幼女の告白
交換学生として留学し、アメリカ人の一般家庭にホームステイするなど一生に一度、あるかないかのことだ。
そのステイ先で真夜中に起こされ、見ると窓の外でパトカーが待機しているのも、毎日あることではない。
パジャマから着替えて1階へ降りると、この家の主人と保安官が玄関で話しているのが目についた。
なにやら深刻なことらしい。
そのまま俺はパトカーに乗り込むことになったが、もちろん逮捕ではない。
緊急走行ではないが、サイレンは鳴らさずとも頭上の赤ランプだけ点滅させて道路に出ると、俺を連れだす理由について保安官が説明を始めた。
「砂漠の真ん中のこんな田舎町だが、住人はみな顔見知りだという美点がある。君は日本人だね。高校生か?」
「うん」
「君がやって来るまで、この町に日本人は一人しかいなかった。名はミキヨ・ロジャーズ。子供はなく、亭主が死んだ後はずっと一人暮らしだった」
「商売は何をする人?」
「大地主さ。屋敷も大きく立派だ。使用人に囲まれて暮らし、英語が上手で、ミキヨが日本語を口にするところは誰も見たことがない」
「へえ」
「そのミキヨが今、死にかけているんだ。相当な年齢だからな。医師の見立てでは、明日の朝までは持たないそうだ」
「はあ」
「そのミキヨの最後の言葉を、誰ひとり理解できないのさ」
「英語を話すんじゃないのかい?」
「なぜか日本語なのさ。死に臨んで、突然英語を捨てたらしい。意識はあるが、とにかく口から出るのは日本語だけだ」
「だから俺が必要なんだね」
「この町の周囲100マイル、日本語ができる人間は君しかいない。ミキヨは遺言を書いておらず、遺産の取り扱いには弁護士も苦慮するかもしれない」
パトカーが屋敷に着くと、俺は本当に驚いた。
映画でしか見たことがない贅沢さだったのだ。
門を入ってからの道も長く、うっそうと木々が茂り、その向こうに3階建ての尖った屋根が見え隠れしている。
すぐに俺は、奥まった寝室へ案内された。
ベッドの中でミキヨはやせて、年相応に皺の多い顔。小さな身長はまるで小学生のようだ。
もちろん昏睡状態ではなく、俺が入ってくるドアの音で、ミキヨは目を開いた。
気をきかせてアメリカ人たちは出てゆき、老女と俺の二人きりになったのはこのときだ。
やっと俺も、部屋の中を見回す余裕が出た。
寝室の広さは、学校の教室ふたつぶんほどもあるだろう。床には分厚いじゅうたん、周囲の壁は木材が張られているが、きっと高価な材料だろう。
ベッドは大きく、3人ぐらいなら楽に横になることができる。
かすかな声が聞こえたので、俺はベッドの上のミキヨを振り返った。
「お兄ちゃんは誰?」
か細い声ではあったが、老女のか細さではなく、俺の耳には少女の声のように聞こえた。
「えっ?」
俺はその顔の上にかがんだが、ミキヨは遠慮なく見上げてくる。
まるで、ゆりかごの中にいる赤ん坊と目が合うときのようではないか。
「お兄ちゃんは誰? どこから来たの?」
いくら少女のような声で、かつ、それがミキヨの唇の動きに合っていようと、俺は少し混乱した。
「俺のことかい?」
「うん、お兄ちゃんのこと」
この時になってやっと『ははあ、そういうことか』と俺は内心納得した。
医学的にどう呼ぶのかは知らないが、この老女の精神は子供時代に戻っているのだ。
だから英語を話さないのも道理だ。
彼女の精神は、まだ英会話を学ぶ前の子供時代に帰っているのだから。
「お兄ちゃんはお医者さんかな? …お母ちゃんはどこ?」
正直に言っておくが、俺は演劇など一度も学んだことはない。
小学校でも中学でも、もちろん高校でも、演劇部には所属したこともない。
しかしこの時、俺は確かに演技をする気になったのだ。
小さく縮んでしまった老女のあのような表情を見、視線を向けられれば、誰だって同じ気持ちになるのではなかろうか。
「お母さんは、ちょっと用事でよそへ行っているよ。すぐに帰るさ」
「そう、すぐ帰ってくるのならいいわ」
「何か話したいことがあるの?」
「うーん」
「どうしたのかな?」
「あのね…」
ミキヨが黙り込んだので、糸口を探すような気持ちで俺は言った。
「ミキヨちゃんのお父さんは、どんな人?」
ところが知らず知らず、俺は決定的なことを口にしていたのだ。
ミキヨの表情がキュッと硬くなり、一瞬は泣きそうになったが泣くことはなく、何かをグッと飲み込んだ顔をして、小さな声をさらに小さくした。
「お父ちゃんが怖いの」
「どうして?」
「たたくの」
「お父さんが?」
うん、というようにミキヨはうなずいた。
「どんな時にたたくの? ミキヨちゃんだけをたたく?」
「ううん、お母ちゃんも太郎兄ちゃんもたたかれる。お酒を飲んで、酔っ払ったとき…。理由もないのに」
「たたかれると痛い?」
我ながら無神経な愚問だったが、ミキヨの表情に変化はなかった。
