだ。そんな力は、芸術作品を鑑賞しなくとも養える。いや寧ろ論理的なトレーニングを積んだ方がより短期で、かつ効率よく力を身に付けられるだろう。だから芸術鑑賞なんて必要ない。そんなもの、ただの趣味で終わらせればいい。
随分と意地悪に聞こえる上記一文は、しかし一面においては的を得ているし、本展に映像作品を展示している花形慎さんが前記した創造と生成の関係に関する問いの答えとして同様のことをはっきりと指摘している。
目の位置がどこに付いているかで身体の動きがどう変わるかを記録する花形さんの「still human」他4作品の映像表現は声を上げて笑ってしまうぐらいの滑稽さに満ちていながら脳内にあるセルフイメージの変容を真芯で捉えており、日頃の私たちが普通だと思っている身体の動きが目の位置という偶然の事情で作られたものでしかないという事実を浮き彫りにする。私=主体という幻想は一時的に晴れることがあっても、消え去ることはない。生まれてからずっとそうして生きてきたという経験的事実が呪いとなって、他の選択肢を私たちから奪っている。そのことに気付けても手遅れになっているものは数え切れないだろう。なのに又はそれでもと繋げる言葉に希望の光を見る、という妄想を抱いてこそクリエイティブは本物になる。それは私たち人が生き続けるための術。冷笑的で現実的「なのに」「それでも」と貰える力は、社会によって生成された人間がそこら辺で拾ったただの棒切れを何でも切れる鋭いナイフと思い込んで初めて味方になる。
展示コーナーの全てを使って真面目なおふざけをやり尽くしていた市原えつこさんのディストピアな表現行動も、かかる視点に立ってこそ馬鹿みたいに楽しめると心から思う。
三
と、ここまで長々と記してきたことで全てを語り尽くせる人間の想像力であるのなら、かえって話は簡単になるだろう。決してそうとは言い切れないからこそ事態はもっとややこしくなるのだ。その取っ掛かりを掴むためにも、同じく本展で鑑賞できる(euglena)さんの作品表現を取り上げたい。
ガラスケースに収まった作品を照らす為の光量しか保たれていないその空間は、人によって監視員の方が手持ちのライトで点さないと安心して歩けないぐらいである。とても繊細な作品なので息を吹きかけたりしないで下さい、と来場者の一人ひとりに注意がなされるぐらいの展示作品は美しさを極めたような造形美をとても小さな佇まいで現しており、距離を取ってマスク越しにゆっくりと吐いた息にすら敏感に反応して揺れたりする。それもそのはず、作品名にある通りそれらの表現には種子になる前の綿毛が用いられており、数学的に追い求められかつ重力に逆らうようような均衡を維持した格好のままに現在を生きている。そのままでも魅惑的な光景は、しかしガラスケースを覗くとより神秘的になって鑑賞者を惚れ惚れさせる。そう、勘の良い方々なら既に言い当てているであろう反射を生かした無限空間が四角いガラスケースの向こう側に認められるのだ。繊細な作品を展示する空間に対するものとしては圧倒的に足りない光量の意味がここにある。
そんな「watage」はインタラクティブな表現であると説明文にあった。一方的に見られるような表現ではない、作品と鑑賞者の間でのやり取りが生まれる表現が本作品なのだと(euglena)さんが仰られる。創造と生成の関係に関する問いに対して(euglena)さんだけが発表される表現作品と鑑賞者の関係として答えられていたのも示唆的だった。創造は、生成された作品と関係した鑑賞者の中でしか生まれない。そう言及する表現者が見つめる先にある感情は、認識する事態に対して覚える反応という点で確かに意識ないしは理性の手綱が外れた所で生まれるのだろう。ゆえにその全てを言語的意味認識で腑分けすることが人間には難しい。そんなものがあったのか!と驚愕するほどの感情体験が引き出しに仕舞われて、死ぬまで気付かれないまま半永久の眠りに付いても不思議ではない。そこに込められた大事な意味が荼毘に付されるのが当たり前ともいえるだろう。
ゆえに、それに気付ける機会を得られるのは有難い。その機会が嘘みたいに綺麗な光景を前にして、現世の理をふっと忘れてしまった想像力の小舟に乗ってゆらゆらと齎されたのなら何よりの幸せだ。現実に起こる出来事を類推するだけでは決して思い描くことができなかったものを遠く夢見て、力強く歩み出せるのも道理である。ここにきてその意味を変える想像力は、創るという行為に親和性を持つ。人が生きる意味を見出すように、想像力はその本性に向けて内側に折り畳んでいた翼を広げ出す。ものを形にする術を手にして、その思いを吐露し始める。
その喜びを知らない表現者はきっといない。だからその手は動き続けている。
四