「痛いよ。ワーワー泣く。お母ちゃんなんか、私よりも、もっともっとたくさんたたかれる。止めに入って、太郎兄ちゃんも投げ飛ばされる」
「そのお父さんはどこにいるの?」
そう問うと、ミキヨは首を左右に振った。
「お父ちゃんはもういない。どこかへ行っちゃった」
「どこへ?」
俺はとっさに刑務所を連想した。
ミキヨの父親は、酒の上で何かの犯罪を犯したのかもしれない。
だがミキヨの答えは、俺の想像とはまったく違っていた。
「この間、とても寒い晩があったでしょう?」
「うん、あったね」
「あの夜ね、お外には雪がたくさん積もっていたでしょう? 戸を開けて外を見ていたら、白くてとてもきれいだった。でも『寒い』って、仕事から帰ってきたお父ちゃんに叱られた」
「…そう」
「お父ちゃんはまたいつものようにお酒を飲み始めてね…。顔が赤くなって、お母ちゃんのことを怒り始めた」
「お父さんは、何と言ってお母さんのことを怒ったの?」
「それは聞いてない。怖くなって、私はお布団の下に潜り込んじゃったから…。そのまま眠ってしまって、目が覚めたら」
「目が覚めたら?」
内緒話でもするように、ミキヨがさらに声を小さくしたので、俺はもっと耳を近づけなくてはならなかった。
「…目が覚めたら、お父ちゃんは静かになってた。いつもと同じで、ゴーゴーいびきが聞こえたよ」
「お母さんと太郎兄さんはどうだったの?」
「二人の声も聞こえた。私が眠っていると思っていたけど、こっそり聞いてたの。小さな声でお話ししてた。私は全部聞いてたの」
「何のお話をしていたの? お母さんと太郎兄さんは?」
「まず太郎兄ちゃんがこう言った。
『お母さん、今だったらお父さんを外へ連れ出すことができるよ。橋のところまで行って、川に捨てて来ようよ』」
「えっ?」
「するとお母ちゃんが答えたの。
『前から言ってたあのことかい?』
『今がチャンスだよ。ミキヨはぐっすり眠ってるし、お父さんもグーグー寝てる』
『だけどねえ…』
『お母さんが言い出したんじゃないか』
『でもねえ』
『いや、俺はやる。今夜を逃したら…』」
これを聞かされて、俺はどんな顔をしていたのだろう。
自分でも想像できないが、自分の声がかすれていたことはよく覚えている。
「…それで、お母さんと太郎兄さんの声は聞こえなくなったの?」
単なる悪事の相談だけであってほしいと、俺は願っていたのだろう。
だがミキヨの言葉は、俺の願いを打ち砕いた。
「物音が聞こえて、お母ちゃんと太郎兄ちゃんがヨッコラショと言った。2人ともぞうりをはいて、戸をガラガラと開けて出ていったよ。外の風が吹き込んで、お布団の中にいても少し寒かった」
「ミキヨちゃんは、それからどうしたの?」
ミキヨは首を横に振った。
「私は何もしてない。もう一度眠くなって、目を閉じて、気がついたら朝になってた」
「お母さんと太郎兄さんは? お父さんは?」
「お母ちゃんと太郎兄ちゃんは家にいたよ。お父ちゃんは、もう仕事に出かけたということだった。朝早い仕事だから」
「それから?」
「お父ちゃんは二度と帰ってこなかった」
「…」
ミキヨの言葉にどう返事をしてよいやら、俺は見当もつかなかった。
雪の降る真夜中のことだ。目撃者はおるまい。
そして翌朝、どこかずっと下流で水死体が一つ見つかっただろう。
いや、父親はどこかへ行ってしまった、とミキヨは言った。
ということは、水死体はとうとう発見されずに終わったのか。
俺に話して安心したのだろう。
子供のような表情をして、まだ涙も乾かないままだったが、ミキヨはホッとした顔をしている。
うつらうつらし始めたようだ。
きっとミキヨは生涯を通じて、父親の死に関する真相を誰にも話さず、黙してきたのだろう。
それを俺が、こんな機会に語られてしまったのだ。
ミキヨが安らかに死亡したのは、その1時間ほど後のことだ。
ミキヨが目を閉じてしまうと、俺はアメリカ人たちを呼び入れた。
最後の看取りは、医者や弁護士たちに任せた。
「ねえ君、ミキヨは最後に何の話をしたのだい?」
「誰にも口外しないでくれ、と故人の意思ですので…」
俺をホームステイ先へ送り届ける仕事は、さっきの保安官が名乗り出てくれた。
だから同じパトカーに乗り、俺たちは道路を走り始めた。
思うところがあるのか、保安官は話しかけないでいてくれた。
俺は首を曲げ、道路の右側を眺めていたが、知らぬうちに長い時間が過ぎていたのだろう。
空のかなたが明るく、ちょうど太陽が昇り始めたところだった。
砂漠の夜明けだ。
球形をした巨大な光の塊が、地平線の下から無遠慮に顔をのぞかせるのだ。美しい光景であるに違いない。
だが俺には、その光景も、もはや昨日までと同じように美しく感じられることは二度とないのだとわかっていた。
幼女の告白