創造と生成の難しい関係に、しかしながら確かなヒントを与えてくれる「造形的な語彙」という表現は本展のホームページにも記載されている。それが言い当てようとするもののイメージは荒井美波さんの作品表現を目にするのが早い。
荒井さんが先ず取り上げるのは文豪たちの筆跡である。今も残されている直筆の原稿にある文字を一つずつ書き順通りに辿り、それを針金で立体的に再現している。その様はまるで今は亡き小説家の意思が蘇ったかのようであり、純然たる物語の魂として鑑賞者とのひと時を固く静かに望んで見える。その一方で夏目漱石や太宰治、宮沢賢治といった有名人の文章はスマートフォンの中で自動的に生成される。どこかで読んだことがある一節が独特なリズムで打ち込まれていく画面の様子を特に面白くするのはポチポチと鳴り続けるその音で、私たちが普段している身体感覚に基づいて想像できる文豪たちの打ち込む姿が創造と生成のいずれにも属さない制作行為の次元を追い求めている。文字通りの造形的な語彙ともいうべき表現によって。
他方で、視覚的な感動を最も与えてくれるのは後藤映則さんの表現作品にも造形的な語彙というキーワードで捉え得る側面はある。バレエダンサーの動きをメッシュ彫刻に印刷した3Dプリントの作品を空間に吊るした「Energy#01」は一見してその全体像を把握しかねる形にスリット光源が当たることでダンサーの身体表現が時間的に可視化され、光の角度や本数によって多様な変化を遂げていく。その技術的な仕掛けは好奇心を掻き立てるだけでなく、ユーモアに満ちた美しい表現として滞在時間を長引かせてくれる。「Energy#01」以外にも、踊る数字の競演で見る者の目をぐるぐると楽しませてくれる「Numbers#01」など小さいながらも力強い作品が展示されていて後藤さんが創造と呼ぶもの、すなわち目に見えないものを探したり又は掴まえようとする行為の実現に適切な彫刻作品が「造形的な語彙」として会場全体を眩く光らさせていた。本展の見所というべき一角である。
五
その他にも重力発電を行う大型装置を会場を広く使って設置し、その仕掛けをボタンを押して作動させることにより生み出した電気=作品をスマートフォンに充電して「持ち帰る」ことができる「TEFCO vol2〜アンダーコントロール〜」といった観念的かつ実際的なやんツーさんの作品表現など紹介したいものが本展にはまだまだあるが、そんな中でオーソドックスといえる絵画作品を展示していた友沢こたおさんの表現について言及することで本文の終わりとしたい。
本展で鑑賞できる「slime CLXXXIX」と「instinct」は見上げるぐらいの高い天井が目立つ会場の一角に設置したコの字型の仕切りにそれぞれ一枚ずつ、呼応する様な形で展示されているが遠目に見て感じられる官能的な雰囲気は素晴らしく、暫く入り口付近から動けなかった。それでいて近くでじっくり鑑賞すればつるっとした身体表現の上をドロっと流れ落ちていくスライムの触感的な表現が陶器にも似た美しさを備えていて、その一枚ずつを直に愛でたい気持ちに襲われてしまった。
創造と生成の関係についてやんツーさんがプロフィールと共に記したところに従えば、絵画は創造性の強い表現である。イメージを描くという絵画に対する素朴な理解に基づいても、その表現行為は生成というよりは創作と評した方が納得できると素人な筆者が思ったりする。
しかしながら友沢こたおさんの絵画表現の特徴といえるスライムと身体の接触によって生まれる様々なイメージは、スライムと身体のいずれについてもただの物質として淡々と描かなければ生きたものにならない。ここまで散々記してきた創造と生成の関係に絡めていうなら友沢さんの絵画はオーソドックスな表現として実にクリエイティブでありながら、その一方で機械がものを生成するように画面に描く対象を自動的にあるいは無機質に生み出さないと成立しない。作者としてのエゴを捨て去るつもりで描き切り、その結果として現れる作品には創造の息吹が宿っていなければならない。そういう難しさを内包していると筆者は思う。故にどっちつかずでは完成を見ない作品をどうジャッジするかという点で自身の感性が鋭く問われたりするのでないか、と勝手な想像をしたりする。そのせいであろう、創造と生成の関係について友沢さんが答えられた「その間で新しい火花の気配を感じながら、それをチラチラと見つめている」という言葉にはその狭間で闘う彼女の魂が込められていると感じて止まなかった。
有機的な繋がりと無機質な個性が両立するその空間は創造と生成のいずれにも腰を下ろして、どこにいるかも分からない芸術の神様に挑んでいる。これからも友沢こたおさんの表現に魅了されていきたいと気持ちを新たにした。
六
再度記しておけば、『シナジー、創造と生成のあいだ』展は東京都現代美術館で開催中である。興味がある方は是非。
『シナジー、創造と生成のあいだ』展